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第一章−三

 

 の森はいっそう不気味な雰囲気をたたえ、入りくる人間達を拒絶していた。
 陽気な昼の妖精は息をひそめ、かわりに奇っ怪な様相のジン達が、闇の中、狂ったように踊り回っていた。風もないのに木々の梢が揺れ、珍妙な音楽を奏でる。
 いたずらに絡みついてくる蔦に足をとられ、二人の行程はいっこうに進まなかった。おまけに妙に足どりの重いユウラファーンが、焦るゼルファを苛立たせた。
「ユウラファーン。頼むからもっと早く歩いてくれ。このままでは追っ手に捕まるぞ。いくらなんでも、おまえと二人で王宮の兵士全員を相手にする訳にはいかぬだろうが」
「ああ……わかっている。……すまない」
 ゼルファはため息をつくと、背を向けて歩き始めた。彼にとって、体を使うことはすべてが苦手だった。闇紋のひ弱な肉体にくわえ、ろくに動くこともできない洞窟で育っている。彼の体力などないに等しかった。
 ふと気づくと、いままで聞こえていた背後の足音が消えていた。振り返るとそこにユウラファーンの姿はなく、ゼルファはぞっとして震えあがった。
 よもや見捨てられたのかと焦って捜し求める。遥か後方に、大樹の幹にもたれて屈んでいる少年の姿が目に入り、ゼルファはほっとするのと同時に身勝手な怒りにかられ、舌打ちして駆け戻った。
「ユウラファーン、いい加減にしてく……」
 言いかけて言葉をなくす。初めて彼はユウラファーンの異常に気づいた。
 闇にもわかるほど血の気は薄れ、なのに顔中に汗が吹き出し、苦痛に顔を歪めながら肩で息をしている。ゼルファはそっと話しかけた。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
 ユウラファーンは胸を押さえつつ消え入りそうな声で答えた。
「大丈夫だ。……きみは、先に行け。すぐに……追いつくから……」
「馬鹿を言え。おまえを置いて行けるわけがなかろう。しっかりしろ。立てないのか?」
 ゼルファは体を支えようと手を伸ばした。その途端、激しい拒絶にあった。
「よせ! 僕に触るな!」
 ぎょっとして手を引っ込めた。戸惑う彼に、ユウラファーンが息も絶え絶えにつぶやいた。
「僕は……おかしい。なにかが……、胸も、体も、燃えるように熱い。苦しくて……息が出来ない。これ以上……歩けない。きみ、先に、行け」
「何を言う! 一人で行ったりなどしない。おまえと一緒だ。しっかりしてくれ、ユウラファーン」
「森を……東に抜けろ。低い丘がつづいている。それに沿って……、遠回りだが人気は少ない。ダークネシィアに……、きみを、送ってあげられなくて、ごめん……」
 それっきり彼は気を失った。
 ゼルファは愕然とし、そして慌てて彼を抱きかかえると、その頬を叩き名を呼んだ。だがユウラファーンの意識は戻らなかった。
 彼を担いでいこうとも試みたが、すぐに無理難行であることを思い知らされた。華奢で、おまけに肩に傷を負った身では、ユウラファーンの体は気が遠くなるほど重かったのだ。
 火のように熱い友を抱きしめたまま、ゼルファは途方に暮れて座り込んだ。
 どうすればいいのだ。彼を置いていくことなど考えられない。だが非力な自分では一里なりとも進めまい。ここにいれば、いずれ捕まるだろう。そして捕まれば殺される。確実に。
(いやだ! そんな惨めな運命なぞ私は認めない。絶対に死んだりなどしない。生きて闇の国に戻り、光の者どもに復讐するのだ。それだけのために耐えてこれまで生きてきたのだ。こんなところで殺されてたまるものか)
 ゼルファは自らを奮い立たせるように唇を噛みしめると、せめて人目につかぬ場所へとユウラファーンの体を引きずって歩きだした。前方の木に大きなほこらがあった。
(とりあえず、あそこに身を隠そう)
 それは大変な苦行だった。力の限りを込めてもわずかづつにしか進まない。それでもあきらめることなく彼は進んだ。額の汗が流れて目にしみた。肩の傷はずきずきと痛んだ。
 必死に孤軍奮闘するゼルファの前に、突然草陰から数人の男達が踊りだしてきた。仰天して飛びずさった彼に、男達はひそやかな声で尋ねかけた。
「……ゼルファさま、でございますね」
「なんだ、おまえらは? 何故私を?」
 男達は顔を覆っていたずきんを引き下げた。その下から現れたのは、夜目にもはっきりとわかる真っ白な肌だった。
「われら闇王より遣わされた忍びの者。クトルリンさまの命を受け、あなたさまをお救いに参りました。王宮の様子をうかがっていたところ、ただならぬ気配。兵士の騒ぎから御身の逃亡を知り、お探ししておりました。あ奴らよりも先にお見つけ出来て良かった。さあ、一刻も早くダークネシィアに。闇王様がお待ちです」
「闇王が……私を?」
「はい。いえ、王だけではございません。闇の民全員が心より待ちかねております。額に紋を持つ御方、ゼルファさまを」
闇の兵士は膝まづき、うやうやしくかしづいた。ゼルファは戸惑いつつもその姿を見つめた。初めて出会う、同じ肌の色の者達を。彼のもうひとつのーー同族を。

    *       *

 四方を藁で覆い、包み隠したそのやぐらは、牛の引く荷車の上で右に左に揺れていた。
 移動して歩く商隊に化けた一行は、少しでも人目を避けるため、東の丘沿いに辺境の村ばかりを訪れて進んでいた。
 巧妙に染めた肌と髪は生粋の銀紋族とはいかぬまでも、国境近くに多くみられる混血の者ぐらいにはごまかせた。時間は倍かかるが、検問のないこの古い街道は逃亡にはうってつけといえた。このまま何事もなくゼルファを闇の国に届けることが、彼らに与えられた使命だった。
 ゼルファは灯ひとつない真っ暗なやぐらの中、ほんのひとつだけ精霊を灯火に変え、ユウラファーンの体を抱きしめながらじっと目を閉じていた。ひどい揺れにもようやく慣れ、少しだけ人心地ついた気分だった。
 腕の中の少年はずっと眠り続けたまま目を開こうとしない。燃えるような身の熱はおさまったものの、ぴくりとも動かず、それはこのうえもなく彼を不安にさせた。
 闇の者達には半ば強引に彼の同行を認めさせた。闇の中であったことと、逃避行に乱れた髪が彼の紋をうまく隠してくれていたのが幸いだった。もし光の王子その人であることが知れたら、即刻あの場で殺されていたに違いない。
 荷車が轍にはまって大きくかしいだ。ゼルファ達は激しく揺さぶられ、そのショックに、ユウラファーンがうめき声をあげて目を覚ました。
「うっ……つ」
「ユウラファーン」
 ゼルファは声をひそめて呼びかけた。
「気がついたか。どうだ、気分は?」
「ああ、平気だよ。ちょっとぼうっとしているけど。……ここはどこだ?」
「荷車の上さ。乗り心地は最高だ。気をつけないと舌を噛むぞ。ーーおまえが眠っている間に事態は大きく進展した。闇の騎士が私を迎えにきた。私達は今彼らに連れられてダーネシィアに向かっているところだ」
「闇の騎士だって? そうか、とうとう彼らも行動を起こしたか。はからずも時期が重なったというわけだ。不幸中の幸いというところかな。良かったね、ゼルファ。やっと帰れるよ、きみの……国へ」
 寂しげに微笑むユウラファーンの姿に、ゼルファは胸がつまって、彼の首に抱きついた。
「おまえも一緒に、だ。私のためにすべてを捨てたユウラファーン。決して離さぬ……。よいか? 絶対に身分をあかすな。おまえはある貴族の息子で、私の情人。脱出の手助けをしてくれた者だ。むこうでも必ず側にいられるようにする。だから決して馬鹿な真似だけはするな。銀紋の王子であることが知られたら、その場で首が飛ぶのだ。慈悲はないのだ、ユウラファーン」
 ユウラファーンは無言のまま聞き入っていたが、やがてあざけるように笑った。
「光の国を捨て、闇の騎士になる、か。ふふ、何という生きざまだ。なるほど、父を殺した僕にはふさわしい……」
「ユウラファーン……」
「心配するな、ゼルファ。今更泣き言はいわない。僕はきみの側できみを守る。ずっと、ずっと」
 潤んだ灰色の瞳が揺れている。明るさは失われ、深い悲しみと、絶望と、そしてそれを知ったが故の逞しさを秘めて。そして、出会った時からかわらぬ、純粋な愛をも。
 ゼルファはじっとその瞳を見つめ、きつく手を握った。
「ならば二人で生きる算段をしよう。運命になど負けぬ為に。おまえ、肌の色はしかたないとして、その金髪は目をひくぞ。美しすぎる。少し惜しいが、切ったほうがいい」
「髪を? それは……いや、そうだな」
「いやなのか? なにかわけでもあるのか?」
「別に。もういいんだ。切るよ」
 ユウラファーンは腰の短剣を抜くと、髪にあてた。ゼルファがその手を押さえた。
「言ってみろ」
 ユウラファーンはしばしためらっていたが、やがてかすかに微笑んで答えた。
「長い髪は、王位継承の証なんだ。父もメイアも、とても長かったろう? 資格のない者、継ぐ意志のない者は皆切るんだ。シャインフルーでは、王族の男以外は肩以上に伸ばすことはできない。くだらない習慣なんだが、いまだに続いている。だからーー僕はもう、そうすべきなんだよ。資格も、意志も、とうに失っているのだからね」
ゼルファは無言で聞き入っていたが、静かにユウラファーンの手から短剣をとりあげると、元の鞘に戻して優しく云った。
「そういうことならば切ってはならん。誰がなんと言おうとおまえは光の王だ。その資格がある。それにーーたっぷりの未練もな。いつか、本当に国を捨てられる日まで、そのままにしておけ。でなければもし国に帰っても、王位を継げぬであろう? 世継ぎの御子よ」
「ゼルファ、僕はもう戻る気は……」
「それに、やはり惜しい。私は何よりもおまえのその髪が好きなのだ。それに触れる喜びを失いたくはない」
 ゼルファは笑って手を伸ばすと、感触を楽しむように撫でた。ユウラファーンはその手をとって、唇を押し当てた。
「ゼルファ、僕はきみのために生きる」
「……ならば私は、おまえのために生きよう」
「それが定められし道ならば」
「永遠に、二人で進もう」
 まるで誓いのように二人は言葉を分けあった。厳かな沈黙があった。
 その時、ユウラファーンの胸元から何かが転がり落ちた。見ると、それは聖なる石であった。あの罪深き一瞬に、無意識に拾い上げたものだ。
(なんてことだ。これはもうメイアが持つべきものなのに、持ってきてしまったなんて……)
 ゼルファがぽつりと呟いた。
「不思議だな。キィリンクの胸にあった時は、さすが聖なる石と呼ばれるだけある神秘的な、なにか不思議な力を感じたが、今こうして見るとただの石だ。黒い星の入った珍しい水晶石にしかすぎぬな」
 確かに、とユウラファーンは思った。以前に感じられた気高さや崇高さは今はない。だが代わりに、妙な懐かしさにも似たいとおしさが感じられる。誰か、とても近かしい者に見つめられているような、そんな感覚。
訳のわからぬ不安を覚え、ユウラファーンは再びそれを懐へとしまいこんだ。いつかメイアに帰すときがくるのだろうか、と苦い後悔につつまれながら。

    *       *

 それから三日ほどもかかって、ようやく一行はダークネシィアに続く地下道への入り口にたどり着いた。二人はやっと狭い荷車から解放され、よくしつけられた小龍馬のひく馬車に乗り換える。力強いその走りは牛とは比べようもなく、わずか半日で闇の都へと到着した。
 都にそびえる闇の王宮は、それまで通ってきた道路沿いにあったどの建物よりも立派で美しかったが、シャインフルーの王宮の豪華さに比べると、はるかに劣るものであった。
 それは闇の国の貧しさ、人々の苦しみを物語るものだった。
 太陽の日差しを浴び、その大いなる恩恵を受けてたくさんの収穫に国を富み栄えさせるシャインフルー。そしてわずかに地表の切れ間から差し込む光を頼りに、荒れた土地で細々と営む農業と、貧弱な肉しか持たぬ地底動物の狩を暮らしのかてとする封じられた世界ダークネシィア。
 ふたつの国の差は余りにも激しすぎて、比べること自体が不遜な行いであるとすら感じられた。
 闇の国の地へとおり立ったユウラファーンは、思わずため息を漏らした。
(なんという寂しい世界であろう。僕は長い間、なぜ闇の者達は戦いばかり仕掛けてくるのだろうと疑問に思っていた。だが、今ここにきて、ここを見て、彼らの気持ちが痛いほどわかる。憧景と羨望、嫉妬や妬み、それらの感情の深さを苦しいほど感じる。彼らは光が欲しいのだ。慈悲と優しさに溢れた太陽が欲しいのだ。たとえ命と良心を失っても……)
 ユウラファーンは天を仰いだ。そこに空はない。堅い岩肌が遠くに見えるだけ。押しつぶされそうな閉鎖感。どこかで味わったようなこの感覚。
「……まるであの洞窟のようだな」
 ゼルファがぽつりと呟いた。彼も同じ気分を感じたらしい。
(そうか、ここはあの場所に似ているのだ。罪なき者を閉じ込めた、あの牢獄に……)
 そう考えたとき、胸にくさびを打ち込まれたような痛みを感じた。もしかしたら、ゼルファに対するあの冷酷な仕打ちは、そのまま光の国がこの国に犯している罪そのものなのではないか。銀紋族は、闇紋族を長い時をかけて非情に苦しめているのではないのだろうか。
 確かに、世界に伝わる伝説では、闇紋族はかの聖霊王が地に埋めた邪悪なる心から生まれた汚れた一族とある。だがそれは彼らの罪といえるだろうか。いやおうもなく闇の血を持って生まれてくる彼らに、なんのとががあるだろうか。
 ユウラファーンはひどいやりきれなさを感じた。
「ゼルファさま、どうぞ中へ。クトルリン王がお待ちでございます」
 出迎えた側近風の男に促され、二人は連れ添って王宮へと足を踏み入れた、横に居並ぶすべての者が、王子の側の、金髪、褐色の肌の者を怪訝そうに見つめていた。ユウラファーンはその視線に強烈な憎悪を感じ、思わず身震いした。
 今にも誰かが背後から斬りかかってきそうな緊張感がある。苦しいほどの異質さ。それはゼルファがずっと光の国で味わってきたものなのであろう。彼は苦痛に眉をしかめた。
 ゼルファが堅く手を握りしめ、そっと耳もとでささやいた。
「気にするな。誰にも手出しはさせぬ。だからおまえもはむかうなよ」
「わかってるさ。おとなしくしているよ」
「それと、王の前ではできるだけ気を抑えろ。おまえの発散する光の気はとても強い。闇王は私などよりはるかに鋭いぞ。油断すると正体を見抜かれる」
「ああ、気をつける」
「王の間でございます」
 先導していた男が振り向いて告げた。重く冷たい氷紋石の扉が音もなくゆっくりと開く。さほど広くない部屋の正面に、豪華にしつらえられた玉座があって、そこに闇王は座っていた。
 ゆったりと肘掛けにもたれ、暖かそうな毛皮のショールを膝にかけ、悠然とかまえていた。黒い髪と黒い瞳はつややかに輝き、顔立ちはあまり似てはいなかったが、やはりゼルファのように女性的な美しさを持った容姿をしており、そして驚くほど若く見えた。
 なんといっても目をひくのはその肌の色だった。透き通るように青白く、象牙のようになめらか。ゼルファと同じ。それは紛れもなく血のつながりを感じさせた。
 王は座ったまま、長い間無言でゼルファを見つめていたが、やがて口の端をかすかにあげて笑った。
「なるほど、闇の髪と闇の肌、そして額の紋は我と同じよの。そして面立ちは……あれによう似ている」
 クトルリンはゼルファを息子とは呼ばず、また母の名を口にしなかった。いや、できなかったのだ。封印は世界のあらゆるものに通ずる力を持っていたから。
 ゼルファは大きく一息吸い込むと、その場に膝まずいて礼儀正しく挨拶した。
「初めまして、闇の王。お会いしとうございました。私がゼルファ、額に紋を持つ者でございます」
「ふむ、よい、頭をあげろ。おまえは世継ぎだ。かしこまる必要はない。遠慮もいらぬ。そばに寄れ。ーーおい、誰か椅子を持て。長旅に疲れた愛し子をいたわらぬか」
あわてて近侍の者が椅子を運んできて、王の横に間に合わせの玉座をつくった。ゼルファは臆することなくそこに座った。それはまるで生まれたときから彼の場であったかのように、ぴったりとおさまって見えた。
「長く苦労をかけたな、ゼルファよ。まったく、光の者どもは頑としてそなたをわたさなんだ。どこに幽閉しておるのかも皆目つかめず、途方に暮れておったところよ。偶然にもさしむけた影達に出会えるとは、まったくもって幸いであった」
「はい、危ういところを救われました。これも王の御心が精霊を導いたのでありましょう。深く感謝しております」
「ふん、口のうまいことよな。我の機嫌のとりかたを心得ておる。はっは! なんにせよ、おまえが戻ってきて、我がダークネシィアも安泰だ。立派な世継ぎができて嬉しいぞ。この後は私に従い、はやくこの地に馴染むことだな」
 クトルリンは美しい顔に満面の笑みをたたえると、声高らかに笑った。その声にはどこか身の凍るような冷酷な響きがあった。
 ふいに王は笑うのをやめ、鋭い眼差しをゼルファに向けた。
「ところで、愛し子よ。あそこに膝まづいているのは何者だ? なに故に光の者がここにおるのだ。説明してはくれぬか」
 ゼルファは一瞬緊張を覚えたが、顔色ひとつ変えることなく返答した。
「申し送れました。あれは私の世話役の男で、長く情人でありました。逃亡の手引きをしてくれたのもあやつでございます。どうしても別離がいやと申すもので、勝手ながらつれて参りました」
「情人。あの子供が、か」
 闇王は嘗めるようにユウラファーンを眺めた。体の芯まで見透かされているようで、ユウラファーンは思わずその視線にすくみあがった。
「ふん、さても見事な金髪に褐色の肌よな。生粋の銀紋族、さしずめ貴族の息子か、あるいは……王族の一人かな。いやいや、そんな馬鹿なことはあるまいな。今銀紋の王族に若い男子は一人だけ。それも憎きキィリンクの息子だけのはず。そう、なんと申したか、あの王子は。ーーそう、思いだした。ユウラファーンだ。キィリンク自慢の息子よ。ゼルファ、おまえはその王子に会ったことがあるか?」
「……いいえ、一度も」
「そうか。ーーおい、おまえ。名はなんと申す? かまわぬから答えろ」
 ユウラファーンは胸の鼓動を抑えつつ、静かに答えた。気が高揚するのを必死にこらえる。
「……ユリウス」
 王は心を伺い知れぬ皮肉な笑みを浮かべたまま、軽くうなづいた。
「ユリウスか。よい名だ。なんにせよ、愛し子を助けてくれた礼はせねばなるまいな。一番良い部屋を用意させよう。ゆっくりくつろぐがいい。下がってよいぞ」
 ユウラファーンを退けようとする王に、ゼルファは慌てて口をはさんだ。
「王、よろしければそのものは私の部屋に。ずっと回りのことをまかせていたので」
「侍従はちゃんとおる」
「しかしーーな、慣れぬ場所は心細うございます。見知った者がいれば安心かと」
王は二人をそれぞれいちべつし、鼻で笑った。
「……まあ、よかろう。仲良く手に手をとりあって逃げてきたおまえ達だ。つもる話もあろうからな。だがここはダークネシィアだ。どこにも逃げる必要はないんだからな。どこにも、な」 王は最後の一言に力を込めると、再び高らかに笑った。
 案内役の侍臣に連れられて着いた部屋は、なかなか豪華にしつらえられた一室だった。
 小間使の女をさがらせ、ようやく二人きりになったユウラファーン達は、ほっと安堵の息を漏らした。緊張と旅の疲れで着替えすら億劫だった二人は、そのまま並んで寝床に倒れ込み、顔を見合わせて微笑んだ。
 ゼルファは手を伸ばし、ユウラファーンの額に巻いた青いサッシュの飾り模様を指でなぞった。
「……王は気づいたかな、おまえのこと」
「さあ。思わせぶりな口調ではあったがね。どちらにしても、ばれるのは時間の問題だな。さっきだってもう駄目かと思った」
「私もだ。おまえの名がでたときにはどきりとしたよ。とりあえずは無事に切り抜けられてよかった」
 ユウラファーンはこくりとうなづいた。どちらからともなく黙り込む。
 ユウラファーンは目を閉じた。張りつめていた気持ちが緩むと、思いは遠い故郷に戻る。暖かなシャインフルー。夏の日差し、やわらかな夜風。今ごろ王宮はどうなっているのだろうか。
 メイアは、大臣達は、国民はどうしたか。心ならずも裏切ってしまった愛すべき者達に激しい郷愁を感じて、彼は振り切るように首を振った。
 もうあそこに帰ることはない。あの幸せに身を委ねることは絶対に許されないのだ。この手を血で染めたあの時から、自分の運命は決まってしまった。今はゼルファの運命に身をまかせるだけ。この先何が待っていようと。
 ふと気づくと、安らかな寝息が聞こえていた。疲れきったゼルファが眠っている。ユウラファーンは彼の体を抱き上げ、きちんと寝床に寝かしつけた。
(ゆっくりお休み、愛しい双子。きみはやっときみの国、異邦人ではないきみの世界に戻ってこられたのだから。きみはこの国でどう変わっていくんだろう。闇に染まるのか、それとも自由が光を少しでも呼び戻すか。どちらにしても、僕には何もしてあげられないだろう。僕は多分……殺される。闇王に。あの男は知っている。僕が誰であるかを。そして、楽しんでいるのだ。冷たい男。残酷で、冷淡で、僕の心を鋭い爪でかきまわす。だが……きみの父親だ。せめてきみには優しい父でありますように。きみが幸福になれますように……)
 ユウラファーンは眠るゼルファの顔を見ながら、彼のゆく末を案じていた。

    *      *

 闇の国での生活は、ユウラファーンの予想を裏切って、とりあえずは平穏な日々が続いた。
 国王は毎日のようにゼルファを従えて国中を回った。豪華な馬車に並んで座る二人の姿は、とても離れて暮らしていたとは思えぬ程、仲の良い親子に見えた。だが見た目とは裏腹に、二人の間には絶えず何がしかの緊張があった。暖かい言葉のやり取りも、決して真実のみが含まれているわけではない。憎しみであれなんであれ、本音をぶつけられた分キィリンクのほうが疲れない相手であったと、ゼルファは考えて苦笑した。
 それでも、この国にはシャインフルーで感じたような違和感はまったくなく、空気もさまよう精霊達も、何もかもがしっくりとしていた。こここそが自分のいる場所だと実感する。ゼルファは締め付けられていた精神が大きく深呼吸するのを感じた。
ゼルファが外出している間、ユウラファーンはひとり王宮のまわりを探索していた。かなりの程度に自由を許されてはいたが、絶えずつきまとう霊の存在は感じていた。監視付きというわけだ。
 だがユウラファーンはなるだけ気にしないように努め、出来る限りあちこちに出かけ、いろいろなものを見ようと努力した。
 どこに行っても、絶えず誰かの視線を受けた。驚き、憎しみ、殺意のこもった絡みつくような眼差しを。
(当然だな。彼らは皆、光の国を憎んでる。銀紋族が闇を憎むのとは別の次元でだ。ここの人々にとって戦いは切実な生きるかて。領土を増やし、物資を略奪することは罪ではない。そうしなければ生きてはゆけないのだ。ーー過酷な世界。誰がこんな暮らしを強いたのだろう? 銀紋族か? 僕の祖先が彼らを拒否したのだろうか。何故? どうして共に生きることを拒んだんだ。彼らを受け入れる慈悲も余裕もあったはずなのに。どうして闇と光に分かれてしまったんだ?)
 それはユウラファーンがここダークネシィアに来てから、初めて心に沸きあがってきた疑問であった。彼はこれまで一度だって闇紋族との対立を根本的に考えたことはなかった。決して鈍感でも冷徹なわけでもなく、むしろ人並以上に賢く慈悲に溢れていたが、闇紋族そのものの存在を哀れと感じたことはなかったのだ。
(どうして僕は今まで、なにも感じなかったのだろう? それほどに、傲慢に生きてきたのだろうか……)
 ユウラファーンは身を切られるような切なさに襲われた。彼はそれまで自分が、いかに安穏と生きていたのかを思い知った。ずっと何も考えようとしなかったのが、むしろ不思議なくらいであった。
 彼はダークネシィアの冷たい岩肌を見ながら、ふと思った。この疑問こそが、これからの自分を導く重要な指針となるのではないかと。
(そうだ。考えよう。運命が僕をここに連れてきた訳を。きっと意味があるのだ。僕がここに、来た理由が……)
 ユウラファーンはいつまでも岩壁の空を見つめていた。

*       *

 その日、ユウラファーンは独りきりで部屋にいた。ゼルファは近侍に呼び出されて出て行ったきり、まだ戻らない。とても静かな夕刻であった。
 それは静かずぎた。王室中が静まり返っていた。いつもさまよい漂っている闇の精霊ですらが、どこかに隠れ、消え失せている。代わりに、邪な悪霊達がなにかに魅かれるように群れ集まって、あたりを暗く重く包み込んでいた。
 不穏な雰囲気にユウラファーンは心が騒いだ。不幸なこと、悲しみに満ちた出来事が、自分を飲み込もうとしている。大きな運命の波が押し寄せようとしている。不安な予感にいてもたってもいられなくなって、ユウラファーンは戻らぬゼルファを探しに行こうと腰をあげた。
 その時、突然扉が開いて一人の男が入ってきた。ユウラファーンは思わず一歩あとずさって身構えた。それは最も苦手で、最も疎ましい人物だった。本能的な嫌悪感に鳥肌がたった。それを相手に悟られぬよう気遣いながら、彼はゆっくりと片膝をおった。
「……これは、闇王様。わざわざのお越しを。しかしゼルファ様ならばご覧の通り、ここにはいらっしゃいませんが」
 クトルリンは見下すような眼差しを向け、ゆっくりと奥へと進んできた。彼の周りに多くの邪霊が寄り集まって喜び飛び跳ねている。ユウラファーンはその不気味さに怖気だった。
 闇王は冷ややかに言った。
「ゼルファなら、今ごろは裏の離れで大臣達と茶でも飲んでいよう。私はお前と話がしたくて来たのだ、ユリウス」
 ユウラファーンは顔をあげ、王を見た。王の瞳が、冷たく狡猾に光っていた。
「……私になんの御用が、闇王クトルリン」
「ふふ、それがなにか、おまえにはもうわかっているようだな。立つがいい、ユリウス。いや、ユウラファーン王子とお呼びすべきかな? それとも親殺しの、逃亡者と?」
「何とでも呼ぶがいい。真実を曲げるつもりはない。確かに父は殺したのはこの僕だ」
「いさぎの良いことだ。さすが高潔を誇りとする銀紋の王子、プライドは捨てぬ、か? は! 笑止な。己の欲望にすべてを裏切って敵国にまで逃げておきながら、今更そんな誇りがなんになるというのか。清廉もそこまでいくと偽善というもの。おまえら銀紋族の馬鹿正直さ加減には片腹痛いわ。愚かな奴」
 吐き捨てるように語る王の言葉に、ユウラファーンは眉を潜めながらも、臆することなくにらみ返した。
「言いたいことはそれだけか、闇王」
「……生意気な餓鬼め。言いたいことなど山ほどあるが、ありすぎて時間が惜しいわ。私は一刻も早くおまえを殺したいのだ。おまえがそこにいるだけで、腑が煮えくり返る。そら、その目だ。蔑むような哀れむような、私を馬鹿にしてやまぬ目。キィリンクと同じ。そしてルフレイアとも……。銀紋が憎い。我らを地に封印するおまえらが憎い。いつか必ず、一人残らずおまえらをこの世から抹殺してやる。その手始めがおまえだ。光の世継ぎである、おまえから殺してやる」
「僕を殺したところで、光の国が滅びるわけではない。世継ぎはちゃんといる」
「メイア姫、か。ふん、十足らずの子供に何ができる。それに……おまえがいると私の可愛い世継ぎにとって都合が悪い。あれはどういうわけか、おまえをことのほか気にいっている。闇の血というのは恐ろしいものでな。己の欲するもののためならなんでもやりかねん。おまえを生かしておいて逃がされでもしたら、せっかくの征服の好機を逸してしまうからな。もっとも、あれは私以上に光の国を憎んでおるから、余り心配はいらぬであろうが、余分な危険はないに限る。おまえはすべての面で邪魔なのだ。おまえが死ねば何もかもうまくいく」
 ユウラファーンはじっと聞き入っていたが、やがて小さく投げやりに笑った。
「邪魔か……、ふふ。確かに、僕がこの世に生きていなければならない理由など、もう何もないのかもしれない。ーーだがな、闇の王。こんな処で、しかもおまえの手になどかかって死ぬのはまっぴらごめんだ。自ら胸を突いて死んだほうがまだましというもの。おまえは邪悪で冷酷だ。おまえに世界を握る資格は、ない」
 きっぱりと言い切ったユウラファーンの言葉に、クトルリンはその端正な顔を歪め、怒りに震えた。黒い瞳の奥に憎しみの炎が燃えあがる。透き通った歯をきりきりと鳴らし、悔しそうに歯噛みした。
「偉そうなことを。世界を握るに資格などいらぬ。力さえあれば充分だ」
「その力すらない」
「なんだと? おまえのような裏切り者のひよっこに言われたくはないわ! ならばしかと見るがいい。私の力を!」
 闇王の体がきらめいた。群れていた邪霊が吸い寄せられ、悪意に満ちた魂が吸収されていく。恐ろしいほどの数の霊が王の力へと変化して、彼の体のまわりに真紅の炎を燃えあがらせた。
 それが一瞬にして殺意溢れる光の塊となり、ユウラファーンめがけて飛びかかってきた。身構える暇さえ与えず、全身にまとわりつき、相手の命を奪おうと体内に進入してくる。普通の人間ならばものの数秒とかからずに殺されていたに違いない。頑強なアプロスが一瞬にして死に至ったように。
 しかし、ユウラファーンは死ななかった。
 光の塊は彼のまわりで輝きを失い、消えた。力は霧散して空中に散らばり、邪悪な仕業を成すことなくそのまま無に帰していった。
 クトルリンは蒼白になった。今まで、何人たりともその攻撃から逃れた者はいなかった。なのにユウラファーンは交わすどころか、攻撃をその身に受けながらも、消してしまった。この世に最高といわれる闇王の闇の力を、いともたやすく無に帰したのだ。
 堅く噛みしめた王の唇から、悔しそうなうめきが漏れた。
「……そうか。私としたことがうかつだった。キィリンクが死んだ今、おまえはもはや光の王。光の力の根源、聖なる水晶石の庇護を受けているのか。おまえ、聖なる水晶石を持っているのだな、ユウラファーン」
 王に指摘され、初めてユウラファーンはその石のことを思い出し、思わず胸に手をやった。懐の奥にひっそりと眠っている水晶石。しかし、そこからは何の力の躍動も感じられず、光の気も発散されてはいなかった。
 闇王は憎々しげにユウラファーンをにらむと、再び気を高めて魂を呼び寄せ始めた。彼は己の力に絶対の自信を持っていた。石の力だけに頼り、何の鍛錬もつんでいない銀紋の者とは違う。確実に倒せるだけの力があると信じている。一度は聖なる石に邪魔されて失敗したが、次は容赦しない。石の庇護など打ち破るだけの力をぶつけてやるのだと、心を燃やしていた。
 一方ユウラファーンも、今度はむざむざやられるのを待ってはいなかった。押さえていたたがを外し、思うがままに気を高めた。だがひとつ彼にとって誤算だったのは、そこに光の精霊がほとんど存在していないということだった。
 ユウラファーンは辺りを探った。闇の邪霊ばかりが群れ飛ぶその部屋は、どう考えても闇王に有利であった。おまけに潜在する能力は別としても、現段階でははるかに彼のほうが力に優る。勝算はひどく低く、ユウラファーンは焦りを感じた。
 心が乱れる。集中しようとすればするほど、緊張だけが増し、動揺が激しくなった。胸の鼓動が、爆発しそうに早くなった。
 その時、ふいに彼は、松明に火が点火したかのごとく、体が熱く燃えあがるのを感じた。それも集まった霊の力ではない。身の内なる部分から溢れるように湧きだしてくるのだ。全身が白く発光し、どんどん輝きを増していく。彼の意思や思惑をはるかに越え、力は増長していった。
その様を見て、クトルリンはぎょっとした。
(なんだ、この技は? これも聖なる石の力なのか? ーーいや違う、そうじゃない。これは……いったいなんだ? こいつは、いったい何者なのだ?)
想像もしていなかった少年の姿に、不安を感じた闇王は素早く先手をうった。
 邪悪な霊が再びユウラファーンを襲った。先ほどよりも強く激しい力である。しかし今度はユウラファーンの体に触れることすらできなかった。霊は光の輝きの前に弾けて砕け散り、空中で消えていった。
闇王は愕然として身をひいた。一瞬にして不利を悟る。この少年には太刀打ちできないなにかがある。とてつもない力が彼を支配し守っている。それがなにかはわからないが、闇の力くらいでは到底かなわぬものだ。
(それとも……これが光の王の真の力なのか? 何百年もの長い間、どんなに必死になって闘っても決して勝つことのできなかった、これが光の力だというのか)
 両目を見開いて立ちすくむ闇王に、ユウラファーンはゆっくりと近づいていった。灰色の瞳が光の中で銀色に輝いている。そこには憎しみや殺意、優しさすらもが存在せず、人の心を超越したような不思議な色が宿っていた。
 彼はクトルリンの正面に立つと、右手を伸ばし彼の首をつかんだ。くぐもった声がして王の顔が苦痛に歪む。華奢な肢体のクトルリンは、たとえ少年とはいえ鍛えられたユウラファーンの前には為すすべもなく、体が少しづつ持ちあげられ、爪先が地面を離れた。首釣り状態にされたクトルリンは身をよじって抵抗したが、それは空しい徒労であった。耳鳴りががんがんと死の鐘を鳴らし始めた。
 ふいに、王の首をつかむ手を通し、ユウラファーンの頭の中にひとつの記憶が伝わってきた。
 それは隠された過去の記憶ーー若き闇の王と、強奪された光の姫君の悲恋の物語。封印された宝玉にすら残されていなかった、悲しい真実の記憶であった。
 許されぬものと知りながら、互いに魅かれあう心と心。一瞬にして燃えあがった激しい愛。そして、別れ。
 ユウラファーンは王の体を下に降ろした。
 クトルリンは激しく咳込んで床に転がった。その姿を見おろしながら、彼はたずねた。
「いまのは、真実か……? それとも、おまえが作りだした虚構か?」
 クトルリンはむせかえりながら問い返した。
「なんの、ことだ?」
「いまおまえが僕に見せた記憶だ! 十九年前の……話。おまえと、伯母ルフレイアとの関係。おまえは……本当に愛したのか? 本当に彼女を愛して、そして逃がしたというのか? おまえが、その手で、光の国へと!?」
 その叫びを聞くなり、クトルリンは愕然として身をこわばらせた。
「なぜ……なぜおまえが知っている? 私は誰にも話してはいない。なのにどうしておまえが知っているのだ?」
 ユウラファーンはふらりとよろめいてあとずさった。
 真実なのだ。光の姫君は、無理矢理乱暴されて身ごもったわけではなかった。闇の王は力づくで彼女を卑しめたりはしなかった。彼らは愛しあい、求めあい、そしてそれ故に、互いの身を案じて別れたのだ。
 そして今も闇王は愛している。ゼルファの母、ルフレイアを。死んでしまった光の娘を。
 ユウラファーンは急速に気力が萎えるのを感じた。彼の良心がその事実の前に闇王を殺すことを拒否した。冷酷無比なはずのクトルリンが見せた熱い想い。光の心。それが彼の中から攻撃意欲を奪い去った。
 ここにいるのは冷たい悪魔。しかし彼もまた、紋を持つ者の宿命に翻弄された哀れな人間だった。血にひき裂かれた不幸な恋人達であったのだ。
 そしてもうひとつ、ユウラファーンは重大な事実に気づいてしまった。
 闇王の愛した姫君ーーゼルファの母を殺したのが、いったい誰であったのかを。もし自分がクトルリンを殺したなら、それはまぎもなくキィリンクの二の舞だ。父の犯した罪ゆえ孤独を強いられた愛しき双子。そしていままたゼルファから父親を奪う。それはなんという許し難い罪なのか。
 彼の感情を正直に反映し、ユウラファーンの力は一瞬にして消え失せた。呆然と立ち尽くす彼に、闇王は隙を見逃すことなく攻撃した。闇の力がすでに無意味であることを悟った王は、懐中から短剣をだし、下から斬りかかった。
 鋭い切っ先がユウラファーンの頬をかすった。痛みに我に帰った時すでに遅く、ユウラファーンの背後に王がいて、その細い腕をユウラファーンの首に絡ませ、手にした剣を喉もとに突きつけていた。
「動くなよ。少しでも動いたらすぐにこれが喉をつらぬく。私は非力だがそのくらいの力はある。油断したな、ユウラファーンよ」
 王はじりじりと首をしめつけた。剣が少しづつゆっくりとユウラファーンの皮膚を切り裂いてゆく。真紅の血の糸が幾筋も流れ落ちて喉元を伝った。
 ユウラファーンは呟くように言った。
「……殺すなら早く殺せ。ぐずぐずしていると反撃するぞ」
「それは無理だな。おまえには抵抗の意志がない。おまえの体から伝わってくるわ。ーー哀れみか。ふん、愚かな! だからおまえらは甘いのだ。感傷など無意味。同情など無用だ。だが私の心をのぞいた罪は重いぞ。ひとおもいになど殺してやるものか。じっくりと死の苦しみを味あわせてやる」
 闇王は低く笑った。
 ユウラファーンの首から流れだす血は、まとった白いシャツの衿を染め、胸を伝って衣服を濡らした。ユウラファーンは静かに目を閉じた。
 腰には短剣もあり、手向かえば充分反撃できることを知りながら、彼は抵抗しなかった。抗う気力がなかった。そして生きる気力すらも。彼は死を覚悟した。
 ふと人の気配を感じてユウラファーンは目を開けた。見ると、いつのまにか戸口にゼルファが立っていた。彼は無表情に、なんの驚きも見せず黙ってその有り様を見守っていた。その手にもまた護身用の細い剣が握られていた。
 ゼルファは無言のままゆっくりとユウラファーン達のもとに近寄ってきた。闇王は突然の息子の出現に一瞬たじろいだが、彼に怒りのないのを見て安堵と嘲りの意味をこめて鼻で笑った。
 ゼルファは息が触れるほど側によると、人形のように美しく凍りついた顔を寄せ、じっとユウラファーンを見つめた。そして剣を持つ手をあげ、クトルリンがつけた首筋の傷の上にその切っ先を押し当てた。
 黒い瞳が眼前にあった。ユウラファーンはその目を見つめながら微笑んだ。
(早く殺れ。せめて君の手で死にたい)
 その言葉にならぬ思いを受け取ったのか、ゼルファはいったん剣を引くと、今度は頭上高く振りかざした。狙いを定めるようにしっかと目を見開き、力を込めて振りおろした。剣は風を斬るように鋭く襲いかかった。
 だが、銀色の刃はユウラファーンを通り越した。それは背後に立つ闇王の喉もとへと向かい、深々と突き刺さった。
 思いもよらぬ彼の行為に、クトルリンはあっけなくその剣の餌食となった。体から力が抜け、手の中の短剣がこぼれ落ちる。つかんでいたユウラファーンの首を離すと、よろよろとあとずさって壁にもたれかかった。
「馬鹿な……、おまえ、おまえは……」
 ゼルファは落ちた王の短剣を拾い上げると、かすれた声を絞りだすクトルリンのもとに歩み寄り、冷やかに語りかけた。
「愚かな真似をなさった、父上。あなたには私の心がわからなかったらしい。申したはずです。彼は情人だと。いや、情人以上。私の命、私のすべてだ。彼を殺すことなど許さない。たとえそれが……父上、あなたであっても」
 息がかかるほどに身をすり寄せ、王の耳にささやいた。
「どうやら私はあなた以上に闇の者らしい。あなたを殺することになんのためらいも悲しみも感じない。この剣がなによりの証拠です」
 ぐぶっという息とも叫びともつかぬ音がして、クトルリンの口から真っ赤な血が溢れ出た。目が大きく見開かれ、手がすがるように息子の服の上をさまよった。ゼルファは冷酷にその手を払いのけ、静かに身をひいた。
 壁に張りついたように取り残された闇王の胸に、銀色の刀身を柄まで埋ずめて剣が刺さっていた。
 王はすでに喋る力もなく、物言いたげに唇を動かし、ゆっくりと首を振り、胸を押さえて体をふたつに折った。そして床にずるずるとくずおれると、それっきり二度と動きはしなかった。
ユウラファーンは呆然とその光景を見つめていた。しばらくの間無言で父の死体を見おろしていたゼルファだが、やがてきびすを返すと、床に座りこんだユウラファーンのもとへ来て、優しく声をかけた。
「立てるか?」
 うなづく少年の手を取り、ひっぱり起こすと、ポケットからハンカチを出して彼の傷に押しあてた。薄い水色の生地が見る間に真紅に染まっていった。
 心配そうに眉をひそめるゼルファに、ユウラファーンはなんでもないというように首を振ってその布を受け取った。ゼルファは声を潜めてささやいた。
「逃げよう。王を殺した。もうここにはいられない。王宮に裏手に秘密の抜け道があり、そこからスファールの湿原に抜けられる。光の国に帰ろう、ユウラファーン」
「ゼルファ、君は僕のために……」
「なにも言うな。私は後悔などしていないぞ。おまえを失うくらいなら世界中の人間を殺したってかまうものか」
「しかし、君までもが僕と同じ罪を背負うなんて……。それも僕を守るために。なんという残酷な結果だ。耐えられない」
 ユウラファーンは自分が罪を犯したごとく、額を押さえて苦悶した。その姿を見ながら、ゼルファはかすかに苦笑した。
「これこそが、運命を分かつということなのかもしれぬ。おまえは私のためにその手を汚し、私はおまえのためにこの手を汚した。互いにこの世で最も罪深きことをした。……もっとも、私はおまえとは違って、なんの良心の呵責も感じてはいないがな。ーーそれより急ごう。王の姿が消えれば、たちまち皆がいぶかしむ。時間はないぞ」
 ゼルファはユウラファーンの手を取ると、せかすようにひっぱった。だが部屋を出ようとする直前に、急にユウラファーンは独り後戻りして、倒れている闇王の側にひざまづいた。
彼は腰から自分の剣を取りだすと、王の喉もとに突き刺さっていたゼルファの剣を抜き、代わりにそれを突き立てた。すでに命を失った王の体からは出血も少なく、血を浴びることもなかった。
 ゼルファの剣を裸のまま無造作に懐にしまいこむと、もう一度思い悩むように死体を見つめた。自分の片袖をひきちぎり堅く閉じた王の手に無理矢理握らせる。ひとたび深く息をつき、そしてやっと覚悟を決めたようにきっぱりと背を向けた。
 ゼルファが扉のそばでいらいらして待っていた。そのもとに飛ぶように駆け戻り、二人は手をとりあって逃げだした。
 不思議と人影のない王宮を、つないだ手の温もりを深く心に感じながら、彼らは駆け抜けていった。

    *       *

 黒鷺の群れが大きな羽音をたてて水辺から飛びたっていった。
 それに習うように、さまざまな闇の精霊達があわてふためいて逃げ惑った。いつもはほとんど誰も訪れることのないこの湿原に、突然現れて、荒々しく水の上を渡ってゆく人間の存在に、彼らは驚きおびえていた。
 攻撃心の強いものが果敢に襲いかかってくる。ぽっと燃え立つその姿が、皮肉にも暗闇を走る逃亡者達の足もとを照らし導いてくれた。
葦と水蔦に足を取られながら、ユウラファーンとゼルファは懸命に駆け続けていた。
 すでに王の死体は発見されているに違いない。追っ手の気配こそまだないが、発見されるのは時間の問題だろう。彼らは探索には必ず闇の魂を利用するだろうし、この世界には恐ろしいほどの邪霊がいる。それらは皆忠実なる彼らの手先なのだ。
 逃避行に最初に音を上げたのはゼルファだった。ユウラファーンに支えられ必死に頑張ってはいたものの、淀んだ水際を走ることは体力のない彼にとって酷な苦行であり、ついには水の中に膝をついてかがみこんだ。
「もうだめだ。一歩も走れぬ。……限界だ。休ませてくれ」
 はあはあと大きく肩で息をしている。ユウラファーンも足を止め、その側に同じようにひざまづいた。
 せかすでもなく力づけるでもなく、彼はじっと長い間ゼルファを見つめていた。そしてやがて静かに言った。
「もういいよ、ありがとう。あとは僕ひとりで行く。君は王宮に帰れ」
 ゼルファは驚いて顔をあげた。
「なにを言ってるんだ。王を殺したのは私だぞ。どうして戻れるというのだ?」
「誰も見ていたわけではない。それに残してきたのは僕の剣だ。いくらでも言い訳はたつ。彼らは僕がしたことだと思うだろう」
 ゼルファはすっと全身から血の気がひいてゆくのを感じた。
「ではあの時おまえは……。最初からそのつもりだったのだな、ユウラファーン。それであの時剣を……。おまえは私を捨てる気なのか! 裏切り者、この大嘘つきめ!」
 だがゼルファの叫びも空しく、彼の心には届かなかった。ユウラファーンは冷静に語り続けた。
「君は唯一の闇紋の世継ぎ、君がいなければ国が滅ぶ。君は戻って王位を継がなければならない。君の国、君の国民を守らなければならない。それが紋を持って生まれた君の義務だ」
「それはおまえだって同じではないか! おまえだって王子、光の世継ぎだった。でも私のために国を捨ててくれたであろうが?」
「僕にはメイアがいた。君とは違う」
 ユウラファーンは頑として譲らなかった。その口調にどうしても曲げることのできぬ堅い意志を感じ取ったゼルファは、独り取り残される恐怖に激しく身を震わせた。
「ユウラファーン、私を捨てるつもりか!」
 必死の形相で少年の胸にかぶりつき、すがるように見つめた。だが見返すユウラファーンの瞳は語っていた。なにを言っても無駄なのだと、ひとりで行くのだ、もう決めたのだと、その灰色の瞳が寂しげに告げていた。
 ゼルファの頬をひとすじの涙がつたった。
「どうしても……置いていく気なのか?」
 ユウラファーンは無言でうなづいた。その冷たい返答に、ゼルファは唇を噛み、震える声でつぶやいた。
「ならば……、ならば、ユウラファーン、ここで私を殺してゆけ。その胸の短剣で、私の喉をかっ切ってからゆけ。ーーここでおまえと離れれば、私とおまえは敵になる。私はおまえや、おまえの国と闘わねばならなくなる。おまえを憎み、殺すような、そんなことには耐えられない……。そんな残酷な運命を私にきせるくらいなら、いっそこの場で、おまえの手で、私を殺せ。ユウラファーン」
「ゼルファ……」
「頼む……。おまえと敵同士になどなりたくないのだ。私に身に流れる闇の血を知っているであろう? 敵となれば、きっといつか私はおまえを憎む。殺したいと思うようになる。私におまえを裏切らせないでくれ、どうか……ユウラファーン……頼むから……」
 ゼルファはユウラファーンを胸にすがりついて咽び泣いた。
 ユウラファーンは戸惑いながらその肩に触れ、ためらうように手を震わせていたが、やがて優しくゼルファの体を引き離すと、涙に潤んだ瞳をじっと見つめた。
 懐から短剣を取りだす。生々しく血のこびりついた銀の輝き。彼はそれを逆手に持つと自分の首にその切っ先を寄せた。
 よもや自殺でもするのかと、ゼルファは驚き焦って、手をだした。だがユウラファーンは束ねた己の髪をつかむと、それを肩からすっぱりと切り落とした。
 見事な金色の髪がユウラファーンの手の中で輝いた。ユウラファーンは呆然と見守るゼルファの手にその髪を握らせると、穏やかに、だがきっぱりと告げた。
「王宮には戻らない。僕は王となって君と闘ったりはしない。いつも君を見ている。いつも君を想っている。君は自分の生きたいように生きるといい。信ずる道をゆけばいい。君は闇の王なのだ。それがーー運命だ」
「ユウラファーン……」
「君を愛してるよ、ゼルファ。僕の双子、僕の半身。……一生離れないと言ったのに、嘘をつく僕を……許してくれ」
 ユウラファーンはゼルファの頬を両手で包み、羽が触れるように、そっと唇にくちづけした。そしてゼルファの黒い髪をつかむと、それを自分と同じように肩からばっさりと切り落とした。
 追いすがるような友の眼差しの中、彼は寂しげに微笑んで立ちあがった。
 黒い髪を大切に胸に抱きしめ、ゼルファをじっと見つめながら、彼は一歩一歩ゆっくりとあとずさった。
 そしてつぶやいた。
「さよなら、愛しい人」


 少年は、闇の中に消えていった。
 ゼルファは両手に金の輝きを握りしめながら、別れを告げる言葉すら口にできず、じっと立ちつくしていた。
 愛しい友の姿が闇に吸いこまれて見えなくなっても、水を蹴る足音が遠く去って聞こえなくなっても、それでも、ずっとずっと、いつまでも見つめていた。
 ユウラファーンのうしろ姿を。  

 

 

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