「甘え」と祈り 2   「甘え」と祈り 1へ   「甘え」と祈り 3へ  Topへ
     

  
   

「甘え」と祈り (4)
「主の祈りは、天にまします我らの父よ・・・と始まりますが、我らの母よ・・・と始められなかったのですか?」というビル・モイヤーの質問で
"The Power of Myth" by Joseph Campbell wth Bill Moyers Dubleday
の第6章は始まる。これに対して、ジョセフ・キャンベルの答えを大雑把に示せば、次のようになる。大河流域で発達した文明では、まず女神があったが、その後、遊牧民族、インド・ヨローッパ語族が南下し、父系優位の神話がもたらされ、創造主はFatherとなった。後にカトリックでは、マリアの神聖化で、女神への信仰も復活しているという。神々が様々な姿を示すことは、キャンベルの大著The Masks of Godでも示されている。
祈りを神への甘えとして、甘えの原型を母子関係に見る私の考えでは、神は女神である方が都合がよく、わが国でも多くの女神が活躍するが、ここでは神とは何かを扱わない。
ただ、多くの人が、何者かに、祈って来たし、現に祈っている。それを私は「甘え」と見るのである。繰り返しになるが「甘え」を悪いものとは考えない。
神社、お寺にお参りする人、夥しい絵馬、七夕の願い事、毎朝仏壇に手を合わせる人、お盆の墓参も近い。今しばらくこのテーマを追いたい。

 

  
   

「甘え」と祈り (5)

シェイクスピアの『リチャード三世』では、悪党リチャード三世が、信心深さを示すために、祈祷書を読んでいる振りをしている場面がある。祈祷書(Book of Common Prayer )に興味が湧いて、数冊集めたことがあったが、引っ越しの際、処分してしまった。
Medha Michika著『祈りの理論 & サンスクリット語の祈りのことば』は、サンスクリットの勉強になればと最近買った108頁の冊子である。前半は祈りの理論が平易に述べられており、「祈り」なんて非科学的だと思っている人にも一読の値打ちがあると思う。要約すると:
祈りは、幸せを実現するための有効な手段である。祈りは行為である。行為は必ず結果を生む。幸せをうるために努力しなければならないが、「運」というものがある。運と言っても、必ず原因があり、我々に因果関係が見えないだけである。この予測不可能な要因に働きかけるのが「祈り」である。では、誰に祈るのか、何を祈るのか、どのように祈るのかと続く。後半は祈りの詩句「シュローカ」の紹介。原文、ローマ字表記、逐語翻訳、発音上の注意で、期待した通り、サンスクリットの勉強になる。祈りの内容では、先生への祈り、文献の勉強の前にする祈り、朝起きたときの祈り、お風呂に入るときの祈り、等々。特に気に入ったのは「一日を通しての祈り」で、少々長いので冒頭と最後の部分を翻訳で示すと「吉兆である者よ!私自身は、あなた自身(シヴァ神)であり、私の心は、あなたの親密な伴侶、全ての創造の力であるギルジャーです。・・・・何であれ私のすること全ては、あなたへの敬愛と崇拝の行為なのです。」

 

  
   

「甘え」と祈り (6)

「甘え」という言葉には幼稚性が纏わりついているので困るのだが、私の理解した「甘え」とは、母子関係が象徴するように、本来は、完全な信頼関係、一体化、自他未分化の状態、何事も許される世界、「愛」と言うとまた色々なニュアンスがまとわりつくのだが、「愛」を基底とした関係を指しており、当事者間では、意識に登こともない関係・状態なのである。土居健郎も、1人称で「甘える」という言葉を使いにくいことをつとに指摘している。この絶対的関係・状態を原点として、それを離れると、これを確認したり、あるいは要求する行為が発生し、それを俗に「甘える」という事態が生じるのである。母子一体の世界から、幼児が自分というもの作り始める頃の状態である。意識されると、それは甘美な感情に包まれるが、言語では表現することはできない。土居の「非言語的コミュニケーション」にはこのことを含意するかもしれない。この方向を、親、兄弟、親族、所属する様々なグループ、国家、民族、人類・・・拡大していくのであるが、これは「甘え」と許される程度、濃度が薄くなって行く。ここで現れるのが「愛」の変形としての「贈り物」なのである。「贈り物」は本来、無償の行為で「愛」の一つの姿のだが、愛を擬制するにためにも使われる。ここで贈与の世界が登場する。その後のことを含めて私流に図式化すれば次のようになる。
愛-愛の変形・擬制ー愛からの自由-愛からの逃走ーアンチ愛ー愛への復帰
甘えー贈答ー交換ー売買ー詐取・略奪・テロー祈り
(写真:8世紀アイルランドのケルズ修道院で作られた『ケルズの書』より。
この聖母子像はちょっと稚拙でイエスが子供らしく描かれていません。しかし、イエスは愛というものを聖母の膝の上で感受したに違いありません。)

 

  
   

「甘え」と祈り (7)

シェイクスピアの時代には、相手を呼ぶ代名詞にthouとyouがあって、前者は、主に親子、兄弟、愛人など親密な間柄の場合に用いられる。ドイツ語のduとSieに対応する。フランス語など他の言語に同様の使い分けがあるようである。「甘え」の通ずる世界に用いられると考えられるが、親密さを通り越して、軽蔑、叱責、愚弄などにも用いられるほか、私が面白いと思うのは、thouやduが神に対しても使われることである。例えば:
十字架の上のイエスの描写、マタイによる福音書/ 27章 46節
①三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(新共同訳)
②And about the ninth hour Jesus cried with a loud voice, saying, Eli, Eli, lama sabachthani? that is to say, My God, my God, why hast thou forsaken me?(King James Version)
③Und um die neunte Stunde schrie Jesus laut und sprach: Eli, Eli, lama asabthani? das heist: Mein Gott, mein Gott, warum hast du mich verlassen? (ルター訳)
これは、私が祈りを神への「甘え」と見る一例。
英語のthouはyouに吸収されてしまった。と同時に大きなものを失っているような気がする。
(写真:グリューネワルトの作、1515年)

 

  
 

「甘え」と祈り (8)

英語では、親しい者や、神に話しかける時にも用いられたthouが、youに吸収されてしまった。これが日常化すると、thouは古語の響きがあって、大げさで、親しい場合も、神にもyouと言うようになる。相手を指す言葉が沢山ある日本語に対して、社長にも、先生にも、友達や子供にも、神様へも、みんなyouで済ませる英語は便利だと思うかもしれないが、youは抽象的で、血の通わない空疎な符丁となってしまっている。ドイツ語では、2人称には親称duの系列と敬称Sieの系列があるが、マルティン・ブーバーの” Ich und Du"の英訳本(by Walter Kaufmann)では、書名こそ”I and Thou"となっているが、本文ではI and youとなっている。英語はもはやドイツ語のduを表現できない。日本ではどうなっているかと言えば、『我と汝』(田口義弘訳、植田重雄訳)。ブーバーの哲学は『我汝哲学』(野口恒樹)となっている。duを日本語に訳すとすれば、お前、君、ねえ、あんた、あなた・・・実は、相手を指す相応しい代名詞はないので、「汝」はやむを得ない選択なのかもしれない。
ブーバーは「我―汝」と「我ーそれ」を一組で、それを根元語(根源語)として、世界を見てゆくのだが、前者は私には「甘え」の世界に通じるのではないかと思う。