日大闘争 私史

その後

卒業研究そして就職試験

ti_digitalic
TI社デジタルTTL-IC

私はその頃、大学をやめないのであれば、「両親が払ってくれた授業料を出来るだけ取り返そう」という方針に変わっていた。大学3年を終えるまでに 出来るだけ単位をとった。就職できないことも考えて教職課程もとった。
それが私の大学後半の闘いだった。
大学3年を終える頃になると卒業に必要な必須科目は卒業研究である。
どこかの研究室に入ってなにやら研究をしなければいけない。そして就職である。
私は「電子計測」関係の教授の研究室にいくことにした。でもすぐに失望した。
大学院にいく学生には内容のある研究、学部で卒業する学生には、適当に遊ばせておく ような姿勢が感じられたからだ。しかも、1日中その研究室にいなければいけない。
まともにやる気はなかった。でもその頃珍しいデジタルICを扱うことが出来た。
収穫はそれだけだった。
日大の博士課程を出た助手で、当時私によくいろいろなことを聞きに来るのがいた。
何でそんなことも知らないのかと思うようなことを聞いてくる。私は、ラジオ少年で真空管から 始まってトランジスタなどを使った電子工作が好きで、理論よりは実践派であった。
多分机上の理論ばかり追いかけている人には実践が分からなかったのかも知れない。
今ではその人も日大教授であろう。もともと行く気はなかったが、日大の大学院も その程度と思っていた。
卒業研究は適当にサボったが、何しろ心は満たされなかった。自分自身日大闘争をどう総括して
いいのか分からなかったからである。むしろそれが私の卒業テーマでもあった。 しかしそれは卒業しても結論は出なかった。
大学4年になって、今では考えられないが、大学4年の5月になってから就職試験が始まった。
4月に試験を受けるところを決めた。その頃は、大学の推薦状は1社にしか出ない。
その1社に合格しないと次の1社に出る。従って、結果が分かるまでずっと不安なまま、 他の良さそうな会社も受けられずに待たなければいけないのである。
第一志望を通信機メーカ大手に決めた。研究室の教授は、ぎりぎりで受かるかもしれないと いってくれた。「ぎりぎり」というのが気に入らなかったが、日大理工学部電気工学科からは 6人受けた。筆記試験は5月15日、面接は5月19日であった。面接では5人になっていた。
その中で私より出来そうなのはいないと思ったが、試験は計算ミスが分かり不出来だった。
面接の後その会社の人は、2日くらいで結果を連絡するといっていたが、1週間たっても来ない。
みんな来ていなかった。もし採用されないのなら他の会社を受けなければいけないが、 結果が出ないと受けられない。焦った。6月2日に他の教授に試験を受けた会社の人事課に 電話してもらい、3名合格と知らされた。私も入っていた。安心した。結局6月4日に内定通知が来た。
大学の受験とは違って第一志望のところだけ受けて合格した。
「色弱」はどうなったのか?
その頃あちこちの眼科で調べてもらううちに色神検査の要領が分かった。こう読むと「色弱」といわれ、 こう読むと「正常」と判断される。学習効果である。就職試験の身体検査表は、日本橋保健所で 書いてもらったが、色神検査は「異常なし」であった。30年以上その会社に勤めたが、 「色弱」で困ったことは一度もなかった。

卒業

無事卒業することになった。一緒に闘った者の中には、 留年になった者もいたが、特に後ろめたさはなかった。自分自身の闘いなのだから。
余計に日大に残りたくないという感情が優先した。
3月25日に卒業式があった。入学式のときとは大分変わって、電気工学科だけの
卒業式である。私は、単に卒業証書をもらうだけでなく、賞をもらうことになった。
I賞という賞で5人もらったが、その5人の最後にもらった。他にK賞というのがあり 2名受賞したが、これはI賞の受賞の上位2名と重複しておりいずれも特待生であった。
特待生もトップもそれほど遠い存在ではなかったんだと改めて思う。
上位4名は日大闘争とは無縁の者達。こちらはデモや集会に明け暮れた時期もあった。
私は、まともな「教育」の場を求めて日大闘争を闘ったのであって、勉強がしたくないから、 ストライキやデモをしていたわけではない。授業再開を叫んで、デモや集会に参加しなかった 他の多くの連中よりも私のほうが出来たことで、多少そのことを示せたのではないかと自己満足をした。
賞の授与のとき、当時オリンピックではアメリカのブラックパンサーに共鳴する選手が メダル授与のときに黒い手袋をして拳をあげて抗議していたのを思い出し、何かしようとも思ったが、 格好ばかりでも仕方がないと思いやめた。しかし賞を手渡してくれた学科主任には礼はしなかった。

社会人になって

世間で大企業といわれる部類の会社に就職した。
私は技術者として生活することを選んだ。
大企業の労働組合が概して皆同じである。労使協調路線で、これは1950年の レッドパージのときの第二組合(=御用組合)の流れである。ユニオンショップという形をとり、 管理職を除き全員が労働組合員。レッドパージのときにGHQの労働課長代理のブラディが 「企業と労組がユニオンショップ協定を結び、労組が共産党員のトラブルメーカを除名すれば、 合法的に共産党員を企業外へ追放できる。これがもっとも賢明な方法である」 (図書出版「レッドパージ」より)といったとされるが、ユニオンショップとは共産党員に限らず、 企業にとって不都合と判断される人間を企業に変わって労組が排除できる仕組みである。
労組幹部は、出世コースでもある。委員長や書記長になったものが、その企業の役員になったり、 子会社の社長になったり出来るのである。結局、労働組合というのは、企業の末端の労務管理機構に 組み入れられているのである。
入社2、3年目、ちょうど労組支部委員を選出する選挙期間中のある日に、残業時間中に 上司である主任から会議室で「選挙では、こいつとこいつには入れるな」と話があった。
支部委員候補を見ると、現在の支部委員の推薦する候補で定員いっぱい。推薦のない候補が 2名くらいいた。当時はまだ新左翼の影響があったのか、推薦のない候補はそれらしき主張をしていた。
「こいつ」はその候補である。私は腹が立ってその10歳以上年上の主任に対しみんなの前で 「あなたは、民主的な教育を受けてきたのか?こいつに入れようが入れまいが、それは個人が 判断すること。あなたの指図は受けない」と強く抗議した。ひとりの先輩社員も同調してくれた。
その主任も上からの指示で言ったのであろうが、私たちに「悪かった」と謝った。
帰りの電車が一緒になり気まずかったが、その主任に「日大闘争を知っているでしょう。
私はこれでも大学で闘ってきた人間だ」といってやった。
企業と組合が馴れ合っていることは明白であった。その組合が電気労連という組織に加盟し、 当時の社会党を支持していたが、こんな労働組合に支持されていては当時の社会党も強くなれる はずもなかったのだ。
そんなことがあって少ししてから、別の先輩社員から、民青への加入の誘いがあった。
コーラスをやっている先輩で、喫茶店で話をしたが、私は「大学のときから反代々木なので」と 民青への参加を丁重に断った。

ベトナムでのアメリカの敗北

conneticut_s
米国コネチカット州ハートフォード

1975年4月も末だったか、私は、仕事でアメリカの コネチカット州にいた。機械の設置工事のため2月から滞在していた。
一緒に工事をするアメリカ人で若干年配の人は私たち日本人に「日本に行ったことあるよ」 といってくる。しかし次に出てくる言葉は「朝鮮戦争のときに」であった。
アメリカ人は、戦争を通じてしか他の国を知らない。
そんなある日、テレビで、南ベトナム民族解放戦線がサイゴンのアメリカ大使館に突入し 南ベトナム民族解放戦線の旗を掲げているニュースを見た。アメリカの地で、アメリカが負ける ところを見るのは痛快だった。学生のときに日大闘争と共に、安保反対闘争、そしてベトナム戦争 反対闘争も闘ってきたつもりだった。自分が正しかったんだ。正義が勝つこともあるんだと、 満足感でいっぱいであった。父も感激のあまり日本から手紙をくれた。アメリカ人は、すでに織り込み 済みであったのか、やっと終わったという安堵感であったのか、極めて冷静であった。

アメリカで見たテレビ映像

1975年のアメリカでの滞在中は2ヶ月以上アパートでの 生活だったが、その間テレビも見た。
言葉はあまり分からないが、内容は何となく分かる。
とある日、第二次大戦、アジア・太平洋戦争の場面をみた。
ノンフィクションの実写である。
日本が敗戦となった直後のフィリピンでの映像である。
日本兵が捕らえられて引きずられている映像であった。
現地のフィリピン人が子供を含めて、その日本兵に対し石を投げている 場面であった。
私にとっては、非常に衝撃的であった。
こんな映像は日本では見られない。いや、日本では放映しない。
現地の人の憎しみが、この日本兵に対する投石という形で現れている。
これほど日本人は現地の人に憎まれていたんだと改めて思った。
アジア・太平洋戦争は、日本が欧米の植民地解放のために現地の人を 支援した戦争だったと言う人がいるが、肝心の現地の人には歓迎されて いなかったということだ。
また、この映像を見たときに思ったのは、テレビなどで放映されている ものは、放映する側の都合の良い映像だけを選別しているということだ。
昔、「コンバット」などというアメリカのテレビ映画をよく見た。
ヴィック・モローが演じるサンダース軍曹がかっこいいと思ったときも あった。
第二次大戦のヨーロッパでの戦闘場面で、いつもドイツ軍に苦戦しながらも 最後はアメリカ軍が挽回して勝つという筋書きである。
極めてアメリカ的なテレビ映画であった。
先のフィリピンでの映像を見たときに、「コンバット」はドイツで放送 されているのだろうか?ドイツで放映されているのであれば、ドイツ人は どのような気持ちで見ているのであろうかと、不思議に思った。
今のドイツは、ナチスドイツとは違うと割り切って見ているのであろうか。
所詮「コンバット」はアメリカ軍の広報映画なんだろう。
「コンバット」を見ていると、本当にアメリカ軍が立派なんだろうと 錯覚を起こしてしまう。
このような映像を通して大衆の意識操作が行われていることを知らされた。

アメリカでのコンサート会場

HartfordCivicCenter
ハートフォード・シビックセンター

アメリカ滞在中にコンサートを見に行った。
当時、日本では結構有名になっていた「スージー・クワトロ」。
チョット可愛い子チャンだが、歌は英語でよくは分からないが、きっと 卑猥な歌だったんだろうと思う。
アメリカでの生活も退屈だったので、住んでいた市内でコンサートがある ことを知り、チケットを買った。
現地の人とは「スージー・クワトロ」なんて知らない。現地の人が知らない のに、何で日本人が知っているのか不思議だった。
コンサートのメインは「アリス・クーパー」で「スージー・クワトロ」は 前座だった。そういうことかと納得した。
「アリス・クーパー」は、名前は聞いたことがあったが、興味がなかったので あまり知らなかったが、コンサートを見て、なかなか見せるものがあると感じた。
ところで、コンサートが始まる前、コンサート会場のシビックセンターに 入場し、自分の座席と思われるところに良くと、すでに中学生くらいの子供が 座っている。
たどたどしい英語で「おまえの席か?」とたずねると、「違うだろう」のような返事。
「だったら退けよ」と言いたかったが、言葉が出る前にその子供は退いたので、 言わずに済んだ。
コンサート会場は、後ろの席のほうに行くと、なんだか若者がたむろしていて、 異様なにおいがする。ピンときた。これがマリファナの臭いかと。
当時のアメリカでは、若者の間では、マリファナが結構流行していたんだろう。
もう30年以上も前の話で時効だろうからいいと思うが、 当時私の勤めていた会社の現地法人の若い現地人従業員の家に日本人の仲間と 遊びに行ったことがある。
その若い現地従業員は、マリファナを吸っていた。
コンサート会場のときと同じ臭いだった。
日本人の仲間にも勧め、私以外の仲間は試した。
私は煙草すら吸わないので、そんなものには手を出さなかったが、私の仲間は、 吸引後、うそか本当か分からないが、一様にというよりは、バカ騒ぎをするほど 陽気になった。
帰りは、こんな状態になった仲間に運転を任せられないので私が運転をする 羽目になった。夜、知らない道を運転するのに緊張したが、運転中も周りの仲間は、 バカ騒ぎをしていて閉口した。
煙草を吸う人間はこういう誘惑に弱いんだと感じた。
他の薬物は規制されているのに、何故、煙草が規制されないのか不思議で仕方がない。

全共闘白書

whitepaper
全共闘白書

私は、日大闘争の時のビラを大事にとっておいたが、 社会人になって数年経った頃、ビラを捨てることにした。でもいつか、日大闘争の記録を 整理するときが来ると思って、写真に残した。写真については素人なので露出が うまく調整できておらず、良い状態で保存は出来なかった。
日大闘争を闘った仲間はどうしているのだろうか、このまま忘れ去られてしまうのであろうか、 と思っていたところ、1993年暮れか、1994年の初め、「プロジェクト猪」なるグループが、 全共闘で闘った人たちにアンケートを呼びかけていることを知った。私は、これでまた全共闘で 闘った仲間とつながりが出来ると、そのアンケートに協力した。また、私が撮った写真もたいした ものではなったが送った。
1994年9月3日市谷アルカディアで「全共闘白書出版記念パーティ」が開催されるとのことで 出席の案内が来た。私は、知人もいないようなので「欠席」とした。しかしながら、事務局より 前日に出席を求める連絡が来たので、仕方なく出席した。しかし驚いたことに、日大全共闘出身者は 7名しかいなかった。しかも当時の幹部は誰一人いなかったのである。出席していた者たちは、 当時は一兵卒なのでどこかで会ったことがあるかもしれないが、顔見知りではないので みな初対面であった。日大全共闘のいない「全共闘」なんて餡子のない饅頭と同じだと思った。
それと同時に何故日大全共闘がいないのだろうかと不思議に思った。
世に中にはもっといい写真があっただろうと思ったが、「全共闘白書」および 「全共闘白書資料編」には、日大闘争関係の写真には、私が提供したものが使われていた。
日大闘争関係で私以外に資料や写真を提供した人がいなかったのか?あまりにも日大全共闘の 影が薄い「全共闘白書」および出版記念パーティであった。
そして出席していた7名、司会をしていた芸術学部Y氏、文理学部S氏、法学部S氏、農獣医学部S氏、 商学部Y氏、生産工学部T氏、そして私は、とにかく日大だけでもっと多くの人を集められないか、と思った。

日大930同窓会設立準備会開催

ticket
航空チケット

1994年10月、「68・69を記録する会」の経済学部M氏と 農獣医のS氏の店で意見交換を行った。私は会をつくることにそれほど乗り気では なかったが、生産工学部のT氏から、12月21日に法闘委委員長のS氏に話を伺うことに なっているとの連絡を受け、私も出席した。私は、当時の秋田議長や田村書記長はもちろんのこと、 Y副議長やS法闘委委員長のファンでもあった。ミーハー的な感情で出席することに決めた。
S法闘委委員長は、K組織部長と一緒に来られた。当時のいろいろなエピソード、そして、 闘争後の話を伺うことが出来た。
やはり、日大全共闘関係者を一同に集めたいとの思いで、1995年にとにかく集会を持とう ということになり準備が始まった。当初の7名よりは若干増えてきた。農獣医学部のS氏の店が 会合場所として定着した。
会を進めていく上で、会の名称をどうするのかという話になり、私は「日大930同窓会」を 提案した。私にとって1968年9月の闘争は、一番印象に残っており、9月30日は曲がりなりにも 大衆団交で「勝利」した日である。この9月30日が日大闘争の頂点と感じていたからである。
そして、あえて「同窓会」と入れた。ただの「日大930の会」だけでは何の会か分からずに 怪しまれるような気がしたからである。(通称は「日大930の会」と呼んだ) この案はすんなりみんなに受け入れられた。この名称から、第1回の会合は1995年9月30日とし、 その準備会を全共闘が発足した6月11日に設定した。
そしてそのことを秋田議長にもお伝えし、また出席もお願いしようということになり、 法学部S氏、商学部Y氏、そして私の友人で同じ学科のC氏と私の4人で、広島の秋田議長を尋ねよう ということになった。1995年4月15日早朝6:55初のJAL171便で広島に向かった。
広島からはレンタカーを借りて秋田議長の仕事場まで押しかけた。迷惑であったろうが、快く応じてくれた。
秋田議長には、「日大930同窓会」を発足させるに至った経緯を説明し、6月11日の設立準備会 および第1回同窓会の出席をお願いした。その場での出欠は、留保された。3時頃秋田議長と別れ、 日帰りのJAL176便で東京に戻った。みな一様に感激して帰った。
その後、1995年5月20日には田村書記長に会った。当時の幹部は、みな、集まることには 反対はしないが、その会の主催者になることは拒んだ。田村氏は「もう我々がやる時代ではない。
君たちがやればいい」といった。このとき、私は、当時の幹部が代表になってくれないのであれば、 この会は会長とか代表を置きたくないと思い相談したところ、田村氏は、「それなら世話人会にしたら?」と。
集団指導体制をとれということであった。
6月11日東京文京区の涵徳亭で「日大930同窓会設立準備会」を開催した。秋田議長をはじめとして 8学部27名および支援者1名S女史が参加してくれた。経済学部のY氏が司会をした。
農獣医学部のS氏と法学部S氏が設立趣旨説明を行った。秋田議長からの挨拶をいただき、 そして出版記念パーティに参加した7名と私の友人のC氏が呼びかけ人として紹介され、 それぞれが思いを語った。出席者全員の自己紹介、近況、参加した理由等を話してもらった。
途中、法学部の自民党区議と称するU氏が田村書記長の話が出ると怒って一方的に退席したが、 そのあとは、話が弾み、3時間があっという間に過ぎた。そして、「第1回日大930同窓会」の 開催予告をし終わった。
この設立準備会をきっかけに、8月には、私は仕事の関係で参加できなかったが、伊豆大島の S女史のペンションで合宿があり13名参加した。

第1回日大930同窓会開催

「第1回日大930同窓会」開催までには、いろいろな問題が 発生し、若干の世話人の入れ替わりもあったが、とにかく9月30日(1995年)の 開催にこぎつけた。東京中野の「ゼロホール」で開催した。秋田議長をはじめと、 7学部41名の参加をいただいた。
午後2時より第1部として芸術学部N氏の協力を得て「日大闘争の記録」および 「続日大闘争の記録」を上映した。午後4時からは第2部として経済学部のY氏の司会により 討論会を行った。それぞれ自己紹介や日大930同窓会への期待など語っていただいた。
第3部は場所をレストランに移し懇親会を行った。その後は2次会、3次会と午前0時まで語り合った。
翌10月には「930新聞」をはじめて発行した。とりあえずは不定期刊行とした。

中村克己君・27回忌法要に参加

日大930同窓会は、第1回同窓会を開催した後、 翌1996年2月25日には中村克己君墓参委員会の主催する「中村克己君・27回忌法要」に 会として参加した。日大930同窓会のメンバも含め、37名が参加した。
私は、中村克己君とは闘争当時全く面識はなかったが、このときから、ほとんど毎年、墓参に 参加するようになった。中村君が他人事とは思えなかったからである。

秋田議長と再会

私は、日大930同窓会の設立当初、仲間と秋田議長の所に伺った。
ただ、そのときはみんなで押しかけていったので、私としては秋田議長の話を落ち着いて話が 聞けていないと感じていた。いつか一度落ち着いて話が聞きたいと思っていた。
ちょうど、1996年9月6日に仕事で広島に出張することになった。金曜日なので、翌日、 秋田議長のところに伺うことにし、電話で連絡をすると、快く了解していただいた。
私がいろいろ疑問に思っていたたこと、今の心境等伺うことが出来た。その内容は当時の世話人の 一部の方に「世話人外秘」で送ったが、多分誰もそのメモはとって置いてはいないだろう。
私のところにしかないと思うが、公開はしない。

日大930同窓会その後の活動

1996年6月18日には、世話人会として農獣医学部専任講師K氏に、 また6月21日に芸闘委出身の作家H氏にいろいろ当時のお話を伺った。
1996年10月3日には、「第2回日大930同窓会」を東京品川区「きゅりあん」で開催 1997年7月頃、当時は、世話人会は農獣医学部のS氏の店で、主に経済学部のY氏や 芸術学部のK氏を中心に会を進めていたが、いろいろな問題が発生したため、会場を 日大法学部そばのたんぽぽ舎の貸し会議室で行うようになった。しかし、経済学部のY氏は 健康問題で欠席が続くようになった。世話人会出席者も毎回低調になった。
会の中心は芸術学部のK氏となった。
低調とはいえ毎年日大930同窓会を定期的に開催し、1997年は9月27・28日に、 また1998年は9月19・20日に御茶の水の「龍名館」に泊り込みで 「第3回、第4回日大930同窓会」を開催した。第3回には当時のT弁護士をお招きした。
1999年には、設立準備会と同じく、「涵徳亭」で第5回日大930同窓会を開催。
このときは歌手の新谷のり子さんおよびマネージャをお迎えした。
日大930同窓会は、9月30日前後を「総会」と称し、世話人会以外の方も交えて「同窓会」を 開催してきた。だが、なかなか元日大全共闘の闘士たちに広く認知されることがなかった。
「同窓会」には、ある固定の仲間が集まるようにはなったが、増える兆しはなかった。
その原因のひとつは「同窓会」の位置づけが曖昧であることだった。ある者は「昔の思い出を共有する 仲間の集まりで、1年に1回飲み食いすればいい」といい、ある者は「当時を偲ぶだけの会では 意味はない。もっと社会に働きかけていく会でなければ参加したくない」と。第1回の同窓会に 参加した文理学部の女性の方は後者の意見でこの言葉が私にはずっと重くなしかかっていた。
さらに、「自分たちのビジネスに結びつけられるような活動が出来ないか」という者までいて、 一つにまとめることは容易ではなかった。この多様な意見があるというのが、 団塊世代の特徴ではないかと思った。最後の意見は、私を最初に誘ってくれた、 生産工学部のT氏で彼は、設立準備会以降その意見が通りそうもないということで、 すでにこの会には参加していなかった。
私自身は、日大闘争を闘った者たちの「情報センタ」的な存在に徹するべきではないかと考えていた。
そこを中心にネットワークを広げ、お互いの連絡を仲介し、また助け合うことが出来たらいいと感じていた。
さらに日大930同窓会が発展しない理由の一つに、先輩闘士の方々から、日大930同窓会は、 プロジェクト猪の下部組織ではないかと見られていたことである。確かに、プロジェクト猪主催の 全共闘白書出版記念パーティから出発している。また連絡名簿を作る上で、プロジェクト猪には協力を 頂いている。しかし、私たちは、日大独自の活動をしたいということで進めてきたし、他組織から 干渉を受けたことはなかった。世話人会のメンバの中には、プロジェクト猪に参加している者も何人かいた。
プロジェクト猪が何故日大では嫌われるのか、私にはいまだに良く理解してない。
他大学のセクトの寄り合い「全共闘」と同一視されたくないと思っているのか、または、労働組合の 「連合」に近いことで民主党支持が強く、政治的な面を嫌っているのか、あるいは両方か。
私にはあまりそのようなこだわりはなく、また、敵対するものでもないと思ったが、日大930同窓会の 独立性を保つために私は参加しなかった。

田村書記長逝去

tamura
田村正敏君追悼会

1998年9月25日、田村書記長が逝去された。
28日には、特にお世話になっていた世話人会メンバの商学部Y氏が葬儀に参加した。
文闘委の有志を中心に、「田村正敏君追悼会」が開催されることになり、 日大930同窓会も協力した。
1998年10月23日、私は、文理学部のH氏と共に、理工学部、生産工学部、 工学部の方に「追悼会」への協力をお願いしに行った。生産工学部のF氏の事務所で、 私は、日大930同窓会の立場を説明し、会として協力する旨伝えた。
そこには、生産工学部F氏の他、法闘委委員長S氏、理闘委委員長S氏、工闘委委員長O氏、 理闘委M氏、理Ⅱ闘委T氏、経済学部Y氏が集まっていたが、このような事態に、 特に表立って反対を表明する方はおらず、一応了解をいただいた。
1998年12月5日14時15分から東京の「銀座ファゼンダ」にて追悼会が行われた。
私も有名な方々のご挨拶に混ざって、日大930同窓会として挨拶させていただいた。
私としては、田村書記長は、日大930同窓会の「世話人会」のアイデアをいただいた方でもあり 非常に残念な気持ちでいっぱいであった。

日大930同窓会ホームページ開設

930hp
日大930同窓会ホームページ開設

日大930同窓会をもっとよく知ってもらうために、 インターネットの活用は重要であると考えた。当時日大全共闘関係では、 三島闘争委員会がホームページを開設していたがそのほかは見当たらなかった。
私は個人で契約し私が当時撮影した写真を活用して、日大930同窓会としての ホームページを開設した。1999年6月6日である。
ホームページには、私の写真だけでなく、会の主旨、設立経緯、930新聞などを掲載した。
中には、このホームページを見て連絡してくれる方もいた。
その後、経済学部S氏から、ホームページを開設する上で問題点などを知りたいと、 新宿のマクドナルドで会い、説明したことがある。彼はその後、「けいとうい」という ホームページを開設した。今では、多くの日大全共闘関係者がホームページを開設し、 掲示板などで活発な意見を述べ合っているところもあるようである。

2000年紀集会

y2k
2000年紀集会
nichidai930flag
「日大930の会」の旗

1999年頃からプロジェクト猪を中心に 「あれから30年、これから30年」と題し、2000年紀集会の企画が 持ち上がっていた。日大930同窓会の中心メンバでもある芸術学部のK氏は、 早くからこの企画の打ち合わせに参加していた。日大930同窓会としても積極的に 参加していこうということになった。呼びかけ人として、世話人会メンバも名を連ねた。
K氏は、出来るだけ日大関係者の呼びかけ人を増やしたいとの意向で秋田議長にも電話で お願いをして了解を頂いたという。私は、このことに疑問を持った。K氏がどの程度秋田議長に 2000年紀集会のことを説明し、それを本当に理解してもらえたのか。私は、2000年4月3日、 K氏に対し無理に呼びかけ人になってもらうことに反対するメールを送った。
しかしK氏は私の意見には何の反応も示さなかった。さらにK氏からY副議長の呼びかけ人の 了解をとるよう頼まれた。私はY副議長に連絡を取ったが、Y副議長にとっては日大930同窓会に ついてもまた私個人についても認識がないので、私の頼みなど聞いてくれようはずもなかった。
結局、パンフレットには、呼びかけ人として世話人の他、秋田議長の名前も日大930の会として
掲載された。このパンフレットは、5月には発送されたと思うが、そのパンフレットを見て、 T経闘委委員長が怒り出した。「秋田議長の名前を利用した」と。6月7日に経済学部から T委員長のほかS氏、T氏、日大930同窓会の世話人からはK氏、C氏そして私が参加して 有楽町の交通会館の地下の喫茶店で打ち合わせを行った。T氏の怒りはもっともで、 私が4月3日にK氏にメールした主旨と結局は同じであった。当たり前の話ではあるが、 結論として今後勝手に秋田議長の名前は使わないことになった。
そして直前の6月8日か9日に、朝日新聞に「全共闘世代が10日に2000年集会」という 記事が載った。その記事の中には、プロジェクト猪の高橋氏の名前と共に日大930同窓会世話人の K氏の名前も広告会社勤務として実名で載っていた。世話人会には事前の報告はなかった。
彼の勤務先の親会社I重工業は組合が同盟で活動の中心は「反共」である。「反日共」ではなく 「反共」である。このような会社に勤めていて実名を露出できることが不思議でならなかった。
とっさに、何か裏があると感じた。
いよいよ2000年紀集会、しかし私はほとんど受付にいた。誰もいなくなるから仕方がなかった。
中で何をやっているのかほとんどわからなかった。終わったあとK氏は大成功と評価していたが 私にはその実感はなかった。

Y副議長に話を伺う

2000年紀集会の後、私は、Y副議長に連絡を取り、 お話を伺う機会を得た。というのも、先にT経闘委委員長に会った際に、 Y委員長が「俺とY副議長が納得すれば、会はまとまるよ」という主旨の発言が あったからである。そしてなんといっても、Y副議長は、私にとっては個人的に 闘争中からのファンでもあり、前から一度話を伺いたいと思っていたのである。
新宿で7月29日に、芸術学部のK氏と共に会った。当時、世話人会では、 一人での行動は慎み、2名以上で情報を共有することになっていた。
いろいろお話を伺って、私はY副議長の気さくで飾らないところがいっそう気に入ったが、 日大930同窓会への参加はしていただけないことが分かった。中村克己君の墓参と 10・21関係の仲間とたまに会うこと意外、いろいろな集まりには出席しないことにしている とのことであった、ましてや、T経闘委委員長が現役のセクトに属していることもあり、 現役の方とは一切会わないと断られてしまった。

日大930同窓会世話人辞任

2000年紀集会の前から、世話人会の会合場所は、 たんぽぽ舎から、経済学部のT氏の会社事務所に移っていた。たんぽぽ舎での 費用負担を避けるため、T氏の好意によるものであった。
2000年紀集会の後の「第6回日大930同窓会」を10月1日に涵徳亭で開催した。
どういういきさつだったか覚えていないが、ゲストに柳家三寿師匠をお迎えしての開催であった。
そこで突如、世話人会にも話が出ていない、会則の制定と代表を設ける、そして会の名称を 「日大930の会」に改める案が芸術学部K氏と経済学部のT氏から出された。
農獣医学部のI氏が反対した。私も突然のことで賛成はしかねていた。
その場では結論は出さずに世話人会で決めることになった。
I氏の反対は、私とは主旨が違っているようであったが、少なくともそんなことを 決めることはなく、もっとどのような活動をするかを明確にすべきだ、ということだったと 記憶している。彼は、社会への働きかけを重視する視点で会を進めて行きたいと思っていた。
10月13日に経済学部のT氏の会社の会議室で世話人会の定例会が開催された。
私は仕事の関係で遅れて参加、農獣医学部のI氏は欠席であった。他の出席者9名は、 基本的に会則制定、代表を設けることに賛成であり、私が出席したときは、おおかた決定が されていた。反対者がいない場で、ろくな議論もなく決まったのではないかと思う。
私を副代表にするということも言っていた。
私は、反対した。何故反対したのか。それはあくまでも田村書記長が言われた「世話人会」の 集団指導体制を理想の形と考えていたからである。会則の会員の規定は「日大全共闘に参加、 支援したものすべてが、会員」という主旨のものである。会員資格についてはそれでいいかもしれないが、 これを「会員」と規定するのは乱暴な話であった。
何故私は、「代表」というものを置きたくなかったのか。当時は、まだ会もあまり認知されておらず、 プロジェクト猪との関係も疑われている状況であり、好意的な目で見てもらえることはなかった。
私たち下っ端で活動していたものにとっては、あの偉大な闘争を指導してきたのは、 当時の全共闘幹部の力だったと思っている。そこに、わけの分からない者が「代表」などという 肩書きで登場すれば、「あいつは何者だ」という声が出るのは十分予想がついたからである。
当時、日大930同窓会の実質「代表」というよりは「事務局長」は、芸術学部のK氏であったことは、 事実であった。彼は、本当に活動的で、よく引っ張ってきたと思っていた。
ただ後半に見られるような、独善的な暴走があることが気になっていた。
むしろ彼を、「代表」のような肩書きで強風にさらしたくはなかった。
それと、裏腹ではあるが、K氏の後半の行動を不審に感じたことも、反対した大きな理由であった。
K氏が「代表」の肩書きを欲しがっていることが気になっていた。マスコミへの実名での露出。
そして、会として連絡できる名簿は200名前後であり、間接的に、連絡できる者の数を含めると、 500名弱であった。連絡できるといっても、一方的に送るだけで返事が来るわけではないので、 無視している人も多数くいるわけである。これを、どうも500名の会と吹聴している観があった。
「500名の会員組織の代表」という肩書きがなぜか欲しい理由があったのだと感じた。
このことを露骨には表現できなかったが、間接的に説明し、反対したが、大勢は決していた。
私一人で反対しても勝ち目はなかった。
私は、世話人を辞任することに決めた。副代表も断った。私は、その後の会を「K氏の会」と表現した。
その後のK氏解任劇の原因を十分予想していた。
当然のことながら、私の個人名で契約していたホームページは、契約を打ち切り、私の写真以外の コンテンツを理工学部のC君に渡し、ホームページは閉鎖した。

東大全共闘 今井澄氏

2002年2月24日、中村克己君の墓参会があった。
私は日大930同窓会の世話人を辞任したあとも、毎年のように墓参には参加しており、 このときもいつものように参加した。
このときの参加者の中には、私が参加してから初めて東大全共闘の今井澄氏を見かけた。
今井氏は元ML派であり、中村克己君もML派に所属していた。
今井氏はこのときは民主党の参議院議員だった。
そして、この年の9月に今井氏は亡くなっている。
今井氏は自分の死期が近いことを悟って中村君の最後の墓参をしたのではなかったのだろうか。
遣り残したことを一つ一つ整理していたのではなかったか。
当然、私は墓参のときはそんなことは知らなかった。
今になってみるとそんな気がする。

日大930の会 K代表解任劇

私は、2000年10月の日大930同窓会の世話人定例会以降、 会には参加していない。しかし、2004年早々から日大930の会のごたごたが聞こえてきた。
当時の会の状況は知る由もないが、代表の芸術学部のK氏と会則を一緒に提案した経済学部のT氏との 仲が悪くなっている様子。さらに月刊誌「現代」にK氏と田原総一郎氏とのインタビュー記事が 載ったようで、これを、経済学部のS氏がK氏は日大闘争を闘ったこともないのに「日大全共闘」の 代表面をしてインタビューに応じている、との批判が持ち上がっているようであった。
さらに日大闘争の膨大な記録をまとめようという動きに消極的であるとの批判もあった。
後の「930新聞」によれば、イラク戦争反対のグループに「日大930の会」の名前を勝手に 使ったようなことも書かれていた。真相は知らない。
経済学部のS氏から日大930の会副代表の理工学部のC氏宛てのメールがBCCで届いたが、 その中に、経済学部のT氏や農獣医学部のS氏に加え、私を復帰させろとの要求もあった。
私は、一切この解任劇には関与しなかった。こうなることは予想できたことであったし、 また、この経済学部のS氏について言えば、日大930同窓会の会合場所を農獣医学部のS氏の店から 他の場所に移した時の原因を作った人物であることは承知していた農獣医学部のS氏と、 経済学部のY氏そして芸術学部のK氏の仲を裂こうと1997年頃から画策していたことを知っている。
このような会を破壊する常習犯だと思った。彼は後の2007年に、日大930の会や 「68・69日大闘争アーカイブス」(闘争時の記録を残す会)からも絶縁状を突きつけられている。
このK氏解任劇で私が感じたことは、今頃になって何で分かりきったことでもめるのかということだった。
私は2000年のときにすべて予想したことがただ表面化したというだけの話である。「代表」という 肩書きがつけば、いろいろな人から妬みや嫉みを受ける。あえてそれを選んだのは、何らかの肩書きが 欲しかったからに相違ない。その肩書きでメディアに露出したかったのであろう。
その後の目的があったのだと思う。
芸術学部のK氏は、活動的で少なくとも私が世話人会にいた頃の彼の活動は今でも十分評価できるもの と思っている。しかしその後の、ことは良く知らないが、「代表」にすべての権限と責任を押し付け、 そしてその「代表」の暴走を止められなかったのは、「代表」一人の責任ではない。
暴走を防ぐために誰かがコントロールしなければいけないのにその役割の人間が誰もいなかったのだ。
また芸術学部のK氏は、どうも有名人に接触したがる性癖があり、接触した後、あたかも懇意になっている ようなそぶりをする。当時も中東問題でマスコミに登場するS女史とさも親しいかのような話をされたことがある。
彼のこのような態度には胡散臭さを感じないわけにはいかなかった。
K氏解任劇も終わり、日大930の会は、農獣医学部のS氏を「代表」として選任したとの話を聞いた。
私が好きだったY副議長も今では「日大930の会」に参加していると聞く。何故私が頼みに 行ったときに参加してくれず、今になって参加されているのか分からない。自分の力がなかったのだと 思っている。
私は前述した「68・69日大闘争アーカイブス」には参加しているがあまり活発には活動してない。
「日大930の会」にはもう少し時間をかけて冷静に考えようと思った。

日大930の会での活動復帰

2009年1月11日、エルネスト・チェ・ゲバラの「28歳の革命」を 見たあと、930の会の世話人会に参加した。
農獣医学部のS氏が「代表」を降りたとのことで、その後の運営についての 話し合いだった。
私は、世話人会のメンバではなかったが、声がかかったので出席した。
私は930同窓会発足前からの話を含め、私が感じている今まで起きた問題と その原因を説明し「代表」や「会則」による弊害を説明した。
一応出席した皆さんには納得いただいた。
結局「会則」は凍結され、「代表」の置くことをやめ。
世話人会も「事務局会議」というような名称になることが決まった。
私は、930の会が正常化されたと判断したので、今後は出来る範囲で 協力していきたいと思っている。