私のシェイクスピア (1) (2)へ | Topへ | |
私の定年後の生活、60,70歳代の20年ほどは、次の5つが生活のベースにとなっていたように思います。 ① 「雑司が谷シェイクスピアの森」という会でシェイクスピア読むこと。 ②「日本ルイス・キャロル協会」でキャロルの作品を楽しむこと ③野口慊三さんと本を読むこと(サンスクリット、ドイツ語などを楽しむ) ④外国の方に日本語を教えること ⑤「クロッキーの会」で絵を楽しむこと。 そのほか、ヨーロッパ鉄道旅行、アイルランド徒歩旅行や東照寺での参禅など色々ありますが、これらが、現役時代とは異なった、思いもかけない豊なもの与えてくれました。 ここでは、このうち、①のシェイクスピアに関連することを、思いつくままに書いておきます。 シェイクスピアを読んでみようという方に参考になるかも知れません。 2022・5 |
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私のシェイクスピア 1 きっかけ ー 雑司が谷シェイクスピアの森への入会 私がシェイクスピアを読むきっかけは、全く偶然に訪れました。 ある日、展覧会を見に、上野の都立美術館に行ったら、ロビーの一角に、情報端末が置かれてあって、都内の登録団体を検索できるようになっていていました。そこで、「雑司が谷シェイクスピアの森」に出会ったのです。 その頃、私は60前後で、三菱重工を定年になり、子会社のリョーインという会社に移っていましたが、老後、老子など中国の古典を読んで過ごしたいと思っていたので、同好者のサークルでも無いかと、その端末機で、検索してみたのです。目的としたようなものは見当たらなかったのですが、シェイクスピアを原書で読む会「雑司が谷シェイクスピアの森」が目に止まり、何の気なしに、それを控えて帰りました。 シェイクスピアについては、私の若い頃、1950,60年代のことですが、福田恒存のシェイクスピアの翻訳が新潮社から全集として出ていた頃で、また、芥川比呂志など演劇人が、文化を先導している感じがありました。つられて、全集本を何冊か買って読んだり、シェイクスピアの名前に引かれて、坪内逍遥訳も、あの空色の小ぶりの全集の端本を少し集めたこともありました。しかし、さして感動することもなく、いつしか忘れてしまいました。 1997年の暮れ、上記の端末の情報をもとに「雑司が谷シェイクスピアの森」を覗いてみようと思ったのは、思い返しても、その動機がはっきりしません。 山登り好きの人は、槍ケ岳・穂高・剣岳などの名峰は一度は自分の足で登ってみたいと思うものですが、読書人にとってはシェイクスピアも名峰群。その一つぐらいは原書で読まないと気が済まない。そんなという気持ちがどこかにあったのかも知れません。 会では A Midsummer Night's Dream が読了したところで、来年から新しい作品になるとのことで、望年会に誘われ、池袋の中華料理店で、未知の方の輪に加わりました。何となくメンバーにされてしまったのは、長年双眼鏡のメーカーの社長をされていた伊藤さんの営業手腕によるのかもしれません。 以後、この会で、20年以上、シェクスピアの22作品の原文をで一語漏らさず読むという貴重な体験をさせてもらうことになったのです。 |
【読了した作品】 Macbeth 2019 Titus Andronicus 2017 Hamlet 2016 Coriolanus 2015 A Midsummer Night's Dream 2014 Richard Ⅱ 2013 King Lear 2012 Winter Tales 2011 Sonnets Pericles 2010 The Merry Wives of Windsor 2009 Henry Ⅳ Part 2 2008- Henry Ⅳ Part 1 2007-2008 King Lear 2006-7 The Taming of the Shrew 2005 Tempest 2004 Richard Ⅲ 2003 Hamlet((Folio)2002 Hamlet 2001 Anthony and Cleopatra 2000 Macbeth 1999 Romeo and Juliet 1998 |
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私のシェイクスピア 2 『ロミオとジュリエット』 私のシェイクスピアは『ロミオとジュリエット』から始まりました。 最初にどの作品を読みたいですかと聞かれて、『ロミオとジュリエット』を挙げたのは、若い頃見たイタリア映画、(1964年、監督:リカルド・フレーダ、)の印象が強かったのでしょう。 私を希望を入れて、会が選択してくださったのだと思いますが、1998年は『ロミオとジュリエット』を読みました。 会は、毎週、100行前後を輪読で読んで行くやり方で、初めの頃は、予習に10時間以上は掛かっていたと思います。辞書をこまめに引き、注も見て、どうしても分からない所は翻訳も見ながら読むのですが、会読で、自分の番になると、しろどもどろになることがしばしばでした。文章がしっかり読めていない証拠です。 共通テキストはThe New Cambridge Shakespeare版でしたが、私は、より易しいOxford School Shakespeare版を使いました。シェイクスピアの古い英語は難しいとこぼしていたら、関場先生から「シェイクスピアは近代英語ですよ。」といわれて、なんだか、急にハードルが下がった気になりました。ThouとかThyとか、古語も多少出てくるが、普通の英語として読めば良いのだと思うようになりました。会読のスタイルに 直ぐに慣れて行きました。 8月は夏の特別セッションで、本文を離れて、ニューケンブリッジ版の序文の中の上演史を読みました。本文が読めていないのに上演史とは?と違和感を覚えました。このスタイルは、その後も続きますが、それについては別に述べます。 荘厳な前口上に始まり、いきなり、モンターギュ家とキャプレット家に小姓たちの路上での争いに入ります。見事な劇作法です。 後に見た映画「恋に落ちたシェイクスピア」(1998年監督:ジョン・マッデン 脚本:トム・ストッパード、マーク・ノーマン)は、この作品を見事に取り入れ、シェイクスピアの世界へ導入してくれました。原作を読んでいなければ、この面白さは味わえなかったと思います。 「ロミ・ジュリ」はシェイクスピア作品の中でも好きなものの筆頭に上がります。 |
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私のシェイクスピア 3 会読と仲間 未知の山に登るのに先達と仲間がいるとありがたいし、苦しいことも乗り切り、長続きします。 シェイクスピアも、このグループに入らなかったら、到底、20を越す作品を読めなかったと思う。 先達の関場先生、側面でハックアップされた高木さん、同行のメンバーの皆さんには心からお礼を申し上げます。 メンバーは、5人から10人と、変動がありますが、多士済々。 経営者、普通のサラリーマン、主婦、人口問題の研究者、小麦の研究者、 大学の先生、海洋学者、・・・経歴、経験、知識レベルも様々な人と読むことはテキストを一人で読むにくらべ、数倍の楽しさと味わいがあります。 会読という形式が優れており、これが、講師の一方的な講義であったら、そう長くは続かない。山登りが一歩一歩自分の足で歩いてこそ楽しいように、自分で読むから愉しいのである。 また、合宿、飲み会(望年会)、旅行など、本を読む以外にも楽しみがあった。有志でロンドンのグローブ座、ストラード・フォード・アポン・エイボンを訪れたのもその一つ。 いろんな動機で、シェイクスピアの名のもとに集まった方々、色々な人生の経験を背負っている方々との出会いは、シェイクスピアやその作品を知る以上に価値のあったと思います。 |
2003年12月望年会にて |
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私のシェイクスピア 4 原書を読む愉しさ シェイクスピアの本以前に英語のどんな本を読んでいただろうか?と思い返してみると、ローラ・インガルス・ワイルダーの「大草原の小さな家」シリーズにぶつかる。 30代終わりから、何かのきっかけで読み始め、一通り読めた最初の本である。その後、ロアルド・ダール、シドニー・シェルダン、ジョン・アービン、エーリッヒ・シーガル、ジェフリー・アーチャー、アガサ・クリスティー、エド・マックベイン、ウイリアム・サロイヤン、・・・をペーパーバックで読み流した。 6,7割読めれば、翻訳で読むより満足感があり、こまめに辞書を引くこともしなかった。 これらの本は、2017年の引っ越しの際に殆ど処分してしまったが、最初のワイルダーは残しておいた。 これを書くために取り出したのだが、大きな活字で、視力が極端に落ちる年になっても読めそうである。 私は、この本によって、アメリカが好きになったと言ってもよい。 ちなみに、インガルス一家の蔵書にシェイクスピアの一巻本がある。一家に「聖書」と「シェイクスピア」を備えるというのは、こんな開拓移民の家庭にもあったことが分かる。 ここで言いたいのは、シェイクスピアを原典で読む以前に、私は原書を読む愉しさを知っていたということである。 ある程度現代作家の英語が読めないと駄目だと言いたいのではない。 最初に読む原書がシェイクスピアであってよいし、実際、メンバーの中にはそのような方もおられた。英語が少し読めるというだけでよいのである。 原書を読むのが愉しいのである。 シェイクスピアは400年前の英語だから難しいと思いこまない方が良い。当時、ロンドンの庶民が理解出来たのである。 ー------- Bernardo. Who's there? Francisco. Nay, answer me. Stand and unfold yourself. Bernardo. Long live the King! Francisco. Bernardo?5 Bernardo. He. これはHamletの第一幕一場、出だしの部分です。 エルシノア城の胸壁の上で歩哨に立つバーナードの所に、交代のフランシスコがやって来る場面です。 参考までに福田恒存の訳文付けておきます。 バーナード: 誰か? フランシスコ: なに、きさまこそ。動くな。名まえを言え。 バーナード: わが君の御長命を! フランシスコ: バーナードーか? バーナード: おお。 Who's there?で、観客は自分に向かって言われたのではないか、と緊張感が走ります。次からの台詞で、当たりは真っ暗で、声だけで相手を確かめていることが分かります。当時は昼間、自然光で上演さていた舞台を、言葉だけで暗闇の世界へ導く、シェイクスピアの手腕は見事です。暗闇である必要があるのです。やがて先王の亡霊が出るからです。 Who's there?という言葉だけで原典を読む価値があると思うのですが、いかがでしょうか? 私は翻訳を軽視する者ではありませんし、まして、舞台に掛ける台詞なら、日本語にしなければ話になりません。 翻訳についてはまた述べます。 シェクスピアを原典で読んでいると、副次的効果として、シェイクスピアさえ原文で読んでいるのだから、英語の本は翻訳で読みたくない、という妙な虚栄心が生まれ、原書を読む習慣が付きます。 |
「大草原の小さな家」シリーズ インガルス一家の蔵書の中にもシェイクスピアもあった。 『大草原の小さな家 ー ローラの故郷を尋ねてー』求龍堂グラフィックスより。 Oxford School Shakespeare版Hamlet 1幕1場の挿絵。 |
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私のシェイクスピア 5 完成品か半製品か 、シェイクスピア作品を読む態度について、私が長年持っていた誤解というか、偏見について述べておきます。 私はシェイクスピアの作品を文芸作品として読んだということです。したがって、それ自体が完成品で、後の鑑賞は読者に委ねられていると見た訳です。つまり、言葉から、読者は自分なりの想像で読むことに楽しむのです。 まず、自分で直接味わいたい。途中で第三者のコメントや、それの解釈、その変形としての映画、演劇、論評で汚されたくない。 これは、文芸作品を読む者の極自然な感情ではないでしょうか? ですから、作品の途中で上演史読むのに抵抗があったのです。 しかし、考えて見れば、シェイクスピアの戯曲は、芝居の台本なので、半製品なのです。 台本は演じられてはじめて完成する一つの素材に過ぎません。逆に上演こそが完成品で、台本の良し悪しは大きな要素ではありますが、それは2次的なものになります。 演劇という面から見れば、台本に忠実であるということは、それほど重要では無く、演劇として優れておればよいのです。 シェイクスピアの戯曲が、台本として、多くの優れた演劇を生み出して来たからこそ、今日も、大きな地位占めているわけですが、それを完成品(文藝作品)として読む、私の読み方は、偏狭な態度であったと思います。 関場先生や高木さんや会の活動を通じて、次第に、演劇にも関心を持つようになりました。今では、上演史も大切な分野だと理解できます。 文藝と演劇、映画とは別の芸術分野なのですが、映画や演劇を見て、感動して、原作はどうなのか?とシェイクスピア原作に遡るやり方も素晴らしいことで、こちらの方が、むしろ、良いのかもしれません。 読んでから見るか?見てから読むか?That is the question. |
1616年のグローブ座の外観 当時の劇場の内部 上記はThe Theatre A Concise History by Phyllis Hartroll より |
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私のシェイクスピア 6 辞書を引く喜び 若い頃は辞書を引くのは好きでありませんでした。単語の意味を推測し、筋を追うことが多かったように思いますが、会読で、皆と一緒に読む場合はそんなわけにゆきません。 難しい語には、テキストの左端や下欄の編者の註がついているのですが、この註が読めなくて、辞書を引くこともあります。 (古典の注釈は、専門的なレベルで難しいものがありますが、The New Cambridge Shakespeare版もそうでした。) 何れにしろ、辞書を引いて分ると、暗号解読(decode, decipher)の喜びがあります。知らない外国語の辞書的な意味を知ることから、文脈上ふさわしい意味を探し当てる喜びはとても大きいのです。 この部分を翻訳者に任せてしまうと、読書の美味しい部分を半分捨てるようなものです。翻訳を先に見るのは一種のカンニングのようなものです。 辞書を引いても適当なものが見つかないと、良い辞書をあれば、もっと上手く行くのではないかと、多くの人が何種類もの辞書を持つことになります。 シェイクスピア読むのに特化したもの次のようなものがあります。 A Shakespeare Glossary by C.T.Onions Shakespeare Lexicon by Alexander Schmit いずれも定評があり、後者は、コンピューターのない時代に、よくぞこんな辞書を作ったと驚愕します。しかし、これらがないとシェクスピアは読めないということはありません。 私はある時期から、三省堂のデイリーコンサイス英和辞典(第3版)を愛用しています。引いた単語には、高校生が良くするように、赤の線を引きます。、一冊目は潰れ、今は2冊目です。 小型辞書の愛用者は多く、PODや掌に入るCollins Gemなども優れていますが、何にせよ、使っているうちに愛着が出てきます。 電子辞書もネット上の辞書も優れ、長文の翻訳までしてくれます。特にネットで検索すると、例えば、鳥のなら、その写真だけではなく、鳴き声も聴けます。地名ならその風景までも。 重要なのは、原文を直接読み理解することで、翻訳することではありません。 原文を直読直解、逐語訳はややそれに近いですが、翻訳とは異なります。原文の意味が分かれば良いのです。 「雑司が谷シェイクスピア会」では関場先生がこの方針をとられ、ここは翻訳教室ではないと言っておられました。 翻訳レベルまでしないと理解できない!という人がいます。 いつも、隣の席に座っていた伊藤さんがそうでした。「訳が付かない!」と時々こぼしておられました。 実は、これも一理あるのですが、意味の理解とそれを最もふさわしい日本語にするのとは別に考えた方が原文を読むうえでは良いと思います。 分かり易い例を挙げますと、”I”とか”you"は誰でも分かりますね。”I”を日本語に翻訳すると、私、わたくし、わたし、俺、僕、手前、拙者、うち、わて、・・・から、状況に相応しい語を選ばねばなりません。しかも、”I”は訳さない方が日本語らしいことが多い。 翻訳することはそれ自体実は面白いですが、これには時間を取られます。翻訳については改めて書きますが、ここで言いたいのは、翻訳をしていては、原文が読めないということです。 続き(2)へ |
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