はじめに
「まえがき」と言いながら、この文章はあとになって書き足したものである。
この「日大闘争私史」を書いた切っ掛けは、ホームページの「管理人の独り言」でも触れたが「改訂新版 叛逆のバリケード」を作るという話からである。
ちょうど不整脈の施術を受けた直後の2008年2月19日に文理学部の先輩O氏より「手記を書かないか」とのメールを頂いた。
それまで大学卒業前から自分なりに日大闘争を「総括」をしなければ、と思いつつ、40年近くの年月が経ってしまった。
当時どうして日大闘争に参加したのか、また、参加しながらどのように考えていたのかを整理したいと常々思っていたことでもあり、思い切って書きたいだけ書いてみようと思った。
日大闘争に参加した者は、決して画一化された人間ではない。100人いれば00人とも皆参加した動機は違うだろうし、また闘い方も違う。
当時多少なりとも闘ったといえる人は、日大の場合、万の単位だと思う。
従って「日大闘争」の一つの総括など有り得ないのである。
ここに書いた「日大闘争私史」は、「日大闘争」の数万分の一しか表してはいない。
でも、私にとっては唯一の記録である。
この「私史」を書くに当たって、当時の日記を読み返した。くだらないことばかり書いていたなあと思いつつ、今の記憶とは逆のことが書いてあったり、改めて思い出したことなどあり、貴重な記録ではあった。
結局、原稿は原稿用紙100枚程度になった。書き終わってから、出版社の三一書房からは、原稿枚数が多すぎるので減らせとくる。36枚まで何とか縮めたがそれでもダメとのこと。これ以上縮めて私の書きたかったことが書けずに活字となっても何の意味があるのか、と考えこちらから掲載を拒否した。
小学生のとき、私は原稿用紙1枚の文章を書くことさえなかなか出来なかった。
父は、英文科を出ていたが、アナウンサーの仕事もしたことがあり、脳梗塞になる直前まで「俺の日本語は売り物になるんだ」と豪語していたので、小学校のときは作文の相談も良くした。
下手な文章は昔から。誰にも気にせずに自分が書きたかったことを記録に留めておく、それでいいのではないか、と、このホームページに掲載することにした。
新たに思い出したこと、また表現をもっと適切に、ということで今後も多少なりとも追加修正を加えていくことがある。