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「甘え」と祈り (4) |
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「甘え」と祈り (5) シェイクスピアの『リチャード三世』では、悪党リチャード三世が、信心深さを示すために、祈祷書を読んでいる振りをしている場面がある。祈祷書(Book of Common Prayer )に興味が湧いて、数冊集めたことがあったが、引っ越しの際、処分してしまった。 |
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「甘え」と祈り (6) 「甘え」という言葉には幼稚性が纏わりついているので困るのだが、私の理解した「甘え」とは、母子関係が象徴するように、本来は、完全な信頼関係、一体化、自他未分化の状態、何事も許される世界、「愛」と言うとまた色々なニュアンスがまとわりつくのだが、「愛」を基底とした関係を指しており、当事者間では、意識に登こともない関係・状態なのである。土居健郎も、1人称で「甘える」という言葉を使いにくいことをつとに指摘している。この絶対的関係・状態を原点として、それを離れると、これを確認したり、あるいは要求する行為が発生し、それを俗に「甘える」という事態が生じるのである。母子一体の世界から、幼児が自分というもの作り始める頃の状態である。意識されると、それは甘美な感情に包まれるが、言語では表現することはできない。土居の「非言語的コミュニケーション」にはこのことを含意するかもしれない。この方向を、親、兄弟、親族、所属する様々なグループ、国家、民族、人類・・・拡大していくのであるが、これは「甘え」と許される程度、濃度が薄くなって行く。ここで現れるのが「愛」の変形としての「贈り物」なのである。「贈り物」は本来、無償の行為で「愛」の一つの姿のだが、愛を擬制するにためにも使われる。ここで贈与の世界が登場する。その後のことを含めて私流に図式化すれば次のようになる。 |
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「甘え」と祈り (7) シェイクスピアの時代には、相手を呼ぶ代名詞にthouとyouがあって、前者は、主に親子、兄弟、愛人など親密な間柄の場合に用いられる。ドイツ語のduとSieに対応する。フランス語など他の言語に同様の使い分けがあるようである。「甘え」の通ずる世界に用いられると考えられるが、親密さを通り越して、軽蔑、叱責、愚弄などにも用いられるほか、私が面白いと思うのは、thouやduが神に対しても使われることである。例えば: |
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「甘え」と祈り (8) 英語では、親しい者や、神に話しかける時にも用いられたthouが、youに吸収されてしまった。これが日常化すると、thouは古語の響きがあって、大げさで、親しい場合も、神にもyouと言うようになる。相手を指す言葉が沢山ある日本語に対して、社長にも、先生にも、友達や子供にも、神様へも、みんなyouで済ませる英語は便利だと思うかもしれないが、youは抽象的で、血の通わない空疎な符丁となってしまっている。ドイツ語では、2人称には親称duの系列と敬称Sieの系列があるが、マルティン・ブーバーの” Ich und Du"の英訳本(by Walter Kaufmann)では、書名こそ”I and Thou"となっているが、本文ではI and youとなっている。英語はもはやドイツ語のduを表現できない。日本ではどうなっているかと言えば、『我と汝』(田口義弘訳、植田重雄訳)。ブーバーの哲学は『我汝哲学』(野口恒樹)となっている。duを日本語に訳すとすれば、お前、君、ねえ、あんた、あなた・・・実は、相手を指す相応しい代名詞はないので、「汝」はやむを得ない選択なのかもしれない。 |
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