マルティン・ブーバー

  Martin Buber(1878-1965)
 Topへ
    
 マルティン・ブーバーとの出会いは、英語には相手を呼ぶ代名詞にThouとYouがあったのに、いつの間にかThouが消えてしまった、といったことが糸口になって、いつの間にか、ブーバーへと向かったのですが、その時のことは

「甘え」と祈り(2)
「甘え」と祈り(3) 

に書いてあります。


Ich und Du  初版1923年
           1957年版?で読む。
  
 
  野口慊三さんとドイツ語原書Ich und Duを2020年6月15日から読み始め2年以上経ちました。毎週1時間、1頁の割りで進み、今日現在99頁まで進んでいます。

  思いつくまま、少し痕跡を残しておきたいと思います。自分のブーバー理解を深めるためですが、初学者には多少役立つと思います。

  以下翻訳を引用する時は
 日本語は岩波文庫版『我と汝』植田重雄訳(1979)、英語はI and Thou Walter Kafmann(1970)を用います。

   2022・7・7


  
  〔Ⅰ〕 『我と汝』はこんな風に始まります

   「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。
人間の態度は人間が語る根源語(Grund Wort、bacic word)の二重性にもとづいて、二つとなる。根源語とは、単独語ではなく、対応語(Wortpaar,word pair)である。
根源語の一つは<われ―なんじIch-Du , I-You>の対応語である。
他の根源語は<われーそれ Ich-Es, I-It>の対応語である。
」(p7)

  この二つは<われ>より先行してあり、<われ>は単独では存在しないのでので根源語である。

  私は、こんな考えにそれまで出会ったことがないので驚くと共に惹かれていった。

  <われ―なんじ>の世界<われーそれ>の世界を色々な表現を用いて展開するのである。

    2022・7・7
 

  
   〔2〕根源語というけれど、これを言葉と理解すると誤まるかもしれない。
  世界に対する二つの態度といった方が良いと思う。

  私(Ich)が単独では存在せず、あなた、それ、といった時に初めて私という者があるというのがブーバーの考えである。

 デカルトの「われ思うゆえにわれあり」が示すように、多くの思考の原点が、私、自分、自我といったものにおく、普通の考えと異なる。

 <われーそれ>の世界は、普通、私たちが、見たり、触ったり、経験したりしている世界だと思ってよい。自然科学が対象としているのも、この世界である。

 分かりにくいのは<われ―なんじ>の世界の世界で、これが分らないと、ブーバーは分らない

  経験される対象の世界は、根源語<われーそれ>に属し、根源語<われ―なんじ>は関係(Beziehung, relation)
の世界を成り立たせている。
(p11)。

  2022・7・16
 
Martin Buber(1878-1965)

  
   〔3}関係の世界をつくっている領域は3つ。
 第一:自然と交わる生活
 第二:人間と人間の交わる生活
 第三:精神的存在と交わる生活

 それぞれの領域において、現存しながら生成する存在者をとおして、永遠の<なんじ>の裳裾をかいま見、息吹きを感じとり、語りかける。

私は一本の樹木を見つめる。形状、運動、種類、法則・・・色々な要素を見るかもしれないが、「もしみずからの意志と他からの恵みによって、この樹木を見つめている時、わたしが、樹木との関係の中にひき入れられるということも起こりうる。この場合、樹木はもはや<それ>ではない。独占の力が私を捉えたのである。」
(p13~)

 この喩えが分らないと、ブーバーは分らない。

  <なんじ>との関係は直接的である。
   関係は相互的である。

  2022・7・19
 
マンション建て替えのため仮住まいした目黒のマンションからの窓から見えた樹。

  
   〔4〕樹を見つめることによって<Ich-Duわれ―なんじ>の関係に入るのは、〔3〕の第一のケースであるが、これについて、700年前の中国の話に面白ものがある。

  宇宙の原理である理は、勿論、物にも現れているのであって、それを極めることによって知に至る(格物至知)と説く、 朱熹(1130ー1200)の説に従って、王陽明(1472-1528)は、友たちともども、庭の竹の理を知ろうと、眺めたが埒開かず、精神を病むに至った。(これは、中島隆博『中国哲学史』に出ていたのであるが、このエピソードは他でも読んだ気がする。)

  ブーバーがこの時点で、世界(宇宙)は何でできているかについては触れていない。

 
  2022・7・21

これも大変誤解を生みそうな喩えであるが、
 <われーそれ>の世界は言語、理論、分析の力に富む左脳の世界。<われ―なんじ>の世界は直観、感覚的な右脳の世界と対比することもできる。
  脳卒中で左脳を麻痺した脳科学者ジル・ボルト・テーラーの『奇蹟の脳』には、右脳だけの世界をかいま見させてくれる。世界と一体化する様子も描く。

  2023・2・6
 
世界が何でできているか?

これには、神話、宗教、哲学、物理学、・・・様々な説があります。

 朱熹の場合は、太極(理)から始まり陰陽(気)が生じたとする。

  ライプニッツ(1646-1716)がこの考えに理解を示したことが上記中島隆博本に見えるし、狩野直喜『中国哲学史』でライプニッツに言及している。

  ヨハネ福音書は冒頭に「はじめに言葉(logos)あり」とする。神=ロゴス=理とすれば、朱熹との距離は近い。

物理学者の考えは面白いのですが、追うのが大変です。わたしはカルロ・ロヴェッリの本を楽しんでいます。

般若心経の場合は「空」

  
   〔5〕Ich-ESの世界は、我々が通常、これが世界だと考えているもので、理解しやすいが、Ich-Duの世界は、分かりにくい。

  読者からも多く疑問が出されていたようで、Ich und Du 『我と汝』Nachwortあとがきにそれに対するブーバーの答えが書いてあるが、それを読んでも分らない人が多いと思う。

 当面、我々が住んでいると思っている世界以外に、Ich-Du<われ・なんじ>の別の世界があると思うことが出来ればそれでよい。

 そう思うためには、勿論努力も必要だが、啓示とか恩寵といった恵みにあずからなければならない。


   2023・2・5
 
 根源語
 <われ・それ>
根源語
<われ・なんじ >
 <われ>は個的存在としてあらわれ、(経験と利用)の(主観)として、自己を意識する。  <われ>は人格的存在として現れ(依属す属かくなしに)(主体)として自己を意識する。
 他の個的存在から自己を分離させることによって。特質の相違をあらわす。  他の人格的存在関係に入ることによって、あきらかにする。
 分離の目的は経験と利用のためで、(生活)つまり、人間らしい生涯を死ぬことにある。  関係の目的は、関係すること自体にある。さまざまな<なんじ>と交わることによって、<なんじ>のいぶき、永遠の生命のいぶきに触れることである。
植田重雄訳p80 より

  
   〔6〕会読総括

 2020・6・17~2023・2・28
   火曜日9時50~10時 zoomによる 
   130頁を118回
  2020年28回
  2021年40回
  2022年44回
  2023年 6回

  無料のzoomは40分で切れるので、野口さんが前半、私が後半の予約して於いて、中ほどで切り替えてた。
何の支障も感じられなかった。 

1センテンス毎の交代して訳して行った。一回に約1頁

コロナで巣篭もり状態の中、週一回の会読は、生活のリズムを刻むのに良かった。
 ブーバーのドイツ語

正直、極めて難しかった。
数行理解するのに(訳すのに)数時間もかかることが珍しくなかった。(和訳、英訳を参考にしても)

ドイツ語の単語を殆ど忘れているので、逐一辞書を引いた。
すぐ忘れるので、何度も同じ単語を引いた。
辞書は、The Pocket Oxford German Dictionary

野口さんとはこれまでドイツ語では「グリム」「エミリールと探偵」「モモ」を読んで来たが、今回は、全く質が異なり、ドイツ語の構文も複雑、内容も抽象的で高度であった。

日本語の翻訳を読んでも、理解するのに骨が折れるのではないか。

一人では、この難解な書を読み通すことは出来なかったと思う。野口さんという優れて同行者のお陰である。

  
   〔7〕読書まとめ

 2年半、118回もかけて、この本を読んで、どうだったのか?、と問う知れない。

 私は、山登りと同じで、良き同行者を得て、高い山を登ったのと同様、面白かった、と言う。

 そのこと自体が、目的で、面白いので、何を得たのか、はさして問題ではない。

 では、お前は、ブーバーをどう見るのか?と問われるなら、少しは、感想を述べなければならないだろう。。

 〇デカルトの「我思うゆえに我あり」でも示すように、近代の思惟は、我を中心すえ、その我を取り巻くものを客観的に<それ>を見ようとする。その思考パターンは、驚くほど、徹底していて、さらに、自然科学の発達で、ゆるぎない信念ともなってる。<それ>は確実に存在し、我も同様である。

 〇ブーバーは我以前に、<我・それ><我・汝>というものが、まずあって、これを根源語Grundwortとして、論を進めるのである。

 〇我々の通常の思惟、世界に対する態度は、通常、<我・それ>によってなされ、これによって経験したり、利用したりするのである。

 〇ブーバーのもうひとつの考えは、<我・汝>という根源語の世界で、我と汝は無条件に結びついた世界で、汝の究極は神ということである。

 〇スピリチュアルの世界に親しんだ者には、受け入れられやすく、本書は延々とこの<我・汝>の世界を説くのであるが、これが、本書の内容である。

 〇著者のあとがきの最後の最後に、神の特質について
触れる。
  神の無限にある属性について、スピノザのいう、自然的属性、精神的属性のに加えて人格的属性を加えたいという。この人格性を人間は直接認識できると。

 〇私はブーバーに出会ったのは、「甘え」と祈りを追及しているうちに出会ったので、ブ―バーが最後の人格神として神を取り上げていて、祈りは神への甘えであるとするスタートに回帰したことになることになった。

 〇ブーバーの中に埋もれている我Ichの正体をこれから追うことになる。

  2023・2・5
私の知る限り、どんな神話も神を人格的に捉えている。

人格的という概念は、唯物的な近代的思考の中で、最も受け入れられにくい概念かも知れない。

信仰の世界へ入る。


実生活に於ける<われ・なんじ>の世界の姿として、「対話」が挙げられる。

岩波文庫には『対話』が納められているのでこれから参究することになる。。

  
  〔8〕ブーバー原著、野口啓祐訳
   『孤独と愛  ー我と汝の問題
     創文社 初版1958年 35刷 1973年』


  私はこの本を殆ど参照しなかった。
  理由は、原書のタイトルを勝手に改変する訳者を私は好まない。ブーバーのこの本を要約すると訳者は「孤独と愛」に行き付くと考えてのことであろうが、越権行為に見える。(原著の了解の下に為されたのであろうか?)
  もう一つの理由は、和訳を2冊も参照すると、翻訳比較に興味が行きがちで、原書を読む妨げになるからである。

  翻訳でブーバーを読む人には、岩波文庫、植田重雄訳をお勧めする。なぜなら、野口啓祐訳には、大変重要な原著者の長いあとがきNachwortが訳されていないkらでる。

  訳文の正確さについて、素人が云々するのは憚れるが、ランダムに取り上げた個所を較べると、野口訳はブーバーをちゃんと理解していないのではないかと、疑いたくなる。

例:第3部冒頭
 (訳者が勝手に「永遠のなんじ」という題を付けている)
  なお、野口啓祐訳では、われ、なんじ、それ、には横に点が付けられている。ここではゴシック体にした。

野口啓祐訳
われなんじの関係を無限に延長すれば、われは永遠のなんじと出会う。
あらゆる個々のなんじは、永遠のなんじを垣間見させる窓ともいえよう。こうした個々のなんじを通じて、われは永遠のなんじに呼びかける。


植田重雄訳
さまざまの関係を延長した線は、永遠の<なんじ>の中で交わる。それぞれ個々の<なんじ>は、永遠の<なんじ>へのかいま見る窓のすぎない。それぞれの個々の<なんじ>を通して根源語は、永遠の<なんじ>に呼びかける。

原文:
Die verlängerten Linien der Beziehungen schneiden sich im ewigen Du.
Jedes geeinzelte Du ist ein Durchblick zu ihm. Durch jedes geeinzelte Du spricht das Grundwort das ewige an.


Walter Kaifmann 英訳
EXTENDED,the lines of relationships intersect in the eternal You.
Every single You ia a glimps of that. Through every single You the basic word adresses the eternal You.

  この本で、ブーバーの根本思想は、<我・汝Ich-Du><我・それ Ich-Es>を根源語として、話を進めているのであって、勝手に、われとなんじを分離してしまっている野口訳はブーバーの考えを無視した訳としか言いようがない。[1]参照

  野口啓祐訳で講談社学術文庫で『我と汝』という本が出ているが、『孤独と愛』の改訳かもしれないが、確かめていない。

    2023・2・6
 

  
   [9] 田口義弘訳『我と汝・対話
    1978年 みすず書房

 訳者のあとがきを読みたくて借りだした。私の理解とは齟齬はなかった。

  原著者による後書きも付いているし、訳文も読みやすそう。

  参考までに、第3部冒頭の部分を写しておきます。

もろもろの関係の延長線は永遠の汝において交わる。
あらゆる個々の汝は永遠の汝がそれを通して望み見られる一つの狭間である。あらゆる個々の我を通して、あの根元語は永遠の汝に語りかけるのである。

 (原文は汝の横に点(゛)が打たれている。)

  2023・2・7