私のシェイクスピア (2) (1)へ |
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読書や観劇など、読む側、見る側のことを論じた「第4人称」も見てほしい。 | ||
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私のシェイクスピア 7 演劇について 演劇は文藝より古い芸術分野であり、芸術を越える祝祭行為でもある。 「雑司が谷シェイクスピアの森」では、関場先生が毎週ニューズレターで、公演情報満載の「ばーなむ」を発行されるし、何よりも、高木さんは、関東のシェイクスピア劇は皆見るといううほどの演劇好きで HP「あーでんの散歩道」にもその劇評を載せておられる。 ふんだんにある演劇情報にもかかわらず、私が殆ど観劇しなかったのは、時間的、経済的な余裕がないという単純な理由ほか、私の中に、演劇を忌避する要素があるからである。 私はシェイクスピアを文芸作品として読んでいたので、自分の築いたイメージを第三者によって壊されたくなかった。 例えば、ジーパンとTシャツで、シェイクスピア劇を演じて欲しくない。演出家の、勝手な表現欲を満たすのを見たくない。 逆に、演劇好きの人は、どんな形で演じられるかに興味の焦点が当てられれているので、色んな翻案も面白いし、役者の演じ方、舞台装置、音響など、果ては、劇場の観客、ざわめきまで楽しみます。祝祭行為なので劇場に近づくだけでも嬉しい。 そもそも、原作を知る必要もないのです。 演劇は、小さい頃の記憶から、祝祭に結びついており、祭りのお神楽、村芝居。強烈な思い出があるのは、高校の文化祭。私は、美術部にいたので、演劇部の連中に頼まれ、背景を描きながら、その練習ぶりを見た。わざとらしい声色を使ってやっていた。普段も、彼らは人を食ったような高慢さがあって、好きになれず、この印象は長らくお尾引いた。 「雑司が谷シェイクスピアの森」の仲間とOUDS(オックスフォード大学・ドラマチック・ソサエティー)や、明治大学のシェイクスピア劇など見る内に、少しづつ、演劇に馴染んできたし、高木さんが、夏季の特別イベントで、演劇の世界へ引き入れてくださったのも有難かった。 今では、役者に対しても、敬意を払い、演劇も勿論、愛することもでき、演劇・映画の世界は、本の世界に劣らぬ、豊な広がりある世界だと思う。さらに、観劇は演劇の不可欠の要素でり、献身の一種なのである。 見ることに特化する生き方も十分あり得ると思うし、現に、ロンドン、ニューヨークで観劇することを生きがいとしている知人もいる。 人間の演技したい、演出したいという欲望は根深い。孫が三歳の時、ママゴトを始るし、バスタオルを頭に被って「ラプンテェル」だと変身するのには驚いた。 演ずることは人間の本性に根ざしており、演ずるのを見ることも同様。 演劇のパトロン・興行主になるか、座付き作家となるか、舞台監督になるか、役者となるか、観客となるか、何れが一番楽しいのだろうか? どれもやって来たシェイクスピアに聞いて見たい気がする。 コロナ禍もあり、外出もしなくなって、演劇の大切な要素、観劇をする機会もなくなった。これからも、私の脳内劇場で楽しむことになるだろう。 演劇と映画とは異なる。映画鑑賞と読書とはやや近い。 |
変身は演劇の本質の一つ。 表紙に「原典、全集、研究書を読むべからず!」 「舞台と映画と漫画で味わうのがシェイクスピア の本当の楽しみ方だ!」とあります。 |
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私のシェイクスピア 8 オタク?学者? 『ロミオとジュリエット』の次に読んだのは『マクベス』だった。次第にシェイクスピアが面白くなって、シェイクスピアという字を見れば、気になり始め、関連する本を集め出すようになっていた。 一つのことに興味を持ち、それの物や情報の収集に喜びを感じ、熱中すのをマニア、オタクと呼ぶなら、私もその入り口に入りかけた コレクションは強い喜びの源泉となるのである。 同じころ、加入した「日本ルイス・キャロル協会」で、オタク的人間に接することになるのだが、要は、物や情報を集めること自体に喜びを感ずる人間である。キャロルの方はシェイクスピアより、素人が取り付き易いのでよりオタクになりやすい。『不思議の国のアリス』に絞ってもよいし、ルイス・キャロルにしても100年前の人物なので、当時の物や情報を比較的容易に集められる。 シェイクスピア・オタクはそうは行かない、彼の関連は、図書館が出来る位ある訳だし、500年前のものを集めるわけに行かない。First Folioは1冊10億円を超える。作品一つに絞ったところで、「マクベス」、のテキストだけでも私の手元に6種類ある。10種類ぐらいはすぐに集まると思う。それぞれ、編者が校定と注釈に長年心血を注いだものだろう。 日本語訳も直ぐに10以上は見つかるだろう。映画や演劇も沢山ある。日本での初演は? 「マクベス」の種本は?本当の歴史は? 冒頭に魔女が出てくるが、まだ魔女狩りのあった頃で、観衆は魔女でどんなインパクト受けただろうか? 上演の社会的背景はと関心が広がる。 実は、注釈書・参考文献が沢山あっても、それを見ていては、それを読むだけで日が暮れる。原書を読むには、1,2冊に絞って、自らの力でテキストを読まないと駄目なのである。そんなことが分かるとオタク行動は静まる。 オタク的な楽しみ方の一つの行き方は、テーマを小さく絞り、ニッチな分野を狙うことである。 右欄に挙げたのもその例で、「シェイクスピアの**」といった本は他のも沢山ある。 一つの作品に絞ったとして、「ハムレット」一つとっても、大変で、翻訳だけでも18以上あり、作品論、演劇、映画、漫画・・・オタク・または研究の対象は山ほどある。 「ハムレットの**」と絞らなければならない。 芦田 『股倉からみた「ハムレット」』は翻案劇だけに絞って論じた例である。 情報の収集(多ければ多いいほど良い)ー 分析 ー 仮説 ー検定 これは学問の世界に共通で、オタクと学者は限りなく近い。 ではどう違うかといえば、オタクはコレクション自体を楽しむが、学者はそれを職業にするか(飯のタネにできるか)否かである。またオタクは玩物喪志であるが、学者はコレクション以外に志(なにか目的)を失っていない人である。 シェイクスピアの世界にしろ、ルイス・キャロルの世界にしろ、大半がフィクションの世界なのであるが、オタクにしろ学者にしろ、活躍できるフィールドは広大であり、他の世界も無限にある。 人生退屈することはない。 |
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私のシェイクスピア 9 翻訳について 松岡和子さんが、坪内逍遥、小田島雄志に次ぎ、シェイクスピア作品を全訳したことで大きなニュースになっている。 全訳とまで行かなくても、シェイクスピア作品を訳した人は、例えば、「ハムレット」でも18種以上あるが、他の国ではどうであろうか? 翻訳比較はそれ自体が面白く、嵌ると切りがない。 言葉遊び、韻律をどこまで訳すか? ロシヤ語通訳者の米原万里さんの表現を借りると『不実な美女か貞淑な醜女か』ということになる。(右欄*参照) 私は、原典を読む立場から、翻訳は出来るだけ見ないことにしていたから、同時代的に次々と出版される松岡和子訳、河合祥一朗訳には手を出さなかった。 翻訳は原典を読むうえで最後の助け舟で、原文を読みながら翻訳を参照すると訳者のご苦労がよく分る。 好んで参照したのは、坪内逍遥訳で、私はこの方の原文の理解は深いと思った。 翻訳の持つ意義について、いくら評価しても過大評価することはない。それほど、日本の文化形成に寄与している。漢籍、仏典の話はさておき、西洋の文化の大半は、翻訳を通じて摂取したのである。 ドフトエススキー、トルストイ、ゲーテ、トーマス・マン、ヘッセ、ジッド、スタンダール、ロマン・ローラン・・・日本の青年の多くが、翻訳もので、精神形成したのであり、大きくなっても、外国の小説・ミステリーは皆翻訳を通じて読んでいるのである。 文藝だけではない。政治、経済、社会あるゆる分野の知識を翻訳を介して得ているのであり、翻訳大国といっても過言ではない。 最近、2.3のミステリーの翻訳を原文と対照してみる機会があったが、その翻訳の素晴らしさに目を見張った。原文より文学的レベルが高いと思うことがしばしあった。 「原書を読む」でも触れたように、翻訳は A::原書の言わんとするとことを直接汲み取る。 B:それを相応しい自国語の表現にする。 Bの部分は立派な創作活動なのである。だから、創造の悦びを伴い、翻訳する人が跡を絶たないのである。 シェイクスピア劇に関していえば、英米ではシェイクスピア原典が正典かされ、変更できないのに対し、翻訳では、時代に合わせて、また時には方言でも出来るなど、柔軟性を持つので、シェイクスピアは非英語圏で長生きするかもしれない。 幸多かれ!日本の翻訳文化。 |
他にもあったが散逸してしまった。 私は20年以上日本ルイス・キャロル教会のメンバーとして『不思議の国のアリス』などに親しんできたが、「アリス」は62以上の言語に訳され、部分訳を入れると150種に及び、一人の作家としては、世界一といわれる。日本語訳も二つの「アリス」の訳は150種にのぼる。(Wikipedia) シェイクスピアの翻訳には驚かない。 絶えず翻訳比較、翻訳論議がなされる。 *最近の翻訳理論(Lawrence Venuti)とによるとdomestication and foreignizationという見方が翻訳の分析には有効なようである。 https://en.wikipedia.org/wiki/Domestication_and_foreignization (2022・5.28 日本ルイス・キャロル協会での田中健氏の発表「翻訳理論で読む『不思議の国のアリス』」による.。) 韻文の翻訳については古くから議論がある。 吉川幸次郎・大山定一 『洛中書問』1946 吉川幸次郎・福原麟太郎 『二都詩問』1971 |
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私のシェイクスピア 10 シェイクスピアの本質
素晴らしいシェクスピア論が山程あるのに、高々、20数冊の原書を一通り読んだぐらいで、シェイクスピアを論じるのはおこがましい限りですが、読んでいる過程で「あゝ、これがシェイクスピアだ!」と感じ入る瞬間が何度もありました。お前はシェイクスピアをどう見たのか問われれば、次のように答えます。 1.人間理解の深さ 一口に言えば、これに尽きます。その理解の深さによって、造形された人物は皆、生きていおり、現実の人間より際立って存在している。これは、ハムレットやマクベスといった主役が、あたかも現在生きているように論ぜられるだけではなく、脇役、端役に至まで、生きているのである。人間の様々な生き様がそのまま提示されている。 Myriad-minded Shaespeare(無数の心を持つシェイクスピア ー コーリッジ)なのである。 2.表現・言葉の魔術師 登場人物のキャラが立ち上がってくるのは、言葉の力であるが、更に状況を巧みに再現しながら、人の感情を表現して行く。長いセリフも片言隻句も面白い。 詩人として、まとめて、『ソネット』を読めたのも有難かった。 英語圏で最も多く引用される作家であることも分る。 シェイクスピア言語の持つ、韻律の素晴らしさは、凄いものがあるのだろうが、私はそれを十分味わえるほどには、至らなかった。覚える程読まなけれはならないし、演じて見なければ分らないと思う。 英語圏で最も多く引用される作家であることも分る。 3.価値からの自由(Wertfreiheit) ー 中世的価値観の喪失 シェイクスピア作品から何か価値、徳目といったものを引き出そうとしても出来ない。イギリスが、中世から脱皮して、ルネッサンスを迎え、教会からの束縛から離れ、自由を謳歌しようとした時代の作品のように見える。しかし、実際は、カトリックとプロテスタントの対立とそれに政治が絡んでいるので、迂闊に、自分の価値観を現わすこが出来なかったのかも知れない。結果的に、価値からの自由または価値喪失となっている。シェイクスピアより100年前のトーマス・マロリーのLe Morte D'Arthur(アーサー王の死)を読んで、このことがはっきり分かった。シェイクスピアは中世を通過しないと分らないと思う。 現在も、いわば価値喪失に時代で、シェイクスピア作品を上演されるのだと思う。 シェイクスピア論は山ほどあります。 私のシェイクスピアのイメージはラフカディオ・ハーンハーンのシェイクスピア論に近いので、訳出しておきました。是非、こちらを見てください。 2022・5・31 |
シェイクスピア概論的なもので面白かったものを掲げておきます。右端は坪内逍遥『シェークス研究栞』は逍遥の力量が分かる。 このうち一冊選ぶとしたら木下順二『シェクスピアの世界』 このほか Shakespeareとは何者か? シェイクスピアの時代は? 色々と興味深い領域があり、文献も沢山あります。 私のシェイクスピアのこのシリーズはこれで一応終えます。私の第3の人生は、シェイクスピアから離れて、別の所で遊びたいからです。 |
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