初めてのデモ
入学する前から新聞をにぎわせていた使途不明金
問題で、神田周辺の学部で集会やデモが行われていることがテレビや新聞で
報じられていた。この千葉の習志野地区にもそれが訪れた。
1968年7月1日、わが電気工学科Aクラスでは、図学の時間半分と昼休みを
使って、討論を行い、私は賛成しなかったが「教授会を信用してストを阻止する」
なんていう結論になってしまった。そしてその後、学生総会でスト権確立の動議が
出て採決になり、可決となった。クラス員の多くは不満で退場した。
でも、この学生集会のあと総決起集会に移ってから、クラス員も参加し、
デモンストレーションにも参加した。生まれてはじめてデモに参加し、スネークダンス
(ジグザグデモ)も経験した。習志野校舎から新京成の北習志野駅までデモをした。
誰が作ったか忘れたが、電気工学科Aクラスの旗は、旗というよりは幟であった。
「日大闘争」という映画の最後のほうに10月3日の2度目の大衆団交が
拒否されたときの映像があるが、このときの両国講堂演壇に向かって左上に「電気A」
という幟が一瞬見えるが、これがその時の幟である。
習志野校舎スト突入
1968年7月4日、午後の英語の授業をクラス討論会に
使わせてもらい、途中で習志野校舎総決起集会に合流、その後、東京に行き、
御茶ノ水から三崎町、西神田方面の経済学部1号館に行き、全学総決起集会、
そして東京で初めてのデモ、シュプレヒコールなどを行った。
7月5日にはスト権行使、全学(習志野校舎)投票に移り、2500数十票対
1090余票で4時限途中からスト決行となった。その後、7月10日くらいまでは、
自主登校。その間、「戦艦ポチョムキン」「現認報告書」などの自主講座の映画会に
参加した。もうこの頃は、夏休みと決め込んで学校には来ない学生が大半で、
授業が再開されるかもしれないと心配になってくる学生が、若干いるだけになってしまった。
7月10日は10時から学生集会があるというので行って見ると、バリケードを
撤去してから12時だか1時にやるという。バリケードを撤去するのを手伝って
待っていたが、いつになっても始まらない。結局そのときはそのまま帰ってしまった。
私もこのあとはもう夏休みになった。
このときから私は、こういう時間を個人的に「全共闘時間」と呼んだ。集会の時間が、
決められた時間に行われないことである。これには、最後まで不愉快であった。
いろいろな状況により、時間通りに出来ないことはあろうと思うが、この遅れが半端で
ないのには閉口した。
初めてのヘルメット・ゲバ棒
夏休み中は、予定していたアルバイトが都合により出来なくなり、
自宅でブラブラ。買ったthe Feynman's Lectures on Physicsもなかなか進まない。
日大闘争については、時折流れるニュースに「ああ、やっている、やっている」と
傍観者だった。
9月4日、ニュースで夏休み明けを前にバリケードストライキ中の法学部・経済学部に
仮執行処分が出され、機動隊が導入、校舎に立て籠もり抵抗した日大全共闘のメンバが
逮捕されたことを知った。このときは、大学当局に激しい怒りを感じた。
翌日、習志野校舎に行き、20数名くらいで御茶ノ水の駿河台理工学部に向かった。
このときから習志野闘争委員会(習闘委)の白いヘルメットを被った。
特にヘルメットを被ることには抵抗感はなかった。理工学部の9号館建設予定地(空地)に
着くと最初に目に付いたのは、銀色のまぶしいヘルメットを被った文理学部の大部隊、
そして全学連も助っ人に来ているようで、「中核」の旗、「ML」の旗があった。
全学連は「インターナショナル」を歌って気勢を上げている。この場所でゲバ棒を
持たされた。この日が結局、初めてのヘルメット、ゲバ棒を持った日になった。
デモ行進が始まったが、「津田沼生産工学部のバリケード構築の手伝いのために帰れ」
という誤報で、習志野部隊は取り残され、遅れて単独でデモ行進。
確か経済学部まで裏道を行ったような気がする。後で考えると、どこに機動隊が潜んで
いるのか分からず、危なかった。
経済学部に着くとすでに3度目の占拠は終わっていた。しかし「仮執行処分」という状況
なのでいつまた機動隊がくるか分からず、校舎の周りをみんなで警備した。
全学連の連中は、白山通り研数学館前の道路の真ん中に机を積み上げ集会を始めた。
少し時間が経つと、野次馬や全学連の連中が逃げてくる。白山通りを機動隊が突進してくる。
みんなで投石。機動隊は、ただ駆け抜けるだけである。
6時頃「日大本部内にいる右翼を排除しよう」ということになり、習志野部隊は、
研数学館前で機動隊から守ることになり、歩道の敷石を割って投石用に準備した。
若干の抵抗はあったが、機動隊から守る武器はこれしかないのですぐに納得した。
途中、中央大学の一般の学生が話しかけてきて我々の行動を支持すると伝えてくれた。
白山通りの道路上でゲバ棒を持ち「警備」をしているときにどこからか魚肉ソーセージが
配られてきた。このときの魚肉ソーセージの味がとても旨かったことを今でも記憶している。
本部のバリケード構築も終わり、解散となった。一旦駿河台の理工学部の校舎に行き、
その後、習志野部隊は習志野に帰った。私は、籠城していないので、自宅に帰った。
9月12日、この時も習闘委の白いヘルメットで理工学部の9号館建設用地に集まった。
このときは、いつもの銀ヘル大部隊の文理学部より、芸術学部のバイク用の白い鍔つきの
ヘルメットの部隊に圧倒された。格好がよく、さすが芸術学部と感心した。
建設予定地は人であふれ、理工学部7号館前の道路も人であふれていた。
空には数機のヘリコプターが飛んでいた。報道関係者のヘリコプターと警視庁の
ヘリコプターと思われるものもあった。そして集会後デモ行進に移った。
習志野のヘルメット部隊は、ヘルメット部隊の最後のほうであった。
デモが最初に出発してから大分時間が経過していた。それだけデモ隊の人数が
多いわけで、ヘルメットなしも含めると優に1万人は超えていたのではないかと思われた。
習志野部隊の後は、ヘルメットなしの一般学生がデモに続いた。理工学部1号館を通り、
主婦の友会館を曲がり、明大通りを過ぎ、駿河台下を曲がりそして靖国通りを神保町に
向かって行進していた。そして駿河台下から50メートルも行ったところで、
右手の複数の路地から機動隊が湧き出てきた。次第に濃緑青色の部隊で道路が埋まって来る。
習志野部隊は隊列が乱れた。私も投石用の石を3個しかもっていなかったので、
到底足りる量ではなく、ヘルメットをはずし、一般学生の中に混じり歩道に上がった。
そして、本屋街の中で1件だけあった洋画材料の店に逃げ込んだ。他にも何人か
同じように逃げ込んだ。入り口は前面ガラスの店である。女主人と思われる方がすぐに、
店のシャッターを下ろした。外の光景は遮断されたが、音だけは聞こえてくる。
外の音は騒然としていた。「すみません。少し静かになるまでいさせてください」と
女主人にお願いをした。女主人は「困るはねえ。」と迷惑そうであったが、居させてくれた。
5分もしたであろうか、女主人が裏手を見に行き、「もう大丈夫よ。こちらから逃げなさい。」と
裏の出口から私たちを逃がしてくれた。恐る恐る道路の様子を見た。
すると駿河台下の交差点では、もちろん交通はストップ。驚いたことに機動隊の姿は全くなく、
ヘルメットを被った学生が道路を支配していた。また機動隊のジュラルミンの盾があちこちに
散らばっている。中には、足でジュラルミンの盾を踏みつけてグニャグニャに曲げている学生もいる。
私は一瞬どうなっているのか気が動転したが、すぐに日大全共闘が機動隊に勝ったのだと気がついた。
靖国通りを学生が埋め尽くしている。散発的に投石がありその方向を見ると、
明らかに機動隊が劣勢で退却をしていることが分かった。その後は、全く機動隊の規制は
受けず靖国通り、白山通りを自由にフランスデモ、ジグザグデモをして法学部、経済学部の校舎を
圧倒的な学生の数で制圧した。「仮執行処分」は有名無実になった。
このときのデモで白山通りは大きく振動していた。まるで地震のようであった。
電柱も電線も大きく揺れていた。あのときの光景はいつまでも忘れない。
翌日の新聞では、154名が不当にも逮捕されたと出ていた。私もたまたま洋画材料店に
逃げ込めたから逮捕を免れたが、もしそうでなかったらどうなっていたか分からない。
このとき飛んでいたヘリコプターの音が今でも残っており、これが一種のトラウマとなっている。
この9月闘争で、敵は日大当局だけではなく、むしろ国家権力であるということが
明確になったと思った。
9月19日に全学総決起集会(法・経スト百日突破記念集会)に参加した。
法学部1号館の大講堂は満員で人が入りきれない状態であった。そこで初めて芸闘委制作の
「日大闘争」という映画を見た。その後、秋田議長はじめ各学部の闘争委員会幹部から挨拶や報告、
また9月4日の仮処分時に逮捕され13日拘留された完全黙秘で闘った学友の報告もあった。
日大全共闘の闘いは盛り上がる一方であった。私は、校舎に籠城はしなかったが、
日曜日を除く毎日、定期券を買って習志野校舎に通った。通いの全共闘というのもそう多くは
いなかったのではないかと思う。
初めての籠城
普段は定期券通いであったが、9月24日、大衆団交要求集会の後、 習志野校舎に籠城した。初めての籠城であった。私としては、問題解決まで 籠城しようと思ったが、両親の反対で、一晩だけにした。父には「ムードに乗るな」 と諌められた。
習志野校舎での電話取次ぎ
9月のことだったと思う。
習志野校舎ではバリケードストライキに入っており、職員は来ていなかった。
電話の交換手もいなかった。
そんなある日、同じクラスのK君から、電話の交換を手伝えとのこと。
私が交換手の部屋でかかってきた電話を受け、それを希望するところにつないだ記憶がある。
専門用語では、「有紐式」というものであったと記憶している。
K君からやり方を教わったのであるが、彼が何でそれを知っていたのかは、よく知らない。
当時は、恐らく交換手をやるには、資格が必要だったのではないかと思う。
この時は、構内の電話交換など興味もなかったが、その機械を大学卒業後に自分が
設計するとは夢にも思っていなかった。
9月30日大衆団交
9月30日、全共闘が法学部1号館において大衆団交を
要求したにもかかわらず、大学側は、両国の日大講堂で「全学集会」なるものを
開こうとした。全共闘は、あくまでも全共闘のヘゲモニーによる「大衆団交」を要求し、
経済学部前に集結、それから両国講堂に向かった。私も習闘委の白いヘルメットを
被り駿河台の理工学部から経済学部そして両国講堂に向かった。両国講堂に入ると
すでにそこには体育会の学生が陣取っていたようであるが、全共闘の先発部隊が取り囲み、
「右翼帰れ」の大合唱により追い出した。そして両国講堂は、全共闘と一般学生で
埋め尽くされ、あふれていた。参加者は2万人とか3万人といわれた。
途中「4階にひびが入ったから、下の階に移るように」という指示があったり、
とにかく圧倒的な人数であった。私は、雛壇左のすぐ上の3階だったと思うが、
クラスの仲間と陣取った。そこでオリンパスPENというハーフサイズのカメラで
歴史的出来事を写した。その席の近くに朝日新聞社のカメラマンも来て写真を撮っていたが、
翌日の朝日新聞朝刊一面の写真が私の写した写真と同じような構図であったことを記憶している。
大学側は「反動教授追放」「理事総退陣」の2点以外の項目につき完全に認め、
仮執行処分についても取り下げるとの誓約書、確約書に署名した。
そして10月3日に再度大衆団交に出席することを確約した。この日の大衆団交が
終わったのは、10月1日の午前3時頃であった。すでに交通機関は動いてはいなかったので、
両国講堂から駿河台の理工学部まで真夜中のデモ行進をした。
私は、御茶ノ水から朝二番の電車で家に帰った。
翌10月1日には、日大の古田会頭と親交のある佐藤首相が大衆団交は不当である
との政治的発言があり、大学側はこれに元気付けられ、確約を破棄し、10月3日の
大衆団交にも出なかった。私は10月3日には、習志野の白いヘルメットと覆面で、
経済学部から両国講堂に向かった。そこで抗議集会、その後、水道橋に戻り白山通りをデモした。
津田沼生産工学部の右翼
10月8日、津田沼大久保の生産工学部に右翼200人が集結し、
津田沼闘争委員会が危なくなっているとの情報が入り、習闘委の行動隊が津田沼に向かった。
私は、通いなので、習志野校舎に行ってそのことを知らされ、昼頃、一般学生20人くらいと
ヘルメット数個をもって津田沼に向かった。津田沼校舎では正門からは入れず、
バスターミナルのところで待機していると、そこに数人の右翼学生が来て、
置いていたヘルメットを見つけ「このヘルメットは誰んだ?」と叫び、皆が黙っていると、
ヘルメットを叩き割り始めた。私はジャンパーの中にヘルメットを隠していたので見つかると
危ないと思い、そっと民家の塀の陰に隠した。
隣の東邦大学の正門前で全共闘の本隊が来るのを待った。12時半ごろ150名くらいの
行動隊がゲバ棒を持って到着した。われわれもその後に続き、隠していたヘルメットを
持ち校舎内に入った。
全共闘の部隊の中には、逮捕状の出ていた秋田議長や法闘委のS委員長も来ていた。
翌10月9日は、経済学部前で「不当逮捕状抗議集会」があり、私も駿河台の理工学部に
集まった後、デモ行進をして経済学部に行った。だんだん人数が少なくなってくることが
気になった。
この集会では、秋田議長、田村書記長は逮捕状が出ているので出席せず、ただ、Y副議長、
S法闘委委員長、M芸闘委委員長、K組織部長は逮捕状が出ていたが、先頭に立って行動していた。
クラス担任教授との話
10月12日、クラスの仲間2人とクラス担任教授の家に
押しかけ話をした。もっぱらKa君が話し、私ともう一人のKo君は単なる付き添いであった。
そこで分かったことは、クラスの担任というのは、何とか研究所の教授であって、
理工学部教授会のメンバではないということだった。日大に来て2年目で、
数学の教授だったので、「日大数学科事件」については知っていた。
その教授は、日大闘争の本質については理解してくれたが、何しろ権力・権限のない
教授なのでそれ以上のことはなった。帰りは夜の11時、家に着いたのは12時であった。
10月16日にまた習志野校舎に泊まった。当時、電闘委を名乗っていたが、
ほとんど実体はなかった。クラスの組織化のため各クラス2名の派遣要請があり、
私がその一人になった。母からは「もうこれ以上はダメよ」と止められたので
これが籠城の最後だった。この頃は、右翼の出没が噂されており、夜の警戒も緊張した。
そのころ、千葉の津田沼や船橋でカンパ要請活動をした。意外とカンパが集まった記憶がある。
特に私の父より年上の方が千円札を入れてくれることがあった。父がそうであったように、
この頃の年代の方にも既成左翼政党への不満があったのではないかと思う。
取り残された機動隊員
68年だったか69年だったか忘れてしまった。
御茶ノ水駅から神田駿河台下までの明大通りでデモがあった。
はじめのうちは車も通っていた。
機動隊が来て規制を始めたが、だんだんデモ隊の数も増え、野次馬も加わって、
交通はストップした。
明治大学の前の路上に一台の機動隊のジープが止まっていた。
中には、運転手と思われる隊員が一人残っている。
黒ぶちめがねの一見インテリ風で背は高いがチョット華奢で、乱闘要員とは
思えない隊員だ。
道路は完全にデモ隊と野次馬で埋まってしまった。
ジープに残っていた機動隊員は、一人だけ取り残されていることに気付き、
大慌てでジープを飛び降り走り出した。
周りにいた学生は後を追いかけた。私も追いかけた。
機動隊員は足を掛けられたのか自分で転んだのか分からないが、道路上で転んだ。
いっせいに学生は彼を蹴った。
私も加わろうとしたが直前にためらった。
「この隊員を蹴ったって、何か変わるわけでもない」
普段は理性も働かない私であるが、このときだけは理性が働いた。
機動隊員も必死で逃げた。
数分後だったろうか。機動隊の部隊が体制を整えてやってきた。
すると、歩道にいた作業員風の耳にイヤフォーンをつけた私服刑事数人が、
先ほど機動隊員を蹴った学生に一斉に飛び掛った。
何人かの学生が逮捕された。
私は蹴らなかったからか、逮捕の対象にはなっていなかったらしい。
でも複雑な気持ちだけが残った。
高校の学友
68年のことであるが、日にちは忘れてしまった。
場所は、日比谷野外音楽堂だったと思う。
私が日大全共闘の部隊と共に日比谷野外音楽堂に行くと、
中核派の白いヘルメットで旗を持った高校の同級生W君がいた。
彼は物理がよく出来た。優秀で東工大に現役で入っていた。
その彼が中核派。本当に驚いた。
高校時代はそれほど親しかったわけではなかったが、お互い確か笑顔を
交わした。
別の友人で、これもいつだったか忘れたが、中央大学の理工学部に
入学したH君が、自宅に黒ヘルを持って遊びに来たことがある。
どのような経緯で遊びに来てくれたのか忘れてしまったが、彼とも
高校時代それほど親しかったわけではないが、私にとっては、とても
嬉しく心強く感じた。
後で聞くと、同じ高校の同期生の中には、上智大学のIさんや東京教育
大学のO君など、やはり各大学の全共闘の闘争に関わっていたと聞く。
皆、それぞれの思いがあったんだろう。
先のW君はその後、東大の安田講堂で1/19に逮捕され、未成年
だったので、少年院送りになったと聞く。
関東軍の芸術学部襲撃
11月8日に関東軍と称する体育会系右翼暴力集団が
芸術学部を襲った。首都圏の大学の体育会系学生を中心とする右翼らしい。
全共闘の応援部隊が駆けつけ、右翼を追い払い、逃げ送れたものを確保し、
芸闘委のメンバを救った。そして11月12日には、現場検証と称して
その芸術学部に機動隊が入った。私も芸術学部のある江古田に急行した。
芸術学部の近くに行くと、もう催涙弾の臭いでたまらない。目を開けていられない
状態だった。周辺の道路は通行止めになっている。正門らしきところには、
第三機動隊(3機)がいて、見張りが数人立っていたが、中では弁当を食っている。
カメラを持っていたので近くでフィルムを買おうとしたが、店の中には警察官がいる。
仕方がないので、駅の反対側の写真屋でフィルムを買った。そして戻ってみると、
校舎近くには機動隊の放水車が2、3台、あとトラックやカマボコ車などが20台くらい、
その他パトカーが5~10台くらいいた。機動隊は弁当も食べ終わってカマボコ車に
戻りつつあったので、校舎の中に入ってみた。涙が止まらない。建物のガラスはメチャメチャで
レコードなどが散乱していた。催涙弾の空の筒も方々に散らばっている。ものすごい量だった。
剣道の胴も落ちていた。警察の捜査は右翼の襲撃とセットになっていると感じた。
強制捜査と称し、単にバリケードを破壊し、籠城できないように大量に催涙弾を
打ち込んできただけだ。
この催涙弾の空き筒を2個袋に入れて持ち帰った。家で袋を開けるとやはり涙が出た。
学生や、大学院生、助講会の教官などが集まり、それぞれの旗を持ち出し抗議集会を始めた。
各路地に機動隊が集まりだした。鬼の4機もいる。その他1機、3機、5機がところどころ
路地に隠れている。江古田駅は、四方を機動隊に囲まれ、駅構内にはグレーのヘルメットの
私服警官が二人いた。全共闘の応援部隊を阻止しようとしている様子であった。私服警官に
ジロジロ見られだしたので危険を感じ、駿河台の理工学部に戻ったが、途中、池袋にも私服警官が
張り込んでいた。
日大・東大闘争勝利全国学生総決起集会
11月22日、日大全共闘および東大全共闘主催の
「日大・東大闘争勝利全国学生総決起集会」が東大の安田講堂前で行われた。
私は日大全共闘部隊よりの前に安田講堂前に行っていたが、各大学からもいわゆる
反代々木系の全共闘組織が集まっていたようで、安田講堂前を埋め尽くしていた。
日大全共闘が来るというと、真ん中を空けてくれた。そこに日大全共闘の4000人の
部隊が到着。大きな拍手で迎えられた。このときは素晴らしかった。
このとき東大の「バリケード封鎖」を見て驚いた。ただ机が立て掛けられているだけ
なのである。日大の場合は、いつ右翼に襲撃されるか分からないので、ひと一人がやっと
抜けられるような狭い入り口で、バリケードに使う机もお互いに針金で固く結ばれていたが、
東大はなんと、バリケードは象徴だけだったのか?
翌年1969年1月9日、東大に行った。代々木系全学連(民青)が全国動員をかけて、
反代々木系である全共闘に敵対していた。全共闘側がゲバ棒や鉄パイプ、石を持って、
民青の立て籠もっている理学部、経済学部、教育学部などに押しかけた。民青は、
爆竹を鳴らし、屋上からガラス瓶や石を落としてくる。ものすごい闘いになった。
そのうちに赤門やもう一つの門から機動隊が乱入してくる。正門前にも機動隊が入り口を
ふさいでいる。全共闘の部隊が正門にいる機動隊を追い払った。私は、このままだと機動隊に
つかまりそうなので、正門が解放された隙に帰路についた。
私は、東大の正門に掲げられた「造反有理、帝大解体」のスローガンは、極めてすんなり
受け入ることが出来た。大学受験時の国立大学試験の影響である。でも、このスローガンを本当に
叫ぶことが出来る東大生というのはいるのだろうかと疑問に思った。
1月は15日くらいまで東大に行っていた。そろそろ、東大の安田講堂にも機動隊が導入
されそうだという噂が流れ始め、その後は家で警察無線の傍受をしていた。17日に警察無線で
ある隊員から「明日の件」といって司令室から「重要な内容は有線でやるように」と叱られていた。
1月18日、19日は、東京に行くのをやめた。みんなが御茶ノ水周辺で闘っているようで
あったが、私にはそこまで出来なかった。
理工学部機動隊導入
1月26日に駿河台の理工学部に機動隊が導入された。
習志野校舎も5回目の学部長の退去命令が出て、駿河台の中央大学の学生会館に
避難したが、2月14日に中央大学の学生会館に捜査という名目で機動隊が入り込み、
今度は明治大学の学生会館に避難した。
津田沼の生産工学部では、すでに授業が再開され、集会は禁止され、右翼体育会系学生や
土木学科の学生が暴力支配しているという恐怖政治が始まっていた。
理工系習志野校舎も3月1日にはガイダンス、3日には生産工学部(1年)で授業が再開された。
理工学部は10日から授業を始めようとしたが、各学科では授業ボイコットで実質スト続行となった。
4月18日の段階で、習志野校舎の理工学部(1年)は、物理学科と数学科を除きほとんどが
授業ボイコットを行っていたが、同じ校舎の生産工学部は1年から2年以降の津田沼校舎に
移るための進級試験を実施した。習闘委は進級試験粉砕を叫びバスターミナル前で集会やデモを行った。
習志野の理工学部も授業再開に向け、全員から誓約書を取り、従わないものは退学という
策略を使ってきた。この頃より私は、日大に残るべきか、やめるべきか悩み始めた。
父に話すと、「日大をやめたら日大を良くしようという日大闘争には参加できないんだぞ。
おまえは、職業革命家になろうと思っているのかもしれないが、おまえには無理だ」その言葉に
妙に納得して結局、4月22日に屈辱的にも誓約書を出して、校舎に入った。
こんなときの授業など頭に入るはずもなかった。
5月26日から30日まで進級試験があった。勉強していないので最悪である。
入学当初の一番になろう、なんていう気持ちは、このときはもう消え失せていた。
むしろ留年になって1年余計に日大にいなくてはいけない状態になったらどうしようかと心配になった。
進級により活動の場は駿河台に
6月13日に進級の通知が郵送されてきた。
その日はちょうど日本マルクスレーニン主義者同盟(ML派)の政治集会に参加していた。
別にオルグられたわけでもなく、自主的な参加であった。
6月15日は60年安保のときに樺美智子さんが警察に殺された日である。
日比谷公園で行われた「6・15」集会に参加しデモを行った。5万人以上はいたのでは
ないかと思うくらいの規模だった。
6月16日から駿河台校舎に移行した。校舎は鉄格子、鉄柵、鉄板で囲われ、検問所を
通過してから中に入る。授業はすし詰め、教科書があろうとなかろうと時間いっぱい授業を行う。
授業を受けるのも、闘争を続けるのも苦しい状態になっていった。
くだらない話であるが、進級してよかったと思うのは、習志野の真っ白なヘルメットより駿河台の
理闘委のほうが「赤」が入っていることだ。白よりは赤のほうが好きだったので、
理闘委のヘルメットのほうが親近感があった。
7月18日、全都理工系総決起集会のあと教育大闘争との連帯集会があり、参加した。
会場の御茶ノ水大学に向かう途中地下鉄の茗荷谷の駅を降りるとヘルメットを被った部隊は、
第4機動隊に強制的に路上に出され「無届デモ」をさせられた。私はヘルメットは被らず歩道を
歩いていたが、機動隊の指揮者は「歩道を歩いている学生をデモ隊の中に入れろ」という指示を出した。
私はこれに対し、「何で歩道を歩いちゃいけないんだ」と指揮者に質問をしたところ、
機動隊員の一人が「このやろう、うるせい」といって殴りかかってきた。機動隊員の手の甲の
プロテクタが顔面に当たり右目上のまぶたを切ってしまった。御茶ノ水大学についてから、ブントか
どこかの赤ヘルの女子学生に絆創膏を張ってもらった。
電気科理論合宿に参加
8月19日に志賀高原にある日大工科山の家で「電気科理論合宿」が
あり参加した。1年先輩の1名と2年になった3~4名が参加した。
「経・哲・草稿」を勉強するということだったが、余り身につかなかった。飯はうまかった。
夜はマージャンであるが、私はマージャンを一切やらないことに決めていたので友人が
一生懸命教えようとしていたが覚えなかった。
機動隊員に暴行を受ける
9月4日は、昨年の「仮執行処分」の日から1年目で
全共闘が集会を開いたので、休講となった。
9月5日の全国全共闘連合結成の集会が日比谷野外音楽堂であったが参加しなかった。
9月19日、理工学部7号館前で理闘委がデモを行っていた。理工学部5号館前には
制服警察官、歯学部前には第8機動隊の数十名が道を半ばふさいでいた。
私はこのときはデモをしていなかったが、7号館前の出入口のところで友人とデモを見ていた。
そこにいきなり機動隊員がデモ隊に襲い掛かり、9号館空き地の前で一人を捕まえた。
すると私の後ろのほうから機動隊員に向かって空き瓶が投げられた。そばにいた機動隊員が
7号館の扉より中に入って来た。そばにいた学友はみな校舎内に入ろうとして殺到したが、
何しろ入り口がわざと狭くしているので入れない。私は機動隊員に襟首をつかまれ倒された。
その後は、機動隊員2、3人に頭を狙って蹴られ、また盾で突っつかれた。
一瞬「パクられるのかな」と思ったが、彼らは、そのまま逃げた。単なる、欲求不満の捌け口に
利用されただけだった。全くヤクザと同じだ。と思ったのもつかの間、頭が濡れている。
しずくが垂れるので見ると黒っぽい。工業化学科の学友に「血が出ているかい?」と聞くと
「こっちに来い」といって学生ホールに連れて行かれ、そこのソファーに寝かされた。
あとは、救対の人が面倒を見てくれた。血が止まらないので、同じ電気工学科のT君が
青医連の医師がいるR会診療所に連れて行ってくれ、そこで治療を受けた。
「一針縫おうか」といっていたが、結局、消毒してそのままガーゼを当て包帯を巻いてくれた。
治療費は取らなかったが、50円置いてきた。学生でお金がなかったとはいえケチだったなあと、
今でも思う。そのT君の自宅は埼玉であったが、千葉の自宅まで送ってくれた。
ワイシャツに血がべっとりついたまま、電車に乗って帰宅した。
その怪我のこともあって、それ以降当分は集会・デモにも参加しなかった。
また、クラスで一番活動的だったK君の動きがおかしいと感じ出したことも参加しなくなった
一因でもあった。「これからは、学園闘争には意味はない」とか「政治闘争は趣味だ」とか言い出し、
ブルジョワ的なアルバイトをしているようであった。一度姿が見えなくっていたが、
このときパクられていたのではないか、公安に丸め込まれたのではないかと疑った。
父には日頃から「威勢のいいことを言うやつ、過激なことを言うやつが一番危ないから気をつけろ」
と聞かされていた。父の労働運動の経験から出た貴重な言葉だと思う。K君もこの種の人間かと
思うと何となく孤独な気持ちになる。父は「過激なことを言って玉砕するのが闘いではない。
大衆の中にあって自分に出来る闘いを地道にするのが闘いだ」という。K君の言葉に同調する
わけではないが、これからは、全共闘というより自分自身の闘いなのだと感じた。
このころ駿河台理工学部7号館のサークル室から聞こえてくる、今まで聴いたこともない音楽に
耳を奪われた。何かが崩れ落ちていくような感じを受けた。何となく闘争ももう終わりかと
そのとき感じた。
あとでその音楽は、ジミ・ヘンドリックスの”The Star-Spangled Banner”と知った。
中村克己君虐殺される
商闘委の中村克己君が1970年3月2日亡くなった。
2月25日にビラを配っていて右翼の襲撃にあい命を落とした。
警察は「電車にはねられた」といっているようであるが、右翼の襲撃が原因であることは明白だ。
3月3日にクラスで中村君虐殺を報じるビラを配り、錦華公園での抗議集会に参加した。
秋田議長も来ていた。そしてデモ行進。デモ行進の終点の御茶ノ水駅付近で機動隊委員と
いざこざが起き、またしても機動隊委員に殴られた。
3月11日に日比谷公会堂で開催された「中村君虐殺弾劾日大全共闘葬」に出席した。
会場は入りきれないほどの人であふれていた。中村君のお父さんの「日大ではビラをまいて
いただけで殺される」という言葉が強く印象に残った。私は、中村君とは全く面識はなかったが、
彼の死にはかなりショックを受けた。
3月31日に「赤軍派」が日航機を乗っ取ったという報道があった。
「赤軍派」というグループが発足したばかりの頃、清水谷公園だったと思うが、「赤軍派」が
ビラを配っているのを見たことがある。キャバレーの客引きかと思うようなスーツにネクタイで
ビラを配っている。全く場違いの服装だった。私は、ただ格好をつけるだけの集団だと思った。
今で言うパフォーマンスだ。そのような集団に「革命」など出来るはずがないと思っていた。
日大闘争とは無縁の集団であった。
70年安保闘争
私は、70年安保闘争までは闘おうと思っていた。
個別に日大闘争が存在するわけではなく、自民党政府、アメリカの軍事政策
(ベトナム戦争、基地問題、沖縄問題)すべてがかかわっていると考えていたからである。
今まで、70年安保のデモに参加しそれが最後だったと記憶していたが、当時の日記を
読み直すと、「4・28闘争、6・14闘争、6・23闘争すべて日和った。」と書いてあった。
1969年と勘違いしていたのであろう。「6・13神田地区アウシュビッツ包囲デモ」(1970年)に
参加してその後はサボったらしい。だんだんパクられる可能性が高くなったからだろう。
現に同じ電気工学科で口数も少なく極めておとなしい感じのY君が6・23のデモでパクられた。
23日間拘留されたらしい。私は彼の代わりに設計の宿題をやってあげた。
彼は今、行方不明となっていると最近聞いたことがある。
私は6月闘争で1度ビラを書いたが、実に内容のないビラで自分自身がっかりした。
結局、これ以降は集会らしい集会やデモに参加することはなかった。