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   唯識三十頌

Triśikā Vijñaptimātratā



  サンスクリット原文はネット上でも簡単に得られるのだが、スティラマティ(安慧)の注釈はフランスのレビという人が1925年出版したものが、流布しているのだが、入手が難しい。この注釈は翻訳で見ることにして、三十頌本文のみサンスクリットで読むことにした。
  それでも、原文を読む価値は十分感じられる。

  ネット上にも和訳、漢訳、英訳もあるので、それも頼りにするが、基本はサンスクリット原文を自分なりに読むことにある。

  語釈、文法的なことはノートの記して、私の読み取った内容を、読んだ証として、私の言葉で、結論的に私釈として、[  ]に記しておきます。

  いつのように、野口慊三さんとご一緒。
   第1回、2023年10月3日から


  2023・9・20



 私が手元に置いた参考書。

スティラマティの注は、右端の世親論集に荒牧典敏訳がある。その隣の仏典には渡辺昭宏訳が第7頌までの訳がある。


更に一冊追加した。
岡野守也『唯識の心理学』青土社である。(書影:左側)
彼は、「心だけが存在し、外界は存在しない」という、唯識の大前提を否定し、心理学的に面白い所を読み(盗ろう)という態度で、自分でも、唯識の意図的誤読とまでは行かなくとも、創造的な拡大解釈の試み、と言っている。(p38~44参照)、
  私の唯識観とは異なるのだが、この書は、『唯識三十頌』を玄奘訳を逐条的に解説(?)しているので、刺激になるかと思い、座右に置くことにした。

なお、書影の本は2005年の改定新版の2009年第2刷。
1990年初版から、2点大きく変わっている。「あとがき」要注意

   2023・9・29

  
   第1頌
ātmadharmopacāro hi vividho yaḥ pravartate /
vijñānaparināme 'sau parināmaḥ sa ca tridhā // 1

私釈:[自分がある、事物が存在する、と考えるのは一種の仮説であって、実に、様々な形で起きる。
それは、識の変化において起き、その変化は3通りある。]

補足 人無我(自分はない)法無我(諸物はない)、諸法無我、色即是空・・・これは仏教の根本思想であるが、唯識はその伝統上にある。
『唯識二十論』でそのことを論じているが、バスバンドウは、それらが起きるのは識の変化vijñānaparināme においてあり、そこにおける変化をこれから述べて行く。

vijñānaparināme は普通、識転変と訳されるが、荒牧訳では「変化しつつ生成する識」など、様々な訳がある。

転変の意味については、議論がある。

upacāro は仮設と訳されることが多い。唯識の根幹を示すもので、自分がある、事物が存在する、とは一種の仮説と考えるのである。
仮説はちょっとニュアンスが違うのかもしれない。仮にそのように見える、仮の姿メタファーとすべきか?

   2023・10・2改

阿頼耶識=異熟転変
末那識= 思量転変
前六識= 了別境転変
  スティラマティ(以下、荒牧典俊訳による)の注は、この『唯識三十頌』が何のためにあるのかの説明から入る。
それは、一口にいうと、我や諸物についての偏見を解き、解脱へ導くためのものであるという。

第1頌に入るまでに、訳書で17頁程、『唯識二十論』でなされた人無我、法無我の議論が続く。

識転変には原因としてのはたらき(因相)と結果としてのはたらき(果相)の2面があると分析する。(ちょっと難解)


物が存在するというのは一種の仮説というのは、現代物理学者の到達した考えに近い。

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最近、ジョセフ・キャンベルの影響もあって、「すべてのものは隠喩(メタファー)に過ぎない」というゲーテの言葉がよく言われるが、出所はファウストの最終の所の
   Alles Vergängliche
   Ist nur ein Gleichnis;

   [一切の無常なるものは
    ただ影像たるに過ぎず。]                                 (鴎外訳)

キャンベルのメタファーに関する引用:
 ゲーテ:Everything Phenomenal or temporal is but a reference, but a metaphor.
 ニーチェ:Everything eternal is but areference, but a metaphor.

The Hero's Journey Joseph Campbell on his life and work
p161 神話の機能について説明している箇所


これに便乗して、第1頌前半を訳すと
 「私も諸物も移りゆくものはすべて隠喩メタファーに過ぎない」

2023・10・4

  
   第2頌
vipāko mananākhyaś ca vijñāptir viṣayasya ca /
tatrālayākhyaṃ vijñāṃ vipākaḥ sarvabiijakam // 2


私釈:[(3種類とは)異熟と思量とよばれるものと対象の識別である。そこでは、異熟はアーラヤ識と呼ばれ、すべての種子が含まれる。]

補足:3種類とはアーラヤ識、末那識、六識の3種類。

異熟:時間を異にして生じる、または性格を異にして生じる。
vipāka を玄奘が異熟と訳したのでそれを踏襲しているが、成熟という意味である。
種子(じゅうじ)biija 特殊な心的力
  現在の諸現象を生み出す種子(名言種子、等流習気)
  未来世の自己を形成する種子(業種子、異熟習気)
 宇宙のすべての記録があるという、神智学の「アカシックレコード」や現代の「量子真空」における「ゼロ・ポイント・フィールド」に思いを馳せる。



野口さんは、vipāka を因果応報、業のように解した。
岩波仏教辞典、異熟の項参照して。

2023・10・10

  
   第3頌
asaṃvidi takopādisthānavijñaptikaṃ ca tat /
sadā sparśamanaskāravitsaMjñāce tanānvitam // 3


私釈:[それ(アーラヤ識)は、その環境、場所の認識は知覚できないが、常に、感触、注意、感受、想念、意志が伴っている]

補足:原難解。asaṃvidi takaを一語と見るまでは理解できなかった。訳者により、さまざま。私釈の前半は大胆な意訳。要は阿頼耶識は何処にあるか知覚できないと理解。後半の訳語は渡辺照宏訳を借用。

前半は、横山によると、識である限り、その対象が必要であり、そのことをの述べている。

知覚できないから潜在意識とされる。

upAdiはupAdAnaの事をさしているようだが、これを執受、基体、維持されるもの、などの訳語があるが、私釈は辞書のcircumstance
を採用。


これに肉体維持の働きもを当てているのが、横山
入門p114コラム]

sparśamanaskāravitsaMjñāce  の真ん中のitがよく分からない。

 2023・9・29(改10・17)
 スティラマティ:
第3頌前半を「はっきりとは認知されない統一するはたらきと地平として現象している」として、「統一するはたらき」と「地平として現象している」に詳しい説明を付けている。

「統一するはたらき」
人間存在などをはからう構想をあらしめる潜勢力と物質などの諸存在をはからう構想をあらしめる潜勢力
「地平として現象している」 
世界という場所として現象している。

玄奘:執受、処、了の3つと見るか、執受、処了の2つと見るか?


阿頼耶識、末那識はいずれも悟らなければ分からない世界である。

ここに出てくる感触、注意、感受、想念、意志は、後の六識の中に出てくる物とは、名前が同じでも次元が異なる。
(野口さん)

  
   横山紘一『唯識思想入門』レグルス文庫、
         初版、1976年、14刷2014年

  我々は、今 原典にあたって 、唯識を学ぼうとしているのだが、唯識思想全体を鳥瞰して、今、自分たちのやっていることの位置を確かめたい。
 そのために、手にした本書は、その目的に最適な ものであった 。
 本書、第二章約100頁には、唯識思想の構造を、多くの図解を含め、分かり易く、説明しているだけでなく、何よりも ありがたいのは 、主要な用語にサンスクリットを併記してあることである。

なお。第一章は唯識思想の歴史的位置づけ

   唯識説成立の諸因(p38)
 原始仏教以来の(唯心的傾向〕        →唯識
 部派仏教内に起こった〔輪廻の主体の追求〕→阿頼耶識
 般若経の〔空の思想〕              →三性三無性
 仏陀にはじまる〔禅定の重視〕         →瑜伽
   これら合わせて唯識思想

 本書は、唯識小便覧とも言うべき座右置くべき有益な本であった。

   2023・10・1
 

  
   第4頌
upekSaa vedanaa tatraanivRtaavyaakRtaM ca tat /
tathaa sparZaadayas tac ca vartate srotasughavat // 4

私釈:[そこでは、感受は、無視できるほどのものであり、(煩悩に)妨げられず、(善悪も)未分化である。
感触その他も同様である。それらは激流のようにうごいている。]

補足:upekSaaが難解。無視され、捨てられ、と言った語なのだが、
阿頼耶識の状況描写か?
 煩悩に覆われるか否か、有覆、無覆upekSaa
善悪何れでもないも、無記avyaakRta
  こんなカテゴリーが終始付いて回る、


野口さんは、avyaakRtaを辞書ある
considered as one with tht substance of brahma
によって、全能の意味に解された。
 2023・10・23


  
   第5頌
tasya vyaavRttir arhatve tadaazritya pravartate /
tadaalambaM manonaama vijJaanaM mananaatmaakam // 5

私釈:[その激流からの回避は、阿羅漢の位に於いて出来る。
アーラヤ識に基づいて動き、それに寄りかかる思考という名の識(末那識)がある。思考作用を本質している。]

激流の停止であって、アーラヤ識がなくなるのではない。
 阿羅漢は煩悩を殺し、または、涅槃に入って迷いの世界に生まれない者。

末那識 ここで我が生まれることは次の第6頌で分る。
「我思う、故に、我あり」

私は、「我」というものがいかに根深いものであるか、これで知った。

2023・10・26

荒牧典俊訳では、末那識は自我意識と訳されている。
『大乗仏典』、p72

 
  第6頌
klezaiz caturbhiH sahitam nivRtaavyaakRtaiH sadaa / aatmadRSTyaatmamohaatmamaanaatmasnehasaMjJitaiH // 6
私釈:[汚れに 覆われており(有覆)、善悪いづれでもない(無記の)4つの煩悩が常に随伴する。我見、我痴、我慢、我愛と呼ばれる。]

有覆とは、解脱の妨げになるから。横山

有覆、無記という個所は、玄奘訳にはない。
 avyaakRtaは第4頌参照。

煩悩klezaは部派によって異なる。俱舎論では19種

mamas(思量)が自我の根源であるが、ここでの自我は、後の第八頌以下で出てくる第七識の「意mamas」が生み出す自我とは異なる。
自我は2層になっていて、その奥の方。
(横山・入門 p159~)

AtmadRSti 我見 自我があると誤認
Atmamoha
我痴 自我ないことを知らないー 無明
Atmamana
我慢 自我の驕り
Atmasneha
我愛 自我への愛着

  
    第7頌
yatrajas tanmayair anyaiH sparZaadyaiz caarhato na tat /
na nirodhasamaapattau maarge lokottare na ca // 7
私釈:
[生まれに属するもののみが随伴する。他の感触なども同様。滅尽の禅定、世間道を越えた状態ではそれらは存在しない。〕

補足:「生まれに属するもの」とは六道輪廻の何処にうまれたかによるものと思われる。
「他の感触など」は、第3頌に示されている感触、注意、感受、想念、意志

 末那識は、阿羅漢、滅尽定、出世間道の段階で存在しない。所謂、「我」が取れるということか?


悟りのレベルを3段階に分けている。
『世親』p236~238

実践を伴わなければ無意味。

  
    第8頌
dvitiiyaH pariZaamo 'yaM tRtiiyaH saDvidhasya yaa / viSayasyopalabdhiH saa kuzalaakuzalaadvaya // 8
私釈:
[以上が第二の転変である。第三の転変は、6種の
対象認知である。善・悪・無記である〕

  2023・10・9
 対象の6つは、眼、耳、鼻、舌�、身、意、の対象。
文章には出ていない。

対象(境)、viSaya. arthaはそもそも無いはず(唯識無境)だが、・・・・・
  唯識二十論第1頌
  
  第9頌
 arvatragair viniyataiH kuzalaiz caitasair asau / saMprayuktaa tathaa klezair upaklezais trivedanaa // 9
私釈:[ この6種の対象認知は、①広く行き渡るもの、②限られたもの、③善という心的要素、④煩悩、⑤煩悩的要素、これらに3つの感受を伴う。

3つの感受とは苦受、楽受、不苦不楽受
 これは六識がともなう心的作用、
5種類に分け、以下、10頌~16頌で説明がある。

文章が頌をまたがるものあるので、要注意。

サンスクリット、漢語、日本語のニュアンスが違うので、訳語が一定しない。

漢語は一つのコンセプトを原則一字で顕すので、玄奘訳はすばらしい。
     
第10頌
aadyaaH sprarzaadayaZ chandaadhimokSasmRtayaH saha / samaadhidhiibhyaaM niyataaH zraddhaatha hrir apatrapaa // 10

私釈:[この最初のもの(①広くいきわたるもの)は触知などである。②限られたものとは、欲求、決断、記憶、三昧、理解である。/(③は)信仰、悔悟と恥知をしる-第11頌に続く)]

遍行ー第3頌に述べている感触、注意、感受、想念、意志
  これは、アーラヤ識、マナ識にも共通する。
別境ー特別な対象に向かうも。
ー第十二頌まで続く。


 2023・10・15

③善以降第16頌までの玄奘訳

善謂信慚愧 無貪等三根

勤安不放逸 行捨及不害

煩惱謂貪瞋 癡慢疑惡見

隨煩惱謂忿 恨覆惱嫉慳

誑諂與害憍 無慚及無愧

掉擧與惛沈 不信并懈怠

放逸及失念 散亂不正知

不定謂悔眠 尋伺二各二

依止根本識 五識隨縁現

或倶或不倶 如濤波依水

意識常現起 除生無想天

及無心二定 睡眠與悶絶


 
第11頌
alobhaaditrayam viiryaM prazrabdhiH saapramaadikaa / ahiMsaa kuzlaaH klezaa raagapratighamuuDhayaH // 11

私釈:[貪らない、怒らない、無知でないの3つ、努力、安定、不放逸である。 ④煩悩は、貪、怒り、無知・・・)
 10頌~16頌で六識の心の作用として取り上げられたものは:
①遍行 ー5
②別境 ー5
③善  ー10
④煩悩 ー6
⑤隋煩悩ー20

当時このように細やかに心の分析を行っており、それが可能な語彙を持っていた驚くべきことである。
漢語もそれに対応する語(漢字)を持っていた。

  
  第12頌
maanadRgvicikitsaaz ca krodhopanahane punaH / mrakSaH pradaaza iirSyaatha maatsaryaM saha maayayaa // 12
私釈:[慢、見、疑である。(以上が根本煩悩)(以下隋煩悩、20ある) 怒り、恨み)隠蔽、罵倒、嫉み、吝嗇、欺き)
 

  
   第13頌
 zaaThyaM mado 'vihiMsaahriir atrapaa styaanam uddhavaH / aazraddhyam atha kausiidyaM pramaado muSitaa smRtiH // 13
私釈:[惑わし、驕り、殺害、無懺悔、無羞恥、昏沈、心不静寂、
不信、怠り、放逸、失念]
 

  
  第14頌 
vikSepo 'saMprajanyaM ca kaukRtyaM middham eva ca /vitarkaz ca vicaaraz cety upaklezaa dvaye dvidhaa // 14
私釈:[散乱、不正知、後悔と睡眠、推求と推究、これらが、付随的煩悩である。終わりの二つのセットには2種類ある」

終わりの二つのセットには2種類あるという意味は、それぞれに汚れたもの、汚れないのおの2種類があるという意味。

vitarta(推求・尋)知ろうとすること、「何だろう」
vicara(推究・伺)「何だろう」と思ったことをさらに追及する。

この二つは、好奇心の出所ではないかと思う。
科学の原点。

AIを考える上で、第8頌以下の心の作用はどうなっているのか?

  
   第15頌
paJcaanaaM muulavijJaane yathaapratyayam udbhavaH / vijJaanaaM saha na vaa taraGgaaNaaM yathaa jale // 15
私釈:[5種の識知は、アーラヤ識において、縁によって生まれる。
同時の時もあり、そうでない時もあり、波の水におけるが如きもの。]

5種の識知とは:①第9頌の遍行、別境、善、煩悩、随煩悩を指すのか?②眼、耳、鼻、舌、身を指すのか?、
 


  
  第16頌
manovijJaanasaMbhuutiH sarvadaasaMjJikad rte / samaapattidvyaan middhaan muurchanaad apy acittakaat // 16
私釈:[意識は常に生じる。ただし、無想果と
2つの無尽定と気絶と無感覚を除く。]

意識は上記②に次ぐ意である。
2つの無尽定とは第7頌の滅尽定と出世間道の事?


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