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第二章−三

 

「また今日もいらっしゃらないのね。兄上様は。なんだかいつも避けられているみたい」
 
メイアが半ば自嘲気味な思いを響かせて小さく呟いた。ティティは心配そうな笑みをむけ、少女を励まし慰めた。
「気にすんなよ、王様。ユリ……じゃねえ、王子様は、最近とみに変なんだよ。草原にもほとんど帰ってこねえし、何考えてるのかもわかんねえ。昔から人間離れしてたけど、いっそう影が薄くなっちまってさ。あんただけを避けてるわけじゃないよ」
「そうかしら。ひとことお礼を言いたかったのだけど、それも無理なようね。私がくるのは迷惑なんだわ、きっと」
「そんなことねえってば。あの人見てないようでちゃんと見てるからさ。今だってどこかでこの話を聞いているに違いないぜ」
 ティティの必死の慰めを聞きながら、メイアは小さく笑った。たとえそれが自分を喜ばせるための偽りであったとしても、少年の無心な思いやりがうれしかった。
 あれから幾度この草原に足を運んだことだろう。側近や大臣達に止められ、シンオウに渋い顔をされながらも、ここに来たいと思ったのは、兄に会うためだけではなかった。
 ここには安らぎがある。束の間の休息がある。気どらない人々の素朴な笑顔が、そして無垢な魂を持った優しい少年がいる。メイアもまた、この草原の落とし子に魅かれていた。ティティの飾らない態度やまっすぐな眼差し、自分にむけられる純粋な愛情が、メイアにはなによりも喜びであった。彼の側にいてその笑顔を見ているだけで、辛い戦いの日々が嘘のように思えてくる。ここでは国も立場も忘れて、ただのひとりの娘に戻ることができるのだ。
 北風が吹きすさぶ中、二人は寄り添うように歩いていった。少し離れたところから、シンオウが静かにつき従ってついていく。王の行動を無謀なものと思いつつも、彼にはそれを禁ずることはできなかった。それが唯一の少女の幸せであることを、彼もまた知っていたから。
 ふと気づくと、前方の遠い彼方に白く輝く光が見えた。それが少しづつ近寄ってくる。やがてその光の中に、人の姿があるのがわかった。ユウラファーンだ。彼はゆっくりと草原を歩いてきた。
 ティティはひどく驚いた。口ではああ言ったものの、ユウラファーンがメイア達を避けて身をくらましているのは確かで、まさか帰ってくるとは思いもしなかったからである。それに最近ほとんど草原にいないことも本当だった。
 ユウラファーンは彼らの前までくると、立ち止まってじっと二人を見つめた。彼はそっと妹に手を差し伸べた。
「おいで、メイア。少し話をしよう」
 優しい声だった。昔のように愛情溢れた暖かな声。メイアは顔を輝かせ、満面の笑みをティティにむけた。ティティは笑ってうなづき、そっと肩を押しやった。メイアは少年にうながされ、兄の手をとってうれしそうについていった。
 ティティはその場に立って、彼らのうしろ姿を見送った。自分が彼らの間に介在してはならないことをよく知っていた。少しだけ嫉妬を感じたのは事実だが、それがどちらにむけたものであるかは自分にもわからなかった。
 背後にいたシンオウが近づいてきて、おどけたように首を振った。
「お互い、ふられたようだな、お姫様に」
 ティティはにっこりと微笑み返し、そして二人そろってカイヤへと戻っていった。ユウラファーンが一緒なら、メイアの身にはなんの心配もいらないのだ。
 その頃、草原を歩いていたメイアは、ふと先ほどまで感じていた風の冷たさがまるで消え失せているのに気がついた。見ると自分と兄の体のまわりに、うっすらと光の膜がおおっている。不安そうな少女に、ユウラファーンは穏やかに説明した。
「心配することはない。精霊達が守っているだけだ。害はない」
「兄上様が……なさってるの?」
「違う。彼らが勝手にやってるのだ。もう俺にも止められない。ーーさて、ここいらでいいか。お座り、メイア」
 兄にうながされ少女は大地に腰をおろした。やわらかな砂の感触が心地良かった。ユウラファーンもかたわらに座り、しばらく無言で地面を見つめていたが、やがて静かに尋ねた。
「メイア、ここが好きか?」
 突然の問いに戸惑いながらも、メイアは正直に答えた。
「ええ、兄上様。好きですわ。自然は厳しいけれど人は優しい。でもなぜ?」
「ならばメイア、王宮を捨て、ここで暮らさぬか? ティティや草原の民に囲まれて、ここで生きようとは思わないか?」
 メイアは思わず立ちあがって声をあらげた。
「それはできません! まがりなりにも私は王、一国を預かる身。そんな勝手なふるまいは許されません!」
「国など闇の奴らにくれてやればいいではないか。どうせどちらが支配しようと、人の世に大差はないぞ。光と闇、銀紋と闇紋の戦いは、額に紋のあるものがいる限り、決して終わりはしないのだ。おまえは王宮で、再び紋を持つ子供をつくるつもりか?」
 メイアは憮然とした表情で見返し、厳しく反論した。
「兄上様、なんというお言葉です。どちらが支配しても変わらぬとは、国を放棄しろとは、かりにも一度は王というものを目指されたかたの、おっしゃることとは思えません。それに銀紋を次代に残すのは、私達王族のもっとも重要なる義務ではありませんか。いまさらなにを言われるのです」
「まあ落ち着け。それでは質問を変えよう。おまえはなぜそれほどまでに闇の者達を憎むのだ? 彼らがおまえになにをした?」
「それは……、闇紋族はいつも私達に戦いをしかけてきますから」
「なぜ討ちかえす?」
「国を奪われないためにです。当然の行為でしょう?」
「なぜ? どうして受け入れてやろうとしないのだ? シャインフルーは広い。彼らを地の底からひきだして、住まわせてやるくらいの土地はいくらでもあるだろうが」
「そんなこと!ーーだいたい、闇の者を地上に住まわせるなど、許されないことですわ。彼らはかの聖霊王により封じられた邪悪の化身。地底以外に生きることを禁じられた者達です。受け入れるだなんてとんでもない」
「誰がおまえにそういった? 彼らが邪悪の化身だと、地底が彼らの国で、地上がおまえ達のものだと、いったい誰が決めたのだ?」
 鋭い眼差しをむけ問いつめる兄に、メイアはおののき、たじろぎながら答えた。
「……過去の歴史が。伝わる伝説が。それに、あの者達を見ればわかります。彼らは皆、残虐で非道で、殺りくが好きな悪の者達。まさしく邪悪そのものではありませんか」
「メイアよ、ここシャインフルーにとて、殺人者も泥棒も、裏切り者もいるのだぞ。悪の花はどこにでも咲く。同様にダークネシィアにだって愛や優しさ、信頼は存在するのだ。皆俺達と同じように、家族を愛し、仲間を慕いながら生きている。俺達とどこが違う? 変わらないぞ。同じ世界、同じ生き方。ーーそう、当り前だ。人は皆、等しく聖霊王から生まれたのだ。銀紋も闇紋も同じもの。俺達の始祖は双子の兄弟だったのだ」
 メイアは顔色を失い、目を見開いてユウラファーンを見返した。
「兄上様……、いったいなにをおっしゃられてるの? そのような話は一度だって聞いたことはありませんわ。私達が同じものだなんて、そんな、恐ろしい……。二度とそんなこと口にしないで」
「いや、お聞き。おまえは光の王としてそれを聞く義務がある。これは封印の宝玉に封じられた、まぎれもない事実なのだ。信じられぬのなら見せてやってもいい。私達は同族だ」
 メイアは震えあがり、両手で堅く耳をふさいだ。
「やめて! やめて、ユウラファーン! 聞きたくない。そんなの嘘よ。嘘に決まってる」
「メイア」
「だって、封印された伝説ならどうしてそれを兄上様が知ってるの? どうして私に話せるの? 封印の内容は誰にも語ることはできないはずよ。みんな嘘。つくりごとだわ」
ユウラファーンはしばし眉をひそめ見守っていたが、やがてすっと手をあげると、それをメイアの眼前に差しだした。目を閉じ深く息を吐く。と同時に、突き出された掌の上に、ひとつの宝玉が現れいでた。
 メイアはぎょっとした。
「これがなにかわかるか?」
「封印の……宝玉?」
「そうだ。おまえがどうしても信じられぬというのなら、今ここでこれを見せてやろう。その目でみるがいい。その耳で聞くといい。闇と光の出生の秘密。遥か古の真実を知るがいい。その上で俺は問う。彼らを受け入れ、ともに生きてみないかと」
メイアは身動きひとつせず、長い間じっとその宝玉を凝視していた。唇が青ざめ、震えている。少女は小さく首を振った。
「……お願い、やめて。知りたくない」
かたく目を閉じ、両手で顔をおおった。
「不可能よ。闇と光が共存するなんて。彼らを受けいれるなんて。絶対に……無理。それに……なによりも私の心の憎しみが。私は、たとえあの男が土下座して謝罪しても、決して許すことはできない。すべての幸せを奪ったあの男だけは……どうしても」
メイアは美しい顔を歪め、憎悪をむきだしにして呟いた。ユウラファーンは寂しげに目を細め、そんな妹の姿を見つめた。長い沈黙が続く。風のゆきすぎる音だけが聞こえてくる。やがてそっとため息をつき、彼は独り言のように静かに語った。
「そうか。心優しきおまえすらも、その呪いを破ることはできぬのか。せつないことだ。愚かな人間、愚かな子供達。なんという罪の深さだ……。罪はすべて我にあり。憎むはわが所業のみ……」
 ユウラファーンは額を押さえ、苦悶に顔をゆがめた。
「最後の望みは消え失せた。ならば残された道はただひとつ。宿命はかえられぬ。予言は成就する。御子が扉を開くまで、もう私には手がだせぬ」
「……兄上様?」
 メイアは兄の姿に激しい不安を覚えた。急にその存在が遠く感じられ、いましも風の中にとけこんで、消えてしまいそうに思えた。
 思わず手をさしだす。しかしそれを避けるかのようにユウラファーンは立ちあがり、静かに妹を見て言った。
「わかった。もう迷いはない。おまえはおまえの運命をまっとうするがいい。ーーさらばだ、妹。俺は今後二度と、おまえの兄としておまえに会うことはあるまい。俺もまた、俺の運命をまっとうする」
 言い終えるなり、彼はきびすを返して草原の奥へと向かって歩きだした。とり残されたメイアはあわててそのあとを追おうとしたが、不思議に一歩も踏みだすことはできなかった。魔法でもかけられたかのように、足が大地に縫いつけられていた。
 遠ざかる兄のうしろ姿に、メイアは懸命に叫んだ。今止めなければ、本当に彼はその言葉どおり二度と戻ってはこないだろう。心が激しく予感している。もう……会えない、と。
「兄上様! お願い! 私を独りにしないで。いかないで、ユウラファーン! ユウラファァァーン!」
 少女の高く細い声は風が消した。涙は大地が吸い取った。虚しい願いは、すべて自然の中に溶けて消えていった。
 愛しい兄の姿は、草原の砂嵐にまぎれて、もうどこにも見えなかった。なにもかもが、メイアの前から消え失せていったのだった。

    *       *       *

 一方、カイヤに戻ったティティとシンオウは、酒を飲みながら他愛ない世間話で暇をつぶしていたが、ふと口にしたティティの言葉に、シンオウが鋭く耳をむけ問い返した。
「ちょっと待て。今のことは本当か? 本当におまえは闇王の秘密の乗馬道を知っているというのか?」
「え? う、うん。秘密かどうかはしらねえけど、エウルークにいる間は毎日でかけてるみたいだぜ。あいつ、あんまり馬が得意じゃないらしくてさ。練習も兼ねてるんじゃないかな、きっと」
「練習用の乗馬道か。それならなおのこと都合がいい。ほとんど警護らしいものもないに違いない。暗殺には最適だ」
 思わぬ方向に展開した話を、ティティはあわてて制した。
「待った、暗殺なんてだめだ。絶対に無理だよ、そんなこと」
「なぜ?」
「だってユリウスが許さないよ。あの人は絶対闇王に手を出させない。行商人に化けたあんたらを邪魔した話は、前にもしたろう? いつも影であいつを守ってるんだ。理由は知らないけどさ」
 シンオウは思いきり顔をしかめた。確かにティティの言うとおり、彼の不思議な力は二度も目の当たりにしてよくわかっていた。どんなに秘かな計り事でも、今のユウラファーンには知られて阻止されてしまうだろう。
 しかし、だからといって手をこまねいているわけにはいかないのだ。シャインフルーにとって、一番の脅威はゼルファだ。あの男を殺らねば国が危ない。いつかは侵略され、支配下に落ちる。それは国の存亡にかかわる重要な鍵なのだ。
渋い表情で黙りこむシンオウに、ティティはしばしためらった後、おずおずと問いかけた。
「どうしても、殺らなきゃなんないのか? あの王様を」
 シンオウはちらりと少年を見、深くうなづいた。
「どうしてもだ。奴こそが諸悪の根源。逆に、あいつさえ倒せば残りは屑同然。わが国は確実に勝利する。奴さえいなければ……」
 ティティは瞳を輝かせて身を寄せ、ささやきかけた。
「じゃあ俺も協力するよ。あいつを倒せる方法があるんだ。ただ、首ったまを持って帰るってわけにはいかないけどな」
「それはなんだ? 話してくれ、ティティ」
 ティティはカイヤの奥から小さな地図を持ちだしてきて、彼の前に広げた。エウルークを囲んだおおざっぱな地形図である。指で街を指し示しながら説明した。
「ここが街で、こっちが北壁。基地はこのあたりだよな。奴はここからずっと壁沿いの街道を進んで、二股に別れたこの場所からエウリアの森へ入るんだ。林道を通ってカシャの沼をまわり、また森に入って今度はこっちの獣道を通る。この辺は入り組んだ小道で、見通しは悪いけど馬の手綱さばきを仕上げるにはもってこいの所さ。俺もここでよく走る。それで偶然あいつを見かけたんだ」
「なるほど。待ちぶせするにはいい場所だな。ここでなら私一人でも殺れる」
「無理だよ。ユリウスにばれる」
「じゃあどうする? 弓でも使うか? だが、ここでは木が邪魔になって確実ではない」
「弓もだめ。自分の手で殺そうと思ったらだめなんだ。攻撃的な気を発したら、すぐに気づかれちまうからね。俺達は直接には手をださない」
「じゃあ誰が殺るんだ?」
「ガルブさ。ガルブに喰わせるんだ。ーー見ろよ。カシャの沼をすぎて左に進むと未開の森があるだろ? この森がくせもんなんだ。中にちっさな獣道がついてんだが、これがぐちゃぐちゃに道が入り組んでてさ。おまけに枝が繁っていて空も見えないし、いつの間にか方向感覚が狂っちまって、百八十度反転する。そして最後には魔道の谷に抜けるんだ。俺も一度こっぴどいめにあって、危うく迷子になるところさ。ーーこのことは俺しか知らない。鹿も猪も住まないジンの森だから、人は全然いない。ここに奴を追いこんで魔道の谷に誘いこんでやれば、あとの始末はガルブがつけてくれるって魂胆さ」
 シンオウは大きく息を吸い、うなった。雑な作戦だが案外うまくいくかもしれない。たとえ闇王とて、魔道の谷に入って無事にすむわけはないだろうし、なによりいくらユウラファーンでも王が迷子になることまで事前に察知できるとは思えない。それはあくまでも事故なのだ。ただ偶然ではなく、故意に操作されたものではあるが。
 シンオウはにやりと微笑んでティティを見た。
「よし。失敗は覚悟でやってみよう。力を貸してくれ、ティティ」
 二人は額を寄せあい、息をひそめて策を巡らした。それは、泣きぬれたメイアが一人戻ってくるまで、熱心に続けられていた。

    *       *       *

 大きな鳴き声をあげて、頭上の枝から鳥達が飛び立っていった。
 その音に驚き、馬が神経質に鼻を鳴らす。荒々しく白い息を吐く愛馬をなだめながら、ゼルファはなにか妙な感覚を味わっていた。
 いつもの慣れ親しんだ乗馬コースだ。特に危険な道筋でもないし、普段と変わった様子もない。敵の気配も感じられないし、背後には警護の兵も数人つき従っている。なにも異常はない。
 だが妙に心が騒いだ。予感めいたものが神経を震わせる。それもただ不安であるのとは違うのだ。あの奇襲を受けた時に感じたような、強烈な不快感はない。もっとかすかな、それでいて全身をしめつけるような、どこか甘く、そしてこのうえなく危険なもの。
 彼は心乱れ、何度も辺りを見渡した。そんな王の様子に、警護の兵が怪訝そうに尋ねかけた。曖昧に返答しながらも、ゼルファは戸惑いを隠しきれずに、不安げな顔で馬を進めた。
 カシャの沼をまわり、早めに乗馬をきりあげようと元来た道を戻りかけた時、突然その影は、彼らの左手の茂みの奥から現れでた。
それは真っ白な駆け馬に跨った、一人の少年であった。
 薄い生地のショールを肩にかけ、気候のよい王宮近辺で好まれる短い丈のチュニックに身を包んでいた。しなやかな足や腕はむきだしで、露出した肌は健康的な小麦色だ。
 頭には幾重にもベールを巻きつけているので顔はよく見えないものの、ベールの裾から見え隠れする髪は、見事なまでに太陽の日差し色、金の輝きをしている。
 遠目にもはっきりとわかる生粋の銀紋族。その者はしばしの間、呆然とするゼルファ達をじっと眺めていたが、やがてひらりと馬をかえすと、元来た茂みの中へ妖精のような身のこなしで忽然と消えていった。
 まるで真昼の夢のような不思議な出来事であった。現実か幻覚かの区別すらはっきりしない。
 あっけに取られる者達の中、ゼルファもまた声もだせぬほどにその出来事に心を奪われていた。一目その人影を目にした時、彼は胸の鼓動が一瞬止まるのを感じた。息もつけぬくらいの衝撃であった。
「……まさか、まさか……!」
 胸がしめつけられるような甘い期待がわきあがってくる。まわりの世界が遠くなり、目に映るのはその姿だけとなった。
 愛し、慕い、待ちこがれたその者が、今そこに立っていた。長い時の隔たりを越え、やっと自分の前に現れたのだ。やっと、やっと……。
 彼はその瞬間すべてを忘れた。国も、戦いも、憎しみも、なにもかもが消え失せた。普段の冷静さや理性は失われ、ゼルファはなんら迷うことなく、手綱を握り馬の腹を蹴った。そして少年の消えた茂みの中へと走っていった。
 切ない焦りが彼をとらえた。急がなければ。急いでであとを追って捕まえなければ、きっと彼はまたいなくなってしまう。どこかに消えてしまって、もう二度と会えないに違いない。
 ゼルファはその人物が愛しい相手であることを、疑いようもなく信じていた。いや、信じようとしていただけなのかもしれない。それほどに待っていたのだ。彼の帰還を。
 その熱い想いゆえ、彼はあわててあとを追ってきた警護の兵士が、いつのまにやら誰ひとり消え失せていたことにまったく気づきはしなかった。
 低木の向こう側につくと、そこには誰もいなかった。絶望が心を襲う。その時、また左手にちらりと少年の影が見えた。ゼルファは駆け寄った。誰もいない。そしてまた再び奥に人影と物音。また走り寄る。その繰り返しである。彼は無我夢中でその者のあとを追った。なにかにとりつかれたかのようであった。
 いつしか辺りの景色は様相を変え、一度も足を踏みいれたことのない未開の森へと入りこんでいた。
 そこは異様な空気が蔓延する異様な場所であった。人の気はまったくなく、精霊やジン達が驚くほど多く漂っている。木の枝という枝には蔦がからみつき、生い茂って日差しを遮断していた。下草は荒れ、じっとりと湿ってぬかるみを造っている。細い獣道は曲がりくねり、見通しはまるできかなかった。
ゼルファと人影は、なおも追いかけっこを続けていた。現れては消え、消えては現れるその者の行動には、まるで巧妙に獲物をおびきよせる狐のような狡猾つさがあった。
 いつもならば、間違いなく疑問をいだいたであろうに違いない。だがその時のゼルファは、なんの懸念も不信も感じなかった。ただあふれんばかりの喜びと、少年を見失うことの恐れだけが彼を支配していたのだ。
 彼は夢につかれていた。
 ずいぶん長い間、右へ行ったり左へ行ったりしていたが、もうどの方向から来たのかもわからぬほどに走りまわった頃、やっとその少年は馬の足を止め、ふりかえった。太い木の根元でじっと自分を追う者を見つめていた。
 ゼルファは満面に笑みを浮かべ、喜び勇んで走り寄った。
 だが思いきり名を叫ぼうとしたその瞬間、彼は数メートル手前で急に馬を止め立ちどまった。ゼルファはやっと気がついた。その大きな誤解に。あってはならぬ人違いに。
 少年はゆっくりとベールをとった。その下から現れたのは、毛先だけを金色に染め、特殊な顔料を顔に塗った、まやかしの姿であった。
 ぎらぎらとひかる活気に溢れた瞳、気の強そうな顔つきは、端正で気品に満ちていたあの少年とはまるで違うものであった。まったくの別人だった。
 呆然とするゼルファの前で、偽者はにやりとほくそえんで、ずるがしそうにささやいた。
「残念だったな、目当てのお人じゃなくってさ。ーーあばよ、王様」
言うなり、彼はすばやく身をひるがえして再び森の奥へと消えていった。そして今度は二度と姿を見せることはなく、またそのあとを追う者も、もういなかった。
 ゼルファは身動きひとつせずに、その場に立ちつくしていた。騙されたことへの怒り、偽者への報復の感情すらもわいてはこなかった。ただ激しい失望だけが胸にあった。
 うちのめされ、呆然と眼前を見つめた。そこには誰もいなかった。愛しい双子も、その偽者も、誰も……いない。
 彼はなにもない空間におずおずと手をさしのべ、すがるような眼差しをむけた。言いかけた名前が、青ざめた唇にとどまっている。彼は震える声でその名をつぶやいた。
「……ユウラファーン」
 答えるものはいなかった。
ゼルファは両腕で力一杯自分の身を抱きしめた。悲しみに狂ってしまうかと思った。体が、砕けて飛び散ってしまうかと思った。
彼は絶叫した。
「うああああああぁぁっ!」
 木々はその叫びを吸いこみ、ジンは喜んで舞い踊った。ちっぽけな精霊達は闇王が発する強烈な感情に恐れおののき、一目散に飛んで逃げた。きらきらと美しく輝きながら。
 森はゼルファを包みこんだ。


 秘かにつけておいた目印を頼りに、ティティは無事に森を抜けた。北壁のきわに着くと、そこにはシンオウがいて、待ちきれない様子で気ぜわしく問いかけた。
「どうだった、首尾は?」
 ティティは無言でうなづいた。その答に彼はうれしそうに微笑んで、少年の肩を叩いた。
「よくやったぞ。護衛の兵士どもは私がかたづけておいた。基地の奴らが異変に気づく頃には、もう手遅れだろう」
 だが上機嫌なシンオウとは対称的に、ティティは浮かない顔でうつむいていた。
「どうした? なぜそんな顔をする?」
「だって……、正当なやりかたじゃない。これは卑怯な作戦だよ。卑劣な手口だ」
「確かにそうだ。しかし、奴になんの疑惑ももたせずにおびきよせるには、これが最適な方法だった。戦いに卑怯も正当もない」
「でも! ……あんたは、あの顔を見てないからそんなことを言えるんだ。あの時の闇王の……顔。俺いやだよ、もう二度と」
 後悔と呵責に顔をしかめるティティに、シンオウはその大きな手で優しく頭を撫でて言った。
「二度はない。これで終わりだ」


 長い長い時がすぎ、ようやくゼルファは顔をあげ、手綱をとった。
 いつまでもここでこうしているわけにはいかない。出ていったきり戻らぬ王の身を、皆が案じていることだろう。親身な愛情かどうかは別にしてもだ。
 彼は力なく馬に声をかけ、今来た道を戻り始めた。だがすぐに行きづまった。方向がわからない。北も南も、感覚がずれて判断できない。太陽すらもが枝葉に隠れて見えず、周囲にはただ深い森がえんえんと続いているだけであった。
 ゼルファは急激に不安に襲われた。入った時は夢中で気づかなかったが、この森は異様だ。この精霊達の数の多さはなんだ。これではまるで古の世界のよう。人の入る隙間がない。精霊を操る闇の王ですら思わずたじろいでしまうほどの、妖しの空間であった。
 敏感におびえいななく馬をなだめながら、ゼルファは懸命に帰路を捜し求めた。しかしいっこうに見慣れた風景は現れてはこなかった。そのうち、うっそうとしていた森は一本二本と木が減ってゆき、いつしかまばらに立ち並ぶだけの林へとかわっていった。
 やがてふいに眼前が開け、切り立った崖に両側を挟まれた見知らぬ谷間が現れた。
 そこに一歩足を踏みいれた瞬間、ゼルファは不安が恐怖へと変わるのを感じた。全身が総毛だち、悪寒が肉体をかけめぐった。耳の奥でざわざわと血が騒いだ。
 ここは恐ろしい。ここはなんびとたりとも踏みいってはならぬ魔物の聖域。現世の精霊界だ。人間がいてはならぬ場所だ。
 それまでなんとかなだめすかして歩かせてきた馬も、この谷間では一歩も動こうとはしなかった。しかたなくゼルファは馬を降り、手綱をひっぱって先にたって歩きだした。しぶしぶと馬があとについてきた。
 ゼルファは歩きながら側にいる魂を少しづつ吸収し、結界で身を包んでいった。なんの足しになるかもわからなかったが、なにもしないよりはましだろう。
 十分ほど歩いて立ち止まった。進めば進むほど人の気が薄れていくのを感じ、彼は困惑した。引き返すべきだろうか。しかし戻ったところで、またあのわけのわからぬ森に入るだけだ。堂々めぐりのすえ、疲労を強めるだけである。舌打ちし、彼はまた歩き始めた。
 その時突然馬が激しく暴れだし、あわててゼルファは押さえようと綱を引いた。が、馬は非力な主人の手から綱をもぎ取ると、今来た道を一目散に駆け戻っていった。
 残されたゼルファは途方にくれる暇さえなく、馬の奇行のわけを知らされた。彼は蒼白になってあとずさった。
 眼前の岩影から、巨大な生き物が顔をだしていた。黄金色のつややかな毛並みに、鋭い眼光、猫のように細い瞳孔をした、見事な生きる魔物、ガルブが。
(ガルブ!ーーそうか、なんてことだ。ここは魔道の谷か!)
 ゼルファは恐怖に顔を歪めた。ガルブには闇の力は役に立たない。そのジンに対抗できうる魂など存在しないし、人の力などは無に等しい。なによりもガルブは決して屈服しないのだ。光にも、闇にも、正義にも、邪悪にも。彼らは孤高の聖霊、誇り高き魔物の王者なのだから。
 ガルブはじっとゼルファを見つめていた。彼が何者であるかを見極めるように、純粋で知的な眼差しを向け、静かに立っていた。
 ゼルファはその視線をとらえたまま、ゆっくりとあとずさった。少しでも刺激しようものなら一瞬にして飛びかかってくるだろう。たとえその攻撃をかわすことができたとしても、そのあとに打つ手だては自分にはないのだ。とてもガルブを倒す自信などはなかったし、一度怒らせたそれは必ずや敵を殺すであろうから。
(なんとかしてこの場から逃げださねば。戦えば間違いなく私は負ける……)
 しかし運命は冷たく彼を見放した。
 前方にいたガルブが低くうなり声を発っした。気がつくと右横からもう一頭のガルブが近づいてくるのが見えた。そしてあろうことか左からも。正面からもさらに二頭。四面楚歌であった。
 いつもは決して群れることのないガルブ。多分ゼルファの発する強烈な闇の気が、皮肉にも彼らを逆におびきよせる結果になったのだろう。互いに牽制しあってすぐに襲ってくる気配こそなかったが、それも時間の問題に思えた。もはや逃げることすらかなわなかった。
(どうすればいいんだ。もう終わりか。私はここで死ぬのか。こんな所で、奴らの牙に裂かれ、人知れず骨と化すのか。ーー冗談じゃない! いやだ、死にたくない! 生きてもう一度彼に会うまで、死ぬわけにはいかぬ。死んでたまるものか!)
 ゼルファは悲壮な決意で、持てうる限りの気を高めた。がむしゃらにまわりの魂を集め、奪うように吸いとっていく。なんとしても命をつなぐために。なんとてしも生きのびるために。彼の精神は壮絶な叫びをあげた。

 遠き地の果てで、その声を受けとった者がいた。

 息苦しい顔料を落とし、冷えきった体にいつもの酒を流し込んでほっと一息ついた時、突然ユリウスがカイヤに飛びこんできて、ティティの胸ぐらをつかみ揺すぶった。
「なにをした? 彼の気が激しすぎてつかめない。いったい彼になにをしたのだ!」
「な、なんのことだよ、いったい?」
 あまりの急なことに、真実なにを聞かれているのか理解できなかった。はっと思いあたった時には、すでにユリウスはティティの心を読みとって、荒々しく少年を投げだし呟いた。
「魔道の谷か。……くそ、まにあうか……」
 彼はふりかえりもせずに出ていった。
 残されたティティは呆然としてそのうしろ姿を見送った。服の内側で熱いものが胸をつたった。見ると、彼につかまれたところに深い爪痕が残り、赤い血を流していた。


 ギャッと鋭い鳴き声をあげ、一頭が後退した。他のものも瞬間ひるむが、またすぐにじりじりと間をつめてくる。
 ゼルファの抵抗は確実にガルブを傷つけたが、倒すにはいたらなかった。結果的には火に油をそそいだ形となり、彼らは怒りに燃え、もはや敵は目の前の人間ひとりと、ゼルファだけを的に攻撃の機会を狙っていた。
 切り立った崖に背中を押しつけ、荒く息をきらしながら、ゼルファは絶体絶命の危機を迎えていた。逃げる場所はもうない。逃げる隙すらない。奴らは皆俊敏で、その精神力は逞しかった。目的を成し遂げるまでは決して諦めたりしないのだ。
 冷たい汗が額から流れ落ちた。息切れ、耳なり、爆発しそうに脈打つ鼓動。とうに体力は限界を越えている。ただ生きるという気力だけが、今にもくじけそうな心を支えていた。激しい緊張に幾度も気を失いかけながら、ゼルファは命を放棄しなかった。
 一番手前のものが、我慢に耐えきれずに、低いうなりを発しながら頭を下げた。跳躍の姿勢をとる。ゼルファは身をこわばらせた。
 度重なる攻防に魂が枯渇しはじめていた。側にいた精霊はもうほとんど吸収しつくし、残っているのは役にも立たぬ屑同然の霊と、光の精霊だけである。激しい戦いを恐れて近寄ってくるものもいなかった。
 ガルブが踊りかかってきた。ゼルファは残り少ない力を持てる限りの気で高めてぶつけた。ガルブの鼻先に深い傷が走り、魔物は苦痛にとびのいた。が、同時にゼルファもまたがっくりと膝をついた。最後の力だった。
(……おしまいか。ーーふ、世になだたる闇王の力とやらも、たいしたものではないな。ガルブの一匹すら倒すことができぬのだから)
 彼は自嘲的な薄笑いを浮かべると、自ら結界をといた。これ以上無駄な抵抗で死の苦痛を長引かせることはない。奴らのひとかみで、せいぜい楽に死ねるようにと思った。
 その時、頭上で甲高い鳴き声がして、眼前のガルブらがいっせいに顔をあげた。
 ゼルファもつられて空を見た。そこにはひときわ大きく堂々とした、王と呼べるほどのりっぱなガルブが円を描いて滑空していた。
(やれやれ、ついに御大登場というわけか。王の死刑執行に、とっておきの大物が出向いてくれた気遣いには、感謝せねばなるまいな)
 ゼルファは疲れきった頭でそんなことを考え、小さく笑った。
 天空のガルブはゆっくりと飛びながら少しづつ降下してきた。何度も声をあげ、まわりの同類を牽制するように、爪を立て毛を逆立てて威嚇する。その人間は自分の獲物だとでもいわんがばかりに凶暴に吠えたてた。
 すると驚いたことに、ゼルファを取り囲んでいたガルブ達が一頭二頭と後退し、そのまま背を向けてひきかえしはじめた。仲間にすら順位を持たぬ彼らが、空を舞う大物の前に、あっさりと身をひき、立ち去っていった。
 やがて残るは最前列にいた一頭だけとし、あとはすべて谷間の彼方へと消え失せていった。それは先ほどゼルファが鼻っつらに傷を負わせた奴であり、よほど未練があるらしく、空からの威嚇におびえながらも頑として退こうとはしなかった。
 上空のぬしはしばらく飛行を繰り返していたが、そのうち業をにやしたのか、一旦高く舞いあがると、鋭い雄たけびをあげながら、地上めがけて急降下を始めた。激しい風切り音が耳をつんざいた。
 下にかまえていたガルブが恐怖の悲鳴をあげ、毛を逆立てる。その上に強烈な爪の一撃が襲いかかり、毛がひきむしられて宙に舞った。
 きらきらと輝く金の毛。再び舞いあがっていく大きなガルブ。
 息をつめながらその戦いを見守っていたゼルファは、その時、天から降りてきた魔物の背に一人の人間が乗っているのを初めて知ったのであった。
 その男。
 片方だけの腕で金のたてがみをつかみ、広い魔物の背中に雄々しく跨っている青年。深い傷を顔と心に負った、孤独な姿。灰色の瞳。
 襲われたガルブは命が大事と悟ったのか、とてもかなわぬ相手と思ったのか、とうとう観念して一目散に逃げ去った。それを見て空中のガルブは満足そうに一声鳴いてみせた。
 ゼルファは呆然と空を見あげた。低い位置でガルブは旋回を繰り返していた。その羽の影から、視線が彼を見つめている。暖かく、優しく、かつ強力な力を秘めた眼差しが彼をとらえている。
 ゼルファは唇を震わした。
「ユ…………」
 想いは声にならなかった。言葉がつまり、胸の奥で熱い塊となって全身を燃えあがらせた。
 二人の視線があう。空と地で、二人は言葉もなく見つめあった。
 青年の瞳は悲しい色をしていた。この世の苦しみをなにもかも見つめてきた、孤独な瞳であった。限りなく愛しく、限りなく想いこがれた灰色の瞳。たったひとつだけ……ゼルファが求めてやまぬもの。
 やがてガルブは首を上に向けると、大空高く上昇した。背を見せ無情に飛び去っていく魔物にむかって、ゼルファは追いすがるように両手をさしのべ、あらん限りに絶叫した。
「ユウラファーン、ユウラファァァーン!」
 だがその叫びに答えはなく、谷間には壮絶な彼の声だけが、いつまでもいつまでもこだましていた。

    *       *       *

「闇王様!」
「ゼルファ様!」
 側近達は全員蒼白になってかけ寄った。
懸命の捜索にもかかわらず、どこにも見つけだすことのできなかった王が、真夜中すぎになってやっと一人で戻ってきた。ぼろぼろの衣服。手や顔は小枝や刺で切傷だらけになり、疲労困憊の様子であった。
「王よ、いったいどこにおられたのです? 森も街道も、沼までさらいましたのに」
 闇王はがっくりと疲れた顔で、億劫そうに返答した。
「話はあとだ。私は疲れた。寝る」
「しかし怪我の手当が。それにお食事も」
「いらぬ」
 ぶっきらぼうに答え、当惑しざわめく臣下達を後目に、彼はまっすぐに寝所へと向かった。部屋につくと、着替えの服を差しだす従者すらも追い払って、そのまま寝床へと倒れこんだ。
 疲れきった頭の中を、ひとつの光景だけが幾度も走馬燈のように繰り返しよみがえった。それが心を強く支配して、疲労にもかかわらずゼルファはなかなか寝つくことができなかった。
(あれから、不思議な光の精霊に導かれて私は谷を抜けることができた。あれもまた……彼の仕業なのだろうか。ーーガルブに跨り、ガルブを操り……、およそ人の姿ではなかった。人の気を発してはいなかった。……なにがあった? 魔につかれたのか? それとも真に光の力に目覚めたのか。なぜ私を助けるんだ? なぜまだ私を生かしておこうとする……。いっそあの場で、おまえの手で殺してくれれば……)
 ゼルファは枕につっぷして、もれる声を押し殺した。
再会と呼ぶにはあまりにも一瞬の、あまりにも辛い出来事であった。別離のせつなさをいや増しただけのこと。暗闇の中、身を切られるような孤独にさいなまれながら、ゼルファは愛しい者の姿を必死に心につなぎとめようと、何度も思いおこした。
(……大きな傷があった。ーーおまえは、目も腕も失った哀れな姿で、どこでどうして生きているのだ? 帰ってこい、ユウラファーン。そして私と一緒にどこかへゆこう。どこか遠くへ、ふたりだけで、私の双子よ……、ユウラファーン……)
 いつしかゼルファは眠りの世界に落ちていった。夜の静寂がしっとりと部屋を満たしていった。
 翌朝、ナハトは王の呼び出しを受け、急いで彼の私室へとむかった。重い扉を開けると王は近侍の手で着替えをしている最中であった。
「おはようございます、闇王様。お疲れは癒えましたでしょうか」
 王はちらりとナハトを一暼しただけで、なにも答えず、そのまま着替えを終えると深々と椅子にかけ、朝の酒をすすった。長い沈黙があり、やがて王はぽつりと呟いた。
「おまえ、草原の盗賊を討ちたいともうしておったな」
「は? あ、はい。あやつらの行動は常々腹にすえかねておりましたもので」
「その願い、かなえてやろう。奴らを殺せ」
 若い騎士は身を乗りだし瞳をきらめかせた。
「本当でございますか? 兵を貸していただけるのですね!」
「すきなだけ連れていけ。ただし、兵を粗末に考えるな。一人の兵士も貴重な戦力。それを肝に命じておけ。それから、いっさい手加減してはならぬ。女であれ子供であれ、容赦はいらん。中途半端は嫌いだ。なにもかも消してくるのだ。特に、先陣をきる餓鬼がいたはず。なにがあってもあいつだけは逃してはならぬ。わかったな、ナハト」
「かしこまりました、闇王様。間違いなく」
 ナハトは深くうなづき、勇んで部屋を出ていった。それを目を細めて見送りながら、ゼルファは冷酷に唇をゆがめた。
(愚かな餓鬼めが。ただのこそ泥のままでいれば人並な一生を終えられたものを。誰になにを吹きこまれたのか知らぬが、この闇王をあざむき、たったひとつの聖域を汚した罪の重さを、身を持って知るがいいわ。なにもかも奪ってやる。骨も血も、草原の塵となればよいのだ!)
彼の手の中でガラスの杯が砕け散った。

    *       *       *

 カイヤの集落から遠く離れた丘の上で、シンオウは小さな池の側に座って瞑想するユウラファーンの背後に立ち、厳しい表情でじっと彼を見守っていた。
ユウラファーンは彼がなにも言おうとはしないので、苦笑して自ら話しかけた。
「言いたいことがあるなら言え、シンオウ。怒りは腹にためるとなおさら熱く燃えあがるぞ。そのためにわざわざ来たのだろうが」
 しかし王子の言葉にも答えずなおも彼は沈黙していたが、やがて静かに口を開いた。
「私は……あなたのほうが怒っていらっしゃると思っておりましたがね、ユウラファーン様」
 ユウラファーンは片目を開けちらりと彼を見ると、嘲るように冷たい笑みを浮かべた。
「俺がか? ふふん、そうだな。確かにせんだっては危ないところであったな。あやうく彼を死なせるところだった。冷汗をかいたぞ」
「まったく惜しいことをいたしました。もう少しであったのに」
「おまえも懲りない男よな。まあ、暗殺の計略など何度企ててみても無駄だということが、今度こそ骨身にしみたであろう」
 シンオウは深く息をつくと、ゆっくりとユウラファーンの横にひざまづいた。そして深々と頭を下げ、土下座した。
「なんの真似だ、シンオウ」
 彼は平伏したまま言った。
「お戻りください、ユウラファーン王子。なにとぞ、なにとぞお願いいたします!」
「その答ならば、すでに申した」
「今一度、お考えなおしくださいませ。どうか王宮へ、どうか王座へ! 今のあなたのお力なら、ダークネシィア制圧もかなわぬことではない。長き戦いに終止符をうつことも決して夢ではないはずです。その力、われらのために、いえ、世の平和のためにお使いください、ユウラファーン様」
 シンオウの嘆願をじっと聞き入っていたユウラファーンだったが、やがて目を開くと、彼のほうへ向きなおって真剣な眼差しを向けた。
「確かにおまえの言うとおりだ。今の俺の力ならば、かなわぬものはなにもない。闇を支配するも、撲滅するも、どうとでも自由。しかしそれはーーできないのだ、シンオウ」
「なぜです! それほどにも偉大なる力を持ちながら、まだ正しきことが見えぬというのですか。それほどまでに大事ですか、あの男が!」
「大事かだと?ーーそう、そうだ。そうだとも、シンオウ。彼はなによりも大切な男だ。このすべての世界にとってな。彼こそが光と闇を統合する。せねばならぬ。それこそが運命なのだ。俺には決して手をだせぬ、定められた宿命なのだ。そして……、その時こそ俺も目覚めることができる。真の姿に」
「ユウラファーン様……?」
 シンオウはえも言われぬ不安に襲われ、にじりよって青年の顔をのぞきこんだ。
「真の姿とは……それはなんです? あなたはいったいなにをお知りなのですか、ユウラファーン王子」
 だが彼は答えなかった。その代わりに、一つの言葉を呟いた。
「この世には呪いがかかっているのだ、シンオウ」
「呪い、ですと?」
「そうだ。そして、それを解き放つ鍵が、ゼル……」
 言いかけた時、ふいに彼はシンオウを押しのけて立ちあがった。全身を緊張させ、丘の下の遥か彼方を見やる。その視線の先、遠く地平線近くに、一本の煙の柱が立ち昇っていた。
「……火だ。ーーカイヤが! 草原の民の集落が闇の兵に襲撃されている!」
「なんですと!」
 二人はあわてて馬に跨ると、飛ぶような速さで丘を駆け降り、草原の土を蹴散らして走った。二人ともそれは見事な手綱さばきではあったが、生憎シンオウの乗る馬は駆け馬で、草原ではその威力を発揮することはできなかった。
「先に行くぞ、シンオウ!」
 ユウラファーンはふりかえりもせずに叫んで、走り去っていった。


「きゃあああぁ!」
「うわあぁ、助けてくれえ!」
 戦いの激しい喧騒の中、女子供や老人の逃げまどう悲鳴が、辺りを包んでいた。
 すでにこの場にいたるまでに三つの集落を全滅させ、勢いに乗った闇の軍は、ここレンタスの率いる一番の大きな集落すらも手玉を取るように扱っていた。
「くそったれがあぁぁ、殺られてたまるかぁ!」
 力のある男達が、草原馬に跨り果敢にたちむかっていった。剣の交わる金属音と馬のいななき、罵声、断末魔の叫び声。ありとあらゆる戦いの壮絶さがそこにあった。
「殺せ! ひとり残らず切り裂くのだ! 闇王様の命令だ」
 肉体の力においては草原の民も闇の兵士らにひけはとらず、むしろ優っているものも多かった。だが兵士として鍛えられた軍隊とその圧倒的な人数の多さの前には、まったく彼らの敵ではなく、草原の者達はことごとく剣の餌食となり、あちらこちらに屍となって大地を飾っていった。
「火をつけろ!」
 弓を持った兵が、火のついた矢をカイヤに放った。たちまち辺りは火の海となり、隠れ逃げこんでいた弱い者達が火だるまとなって飛びだしてきた。
「ひいいぃぃっ! 誰かぁぁ!」
「熱い、熱い! 助けてぇ!」 
 炎に焼かれ逃げまどう者の叫び。身動きできずにすくむ者。黒こげの母親にすがる子供の泣き声。それらの上に容赦なく銀色の刀身がふり降ろされた。ひとかけらの慈悲も救いもなく、人々は倒れていった。
 いまや草原は現世の地獄と化していた。
 キシンは愕然として足もとを見つめた。そこには火に焼かれ真っ黒な炭の塊となった、ひとつの死体が転がっていた。胸に大事そうに赤子を抱いている。しかしその子供もまた、すでに泣き声ひとつあげぬ命の抜け殻となり果てていた。
キシンは膝をつき、その遺体に手を伸ばした。彼の手の中で、愛しき者の髪は燃えかすとなって砕け散った。
「……闇の奴らめ。女がおまえ達になにをした? 子供になんの罪があるというのだ、くそぉ!」
 彼は怒りに燃え、絶叫しながら闇の兵に斬りかかった。狂ったように剣を振りまわし、まわりの歩兵を数人次々となぎ倒した。そのすさまじい反撃にひるむ者達をも執拗に追いつめては、容赦なく斬り殺した。
 激情のあまり、冷静な判断力は失われていた。彼は眼前の大きな男に気を取られ、背後から忍び寄る敵の存在にまるで気がつかなかった。
 突然鋭い痛みが胸をつらぬく。呼吸が止まる。キシンはゆっくりと顔を向けた。一人の兵士が、勝ち誇ったような眼差しをむけ、背に剣を突き立てていた。
 キシンは手の中の剣を逆手に握り変えると、そのままうしろに力一杯突き刺した。ぎゃっという声とともに、男は彼の背に剣を残したまま倒れた。それを横目で見、にやりと笑って、キシンはなおもよろよろと前進した。
「そう簡単にやられて……たまる、かよ。俺を、甘く……見るな」
 背中に剣を突き立てたまま、キシンは眼の前の男に近寄っていった。闇の兵は恐怖にひきつりながら飛びかかった。ふらつく足をこらえながらその攻撃を横にかわし、キシンはバランスを崩した敵の頭めがけ、満身の力を込めて太い剣を振り降ろした。悲鳴ひとつあげずに男は倒れた。
「へ……へへ、ざまあみやがれ。あの世で、ジンに……喰われ、ちまえってんだ……へ」
 その時、一人の若い騎馬兵がいつのまにか彼のうしろにまわりこみ、彼の背中から剣を引き抜いた。傷口から真っ赤な血が激しくほとばしって、大地を真紅に染めあげた。
「うあ……!」
 激痛によろめくキシンに、騎馬兵はその剣を再び彼の背に突き刺した。刃は左の肩から胸を刺しつらぬき、心の臓を切り裂いた。
 キシンはかすかに唇を動めかし、地に倒れ伏した。そしてそのまま二度と起きあがることはなかった。
「逃げろ、逃げるんだ! 草原の奥に逃げこめ!」
 レンタスは声の限りに叫んだ。辺りは阿鼻叫喚のちまたとかし、希望はかけらすら見あたらない。しかし、命さえあれば、たとえすべてを失ってもまた地の恵みを受け、生き続けることができるのだ。生きてさえいたならば。
 だが闇の兵は容赦なかった。懸命に逃げ走る彼らを追っては、ためらいなく斬り殺した。レンタスははり裂けるような思いで、死んでゆく仲間達や燃えあがるカイヤを見つめた。
 築きあげてきた世界が、守ってきた幸福が、無惨に目の前で打ち壊されていく。なにもなすすべもなく。
 呆然と立ちつくす彼に、騎馬兵が襲いかかった。気づくのが遅れ、死を覚悟したその瞬間、かたわらから銀の刃が現れて、ふり降ろされたその剣をがっちりと受け止めた。
「ユリウス!」
 青年は一刀のもとに敵を倒すと、大声で叫んだ。
「レンタス! さがっていろ!」
 彼は猛然と敵陣めがけて走っていった。
 驚きべき妙技であった。手綱を持っていないにもかかわらず、軽やかな馬さばきで敵の間をすり抜けながら、居並ぶ兵達を次々にひと太刀で斬り倒した。あまりの見事な技に、敵の兵すらもが剣を止めて見入っていた。
 ユウラファーンは馬を止め、辺りを見渡した。カイヤが残らず火に包まれている。逃げる人々。悲痛な叫び、泣き声。血、涙、死人、破滅。
 悲惨な光景が彼を燃えあがらせた。たちまちのうちに彼の肉体はすさまじいまでの輝きを放つ光体となった。真っ白な光の中、金色の髪を揺らめかせて彼は叫んだ。
「天の精霊、地の精霊! 光のしもべ、闇のしもべ! 水と風を運ぶ、すべての魂に命ずる! 空の水を呼び、この炎を消しされ!」
 するとその言葉が終わらぬうちに天上に黒い雲がわきだしてきて、大きな雷光とともに激しい雨が滝のように落ちてきた。
 突然の雨にあっけに取られる人々の前で、それはまるで意志を持つ生き物のごとく燃えるカイヤを包みこみ、あっという間に火をおさめていった。
 カイヤの火は、あっという間に鎮火した。そして大いなる力に操られるかのように、また一瞬のうちに雨はあがり、雲はひき、風とともに忽然と消え失せた。
 信じられぬようなその光景に、その場の者達は皆戦うことも忘れ、息を飲んでじっと見守った。手の剣を力なくかまえたまま、恐怖とも畏敬ともつかぬ感情にとりつかれていた。
 後列で戦闘を見守っていたナハトも、しばらくの間声もなく立ちつくしていた。
(な、なんだ、いまのは? あの男が、雨を降らせたというのか? そんな馬鹿な……)
 しかし必死で否定しつつも、今眼の前で繰り広げられた不思議の技は、否定しようがなかった。
 ユウラファーンは身を輝かせながらゆっくりと戦場を進んでいった。兵士らは後退し、彼の行く先に道ができた。恐れおののく彼らの前で、ユウラファーンは馬をおり、手の剣を大地に投げ捨てて言った。
「さあ、かかってこい、闇の者達よ。おまえらの魂は俺が受けとってやる」
 その声は深い地の底、はたまた天空の遥か彼方から聞こえてきたかのような、荘厳な響きがあった。
 兵士達はすくみあがり、誰ひとりとしてたちむかっていくものはいなかった。震えながら立ちつくしている。ナハトはすっかり怖気づいた兵隊達に、うしろから大声ではっぱをかけた。
「なにをしている! かかれ、殺るのだ! その男を殺せ! 闇王様の命令だぞ。ーートール、ホロド、行け!」
名指しで命じられた二人の兵士は、しぶしぶといった様子ながらも、一呼吸おいて息を整えると、左右両方から同時に気合いを込めて挑みかかった。
 頭上高く剣を振りあげ、鋭く研ぎすまされた刃を青年の頭めがけてふり下ろした。しかしその最初の攻撃すらもが、あっけなく無に帰した。
 剣の尖った切っ先が彼の輝きの一端に触れるやいなや、激しい絶叫が辺りをつんざき、二人はあわてて手の中の剣を投げ捨てた。大地に転がった剣が真っ赤に焼けていた。兵士は火傷の痛みに身をよじってうめいた。
片方の男が激情して口汚く罵りながらユウラファーンの胸元に飛びかかった。男の伸びた腕に、ユウラファーンの体をおおっている白い光がからみつく。それは一瞬にして彼らを包みこみ、ぱあっと激しく閃光した。
いとも簡単にけりはついた。ひとことの悲鳴を発するでもなく、男は倒れた。大地に転がった遺体は全身が血にまみれ、見るも無惨な有様であった。
 とりかこむ者達の口からかすれたような悲鳴が漏れた。妖しの技に慣れた闇の兵達にとってすら、あまりにも壮絶な力の前に言葉もない。凍りつくような沈黙が蔓延していた。
「どうした? ひとりで終わりか?」
 静かな口調でユウラファーンが言った。その静けさが逆に恐怖を倍増させた。青年のとてつもない力の強大さが、冷たい空気をつたわってひしひしと感じられた。
 一人の兵士が、その緊張感に耐えきれずに大声をあげながら斬りかかった。まわりの者もそれにつられ、恐慌状態をきたしていっせいに襲いかかった。
 ユウラファーンの体がまぶしいほどの光に包まれた。中心にいる彼の姿が見えなくなるほどのすさまじい輝きである。その中に妖しくきらめく金色の瞳だけが、彼の激しい怒りをあらわしていた。
 一瞬のうちに彼のまわりに屍の人垣ができあがった。それを目にした後列の者は、もう誰もその青年に攻撃をかけるような無謀な真似はしなかった。
 ナハトは馬上でがちがちと歯を震わせ、蒼白になって見いっていた。これ以上の攻撃がまったくの無意味であることを知る。とても歯がたたない。目の前の男は、主君闇王すらをも凌ぐとてつもない力の持ち主ーー化物だ。これが人の技であるはずがない。
 彼は声をからして叫んだ。
「ひけ、退却だ! 退却しろ!」
 その声に、待ちわびたとばかりに兵士達は皆いっせいにきびすを返して走りだした。恥も外聞もなくあわてて逃げだした。
「この野郎! このまま逃がすかよぉ!」
 血気にはやった草原の若者達が、傷だらけにもかかわらず敵のあとを追おうと馬に跨った。しかしそれはユウラファーンのとどろくような声に制された。
「よせ! 追うな」
馬上からスティンが反論した。
「どうして止めるんだ、ユリウス。あいつらは仲間を殺した。我々の家と寝床を奪った。復讐してやる!」
「よせといっているんだ! スティン!」
 びりびりと空気が振動した。彼の体を包む光がひときわ高まった。それが今にも自分にむかって襲ってきそうで、男達はすくみあがった。
 スティンはしぶしぶと馬を降りた。それを見、ユウラファーンはゆっくりと輝きをおさめながら厳しく諭した。
「追えば殺られるだけだ。命を無駄にしてはいけない。復讐したところで誰も生きかえりはしないのだ」
 男達は唇を噛みしめ闇の兵が逃げていった方向を悔しそうに見つめた。が、やがて諦めて、倒れている仲間達の手当を始めた。命をとりとめた者は集落の三分の一にも満たなかった。
「なんてこった。ひでえことしやがる。武器ももたねえ女子供まで殺るなんてよ……」
 レンタスは辺りを見渡しながら悲壮につぶやいた。草原の民にとって、これほどの徹底した征伐は初めてのことであった。日々安穏と暮らしていたわけではないが、真っ向からこんな攻撃を受けたことは今まで一度もなかったのだ。
 スティンが憎々しげに言い放った。
「あいつら、皆殺しにする気でいたぜ。なんだって急に襲ってきやがったんだ?」
「知るかよ、そんなこと。闇王の気まぐれか、それともなにかの憂さ晴らしか。どっちにしても泥棒の仕置きにしたって、やりすぎさな。むごいもんだ」
 黙ってやりとりを聞いていたユウラファーンは、突然はっとしたように顔色を変え、彼らに迫り寄った。
「ティティは……、あいつと客人の娘はどこだ? どこにいった?」
「そういえばいやがらねえな。真っ先に飛びだしてきそうなもんなのに」
「あいつが一人で敵にうしろを見せるとも思えんが。まさかその辺でくたばってるんじゃあるまいな。ーーおい、ユリウス、どうしたんだよ、おい」
 レンタスは横に立つユウラファーンの肉体が再び白く燃えだすのを見て、驚いて声をかけた。
 ユウラファーンは顔をゆがめ、唇を噛んでうめいた。そして低い低い声で、かすかにささやいた。
「……もう遅い。遅すぎたのだ、俺は……」

    *      *      *

 ティティはメイアと二人で、集落から少し離れた茂みのそばを歩いていた。
 シンオウに少女の警護を頼まれ、いっぱしの騎士にでもなったような得意な気分であった。誰にもつきまとわれず二人きりというのもうれしかった。低木の影に咲く野の花を見せながら、彼はこの上なく幸福な気持ちに酔いしれていた。
「なんのお話をなさっているのかしらね。兄上様とシンオウは」
 単純に喜んでいる少年とは違って、メイアは自分をのけ者にして話をしている兄と臣下が気になるらしく、不満そうにつぶやいた。
「気にすんなよ。きっと次の闇の国の攻撃の予想でもたててもらってるんだぜ。シンオウって軍務大臣なんだろ? 仕事熱心だな」
「でも、それなら王の私をのけ者にする必要はないわ。私こそが一番に知るべきことよ。せっかくユウラファーンに会いにきたのに」
 メイアは寂しげにうつむき、涙声でささやいた。
「もう……会わないと言ったわ、兄上様は。兄妹としては二度と会わないって。その意味……私にはわからない。ユウラファーンが兄でなければなんだというの? もう血の絆はいらないってこと? これから、あのかたはどうなさるおつもりなのかしら。闇の、あの男のもとへ行ってしまうの? 本当に、光の国を捨てて……」
 メイアは不安に包まれて口をつぐんだ。
 ティティはうなだれる少女に声をかけようとして、はっとして身をこわばらせた。少女の背後の空、集落の方向からものすごい土煙が巻きあがっていた。
(なんだ? なにかあったのか?)
 メイアもその煙に気づき、怪訝そうに眺めた。
「なにかしら、あれは」
「行ってみよう、こいよ、姫さま」
 二人はかたく手をつないで目の前の穏やかな坂を昇った。頂上に立って下を見おろしたとき、彼らは同時にあっと叫び声をあげた。集落が戦いの地と化していた。
「ちくしょおおっ!」
 ティティは悪態をつきながら坂を駆けおりようと走りだした。急にひっぱられたメイアが、足をもつれさせて転倒する。それを見てティティは突然自分の立場を思いしった。
(いけねえ。俺は姫さまを守らなきゃならないんだ。この人をあそこには連れて行けない)
 少女の体を抱き起こしながら、ティティは集落のほうを見やった。今ごろ仲間が必死になって戦っているであろう。
(ごめん、ごめんよ、みんな。俺……)
 彼は苦しそうに目をつぶった。そしてすぐに開くと、メイアを見つめきっぱりと言った。
「逃げよう! あんたを王宮に連れていかなきゃ」
 ティティは堅くメイアの手を握ると、反対の方角にむかって走りだした。
 二人は身をきるような風にむかいながら懸命に走った。幸い、そう悪天候ではなかったものの、なんの装備もなく着の身着のままで出てきていたので、その風は心底つらかった。
 ティティは人の足で進むことの限界を痛切に感じ、焦りを覚えた。おまけに今は女連れなのだ。それも宮廷育ちのお姫様を。
(ちっ、ハガフさえ連れてきてりゃあ、草原なんてすぐに抜けられるのに)
 彼は歩いて集落を出たことを深く後悔した。しかし今さらそんなことを悔やんでも始まらない。一刻も早くこの場から少女を引き離さねばならなかった。
 はあはあと荒い息をつきながらも、メイアは必死にティティについて走った。だが彼女の力では少年と同じに走り続けるのはとても無理であった。たちまち足取りが遅れ、逃避行はがっくりと速さを落とした。
「止まっちゃだめだ。走れ。走るんだよ、姫さま」
 激励しながらティティは手をひっぱって少女をせかした。答える力もなく、メイアはふらふらとつき従った。
 その時、突然目の前に、闇の騎馬兵が数人踊りだしてきた。二人は驚き身を堅くした。ティティはメイアをかばって前に立った。
「おおっと、通すわけにはいかないぜ。ひとりも生きて逃がすなとの命令なんでね。ーーこっちにまわりこんで正解だったな。こいつは例の特別注文の餓鬼だぜ」
「女を連れてひとり逃げだすとは、なんて腰抜け野郎だ。さっさとぶっ殺して、首ったまを持ってゆこうや」
 ティティは奮然として腰の短剣を引き抜くと、果敢に身構えた。騎士達はその姿を見て呆れたように笑った。
「は! そんな情けない獲物で俺達とやりあおうってのか。馬鹿め、話にもならん」
「なるかならねえか、やってみなけりゃわかんねえぜ。かかってきやがれ!」
 ティティは勝気に叫ぶと、少女をうしろに下がらせて姿勢を低くかまえ、そっと足元の小石を拾った。
「愚か者めが。一太刀でけりをつけてやる」
 一人の男があざ笑いながら斬りかかってきた。ティティは俊敏に真横にとびのくと、持っていた石を馬の顔めがけて投げつけた。石は見事鼻先に命中して、馬は驚いて立ちあがった。
「うわっ!」
 まるで相手を馬鹿にしていた騎士は、虚をつかれ、たちまち馬上から転げ落ちた。そこにすかさずティティは踊りかかり、躊躇なく短剣を振り降ろした。騎士の肩から真っ赤な血が吹きだした。
 騎士は痛みに手にしていた剣をぽろりと取り落とした。ティティはすばやくそれをつかむと、今度は力一杯相手の胸に突き刺した。激しい絶叫とともに男は大地に倒れふした。
 一瞬の出来事に、他の誰も手出しができなかった。ティティは返り血のついた頬をぬぐうと、にやりと微笑んだ。
「どうした? 怖気づいたかよ」
 騎士達は青ざめ、歯がみしてつぶやいた。
「くそぉ、餓鬼めが」
「こないんなら、こっちから行くぜ!」
 ティティは果敢に自ら挑みかかった。今度は敵も油断してはいなかったが、長い剣を手にいれた少年はその真の威力を発揮した。
 ティティは素早い身のこなしで、騎士の左側から襲いかかった。きき手と逆の方向から振りおろされた敵の剣は力も勢いも弱く、彼は難なくそれを受け止めると、もう片方の手に握っていた短剣を、思いきり馬の腹に突き刺した。馬は痛みに大きく暴れた。
 騎士はあわてて振り落とされまいと攻撃の手を止めて手綱にしがみついた。ティティはまってましたとばかりに兵士の足をとって、男を馬上から引きずり落とす。そしてあっさりと二人目をものにした。
 闇の騎士達は決して少年の力が口先だけではないことを知った。彼は一級の戦士だ。それも実戦によって身につけた確かな技術を持っている。彼らは秘かに目配せをした。もはや手段に糸目はつけられない。殺らねば殺られる。それが戦いなのだ。
 前方の二人が同時に飛びかかった。死んだ兵の馬に跨ったティティは、軽やかな手綱さばきで左右からくる攻撃をよけ、剣を交わした。二人いっぺんに相手するのはたやすいことではない。彼は神経を敵に集中し、戦いに没頭した。
 その時、背後で甲高い悲鳴があがった。ふりむくと残った一人の騎士が、メイアの腕をつかんでひねあげていた。
「姫さま!」
 ティティは思わず眼前の敵を忘れ、あわてて手綱をひき、馬をさしむけた。愛するものを助けようと必死の思いであった。
 しかし、その隙を見逃がす騎士達ではなかった。右手にいた騎士が彼の肩を斬り裂いた。そしてもうひとりが容赦なく剣をふりおろす。切っ先が少年の胸を、ざっくりとふたつに分かった。
 ティティの体から真紅の血がほとばしった。両目を見開きながら、彼はゆっくりとメイアに顔を向けた。力なく手をさしのべ、なおも娘を助けようと身を乗りだした。そしてぐらりと傾き、馬の背から崩れ落ちた。
「ティティィ!」
 メイアの絶叫が草原にこだました。狂ったように暴れる少女を押さえながら、騎士は興奮した声で仲間に叫んだ。
「おい! こいつはすごいぜ! この女、誰だと思う? こいつぁメイア王だ。シャインフルーの光王だぜ!」
「なんだってぇ? なんでこんな所に光王がいるんだ?」
「知るもんか。でもこの額の銀紋は間違いないぜ。正真正銘の光王だ」
 思わぬ手柄を得、騎士達は喜び勇んで口笛を吹いた。
 大地に転がったティティは、薄れゆく意識の中うっすらと目を開けた。メイアが敵に腕をつかまれ、ひきずられてゆくのが見えた。愛しい娘、守るべきたったひとりのものが、なすすべもなく連れ去られようとしている。ティティは最後の力を振り絞って叫んだ。
「姫……さまぁ!」
 メイアはしっかりとその声を聞きつけ、身を震わせた。メイアは力一杯兵士の手にかみついた。男はぎゃっと叫んで手を離した。その隙に彼女は一目散に少年のもとへと走り寄った。
「ティティ! しっかりして!」
 ティティは息絶え絶えになりながら、かすかに笑みを向けた。
「姫さま、ごめん。あんたを……守って、守ってやれ……なくて、こんな所で……」
「だめ、だめ! 喋ってはだめ。黙って!」
「ごめん……。俺、俺、あんたが……、あ……好……、姫……」
少年の手が少女の手からするりと抜け、ぱたりと小さな音をたてて草原の大地に落ちていった。
「いやあぁぁぁっ!」
 メイアは泣き叫んですがりついた。
 闇の騎士がやってきて、渾身の力で遺体にすがる少女の体を冷酷無比に引き離した。そして軽々とその身を抱えあげると、馬に乗せて基地へと戻っていった。メイアはすでに抵抗の気力すらなく、彼らの意のままに草原のむこうへと連れ去られていった。
 幸福の大地から、闇の地獄のへと。


 シンオウは呆然と立ちつくしていた。
 なにがそこであったのかは一目見てすぐにわかった。大地に横たわる数々の死体の前で、彼はすべての希望が失われたのを知った。
 王は捕らわれ、闇の手に落ちた。とりかえす手だてはない。もう終わりだ。なにもかもおしまいなのだ。
 シンオウはひざまづくと、すでに光のない少年の瞼をそっと指で閉じてやった。彼がいかに勇敢であったかは疑う余地もなかった。文字どおり命がけで守り抜こうとしたのだろう。愛する娘を。
 しかし、その甲斐もなく、シンオウがこの場に着いた時には、少女の姿はもうどこにも見えなかった。馬の足跡が残ってはいたが、シンオウひとりの力ではもはやどうにもならない。彼は敗北を認めた。
 ふと蹄の音が聞こえてきてふりかえると、ユウラファーンが草原を駆けてくるのが目に入った。
 ユウラファーンは戦いの跡地までくると馬を降り、ゆっくりと歩いてきた。すぐに少年の姿を見つけ、かすかに眉をしかめた。そばに立ち、無言のまま長い間見つめていた。
「……これはすべてあなたのせいだ、ユウラファーン王子」
 シンオウはしわがれた声で言った。
「もうこの国は終わりです。メイア様は捕らえられ、光の国は闇に落ちた。シャインフルーはダークネシィアによって略奪され、闇王ゼルファに支配される。なにもかも、あなたの言われる通り、望み通りの結果になったのだ。満足ですか、ユウラファーン様。さぞや……さぞやお喜びでしょう! 裏切り者のユウラファーン王子!」
 シンオウの激しい怒りの言葉を受けながら、ユウラファーンは静かにティティの遺体のそばにひざまづいた。そして額に締めた黒髪の飾り紐をはずしてその胸の上に置いた。
 背後でシンオウが苦しげに呟いた。
「……申し訳ありません、ユウラファーン様。失言を、お許しください。どうか……」
 だがユウラファーンはなにも答えず、少年を見つめたまま、そっとささやきかけた。
「ティティ。俺の運命に巻きこまれたかわいそうな子供よ。おまえの魂は確かに俺が受けとった。おまえはおまえの愛する草原で、地の力となるがいい。おまえの流したその血で、美しい花を咲かせるがいい。ティティ、愛しいものよ、ーーお別れだ」
 彼はそう言うと手を伸ばしてティティの体に触れた。すると遺体はやわらかに光輝き、やがてすうっと霞んで消え失せていった。あとには真紅の血の跡だけが大地に残っていた。
 ユウラファーンは立ちあがった。そして顔をあげ、草原の奥へと歩きだした。そのうしろ姿にシンオウがすがるように叫んだ。
「ユウラファーン様!」
 しかし彼はふりかえりもせず、まっすぐに前を見すえ歩いていった。遠ざかる体が白い炎に包まれている。
 そしていつしかその姿は、地平線のむこうへと、とけこんで消えていった。
 彼は消えた。人の世から。

 

 

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