般若心経      2へ  Topへ
 
  お経の中のお経と言われる『般若心経』は長年、言語的にも、思想的にも検討され、万巻の書の蓄積があり、今では、Web上にも無数にある世界です。 私のような未熟者が軽々に触れるべきではないかも知れませんが、私の心の遍歴の一つとして、思いも残しておきたいという気持ちで、この頁を作りました。

   涌井和『般若心経を梵語原典で読んでみる』は般若心経の言語的理解にはとても役立ちます。私のサンスクリット原文の理解はもっぱらこの本に拠っています。

  
   般若心経」は、今、日本語の本で読もうと思えば、何十冊もあります。
  上記涌井和氏の本を通過すれば、岩波文庫の『般若心経 金剛般若経』の注釈も理解出来るようになります。しかし、これは、文字の上のことです。

  もし、あなたが、文字を通じて「般若心経」を理解しようと思っているのなら、(私もかつてはそうでしたが)それは達成されることはない。この経が分かるには、覚醒、回心、悟りということを経ないと絶対に分からないと思います。
  先人の多くは、そのために心身を賭して励んだのです。目に見える姿としては、禅宗の修行僧を思い浮かべればよい。経文読んで悟れるならこんな楽なことはありません。写経やマントラとして唱えるのもその修行の一つとなりますが・・・。
  「般若心経」の本当の意味が分ったという人の本も沢山あります。耳を傾けるのは悪くありませんが、文字にとらわれていては、本当の意味には到達できません。
  結局は、「無師独悟」、即ち、自分自身で掴み取らなければならならない世界です。
  しかし、掴み取ろうとしても得られるものではないが、そうしないとまた得られない世界といった方が良いのかもしれません。

  これは、「般若心経」を言葉で理解しようとする若者へお伝えしたいことです。
      2021・12・11(改2022・2・20)
      
 

  
   野口慊三さんからの寄稿

これから般若心経を読もうとする人へ

  皆さんは、仮想現実(バーチャル・リアリティ)を体験できるレジャー施設にあそびにいかれたことはありませんか。私自身は行ったことはありませんが、知り合いの大学生が経験した話を聞くと、ゴーグルの中に、自分がビルの屋上の端に立っている状況が映し出されると、頭では、これは現実ではないとわかっていても、足がすくむそうですよ。   

  今から40年ほど前、私は、ある企業の研究所で、当時始まったばかりの仮想現実の研究部隊の責任者をしていました。部下が研究計画を持ってきた時に、それを許可するかどうかを決めるのが私の仕事です。当時の研究は視覚の研究が主でした。私は部下の研究計画が視覚ばかりに偏っているのに不満を抱いていました。そしてある時、こういうことを考えたのです。  

 目にゴーグルを被せて、その中に異世界の景色を映し出します。右を向けば右側の景色が見え、左を向けば左側の景色が見える・・・頭の運動と見える景色が連動することによって、人間は自分がその異世界に入り込んでいるように錯覚するわけです。(これはその当時行われていた研究の内容です)  

 けれども、いくら視覚だけを騙しても、例えば目の前に映し出された木に手を伸ばした時、そこに何もなかったらすぐにそれは嘘だとわかってしまいます。けれども、この時、伸ばした指先に、木に触ったようなニセの感覚を与えてやったら、どうなるだろう・・・そこまで考えた時、私は思わず身震いしました。 もし肉体の持つ全ての感覚に偽の感覚を与えてやったら、人間はそれを現実の世界だと思い込むに違いない。

  皆さん、そう思いませんか。

  般若心経を読むとき、バーチャル・リアリティのことを頭に置いておいてください。現代は、2000年前よりはるかに般若心経を理解しやすい環境にあると、私は思っています。


宮垣追記
     
     野口慊三さんのホームぺーjジ
     野口さんの般若心経訳      http://thedaybreak.web.fc2.com/SpA12.html

  2021・12・13


 ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』四章では:
トゥィードルディーに、アリスは王様の夢の中だけに存在すぎない存在で王様が目を覚ませば、アリスは消えてしまうと言われて、アリスは泣き出します。

アリスだけでなく皆バーチャルなものとされています。

ジョン・テニエルの挿絵 赤の王様が夢を見ている所。

   2022・2・20
右の野口慊三さんのお考えについての
   私の考え

般若心経の中心をなす、「色即是空」についての理解のしかたとして、バーチャル・リアリティーを持ち出された事には何ら抵抗はありませんが、我々の世界()が、仮想であって実体がない()であるというのが、般若心経の教えだと考えるなら、私の考えとは異なります。

 かって野口さんと対話
自分を探すアリス ―アリスとチェシャ猫との対話」で触れています。

私はそこでは、一なる零、仏性、と表現していますが、存在するものの究極の存在(仏や神と呼んでもよい)を指しています。

  ご興味があれば下記をご覧ください
www.alice-it.com/noguchi/alicecat64.html
www.alice-it.com/noguchi/alicecat65.html
www.alice-it.com/noguchi/alicecat66.html










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空についての 中村元の説(岩波文庫版21頁)

空 ー 原語シューニヤター(śūnyatā)の訳。「なにもない状態」というのが原意である。これはまたインド数学ではゼロ(零)を意味する。
物質的存在はお互いに関係し合いつつ変化しているのであるから、現象としてあっても、実態として、主体として、自性としては、捉えるべきものがない。これを空という。
しかし、物質的現象の中にあってこの空性を体得すれば、根本的主体として生きられるという。この境地は空の人生観、空観の究極である


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   般若心経の私の読み方 その1 について

  この経を一口で言うと:

観自在菩薩が般若波羅蜜多の状態で、五蘊存在するもの)はみなであると悟って一切の苦厄を救済した。
以下そのことを舎利子に向かって説いた。

これに尽きます。

右記お経での部分が①存在するものであり、それであり、②存在するものである。ということをこの経は説いています。
①②を玄奘訳では2度ですが、原文では3度繰り返しています。

①はを「何もない状態」と理解するとバーチャル・リアリティーの例えでもよくわかりますが、②理解できません。そのために、についての色んな説も出てきますし、総てが空っぽだとして、それが救済に繋がるとは考えにくいのです。総てが空だから諦めなさいということでしょうか?

自分を探すアリス ―アリスとチェシャ猫との対話
では、私は
    五蘊=空=0=∞=霊=私

といっていますが、根源的存在を仏と呼んでも、神と呼んでも構わないのですが、をそのようなものと理解します。
これは、直覚のようなもので理由は説明できません。

  「一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易」

これは涅槃経の言葉ですが、はここでいう仏性です。
  私はこれを「すべてのものは、仏性である。如来そのものである。」と読むのである。

  をそのようなものとすると、一切のものはの一部で、金太郎飴のようにどこを切っても空(仏性)なります。

私のこのような考えはどこから来たのかよくわかりませんが、日本人の持つアミニズム的感性、梵我一如という古いインドの思想、仏教の如来蔵、易経の太極・・・が私の中で発酵したのでしょう。

   山路来て何やらゆかしすみれ草  芭蕉

これも空の一部と見るのです。
 玄奘三蔵による漢訳般若心経全文

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊。度一切苦厄。

舎利子。不異不異即是即是受想行識亦復如是。

舎利子。是諸法相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。

是故中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。

亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罜礙。無罜礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。

三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。

故知。般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多呪。

即説呪曰。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。

般若心経

   
 
   般若心経の私の読み方 その2

上のように読むと後半の
是故中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。

は何だということになりますが、これは哲学的分析にも長けた知恵第一の舎利子シャーリプトラに向かって、本来そのようなものはないよ。それは人間がかってに作っものだと言っているのだと思います。なぜなら、
諸法相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
だからです。

この事を、菩薩は
般若波羅蜜多によって悟ったので、心にわだかまりがなくなり、そのために恐れがなくなり、一切の妄想を断ち切って、涅槃の境地に達したのである。

般若波羅蜜多故。菩提薩埵。心無罜礙。無罜礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。

同様三世諸仏も無上の正覚に到達した。

三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。

玄奘の始の方に出てくる「度一切苦厄」は原文にはないのですが、ここまでくると、玄奘の挿入が問題ないことが分かります。

 この経が 般若波羅蜜多心経だということは、原文では最後にあるのですが、玄奘はお経に題目にしたのです。

  核心は般若波羅蜜多とは何かということになります。

    2022・2・22
 
般若波羅蜜多はサンスクリットでは
prajñā-pāramitā パンニャーパラミター

訳語例:
マックス・ミューラー:perfection of wisdom
中村元・紀野一義:智慧の完成
渡辺照宏:英知の完成
金岡秀友:智慧の救い
  以上、涌井和本より

野口慊三:超越意識

   
   
 
   般若心経の私の読み方 その3 般若波羅蜜多

般若心経に小本大本があり、通常読まれているのは小本ですが、大本には、この経の書かれた状況がよくわかるようになっています。
構造を簡単に書いておきます。

①記者  私はこのように聞いた。(如是我聞)

②釈尊が ある日、多くの修行僧、求道者と共に、霊鷲山におられて、瞑想に入られた。
③その中の一人観世音菩薩も般若波羅蜜多に入っていた。

④その時、舎利子が観世音菩薩にい聞いた。
  「もし求道者が般若波羅蜜多を実践したいと願うときは、どのように学んんだら、良いでしょうか」と聞く。

⑤観世音菩薩は答えられた。 
   小本の中で3度、舎利子と呼んでいるのはそのためです。
   内容は小本と同じ

⑥釈尊は瞑想から起き、観世音菩薩の言葉を賞賛され、「全くその通りだ。般若波羅蜜多を実践する時はそうしなければならない。」喜びに満ちた心でこういわれた。

⑦舎利子、観世音菩薩はじめ、集まっていた者は皆、釈尊の言葉を聞き歓喜した。

つまり、般若心経(小本)は
般若波羅蜜の方法を説いたお経ということになります。仏教各宗派が浄土真宗を除いて、すべてこの経を唱える理由もわかります。

般若波羅蜜多、つまり、智慧の完成は①すべてのものは空である。②空がすべてのものである。と悟ることである。ということになります。

  空の中身は私は、根源的存在(神、仏、呼び方は何でもよい)と考えているのですが、野口さんのように幻(まぼろし、illusion)と見る読み方、悟り方も十分成り立つと思っています。その場合、まぼろしを見ているのは何者かということに気付く必要があります。そこへ導入するためのお経という捉え方は十分理解できます。

http://thedaybreak.web.fc2.com/SpA12.html

に丁寧に書かれています。

  2022・2・26
   大本については、涌井和本にはのサンスクリットの原文、注と4種の漢訳本の訳語が出ています。

岩波文庫版ではサンスクリット原文と和訳が出ています。
 
 
  般若心経の私の読み方 その4  マントラ・真言

 小本の終わりの部分の私の読み方は次の通りです。
     ー------
  この経の全体が 般若波羅蜜多で、それはそのままマントラです。大いなるマントラ、無上のマントラ、無比のマントラ。よく一切の苦を除き、真実の般若波羅蜜多を説いているのです。

 ですから、そこに至った者たちよ、その智慧に幸あれ。

これが、般若波羅蜜多の核心である。
    ー----ー-

   多くの和訳は般若波羅蜜多を形容詞的に捉え、例えば、岩波文庫版では「智慧の完成大いなる真言、大いなる悟りの真言、・・・」と訳していますが、私は般若波羅蜜は主語だと理解しています。

また、最後の羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。
ギャーテー、ギャーテ・パーラギャテー・ボジ・スオバハ
はサンスクリットの音写ですが、岩波文庫版では
「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。」

サンスクリット原文は
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā.

所が、 玄奘はその前に、即説呪曰と、これを結論的マントラとしています。ここだけを音写しても、私にはピンときません。
 
  これを唱えて、般若波羅蜜多へ至るのでしょうか?

    2022・2・28

私は、般若波羅蜜多をマントラ、と考えたのですが、これは少数説です。最後の羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦もマントラと考えるべきでしょう。
  
右記の野口さんのメールを参照してください。

    2022・3・1
故知。般若波羅蜜多。 是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多呪。

即説呪曰。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。
   ー-----------

  野口慊三さんからのメール
      マントラについて


般若心経のコラム、読ませていただきました。

般若心経について、宮垣さんが宮垣さん流のやり方でアプローチされるのは素晴らしいことだと思います。私の書いたものを適宜使ってくださるのも嬉しく思っています。

記事の終わりの方に、マントラについて書かれたところがあります。そしてここだけ音写されている意味がよくわからないと書かれていましたので、マントラとは何かということについて、私の考えを述べさせていただきます。

今朝チラッとお話ししたように、私はヨガ系の瞑想を習いました。40代前半のことです。ヨガ系にあたったのは偶然です。当時私は長崎に住んでいましたが、あまり立派な書店があるわけではなく、目に入る書籍もあまりない状況の中で、たまたま目に入ったのが、ヨガ系のマハリシが当時世界に広めようとしていた超越瞑想の本でした。

Transcendental Meditation を略してTM と読んでいますが、それを習うために、当時東京出張が多かった私は、出張の期間を利用して、市ヶ尾にあったTMのセンターに実習を受けにいきました。その時に、一人一人が固有のマントラをもらいました。それを心の中に置いて、意識をそれに集中します。

また休暇をとってTMの合宿に行ったこともあります。その時、休憩時間に、ヴェーダの吟誦のテープをみんなで聞かされました。マントラも、ヴェーダも、意味はわかりません。マントラには意味はないと言われました。それは言葉ではなく音なのです。ヴェーダはサンスクリットとしては意味があるのでしょうが、私たちにはもちろんわかりません。その時に教師から言われたのが、「意味はわからなくていい。音が大事なのだ」と。

意味を理解するのは、マインドです。なまじ、意味がわかると、マインドが働き出して、日常生活モードにもどってしまいます。意味のわからない音を、マインドを眠らせたまま、響かせているのがいいのだと思います。音の響きに乗って、私たちの心の深層が、ゆっくりと反応します。

ですから、般若心経のマントラの部分だけ、音写されているのには意味があるのです。それは言葉ではないのです。音です。ですから翻訳できないし、翻訳したら音が変わってしまうので、本来のマントラではなくなってしまいます。

このマントラについて、習ったことはありませんが、一般的にいえば、マントラとしてこれを読む時は、ゆっくりと、静かに声に出して、  ギャーティーギャーティーパーラーギャーティーパーラーソーギャーティーボーディースヴァーハー
と、お坊さんになったつもりで、唱えると良いと思います。

横で線香を焚いておくと、もっと気分が出るかもしれませんよ(笑)
ご参考まで。

  2022・3・1

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   般若心経の私の読み方 その5   金剛般若経

『般若心経・金剛般若経』 岩波文庫版より

  「この『金剛経』は空の思想を説いているにもかかわらず、その中では「空」(śūnyatā)という語を用いていないのが、般若部経典としは奇異に感じられるが、それは恐らくまだ、「空」という述語が確立していない時代に成立したものであろう。」(同書198頁)
  とあるように、「」を使わないで、「空」を説くお経である。『般若心経』より読みやすい。

  多くの言説が「Aは非Aであり、だからAである」という構造を持つので戸惑うのであるが、空を表現するには止む得ない。

  般若波羅蜜多も出てこないが、代わりに、阿耨多羅三藐三菩提が多く出てきます。これはサンスクリットのanuttarāṃ  samyaksambodhim の音訳で、「この上もなく正しい覚りに向かう心」という意味です。

  求道者は<自我という思い><生きているという思い><個体という思い><個人という思い>捨てなければ、その境地に達しません。
(漢訳では我相、人相、衆生相、寿者相となっていますが、分かりにくい)

  <悩みのない永遠の平安>に至るために、お釈迦様が須菩提を相手に説いたもので、この経を「記憶し、唱え、理解し、他の人に詳しく説いて聞かせる」ことの功徳は計れ知れないという。
インド的オーバーな表現で繰り返す。

  禅の巨匠、六祖慧能がこの経の「応無所住而生其心」(まさに住する所無くして、しかもその心を生ずべし)(66頁)で悟りを開いたとされる。

    2022・3・5
 

『金剛般若経』の登場人物、空解第一と言われるスブーティ(須菩提)。
増谷文雄『ブッダ・ゴータマの弟子たち』の中の
増谷直樹による挿絵。