失われた時を求めて(1)        (2)へ  (3)へ4)へ  Topへ
  日が去り、月がゆき
       過ぎた時も
     昔の恋も 二度とまた帰って来ない
   ミラボーー橋の下をセーヌ河が流れる

      日も暮れよ、鐘も鳴れ
      月日は流れ、わたしは残る  


アポリネール詩集「アルコ ール」(1913)収録 堀口大學訳より
 

  
        失われた時と言っても、遠い昔のことではない。
年を取ると誰でも経験するのだが、例えば、昨晩、御飯に何を食べたのだろうか?すぐに思い出せない。記憶は近いところから失われるような感じもする。晩年、父が薬を飲む度に、その時刻を記録していた。おそらく、そうしないと、さっき飲んだこともすぐ忘れてしまうからであろう。チラシの裏に書かれた記録はかなりの量になっていた。私はいつの頃からか日記をつけるようになっていた。そうしないと、過去はすべて虚空に消え去る気がする気がするので。

若き日のプルースト
     60過ぎると、人や物の名前がすぐ出なくなって、「あれ、あの人がね」と言えば、相手も「そうそう、あの人ね」と相槌を打つが、互いに名前がすぐには出ず、しばらくして、「Aさんね」と思い出して大笑いする。記憶のデータが消えてしまったのではなく、検索機能の働きが劣化しているのかもしれない。時々古い事を思い出すことがある。

 
     「Facebookでの過去の思い出。 宮垣さん―Facebookでシェアした5年前の思い出の数々を振り返ってみよう。」の言葉の下に、過去の投稿が時々表示される。自分が投稿したものながら、読んで面白いのである。面白いから、投稿したので、時間が経っても、面白いのは当然であるが、年を取ると、投稿の内容をすぐ忘れているので、新鮮なのである。少なくとも一時5年前の自分がそこにある。
Facebookでの過去の思い出
  宮垣弘さん ― Facebookでシェアした年前の投稿を振り返ってみよう

 

     FacebookをはじめとするSNSは、コミュニケーションのシステムだと思っていたが、実は、巨大なデータベースであることに気付いたのは、最近のことである。
  必要があって検索すると、あら不思議、過去投稿の記事、画像が出てくるではないか! 私の記憶は、クラウドの中にも保存されており、効率よく引き出すことが出来ることが分かった。
  しかし、Facebookなどが、何時まで保存してくれるか分からないし、それをコントロールできない。 私はそれをもっと自分に操作しやすい形で持って置きたいと思った。そんなことから自分のホームページ「望羊亭」の取り込むことした 2月から3か月かけて、約8割ぐらい取り込むことができた。「失われた時」を身元に引き戻すことができた。

2020・4・25

 

  
    2  Facebookに蓄積されたデータから、自分のものを取り出して、ホームぺージ「望羊亭」の中に並べてみるとどうなるか?その実験の結果はまだ出ていない。しばらくその過程で感じたことを書きます。

   私がFacebookから取り戻したものは、ほとんどが本にまつわるものである。 読書は私の生活の大きなウエイトを占めており、それをレポートすることは、私の近況を伝えることになるのだが、何を食べた、どこへ行ったか、誰に会ったといったことは余りにも個人的なことで、ごく親密な人以外に漏らすには憚れる。その点、本の話が無難なのである。そして、Facebookの友達は、キャロル協会などで知り合った方、大学の先生や同窓生などで、本好きな人達が多く、何らかの意味で、興味を引くのではないかと思うからである。
   読んだ本の感想は誰かに話したいものだし、寸評を書くのは、読書生活の意欲とけじめともなるからである。たまに共感「いいね」を得ると、嬉しいし、さらに情報の広がりを得ることもある。Facebookに加入している人たちの関心や発信内容も実に様々で、思い思いに集まる広場のようなもので、私もその中の特異な人間の一人である。

  SNSに流れる情報は次第に、文字から画像、映像に移りつつある。画像、映像は言葉の何百倍もの情報量を持つし、技術的にもこれが容易になっているので、画像、映像に重点が移るのは当然である。「百聞は一見にしかず」で忙しい現代人にふさわしいのである。Facebookでも画像映像の方が圧倒的に多い。

  しかし、画像映像には一つ大きな問題がある。人の思い(思、考、念、想、感情)が伝わりにくいということである。ここにラーメンの一つの写真があるとする。確かにおいしそうである。唯そのことだけを伝えたいのだろうか?食べた場所、味、どんな気持ちで投稿したかの文字情報がなければ、思いは伝わらないだろうし、3年もすれば、本人も大半は思い出せない。言葉には強い想起力があるのが、SNSでは長い文章は嫌われる。

  想起力にも関連するが、言葉は検索が容易なことである。大量のデータの中から、キーワードで検索できる。「百人一首」で検索を掛ければ、私の投稿記事は容易に見つかる。しかもその時の画像も保存されている。一方、画像映像はらは検索が難しい。将来、AIが発達すれば、ある画像と類似に画像を容易に検索することができるようになるかもしれないが、現在できない。Facebookをデーターベースとして利用しようと思う方は、文字情報も適当に入れておかれることをお勧めする。

   ところで、人は一体なぜSNSに加わるのだろうか?投稿する人、傍観する人、「いいね」だけで反応する人。人さまざまだが、それは生きている証の一つである。その証は川の流れのように流れ去る。それも「失われた時」である。

   2020・5・5
            続く

 
  引っ越し前、処分のために出された本たちと
    1歳の孫

  
   3  SNSの話題から少し離れます。

  「人生も後になったら、少しは休めるものと思っていませんか? あなたはそれに値すると思っている。いずれにしろ、私はその価値があった。しかし、功績への見返りなど人生は構ってくれないことが次第に分かってくる。

  同様に、若い時には、年を取ると訪れる苦痛や寂しさを予想できると思うかもしれない。自分が、孤独で、離婚し、子供は大きくなって自分から離れ、友達は亡くなるといったことを想像する。地位を失い、意欲を失い ― 欲しいものが無くなる。さらに、忍び寄る自分の死を思うかもしれない。それは、どんな仲間を呼んでも、自分一人で当たるしかない。

  しかし、これらはすべて将来の予測である。あなたが出来ていないことは、将来を予測し、その時点に立って自分を顧みることである。

  時がもたらす新しい感情を知り、例えば、あなたの人生の目撃者が少なるにつれて、確証は少なくなり、したがって、自分が何者で、何者だったかがより不確かになる。たとえ、あなたが、細目に記録 -言葉、音、絵で― 付けていても、間違った種類の記録を取り続けたと気づくかもしれない。

  エアドリアンがよく引用していた句は何だっけ?「歴史は不確かな記憶が不適切な記録と出会った時に生み出される確かさである。」と。

Julian BarnesThe Sense of An Endingの第二部の冒頭の拙訳。
2020・5・16
 

  
   4  失われた時も色々な形で取り戻すことがある。日記、手紙、写真、最近ではビデオ映像が長らく保存される。1歳の時の我が子、声まで聞くことができる時代となった。思い出の品を手にして、あるいは、思いでの場所に立って、追憶する。それらが現在の生活を揺さぶることもある。

スイスの氷河のクレパスに落ちた恋人が、当時のままの姿で、50年後に発見されたとしたらどうであろうか?結婚45年目の夫婦の、夫にそのようことが起きる。夫はそれを見に行こうとしている。妻は大きな衝撃を受ける。イギリス映画さざなみ45 Yearsそれを描いた作品で、特に、妻を演ずるシャーロット・ランプリングが素晴らしく、第88回アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされたほか数々の賞を受賞している。夫が遺体を見に行くかどうかは映画では定かではない。夫婦の住んでいる田舎の景色が美しい。

amazon primeで見た)  2020・5・24