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   若い頃、まず憧れたのはヨーロッパ文化であった。洋行は全く夢であった。
    ふらんすへ行きたしと思へども
    ふらんすはあまりに遠し
    せめては新しき背廣をきて
    きままなる旅にいでてみん

これは、萩原朔太郎の戦前の詩の一節であるが、戦後の私たちもこの思いに共感した。
映画や翻訳を通じて文藝を吸収していった。日本は遅れていると劣等感さえ持った時期である。
パリの女
初めてのパリ
夜霧のモンパルナス
Ki Ki’s Paris Artists and Lovers 1900 - 1930
中西先生のこと
 

  
      
    『パリの女』 写真・ニコ・ジェス 文:アンドレ・モーロワ、
                 朝吹登水子訳  初版1957年、32010

  コロナ禍の巣籠りで、退行現象が進み、若い頃を再確認したい気持ちが増えてきた。その一つが、今は手元にはない本をもう一度手にしたくなることである。

私の青春時代は、ヨーロッパ文化への憧れの時代でもあった。絵画、映画のほか、翻訳で読むドイツ文学、ゲーテをはじめヘッセ、カロッサ、マンなど、フランス文学ではスタンダール、ジッド、ロマン・ローラン・・・サルトルやボーヴォワールが輝いていた時代でもあった。 当時、これらの文学で最も惹かれたのは、登場人物の個性、自我の強さである。

  主語が明瞭な言語上の特徴にもよるのであろうが、人々は個性に目覚め、自我が確立されていて、それに比べて、日本人、自分を含めて、いかにも個性が曖昧で、自我の確立が遅れているように思えた。革命を経ずにずるずると近代に入った日本では、精神面でも遅れているように思えた。
  本書は、色々な職業、学生などのパリの女性の姿を撮った114葉の写真に68頁のアンドレ・モーロワの文章が付いているが、そのころ、私は写真だけを「近代的自我を確立した人の顔はこのようなものか」と思って、繰り返し見たのである。

 、当時の感慨を取り戻そうとして、今回改めて入手したが、3刷とあって、心なしか写真がぼやけているように思えると共に、青春の記憶も薄れていた。

 

なお、モーロワについては『英国史』『私の生活技術』など楽しく読んだ記憶はあるが、今は手元にはない。

    2021・1・8

 

  
   初めてのパリ

   ヘミングウエイの『移動祝祭日』が、ネット上の読書サークルで話題となって、私は今世紀初頭のパリのことに思いを馳せた。
  私とって、青春の思い出と重なる時代なのである。中学生の頃から絵に熱中して、ゴッホやセザンヌなど印象派の画家から、ピカソ、マチスへと、さらにモジリアーニ、スーチン、キスリング、フジタ・・・といったエコール・ド・パリの画家たち関心が移って行った。イタリヤ、スペイン、ポーラランド・・・各地から集まった、若い画家たちは、貧しいが、誇り高く、その強烈な個性と奔放な生き方に強く惹かれた。
  当時、戦後間のない頃の日本では、芸術と言えば、フランス、パリといういう雰囲気の中で、芸術かぶれの私は育ったのである。一時画家になりたいと思った.。友人が高校から美術の専門科のある大阪の工芸高校へ入っていて、私もそこへ行きたいと父に懇願したが、「うちはお前を画家にするほど豊かでない。」という父の反対に会って、断念した。家の経済状態は言われなくてもわかっていた。画家になるのをあきらめたのは、赤貧に耐えて画家を続けるだけの体力に自信がなかったからである。それで、普通の高校、大学、会社へと進んだのであるが、パリと言えば、画家になりたかった若い頃が蘇って来るのである。

  40歳過ぎて、初めて、パリに行ったとき時、真っ先に訪れたのは、昔、画家たちのたむろしたモンマルトルとモンパルナッスであった。モンパルナスではモジリアーニたちが毎日通ったというカフェ、ラ・ロトンドの外の席に座り、ギャルソンにコーヒーを頼み、しばし感慨にふけった。ギャルソンに日本から持参の本を、この店が写っているよ、と見せたら、彼は驚いて他のギャルソンにも声を掛け寄ってきた。店の中にも入って写真を撮らせて貰った。複製と思うがモジリアーニの絵が掛かっていた。カフェ、ル・ドームは道路を隔てた向かいにあった。

  絵を描くことは、社会人になってからも、細々と続けている。
museum (alice-it.com)
しかし、絵に熱中した若い時代のレベルには達していない。
 
中、下段はカフェ、ラ・ロトンドとル・ドーム
(後で取り上げるKi Ki’s Parisより)
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 「夜霧のモンパルナス

  40年以上も前のことである。家内が宝塚歌劇のフアンということもあって、戯れに、宝塚のために、モジリアーニを主人公に、「夕映えのモンパルナス」というシナリオを書いていた。
  その頃、宝塚演出家の大関弘政先生が、月組の次の作品として、モジリアーニを取り上げるとニュースが入ってきた。家内が、シナリオを大関先生に送ってみたらというので、私は、手書きの原稿とラ・ロトンドとル・ドームで撮ってきた来た数葉の写真を参考資料としてお送りした。

  大関弘政作・演出の「夜霧のモンパルナス」は、1984年1月22日~2月3日、バウ・ホールで、月組、モジリアーニ役は剣幸、恋人ジャンヌ役は春風ひとみで、公演された。大関先生から、私にお礼を言うため会いたいとの連絡が入ったので、家内と喫茶店でお会いした。先生も和服の夫人と来られ、お礼にとテーカップを頂いた。
  私の資料が何かのお役に立ったのであろう。作品のどこに取り入れられたかは分からなかった。というのは、モジリアーニの伝記は、1958年、ジェラール・フィリップが主演で、「モンパルナッスの灯」という映画になっていたし、伝記的なことは当時いくつの資料があったからである。大関先生の作品で、40年も経って思い出せるのは、フィナーレの所で、モジリアーニ死後、恋人ジャンヌが子供を身ごもったまま、実家の窓から飛び降り自殺を図るのであるが、大関先生の舞台では、開かれた窓にカーテンが大きく風に揺れていた。

  私の「夕映えのモンパルナス」がどんなものであったかは、当時未だコピー機か普及していない時なので、残っていないし、殆ど忘れてしまった。モジリアーニがお金に困って、カフェの客に、デッサンを1枚5フランで売り歩くシーンを入れていたのだが・・・大関先生の作品ではどうだったかしら?

  2021・4・29
 
   公演プログラムの表紙
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Ki Ki’s Paris Artists and Lovers 1900 - 1930
   
by Billy Kluevr, Julie Martin

  キキは、20世紀初頭、パリに集まった画家、彫刻家、写真家のモデルになった女性で、「モンパルナッスのキキ」として知られている。 キキを描いたもので藤田嗣治の「寝室の裸婦キキ」やキスリングのものが、写真ではマン・レイが有名である、マン・レイは彼女との同棲もしている。この本は彼女が生きた当時の人間群像を収めた写真集である。登場人物は200人に近い。

   西洋美術の世界は、19世紀後半からから20世紀前半に、百花繚乱の時代を迎える。マネ、シスレー、ピサロ、ルノアールといった印象派の光に満ちた、小市民的幸せの時代から、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ロートレックと画家の個性が次第に前面に出る時代になり、その後は、フォーヴィズム、キューピズム、シュールレアリスム、ダダ、アブストラクト・・・と革命的変化があった。
  その中で、パリへは、海外から、ピカソ(スペイン)、フジタ(日本)、モディリアーニ(イタリア)、シャガール(ロシヤ)、スーティン(ロシア)、パスキン(ブルガリア)、キスリング(ポーランド)といった画家たちが集まってくる。
  これら一群の画家は、画風はそれぞれ異なるが、エコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれる。いずれも、具象派で、モンドドリアン、カンデンスキ―などの抽象派は含めない。

   私が絵に熱中した中学、高校の頃は、戦後の日本に、これら波が一度に押し寄せた時代であった。大人たちは、芸術論に加え、チャップリン、サルトル、ピカソも共産党員だとか、そんな政治的なことも話題にしていた。芸術家が大いに自由を謳歌した時代だった。
  私たちは画集や本でそのようなパリを想像していた。福島繁太郎『エコール・ド・パリ』は、長くパリに滞在して、直に、画家たちと接触した話であり、羨ましく読んだものである。
  青春とパリは私の中で強く結びついている。

  それから幾星霜、画集や絵の本は殆ど手元から消えてしまったが、今なお愛蔵しているのがこの写真集である。
  珍しい写真が満載で、モジリアニの引っ越しの様子、キスリングの決闘に模様やパスキンの自殺の時の遺書(いづれも下記写真参照)など、見飽きない。

  文藝関係では、ガルトルート・シュタインのサロン、書店Shakespeare &Companyのシルビア・ビーチ、そこを訪れたジェイムス・ジョイス、ヘミングウエイ、エズラ・パウンドも出て来るが、私がこれらに関心が出てきたのは中年になってからである。

     2021・5・17
  
 
   
引っ越し中(モジリアニの作品が見える)
 
キスリングの決闘シーン。



自殺したパスキンが恋人ルーシー宛てにドアに血で書いたAdieu LUCY

  
   中西先生のこと

2017年5月31日
パレットの裏に「宮垣君へ 描く為に生きる生命これが総てだ 1952年3月30日 中西勝 」横の陶器の皿の裏には「美術部の秀才宮垣君の像也」と書かれてある。中学卒業の頃、中西勝先生から頂いたものである。その頃私は絵に夢中で、先生のアトリエへ通い、その道に進みたいと本心で思っていた。ある意味で最も影響を受けた先生かもしれない。結局、普通高校、大学、会社員と平凡な道を歩いたが、もし絵描きになったいたらと、時々思うことがある。凡庸な癖に偏屈な芸術家?になっていたかもしれない。今、絵の関係の画材、作品、本など整理ながら、もう一度絵筆を、という気持ちを捨て切れないでいる。
中西勝先生(1924-2015) 武蔵野美大卒(1947)安井賞(1972)など多数受賞。「二紀会」の重鎮。2015年5月91歳で逝去   ・・・・・・FBへの書き込み・・・・・ Toshiro Nakajima 私も先生の御宅によくお邪魔しました。何にでも絵や文字をお書きになるので、驚きましたが、さすがに便器にまで描かれていたのには仰天しました。 宮垣弘 そうでしたか!!!私は先生のアトリエが滝の茶屋にあった頃の初期の弟子で、先生が鴨子ヶ原にアトリエを移されてから数度お伺いしただけでした。それでも、東京での「二紀会展」の招待状はずっと送ってくださいました。 Toshiro Nakajima 友人が先生の後援者で、誕生会など思い出は尽きません。おなくなりになって神戸の街は一挙に暗くなりました。修行された世界放浪の旅ではゲントが私には圧倒的な力で迫ってきました。先生が宿泊されていた場所にまでよく行きました、というよりも詣でたという感じです。 宮垣弘 私は先生が世界旅行に出られる時の荷造りをお手伝いいたしました。 Toshiro Nakajima そうでしたか、キャロルを通じてお知り合いになる前に、実は中西先生を介在させていたのですね。感無量です。先生の旅支度を…。   この項、2023・5・21 FBヨリ追加。 中学時代に、中西勝先生に出合ったことは、私の人生に一つの宝です。 書きたいことが沢山あるので、折を見て、頁を改めて別に書きます。