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   唯識の勉強をこれから始めます。
その過程の事を備忘のため一部記録に残して、また、私のような初学者の参考に供します。  

  2023・2

このページは、参考文献と「唯識二十論」を納めています。
 

  
  [1]]唯識の原典、Vasbandhu世親の「唯識二十論」「唯識三十頌」をサンスクリット原文で読もうとして、準備として参考資料を探し始めた。


①横山紘一『やさしい唯識』NHKライブラリー

  NHKテレビ「こころの時代  宗教・人生」で2001年4月~2002年3月放送されたのをベースに作成されたもの。

 その時使われたと思われる図がいくつも挿入されていて興味深い。

  盛り沢山なので「やさしい」とは言い難いが、抵抗なく読めた。ご自身の体験や、学生、視聴者?への呼びかけもあり、血が通った本だった。
「一人一宇宙」というのがこの方の理解。

②同じ著者の『唯識とは何か —『法相二巻抄』を読む』春秋社も手元にあるので、いづれ読むことになろう。


③岡野守也『唯識のすゝめ ー仏教の深層心理学入門』NHKライブラリ
➃岡野守也『唯識の心理学』青土社 
   唯識三十頌を玄漢訳に沿って解説。
⑤岡野守也『大乗仏教の深層心理学 ー『摂大乗論』を読む』青土社

  私は、唯識を心理学の延長と見ないので、借りたものの恐らく読まないと思う。
私も若い頃、フロイトやユングと対比して唯識を理解しようとしたことがあったが、これは根本的に誤りだと今は思う。
 唯識で言っているのは、
 すべてが心だけである。
 その心の持ち主であると思っている自分は存在しない。
これが私の理解である。
 

  
   [2〕原典翻訳  「唯識二十論」「唯識三十頌」を中心に。

 写真右から

⑥『大乗仏典 世親論集』中央公論社 昭和58年新訂  
  唯識二十論  梶山雄一訳
  唯識三十論  荒牧典俊訳
    スティラマティ(安慧あんね)注の翻訳

  今は中公文庫(2200円)にある

⑦『世界の大思想 仏典』河出書房新社 昭和47年
  唯識二十論  渡辺照宏訳
  唯識三十頌    同      第8頌まで
    スティラマティ(安慧あんね)注の翻訳
  唯識三十論(抄) 同

 現在ソフトカバー(5720円)のものがある

⑧『世界の名著 2 大乗仏典』中央公論社1978、1990
 唯識二十論   長尾雅人訳
      語注が付いている

⑨『世親』 三枝充悳(さえぐさ みつよし)
          講談社学術文庫2004、2022

   横山紘一との共著と言って良いほどで、

  唯識二十論  語注あり
  唯識三十頌 スティラマティ注訳

この部分も横山紘一の担当。 キイワードにサンスクリットを併記してあるので、原文を読むのに役立つ。
   横山紘一は、あとがきで、唯識のメッカ興福寺で、剃髪、得度されて、僧侶となった書いておられる。
  2023・1・25
 

  
  [3〕 原文解読は短い方のから始める。

唯識二十論、
विंशतिका विज्ञप्तिमात्रतासिद्धिः

Viṁśatikā Vijñapti-mātratā-siddhiḥ
ヴィシャティカ ヴィヂャプティ マートラター シッディ  

テキストは、取り敢えず、
ACADEMIAといううサイトの
Ferenc Ruzsa – Mónika Szegedi Vasubandhu’s Viṁśikā A critical edition

参考

http://gretil.sub.uni-goettingen.de/gretil/1_sanskr/6_sastra/3_phil/buddh/vasvvmsu.htm



下記には原文がない。
玄奘訳
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1590_

宇井伯寿『四訳対照唯識二十論研究』岩波書店




    2023・2・3
 最初の一章

Vijñapti-mātram evêdam, asad-arthâvabhāsanāt;yadvat taimirakasyâsat-keśôṇḍūkâdi-darśanaṁ

Mahāyāne traidhātukaṁ [vijñapti-mātratayā vyavasthāpitam: “Bho jina-putrāḥ, evaṁ bhavati – citta-mātram idaṁ, yad idaṁ traidhātukam” iti sūtrāt. Cittaṁ, mano, vijñānaṁ, vijñaptir iti paryāyāḥ. Tac ca cittam atra sa-saṁprayogam abhipretam – “mātram” ity artha-pratiṣedhârtham uktam. 

Vijñānam idam evârtha-pratibhāsenôtpadyate, yathā taimirikair asat

keśa-maśakâdi dṛṣyate:] nârthaḥ kaścid asti. [Idam atra paryanuyujyate:]

このような文章を、貧しいサンスクリットの知識、辞書、翻訳を総動員して、読み解いて行くのである。
結果は、先人の翻訳の域を出ることはないのだが、自分なりの理解が生まれてくる。

 


  
  〔4〕 宇井伯寿『四訳対照唯識二十論研究』岩波書店

サンスクリットの原文があるだろうと、この本を探したのだが。
不思議なことに原文はこの本には表示されていない。

  四訳とは
  ①和訳
  ②北魏、菩提流支訳 (6世紀前半)
  ③陳代 真諦訳     (6世紀後半)
  ④唐   玄奘訳    (7世紀後半)
 これを、原文に沿って、対比しながら書いてある。

 ②~④の漢文は和訳されているので、読みやすい。
 原テキストは表示されていない。

第五「本論に於ける唯識論」で、体系的に述べる。
 キーワード:vijñana とvijñaptiの言葉の詳細な解説もある。
 

巻末に「梵語語彙」として、上記4社の訳付きのリストがある。
例えば:vijñana では、意識① 識①③④ 心②

    2023・2・16
 渋谷区の図書館にはなく、大田区から借りた。
高価な本なので、巻末の梵語語彙集だけをコピーさせてもらう。

ただし、余り漢訳にはこだわらない。利用可能な和訳を頼りにサンスクリットを読み解いて行く。
2023・2・16

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この本は高いので持つことを諦めていたが、ネット上安いのが出ていたので購入した。
  1990年第2刷であるが、新品同様の美本が届いた。2023・2・27


  
   〔5〕野口さんとのzoomによる会読『唯識二十論』、第1回開始2023・3・7

 〔3〕の原文を、辞書、文法書を使いながら、読み取るのである。
  これが一回分の分量。順調に行けば、22回で読了するはず。

  なぜ、このような日本語翻訳〔2〕になるのか、分るので理解が深まる。
 宇井白寿の「梵語語彙」〔4〕は役に立っている。

 翻訳や語釈は自分のノートには書きますが、ここでは書きません。
  〔2〕〔4〕の文献をお読みください。


     2023・3・12 
 『唯識二十論』の構造 〔4〕p203より。

  〇の中の数字は頌の番号


1主張 ①
2論証 ②~㉒
 (1)問難 ②
 (2)答釈 ③~⑦
 (3)人法二無我 ⑧~⑩
 (4)極微存在説を破る ⑪~⑮
 (5)外境存在論を破る ⑯~⑱
 (6)唯識無境 ⑲~㉑
3総括 ㉒

  
   〔6〕土田義文『梵文唯識三十頌の解明』第三文明社 1987

 冒頭に梵文全文

 序:宇井白寿以降の動きについて

 第一部 梵文唯識三十頌の解明
    第一章 梵文唯識三十頌の和訳
    第二章 識転変の意味
    第三章 唯識三十頌の構成
    第四章 vijñaptiその他について
    ー 無着・世親の唯識説は観念論ではない。
     
vijñaptiを「表象」とする説への反論。主体が欠落する。

 第二部 仏教研究の方法論的反省。

   
文献学的方法では、真の仏教にはたどり着けないことを説く。
   
著者の自伝的回顧。宇井白寿の「鈴木さんは学者じゃないよ」「学問と信仰とは別だよ」から話が始まる。山口益から、鈴木大拙へ。大拙の「無神論」 ー 識(見聞覚知)と無心とが両立している世界、「無分別の分別」、これは世親や安慧のいう「唯識」 無と有、肯定と否定のの自己同一という矛盾的表現となる。
  中国の場合、真諦、玄奘の学んだものは世親から既に変化している。
  つまり、識の中に境を認めている。
  対象のない識(見聞覚知) 般若、無分別智、全体性の感覚、主客未分
 無分別智・真如ー識と境の分裂がないこと、ー 「境識倶泯」という
   
  竜樹では、無分別智と般若波羅蜜とは同じ、
空も般若波羅蜜も諸法実相の異名。
  文献学的知性では「色」(有)と「空』(無)とは同一のものと受け入れがたい。
   大拙『東洋の心』からの引用 ー 「色」という限定が「空」という無限定に融けこむところ、これと同時に「空」が自分自身を「色」という限定に映じてゐるところ、ここにさとりという無媒介の感覚が可能になるのである ー


 
 この事を悟るには「宗教的体験」が必要だが、方法は禅に限らない。
親鸞の「他力」「如来の本眼力」もその道の一つ。

   

  第一部  第一章~第三章は 未読。

第4部は、私は共感すること多かった。更に、般若心経の「空」を唯識の「識」と置き換えて読んでも良いのではないかと考える。私の般若心経

   2023・4・5

  
 


スティラマティ注(安慧注)の梵文はない。
探しています。
第一部  第一章~第三章はテキスト原文を読む際に読みます。


  
   〔7〕サムターナ saṁtāna という言葉が唯識には何度も出る。便宜のためにここに注をまとめておきます。

   〇 各個人的存在を表す語である。仏教では肉体も心も、刹那に生滅しつつそんざいしつづけるとみる。したがって肉体と心からなる個人的存在を「相続」と命名する。とくに瑜伽行唯識派は、心のみの存在を認めるから、相続とは、心の相続と考え「心相続」という表現を好んで持ちる。〔2〕③

   〇相続、 人、心、続、身 〔4〕

   〇人,, 特定の人 〔2〕⑧

   〇一個人の主観 〔2〕⑦

   〇ネット上の辞書から
      continuous sacsesion, continuous train of thought,
      continuous flow

   〇テキストの範囲では、人を指しているが、意識の主体のようなものなら、何者でも良いのではないかと思う。(宮垣)

   2023・4・5
 

  唯識二十論
 〔8〕第1頌~第7頌

  第1頌で「この世は、識(vijñaptiヴィギャプチ)だけである」という主張に対して、第2頌で「識のみで、対象が存在しないのなら、どうして、特定の時間、場所、人に起き、作用というものがあるのか?}という反論が提示され、そのやり取り続きます。
  眼病や夢の喩えは理解しやすいですが、地獄や六道輪廻を前提にしたやりとりは、現代人にはすこし分かりにくいです。
  対象(物質)は存在するという人たちの反論に丁寧に答えている感じです。反論のポイントは夢でも同じことが起きていると。
  業を同じくしたものは同じものを見る。

   2023・4・26(8・6)
 これは、唯識への根源的な問いであって、実はなかなか了解しにくい。

対象がないのなら、異なる主体が、どうして同じものを見るのか?

サハリのいう共同主観(the inter-subjective)
 Sapiens p131に関連するが、これも説明不十分。


2023・8・6

  
   〔9〕第8頌~第10頌  人法二無我

  対象(物質)は存在しないというのなら、釈尊がどうして、六根(眼、耳、鼻,舌、身、意)六境(色、声、香、味、触、法)など説いたのか?という反論に対して、pudgala-nairAtmya人無我(自我という実体ははない),dharma-nairAtmya法無我(諸物は実体はない)を悟らせる為だ、と反論します。また、何も存在しないのなら、唯識の識もないのではと、反対派は食い下がります。
 いずれも、このあたりから、サンスクリットが急に難しなる感じで、一語一語辞書を引くのは当然のことながら、幾つかの翻訳を読み比べ、何とか理解できるといったところです。読むのに時間がかかります。

印度には、長年にわたる哲学思索の積み重ねがあって、これに対抗するために、議論が難しくなっているように思います。


次は、極微のもの(原子と訳している本が殆ど)の存在の議論になります。

  2023・5・16
 

 〔10」第11頌~第15頌  極微存在説を破る

 paramāṇuは物質の最小単位、原子と訳されることが多いが、今なら素粒子のことになろうか?その最小単位に物の存在を否定する個所で、大変難しい。量子力学の学者が読むと面白いかも知れない。
 昔の人が「唯識三年俱舎八年」と言ったのがよく分かる。
 俱舎々々三年唯識八年という人もあった。

 極微paramāṇu6つ結合すると6つの部分を持つ(13)
 極微は部分を持たないから、結合は成立しない。(14) 
 方向性のあるものは単一ではない。(15)

 
 岩波仏教辞典では
人無我、法無我は人空・法空という見出し語で出てきます。


これは1989年の第一版。
2002年に第二版が出ています。

第二版は高価なので私は第一版を最近入手しました。この本の魅力は巻末に、「サンスクリット語等索引」が付いていて、主要な仏教用語のサンスクリットはこれから引けるからです。

他にも仏教用語辞典はいくつもあるようですが、皆高価です。


「唯識三年俱舎八年」についての舟橋尚義の論考
  
   [ 11]サンスクリットのテキスト。

宇井伯寿『四訳対照唯識二十論研究
サンスクリットの原文があることを期待したのだが、ない。
ネットで入手出来たのだ

土田義文『梵文唯識三十頌の解明
頌の部分の原文はあるのだが、スティラマティの注ない。
ネット上ではいくら探しても見当たらない。

1989年出版の下記文献あることが分かった。

 (a)Three works of Vasubandhu in Sanskrit manuscript : the Trisvabhavanirdesa, the Vimsatika with its Vrtti, and the Trimsika with Sthiramati's commentary / Vasubandhu; Sthiramati . - Tokyo : The Centre for East Asian Cultural Studies, 1989.

幾つかの大学が所蔵しているのが分かったので渋谷図書館経由で依頼したが、図書館からの入手可能だが、図書館館内閲覧のみという。序に、恵比寿の日仏会館が持っているという情報を教えてくれたので、行ってみた。それは手書きの写真版であった。一部複写してもらって帰った。(右)


学者が準拠している文献は:
 (b) Lévi, Sylvain, Vijñaptima trata siddhi, deux traites de Vasubandhu, Vim. satika accompagée d’une explication en prose et Trim. sika- avec le Commentaire de Sthiramati, in : Bibliothèque de l’Ecole des Hautes Etudes, Paris, vol. 241-245〔1925  
これは、今のところ国会図書館(関西館)も持っていることまで分っているのだが・・・・

世界の誰かがデジタル化している筈だが、未だ行きつかない。
  2023・6・4

念のため、日仏会館の清水さんの(b)の資料を蔵書していないか照会した、次のよう回答があった。

「当室には下記の資料はございませんが、BnFの電子図書館Gallicaで公開されています。

https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k326626j
よろしくお願いいたします。」 2023.6・6

これぞ私の求めているのだった。中身は(a)とどう違うのかゆっくり調べます。

 下記は(b)と同じ。


"Vijñaptimātratāsiddhi" : deux traités de Vasubandhu : "Viṁśatikā" (La Vingtaine), accompagnée d'une explication en prose, et "Triṁśikā" (La Trentaine), avec le commentaire de Sthiramati : original sanscrit publié pour la première fois, d'après des manuscrits rapportés du Népal / par Sylvain Lévi,... | Gallica (bnf.fr)



 
日仏会館が神田にあった頃からの蔵書。


Sthiramatiの注釈はこのあたりから始まるようだが、これを転写するには、ちょっとしり込みする。






私が求めて資料が、フランス国立図書館のHPで公開された居ることが分かった時点で、私は肺炎で日赤に2週間入院することになったしまった。




  6月、7月と2度も入院して、唯識学習は中断した。

  
    {12}第16頌~第18頌 外境存在論を破る 

    PratyakSa(直接知覚・感覚知)は夢でも起きる。対象が無くても起きる。 記憶についても同じ。

  覚醒時においても、対象が無くても直接知覚が起きるのであるが、薫習された習気によって、そのことが分かっていない。

  相互に識が影響されることがある。

  (反対派は、外部の影響、悪友、羊殺者の例を挙げて反論)

    2023・8・30

{12}第19頌~第21頌  唯識無境
  第19頌は「死は、他人の識の変化から起きる異変である。
  鬼たちの意志力によって他の人の意識の乱れが生じるようなものである。」とあり、続く第20頌も千人の怒りによって空虚にされた林のことが出てきて何のことか分からない。次の頌もよく分からない。

 [13]第22頌
   「唯識の成立のために、自分の能力の範囲で行ったが、全体については考えは及んでいない。それは、仏の境界だから

全体の感想:

唯、識だけがあって、自分も物も存在しないという主張は理解できる。
反対する意見に対して、夢の中で起きていることと同様であると反論しているのも分る。
物の非存在を極微(今でいえば、素粒子?)の世界まで遡って、議論しているのは圧巻。現代物理学者が読んで欲しい。
当時色々な学派があって、それとの論争でもあるので、正直理解できなかったことも多かった。

野口慊三さんとサンスクリット原文を、2023・3月から、毎週1時間読み始めて、その間、6,7月と私の2回にわたる入院というブランクをへて、9月26日に読了した。(会読20回)

原文を読む手ごたえは何ものにも代えがたい。

次は唯識三十頌を読む  次頁

   2023・9・26
 ヴァスバンドウのサンスクリットは、正直理解できないことが多い。それは、当時の哲学的論争の上に立っての話であるし、地獄の例など、実感がわかない。

要は、唯、識だけという主張は分かる。

【野口慊三さんのメールから】
終わりが近づいてきたのは嬉しいですが、振り返って、残るものが何もないような気がしています。
サンスクリットが難しいのか、ヴァスバンドウの語り口が難しいのか、質問者との応答が噛み合っていないのか、全体に理解できないまま終わりを迎えそうです。時間があればゆっくり初めから読み直してみたいと思いますが、今の所、そんな時間が取れる状況でもありません。


デカルトの有名な「我思う故に我あり」というのは、もしかして唯識なのではないかと思い始めています。
「私が存在する」と私は思っているけれど、本当は「私」なんてものは存在していない・・・とデカルトは知っていたのかも?
   2023・9・3