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第二章−二

 

 冬の風が吹き荒れていた。
 しっかりと杭で大地に繋がれているカイヤが、強風にぐらぐらと揺らいでいた。羊達はおびえて群れ集まり、身を寄せあって風に飛ばされぬよう足を踏みしめていた。一年で最も厳しい季節が訪れようとしていた。
 けれども、草原の民達はそんな過酷な状況にも少しもめげずに、明るく日々を暮らしていた。ためらう羊達を追いたてて馬を走らせる彼らのかけ声が、広い草原にさえざえと響きわたった。
 ユリウスは独りその群れからはずれ、冷たい地面に座ってぼんやりとその光景を眺めていた。
 すでに彼は寒さなど感じることはなかった。だが、精霊達が勝手に群れ集まってきては、彼を守るように自らの魂を燃焼させて包みこんでいった。その光におおわれ、彼の体は遠くからでもはっきりとわかるほど、ぼうっと白く輝いていた。
 ユリウスの力を知る草原の者達ですら、そのさまに恐れおののいて近寄ってこようとはしなかった。ただティティだけが、心配そうに何度も馬の足を止め、遠巻きに彼の様子を窺っていた。
 ユリウスは幾度も、目を閉じたり開けたりを繰り返していた。時折なにかを追い払うように激しく首を振り、そしてまた目を閉じる。不可思議な行為を長い間続けていた。
(……まただ。いったいなんだ? なにかがまとわりついて離れない。精神がひっぱられる。心が勝手に浮遊する。ーーそれにこの精霊! ああ、うっとおしい。どこかに行ってしまえ! そんなに俺の中に入ってくるな。もう力はいらない。充分だ。これ以上おまえ達を受け入れたら、俺は俺でないものに変わっていく。やめろ、俺に触れるな!)
 ぱあっと激しく彼の身がきらめき、一瞬おおっていた輝きが消えた。が、またすぐに精霊は集まって同じことを繰り返し始めるす。彼はしかたなく諦め、しぶしぶ彼らに身をまかせた。
彼は自分の力に当惑していた。いつの頃からか、それは自分自身ですら押さえきれぬほどに強力なものとなっていた。
 七年前、ゼルファに教えられ初めて目覚めた時とは雲泥の差である。いや、それどころではない。自分の意志を越えてどんどん強まっていく。すでに人の領域を越えている。
 そして今、その彼をも凌ぐ強い力が、彼をどこかに導き、連れていこうとしていた。
 強力で絶対的な、なにかの力。猛烈な誰かの意志。彼はしばらくためらったのち、意を決して心を解放した。もとに戻れなくなる危険を秘めた、あやうい賭ではあったが、それ以外にこの状況を治める方法が思いつかなかったのだ。
 彼の精神はその力に引かれ大空へと舞いあがった。下を見おろすと、自分の空になった肉体が草原に倒れているのが見えた。意識は何度か上空を旋回し、そしてすうっと滑るようにまっすぐ南に向かって進み始めた。
(南……、光の王宮か? なんだろう。なにか事件があったとも感じないが)
 ユリウスは疑問に思いながらも、その意志に従って飛び続けた。気流に乗る鳥のように軽やかな飛行。広々とした解放感。肉体という器を脱ぎ捨てることがこんなにもすばらしいものであるのかと実感しながら、彼はしばし壮快な気分に浸った。
その時、突然すべての感覚が揺らぐような奇妙な幻覚に襲われた。自分を取り巻く世界が消失したかのような、とらえどころのない不気味な衝撃。一瞬のことではあったが、初めての体験にユリウスは動揺した。
(今のはなんだ? なにかが消え、そして戻った。なにが起こったんだ?)
 だが困惑するユリウスを後目に、力はなおも彼を引き連れて飛んでいった。やがて彼の前に真っ白な大理石の建物と、それを囲んで咲き乱れる見事な花園が現れた。光の王宮であった。
 彼はそれを見おろしながら妙な感覚にとらわれた。見慣れているようでいて、どこか違うその風景。彼の知っている王宮ではない。見た目こそなにも変わってはいないが、どこか強烈な違和感がある。心と記憶がそれを叫んでいる。なにかが違うと。
 ユリウスはゆっくりと降下した。解放された精神が、異常な事態を敏感に感じとって緊張していた。辺りの様子をうかがいながら慎重に探ってまわる。なぜか人の気配はまったくなかった。
 王宮は穏やかな静寂に包まれていた。驚くほどの数の精霊達が花々の上で飛びまわり、のんびりと遊んでいた。すでに死滅したはずの妖精までがいて、ユリウスは唖然としてその光景に見とれた。
 美しい景色。しかしどこか頼りない。
 霞をかぶせたように白々しく、少しも実感が感じられない。まるで虚像を見ているようだ。
(どこだろう、ここは。王宮に似ているが、そのものではあるがーーでも違う。いったいどういうことなんだ?)
 彼は精神を集中した。肉体にとらわれぬそれは驚くほど鋭敏だった。そして突然悟った。ユリウスはその事実に愕然とした。
(そうか! ここは今じゃない。時間軸がずれてる。俺はここにいながら、ここに存在してはいない。精神だけがひっぱられてやってきたのだ。ーーここは過去だ。それも、遥か古の……精霊の時代)
 彼は激しい衝撃を受けた。まさか時空を越えるとは思ってもみなかったのだ。
 たとえなにかの力に引かれてきたとはいえ、時間の枠を抜け出すことは到底人の技では無理なのだ。ましてや、すでに過ぎ去って、事実に封じ込められている過去ならばなおのことに。
 いつも彼がおこなう未来の予言。あれは精霊の魂を利用して、ほんの少し、仮に時を速めるだけである。だから絶対的な確実性はないし、それを変えることも可能である。
 しかし過去となると話は別だ。過去はすでに起こった事象の集合体だ。動かしがたい事実だけがそこにある。確固たる意志と力を持った、ある意味での生き物のように、それは頑として他を受けつけない。いや、受け入れるわけにはいかぬのだ。未来をなにかを受け入れることは、その過去を変えること。そして過去を変えることは、現在の消失を意味するのだから。
 だからいかに強大なに力をもってしても、過去に精神を飛ばすことだけは無理だった。無理なはずであった。しかし現に彼は今ここにいる。遥か太古の、精霊の世界に。
 ユリウスはしばらくの間、その事実にうちのめされていた。が、やがて小さくせせら笑った。
(まったく……今度ばかりは恐れいった。なんて化物なのだ、俺という奴は。俺はすでに人間ではないのか。もう人の世にいてはいけないというのか。ーーでは夢よ、教えてくれ。俺はどこに行けばいい? いったいどうしろとおまえは言うのだ!)
 突然まわりの光景が消失した。
 辺り一面まぶしく輝く光の渦となり、ユリウスを囲んでものすごい勢いで回り始めた。巻き込まれそうになるのを必死にこらえながら、彼の気が痛いほどなにかに反応していた。
 その渦をつくりだしている強大な気。人のものではない。荘厳で、偉大で、清廉なる、いと気高き何者かの気。
 やがて光の渦の中から、いっそう強く輝く光の球体が現れいでた。五つの光。それが彼の回りをゆっくりと飛びただよう。まるでなにかの機会をうかがうように。
 そしてそれは突然ユリウスめがけて飛びかかってきた。
 抵抗の暇さえなく、それは彼の中に入り込んだ。恐ろしいほどのパワーである。
 精神が光に満ちる。受容しきれない。溢れだす。行き場のない力がこらえきれずに爆発する。
 引き裂かれるような苦痛とともに、彼の意識は砕け散った。

「ユリウス!」
 彼は一瞬にして今に戻った。
 眼前にティティがいた。恐怖と不安におののいて、一生懸命ユリウスの肩をつかみ、揺すぶっていた。
「……ティティ?」
「ユリウス! 俺がわかるんだね? 良かった。死んじまったのかと思った。ああ、ユリウス……」
 ティティは安堵にがっくりと肩の力をぬいた。途端にぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。ユリウスはいまだ呆然としながら、その姿を見いっていた。
 やがて彼は腕をあげ、濡れた少年の頬をぬぐった。
「泣くな。そう簡単に死んでたまるか」
「なにいってんだよ。いくら呼んだって、ぴくりともしなかったくせに。目だって開いてるのになんにも見えてなくて。体がどんどん冷たくなって、俺、どうしようかと……俺」
 いったん止まりかけた涙がまた溢れだす。ティティは子供のように泣きじゃくった。
 ユリウスは地面に横たわったままじっと彼を見つめていたが、やがて少年が落ち着いたのを見て、優しく語りかけた。
「ティティ、おまえも寝そべってみろよ。気持ちいいぞ」
 ティティは鼻をすすり涙声で文句を言った。
「馬鹿いえよ。凍えちまうよ、そんなことしたら。霜だっておりてるくらい冷たいのに」
「そんなことはない。大地は暖かい。ほら」
 ユリウスは強引にティティの手を引いて、かたわらに寝そべらせた。不思議と地面はぽかぽかと暖かく、少しも冷たくはなかった。
 二人は広い草原の真ん中に寝ころんで、真っ黒な雲が足早にゆきすぎる曇った空を見あげていた。どこからか遠雷が聞こえてくる。
「ティティ、おまえは草原が好きか?」
 唐突にユリウスがたずねた。ティティはとまどいつつも素直に答えた。
「嫌いじゃないよ。生まれ育った場所だもんな。でも好きかって聞かれると……うーん、わかんねえや」
「ふふん。ーーでは闇の国と光の国ではどちらがいい? 暮らすとしたら、おまえはそのどちらを選ぶ?」
「そりゃあ光の国だよ。闇の国なんてとんでもねえ。俺何度か行ったことあるけど、あそこは冷たくて忌まわしくて、薄気味悪い。あんな所に住むくらいなら、草原のほうがまだましだ。そりゃここは寒くて、一年の大半は嵐が吹き荒れてるけど、それでもお日様ってもんがある。あんな岩穴はまっぴらごめんだ」
 ユリウスは小さく笑った。
「おまえは正直だな。だがそれはまぎれもない真実だな。世界中の人間はそう思っていることだろう。住みたいのは光の下。好んで闇を選ぶ者はいない。ーーそれは闇の住人にとっても同じことだ。彼らもまた太陽の下で生きることを夢みている。だから彼らはここシャインフルーの地を求めて攻めいってくる。それを銀紋族は拒絶する。そして戦いがおこる。そんな愚かな歴史を何百年も続けている。馬鹿な人間達」
 ユリウスは言葉をとぎって口をつぐみ、しばらくの間無言で空を見つめていた。金色の前髪が風になびく。左側から見るユリウスの顔は、傷跡も見えず夢みるように美しかった。ティティは声もなくその横顔に見いっていた。
 ふいに彼は少年に顔を向けた。灰色の隻眼が限りない優しさに溢れティティを見つめた。
「おまえは不思議だ、ティティ。いや、草原の民はみんなそうだ。驚くほど心が自由だ。したたかで、獰猛で、そのくせ清廉で、生まれながらにして等しい目を持っている。それはおまえ達の身の内に流れる、二つの血ゆえなのだろうか。俺にはわからない」
 ユリウスは寂しげに目を細めた。ティティはためらいがちに言い返した。
「あんたの言葉の意味は……俺にはよくわかんねえ。でも草原の民はたいていがその混血をうとまれて町や村を追われた奴らばかりだよ。俺みたくここで生まれたのは別としてさ。レンタスもペンじいも、みんなそうだ。あのエウルークの街ですら、混血にはろくな仕事はねえ。俺達はあんたの言ういい人間じゃない。草原はあまされた半端者の逃げ場所だ」
「半端者なんかじゃないさ。おまえだって本当は仲間をそんなふうに思ってはいまい? それに、それを言うなら俺も草原の流れ者だ。ティティは俺を半端者と呼ぶのか?」
「ち、違うよ! あんたは半端者どころか、すごい人さ。王様だってかなわないよ」
 必死になって言い訳するティティに、ユリウスは明るく笑ってみせた。軽やかに半身を起こし、あぐらをかいて座ると、己の左手を見、静かに語った。
「昔、両手があった。その両手で夢を見た。悲しい夢。ひどく苦しく、せつない夢。もう二度とごめんだと、あの時思った。だがーーいま残された片方の手で、もう一度夢を見なければいけないようだ。そこに俺の探す答があると、あの光は教えてくれた。この先俺はどうすればいいのか。いったいどこに行けばいいのか。その、答が……」
ティティはじっと彼を見つめながら、黙って耳を傾けていた。彼の話すことはほとんどがわからなかったが、その言葉は胸を押しつぶすような不安を感じさせた。彼が今にも眼前から消えてしまって、そして二度と戻ってこないような、そんな気がした。
 ユリウスはすっくと立ちあがると、大きく指笛を吹いた。遠くで草をはんでいた彼の馬が、主人の呼び声に大急ぎで駆け寄ってきた。手綱をとってひきよせる彼に、ティティはおずおずとたずねた。
「どこか……行くのか? じゃ、俺も一緒に行くよ」
 彼は返事をしなかった。無言が拒絶を語っている。ティティははね起きて、すがるように肩をつかんだ。たった今感じた心配が現実になりそうで、ティティはひどく怖かった。
 だがそんな彼の心を見透かすかのように、ユリウスはかすかに笑って言った。
「ちゃんと帰ってくる。心配するな」
「でも……」
 彼はなかば呆れたように苦笑し、握っていた手綱を離すと額にしめていた組紐をはずした。そしてそれをティティの首にかけた。
「こいつを預けていく。大事なものだ。なくすなよ」
 ティティは驚いてそれを見た。その飾り紐は、確かに彼の言う通り、ユリウスがなによりも大切にしているものだった。あらゆるものに固執しない彼が、それだけは誰にも触れさせず、いつも身につけて離さなかった。
 真っ黒で艶やかな、見事なまでの黒髪を編んで作ったその紐。恋人の髪、と聞いたら、彼は小さく笑っていた。
ユリウスはつんとティティの額を指で小突き、軽やかに馬に跨ると素晴らしい速さで駆けていった。あっという間にその姿は小さくなって見えなくなる。ティティはいまだ不安に胸を震わせながら、ずっとそのあとを見送っていた。
 ほったらかしだったハガフが不満げに鳴いた。ティティはぶるっと身震いした。ユリウスと一緒の時にはまるで感じなかった寒さが、彼が消えた途端突然のように蘇って襲ってきた。
 ティティはすごすごと羊の待つもとへと帰った。そこには自分を必要とする仲間がいる。生活がある。世界がある。愛する者はーーいなかったが。



 ーー封印された宝玉はこれを語る。

 『時は源。
   妖精、精霊、魔物達が、ひとつの世界に生まれ、死が滅亡を意味しなかった、時の代の話である。
万物の頂に立ち、慈悲と、愛憐と、情愛の心を持ちて世を征した、偉大なる魂、聖霊王あり。
いと気高き王は、世界創造の最後の仕事として、自らの血、自らの肉、自らの力を与えて、その妻との間にふたつの無垢なる魂を創造することとした。
ひとりは、勇敢なる心を持ちて、世の争いを制する光の子。
ひとりは、安らかなる心を持ちて、世の平和を保つ影の子。
ふたりがそろい、共にあり続けることで、世が広く長く栄えるであろう望みをたくした。またふたりであることで、互いの孤独癒せるようにとの優しさゆえであった。
さても母胎に宿りしふたつの魂に、王はまた自らの魂をも分け与えた。
 強く、優しく、哀れみ深く、つねに清廉で気高くあるように、おのが聖なる魂をふたつに分かち、片方をひとつの命に、片方をもうひとつに授けた。王はその仕事に満足した。
 十月ののちに、妻はふたつの魂を出産した。
  生まれた子供は同じ顔、同じ力、同じ心を持っていた。しかし彼らは、その心に光を影を持って生まれた。
光の子は、強くたくましく、勇気と活力に溢れていたが、時として荒々しく、慈悲を忘れた。
影の子は、寛容で穏やかで、心優しき性質であったが、同時に弱く臆病で、卑屈な心根を持っていた。
彼らは王の魂の、すべての部分を持って生まれた。
 偉大なる王はふたつの魂を見、おのれの中にある悪の心を知って、おおいにそれを悲しんだ。王はふたつの魂よりそれぞれの邪悪なる部分を取りのぞいて、その額に封印した。
 すると、光の子はその金の髪、金の瞳が闇の色に染まり、額に真っ黒な星の紋が現れた。
 影の子は真白き肌が影の色に染まり、額に銀の紋が現れた。双子の姿は別のものとなった。
 また王はおのれの中の悪をおおいに恥じ、またその慢心を後悔した。王は双子の持つ邪悪なる心を憂いて、その行く末を懸念した。
 そして未来永劫その紋が解放されることのないよう、その秘密が伝えられることのないよう、自らの力、自らの命をもって封印した。
 しかるべくして、偉大なる聖霊王の魂は失われ、その代は終わりをつげたのである』


 これは、封印された宝玉が内包する、第一の、真実の伝説である。ーーーー


 ーー封印された宝玉はこれを語る。

 『偉大なる聖霊王亡きあと、世は死がその意味する時代となり、あるものすべてが滅亡の運命を持つさだめとなった。
聖霊王のふたりの子供は、時の流れをその身に受け、すこやかに成長した。ふたりは互いによく慈しみ、真の愛を授けあった。それはふたつでありひとつであるかのごとき、愛情深き姿であった。
しかしある時御子らは、泉の精霊に移りしおのれの姿を見、おおいに疑問をいだいた。
彼らは双子でありながら、その容貌は別であった。似て非なるものであった。
彼らは、それぞれがおのが身の醜さを恥じ、相手の美しさに見とれた。光の子は金の髪を羨み、影の子は白き肌を妬んだ。それぞれの明るき部分に、羨望し、嫉妬し、そねみ、憎んだ。
彼らは相手の光を手にいれんとし、それぞれの力をもって戦った。
力は互角であり、決着はつかなかった。争いは幾晩幾昼も続き、多くの魂が失われ、多くの血が流れた。
 亡き聖霊王の妻、双子の母の悲しみは深く、母は双子の痛みと苦しみを味わった。似て非なる姿の意味を知らせようとしたが、封印された事実は語るすべがなかった。
母は泣いて戦いの終結を願ったが、声は聞き入れられなかった。悲しみあぐねた母は、その身を双子の間にとうじ、その命をもって戦いをおさめた。
長き戦いは終わった。
  双子達は涙し、己の行いを後悔した。彼らは悲しみ、二度と互いの姿見て争うことのなきよう、地の上と下に、別れて暮らすことを決意した。
 双子は、亡き母の死した跡に残りし母の目、ふたつの水晶石をその戒めとし、ひとつづつ分けあった。
右の眼は、影の子を見ていたために、黒曜石のごとき黒に銀の光彩を秘めていた。
 左の眼は、光の子を見ていたために、水晶のごとき透明に闇の光彩を秘めていた。
双子は、別離の後も、いとしき互いの存在を忘れぬように、それぞれがおのが身姿とは別のものを選んだ。そして光の子は影の子を残し、地に降りた。
 地はふたつに別れ、また魂も二分した。世はこれより長き決別の代を迎え、双子の魂は二度と生きて巡り会うことはなかった。 
 また彼らは、自らの手を母の血で汚した罪におののき、その事実をふたりの力、母の命をもって封印した。
かくして、真実は封印され、双子の並び添う姿は永遠にこの世から失われたのである』 

 これは、封印された宝玉が内包する、第二の、真実の伝説である。ーーーー



 シンオウがそこを歩いていたのはほんの偶然にすぎなかった。しかしその偶然は、間違いなく運命が授けたものであった。
 彼は白灯がともされた王宮の廊下を、独り自室に向かって歩いていた。すでに時は真夜中、人の気配はない。平和な静けさに包まれ、皆が安らかに眠っていた。
 先日の失敗を思いおこすたびに、彼の表情は渋いものに変わった。考えれば考えるだけ悔しさが増してくる。あの時、あのおかしな者達が騒ぎをおこしさえしなければ、きっと闇王を倒すことができたのに。そう考えると、同族ながら憎しみすら覚えた。
 くわえて、どうしてもわからないのが、あの不思議な光と、その謎の援護だった。
 いったいあれはなんだったのだろうか。どうしてあの場に現れ、自分達を救ってくれたのか。悩んでも悩んでも答はでず、シンオウは深くため息をついた。
 と、ある一室の前を通りかかった時、彼はそこから漏れてくるわずかな光に気がついて足を止めた。いつもは使用されない、人のいるはずのない部屋である。しかし重要な秘密が眠っている、亡き王達の肖像の間であった。
 彼は緊張して息をひそめ、腰の剣を静かに引き抜いた。忍び足で戸口により、耳をそばだてて中の様子をうかがう。なんの音もしてはいない。だが彼の鋭敏な神経は鋭く人の存在を感じとった。確かに誰かがそこにいる。そしてなにか許されない行為を行っているのだ。
 シンオウは深呼吸して息を整え、すばやく扉を開けると、部屋の中へと突入した。
「動くな、くせものめ!」
叫びながら剣をかまえた。しかし相手の姿を見た途端、心臓が凍りつきそうなほどに仰天した。
 それは闇夜の中、亡霊のようにぼんやりと薄く輝いていた。不気味な青白い光の奥に、どうにか判別できるほどの人の形がある。それが部屋の片隅のある壁にむかって、じっと立っていた。
 そのものはシンオウの存在にはまるで気がついていない様子で、彼が現れても身動きひとつしなかった。シンオウはしばらく呆然と見つめていたが、やがて我にかえって剣を握りなおし、身構えた。進入者が手にしているものを知って、光の国の戦士たる自覚を取り戻した。
 亡霊は封印の宝玉をつかんでいたのだ。
シンオウは朗々とした声で言い放った。
「何者だ? 現世をさまよう亡霊か、それとも闇の国のまわし者か? どちらでもよい。おまえの手にしているもの、すぐさま元の場所に戻すのだ。それはこの世の、最も重要なる禁忌。下手な振る舞いはおまえの命をも奪うことになるぞ」
 部屋に響きわたる彼の声に、亡霊はやっとその存在に気づいて、ゆっくりとシンオウに顔を向けた。わずかに輝きが薄らぎ、人の輪郭が浮きでてくる。背の高い、痩せた肢体だった。それはじっとシンオウを見つめ、それから素直に宝玉を棚に戻した。
 攻撃してくるような様子はなかった。だが降参する気もないらしい。亡霊の発する気は強く激しく、他を圧倒するような気迫に溢れていてシンオウは内心震えあがった。だが弱気をひた隠してにらみ返した。
「おまえは何者だ? なぜその宝玉の在処を知っている? いったいそこでなにをしていたのだ?」
だが亡霊は答えようとはせず、黙って彼を見返していた。やがてゆっくりと窓の方向にむかってあとずさり始めた。
「逃げる気だな。そうはさせぬ!」
 果敢に足を踏み出したシンオウに、亡霊は制するような格好で手を前に差しだした。その掌に精霊が群れ集まり、シンオウにむかって放たれた。小さな光の塊が彼の足にまとわりつき、かすかな痛みとともに、両足が地に釘付けになった。
「くそっ、なんだ、これは」
 動揺するシンオウを後目に、亡霊は窓際に寄り、カーテンをかきあげて重い開き戸を開けた。窓枠に足をかけ身を乗りだした丁度その時、それまで隠れていた月が雲の合間から現れいで、まぶしい光を投げかけた。
 驚くほどの明るさの中、まぶしさに目をとられてひるんだ亡霊の体からすうっと光が消え、その姿が月光の中にむきだしになった。
 金色の髪。褐色の肌。無惨にひきつれた深い傷のある、だが端正なおもだち。
 シンオウはあっと叫び、息を飲んだ。それはまぎれもなく、かつての教え子、希望の結晶、待ちこがれたそのものの姿だったのだ。
「ユ、ユウラファーン様!」
 シンオウは剣を持つ手をおいすがるように差しだした。しかし光の亡霊はほんのわずか彼に目を向けただけで、すっと窓をくぐると軽やかに庭に降り立ち、音もなく駆けていった。そして一瞬のうちにその姿は見えなくなってしまった。
 彼が消えると同時に、シンオウを押さえつけていた力も消え、彼の両足は解放された。シンオウはあわてて飛びだしてあとを追ったが、もうどこにも王子の影はなく、静まり返った夜の空気だけが辺りを包でいた。
 シンオウは声もなく、月光草の真ん中に立ちつくした。

    *      *      *

「……もう一度言ってちょうだい。それは本当に兄上様、ユウラファーンだったのね」
 メイアは信じきれない様子で問い返した。
「はい、間違いございません。たとえどのようにお姿が変わられようと、私があのかたを見まちがうはずはありません。確かにユウラファーン王子であらせられました」
「おお、なんてこと」
 メイアは目を閉じ、口を押さえた。愛しい兄が、王宮に来ていた。なのに、この妹のもとに寄ることもなく、それどころかこそ泥のような真似をして、そしてまたどこかに行ってしまったのだ。なんという冷たさ、なんという非情であろうか。
 本当にもうあの兄には、闇王の言ったとおり妹など見えてはいないのであろうか。いや、そんな私情ではなく、国の危機すらもが見えてはいないのか。
 深いため息をつき、メイアは額に手をあててうつむいた。シンオウが黙って見守っている。やがてゆっくりと顔をあげると、悲しげに言った。
「それで……兄上様がどこに行かれたのか、わからないのね。見失ってしまったのね」 
「……申し訳ありません。私としたことが突然のことであわててしまいまして」
 シンオウは真実をそのまま少女に伝えるようなことはしなかった。あの時見たユウラファーンの有様に、尋常ではない異様ななにかを感じていたからである。
「しかし、まるで手がかりがないわけではありません。あの時ユウラファーン様は遊牧の民の服装をしておられた。それで思い出したのですが、ーー近頃世間を騒がしている草原の盗賊団。その中に、参謀のように知恵を与え策を練る、戦いに手足れの者がいるという噂を聞いたことがあります。隻眼隻腕の若い男だと。その時は、よもやあのおかたなどとは考えもしませんでしたが、もしかしたらその男こそがユウラファーン様ではないかと」
「盗賊……。そう、ーーではすぐに調べて。その男が兄上か、それとも別の者なのか。私は一刻も早く兄上様に会って、そしてここに戻ってもらわねばならないのよ」
「はい、ただちに」 
 シンオウはすばやく身をひるがえすと王の前から退出した。残されたメイアは兄の手がかりを得た喜びと、また悪しき予感にも似た不安に、ひとり胸を震わせていた。

    *      *      *

 ティティはゆっくりゆっくりと馬の歩を進めていた。
 いつもの彼のせっかちな手綱使いとは違うそのやり方に、草原馬のハガフが戸惑い苛立っているのがわかった。速く走らせてくれと不満をもらしている。しかしそれでもティティはわざと綱を引きしめ、決して駆けさせようとしなかった。彼は行きたくなかったのだ。その人のいる場所へと。
 みぞれが強い風とともに、横殴りに馬と少年の顔や体に容赦なく吹きつけた。その不快さと思うように進めない苛立ちに、ハガフは大きくいななき、前足を持ちあげた。鼻息荒く首を振る。ティティはしかたなく手綱をゆるめ軽く腹を蹴った。辛いのろのろ歩きから解放されたハガフは、喜び勇んで駆けだした。
 あっという間に、前方に黒い塊が見えてきた。巨大な生き物とそのかたわらの人影。十メートルほど手前で馬を降りると、ティティは頭を低く下げて歩きだした。全身に力を込めていないと、いまにも強風に吹き飛ばされてしまいそうであった。
 二・三メートル前で足を止め、眼前の青年を見つめた。ガルブの腹にもたれかかり、安らかに目を閉じているその男。大好きなユリウスの姿を。
 ティティは静かに地に腰を降ろすと、膝を抱いて座った。ガルブが怪訝な眼差しでにらむ。だが襲ってこようとはしない。彼にはその人間が主人のお気に入りのものだということがよくわかっていた。
 長い時間がすぎ、寒さで身も心も冷えきった頃、歯をがちがちと打ち鳴らしているティティにむかって、ユリウスはやっとその口を開いた。
「そう心配するな。俺はどこにも行きはしない。ずっと草原にいる」
 ティティは膝にうずめた顔をあげ、ちらりと彼を見た。
「俺、なにも言ってないぜ」
「言ってるさ、心がな。うるさいくらいに叫んでいる。カイヤで待つ得体の知れない客人が、俺をどこかに連れていく、草原から行ってしまうと、不安な思いを発している。馬鹿な奴だな。そんなことでふてくされて寒い思いをしているのか。まるで餓鬼だな」
「ふん、どうせ餓鬼だよ。あんたに比べりゃ俺なんか、なんにもわかんねえ赤ん坊さ」
 ユリウスは片目を開けティティを見ると、小さく鼻で笑った。そして軽やかに立ちあがると、軽く伸びをして物憂げにうなった。
「さあてと、いつまでも待たせているわけにもいかんな。面倒だが会ってくるか。自分のしくじりの結果とあればしかたがない。ーーなんだ、ティティ、俺の馬を連れてこなかったな。俺にカイヤまで歩けというのか」
「俺のハガフに乗ってけよ」
「おまえはどうする? この風の中を歩いて帰る気か。まったく、どうしようもないわがままな奴だな。そんなことで俺を困らせようとしても、なにも効果はないぞ」
 ユリウスは呆れたように笑って少年の頭をこづいた。そしてすっと退いたかと思うと、宙を舞うように飛びあがり、一瞬にしてガルブの背に跨った。ぎょっとして目をむくティティに、彼は風に消されぬ大きな声で叫んだ。
「俺はこいつに乗ってゆく。おまえはあとからこい。さっさとその腰をあげんと、本当に凍死するぞ。ーーほら、こいつを着ろ」
 ユリウスは自分の着ていた外套を脱ぐと、ティティにむけて投げつけた。ティティはあわてて胸で受けとめた。
「ユリウスの馬鹿! あんたこそそんな薄いシャツ一枚じゃ風邪ひいちまうよ!」
 彼はにっこりと微笑み、そしてガルブのたてがみをひっぱった。それを合図に、巨大なジンは大空へと舞いあがった。立ち昇る砂煙が竜巻となって吹き抜けてゆく。ティティは両手で顔をおおい、指の隙間から空を見あげた。
 黄金色の巨体に跨る、金の髪のりりしい青年の姿があった。とても人間とは思えない。それは伝説につたえられる精霊達の王のように、雄々しく、かつ異様であった。
 あっという間にその姿は灰色の雲が渦巻く彼方へと消え失せていった。
 一方小さなカイヤの中では、屈強な肉体のひとりの戦士と、美しい織り布のベールを頭からかぶった若い娘が、厳しい表情をしながら座っていた。
 男のほうはいらいらした様子でしきりに指で膝を叩いていたが、そのうち耐えきれなくなったのか、立ちあがって娘に言った。
「遅い。遅すぎます。ちょっと行って様子を見てまいります」
 娘は静かに顔をあげると穏やかに制した。
「お待ちなさいな、シンオウ。草原の人達も言ったでしょう。そこに近づけるのはあの少年だけだって。焦らずに待つのよ。もう七年も待ったのだもの。いまさら一時間や二時間、どうってこともないわ。そうでしょ?」
 彼は苦い面もちでしぶしぶと腰をおろした。その時、外から大勢の者達の騒ぐ声が聞こえてきた。シンオウは手振りで娘にその場にとどまるよう指示すると、剣の柄に手をかけて慎重に外へと出た。
 人々がカイヤから出て口々に叫びながら空を見あげていた。彼もつられて顔をあげた。そして荒れ模様の空の中に信じられぬような光景を見つけ、シンオウは思わず声をたてた。
 ガルブが頭上を飛んでいた。見事なガルブだ。それはガルブの中の王とでも呼びたいほど、まこと巨大で美しかった。それはゆっくりと幾度か空を旋回すると、地上へと降りてきた。人々が恐怖の声をあげて逃げまどう。だがカイヤの中へは逃げこまずに、遠巻きに眺めていた。
 気づくと横にメイアがいて、彼女もまた声もなくその様子を見守っていた。だが二人にとって信じられぬことは、むしろそのあとに見た光景であった。
 集落から少し離れたところに降り立ったジンの背から、一人の青年がひらりと地に飛びおりた。ふりむきざまに手を伸ばし、小馬を愛撫するようにガルブの鼻面を撫でる。獰猛な怪物はうれしそうに顔をすり寄せた。
 シンオウは息を飲んだ。ガルブが人里にまでやって来ることすら信じ難い事実なのに、その背に人を乗せるとは。しかもその人物は、あれ程までに捜し求めたその人ではないか。
 青年は二・三なにか呟くと、ガルブの背を叩いて追いやった。ジンは素直に飛び立ち、大空のむこうへと帰っていった。
 青年は集落のほうへと歩いてきた。草原の人々は彼を見るとほっとしたように安堵の息を漏らし、散会した。
 青年は立ちつくす二人の客の前にまっすぐに進むと、少し手前で足を止めた。強い風に髪が踊り、顔の上になびきかかる。それは再会の場にもたらす運命の女神の情けのように、彼の無惨な傷痕を少しだけおおい隠した。
「久しぶりだな、メイア」
 低い声だった。驚きも感動もない冷たい口調だった。だが少女のほうは満面に喜びをたたえ、震える声で呟いた。
「兄……上、様? 兄上様なのね、本当に」
 熱い思いが高まり、胸をいっぱいに満たした。目頭が熱くなり涙が頬をこぼれ落ちる。メイアは瞳を輝かせ、昔のように首に抱きつかんと足を踏みだした。
 途端、彼女ははっとして身をこわばらせた。青年の冷たい視線、はっきりとした拒絶の態度に、彼の発する氷のような冷めた心に気づいたのだ。
 呆然とするメイアに、ユリウスは小さく言った。
「カイヤに入ろう。ここでは人目につきすぎる。草原の民はうるさく詮索するようなことはないが、目も耳も心も鋭い。せっかくのベールが無駄になるぞ」
 そう言うと独りすたすたとカイヤへと入っていく。残された二人は顔を見あわせ、不安な面もちであとについていった。中ではユリウスが、いや、二人にとってはユウラファーンが、用意した酒杯になみなみと酒をつぎ、また自らは直接水筒に口をつけ、強いアルコールを冷えた身にそそぎこんでいた。
 不躾に杯を差しだした。
「飲め。体が温まるぞ。そんな薄着では風がしみるだろうが」
 メイアとシンオウは戸惑いながら受け取った。ぷんときつい香りが立ち、その独特の匂いに思わず少女は顔をしかめた。ユウラファーンが鼻で笑った。 
「宮廷育ちのおまえには無理か。精製してないコウリンの原酒だからな。だがその身の震えを止めたかったら、鼻をつまんでも飲むんだな。これは草原の民のもう一枚の毛皮だ。芯から体を暖めてくれる」
 そう言うと、またごくごくと喉を鳴らしてそれを飲む。それは優雅で気品に満ちていたかつて王子の姿ではなく、荒々しい遊牧民そのものであった。
 メイアは勧められるままに、目を閉じ、ひとくち飲みこんだ。喉元をすぎたあたりで体中が炎のように燃えあがり、熱い息があがってきて思わずむせかえった。ユウラファーンはその様子を見ながら、ごろりと寝床に寝そべり、もう片方の寝床を目で指し示した。
「立ってないで座ったらどうだ。光の王ともあろうものが、そんな情けない顔をしているものではないぞ。おまえには威厳が足りんな。もっとも、十七の小娘にそれを要求するほうが無理というものかもしれんが」
 あからさまな侮辱の言葉に、メイアは内心むっとしながらも素直に従って腰掛けた。シンオウも憮然とした表情で戸口に立ち、見守っていた。ユウラファーンは丸めた毛布を枕がわりにし、だらしなく寝そべったまま酒をすすった。
 彼はなにも言わなかった。王宮の様子を尋ねるわけでもなく、戻らぬ言い訳をするでもなく、すべてに無関心のごとく黙って目を閉じていた。メイアは我慢しきれずに自分から話しかけた。
「兄上様、なぜお戻りにならないのですか? いまシャインフルーがどんな状況にあるか、兄上様にもおわかりのはず。どうか今すぐ帰って王位に就いてください。そして私にかわって国を守ってください。このままではシャインフルーは闇の国に滅ぼされてしまいます。お願いです、兄上様」
 だがユウラファーンはひとことの返事もしなかった。メイアは必死になって語り続けた。
「事情はすべて知っています。戻りにくいのもわかります。でも今はそんなことをいっている時ではありません。私の非力で抜き差しならぬ所まできているのです。どうか、どうか一緒にお戻りください。罪を気に病んでいらっしゃるのなら、その償いの意味としてお考えになって」
「……罪だと?」
 ユウラファーンはうっすらと目を開け、冷たい視線をむけた。
「罪とは、俺が父上を殺したことか? それとも、ゼルファを闇の国に逃がしたことか? あるいはその両方か?ーーは、馬鹿な。そんなこと、とうの昔に忘れていたわ。メイア、シンオウ、そんなくだらぬ話をしに来たのなら話は終わった。早く帰れ。もうすぐ強い嵐がくる。そうなれば三日はここから出られない。今のおまえ達には、王宮を空にする余裕はないだろうが」
「兄上様!」
「ユウラファーン王子!」
 二人は身を乗りだして叫んだ。だがユウラファーンは寝返りをうって背を向けると、そのまま沈黙を決めこんだ。その背中には取りつく島がなく、メイアは途方にくれて口をつぐんだ。
 おろおろとすがるようにシンオウを見る。彼女には理解できなかった。喜びに満ちたはずの再会が、こんなにも冷たい形で訪れるとは。目の前の男はまぎれもなく兄なのに、夢にまで見たユウラファーンその人なのに、彼は彼ではなかった。姿形も、なによりも心が、記憶の中の兄とはまるで別人であった。
 シンオウもしばし困惑したように沈黙していたが、やがて静かに少女にむけて言った。
「いきましょう、メイア様。これ以上の話は無駄のようだ」
「でも……」
 少女は未練がましく青年を見た。だがその冷たい背中を見てしかたなく諦め、力なく立ちあがった。落胆と絶望で体が重い。重責から逃れられると喜び浮きたったあの一瞬が嘘のようだった。メイアはうなだれ、のろのろと出口へと向かった。
 すっかり沈んでいるメイアの肩を抱きながら、シンオウは厳しい口調で言った。
「とりあえず今日のところは戻ります。しかし我々はあなたを諦めたわけではない。いつかきっと戻っていただく。それが聖なる石を持つあなたの義務です、ユウラファーン王子」
「……石? ああーー忘れていた」
 ユウラファーンはくるりとふりむくと、枕元の服の塊に手を突っ込み、なにやらごそごそと探った。やがて奥からひとつの水晶石をつかみだすと、掌に乗せ二人の前に差しだした。
「こいつのことか? こんな石、なんの義務も力もありはしないぞ。こいつはただのがらくただ」
 中央に黒い紋の入った水晶玉、聖なる水晶石である。メイア達ははっとしたように身を震わせ、畏敬の眼差しでそれを見つめた。それは光王の大いなる力の象徴、力の根源。国を守る、偉大な庇護の宝玉だった。
 だがユウラファーンはそんな二人をあざ笑うように口の端をゆがめ、いきなり掌を返した。水晶石がぽとりと落ちた。だが地面に触れる直前に、それは空中で激しい音をたてて木端みじんに粉砕した。かけらがカイヤの床にちりぢりに散らばった。
 メイアとシンオウは突然の出来事に声もなく立ちつくした。一瞬後にシンオウが愕然として叫び声をあげた。
「なんということを! 聖なる石が……。あなたはなんということをなされたのだ、ユウラファーン様!」
「なんだというんだ、たかがそんな石ひとつに取り乱して。おまえらしくもないぞ、シンオウ。ーーなんだ、その情けない面は。そんなにこいつが大事なのか。こんなものが」
 ユウラファーンは吐き捨てるように言いながら、もう一度掌を上にむけた。床に散らばっていた石のかけらが見る間にそこに集まってゆく。まるで逆回しの映像を見るかのように、瞬く間にそれはもとの水晶石に戻っていった。
 あっけに取られる二人に向けて、ユウラファーンは無造作にそれを放り投げた。シンオウがあわてて受け止める。呆然としたまま大事そうに胸にかかえた。
「そんなものに頼っているようでは、シャインフルーも先は暗いな。ーーまあ俺の知ったことではない。必要なら持っていくがいい。俺はいらん。そんなもの金にもならぬわ」
 そっけなく言うと、ユウラファーンはまた背を向けて寝ころがった。
 メイアとシンオウは、目の前で起こった不思議な出来事に唖然として顔を見あわせていた。やがてどうにか気を取りなおして、水晶石を大切にしまいこむと、出口へと体を向けた。メイアがおずおずとふりむき、ささやくように問いかけた。
「また……来てもいい? 兄上様に会いにきてもかまわない?」
「来るのは自由。たとえ辺境とはいえども、ここもシャインフルーだ。王のおまえがなにをしようと止めだてする権利は俺にはない。ただし、俺がいるとは限らぬがな」
 メイアは少しだけほっとして笑みを浮かべた。結果がどうであれ、行方知れずだった兄の無事がわかり、居所がわかった。どんなに冷たくあしらわれようと、これからは会いたい時に会える。それだけでも充分だと思った。
 シンオウに付き添われカイヤの厚い布の扉をくぐろうとした時、いれかわりに入ってこようとしたティティと出くわして、危うく正面からぶつかりそうになった。ティティはとっさに両手でメイアの肩を押さえ、その体を押しとどめた。
「無礼な。離せ!」
 シンオウの厳しい叱責に、思わずティティは手をひっこめた。だがすぐに負けん気がわきおこって、少年は自分よりもはるかに大きいその男をにらみ返した。
「なんだよ。俺が俺のカイヤに入ってどこが悪いんだ。おまえらこそ邪魔だよ」
「なんだと。礼儀知らずの田舎者めが。こちらのおかたをどなただと」
「おやめなさい、シンオウ。その人はぶつかりそうになったのを止めてくれたのよ。お礼を言わなきゃいけないくらいだわ。ーーごめんなさい、私達のほうこそ無礼をしてしまって。お住まいを使わせていただいてありがとう。もう帰りますから」
 メイアはにっこり微笑むと軽く会釈を返した。ティティはその時初めてちゃんと少女の顔を見、呆然とした。なんという美しい娘であろうか。
 ベールをすっぽりと頭からかぶり、ぐるぐると巻きつけているので、あらわなのは目元から唇までのわずかな部分だけである。だがその美しさは隠しようがない。草原に咲くどの花よりも光輝いている。それに驚くほどユリウスに似ていた。厳しい表情の彼が時折見せる、あの胸に染みいるような優しい笑顔に、少女の微笑みは生き写しであった。ティティはひとめで魅了された。
カイヤの奥からユリウスの声が響いた。
「ティティ、客人をアルティトの丘のむこうまで送っていけ。河沿いは避けろよ。竜巻にまきこまれる。丘陵を右に迂回して行けばいい。わかったな」
「う、うん」
「それから、くれぐれも無作法はするな。そのおかたは光王メイア姫だ。下手な真似をすると首が飛ぶぞ」
「王様だって!」
 ティティは仰天して娘に向き直った。少女は困ったような笑みを浮かべ、小さくうなづいてみせた。声もなく立ちつくすティティをよそに、シンオウが不満げに反論した。
「ユウラファーン様。こんな子供に案内されずとも、私がメイア様を守ります。いらぬ手助けは無用のこと」
「シンオウ、おまえは昔俺に言ったではないか。空のことは空の精霊、水のことは水の精霊にまかせろと。草原のことは草原の民に、だ。おまえでは街道に抜けるのに半日かかるぞ。姫君に辛い思いをさせたくないのなら、素直に従うんだな。そいつはまだ餓鬼だが頭は悪くない。連れていけ」
シンオウは疑わしそうにティティを見た。しかしそれ以上拒絶はしなかった。ティティは目の前の二人とユリウスを交互に見ながら、おずおずと出立を促した。
「行こうぜ。みぞれがひどくなってる。雪にかわる前に出たほうがいい」
 出ぎわにメイアは優しく別れを告げた。
「では兄上様、またまいります。お体に気をつけて」
 しかし彼は微動だにしなかった。
 外に出て、震える少女に毛皮を貸したり馬に塩を喰わせたりして、どうにか用意も整い、いざ出発という間際に、ユウラファーンがふらりと現れ、薄笑いを浮かべて言った。
「王よ。せっかくわざわざ草原までお越しいただいたのだ。ひとつ手土産をさしあげよう。闇の国はルドーの基地を狙っているぞ。しかけてくるのは七日後の夜明け。それも西を除く三方から一挙に攻撃してくる。手放したくなければ、いち早く奇襲をかけることだな」
シンオウが怪訝そうに眉をしかめて問い返した。
「なぜあなたがそのようなことをご存じなのです?」
「ふん、ちょっとした未来見の占いさ。信じる信じないはおまえ達の勝手。ーーざれごとだ、忘れてくれ」
 そう言うと、彼は再びカイヤへと戻っていった。メイアとシンオウは当惑した。いったいなにを根拠としてそんなことを言うのだろうか。彼の力を知らぬ二人にとって、その言葉はとても素直に聞きいれられるものではなかった。
「行くぜ。遅れるなよ」
 ティティに先導され、一行は冬風吹きすさぶ草原へと歩きだした。寒さや雪に慣れた草原馬とは違い、二人の乗るエウルリ亜種の駆け馬は、その厳しい世界に恐れおののいて何度も足を止めた。その都度彼らは声をかけ、綱を震わしてはっぱをかけねばならなかった。
 遅れがちな二人に辛抱強くつき添いながら、ティティは申し訳なさそうに叫んだ。
「草原馬なら、こんな風なんか平気で走るんだけどさ。でもこいつらは主人以外は絶対乗せないんだ。だから貸してやれねえ。ごめんよ、王様」
 少年の純真な思いやりにメイアは顔をあげて微笑んだ。その笑顔にティティは胸が高鳴った。鼓動がどきどきと早鐘のように打つ。熱い感情がわきあがってくる。それは初めての喜び溢れる戸惑いだった。
 苦労しながらも数キロほど進むと徐々に風は弱まり、丘陵地帯に入る頃には、先ほどまでの嵐が嘘のように穏やかな空模様へと変わっていた。三人は太いコウリンの木の根元でひと休みした。
「やっぱりこっちの方向にきて正解だったな。ちょっと遠回りではあるけどさ。ユリウスの言うことに間違いはねえや」
 ティティは空を見あげながら安堵の息をついた。二人もつられて顔をあげる。灰色の雲におおわれてはいたが、所々に日差しがのぞき、吹く風は柔らかかった。シンオウは空を見ながらたずねた。
「あのかたはいつも天気を読むのか?」
「天気だけじゃないよ。遠く離れた場所のことや、未来だって読むぜ。それに人の心もな。すげえ力を持ってるんだ」
「未来も、ですって? そんなことができるの、本当に」
「本当さ。さっき言ってた闇の国の話も、絶対間違いないよ。俺達何度も助けられてるもんな。あんた……じゃない、王様も信じたほうがいいよ。ユリウスは嘘は言わない」
「信じられないわ。あの兄上様が……。そりゃあ賢くて、勘も鋭いかただったけれど、そんな技を使うだなんて。まるで闇紋族のよう……」
 うつむくメイアに、ティティはためらいがちに尋ねた。
「あの……さ、あんた、ユリウスを兄上って呼ぶだろ? それにそっちの人はユウラファーンって。それってやっぱり、ユリウスがあの行方知れずの王子様ってことだよな」
「知らなかったの、なにも?」
 メイアは慰めるように優しくティティを見た。ティティは照れくさそうに頬を染めてうなずいた。
「あの人なんにも話してはくれないし、俺達も聞かないしさ。それに、生粋の銀紋族だから、いいとこの人なんだろうとは思ってはいたけど、まさか王子様なんてな。紋も傷で消えてるしさ」
「あの傷はいつから? 盗賊の仕事でついたものなの?」
「違うよ。ユリウスは決して盗みには参加しない。知恵や力は貸してくれるけどね。あれは昔ガルブにやられたんだって言ってた。ほら、あの人の乗ってたでかい奴さ。右腕もあいつが喰っちまったんだって。さすがの俺もてなずけるのに苦労した、なんてのんきに笑ってたけどね。いまじゃ忠実なしもべだよ、あのガルブがさ。信じられねえよな、まったく」
 ティティは素直な表情を浮かべ屈託なく笑った。言葉も態度も決して上品とはいいがたかったが、まっすぐな気質が少年から伝わってきた。明るく、誰よりも純粋な魂を持っているのがわかった。
 メイアもシンオウもすぐに彼が気にいり、うちとけた笑みをかわした。二人はあの兄の側にいるのが闇の王などではなく、この少年であることに心救われる思いがした。 
ふいにそれまで笑っていたメイアの瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。ティティは驚いておろおろとうろたえた。 
「な、なんだよ、どうしたんだ、急に」
「メイア様」
 シンオウも心配そうにのぞきこむ。メイアはしゃくりながら涙声で話した。
「ごめんなさい。なんだかほっとしたら急に悲しくなって……。どうして、どうして優しかった兄上様があんなに冷たくなさるのかと思ったら、辛くて、たまらなくって……。いつも誰よりも私を愛してくれていたのに……。あの冷たい瞳、冷たい声。あれは私の知っている兄上様ではないわ。もう昔の、優しかったユウラファーンではないのだわ」
 こみあげる鳴咽に声をつまらせながら、メイアはせつない胸の内をさらけだした。メイアは自分が王であることも忘れ、素直に感情に身をまかせた。
 ティティもシンオウも為すすべもなく見守っていたが、やがて少女が落ちつくのを待って、ティティは優しく慰めた。
「泣くなよ、王様。ユリウ……王子様はさ、いつもはもっと優しいんだぜ。さっきはちょっと虫の居所が悪かったんだよ。気まぐれだからさ。ーーだから、そんなに気にすんなよな。今度来た時には、もっと優しい、あんたの知ってる兄貴に戻ってるよ、絶対に」
 少年の優しい言葉に、メイアは涙に濡れた顔をあげて微笑んでみせた。その虚飾のない、ただの娘のような弱々しい可憐な笑顔に、ティティは激しく心ひかれた。胸のまん中にくさびを打ちこまれたような、それでいてしびれるほど甘い痛みが心をかけぬける。
 その時、彼は初めて恋を知ったのだった。

    *      *      *

 光の王宮では、多くの男達が額を寄せあって大きな地図をにらんでいた。大臣のトルガーがひそやかに口を開いた。
「では奴らがルドーの近くに秘密理に集結していることは間違いないのだな、シンオウ」
「はい。調べによると、ルドーから離れること五十馬里のとある寒村に、武器食糧を移送し、巧妙に作業小屋に偽装した営舎を三カ所用意しています。情報では闇王自身が出陣し、先導をきってくるであろうと」
「そうか。まさかルドーを一挙についてくるとは思わなかったが、危ういところであったな。あそこはわが軍の最も重要な軍事基地。絶対に渡すわけにはいかん。その事実入手したはまことすばらしい功績。でかしたぞ、シンオウ」
「奇襲の準備は整ったのか?」
「今日中にはすべて。闇王が逗留するであろう東側兵営には、この私が率いてまいります。必ずや奴の首をこの手に」
「はやるなよ、シンオウ。今回はあくまでも基地の防衛が目的。血気にはやって逆をつかれてはもともこもない。くれぐれも慎重にな」
 シンオウは無言で力強くうなづくと、居並ぶ大臣達に軽く会釈をし、きびすを返した。扉に手をかけたうしろ姿に、メイアがひとこと声をかけた。
「シンオウ、気をつけて」
 雄々しき戦士はふりむいてかすかに微笑むと、静かに部屋をあとにした。

    *       *       *

 夜もふけ、ゼルファは重い足取りで自室の扉をかいくぐった。ガウンを脱ぎ捨て椅子の背に投げかけると、倒れるようにそこに腰をおろし、深いため息をついた。
 テーブルに用意された酒杯をつかんで、いっきに喉に流しこむ。熱い炎が体内で燃えさかって、彼は目を閉じその快感に身をゆだねた。
 日々が風のように過ぎ去っていく。闇の国の王位に就いて七年。いまやなにものにも逆らわさせぬ権力と地位の持ち主、強き王者ゼルファ。
 これまでの間、幾度戦いを通り抜けてきたことだろう。そしてその度に、確実にこの国は強くなる。強く激しく、光の国を侵略していく。少しづつ追いつめ、苦しめる。それは邪悪な闇の血を満足させ、うっとりとするほどの陶酔を与えてくれた。
 だが、彼は疲れていた。いつも重いなにかがのしかかっていた。言いようのない不快な気分が、ずっといつの時もつきまとって離れなかった。
 最初、それはユウラファーンへの思慕のせいだと考えていた。彼を望む心、せつない想いが自分を苦しめてやまないのだと、そうゼルファは思っていた。だがそれだけではないらしい。ゼルファは彼が戻ってくるのを、今では半ば諦めていた。
 彼はもう二度と自分の前に現れることはないだろう。たとえ約束を破って光の王宮に戻ることがあるとしても、ダークネシィアの王である自分のもとへなど帰ってくるはずはないのだ。そして多分、彼が剣を持ち闇の兵の前に立ちはだかるのは、そう遠いことではない。なによりも悲しいその予感が、あるいは苦しいのかもしれない。
 しかし彼にはもっと違う理由があるように思えてならなかった。体の奥でなにかがくすぶっている。解き放ちたいのにどうしてもそれができない大切ななにかが、身の内に眠っている。
 ゼルファは再び深く嘆息し、腰をあげて寝所へと続く扉を開けた。一歩足を踏み入れた途端、彼は眉をひそめ、緊張に身をこわばらせた。
「誰だ、そこにいるのは? 姿を見せろ」
 強く厳しい口調に答え、薄闇の中すっと人影が寝床の上に起きあがった。くっきりと浮かびあがる白い肌。ひとりの若い娘が、そのなよやかな体に一糸まとわぬ美しい全裸をさらして座っていた。
 ゼルファは一瞬訝しげににらみつけたが、すぐにその意図を察して、今度はなめるように全身を眺めまわした。
「誰の娘だ、おまえは。言え」
 娘はおびえたように身をすくめながら素直に答えた。
「はい、トスパの末の娘、ララと申します。父に言われ、お待ちしておりました」
「ほう、トスパの娘か。あいつにおまえのような美しい娘があったとはな。ついぞ知らなかった。ーーおい、顔を見せてみろ」
 ゼルファはつかつかと歩み寄ると、冷たい視線を投げかけた。娘はその眼差しにおののきながらも、従順に顔をあげた。雪のように白い肌をし、人形のように愛らしい顔だちをした娘であった。
 ほっそりとした体ながらも、ふくよかな胸や腰は女の美しさをあますところなく発散している。むきだしの乳房を隠しもせずに、震える手で夜具を握りしめるその様は、初々しく可憐であった。
 ゼルファは手を伸ばして娘の顎をつまみ、顔を持ち上げた。弱々しい体がぴくりと震える。ゼルファはじっと見つめながら、ゆっくりとその手を下げ、娘の首筋や肩を指でなぞった。娘は恥じらいに身をよじった。
 ゼルファの白い指が柔らかな肉体の上を這いまわる。口元に笑みを浮かべながら、彼は娘の体をもてあそんだ。
「美しいな。見事なまでに。熟れていながら押しつけてくるような図々しさがない。うぶで純真だ。世の男という男すべて、銀紋族の者ですら、おまえの肉体を手にいれるためならば、剣をも交わすであろうよ」
 思わぬ賛美の言葉に、娘はおずおずとゼルファを見た。闇紋の女には珍しく、清純で無垢な魂を感じさせる。多分生まれた時からずっと、大切に慈しみ愛されてきたのだろう。
「父に言われ……か。哀れなものよ。おまえ男などは知らぬのであろう? 自慢の生娘をさしだすか。トスパも気前のいい奴よ。しかし、相手を間違ったな。こともあろうにこの私とは、な」
 ゼルファは、それまで胸を弄んでいた手を口元へと移すと、紅色に輝く唇と細い顎をわしづかみにして押さえつけた。
「馬鹿な奴。そうまでして地位が欲しいか。私の子……、私の血……、私の紋だと? 愚かな。この忌まわしい額の刻印が、そんなにも望みなのか。邪悪の証がそれほどまでに欲しいのか。ならば大事な娘の額に、同じものをくれてやる。ほら、受けとれ」
 ゼルファは腰から短剣を引き抜くと、恐怖に震えている哀れな娘の額に切っ先をあて、ためらうことなくすっぱりと切り裂いた。押さえられた娘の口から、哀れにもかすかな悲鳴が漏れた。娘は恐怖にひきつり、彼の手から逃れようと両手をふりあげて抵抗した。
 その有様を楽しそうに見ながら、ゼルファは短剣を投げ捨て、娘の乳房を荒々しくつかみ寝床に押し倒した。
「なにを暴れる。私に抱かれろと命じられてきたのだろうが。せっかく楽しんでやろうと思ったのに、抗う女は私は嫌いだ」
 額から真っ赤な血を流しながら悲壮な眼差しで見あげる娘に、彼は氷のように冷酷な視線をむけて呟いた。
「馬鹿な大臣どもめ。この私を甘く見おって。后だと? ふん、そんなもの誰がめとるものか。私は誰も必要としてはいない。私が欲しいものはひとつだけ。それ以外はいらぬ。なにも……いらぬ。女も、男も、友も、妻も!ーーおまえなどはいらぬのだ!」
 激しい怒りとともに、彼の全身が真紅に燃えあがった。一瞬にして吸収された邪悪な魂が、一瞬にして娘へと襲いかかった。ゼルファの体の下で娘が断末魔の叫びをあげた。薄暗い部屋の中で、それは壮絶に響いて消えていった。
 束の間のうちに、娘の体はもの言わぬ躯と化していた。ゼルファは起きあがってその死体を見おろすと、忌まわしそうに顔を歪め、夜具ごと床に蹴り落とした。大きな音をたてて死体は床に転がった。
 ゼルファは誰もいなくなった寝床に身を横たえると、すぐに安らかな寝息をたてて眠りについた。いつしか燭台の蝋燭も消え、真の闇があたりをおおっていった。

    *      *      *

 営舎の中はひっそりと静まり返っていた。時折巡回の兵の足音がかすかに響くだけであった。
 攻撃を明日に控えて、すべての者が緊張と、また逆の意味での安堵感に包まれて、束の間の平和な夜をすごしていた。
「闇王様、お召し替えを」
 侍従の声に、ゼルファは手にした地図から顔をあげ、静かに立ちあがった。すぐに侍従が寄ってきて、王の肩から重いローブをとると手際よく衣服を脱がせ、用意した薄い寝衣へと着替えさせていった。手慣れた仕事であった。
 ふと侍従は、王の体にうっすらと闇の結界がはられているのに気づいて、手を止めた。
「闇王様、なにか御不安なことでも」
 ゼルファはちらりと男を見、首を振った。
「……わからぬ。私にもなにが不安なのか。なにも心配なことはない。だがなぜか心が休まらぬ。いやな気分だ」 
「明日の戦いにご心配な点が?」
「違う。作戦は完璧だ。準備も万端、手抜かりはない。先ほど届いた影の知らせでも、われらの存在は奴らに気づかれていないし、なにも問題はないのだ。ーーくそ、いったいなんなのだ、この不安は」
 王は唇を噛み、拳を握りしめた。ぴりぴりと彼の体のまわりに火花が散る。侍従は恐れあがって、そそくさとその場を退散した。
 ゼルファは苛立ちに渋い顔をしながら、寝所へと続く仮造りの扉に手をかけた。その時、突然外に大きな叫び声があがった。何事かと飛びだそうとするゼルファの前に、若き警備隊長ナハトが現れ、叫んだ。
「闇王様! 光の国の奇襲です。敵は数百の中隊、それも騎馬の戦士ばかりです。このままではここは小一時間持ちません。すぐさま別の基地にご移動を!」
「奇襲だと? 馬鹿な、そんな動きはなかったはずだ。それに、数百の騎馬兵……? 用意周到ではないか。一夜や二夜でできることではない。これは……事前に作戦が漏れていたな、くそ」
 ゼルファは悔しそうに歯噛みしながら、ナハトを従え部屋を出た。裏門へと足早に向かいながら鋭く尋ねた。
「北と南の基地から、なにか連絡は?」
「今のところはなにも。とりあえず部下が南の隊にお連れ致します。あちらならば、万が一ここが撤退の羽目に陥っても、距離的に奴らが追撃してくるようなことはありません。奇襲狙いの奴らは、身軽さを保つために余分な武器や馬は携えてはいないはず。すぐに追ってはこれないでしょう。私達が時間を稼ぐ間、少しでも早くお逃げください」
「わかった。ーーナハト、無駄な抵抗はするなよ。不利と見たらさっさと逃げろ。一人でも多くの兵を生かして逃がせ。今部隊が全滅されてはひどい痛手となる。愚かな見栄は捨てろ」
「はい、ゼルファ王。肝に命じます」
 裏門につくと、すでに護衛の兵士達が馬を用意して待っていた。王を加え、いざ出立という時、一人の兵が手に文を握りしめ、息せききって駆けこんできた。
「お待ちください、闇王様! いま北と南から知らせが。両隊とも同時に攻撃をうけました。敵は三方すべてに奇襲をかけた模様。もはやどの隊にも逃亡は不可能です!」
 全員が蒼白になって眼を見開いた。悪態をつきながらゼルファは馬を降り、営舎の中へととって返した。ナハトがあわててあとを追った。王の顔は怒りに紅潮し、堅くむすんだ唇がぶるぶると震えていた。
 大臣達が居並ぶ部屋に戻ると、ゼルファは大声で問いただした。
「戦況は? 勝算はいかほど!」
「は、はい、きわめて不利。準備に手落ちはありませんでしたが、なにぶん夜半ゆえ支度にてまどり、充分に起動できぬうちに敵の入場を許してしまいました。幸い営舎内は天井が低くしてありましたので騎馬では入れず、なんとか歩兵戦に持ちこんで耐えてはおりますが、舎内に踏みこんでくるのも時間の問題かと思われます」
 ゼルファは舌打ちすると、軍師達の囲む地図をにらんだ。厳しい眼差しで無言のまま凝視する。喧騒の中それはずいぶん長い時間に思えた。
 彼は苦々しく眉をひそめ、低くつぶやいた。
「こうなってはエウルークからいっきにここまで来たのが裏目にでたな。こう遠くては援軍を呼ぶことも不可能だ。街道を避けて営地したのがせめてもの救い。これで逃げ道まで塞がれてはたまったものではないからな。とりあえず農地側に逃亡の道だけは残っているというわけか」
「いっそ相打ち覚悟で全兵進入路の正面門へ集結させてみては。うまくゆけば四分の一は残るかと思いますが」
「馬鹿な。一歩間違えれば全滅だ。それに残りがそれだけでは困るのだ。兵士は常に不足している。少なくとも半分は残さねば今後の戦況に影響する」
「いま兵営内に待機させている歩兵を裏口から抜けださせて、奴らの背後にまわすというのはどうです?」
「待て、中の警護はどうするのだ? もし外門を突破されたら障害なしに乗りこんでくるのだぞ。どうやって王を守るというのだ」
「くそぅ、いったいどこから作戦が漏れたというのだ。誰か内通した者がいるのか!」
 空転する議論に皆が焦りと不安の色を浮かべた。貴重な時間が刻々とすぎていくのだけが痛切に感じられる。それぞれの額に冷汗がにじんだ。
 その時、王がきっぱりと言いきった。
「逃げるぞ」
全員いっせいに顔をあげ、王を凝視した。
「現在戦闘中の兵を最小限に残して、すべて撤退させろ。騎馬隊は各々三隊の歩兵隊をひきいて、農地側の河沿いを迂回。警備隊からは精鋭数人を選出して私を警護しろ。街道を突破する。武器食糧は全部捨てる」
「なんと! このままなんの抵抗もなく逃げだすというのですか! しかも武器も食糧もみな捨てて……。なんというていたらく! そんなぶざまな真似は騎士としてできませぬ」
思わず異論を叫ぶ部下にむかって、王は激しく罵倒した。
「馬鹿者! 体裁を気にしている場合ではない! ここでためらえば被害は増すばかりだ。我らには余裕というものはこれっぽっちもない。一人でも多くの兵を生きて残すことが先決なのだ。戦いはこれが最後ではない。ここはなにを捨てても生きて戻らねばならぬ。愚かな誇りなど捨ててしまえ!」
皆が絶句した。確かに、どんなに苦々しい事態であれ、王のいうことは正論だった。いかに卑怯でぶざまな姿であろうと、結果としてそれが最良な方法なのは明らかであった。
 力なくうなづく男達を、ゼルファは冷やかに見渡し話を続けた。
「問題はどれだけ少人数で奴らを押さえておけるかだ。相手は光の国の騎馬兵。普通のやり方ではどうにもならん」
 彼は指を噛み、考えこんだ。しばし後、上目使いに大臣の一人をにらんで尋ねた。
「イノス、いまこの基地に、結界をはれるだけの闇の力を持った者はどのくらいいる?」
「は、独力で結界と呼べるだけのものをつくれるのは、私を含め、おそらく数人。曲がりなりにも力をもつ者は他二十人程度かと」
「門を封鎖することはできるか?」
「力を集結させれば可能かとも思います。短時間ですがね」
「よし、至急呼び集めろ。時間がない。全員いっせいに両脇の門に結界をはれ。正面門は私がやる。出入口をすべて封鎖し、その隙に脱出するんだ。残りの者は騎馬隊を先導しろ。用意ができしだい営地を出ろ。後続には気をはらうな。逃げることだけに専念するんだ。行け」
 命令を受け即座に散らばってゆく男達の中、ナハトが王をひきとめ、尋ねた。
「ゼルファ王、現在対戦中の兵はどうなさるのですか?」
ゼルファは冷たい視線を投げかけると冷やかに言った。
「捨ておけ」
 ナハトはごくりと唾を飲みうなづいた。いともあっさりと下された裁断は、仲間二百あまりの兵を見殺しにすることであった。しかしそれに意義を唱えるほど、彼は善人でも愚かでもなかった。王に逆らうことは、自分もその二百の中に入るということなのだ。
 ゼルファは営舎を駆け抜け、正面門へと向かった。その場ではもう間近にまで戦いの音が迫っていた。光の兵はすぐそこまで来ていて、立ちはだかる歩兵をなぎ倒し、今にも門を突破しようとしていた。門の中にいても外の有様は手にとるようにうかがえた。
 喧騒の中、王は門の前に立ち、目を閉じ息を吐いた。別の門にはすでに他の者達が集まり、互いの力をあわせて結界づくりに全力をそそいでいることだろう。だが最も大きなここ正面門にいるのは彼だけだった。
 ゼルファの体のまわりに、闇の魂が吸い寄せられていく。うっすらとした紅い光の膜が、見る間に鮮やかに輝きだし、王のほっそりとした肉体を真紅に包みこむ。黒髪や黒い衣の裾がその光の中で揺らめいていた。
 家臣達は皆遠巻きに見つめながら、深い心酔と、かつ恐怖に近い感情を味わっていた。闇王の恐るべき力とその姿の美しさに、魅入られたように視線が釘付けになり、目を離すことができなかった。
ゼルファは気を高めていった。光の国でも闇に属する精霊は思ったよりも多く存在していて、そう大変な仕事ではなかった。多分夜であったことも幸運だったのだろう。充分に力が充足されたのを感じると、彼はそれを門に向けて放出した。
紅い光の帯がゆっくりと放たれ、なにもない空間に光の輝きの壁を作りだしていった。ぴりぴりした空気の振動が伝わってくる。その場にいあわせたすべての者が、王の仕業の前に深い畏敬の念をいだいた。
 すばらしい力、恐るべき闇の技だった。おそらくこの世にあるものの中で最高の力の持ち主に違いない。その威力は歴代の王の誰よりも、強く激しくすさまじかった。
 やがて門はすっかり結界に閉ざされた。音だけは依然変わらず響いてくるが、景色いっさいはその赤い光の壁に封じられてなにも見えなかった。
 壁の向こうで一人の男の絶叫があがった。多分銀紋の兵士が不用意に壁に触れたに違いない。きっと一瞬のうちに腕を失ったであろう。光の国の者にとって、闇の結界は強烈な障害だ。邪悪な魂が生みだすそれは、容赦なく相手を傷つける。ためらいも慈悲もない残虐な意思の塊だった。
 そしてそれこそが、長い歴史の中、圧倒的な国力の差がありながらも、決して制圧されることのなかった唯一の要因、闇の国の切札だった。
ゼルファはすばやく身をひるがえし、背後に居並ぶ部下達にむかって叫んだ。
「急げ! ここはまだしも他の門はそう長くは持たぬ。奴らが進入できないうちに、少しでも遠くへ逃げるのだ。そして次回の対戦のために生き抜け。死ぬな。もう一度この私の前に、なんとしても集うのだ!」
 王の言葉に全員が力強くうなづいた。それはまるで敗者の逃避行などではなく、むしろ確信された勝利のための第一歩であるかのように、生き生きとした活力に溢れていた。
 ゼルファはすぐさま裏門へと急いだ。そこには警備隊長のナハトと数人の騎士、そして足の速い駆け馬が、脱出する王を待ちわびていた。ゼルファは素早く馬に跨ると、鋭く命じた。
「行くぞ」
 王の命を受け、ナハトは静かに馬を進め隙間から外の様子を窺った。人影はない。巧妙に隠された非常脱出用の秘密の出入口は、まだ気づかれてはいないようだった。
 ナハトは合図を送った。一行が進みだす。王を真ん中に挟んで、それぞれ前後に二人づつ。充分な警護の数とはいえなかったが、全員がより抜かれた精鋭ばかりであった。
 外に出ると、遠くに戦いの音が聞こえていた。それを後目に馬の背に鞭をいれようとしたその時、突然物陰から鋭い声がして、彼らの脱出を遮った。
 闇のむこうから、一人の馬上の兵士が現れでた。
 頑健な肉体。太い腕に太い剣を携えた、勇猛なる光の戦士。輝く金髪に褐色の肌を持った銀紋の勇者、シャインフルーにその人ありと唄われた、希代の剣士シンオウであった。
彼は射るような眼差しをむけ、ゆっくりと彼らの前に立ちはだかった。
「見つけたぞ、闇王ゼルファ。とうの昔に逃げだしていたかと思ったが、まだうろうろしていたとはもっけの幸い。私が見つけたからには逃がしはしない。その首その命、この場で討ちとってくれる!」
 諸悪の根源、不幸の象徴であるゼルファを前にして、彼はぎらぎらとした殺意をむきだしにして叫んだ。シンオウの出現に闇の騎士達はぐるりと王を囲み、剣を身構えた。ゼルファは冷静に命令した。
「こんな所でぐずぐずしている暇はない。早くこの蝿をうちはらえ」
 前方の二人の騎士が踊りかかった。しかし銀紋の中でも選りすぐれた戦士シンオウの前には、いかに精鋭の彼らとて敵ではなかった。二・三度剣をかわしたかと思うと、あっという間にあっけなくなぎ倒され、馬上から落ちて動かぬ死体となった。 残された騎士達は思わずひるんであとずさった。シンオウは不敵に笑うと、ずいと馬を寄せた。ナハトが悔しそうに舌打ちし、果敢に剣を振りあげた。だがその寸前に闇王に制され、立ち止まった。
「闇王様! 私にこいつを殺らせてください!」
「はやるな、ナハト。生憎とこいつは、おまえの手にはおえぬ男よ」
 ゼルファはみじんほどの動揺も見せずに、シンオウの前に自らの馬を進めた。数メートル挟んで、二人は正面から向かいあった。
 互いに鋭い視線を投げかけ、無言のまま見つめあう。やがてしばしの沈黙を破って、ゼルファが口を開いた。
「そうか、おまえがこの奇襲の首謀者か。なるほどな、見事な技だ。完全に虚をつかれたぞ。ーーひとつ尋ねたい。いったいどこから情報を手にいれたのだ?」
「それを教える義理はないな。もっとも、それを知れば貴様は絶望にうちひしがれることだろうが。その面を見たい気もする」
 不可解なシンオウの言葉に、ゼルファは眉をひそめた。
「なんの世迷言だ。私を脅そうとしても無駄だぞ。それよりおまえを相手に時間をつぶしているわけにはいかぬのだ。命が惜しければそこをどけ」
「それこそが世迷言。命はもとより捨てる覚悟。しかし貴様の首をとるまでは決して死なぬぞ」
「そうか。ならばその命捨てるがいい。おまえごときに私はやれぬ。指一本触れられぬわ」
「なんだと? ではその身で試してみよ!」
 怒りの奇声をあげ、シンオウは大きく剣をかざして挑みかかった。ゼルファも邪悪の魂を結集して迎え撃った。
 銀の刃と真紅の光が、互いに眼前の敵を倒そうとして鋭く空中で交錯した。目もくらむような閃光と激しい火花のぶつかりあいがあり、二人は同時に数歩後退した。
 シンオウの打ちおろした剣は、その清廉な魂に研ぎ澄まされた刃で闇の邪霊を霧散した。しかし闇王の体には傷ひとつつけることはできなかった。おまけに、頑丈なはずのそれは精霊の力によって無惨なほどぼろぼろに崩れ、見る間に鉄の塵となって大地の上にこぼれていった。
 ゼルファはその様子を見て冷酷に微笑み、再び精霊を吸収しはじめた。次の一撃で確実に勝利を得る自信とともに。
 しかしシンオウもひるむことはなかった。未練なく手の剣を捨てると、鞍に挟んであった予備の小剣を抜き、間髪おかずに挑みかかった。闇王が次の攻撃に足る霊を集めるまでの一瞬の隙こそが、唯一の勝機であるのを彼は瞬時に理解した。
 新月の闇の中、シンオウの剣が闇王のきゃしゃな影に襲いかかった。鋭利な切っ先がふり降ろされようとしたその瞬間ーー突然満天の星空から一条の白い光が、二人の間めがけて闇を切り裂き、落ちてきた。
 光は足元の地面を直撃した。両方の馬が驚いて立ちあがった。ゼルファもシンオウも、振り落とされそうになってあわてて手綱にしがみついた。
 おびえいななく馬を押さえつつ、その光の落ちた地面を見て二人は同様に息を飲んだ。
 大地が深く割れていた。落雷のように見えたそれは、寸分の差で馬も人もかわし、かわりに見事なまでに地面を二つに切り裂いた。まるで彼らの戦いを止めるかのように。
 全員が呆然と立ちつくした。なにか大いなる力が働いているのを感じる。それは愚かな人間を諌める神の力か。それともーー魔の力か。
誰よりも鋭い感覚を持つゼルファは、世界を包む異様さに身震いした。精霊が、聖なるものも魔のものも、そろって喜びさざめいている。彼は背筋に悪寒が走るのを感じた。身の凍るような恐怖がわきおこってくる。彼はくるりと背を向けると、呆然とするシンオウを残し、さっさとその場を逃げだした。
 王の行動に、正気に戻ったナハトらも、あわててそのあとを追って走りだした。皆が一様に恐れおののいていた。
 シンオウも急いで馬を差し向けたが、彼の馬はどういうわけか一歩もその場を動こうとはしなかった。押しても引いてもびくともしない。忠実で、また果敢な主人に負けぬほどの勇猛な馬であるというのに、この時ばかりは決して言うことをきこうとはしなかった。
 そうこうしているうちに、すでに追うには時遅く、彼らの姿は闇に消えうせていった。シンオウは悪態をつき歯噛みした。千載一遇のチャンスが、またもや得体の知れぬなにかに邪魔されて、目の前から逃げ去っていく。諦めきれない感情が心の中に嵐のように渦巻いた。
 その時、ふと彼は突然それが誰の仕業であるのかを悟った。空間を越え、大いなる自然の有様さえをも操る至上の力の持ち主。それはーー。
 彼は押えていた怒りを爆発させ、天にむかって大声で叫んだ。
「ユウラファーン様、あなたの仕業か! せっかくあそこまで奴を追いつめながら、なんてことをしてくれたのです! せっかくの、せっかくのチャンスだったのに……!」
 シンオウは拳を握りしめ堅く唇を噛んだ。
「なぜ、なぜあなたはそれほどまでに闇王をかばうのです? まだあの男にとらわれているというのですか? あんな悪魔に、あなたは……。なにがあなたを狂わせるのだ! お答えください、ユウラファーン王子!」
しかしその返事はなかった。辺りは静寂に包まれ、闇は沈黙していた。やがてひとつの狼煙が高だかと上がって空を彩る。敵陣制圧の合図である。それを見ながら、シンオウはやりきれぬ思いで北の方向を見つめた。
 そこにいる金の髪の、銀の紋の若者のことを思い案じて。

 

 

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