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   マルティン・ブ―バー
カール・ロジャース
歎異抄
 

  
 

「甘え」と祈り (9)マルティン・ブ―バー
「甘え」と祈りの関連を追っているうちに、マルティン・ブ―バーの『我と汝』へと導かれていった。
失ったものを、失ったことも気づかなくなっている者には、ブーバーの説は、馴染みにくく、まるで未知の街に迷い込んだようであったが、大きな刺激を受けた。
我があって、それ以外のものを我とは独立のものと見る世界、「我ーそれ」の世界に、我々は住んでいて、「我―汝」の世界を忘れてしまっているのである。「我―汝」の汝の最大のものは神であるが、神以外にも多く失っているのである。
  少し視点が違うがマックス・ピカートの『騒音とアトム化の世界』で描き出された世界と重なるところが多い。そこからどう抜け出すか?共にユダヤ人であることも興味深い。ブーバーの方がより哲学的に構造を持っているように思える。
『我と汝』を植田重雄訳(岩波文庫)で読み、わからない所を、田口義弘訳(みすず書房)を見ると、少し表現が異なり、Kaufmannの英訳はどうかと手繰り寄せるが、隔靴掻痒の感がある。二人称親称のDuに対応する言葉がなく、訳者がみな翻訳が難しいと言っているので、フーバーを正確に読もうとすると、ドイツ語原文をひもどかなければならない。原書を取り寄せているのだ、何故かなかなか来ない。
ブ―バーの『我と汝』は1923年出版以来、多くの人影響を与え、日本でも1950年代後半から70年代にかけて、多くの読書人の関心を集めたらしい。
野口啓祐訳『孤独と愛』創文社1958年は、”Ich und Du”の早い時期の翻訳であるが、タイトルを変えているので気づかなかった。本書のエッセンスを孤独と愛と見なしてのことだろうが、訳者が勝手に?このように改変をしてよいもだろうか?孤独も愛も本書に無関係ではないが・・・売らんための改変のようで、悲しい。(映画ではよくあることだが)

 
 

  
   
「甘え」と祈り (10) マルティン・ブ―バーその2
デカルトの「我思うゆえに我あり」で示すように,近代の思惟の中心は「我」であった。カント、実存哲学・・・フロイト、C.G.ユング・・・いずれも、我、自我、エゴ、自己、self、個人、といったものを中心に論じているのであり、その「我」は個人の自由と独立という形で社会的に保障されて行った。その「我」を取り巻く事物を科学的に探究し、多くの成果を挙げて行き、もう誰も「我」の存在を疑うもの無くなってしまった。ブーバーのユニークなところは、この「我」ではなく、<我汝><我それ>という、複合語を、根源語として、それを思惟の出発点に置くのである。「我」が最初からあるのではない。
 こんな考えは、私には初めてで驚いてしまった。
私の前に一本の木がある。それを形、色、動き、種類、性質、用途など目的物として見るときは、<我それ>の<それ>であるが、ある瞬間、私と木とが一体化した関係に入る。これが<我汝>の<汝>であると言う。後者はちょっとわかりにくい。この<我汝>は、私の知見では、西田幾多郎の純粋体験に近いが、ブーバーは経験する世界は<我それ>に属するという。原文で100頁以上かけて書いていることを私は要約する力はない。松岡正剛は「千夜千冊」https://1000ya.isis.ne.jp/0588.html で紹介しているが、私には、原文の方が易しいように思える。
ユダヤ神秘思想とでもいうのであろうか、禅の語録を読むようで、容易には咀嚼できないが、一種の二元論は面白く、次第に惹かれていった。今は枕頭の書になって、寝る前に1,2ページ読むようになった。私の中にユダヤの血が流れているのかも???
 

  
   
「甘え」と祈り (11) マルティン・ブ―バーその3
   ブーバーの思想に触れてまだ日が浅いのに、彼の考えが、現実の世界でどんな形で用いられているか気になる。私が俗物である証拠である。
   カウンセリングの世界で有名なカール・ロジャースとブーバーとの対話が目に付いて、早速読んでみた。
『ブーバー・ロジャーズ対話 -解説つき新版』ロブ・アンダーソン+ケネス・k・シスナ編著。 山田邦男他訳 春秋社2007 
  ロジャーズは、ブーバーに傾倒しているようで、自分のカウンセリングの方法がブーバーの我・汝の哲学から見てどうなのかを知りたいことがわかる。カウンセラーとクライアントの間に我汝の関係が形成されると、人間の本来持っている力で治癒がなされるというのがロジャースの考えである。それに対して、ブーバーは反対している訳ではないが、カウンセラーとクライアントの相互性は平等ではないこと、パラノイアや総合失調症の事例を取り上げて、カウンセリングの限界のようなものを探り、自分のいう我汝の関係とロジャーズの考えとの差異を述べている。ロジャーズの立場は心理的であるが、ブーバーの立場(我汝)は表現する言葉はなく、実存的なものであると?
  ロジャーズは、多くのセラピーの体験から、「人間性は本当に信頼しうるもの」であり、肯定的なものへの動機づけをしなくても、人は建設的になりうる。それに対して、ブーバーは、自分が出会うのは「両極性をもった現実」で、両極の間の関係を彼が変えるように援助することである。対象を「人格」と見るか、「個人」と見るか、それが「容認」か「確認」かとか難しい議論が続く。浄土真宗と禅宗の高僧の対談のようで、両者の考えが同じようでもあり、違うようでもある。面白いが、私には判然としない。 (本書は、1957年ミシガン大学で行われた対談に厳密なな校正を施されたもので、相槌も沈黙の秒数も記録されており、詳しい注解が対談に上回る量付せられている。私は対談の部分のみを読んだ。
   高度に専門的な本で、ロジャーズ(非指示的療法、来談者中心療法)やブーバー(我汝)の予備知識がないと読めないと思う。
 

  
           唯円 『歎異抄


  南無阿弥陀仏と名号を唱えれば済度される。これを祈りに含めるのは異論がありそうだが、阿弥陀様の愛を信じそれに甘え切ることである。純一に信じ、名号を唱える以外に何も必要がない。

「、弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をとぐるなりと信じて、念仏をもうさんとおもいたつこゝろのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたもふなり。」(歎異抄)

  弥陀の誓願(本願)
たとひ、われ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。 もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ、五逆と誹謗正法とをば除く。」(仏説無量寿経)

 問題は、赤子のように無条件にこれを信じることが出来ないいことである。
阿弥陀様、お釈迦様、法然上人、親鸞・・・のいうことも素直に聴けなくなっている。

  信心、信仰の問題である。

  親鸞のように「地獄は一定のすみか」というほど絶望感を味あうことなく、その中間にあって、中途半端な我々が、いかに信心を得るか?

  信心を得ることは自力では出来ない。不思議な力が働かなければ得ることは出来ない。
  宗教は色々な形でそれを促すための方法を示しているのだが・・・・

     2022・1・4