しかい
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『唯識三十頌』 後半。 | ||
第17頌sa evaanaasravo dhaatur acintyaH kuzalo dhruvaH / sukho tena tan naasti tenedaM sarvaM vijJaptimaatrakam // 17 私訳[この識の変転は分別である。分別によって生まれたものは存在しない。 したがって、全てのものは識のみである。] |
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1 | 第18頌sarvabiijaM hi vijJaanaM pariNaamas tathaa tathaa / yaaty anyonyavazaad yena vikalpaH sa sa jaayate // 18 私釈[実に、識は一切が種子であり、相互の力によって、このように転変する。 それによって分別も生まれる。] |
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第19頌karmazo vaasanaa graahadvayavaasanaya saha / kSiiGe puurvavipake 'nyad vipaakaM janayanti tat // 19 私釈[(現世の)行為の習気は、主客分離したことのある習気と共に、その成熟が終わると、他の異なった習気を発生させる] |
第一頌から第十九頌までの考察 上田義文『梵文唯識三十頌の解明』参照 |
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第20頌yena yena vikalpana yad yad vastu vikalpyate / parikalpita evaasau svabhaavo na sa vidyate // 20 私釈[あれやこれやの分別によって、あれやこれやの対象が発生する。 それは、実はつくられたものであって、存在しない。] svabhaavo をものと訳したが、そのような性質を持つという意味である。 般若心経にも出てきて、涌井さんの本に詳しい。 2023・12・6 |
三自性 存在の形態 ①妄分別されたもの ②他によるもの ③完成されたもの 20頌は①遍計所執自性 parikalpita svabhaava 存在とは何かの定義が必要。 |
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第21頌vijJaanaparinaamo 'yam vikalpo yad vikalpyate / tasya puurveNa sadaa rahitataa tu yaa // 21 ネットより 第21頌paratantrasvabhaavas tu vikalpH pratyayodbhavaH/ niSpannas tasya puurveNa sadaa rahitataa tu yaa // 21 上田義文本より 上田本に従う。 私釈[分別は他に依存する存在で、縁より生じる。依他起自性 前のものから、常に離れているものが、完成されたものである。円成実自性 2024・1・6 |
テキスト問題あり。 ②の依他起自性 paratantra svabhaava ③の円成実自性 (pari)niSpannas svabhaava |
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第22頌ata eva sa naivaanyo naananyaH paratantrataH / anityataadivad vaacyo naadRSTe 'smin sa dRzate // 22 私釈[それ故、完成されたものは、他に依存するものと異なるものではなく、また異ならないものでもない。 無常性などと言われるべきもの。見られない時は、見られる】 後半サンスクリットは私力では理解不能。通説では二重否定になっている。 2924・1・27 |
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第23頌 trividhasya svabhaavasya trividhaaM niHsvabhaavataaM/ saMdhaaya sarvadharmaaNam dezitaa niHsvabhaavataa// 23 私釈[三種類の自性(存在態)に関して、三種類の非自性がある。 それを意図して、すべての存在は非自性と示される] 後段は、『般若心経』の五蘊皆空の個所を指しているという。 |
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第24頌prathamo lakSaNenaiva niHsvabhaavo 'paraH punaH / na svavyaMbhaava etasyety aparaa niHsvabhaavataa // 24 私釈[最初のもの〔偏計所執性)は非自性という特徴を持つ、次のものも自性が無いと言われる、次のものも自性はない。] |
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第25頌 dharmaaNaaM paramaarthaz ca sa yatas tathataapi saH / sarvakaalaM
tathaabhaavaat saiva vijJaptimaatrataa // 25 私釈[対象物の最高の対象はある。それは真如である。 それは、常に真如であるから、唯識なのである] |
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第26頌yaavad vijJaptimaatratve
vijJaanaM naavatiSThati / graahadvayasyaamuzayas taavan na vinivartate // 26 私釈[識が唯識性に住しない限り 二つ(主観客観)の執着の潜在力は消えない] |
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第27頌vijJaptimaatram evedam ity api hy upalambhataH / sthaapayann agrataH kiMcit tanmaatre niaavatisthate // 27 私釈[唯識がこのよううに(頭の中で)理解されるので 何者かを唯識であるという意識を前に置くので、唯それのみということは存在しない] |
未だ唯識に立っていない。 | |
第28頌yadaa tv aalambanaM jJaanaM naivopalabhate tadaa / sthitaM vijJaana(apti)maatratve graahyaabhaave tadagrahaat //28 私釈[しかし識が根拠を持たない時、そのとき 唯識性に住する。認識されないものがない所で、捉えるからである] |
唯識に立った。第17頌 | |
第29頌acitto 'nupalambho 'sau jJaanaM lokottaraM ca tat / aazrayasya paraavRttir dvdhaa dauSThulyahaani taH //29 私釈[これは無心であり、得ることがない。出世間智である。それは 2つの粗いタイプのものを捨てている。もののベースに回帰している。] 2つの粗いタイプ:二種のソ重:煩悩障(われありとする)知悩障(ものありとする) 元のベース:所依:アーラヤ識 |
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第30頌paratantrasvabhaavas tu vikalpaH pratyayodbhavaH / niSpannas vimuktikaayo 'sau dharmaakhyo 'yaM mahaamuneH // 30 私釈[これはまさに、汚染されていない領域で、不思議であり、禅であり、安定したものであり これは、楽であり解脱身であり、大牟尼が方と名付けたものである。] |
サンスクリット原文を辞書と参考書を頼りに、最後まで読み通した。これ以上のものはないのであって、後は、解釈、拡大なのである。 後半は、ヨーガ派の修行を経た、体験の世界なので、文字をいくら読んでも分からない。 頭で分ろうとするとかえって、真如から遠ざかる。 2024・2・14 |
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『唯識三十頌』を読み終えて。 サンスクリット原典を1語1語意味を確かめながら読む作業は、岩登りに似て、辞書は勿論、『世親』の中の横山紘一さんの注を中心に、あらゆる手がかりを求め、一歩一歩の読書であった。同行の野口さんが居なければ続かなかったと思う。 さて、『唯識三十頌』という岸壁を一応登り切って、この岩壁がどんな姿していたのか振り返りたい。 〇唯識といえば、それに尽きるのであるが、第一頌から第一九頌までは、識の変転の姿を描いている。 アーラヤ識、末那識、6種の顕在意識。 人間の深層心理の分析と受取る人も、以外に多い。 〇第二十頌から第二十五頌では、我々が「✕✕が存在している」という時の タイプを三つに分けて説明している。(三性説) 分別により生じるのもー遍計所執自性 縁により生じるものー依他起自性 完成されたものー円成実自性 〇第二十六頌から第三十頌 唯識に入る過程を示す。 〇多くの論者が、唯識の論述を、人の深層心理の分析と捉えているが、「識だけだ」という認識は、所謂知性をもって分るの分野ではなく、体験的事実で、その片鱗の体験していない人には、唯識は理解できない。 悟りの世界であって、仏教でも他宗派の人も、唯識に惹かれるのはそのためである。 〇私を含め、それでもなお、言葉を通じて理解しようとするのは、煩悩の一種。 2024・2・15 |
この項:上田義文『「梵文唯識三十頌」の解明』が参考になった。 第二部第4章「vijñaptその他についてー無着・世親の唯識論は観念論ではないー」 識(vijñaptiヴィギャプチ)は識または了別と漢訳されるが、現代「表象」という訳語がで出てきたのに対する反論から始まる。 要は認識を主体から見るか、対象から見るかの議論である。 後者かすれば「唯識は、つまり、一切は阿頼耶識の現れに外ならなぬという意味になる」 著者はそうではないという。 〇玄奘訳 「般若心経」の訳同様。申し分のない翻訳ではないだろうか。初学者が評価すべきでない。 いつも参照させて頂いた。 漢訳仏典の凄さは恐るべし。 〇英訳 余り見なかった。 〇スティラマティー(安慧)の注釈 サンスクリット原文は入手できなかった。 中央公論社の大乗仏典世親論集に荒牧典俊訳がある。 少し読んだが通読せず。 |
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横山紘一の著作について。 私はこの方の解説で唯識を読んだことになる。 東大印哲(インド哲学科)出身の人には、その学殖に愕くことが多いいが、同氏もその一人。 講談社学術文庫 三枝充よし(さえぐさみつよし)『世親』主要な部分は横山紘一の著である。講談社がなぜその名を表紙に掲げないのか不思議。 この書のあとがき(2004年)で、横山氏は、唯識の歴史的本拠地とも言うべき奈良・興福寺で、剃髪、得度させてもらったとある。 『唯識思想入門』簡にして要を得ていて、素人にはとても有難い本であった。何度も再読することになろう。 『唯識とは何か 「法相二巻抄」を読む』はこれから読むことになりそう。 2024・2・22 |
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