ラフカディオ・ハーンのシェイクスピア論(1)   (2)へ Topへ 
   コロナウイルス蔓延のため、巣籠状態にあるこの時期を利用して、ハーンのシェイクスピア論を訳して行きます。(2020・4・1)  

  
  はじめに 
A History of English Literature(初版1927年、私の手持ちは1953年版)は、ラフカディオ・ハーンが東大で行った講義録で、日本の青年に、易しい英語で噛んで含めるように話しており、100年後の我々が読んでも、なるほどと思うことが多く、訳出しておくと初学者には参考になると思うからです。
その中のシェイクピア論(191頁から203頁)の訳し、望羊亭に順次掲載していきます。
なお、池田雅之編訳『小泉八雲東大講義録』角川文庫2019年は、上掲書とは内容的には全く別物の出版物から訳出されたものです。

〔番号は訳者が付けたもの。太字化も同様。*は訳注 〕
 

  
   1. 何ら長い準備もなく、突然、思いもかけない形で、シェイクスピアという巨人が、17世紀初めに、(*正確には16世紀末から17世紀初頭)イギリス文学に登場する。
彼以前には知的な意味で誰も彼に匹敵する者はなく、彼の後にも彼の作品に及ぶ作品はほとんど無かった。彼は近代における最高の知性を代表する。ギリシャ文明でさえ、我々の知る限りでは、それに同等の幅と力を示す作品を生んでいない。
  シェイクスピアの知性に及ぶギリシャ人はいないと言うのは向こう見ずかもしれない。というのは、ギリシャ人の知性の平均値は近代イギリス人の平均値よりはるかに高いことが分かっているからである。
  しかし、ギリシャ人の生活は、宗教的にも因習的にも、とても強い束縛があったので、シェイクスピアのように自分の心を用いるという自由がなかった。たとえギリシャ人がシェイクスピアのような戯曲を書きたいと思っても、そうすることは許されなかったであろ。だから、7千年近い歴史の範囲で、記録に残る最高の統合者(the most highly organized human)と言えそうである。確信はないが。

2. 彼のスタートの段階で注目すべき驚くべき事柄は次のことである。 ー 即ち、彼が学歴のある人ではないことである。
  彼に先行する大学出の才人たち(the University Wits -*マーロウやキッドなど大学での劇作家のこと)は専門の学者であったが、シェイクスピアは田舎の学校に不十分な形で通学したに過ぎず、そこも少年期の早い時期に去ったに違いない。彼は18歳で結婚し、その時よりずっと前に学校を去っていた。
  この驚嘆すべき人は、勉学も訓練もなく、古代または近代における他の誰よりも、多く、高度な知的業績を成し遂げた。彼の成したことは、確かに、ある特別な分野である。しかし、この分野こそ知性と心(mind and heart)のついて最高級の天分の必要な分野なのである。

  2020・4・1
 

  
   3. 我々はシェイクスピアついて多くのことは知らない。そしてThe Life of Shakespeareといったタイトルの本を信用してはならない。それらはほとんど推測か空想の物語である。実際、シェイクスピアについて知るところがあまりにも少ないので、彼の名前で行われている劇を誰が書いたのか全く定かでない。作品をシェイクスピアが書いたと信じるのは、大量の証拠でそのように信じ込まされているためである。ベーコンが書いたという説の支持者は、彼らの説を証明する代わりに、(シェイクスピアが書いたという)証拠を強化しているに過ぎない。
しかし、事実をできるだけ簡明に示すと、言えることの全ては次の通りである。
   ウイリアム・シェイクスピアは1564年に生まれた。なぜなら、その年の4月に洗礼を受けたという教会の記録があるからである。彼の本当の誕生日は誰も知らない。18歳の時、8歳年上の女性と結婚したことも分かっている。彼が故郷を離れて、生活費を稼ぐためにロンドンへ行かねばならなかったことも分かっている。彼が小使い少年として、劇場に関係を持ち始めたことも想像できる十分な理由があるが、そこでの仕事は、観劇に来る人の馬の世話であった。それから後の彼の私生活についてはほとんど何も分からない。
  彼の劇は殆ど彼の死後に出版されている。その多くは日付がはっきりしない。ふたたび我々の知るところでは、彼が比較的若く亡くなったということである。しかし、彼にまつわることは、歴史の観点からは、曖昧模糊としているが、文学研究という観点からはそうでない。文学研究は心理の研究である。現代の最も偉大な心理学者たちがシェイクスピアの謎に全力を挙げて取り組んでおかげで、彼について多少知ることができる。
  彼の作品から明らかなことは、彼が - 少なくともこれらの劇を書いた人間がー とてつもない神経、膨大なエネルギー、恐るべき感受性、細やかな共感力、つまり、比類のなく高度の精神力をすべて持っていることである。彼は自分の力量を知らずに、性急に本能の赴くままに仕事をしたに違いない。自分や公共の責務以上のことを為しているとは夢にも思っていなかった。最後に、偉大な力の持ち主だが、その力を働きすぎて使い果たし、そのため、普通の人なら人生の全盛期というべき年齢で亡くなっている。そして、以上がすべてである。

  300年ほど前に、このようになされた業績については、
 かなりの分量の詩と37の劇 がある。ー 偽書には触れない ー 
  詩には、1つのSonnets集、2つの長編叙事詩(Venus and adonisThe Rape of Lucrece)、それに、幅広い分野の雑詩で、短い抒情詩から、例えばThe Passionate Pilgrimのように抒情的且つ瞑想的で分類が難しい創作物に及ぶ。
   詩について一言。
Sonnetsは、その詩形はイギリス全ソネットのなかで最高で、
The Passionate Pilgrimは英語で書かれてこの種のものうち、これも最高である。抒情詩は未だこれを超えるものがない。
シェイクスピアは、どの分野に向かっても、誰もなしえなかった作品を作った。

    2020・4・2
 

  
   4.  さて、これから、37ある劇作品のことを話そう。このテーマを正当に扱うには特別のコースが必要で、その講義には少なくとも1年は必要である。このコースでは、我々の考察はとても短くしなけれならない。シェイクスピアが、どれ程偉大なのか?なぜ偉大なのか?そして、他の人間を上回る彼の精神(mind and heart)の特質は何か?これらを私は可能な限り手短に述べざるをえない。

5. シェイクスピアの作品が、他の演劇作品と比べ気付く、傑出した特質の第一life(生命)である。シェイクスピアでは人物が、他のどんなドラマのどんな人物よりも、遥かに濃密に生き(live)ている。我々は彼らを見、聞き ー 愛したり、憎んだり ー 彼らを笑いたり、共に泣いたりするーあたかも彼らが生きた人間(real people)のようである。彼らは生きた人間なのだ。その点疑問の余地はない。彼らは肉や血と同じ生(real)である。

  シェイクスピアの人物が、他の劇作家のいかなる登場人物と区別さるべき第二の特質は、彼らが極めて個性的(individual)だということである。彼らは単に生きているのではなく、個性的に生き、個として生きているのである。
即ち、彼らは類型(types)ではない。類型的人物(type-character)は完全には生きることはできない。絵画や彫刻がある類型を表すと同程度に、それもまた普遍性(general)も持つが、特殊性、個性を持たない。
我々が、良いタイプが描かれるのを好み、農民、兵士、役人、牧師を巧みに描いている絵を褒めるのには理由がある、それは、我々が理解できるからである。だがしかし、類型的な絵は真に生きることはできないことを忘れてはならない。
  それ(*シェイクスピアの人物)はあなたの知っている誰かととてもよく似ている ー しかしそれは別人で ー全くの同一人物ではない。もしそれが同一人物なら、あなたは笑わない。それはあなたを驚かすだろう。 記憶の再現に驚くあまりに、人物が話したり歩いたり -個人として息遣いしているのに恐れを抱くだろう。シェイクスピアの人物は類型ではなく、まさしくこんな種類の驚くべきリアリティーなのである。そういう人物が数百いるのである。
    2020・4・3
 

  
   6. 一つの劇に10人から20人の登場人物を持つ37の劇、そして、それら人物のそれぞれが完全に異なった創造物である。 -これが何を意味するか想像して見なさい。現代演劇はみな、極々まれに、天才的偉人の作品を除いては、真に生きた人物を含んだ劇ではない。つまり、その人物たちは単なる類型、理念、想像であって、多かれ少なかれ、現実の生きたもの(actual life)とは異なる。シェイクスピアにあってはその手の人物はいない。このことは2度や3度読んだくらいでは理解できないだろう。- 君たちが若い間はそれが分からない。- シェイクスピアに関するこれまで最高の論評の一つはハックスレー教授のものである。即ち;「誰も年老いるまではシェイクスピアを完全には理解できない」 世の人がシェイクスピアについてのこの驚くべき事実を発見するまでに300年近く要した。- 彼の想像力に関するこの事実、それは、神々に属する力に匹敵するもので、彼が「神聖な者」(the"divine")と呼ばれてきたのも正しい。

7. シェイクスピアの作品に関して思い起こすべき第三の点は、彼は全く同じ種類の人物を二度と用いていないことである。彼の人物の誰もが特別な創造物である。彼の女性は誰一人似た者はいない ー 他と大きく異なる者もいるし、少し異なる者もいるが。
Twelfth Nightのヴァイオラという人物とイモ―ジェン(*Cymbelineに登場する女性)いう人物は、表面的には少し似ているが、よく調べて見ると全く異なっていることが分かるだろう。唯一似ている点は、少女期の内気とやさしさが、自然の事実として表れている箇所である。子供の声は、知らない者の耳には一瞬とてもよく似ていると響くかもしれないが、すぐに、声色で差異が分かる。
  シェイクスピアの多芸さを最もよく示す事例は同じ種類(fashion)のことを二つの異なった環境の下で取り扱う時である。例えば、- Othelloの嫉妬の事例を取り上げよう。この嫉妬は、その人を軽蔑させたり、嫌悪させたりする種類のものではなく、完全に自然な嫉妬であり、彼は無意識にその犠牲になったのである。そして、彼は最初から終わりまで我々から同情されている。
  しかし、Winter's taleの王(*レオンテス)の事例を考えてみよう。- ここには最初からこの王を憎みたくなるような嫉妬がある。それは生来の意地悪く疑い深い性質で ー 驚くべき残忍さも恐るべき感情の激変も起こりうる。この男が、ある時は、子供と戯れ、少年をかわいがり、愛情を込めて抱きしめるが、次の瞬間、この子が自分の子でないかも知れないと疑うと、獰猛な殺人者のなる可能性があると我々は見る。彼は殺さないが、殺す以上のことをやってのけるのではと思う。彼の友情は敵意よりもっと危険である人物である。我々は彼を怖れかつ嫌うが、根本的な見方をすれば、それはオセロの嫉妬と同じ激情(passion)であり、我々はオセロの方はどんな環境にあっても愛し、信じるだろう。その違いは、激情が荒れ狂った場合の脳の差によって作られる。
   2020・4・4
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ローレンス・オリヴィエ扮するオセロ