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   映画かされた原作を読むのは、一長一短あって、双方が干渉しあって、訳が分からなくこともあるし、理解が深まることもある。
(1)The Sense of An Endingと映画「べロニカとの記憶」
(2)映画「さざなみ」とIn Another Country
 

  
   2013年4月13日
    Julian BarnesThe Sense of An Endingという150ページほどの小説を図書館で借りて読み始めたら、止まらなくなって最後まで読まされてしまいました。一種のミステリーともいえるので、内容には触れませんが、さすが2011年ブッカー賞受賞だけあってその筆力に目を見張ります。ただ、筋が分かれば何だという感じもあって、文学的価値があるか?と疑問が残りました。何よりも私位の年齢の人間が読むのに適しています。
邦訳「終わりの感覚(新潮クレスト・ブックス)も出ています。

 Eさんの感想: 2020・5・27
  「ジュリアン・バーンズのThe Sense of an Ending は、以前翻訳で読みました。なんだか騙された?ような気がした覚えがあります。
一人称の小説で、主人公の言うことを信じていたら、実は違っていた~~~というパターンありますよね。カズオイシグロ、奥泉光、とか。記憶の曖昧さということになるのでしょうが。
これは戯曲に共通するところがあるのではと思っています。戯曲のセリフ(あるいは独白も)は、それが真実とは限らず、ただ登場人物がそう言ったという事実があるだけ。三人称の小説だと、絶対的(神の)視点となるわけですが。」

 

  
   『ベロニカとの記憶
監督:リテーシュ・バトラ
主演:ジム・ブロードベントとシャーロット・ランプリング 

  Kさんのお勧めで見た映画。

  かっての恋人ベロニカは親友エイドリアンは結ばれたが、エイドリアンはもう何十年も前に自殺している。ある日、ベロニカのお母さんが、主人公に500ポンドと友人エイドリアンの日記を遺贈したことを知らされる。ところが遺言執行人のベロニカは日記に引き渡しを拒否している。映画はこの遺贈に巡って展開する。
  高校時代など過去の出来事はフラッシュバックの形で、観客に知らされる。
  離婚した妻や娘が、良好な関係を維持しながら、この事件にかかわって来る。私は、途中から、既視感があって、数年前読んだThe Sense of an Endingであることが分かってきたが、その巧みな演出と俳優たちの見事な演技によって、映画は原作より、複雑な構成で、より豊かだという印象を受けたが、もう一度原作を読みたくて、注文した。

  2020・4・19
 

  
 

Julian BarnesThe Sense of An Endingを読むのは2度目である。Kさんの勧める映画「べロニカとの記憶」を見ているうちに、既視感があって、その原作が、この作品だとわかった。7年前に読んでいて、すっかり忘れていた。新しく来た本は、表紙が変わっていた。
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宮垣からKさんへ    
   『ベロニカとの記憶』の原作を再読しました。映画との比較ですが、映画の方がはるかにプロットが複雑になっています。つまり、原作は、第一部で、高校時代の思い出から始まって、まず、本人の人生が描かれ、後半で、老年期になった本人の様子とベロニカの母の遺言へと移りますが、映画では後半を最初に持って来て、高校の時の思い出やベロニカと付き合いをフラッシュバックしています。映画の方が凝っていて、原作より豊かだと思いました。俳優とカメラワークの素晴らしさは小説で太刀打ちできません。しかし、小説でないと表せないこともあります。それは、主人公や著者の考えや思いです。
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映画と文学
   原作は主人公トニーが語り手で、読者は彼と同化し、彼の内面を追っていくことになる。
  映画はトニーは登場人物の一人で、観客は離れたところで彼を見るので、
<トニーの無神経さや、自分より格下だと思える人間への傲慢な態度に「こりゃ、奥さんに捨てられるのも無理ないわ」と納得。>(これはKさんの見方)と彼を見ることになります。
  しかし小説での彼の内面や考えを叙述することが中心で、映画ではそれがほとんどが失われます。
  映像でも言葉を用いて内面や考えを表現できますが、文字の方がより純粋に伝わってきます。

純文学とエンターテイメント作品
  原作はミステリーとして十分楽しめますが、一応謎が解けた読後にも、さらに大きな謎へと導きます。記憶(歴史)とは何か?、自分が他者へ与えた影響とは?後悔の感情・・・人生の深みへと引き込まれていきます。私は2度目の読書で、この作品にブッカー賞が与えられた理由が分かってきました。
 純文学は人生の深みへと誘い、エンターテイメント作品はそこから逃れるためのものと言えば、乱暴でしょうか?
 映画では<トニーは過去の過ちを悔い改めることで、穏やかな余生を手に入れることができてラッキー。>(これもKさんの感想)で終わり観客はホッとしますが、原作はそうなっていません。

  この小説で、若いころThe Severn Bore(セヴァーンの高潮)を見にたことがエピソード風に挿入されています。
 「それは大竜巻や地震とは違う。(どちらも経験はないが) そこでは自然は狂暴で破壊的で自分の場所の閉じ込める。 
  それ(この高潮)はもっと不安定なものだった。それは静かだが間違っているという感じで、あたかも宇宙のある小さなレバーが押され、目の前で、その間、自然が、時間と一緒に逆転したように見えた。そして、陽が落ちてこの現象を見るのは、もっと神秘的で、もっと異界のように思えた。」
P36 拙訳
  このシーンは主人公が最後に置かれた状況を象徴しているようです。

原作の終わり部分
  「あなたは人生の終わりに向かっている。 ― いや、人生そのものでなく、それ以外の何かの終わりである。つまり、人生における変化の見込みが無くなるのである。長い休止、何か他に誤ったことをしたのではないか?と問う十分な時間が与えられる。

   (中略:そして、最後の2行)

集積がある、責任がある。それを超えて、不安がある。大きな不安がある。
」p150

  純文学でしょう。タイトルのThe Sense of an Ending がどんな意味を持つかを味わうためにも、もう一度読み返す必要がありそうです。

原作の英語
 私にはとても難しい英語でした。知らない単語や表現が沢山出てきて、8割ぐらいしか読めていないと思います。
  土屋政雄訳『終わりの感覚』があるので、図書館が再開したら借りて、原文と対照しながら読んでみるつもりです。

  2020・5・30

 続く
 


The Severn Bore
イングランド南西部のセヴァーン川の下流に見られる、逆流現象。
https://www.youtube.com/watch?v=7MME_cW7zmo



小説の第二部の冒頭部分は、「失われた時を求めて 4」に訳しています。。

  
   ジュリアン・バーンズ著・土屋正雄訳
        『終わりの感覚』   新潮社2012

6月から図書館が再開したので、早速翻訳書を借りだし読んだ。まず最初にチェックしたのは最後の2行であった。

累積があり、責任がある。その向こうに混沌、大いなる混沌。>土屋正雄訳

There is accumulation. There is responsibility. And beyond these, there is unrest. There is great unrest.>原文

集積がある、責任がある。それを超えて、不安がある。大きな不安がある。> 拙訳


  私にはunrestの訳語が「混沌」となるか理解できない。翻訳家の上げ足を取るのは私の本意でないのだが、この小説のキーワードでもあるので取り上げる。

  このunrestは、小説の初めの方出てくる言葉で、高校の歴史の先生が、ヘンリー8世の時代をどう見るか、生徒に質問したとき、当てられたマーシャルという生徒(あまり出来がよくない)が答えて言う。
There was unrest, sir."
先生にもう少し詳しく言えないかと言われて
I'd say there was great unrest, sir' と答えている。

  ここでも、土屋正雄氏はunrestを混沌と訳している。
(ちなみに、accumulationとresponsibilityは自殺した親友エイドリアンの日記にも出てくる言葉)

  unrestを日本語にするときには、不安、不穏、せいぜい動乱くらいに訳せると思うが、混沌は無理だと思う。著者は別の所で、chaosという語も使っているが、これも土屋正雄訳では混沌。

  訳書を読むときに楽しみは、本書に対する訳者の意見であるが、「終わりの感覚」が何かについては、それらしき言及はない。

  「終わりの感覚」とは一体何なのだろうか?
  それが「混沌」だろうか?
  何か間違ったことしたのではないか?と言う「不安」ではないのだろうか?

 The Severn Bore(セヴァーンの高潮)は第1部では一人で見に行ったことになっているが、第二部では、ベロニカと見に行ったことを思い出す。これは一例であるが、記憶の不確かさもこの小説のテーマであり、老境にあって、あたかも、セヴァーン川の高潮のように逆流して、人生にunrestを齎すのである。

  一応謎が解けた後にも、次々と疑問が湧いてきて、どこか読み落としたところはなかったのか?と再読したくなる不思議な本であった。
老境に入ったと思う人が、人生を振り返るための文学であるとも言える。
 
               *  *  *
翻訳では、 日本人に分かりやすい工夫も随所になされていて参考になった。例えば;

<私はベロニカがくれたミルクカップを持って、オックスファムの店に行き、飢餓救済のため寄付した。>
 原文には「飢餓救済のため寄付した。」は無いのだが、この店がそのような店であることが分かった。ベロニカも報復的に、主人公からもらったものをこの店に持って行っている。

 ベロニカとの成り行きを元の妻マーガレットに話すのところで、彼女は、
<There was a silence, then my ez-wife said quietly, ' Tony, you're on your own now. '>
<しばし沈黙があり、元妻は静かな声で「トニー、もう勝手になさい」とi言った。>(土屋正雄訳)となっている。


    2020・6・9
 
Oxfamの店(ウィキペディアより)