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第二章−一

 

章  動乱

 白い大理石の壁。柔らかな毛の絨毯。見事な彫り細工のついた豪華な机や、ゆったりとした広い椅子。それらすべてが最高の居心地を保つようにしつらえられたものでありながら、その部屋の中は重苦しい沈黙に包まれていた。
 居並ぶ人々の誰もが眉をひそめ、口を堅く結び、苦々しげな表情をして同じ一点を見つめている。その眼差しの先に、十七、八の年端のゆかぬ少女が座っていた。   
 少女は明るい金色の髪をきっちりとまとめ、娘らしくうっすらと化粧して、薄紅色のローブをまとっていた。その姿は庭に咲いている花々に負けぬほど美しかったが、見かけの可憐さとは裏腹に、その表情は厳しく鋭かった。
 娘は自分に向けられる多くの熱い視線の中で、重々しく口を開いた。
「しかたがないわ。休戦の使者をだして。エウルークの街は手放します」
「王よ、それは!」
「ではどうしろというの!」
 少女は激しく目の前の机を叩いた。
「度重なる戦いに、兵士も国民も疲れきっています。武器も食料も底をついてきた。これ以上の抵抗は己の傷口を広げるだけよ。北壁を取られてしまった以上、もう開け渡すしか手だてはないのです」
 ひとりの老いた家臣が、食い下がるように言い返した。
「しかし、王よ。エウルークの街は、国境の谷間をはさんだ最初の分岐点で、交通も経済もよく開け、前線の基地としては最良の場所なのです。戦略的に最も重要といっても過言ではない。あそこを失うことはわれらにとって手痛い損害となります。それに三度の敗戦続きで、それでなくとも世上には暗い空気が流れている。ここでまた退いたなら、いっそう国民の不安が高まるものと思われますが」
 王と呼ばれた若い娘は、辛そうな口調で返答した。
「そんなことはわかっています。でも正直に言って、今の私達にはあそこを取り返すだけの力はないのよ。他に方法はないのです、トルガー。もうすぐ大切な秋麦の種蒔時期もくる。男手は必要よ。戦いを強いることはできないわ。納得してください、大臣」
 王の悲壮な言葉に皆がうつむいた。確かに彼らにしても、他に良い手だてがあるわけではなかった。それは本当に最後の手段、選択の余地すら許されてはいないのだ。
 少女は大臣達にそれ以上意義を返す者がいないのを見て、静かに言った。
「ではすぐにでもダークネシィアに使いを。文書はまかせます。それから、怪我人は戦線から下げて、よくいたわってやってください。会議は以上よ。ご苦労様」
 沈痛な面もちで大臣達は立ちあがった。皆が無言で部屋を出ていく。そんな彼らを見送りながら、少女は額を押さえて深いため息をついた。
 たったひとり部屋に残っていた逞しい体つきの男が、銀杯にクコ酒を注いで娘に手渡した。娘はそれを受け取って、やっと笑顔を見せた。
「ありがとう、シンオウ」
 男は少し微笑み返し、それから心配そうな顔で王のかたわらに立った。
「お疲れのようですね、メイア様。まあ連日の会議で無理もないが……。少しお休みになられたらいかがです? ルーンから良い鉢も届いておりますよ。紅桔梗が見頃です」
 娘はちらりと男の顔を見あげると、小さく声を立てて笑った。
「うふふ、あなたの口から花の話がでるとはね。似合わないわよ、シンオウ。でも嬉しいわ。ゆっくり世話をする暇さえないけれど、花はいつも心を和ませてくれる。それにあなたの優しさも。それだけでもきっと私は幸福なのだわ」
 メイアは椅子の背に深くもたれると目を閉じた。しばらく無言でそうしていたが、やがて静かに語りだした。
「もう七年にもなるのね、父上様が亡くなってから。まるで昨日のことのよう。こうしてこの席で戦いに頭を悩ませているのが、悪い夢を見ているようだわ」
「あなたさまはまだ幼き少女でございましたからね。なにも教えられぬまま突然王位などお継ぎになって、さぞかし辛くお思いだったことでしょう」
「そうね。でもそれはもう過ぎたこと。それに、銀の紋を持つ者としての当然の行為ですもの。泣き言は言えないわ。それより私がなにより辛いのは、私がこの座に継いてからというもの、光の国は不幸ばかり。すべてが悪い方向に進んでゆく。凶作、流行病、戦争。あんなに明るい希望溢れる国だったのに、最近では誰もが暗く沈んでいる。なんと非力なことなのでしょう。ーーでも、無理もないわね。だって聖なる石の庇護さえ持たぬ、かりそめの王なのだから」
 うなだれるメイアの姿に、シンオウは深い哀れみを覚えて、少しでも力づけようと懸命に励ました。
「メイア様。そんな風にお考えになってはいけません。なにもあなたのせいではないのです。あなたは本当によくやっておられる。それは誰もが認めております。それに……こうなった原因のすべてはあの闇王と、そして」
「やめて! あの人達の名を口にしないで」
 王の激しい拒絶の前に、シンオウは口をつぐんだ。
 長い間人の口の端にのぼらず、しかし誰もがずっと思い続けているその名前。かつてはすべての者が愛を持って呼んだ名。今はもう絶望と共にしか語られることはない。
(あのかたが戻ってさえくれたなら……)
 むなしい望みだった。そう思い続けて、いったいどれだけの時間を裏切られてきたことだろうか。いつかきっとと信じていた心も、すでに諦めきって久しい。
 それでもシンオウはいまだ忘れることはできなかった。いや、きっと誰もが内心同じ思いをいだいているのだ。
 あのかたは必ずや戻ってきてくれる。そして国を建て直し、また光り溢れる豊かな世界にしてくれると、決して真の裏切り者ではないのだと、心の奥底で信じている。そしてそれは他の誰よりも、王メイアが思い続けていたことでもあった。
 メイアは秘かに己の心の中でその名を呼んだ。自分を捨てていったその者の名を。愛しい愛しい、兄の名前を。
(ユウラファーン、どこにいるの? お願い、帰ってきて。そして私を助けて)
 だがその声に答える者がいないのを、彼女はよく知っていた。

    *       *       *

 エウルークの街では、これから訪れる厳しい冬に備えて、たくさんの商人や旅人達が集まり、にぎわっていた。度重なる戦いもやっと一段落し、束の間の平和が人々の心をほっとさせた。
 国境に一番近いこの街は、もともとは光に属する土地なのだが、ダークネイアからの流れ者が多く住みついており、またそれに伴い、ふたつの血をひく混血が大勢生まれていたので、一見どちらの国の領土かもわからぬほどに雑多な雰囲気に溢れていた。
 おまけに昔から幾度となく両国の奪いあいの的とされ、実際数えきれぬほど闇に蹂躪された過去もあったので、彼らの心はしたたかで柔軟だった。光でも闇でも寛容に受け入れる。結局、彼らにとってはどちらでも同じなのだ。世が平和で街が潤ってさえいてくれるなら。自分が生きてさえいられたならば。
 道端に所狭しと並ぶ野菜売りの篭の合間をぬって、一人の少年が駆けていた。時々それにつまづいては老婆から罵声を浴びた。だがそんなことにはおかまいなしに、彼はひたすら走り続けていた。
 裏小路を抜け大通りに出ると、そこは大勢の人で溢れていた。皆が街路の端に立って通りの右手奥をのぞきこんでいる。少年は人混みの前に割り込むと、横に立っている男にたずねかけた。
「もう行っちまったのかい?」
 商人風の男は視線を遠くに向けたまま答えた。
「いや、まださ。もうじきだろう。ーーほら、来たぜ! すげえなあ、りっぱな龍馬が四頭も。さすがは闇の王様だあね」
 少年も身を乗り出してその方向を眺めた。大きな黒い龍馬に引かれた豪華な馬車が、たくさんの兵士に護衛されてやって来た。彼らは皆、白い肌に黒い髪をしていた。
 広い日除けの天蓋がついた馬車の中央に、ひときわ白き肌を輝かせる男が座っていた。まだ若く、しかも女性と見まがうほどになよやかで美しい。あちこちでほうっとため息があがる。闇王ゼルファ、その人であった。
 彼は手にいれたばかりのこの街に、その支配と力を誇示するために、はるばる闇の王宮から自ら足を運んできたのである。
 いまや闇の国の勢いはすさまじい。王ゼルファがその地位に就いた時から、彼らは果敢にシャインフルーに戦いを挑んできた。
 それもしっかりと訓練した軍隊を率い、巧妙かつ奇抜な作戦と手段をいとわぬやり口で、巧みに攻撃してくる。それまでのこぜりあい程度に構えていたシャインフルーの基地はことごとく彼らの手に落ち、数々の敗戦の末、光の国はついにこの街を手放した。それは長い光の歴史の中で初めての、苦々しい出来事であった。
 彼らは地上を支配しようとしている。悪が善に、闇が光に、とって代わろうとしている。そして光の国はそれに負けそうなのだ。
 七年前、突然賢王キィリンクが死に、そして世継ぎであるユウラファーン王子が行方知れずになったあの時から、光の国の歯車が狂ってしまった。いつの時も強く揺るぎなかったシャインフルーが、今は信じられないほど闇に押されている。次々と訪れる不幸の連続に、人々は恐れ、震えあがっていた。
 しかしエウルークの住民はそんな世の不安を知ってか知らずか、我関せずといわんがばかりに闇王の訪れを喜びたたえていた。それは繰り返される従属の歴史の中で、彼らが独自に身をつけた生きるすべであったのかもしれない。
 少年は馬車が自分の目の前を通りすぎるのを待って、素早く身をひるがえすと、市場のはずれに繋いであった草原馬にまたがり街をあとにした。
 よくしつけられた馬は足が速く、いくらもかからぬうちに人家のある平地を抜け、荒涼とした草原へと出た。エウルークの北に位置するこの草原は、土地が痩せていて農地にはむかず、また吹きすさぶ風がしばしば嵐にかわるため、家は一軒も建ってはいなかった。ただ草原羊を遊牧するわずかな人々だけが、所々にカイヤと呼ばれるテントを張って暮らしていた。
 少年は軽やかに馬を走らせると、草原の奥まった所にある集落にむかった。二十戸あまりのカイヤが並んでいる、比較的大きな集落である。その一番奥まで行って、ひらりと馬を飛び降りると、隣のカイヤで毛皮干しをしている老人に声をかけた。
「ペンじい、せいがでるな。でもあんまり無理すると寿命が縮まるぜ。せっかくその歳まで生きたんだ。せめて俺が有名になるまでがんばって生きててほしいってもんだぜ」
 少年の言葉に、老人はしわだらけの顔をいっそうしかめて返答した。
「け、でけえことばかり言いやがって。それじゃあ、いつまでたっても死ねやしねえよ。かの聖霊王様と同じだけ生きたって、おいつかねえや」
「へん、にくったらしいじじいだなあ。せっかくいたわってやってるのにさ。ーーところで、あの人は居るかい?」
「ああ、カイヤん中だ。ーーまた随分うなされておったよ。傷が痛むのかねえ。こりゃあ明日は雨になるかもしんねえ。あんまり毛皮も干せねえなあ、これじゃ」
 少年は呆れたように目をむき老人をにらみつけると、教えられたカイヤに入った。中は暗く湿っていた。だが厚い龍の皮を幾重にも縫い合わせたその生地は、少したりとも風を通さず、不思議なほど暖かさを保っていた。
 音をたてないように静かに入ると、そっとランプに火を灯した。赤い炎が中を照らす。二つの簡単な寝床が奥に並んでいて、その片方に眠る人影があった。
 少年はその者を起こさぬように気づかいながら、一丁らの毛皮の外套を脱いで隅に押し込んだ。かわりの普段着をごそごそと捜していると、うしろから声をかけられた。
「……ティティか?」
「ごめん、起こしちまったね。せっかくよく寝てたのに」
「いいさ、充分眠った。もう起きるつもりだったんだ」
 そういって身を起こした男は、寝床に腰掛けたまま目を閉じてゆっくりと深呼吸した。ティティは近寄って心配そうに顔をのぞきこんだ。
「傷、痛むのか? 手拭い、濡らしてきてやろうか?」
 男は優しく微笑むと、首を振った。その顔に深い傷痕があった。なにか巨大な獣の爪痕のような三本の深い溝が、額の中央から始まり、右の目をつぶし、右頬の中ほどにまで到っている。大きな傷である。おまけにろくな治療も施さなかったらしく、えぐられた傷のまわりが無惨にひきつっていた。
 男は穏やかに答えた。
「大丈夫、いつものことだ。すぐになおる」
「ペンじいが明日は雨だって。あいつ、あんたの傷の痛み具合いを天気予報がわりにしてるんだぜ。ひでえよな、まったく」
「ふふん、ペンじいさんらしいな」
「笑い事じゃないよ。ユリウスがどんなに辛いかも知らないで。呆れちまう」
 ティティが口を尖らせて文句を言うのを、ユリウスと呼ばれた男はおかしそうに眺めていた。
 男はまだ歳若かった。だが、そのやせ痩けた頬や眉間のしわは、それまでの厳しい生きざまを物語るものであった。すらりと細い体は、無駄のないひきしまった肉体をしていた。左の手にはたくさんの剣だこがあり、それはいかに彼が剣に優れているかを示している。
 しかしーー右の腕は肩から先がなかった。彼は隻眼隻腕の剣士だった。
 青年はいつも寡黙で厳しい表情をしていたが、ときおり見せる眼差しは信じられぬほどに優しく、それはティティを魅了した。ティティは黙って耳を傾けるユリウスに、夢中になって話をした。
「それよりさ、エウルークの街で見てきたぜ。あんたの言うとおり、闇の王様の大行進さ。立派な馬車に揺られて、得意そうな顔してたよ。その顔がものすごく綺麗なんだ。俺、あんな綺麗な人初めて見たよ。雪みたいに真っ白な肌で、黒曜石の瞳、漆黒の髪。あれこそが生粋の闇紋族ってやつだな。俺みたく、中途半端な白い肌や茶色の髪じゃない。本当に透けるようなんだよ」
 頬を高揚させて喋るティティに、ユリウスは手荒く彼の前髪を撫でつけて笑った。
「おまえの髪だって充分綺麗だ。暖かな大地の色で俺は好きさ。その瞳もな」
 ティティは少し照れくさそうに微笑むと、今度は不思議そうに彼を見あげた。
「ユリウス、あんたは見事な金髪だよね。ここいらにはそんな美しい髪の者はいないよ。それに褐色の肌。純粋な銀紋族の印だ。その顔の傷さえなきゃ、あんただって今日の王様に負けないくらい綺麗なのにな」
 ユリウスは無言のまま少し寂しげに笑ってみせた。ティティは彼の短い髪に触れながら話し続けた。
「髪、のばせばいいのにさ。金色に光って、きっとすばらしく綺麗だぜ。俺見てみたいな」
 彼はじっと少年の言葉を聞いていたが、ふいに立ちあがると、枕元に脱ぎ捨ててあった外套をつかんで出口に向かった。ティティはあわてて声をかけた。
「ごめん、気に障ること言ったか? 俺すぐ馬鹿なこと言っちまって。ごめん」
 ユリウスはふりかえって穏やかに笑った。
「ガルブが来る。行かなければ。ーーそれとぺンじいに伝えておいてくれ。雨は明日じゃない。今夜だ。それも夜半には雪にかわるから、暖かくしろとな」
 ユリウスはそう言い残してカイヤから出ていった。そのうしろ姿を見送りながら、ティティはぼんやりと考えた。
(雪か。あの人がそういうなら、間違いなくそうなんだろうな。ユリウスの言葉がはずれたことはない。ーー不思議な人。遠い場所や先のことも、手にとるように知っている。それに主人以外には誰も乗せない、あの人見知りの強い草原馬だって、彼にだけは尾っぽを振る。俺のハガフですら、あの人には最初から従ったんだからな。もっとも、あのガルブがなつくくらいだもんな。草原馬なんて小犬みたいなもんか)
 ティティはごろりと寝床に寝そべった。そこにはつい今しがたまでいた者の温もりがまだ残っていて、ティティは思わずその場所に頬を寄せた。
(ユリウス、あんたみたいな人、初めてだ。そんなに純粋な銀紋の血を持ちながら、俺達混血を決して白い目でみない。信頼し認めてくれる。俺の王様はあんただ。俺きっと、あんたが好きなんだ。ユリウス……)
ティティはいつまでもその場所に伏していた。
 一方、ユリウスは集落を抜け、草原を歩いていた。大地を駆け抜ける風が冬の訪れの近いことを知らせている。身を切られるような寒さの中、彼は平然と進んでいった。横殴りに襲う北風も、まるで気に止めぬ様子である。体のまわりにうっすらと白い光が漂い、膜のように彼を包んでいた。
 一キロほども行くと、彼は立ち止まり空を見あげた。どんよりとした黒い雨雲が渦巻いていた。ユリウスはじっとその一角を見つめた。すると彼の視線の先に一点の影が現れ、それがどんどん大きくなって、やがては人の二倍以上もある巨大な生き物に姿をかえた。
 ガルブである。
 ガルブは、獅子の鋭い爪と牙、龍の羽、豹のようにしなやかな四肢を持つジンの一種だ。精霊の世が廃れて久しい現世において、いまだかつてのままの力と姿をとどめている数少ない魔物である。それはひとえに彼らの持つ逞しい肉体と、誇り高い屈強な精神ゆえであった。
 ガルブは決して人にはなれない。彼らは聖なるものにも魔なるものにも従属しない。猛々しく、自分に近づくものに容赦はないが、逆に絶対に己から無益な戦いを挑むようなことはなかった。生きるかてを得るためにのみ狩りをし、それ以外にはおとなしい。いつも魔道の谷の奥深く単体で暮らしている。そのため孤高の聖霊と呼ばれていた。
 そのガルブが今草原に現れ、ユリウスの前に降り立った。逞しい翼をひとふりしてきっちりと折り畳むと、鹿のような細く高い声で一声いなないた。ユリウスはゆっくりと近寄ると、手を差し出してその首に触れた。
 ガルブは抗わなかった。従順に頭を下げ、彼の手に額をなすりつけて甘えた。それはこの世界に住むものにとっては、信じられないような不思議な光景であった。
 ユリウスはしばらくその生き物を愛撫すると、やがてガルブの胸もとに腰掛け、ゆったりともたれた。人よりも暖かい体温が心地よかった。彼は目を閉じその温もりに身を浸した。
「やわらかな毛、清い魂。ーーガルブよ、また俺を呼びにきたのか? でもだめだ。どんなにおまえが誘っても、どんなに俺が望んでも、俺は人間。ここで生きるしかないんだ。おまえとは違うんだよ」
 彼の言葉を理解したのかどうか、ガルブは悲しげに鼻を鳴らし、濡れた舌でユリウスの頬をなめた。優しい愛撫であった。
 ふいにガルブは緊張し、小さなうなり声をあげて首をもたげた。ユリウスが目を開けると、十数メートルほどむこうに、ティティともう一人の男が恐ろしげにこちらを窺って立っていた。
 ユリウスはうなるガルブを制し、彼らに声をかけた。
「もっと寄っても大丈夫だ。来い」
二人は顔を見あわせると恐る恐る近寄ってきた。がっしりとした壮年の男のほうが、少年のティティよりもおっかなびっくりといった様子であった。彼は二・三メートル手前で立ち止まると、それ以上側に寄ろうとはしなかった。
「こいつはおまえを取って喰ったりはしないよ、レンテス。なにか急用か?」
「だから言ったろ? そんなに怖がることないって。臆病だな、そんなにでっかい図体してるくせによ」
「うるせえぞ、ティティ。誰だってガルブは怖いんだ。おまえだって、いい気になってるといつか喰いつかれるんだ。生意気な餓鬼め。ーーところでユリウス、ちょいと相談があるんだが、俺のカイヤまで来てくれないか」
「ここじゃできない話か?」
「そいつが側にいたんじゃ、ろくろく耳も寄せれねえ。すまんがおっぱらってくんな」
ユリウスは立ちあがるとガルブの首筋を軽く叩いて追いやった。
「行け」
 ガルブは素直に従い、砂を巻きあがらせて飛びあがると、上空で一度円を描き、そのまま飛び去っていった。それを見確かめて、やっと安心したようにレンタスはつぶやいた。
「やれやれ、これでゆっくり息がつけるぜ。まったく、あの化物を羊よりも簡単に扱うんだから、恐ろしいお人だよ」
 三人は足早に草原を進むと、集落へと戻った。レンタスのカイヤには、狭い中に膝が触れあうほど多くの男達が集まっていた。若い者から壮年の者まで様々な年代の者達だったが、皆がティティのような闇と光の混血人ばかりであり、同じ遊牧民の姿をしていた。
 ユリウスは中に入るとまっすぐ奥へ進んだ。皆が暗黙のうちに場所をあける。彼は一番奥のまん中に行くと、ゆったりとあぐらをかいて座った。ティティがその右側についた。
ユリウスはぐるりと全員の顔を見渡した。彼はその男達の中でもティティについで若かったが、誰に対しても挨拶はしなかった。居並ぶ男達のほうが、皆尊敬の念を込めて頭をさげた。
 彼はそれを受け流し、レンタスに視線を向けてぶっきらぼうに言った。
「話を続けろ」
 レンタスはうなづき、仲間に顔を戻して話しだした。
「さっきも言ったように、闇王の一行はエウルークの北壁のきわに基地を張っている。地図でいうと、ここいらあたりかな。スティンが探ってきた情報によると、王はまだしばらく街に逗留し、戦利品と献上品だけが先にダークネシィアに送り返されるらしい。こいつは俺達にとっても都合のいいこった。王の護衛に兵士が半分取られ、護送の警備が手薄になるからな。しかし手薄とはいっても闇の兵士だ。俺らよりははるかに数も多いし武器もある。ーーそこでだ。俺達はこのエウガイネの丘で待ち伏せし、街道の合流地点で奴らを襲う。ここは三つの道が一つになる場所で、道幅も急に狭くなる。おまけに下り坂で、右は河、そのむこうは背の高いすすきが茂り、たいそう視界が悪い。お宝を持って逃げるにはもってこいの場所さ。最初に一隊がここを襲ってうしろの戦列を遮断する。その隙に残りは輸送車の真横に降りて、馬車を河岸に降ろす。下に筏を隠しておいて、そいつで河を渡す。あとはさっさと逃げる。これがだいたいの筋書きだ」
 いっきに話終えてレンタスは息をついた。承認を得るように仲間の顔を見渡す。ティティがまっさきに口をだした。
「すすきの茂みじゃ馬車は通れねえぜ。どうやって運ぶんだ?」
「そいつは考えてある。筏の下にそりをつけておいて、そいつごと草原龍でひっぱるのさ。あいつの足ならどんな草むらだって造作なく走るからな」
「先行した一隊の逃げる算段は?」
 厳しい目元をした若い男がたずねた。
「合図を送ったらうしろも見ずに丘を昇れ。奴らの乗る馬は岩馬だ。砂の丘はろくに昇れねえ」
「うしろから弓で討たれたらどうする?」
「なんのために煙玉があるんだ。しこたまおみまいしてやりゃ、逃げる間のめくらましには充分だ」
 皆が納得してうなづいた。肘かけ台にもたれて黙って聞いていたユリウスだったが、話が一段落したのを見計らって短くたずねた。
「いつだ?」
 その不親切なほど簡潔な問いに、レンタスは的確に答えた。
「明後日。出立は朝らしいが、正確な時刻がわからない。それをあんたに聞きたい。わかるかね? ユリウス」
 彼は目を閉じると少しの間考えていたが、すぐにきっぱりと言った。
「早いぞ。明けの五つ時にはそこにつく」
 皆が畏敬の表情でうなづいた。彼は目を閉じたまま語り続けた。
「河は荒れる。水の流れは速く筏は搖れる。それに闇の兵士を侮ってはいけない。奴らは水を渡り、追ってくる」
 男達はその不吉な予言にざわめきたった。
「追っ手をかわす手だてはあるか?」
 レンタスの問いにユリウスはかっと目を開き、横にいた男に鋭く命じた。
「スティン、街道地図をだせ」
 命じられた男は素直に従った。真ん中に空間が作られ、そこに黒皮の大きな地図が広げられる。皆が額を寄せてのぞきこむ中、ユリウスは眉をひそめてじっとそれを見つめ、やがて低い声で言った。
「三十メートルほど川上に浅瀬がある。そこを一時的にせき止めて流れを緩めよう。筏が渡りきったと同時に水を流せば、彼らは追ってこられない」
「どうやって止めるんだ?」
「明後日か……。堤防を作っている時間はないな。しかたがない、俺が止める」
 その言葉に皆はちらりと彼の顔を仰ぎ見た。この男はなんと簡単にそう言いきるのだろう。未来を読み、地の果てを見透かし、そして大いなる自然の有様さえも変えるという。恐ろしい力の持ち主。不思議な男。ーー謎の者。
 レンタスは大きくうなづき、それから全員を見渡して力強く言った。
「ぬかるな。我ら『風旅人』の怖さを、奴らに思い知らせてやれ。強者に怒りを、弱者に哀れみを。いいな?」
 男達は皆ふてぶてしく笑うと、無言でうなづき、そして立ちあがって解散した。

    *       *       *

 ティティは生唾を飲みながら、ひそかに眼下を窺った。
 街道にはまだ奴らの影はない。だがもうすぐここを通るだろう。そこになにが待ち受けているのかも知らないで。
 少年は小さく鼻で笑うと、その場を離れ、愛馬のもとへ戻った。ハガフが荒い息を吐いて首を震わせる。彼もよくわかっているのだ。これからおこる戦いのことを。ティティは軽くその首を叩いてなだめながら、心は少しだけその場を離れ遠くに飛んだ。
 それは、ティティが敬愛してやまない、一人の男のことであった。
 多分彼は、今ごろカイヤの中で寝ころがっているのだろう。ユリウスは決して隊には加わらない。知恵を与え、力を貸し、その行為をなじることはないが、自分から出陣することは絶対にない。いつも黙って背を向けている。
しかし遠く離れた草原にいながらも、彼はすべてを見通していた。彼の力の前には、空間の隔たりは無に等しかった。今も彼はゆったりと寝床に寝そべりながら、レンタスの合図を待っているのだ。つまらなそうに。
 ティティは寂しかった。敬愛する男の拒絶の態度は、彼の心に踏み込んで受け入れられたいという少年の望みをも拒んでいた。彼は優しく微笑みながらも、決して自分を開いてはくれなかった。寂しい笑顔の裏に悲しい過去を秘め、いつもどこかを見つめている。そしてそれがなんなのかも教えてくれはしない。いつもーー孤独だった。
 もし話してくれたら、自分がきっとその傷を癒してやるのに。三年前に初めて彼が草原に現れ、そしてあの灰色の瞳で自分をを見たその時から、ティティはずっとそう考えていた。
 男のささやく声がした。
「来たぞ。二つ向こうの曲がり角だ」
 ティティは素早くハガフに跨った。うしろから細い顔をした男が馬を寄せた。
「先頭に立つか、それとも下がるか?」
 ティティは不敵に笑った。
「もちろん頭だ。おまえなんかに譲ってやらねえよ、キシン」
 男も笑い返し、大きく一声叫んで馬の尻を叩いた。
「それでこそ、わが『風旅人』の守り神だ。行け! 行ってあいつらに目にもの見せてやれ!」
「まかせとけ!」
ティティは叫び、強く腹を蹴って馬を走らせた。そのあとにたくさんの男達がついて走りだした。できるだけ敵の注意をひきつけるよう、口々に奇声を発していく。草原馬の荒々しい鼻息が、冷え込んだ辺りの空気を白く変える。彼らはいっきに丘を駆け降りた。
 今、遊牧民の隠された素顔がさらけだされた。純朴な生活の裏にひそむ猛々しい姿。堅い結束に裏づけられた彼ら一団、『風旅人』。それは戦利品のよこばば目当ての盗賊団であった。
彼らは決して敗者からは奪わない。勝ち、得た者のみから略奪する。そして手にいれた物はすべて彼らの仲間に等しく分け与えられる。義賊きどりなわけではない。それは彼らの貴重な生きるかてなのだ。
 草原の人々には安定した収入がない。そして彼らはしばしば嵐にその蓄えをさらわれる。草の種を飛ばし、広い大地に植物を茂らせて多くの生き物達に恵みを授ける草原の風は、時に恐ろしい魔物となって人々を痛めつける。
 自然は決して容赦しない。根こそぎ奪ってゆく。羊も、カイヤも、ある時は人の命すらも。たくさんの集落の中には、一年に必ずなにもかもなくした哀れな者達が出るのであった。
 だがその仲間を救う余裕は、細々とした普通の収入だけでは得られなかった。そこで彼らはいつの頃からか、強い男だけが集まって有志の盗賊団を作りあげた。絶え間なく続く光と闇の戦いに目をつけ、冷やかに戦況を見極めては、勝利をおさめた側から戦利品や祝いの品々をいただくのである。彼らが腕にかかえて逃げられるだけの、ほんのささいな量の宝を。
 草原の民の盗賊行為は、いまやほとんどの者が周知する公然の秘密だった。だがこれまでは表だって討伐されるようなこともなく、たいていは黙認されてきた。害と感じるほどの損害もなく、兵士を差し向けて倒さねばならぬほどの危険な存在でもない。少々腹は立つが、諦めきれる程度のもの、猫に魚を奪われたようなものである。もちろんうまくその場で捕らえた時には、厳しく罰しはするが。
ところが、ここ数年、そのけちな盗賊達の様子が変わってきた。それまでは数人程度で兵営や倉庫に忍び込んで盗ってゆく、こそ泥まがいのものであったのが、最近では多いときには数十人もの徒党を組んで、勇猛果敢に立ちむかってくるのである。
 驚くほど組織だって、巧妙な作戦のもとに罠を張り、ごっそりと奪ってゆく。金品だけではなく、勝者の名誉と栄光すらをも。いつの頃からか彼らは『風旅人』と名乗り、その名を世に広めていった。
 強き者をまんまと欺き、得た宝は惜しげもなく弱き仲間に分け与える。それは常日頃権力に押さえつけられている民衆達にとって、たいそうこ気味の良い仕業であった。人々は内心彼らを応援し、その仕事が成功したことを伝え聞くと、秘かに祝宴をあげるのであった。
その盗賊団の中、ひときわめだって知られているのが、まだ十六歳の少年ティティであった。彼はいかにも混血児らしい大地色の髪と瞳をきらめかせ、素早い身のこなしで敵を倒した。いつの時も先頭に立ち、快活そうな顔に笑顔すら浮かべ、勇敢にむかっていく。それはまさに戦いの守護神のようであった。
今もまた、ティティは真っ先に飛び出し、眼下の敵に挑みかかっていった。恐れもためらいもない。あるのは勝利にむけた戦いのみ。彼の生き方は単純明快なのだ。生きるか死ぬか、そのどちらかだ。
 突然の襲来に兵士達はいろめきだった。輸送の品を奪われぬよう先に行かせ、残りの半数がとどまって立ち向かった。ティティはにやりと笑った。それこそが思うつぼだ。これから合図があるまで、なんとしてもここに奴らを足止めしなくてはならない。 
 彼は鞍にくくりつけた鞘から剣を抜き取ると、一番手前にいる兵士に斬りつけた。がちりと鈍い音がして剣がぶつかり合った。いったん離れ、もう一度手綱を返して相手にむかった。
 草原馬はその見かけに反して身のこなしが鋭い。太い足と長い毛足は時として鈍重な印象を与えるが、実際には龍馬とかわらない動きをする。ティティは素早く向き直ると、再度斬りかかった。
 彼の動きに一瞬遅れた闇の兵は、あっという間に胸をつかれ、馬の背から転げ落ちた。ティティはにっと笑い、そのうしろの兵士に鉾先をむけた。男は一瞬たじろいだが、すぐに気を取りなおしてむかってきた。
 よく訓練された騎馬兵であった。兵はティティに駆け寄ると、鋭く剣を振り降ろした。紙一重の差でそれをかわし、ティティは横を走り抜けて逃げだした。
(おまえみたいな強そうなのを、最初っから相手にするわけにはいかないんだ。俺の仕事はなるたけ多くの奴らをひっかきまわさなきゃならないんだから)
 ティティはあっさり背を向けると、別の一群にむけて走りだした。盗賊の彼らには騎士の魂も誇りも関係ないから、強い敵から逃げだしたって少しも恥ではない。むしろその的確な状況判断が彼らの身上であった。
 眼前で、キシンが一人の兵士相手に苦戦していた。闇の者にしては逞しい肉体をした男だった。ティティは、夢中に剣を交わすキシンに背後から飛びかからんとする別の兵士を見つけ、つき倒した。
「すまんな、ティティ!」
 ティティは返事もせずに行きすぎた。彼の腕なら加勢しなくても負けはしないだろう。団一番の剣の使い手だ。いや、二番だ。一番は自分だ。
 かれこれ三十分あまりもすぎた頃、空にひとつの花火があがった。レンタスの合図だ。ティティは大きく一度指笛を鳴らした。戦いの喧騒の中、それははっきりと冴え渡った。皆が懐から煙玉を出し、深く一息吸い込んでから、いっせいに地面に投げつけた。辺りはあっという間に一面の白い世界となった。
 それは遊牧民の、龍撃退用の代物だった。草原羊のふんを灰にして作ったこの玉に、兵士達は皆むせかえって咳こみはじめた。
 その隙に、盗賊達は一目散に丘を駆け昇った。砂混じりのもろい土がぼろぼろと崩れていく。それが馬の足で巻きあげられ、もうもうと煙りたち、格好の目隠しとなった。
 すっかり目をやられた兵士達は、弓をひきはしたもののただ闇雲に放つばかりで、矢はむなしく大地に突き刺さった。幾人かは追って丘を昇ろうと試みたが、岩馬の尖ったひずめでは地がもろすぎてとても無理だった。
 やっと煙が風に運ばれて消えたその時には、『風旅人』達の姿もまた、跡形もなくいずこかへ消え失せていたのであった。

    *       *       *

 レンタスのカイヤでは、大勢の者達が喜び騒いでいた。手にした宝を前に、高揚した顔で肩を叩いたり抱き合ったりと忙しい。女達が途切れることなく酒を運ぶ。
「いい仕事だったぜ。怪我人もいない。皆良くやった。思う存分飲んでくれ。成功者の取り分だ」
 レンタスの言葉に全員が奇声をあげて杯を酌み交わした。明るい笑い声が響いた。
 ティティは皆に混じって酒を飲みながら、ちらりとカイヤの隅を窺った。奥の片隅でユリウスが寝そべって酒を飲んでいた。喜びに沸く男達をつまらなそうに眺めている。彼にとっては勝利も宝も、なんの興味の対象ではない。どうでもいいことのひとつでしかない。
 ティティが彼のそばに行こうと腰をあげかけた時、突然ユリウスは立ちあがった。皆がいっせいにふりむき、黙り込む。彼は敵の足音を聞きつけた獣のように、全身を緊張させ神経をとぎすませていた。その緊迫した異様な雰囲気に、その場にいる者達は皆、息を飲んだ。
 沈黙が辺りを包んだ。ユリウスはしばらくじっとなにかを窺っていたが、ふいに鋭い眼差しでエウルークの街の方向をにらむと、風のように身をひるがえして外へと向かった。出しなに一声叫んだ。
「スティン、キシン、ついて来い!」
「俺も行く!」
 ティティは素早く上着をつかむと、三人のあとを追って飛び出した。外に出ると、すでにユリウスは馬に跨り、走りだしたあとであった。残された者達もあわててそのあとに続いた。
 訳もわからぬままユリウスを追う。それぞれが自慢の愛馬に懸命に鞭を入れて駆けているにもかかわらず、先を行くユリウスの姿がどんどん離れて消えていった。信じられぬほどの速さであった。
(速え! 俺のハガフですら追いつけねえ!)
 ティティは走りながら感嘆のため息を漏らした。彼のすごさは不思議な力だけではないのだ。剣も馬さばきも、誰にもひけを取らない。あれだけの肉体的ハンデを持ちながら、部族一の腕をしている。
(どうして片手であんなに速く走ってられるんだ? 人間技じゃねえぜ!)
草原を抜け、竜巻のように街道を通りすぎて、街のはずれに着いた時には、馬も人間も大きく肩で息をするほどであった。
 ユリウスの馬が無造作に馬止めの柱につながれていた。彼の姿はない。三人は同じように馬を止め、降りて辺りを歩き出した。
「彼はどこに行ったんだ?」
 キシンが訝しげに呟いた。理由を聞く暇さえなく、つき従ってきたが、今になって疑問がわきだしてきたのだ。ティティがかばうように言った。
「ユリウスが街に来るなんて滅多にないことだぜ。きっと、よっぽどの訳があるんだよ」
少年の好意的解釈に、二人の男は呆れたように顔を見合わせて笑った。スティンがからかう。
「おまえの大事なユリウス様だもんな。そんなにかばいだてしなくったって、俺達にもちゃんとわかってるさ」
「まったく、気が荒くて、森の尾長猫よりも人見知りするおまえが、彼にだけは猟犬みたいに従順ときたもんなあ、ティティ」
「なんだとぉ!」
 男達の露骨なからかいに少年が猛然と反論しかけたその時、心の中で突然聞き慣れた声がはじけた。
(ティティ! こっちだ)
 驚いて辺りを見渡すと、市場の脇の細い路地にユリウスがひそんでいた。サッシュを腰からはずし、顔を隠すように頭に巻きつけている。目もとだけを出して、厳しい目つきで彼らを呼んだ。三人は気をくばいながら彼のもとに歩み寄った。
「疲れているところを悪いが、おまえ達の力を貸してくれ」
 皆がうなづくをのを見て、ユリウスはそっと前方を目で指し示しながらささやいた。
「あそこに煙草売りの連中がいるだろう? あれは商人じゃない。巧妙に化けてはいるが、光の騎士だ。全部で六人いる」
 ティティ達は悟られぬように垣間見た。数件先の市場の一角に、煙草の篭を広げた行商人達が座っていた。皆がっしりとした肉体の持ち主ばかりであった。
「今から五分後に、この前の道を闇王の一行が通る。奴らはそれを襲って王を討つ気だ。おまえ達にそれを邪魔して欲しいんだ」
「なぜだ? 勝手にやらせときゃいいじゃないか。闇王に恩はないぞ」  
スティンが不満げに言い返した。ユリウスは皮肉っぽく冷笑した。
「あれだけのお宝をいただいたんだ。少しくらいのお返しをしても、ばちは当たらぬだろうが。それに……」
 彼は独り言のように呟いた。
「今回は少しばかり相手が悪い。光の騎士にはあいつがいるからな。手助けの必要がありそうだ。ーーまあ、俺の頼みだと思って、なにも聞かずにしたがってくれ」
 そこまで言われては返す言葉はなかった。いつも黙って彼らを救ってくれるユリウスなのだ。彼の願いは聞き入れる義務がある。それに、ユリウスには思わず服従を誓ってしまうような不思議な威厳があった。彼の命令ならば誰しもが喜んで命を投げ出すだろう。
 四人は顔をつきあわせてささやきあった。
「で、どうすればいいんだ?」
「まず、キシン。おまえはあいつらの側に行って、煙草を買うふりをして前をうろつけ。怪しまれないようにうまく粘れよ。それからスティンは奴らのうしろにつけ。気づかれるな。ティティ、おまえは要だぞ。馬を取ってこい。俺が合図したら行列の前に駆け出て、こいつをばらまくんだ」
「金貨だね。もったいないや」
「気にするな。そしてできるだけ派手に、一説口上してやれ。宝をいただいた『風旅人』が礼にあがったとな。護衛の兵達は緊張するだろう。不意討ちの好機はなくなる。それでも奴らが実力行使にでようとしたら、その時はキシン、スティン、おまえ達の出番だ。思いっきり暴れろ」
「ヘヘ、そいつは面白そうだ。それなら恩なんかなくったって俺はやるぜ」
「俺もだ。ぬかるなよ、ティティ」
 ティティはにんまりと笑うと、飛ぶように駆け戻っていった。
 一方、煙草売りに化けた光の騎士達は、ひたすら闇王が訪れるのを待ちわびていた。
 シンオウは、手にした計りの天秤棒を小さく打ち鳴らしながら、内心ひどくいらだっていた。
 闇王が町長に昼食を招待され、この道を通るのは調べがついている。そして護衛がいつもの半数であることも。しかし、この人ごみはいったいなんだ。あろうことか敵国の王の行進に、なぜこの街の人間達はこんなにも浮かれて群れ集まってくるのだろうか。どうして人垣などができるのか。
 これでは街の者が邪魔で、スムーズに飛びだしてゆけない。虚をついてかかるには、いっときの時間の無駄も命取りになる。護衛が剣をかまえる前に、王の喉もとに切っ先に当てるくらいの敏捷さが必要なのだ。
(人前に出ていたほうが良さそうだな。このにぎわいならば、そう人目もひかぬだろう)
 シンオウはそっとまわりの部下に目配せをして、通りに出ようと立ちあがりかけた。その時、それまで前にいた客の一人が、すっと寄ってきてたずねかけた。
「よう、こいつさ。本当にイスル産の草なのかい? なんだか匂いがおかしいぜ。その辺の安物混ぜて売ってるんじゃないのか?」
 シンオウは思わず眉をしかめたが、怪しまれぬようにしかたなく作り笑いを返した。
「そんなことはありません。そいつは上物です。なんなら少し試してみてはどうですか」
 細い顔の男はにんまりと笑って、慣れ慣れしく肩に手をおいた。
「そいつぁいいな。だが生憎キセルを忘れちまった。悪いがあんたのを貸してくれよ」
 シンオウはしぶしぶ懐からキセルを取りだし、男に手渡した。こんな所でぐずぐずしている暇はないのだ。
「すまんね、火も貸してくれないか」
 うわの空で火打ちの石をだす。通りでは人々のざわめく声がしはじめていた。彼は小さく舌打ちした。
 王の一行はすぐそこまで迫っている。躊躇している時ではない。この好機を逃すわけにはいかないのだ。彼は目の前の男を押しのけると、かたわらの部下に合図をした。
服の中に隠し持っていた剣に手をかけ、いざ飛びかからんとした丁度その時、突然通りの奥から一陣の風のように一人の少年が躍り出てきた。
 少年は草原馬を巧みにあやつって人混みの合間を駆け抜けると、そのまま通りの王の馬車の前まで進んで、大声で馬上から叫んだ。
「さて、闇王様の御一行とお見受けしたが、さようであらせられるか? われら『風旅人』を代表して、このティティがご挨拶にうかがいまして候。よろしければお顔拝見!」
 衛兵達があわてて不届き者をとりおさえようと槍をかまえた。と、馬車の中からそれを制する声がして、やがて幌があがり、一人の男が顔をだした。
 美しき闇の王ゼルファであった。彼は興味深げに少年を見ると、かすかに笑った。ティティも不敵に微笑み返し、元気よく喋りだした。
「これは偉大なる若き王よ。わざわざのお応え、光栄のしかり。さすれば、われら深き感謝の念を持ちて、さきほど頂戴したお宝のほんの一部を返しにつかまつった。お受けとりいただこう、ゼルファ王よ」
 ティティは懐の金貨をつかむと、空にむかって投げあげた。金色の輝きが日に照らされて宙に舞った。人々の喚声があがった。
「残りの宝はすでに草原の肥料と化した。なれども、この金貨は少々邪悪の香り強くて、大地も風も受けとらなんだ。やむなくはるばるお返しにあがったという次第。さすれど、いと美しき王の前にはそのきらめきも光を失う。いや、本当に曇っているのかもしれぬ。闇人の臭い悪の息でな」
 ティティは芝居っけたっぷりに口上した。闇の兵士達はその強烈な嫌みに、激怒して顔を染めた。だがとうの王だけは、にやにやと面白そうだった。
「なにはともあれ、あれほどのものを頂いて、なんのことわりもなきは無礼というもの。われらの礼儀を疑われてしまう。まずはひとことお礼の言葉を。闇王様」
 ティティは器用に手綱をひいて、ハガフの頭を上下げさせた。観衆が喜び沸きあがる。兵士達は怒り狂った。
 ゼルファはあざ笑うように鼻を鳴らすと、見せ物は終わったとばかりに興味を失い、御者に進行を促した。御者はあわてて鞭をふるった。
 その時、突然人垣の後方で騒ぎが起こった。喧嘩の声と物を投げつけるような音がし、人々がしりぞく。あいた空間から垣間見える争う者達の姿を目にした途端、ゼルファは表情を変え、厳しい声で側近に命じた。
「光の者がまぎれこんでいる。兵をだせ、あの行商人達だ」
 側近達はあわてふためいて兵士達をさしむけた。シンオウは素早くそれに気づき、部下に合図すると自分もまた繋いであった馬に跨って、うしろも見ずに駆け出した。作戦は見事なまでに失敗した。今はとにかく逃げるのみだった。
 そのあとを、たくさんの兵が追っていく。思わぬ所でふってわいた捕り物劇に、観衆らは唖然として見守った。いつのまにか草原の少年が消え失せていたことにも、気づくものはいなかった。
 ゼルファは光の騎士達が逃げていった方向を冷たく一瞥すると、幌の中に戻ろうとした。ふと、強烈な視線を感じ、驚いて顔をあげた。
(まさか……)
 大きく身を乗り出し、焦って辺りを見渡してみる。しかしすぐにその視線は消え、ざわざわとざわめく人々の声がするばかりであった。ゼルファはしばし呆然とし、やがて小さく笑って首を振った。
 そして諦めたように幌の奥へと戻り、御者に命じて再び馬車を走らせた。行列は何事もなかったかのように進んでいった。

    *      *      *

 ユリウスは、草原を独りゆっくりと馬を歩ませながら、その場所とは遠く離れた地で繰り広げられている光景を、心の瞳で眺めていた。
 闇の兵に追われる光の騎士達は、エウルークの街を抜け、街道を左に反れて走っていた。どうやら彼らは美しの森に入ろうとしているようであった。
 その森は白くきらめくコウリンの木々に埋まっていた。コウリンは、晴れた日差しの中では驚くほど葉が発光し、まぶしいくらいに光輝くのだ。それを知らぬ闇の兵達はさぞかし戸惑うに違いない。いいめくらましになるであろう。
 だが、残念ながらそこに逃げこむだけの時間はなさそうであった。追っ手はすぐうしろにまで迫っている。追いつかれるのは時間の問題に見えた。
(さて、どうしたものかな。闇の兵などに負ける男ではないが、多勢に無勢ということもある。まあ、とりあえずは静観するか)
 ユリウスは馬の歩みに行く先をまかせ、背に揺られながら、のんびりとその様子を見守った。
 遥か遠い地では、とうとう光と闇の者達の戦いが始まった。光の騎士達が一人二人と脱落していく。案の定人数にだいぶ劣る彼らは、かなり分が悪かった。
 ユリウスはやれやれと小さくつぶやくと、握っていた手綱を離し、手を高々とさしあげた。その手のまわりに、光の精霊が集まってきて彼に吸収され、同化し、真っ白な輝きとなった。
 精霊達は彼の力の一部となる喜びに舞い踊りながら、幾つも幾つも絶え間なくやってきては、自らその輝きに飛びこんでいった。
 ユリウスは充分力が満ちたのを感じると、強く放ってそれをかの戦いの地に飛ばした。爆発したかのような閃光が起こり、一瞬後にはそれは空間を超越して、闇と光の兵士が争う場所へと転移していた。
その光に驚いたのは闇の兵ばかりではなかった。突然現れた光の塊に、全員が戦う手も止めて呆然として凍りついた。特に闇の男達は、そのあまりの力の大きさに震えあがった。
馬が恐怖の叫びをあげ、いなないて立ちあがった。すっかりすくみあがって尻込みをしている。いち早く正気を取り戻したシンオウは、その隙を見逃すことなく、部下達を引き連れ一目散に逃げだした。闇の兵は慌ててあとを追おうとしたが、光が彼らの前に立ちふさがって追走の邪魔をした。
 立ち往生する彼らの前で、光の兵士達はまんまと森へと駆けこみ、逃げおおせていった。ユリウスはそれを見確かめ、念を送った。光の塊はあっという間に霧散し、戦いの場に静寂が戻った。闇の兵士達はあっけに取られて、為すすべもなくその場に立ちつくすばかりであった。
 ユリウスは冷たく鼻で笑うと、手綱をとって軽く引き、遊牧民達の集落へと進路を向けた。くだらない仕事だ。しかしシンオウをここで死なせるわけにはいかないのだ。彼は今のシャインフルーにとって誰よりも必要な男であるのだから。
(今ごろ作戦の失敗を地団太踏んで悔しがっていることだろうな。こんなことで諦めるような奴じゃないが、しばらくは大人しくしていることだろうさ)
 ふと気づくと、前方から馬の駆ける足音が聞こえてきた。ティティが壮快に走ってくるのが見えた。どうやらあまりにも遅いユリウスの帰りを案じて、わざわざ迎えにきたらしい。
 ユリウスはかすかに笑みを浮かべ、少年に向かって走っていった。すでに薄闇の訪れはじめた草原に、雪混じりの雨が落ちだしていた。

    *       *       *

 国境の街エウルークを地底の国の攻撃から守る最も重要な要塞、北壁。そこに設けられたシャインフルーの基地は、いまやダークネシィアの兵士達の逗留地となって、その姿を光から闇へと変えていた。
 その中、暖かな絨毯と厚いカーテンに冷たい風から守られ、快適にすごす者達がいた。しかし彼らの表情は暗かった。ただ一人をのぞいては。
 黙って部下の報告に耳を傾けていた一人の男は、怒りをおさえきれずに火のように激しく怒鳴りつけた。
「では結局おまえは、その両方を取り逃がしたというのだな。警備隊長のおまえがついていながら、なんという失態だ。ただではすまぬぞ、ナハト」
「は、まことに申し訳ございません。いかなる処罰も覚悟の上」
「よくぞ言った。ならばその命にかえても、逃がした獲物を捕らえてくるがいい。草原のこわっぱと、王宮の蝿どもを」
「ただちに」
 若い警備隊長はすぐさま立ちあがった。その時、それまで一番奥で黙ってやりとりを聞いていた青年が、やんわりと男達を制した。
「まあ待て。いくら腕自慢のおまえとはいえ、日差しの中に逃げていったあやつらは、そう簡単には捕まらぬわ。所詮返り討ちにされるのが関の山。せっかくの好機を逃したのは惜しいが、無駄な未練は持たぬことだ」
「しかし王よ、このままでは腹の虫がおさまりません。それにわれらの名誉にも傷がついた。黙って見すごすなど我慢なりませぬ」
 大臣らしき男が反論する。だが闇の王は冷たく薄笑いを浮かべた。
「愚かな。闇の者になんの名誉がある。私達にあるのは、勝利のための手段を選ばぬ狡猾さのみ。見込みのない戦に無駄な兵力を使う必要はない」
 それでもナハトは執拗においすがった。
「では、せめて草原の盗賊どもの征伐を」
「ほっておけ。あれは害がない。たかが馬車二台分の金のために、貴重な兵士を失うわけにはいかぬわ。それにあいつらは私を救ってくれたではないか。偶然の結果とはいえな。金はその礼の先渡しだと思えばよいのだ」
 王は軽く言い放った。ナハトは悔しそうに歯噛みしたが、それ以上言い返しはしなかった。王は冷たく見すえると、今度はうってかわった鋭い口調でたずねた。
「それよりも私が気になるのは、おまえ達を襲ったというその光だ。それは本当に光に属する霊だったのだな?」
「はい、間違いなく。闇のものならば見慣れております。馬のおびえかたも尋常ではなかった。それに、あれは一人の仕業ではない。信じられぬほど強大な力でありました」
 眉をしかめる王に側近達が口をはさんだ。
「どういうことでありましょう。われら闇紋族の人間には、光の精霊は操れぬ。まさか銀紋の者にも力を使うものがいるのでは」
「馬鹿な! そんな話は聞いたこともない。他の事例もついぞないし。聖なる石を持つ王ならば話は別だが」
「ではその王の仕業かもしれぬ。前王キィリンクは力の行使を忌み嫌ったが、潜在する威力は強かったと聞く。娘のメイアとて、同じ能力を持つと考えても不思議ではない」
「十七の小娘にか。そんな馬鹿な」
「王の力に年齢なぞ関係ない。聖なる水晶石さえあれば」
 その時、高まる議論を割って闇王が静かに言った。
「メイアではない」
 きっぱりとしたその口調に、皆思わず黙りこんだ。この歳若い王は、時として恐ろしいほどの威厳を感じさせ、闇の人々を圧倒した。その威圧感の前では何者も抗えなかった。
 あの七年前の前王暗殺事件のおり、おおいに責任のあった彼がすんなりと王座に継いたのも、ひとえにその強烈な闇の気のおかげであつた。誰も異論を唱える隙がなかったのだ。
 彼は誰よりも闇の王にふさわしかった。たとえその血が半分であろうとも。
 王は続けて語った。
「メイアの力ではない。絶対にだ。誰の仕業かは私にもわからぬがな。いずれにしても、いつかはその者も正体を現す。それを待つしか手はないな。そう危険に思うこともあるまい。光の兵士の中にそのような力が横行していれば、こうも簡単には戦に負けぬわ」
「しかし、ではいったい、誰が……」
「よい、もう忘れろ。悩んだところで答はでぬ。ーーそれより、私は光王に会いたい。会って話がしたい。使者を遣わして、その手はずを整えてくれ」
 唐突な王の命令に皆がいろめきだった。
「なんと、勝利の王が自ら願いでて敗者に会うのでございますか? それはいささか体裁が悪うございますが」
「体裁などどうでもよい。会って確かめたいことがあるのだ。なるたけ早いほうがよいな。イノス、明日にでも王宮に使者をだせ。必ず王本人をひっぱりだせよ」
「ですが……、はたして応じるかどうか」
「うまい餌の一つでも鼻っつらにぶらさげてやれ。そうだな……。捕虜達を解放すると伝えろ。それが会見の条件だ」
 皆がいっせいに反論しかけ、そしてひとこともないまま口をつぐんだ。有無を言わせぬ王の鋭い視線がそこにあった。
 ゼルファは立ちあがると、無言のままその場をあとにした。それは会議の終了を意味する。皆が従って部屋を出た。
 ゼルファは寝所に戻り、豪華にしつらえた寝床の上に寝そべった。しばらく思い悩むように天井の一点を見すえていたが、やがて左腕をあげ、ゆっくりと袖をまくる。黒いタフタ生地の下から現れた白い手首に、美しく輝く金色の腕飾りがなよやかに巻きついていた。
 それは、人の金髪で作られた物であった。その髪自身が持つ美しさにくわえ、丁寧に編まれ細工された見事な品である。ゼルファはいとおしそうにそれを見つめ、胸に抱きしめた。いってしまった大切な友、優しい半身の、たったひとつの形見だった。
(ユウラファーン、まさかおまえ、光の王宮に戻ったのではあるまいな。光の精霊を操れるものは、聖なる石を持つおまえだけ。決して戻らぬと言ったおまえの言葉を疑うわけではないが、シャインフルーはいまや私の手中にあるも同然。妹思いの優しいおまえが、この状況に耐えられなくなったとしても不思議ではない。おまえが約束を破るのではないかという残酷な懸念が、こんなにも私を苦しめる……)
 ゼルファはかたく唇を噛みしめた。
(私は、いつかおまえが剣を持ち、兵を携えて私の目の前に現れるのではないかと、そればかりが不安なのだ。ああ、私の双子よ。どうか敵とならないでくれ。そして、もう一度帰ってきてくれ。愛しい友、ユウラファーン)
 人知れず悲しみに沈む。せつない感情が胸を満たす。だがそれを解放し、わかちあってくれる者はもういない。
 彼は孤独に震えていた。

    *      *      *

 闇と光の会見は、エウルークの街からシャインフルー側に少し入った、とある町で開かれた。
 そこは村と呼んでもいいほど小さくさびれた町だったが、四方が大きく開け、まわりが見渡す限りの農地に囲まれていたため、双方が悪辣な手段に出られぬという利点で選ばれた、会見には絶好の場所であった。
 急場しのぎにとりつくろわれた会見の間は、なんとか王の居心地に耐えられる程度のお粗末なものではあったが、それに不平を唱えるようなのんきな者はいなかった。
 町は緊張と興奮で一触即発な雰囲気に包まれていた。互いに相手を深く嫌悪しながらも、それぞれの王の身を案じて、牽制しあっていた。
 ゼルファがその部屋に足を踏み入れた時、すでに光の王は中央に置かれた椅子に腰掛け、闇王の訪れを待っていた。臆することなくにらみかえしてくる少女の顔を見た途端、彼はその場に釘付けになった。
(なんと……! これがあのメイアか。いつもおびえ震えていた、あの子供か)
 ゼルファは絶句して彼女を見つめた。七年の歳月は成長期の少女を驚くほど変える。ましてやなにも知らなかったあの頃とは違い、いまや一国を預かる王の身である。その態度は毅然とし、気品と尊厳に溢れていた。
 だがゼルファを驚かせたのはそれだけではなかった。十七になったメイアは、あの頃のユウラファーンにとてもよく似ていたのだ。もちろん男と女の差はあるが、端正な少年のおもざしが、優美という少女らしさに変わったと思えばよい。それくらいにそっくりだった。
(なるほど、これが真実の血のつながりというものか。運命などという形なき頼りないものにすがらなくとも、確かに兄妹という、かたい絆に結ばれているというわけだ)
 ゼルファは強烈な嫉妬と羨望を感じた。
 不機嫌な顔のまま奥に進み、メイアの正面に立つ。メイアは立ちあがって彼を迎えた。
「久しぶりですね、ゼルファ王。驚いたわ。ちっとも変わってないのね。あの頃と同じ」
 少し間をおき、ゼルファも答えた。
「おまえは変わった。いや、失礼。王とお呼びすべきであったな。無礼を心より謝罪いたす。光王メイア姫」
 ゼルファは少女の華奢な手をとって恭しく口づけした。メイアは内心怖気立つような嫌悪感にとらわれたが、それを現すようなことはなかった。勧められるままに再び腰掛ける。その前の席にゼルファも座った。
 重苦しい静寂が場を包んだ。互いの顔をそれぞれの思いで見つめあいながら、ふたりはずいぶん長い間沈黙していた。息がつまるような深い憎しみの感情が蔓延していた。
 やがてゼルファがゆっくりと口を開いた。
「捕虜はさきほど全員解放した。今ごろはあなたがたの基地で無事を喜びあっていることだろう。ご心配なきよう」
 メイアはかすかに笑みを浮かべ、憎々しげな口調で礼を言った。
「それはありがとう。闇の王とも思えぬ慈悲深き采配に、皆が感謝しておりますわ。正直なところ、解放は諦めておりました。とても前例にないことでしたから」
 少女の口から、体から、溢れるような憎悪の念が伝わってきた。昔、幼い子供がわけもなく発していた幼稚な感情ではない。父を奪い、兄を奪い、そして今また国をも奪わんとしている忌まわしい存在にむけて、まっすぐにぶつけてくる強烈な憎しみ。複雑にからみついた彼女の心。それはさすがのゼルファをも、たじろがせた。
 思わず視線をそらすゼルファに、メイアはたたみかけるように問いかけた。
「それで、なんなのです? わざわざ捕虜を手放してまで私を呼びつけたのは、まさか再会を望んだわけではないのでしょう? なにが望み? あなたがそこまでして私から得たいものとは、いったいなんなの?」
 毅然として問いただすメイアに、ゼルファも意を決したように顔をあげ低くたずねた。
「ユウラファーンはどこだ?」
 少女は一瞬、なんのこと、といった顔でゼルファを見たが、すぐに怒りに頬を染め、燃えるような瞳で猛然とくってかかった。
「なにをたばかっているの! 馬鹿にするにもほどがあるわ。七年前私のもとから兄を奪っていったのはあなたでしょう? その口でたぶらかし、父を殺させ、共に闇の国にまで連れていったのは、まぎれもないあなたでしょうに。なにをいまさら愚かな……」
 そこまでいっきに叫び、メイアははっとしたように言葉をとぎった。怪訝そうに闇王の顔色をうかがい、呟いた。
「では……あの噂は本当なのね。闇の国で、クトルリンを殺して逃亡したという、あの話は真実なのね。ユウラファーンはダークネシィアにはいないんだわ」
 メイアはゼルファを見た。彼は苦々しげに眉をしかめ、かたく口を結んでいる。唇の端がかすかにひきつれている。彼女は勝ち誇ったように高らかに笑った。
「ほほほほほ! そうなのね。あなたは捨てられたというわけ。いい気味! あんなに愛し、慕っていたユウラファーンにまんまと闇王を殺す機会を与え、そして逃げられた、とそういうわけね。ああ、おかしい。ーーでも当然だわ。あの兄上様がいつまでもあなたになどだまされているわけないもの。だいたいあなたなどを愛したこと自体が異常だったのだわ。兄があなたなどを、忌まわしい闇の者を愛するわけはないのだわ!」
「黙れ! それ以上喋るな!」
 ゼルファは蒼白な顔をして立ちあがった。その気迫に押されメイアは口をつぐんだ。しかし心は小気味良いほど満足していた。兄はこの男のもとにはいない。それはすばらしい事実であった。
 しかし、同時に別の疑問も浮かんできた。闇の王を見放し、ダークネシィアから逃れたのなら、どうして光の王宮に帰ってはこないのだろう。今の世の切羽詰まった状況はどこにいたってわかるだろうに、なぜ彼は国を救いに戻ってはこないのか。
(父上様を手にかけたことを気にしていられるのかしら。でも聡明な兄上なら、今のシャインフルーにそんなことをいっている余地のないことくらいわかっているはず。どうして、どうして戻ってくださらないの?)
 ふと気づくと、触れるほど間近にゼルファの顔があった。メイアは驚いて息を飲んだ。彼の瞳が、心の奥まで見透かすように見つめている。黒い黒い瞳。青白い肌。昔と少しも変わらぬ、はっとするほどに美しい、しかし残酷な冷たい顔。メイアは背筋が震えあがった。
 彼はしばらく無言でメイアを凝視していたが、やがてふっと気をぬくと、嘲るような眼差しで見下した。
「ふん、本当に何も知らぬとみえるな。ならば良いわ。あれを疑った私が愚かだった。ーーもうおまえに用はない。会見は終わりだ。ご苦労でありましたな、光王よ」
 そう言い残し、ゼルファは勝手に退出しようと身をひるがえした。が、扉に手をかけたところでふとなにかを思いついたように足を止め、ふりかえって微笑んだ。
「メイア姫。これがなにかおわかりかな?」
 言いながら腕を差しだし、黒い袖をまくってみせた。服の下から真っ白な手首と、それを飾る金色の腕飾りが現れた。
「これは見てのとおり人の髪で作った物だ。それもたった一人の、美しい金髪でな」
 怪訝そうに見つめていたメイアの顔に突然驚愕の色が浮かび、少女は叫びを押し殺すように口を押さえた。
「まさか……」
「そう、そのまさかだ。これはユウラファーンの髪。おまえの大事な兄の髪よ」
 ゼルファは自分の腕に顔を寄せ、いとおしそうに腕飾りに頬ずりした。その姿が兄自身をもてあそんでいるようで、メイアは全身が総毛だった。
「やめて! それを返して! 私にユウラファーンを返してちょうだい」
 メイアは無我夢中でゼルファに飛びついてそれを奪おうとした。だがゼルファはその腕をなんなくねじ伏せると、メイアの耳もとに口を寄せ、冷酷にささやいた。
「これは私のものだ。誰にも渡しはせぬ。彼がみずから切り落として私にくれたのだ。メイアよ、おまえの兄は、おまえになにかを残したか? ひとすじの髪でも与えたか? おまえは先ほど、なぜユウラファーンが帰らぬか考えておったな。その答えを私が教えてやろう。ユウラファーンはな、もうおまえなど見えてはおらぬのだ。あれにとっては、妹も国もどうでもよいのだ。おまえなぞ必要ないんだよ、メイア」
 メイアはがっくりと床に崩れ落ちた。怒りに涙を浮かべ、震える声でつぶやく。
「なんとむごいことを……。シャインフルーの王族にとって、長く伸ばした髪の意味を知らないの? それは……」
「王位継承の意志を示す、か? 知っているさ。知っていながら彼はこれを私に授けた。これだけ言ってもまだその意味がわからぬのか? つまりな、彼には王位を継ぐ意志はないのだ。ユウラファーンは二度と王宮には戻らぬということさ。おまえもまた、捨てられたというわけだな、メイア。はっはっは!」
 今度はゼルファが誇らしげに笑う番であった。メイアは呆然と宙を見つめていたが、やがてはっとしたように表情を変えると、途切れ途切れにつぶやいた。
「そう……、その髪のせいよ。そのせいで兄上様は、王位を継ぐことができないのだと、思って、それで帰ってこない……。あなたのせい……。なにもかもあなたのせい。あなたがユウラファーンからすべてを奪った! 許せない。あなたが憎い!」
 沸きたつ感情を押えきれずに、メイアは泣きながらゼルファにつかみかかった。彼女にとって、すべての諸悪の根源がゼルファだった。彼が不幸を連れてきた。この男さえいなければ、なにもかもうまくいっていたのだ。
 胸につかみかかってくる娘に、ゼルファは容赦なく手をふりあげた。白い手が激しい音とともに頬にうちおろされる。メイアは床に転がって、無念の涙を流しながら頬を押さえた。噛みしめた唇からすすり泣きの声が漏れた。 
その上に侮蔑の眼差しを向け、彼は冷たく言い放った。
「馬鹿な女だ。七年の歳月に、切った髪が伸びぬわけがなかろうに。そんな愚かなことしか考えられぬから国ひとつ守れぬのだ。王のおまえがその有様では、光の国の未来などなきに等しいな。待っているがいい。すぐに私が滅ぼしてやる。そしておまえ達に復讐してやる。私を……苦しめたことを。闇紋族を地に封じたことを。いつの時も我らを軽蔑し、卑しめてきたことを。我らの憎しみをおのが身をもって知るがよいのだ!」 
 闇の王は出ていった。激しい音がして扉が閉まった。
 あとには、完璧なまでに敗北し、情けなさに身を切られるような羞恥にさいなまれてうなだれるメイアだけが残っていた。
 彼女は床にうずくまったまま、長い間声も立てずに泣き続けていた。
 

 

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