日大闘争 私史

前史

幼少の頃

私が始めて「赤旗」を振ったのは、いつだったろうか?
何でも叫んでいた言葉は「鳩山内閣ぶっ倒れ」だった。
自宅近くの車の通る道で、赤旗を振って叫んでいた。
祖母に「車が止まってしまうよ」と注意され、やめた記憶がある。
運動会の「赤勝て」「白勝て」の乗りである。
やはり白より赤のほうが好きだった。
その赤旗は、確か祖母の腰巻の布で作ったものだった。
第三次鳩山内閣が退陣したのが、1956年12月23日とあるのでその頃か?
でもそれでは、私が小学1年生になっているが、どうも幼稚園だった 記憶がある。
とすると、第一次鳩山内閣の解散時(1955年3月19日)か、 第二次鳩山内閣総辞職の1955年11月22日頃になる。
いずれにせよ、世間で言うところの、55年体制前後の頃だった。
「鳩山内閣ぶっ倒れ」これは、父の当時の口癖だったのだと思う。
そして、私は父を尊敬していたがゆえに、これから先も強く影響を受けていくことになる。
父は、戦時中は某国営放送のアナウンサーだったが、1950年レッドパージに あって職を失った。
このときから、我が家の敵は、マッカーサー(アメリカ)と今の自民党であった。

60年安保闘争

小学校5年のときの修学旅行は東京見物。千葉の学校からバスでの 修学旅行だった。どこを見学したかはもう忘れてしまったが、鮮明に 覚えているのは、羽田空港だった。
何しろ、バスが渋滞で動けない。先生は、「外を見るな」と言う。
見るなと言われても見ないわけに行かない。
外は、車と人であふれている。中には、トラックに労働者風の人が たくさん乗っている車もあった。
この日がいつだったか、記憶にはなかったが、調べてみると、 1960年6月10日だった。
何故わかるのか?それは「ハガチー事件」であったのだ。
ハガチー事件を調べてみると「新安保条約の国会承認に合わせて アイゼンハワー大統領が来日することになり,その打ち合わせで大統領 新聞係秘書ハガチーが羽田空港に着いた。ハガチーの車はデモ隊の抗議で 立往生し,辛うじてヘリコプターで脱出した。」(大原クロニカ 『社会・労働運動大年表』解説編)とある。
まさにその日だったのだ。
あの、労働者風の人たちは、デモ隊ではなく、動員された右翼だったの かもしれない。
そして、5日後、東大生の樺美智子さんが、亡くなった。
このときから、日米安保体制反対を決めた。

東京オリンピック

1964年、東京オリンピックの年だ
この年、私の通っている市立中学校では、聖火リレーを迎えるのに、「日の丸」を作って来るようにとのお達し。 父は、「何でそんなものを作らなければいけないのだ」と怒る。
私も、そう思い、作らずに行った。
当時は、それで、済んだ。
中学校までは、「日の丸」の掲揚、「君が代」斉唱などがあったが、そのとき以来、無自覚に、言われるがままに行動することはやめた。
私は戦争は知らないが、「日の丸」で送り出す風景を見ると、いつも出征兵士を送る場面を想像してしまう。
私は、スポーツ観戦は好きで、W杯などでは、日本が勝つといいとは思うが、「日の丸」を振ろうという気は起こらない。

中国文化大革命

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毛沢東語録

高校でのある日の出来事。1966年か1967年頃、 高校2年のとき、一枚のポスターが教室の後ろに貼られていた。
毛沢東が、手を振っているポスターだった。
そのポスターは見覚えがあり、私も持っていた。
当時私は、無線に凝っていて、SWL(ShortWaveListener)として 海外の放送局の電波を受信し、レポートするとベリカード(VerificationCard) をもらえることになっていた。
アメリカのVOA、ソ連のモスクワ放送、中国の北京放送、北朝鮮の 平城放送は、比較的受信しやすい放送で真っ先に聞いてベリカードを 要求していた。
北京放送局からは、当時はベリカードだけではなく、いろいろなものを 送ってきた。
1966年頃から始まった、文化大革命の影響で、毛沢東の写真、 北京週報、人民画報、そして、毛沢東語録、紅衛兵バッジ・・・。
そのひとつに先のポスターがあった。
「犯人」は想像できた。きっとH君だ。
その事件は、特に大きな問題とならずに終わった。
あの頃の中国には、表面上ものすごい活気を感じた。
裏で起きていることは、あまりわからなかったが、・・・。
でも、毛沢東に対する個人崇拝には疑問を感じ、北京放送局に 「おかしい」と手紙を書いた。しかし、「個人崇拝ではなく、 中国人民の意思の表れなんだ」とかいう、長い手書きの返事をもらっ たりした。確かに、熱意を感じた。
平城放送も同様に、金日成に関する書籍や画集のようなものを送って きたが、見るからに作り物、という感じで、全く興味は沸かなかった。
一方の韓国は、朴大統領の独裁軍事政権が嫌いで、全く興味はなかった。
国内ではその後、羽田闘争、佐世保闘争と学生運動が活発となっていった。

大学進学

badge
毛沢東バッジ

私の高校は、県立の進学校だった。その中で、成績はむしろ後ろから 数えたほうが早かったくらいだった。3年間憂鬱な日々を過ごした。
高校は、現役で東大に何人、京大に何人、その他国立大学に何人、 早大、慶大に何人・・・、という実績だけが、評価の基準だった。
私は、小学校高学年から、科学者か技術者になりたいと考えており、 その頃は、理科系に進みたいと考えていた。
しかし、障害があった。私は、色神検査で「色弱」と診断されていたからだ。
小学校の高学年での診断の結果わかったが、中学の頃から、眼科に行って 精密検査をしたりして、いずれも軽い「色弱」の疑いあり、だった。
当時は、「色弱」だと、医学部だと入学は出来ない。工学部は場合によってはだめ、 その「場合」が良くわからなかった。
高校の間ずっと、その不安があったことも、勉強に身が入らなかったことの ひとつの理由になった。ただ、物理だけは、当時の物理の先生の影響で、 それほど出来はしなかったが、好きな科目だった。
父からは、「理科系に進むことはあきらめろ」といわれたが、もともと 成績が良くないのに、好きでない理科系以外の科目は、目も当てられない ような成績。それは無理だった。
一方、他の学友たちは、大学への進路は、まず「大学」から決める。
自分が何をやりたいのか、ではなく、自分が何とかチョット背伸びして (チョットではない人も多かったが)入れそうな有名大学に決める。
それから、何学部にしようかと決める。
皆がそうだったとは言わないが、そんな学友が多かった。東京大学は、 入学してから学部学科を決めるらしい。そのような選択が有名大学を志望する 人たちの常識だったのだろうか。進学校の特徴ではないかと思った。
私は、悩んだ末、結局、電気、電子、電気通信関係の学科のある大学を 受けることにした。
国立は一期校と二期校を受け、私立も有名大学に、最後に父の薦めもあり 滑り止めとして日大理工学部を受けることにした。
父も日大(文科系ではあるが今でいう二部だったか?)卒だった。
私の高校からは、当時は日大を受ける人は、年に1~2名くらい。
誰も自分たちが受ける大学とは思っていなかった。
受験するときに、奇異に感じたのは、国立大学は、みな、この「色弱」を 問題にしたことだ。いずれも、健康診断の再試験があった。健康診断の 結果を聞いても、「総合判定ですから」と明確には言わない。
浪人して再受験しても「色弱」によって、また落とされるのかどうかが わからない。
それに比べ、私立は、全く「色弱」を問わない。
国立大学は基本的には、エリートを育てる大学。エリートには身体的な欠陥が あってはいけないという考えなのだ。そもそも色神検査とは、もともと軍隊の 徴兵検査で使用していたもので、日本の軍隊は軽度の身体的欠陥も嫌い 排除したのである。国立大学はその考えを引き継いだのである。
結果は、国立全敗、私立有名大学は落ちた。
「色弱」の結果ではなかったと思うが、国立とは何なのか?という気持ち だけが残った。
最後の日大理工学部の試験は、どうであったのか?
正直に言って、試験を受けた後、非常に不安だった。
試験問題が易しすぎたからだ。
これでは、100点採らないと受からないのではないかと。
100点採る自信はなった。
日大に落ちたら、「自殺ものだな」と、発表が怖かった。
上記落ちた3大学には、合格発表を自分で見に行ったが、日大理工学部の 発表は、自分では見に行かなかった。
姉が「受かった」と知らせてくれた。やっと安心した。
割り増しの入学金が必要な、合格ではなく、正規の合格だった。
父から当時常日頃言われていたのは「学校の名前で飯を食うな」 ということである。父も職場では東大閥で苦労した。それでも負けなかったと。
1968年3月、高校を卒業するとき、私は、ささやかな抵抗として 卒業式に、紅衛兵のバッジを付けて行った。
誰も気付かなかったかもしれないが・・。

日大理工学部入学

book
The Feynman LECTURES ON PHYSICS

入学の前に、既に、理工学部の小野教授の裏口入学事件が報道され、 あまり気分が良くなかった。
1968年4月11日に学生証の交付を受けに日大理工系習志野校舎に行ったが、 その日は、雨で、やはり憂鬱な感じだった。ただ、校舎は、広々としていて、 環境はよさそうだった。それがせめてもの救いであった。
1968年4月14日に入学式があった。
ちょうど、高校は違うが中学の同級生が、理工学部の建築学科に入学が決まって 一緒に、入学式に行ったような記憶がある。
日大両国講堂だった。詰襟の学生服を着ていった。
両国講堂の周辺には、応援団らしい服装の人がいっぱいいて、学生服のボタンや バッジを売っていた。
そこで、何か買ったような記憶があるが、とにかく、応援団の雰囲気は 私にとって、最悪のイメージだった。
「何という大学に来てしまったのか」と。
高校では、「日の丸」を揚げていた記憶がない。「君が代」など歌った 記憶がない。
それが一気に「右翼丸出し」の大学という雰囲気になって、気分が 滅入った。肌に合わない大学と感じた。
私が入ったのは電気工学科であり入学募集要項には確か定員は180名とあったが、 入学してみると、120名のクラスが2つ(AおよびB)、240名であった。
60名が余分に入学金を払ったのだろうか。
入学当初は、他人は気にせず、一生懸命勉強して一番を目指そうと考えていた。
そのために、高校で好きだった物理と、そして苦手だった英語の両方を同時に勉強しようと、 生まれて始めて原書the Feynman's Lectures on Physicsを買った。