『孔子家語』(3)  (1)へ  (2)へ  Topへ
   

巻八の中ごろから、図書館で
新釈漢文大系53 宇野精一『孔子家語』を借りだした。
624頁、原文、読み下し、通釈、語釈、余説と完璧な注釈書でこれを読めば、普通の読書人の読み物としては完璧である。

しかし、これを頼ると、原文を十分読まないうちに通釈(翻訳)にたよることになって、原文を読むことがおろそかになる。
私は、和刻本を辞書を引きながらの方が、理解は劣るが、身に付くような気がする。また、辞書を引く楽しみもある。

勿論、注釈本の偉力は大きい。余説として、各文の出典を示されているので、その必要があれば、原典に遡ることが出来る。

私の摘要は誤りが多いかもしれない。もし興味の章句があれば本文または原典に当たって欲しい。皆豊な内容を持っている。
 

  
   巻八

冠頌第三十三::邾の隠公が即位して、冠の儀式をやろうとして、孟懿子を通じて孔子に礼について問い合わせた。(即位と冠(成人式9との関係を問うたものだが、難解)

廟制第三十四:衛の将軍文子が自分の家に三人の主君の廟を作ろうとして、子羔を孔子に聞きにやらせた。孔子がそれは礼に反すると言う。子羔が廟の制度につき孔子に訊く。天子ー七廟、諸侯ー五廟、大夫ー三廟、士ー一廟、庶人ー無廟。、左に祀るを照と言い、二世、四世。六世、右に祀るを穆と言い、に三世、五世、七世、これに中央に太祖祀る。天子の場合は、これで七廟。
昔、功ある者を祖とし、徳ある者を宗とした。時代により、誰を祖、宗とするか異なる。周では文王を祖、武王を宗とした。周に従うのが良いだろう。

辨楽第三十五:▼(1)孔子は琴を襄子に習った。下記望羊のこと(2)参照 
park18.wakwak.com/~aliceintokyo/aaa/boyoteiyurai.html
 ▼(2)子路が琴を弾いているのを聞いて、孔子が批判し、冉有に語る。先王の音楽は和音を用い、南が音階を使う。温柔で気を養い、憂愁が心に生じず、身体を粗暴にしない。治安の風がある。小人の音楽はその逆である。
舜は五弦の琴を弾いて、南風の詩を作った。紂王は北の音楽を好んだ。子路の音楽は後者だと。 冉有がそれを子路に告げると、子路は大いに反省し、食も口に入らず、やせ細ってしまった。孔子「誤りを改めることが出来るのなら進歩するだろう」 ▼(3)周賓牟が孔子の傍にいた時、音楽の話となった。孔子「武の舞いは鼓を打つのが長いのはどうしてか?」周賓牟「民衆の心が得られない事を心配しているのです」「詠歎の歌の甘いのはどうしてか?」「民を安んずること願っているのです」「手足を激しくなるのは?」「右膝を地につけ、左膝を立てるのはどうしてか?「それは武の舞いではありません。音楽の役人が間違えたのです」 以下、今度は周賓牟が質問側に立ち、孔子が滔々と故事来歴もって説明。


問玉第三十六:▼(1)子貢が孔子に「君子が玉を尊び、珉(玉の一種)を尊ばないのは、玉の産出が少なく、珉が多いためですか」孔子{そうではない。君子の徳と玉とが同じだからである。仁、知、義、礼、楽を表わす。詩経にも君子温其如玉とある。」▼(2)孔子曰く「その国に入れば、どんな教えが浸透しているか知るべきである。例えば、温柔敦厚なら、詩の教えが、疎通知遠ー書、広博易良ー楽、潔静微ー易、恭儉荘敬ー礼、属辞比事―春秋、といった具合。これが欠ける場合などにも触れる。後段、森羅万象、すべて教えであり、聖人と一体であるという。▼(3)子張が孔子に「聖人がどのように教えを行うのか」という問いに、孔子は「礼楽を明らかにしてこれを実践することだ」と答えさらに詳しく説明。要は秩序を守り平和な生活をするためである。

屈節解第三十七:▼(1)子路「自分は、一人前の男は、金持ちならものを役立てることが出来ず、貧乏なら節を屈して、伸びようとしないのならば論ずるに足りないと聞いている」孔子「君子は己の目的を達成する屈すべき時は屈し、伸びる時は伸びるのである。決して節を曲げ義犯すものではない」 ▼(2)孔子が衛にいた時、斉の田常が魯を打とうとしていることがあった。孔子は田常に節を屈しても、魯を救おうとして、弟子を集めて、使者を求めた。子路、子張、子石が名乗り出るが、許さず、子貢が許された。以下子貢の遊説の様子(本項は史記に詳しい)子貢が、斉、呉、越、晋と遊説して魯の難を避けた話。▼(3)宓(ふく)子賤(不斉・子践)が単父の長官となった。魯君が讒言を聴くのを懼れ、最初に書紀2名を付けてもらい、ちょっとした意地悪をして、返した。魯君は孔子に意見を求めた。宓子賤は君子です。王の補佐もできる才能があります。君を諫めようとしているのでしょう。魯君は自分が宓子賤の行政に介入しようとしていたこと反省して、一切彼に任せた。その後。斉が魯に攻めてきたとき、農民は早く麦を収穫したいと申し出たが、彼は許すなかった。3年後、孔子は巫馬期を単父の状況を知らばさせたが、上手くいっていた。 ▼(4)孔子の旧知の原壌が母を失った。孔子はその棺作るのを手伝った。原壌は棺桶に登って卑猥な歌を歌い始めた。子路が「先生から聴いていることだが、自分より劣った者を友としてはいけない。誤ったら直ぐ直せと。どうして改めないのですが?」孔子は聞かないふりをした。子路「先生、節を屈する限度ですよ。やめてください。孔子「親戚は親戚で変わりがない。知人は知人であることに変わりない。」

  2021・10・7
 

  
   巻九

七十二弟子解第三十八
   まず孔門十哲だけまとめておきます。
   姓  名  字  孔子との
年齢差
   
 顔回    回 子淵、顔淵  30  徳行 魯人31没  
 閔子騫   閔  損  子騫  15  徳行 魯人  
冉伯牛  冉  耕  伯牛  ?  徳行 魯人 悪疾  
 仲弓  冉  雍  仲弓  19  徳行 魯人  
 宰我  宰  予  子我  ?  言語 魯人田常の乱に加わる  
 子貢  端木  賜  子貢  32  言語 衛人金持ち  
 冉有    求 子有、冉有  29  政事 魯人  
 季路  仲  由  子路  9  政事 魯人  
 子游  言  僵  子游  35  文学 魯人  
 子夏    商  子夏  44  文学 衛人  
 
上記を含めて、この章に掲げられた72人(76人)の弟子はいずれも、学問の蘊奥を極めた人(昇堂入室の人)である。
出身地と年齢差(どれだけ若いか)をまとめておきます。

 出身地  人
 魯  36
 衛  6
 斉  5
 陳  4
 宋  2 
 秦  2 
 蔡  1
 楚  1 
 鄭   1 
   
 不明  17
 
孔子との 年齢差 人 
0~9歳  3
10~19 歳  2
20~29歳   3 
 30~39歳  7
 40~49歳 10 
50~59歳  6 
   
不明  46



資料により多少の差があるので傾向を見てください。
史記との異同がある事は、新釈漢文大系本472頁参照。

本姓解第三十九:孔子のルーツと生涯を概観した章。宋の君主の末裔としその系譜を述べる。五経を整え。入門者は3000人を越えた。

終記解第四十:孔子の死、葬儀の服装、埋葬、喪服の事を書いている。子貢が身近にいて、取り仕切ったようである。孔子が泰山崩れるぞ、梁木壊れるぞ、哲人倒れるぞ」と歌っているのを、子貢が聞きつけて、孔子と会話、夢の話をし、死ぬことをいう。7日後没。(BC479年 72歳)魯の哀公が弔辞を出すが、子貢が批判する。弟子たちの間で、喪服ののことが問題になったが、子貢が裁いた。埋葬のことは、公西赤が仕切った。3年喪まで留まった者もいるし、他の周りに家たてた者は100人以上あり、孔里と呼ばれた。

正論解第四十一他人の言動に対する孔子の評27篇
▼(1)孔子が斉にいた時、斉の景公が狩りに出て、山沢を管理する役人を呼んだが、そのやり方が伝統のやり方と異なっていたため役人がこなかった話。 ▼(2)斉が魯を攻めてきたとき、魯の大夫季康子が、軍の左翼の指揮を、冉有にその補佐に樊遅を付けた。溝という所を未だ越えない時に、樊遅は賞罰をはっきりさせるように要求した。冉有は武器を持って戦い、勝利した。季康子が軍事のことを誰に習ったかと聞いたのに対して、孔子から習ったという。季康子が喜ぶ。そのありさまを樊遅が孔子に報告したら、孔子の反応が面白い。 ▼(3)南容説と仲孫何忌の二人は喪が明けても、昭公が亡命中で大夫の任命が無かった。定公が即位して、任命されたが、父の遺言で、礼をしかり孔子から学んだ後でないと位に付くなということで、断った。定公は許し、二人は孔子に学んだ。孔子は詩経引用してそれを褒めた。▼(4)衛の孫文子は献公から咎をうけ蟄居していたが、献公がなくなると、葬儀が済まぬうちに、音楽を奏で始めた。季子がたまたま立ち寄ってそれを知り、戒めた。文子は生涯琴瑟を聞かなかった。孔子褒める。▼(5)孔子が晋の史書を読んだ時、晋の霊公を殺したのは趙穿であるが、趙盾となっていることへの感想。▼(6)鄭が陳を攻め、戦利品の奴隷を晋に献上した。その役目を子産が行う。これに対する孔子のコメント。▼(7)楚の霊王は贅沢であった。大臣の子革に物知りの倚相を褒めるに対し、子革は彼は物知りだが、諂ってばかり、古いも知らない。穆王が贅沢三昧の時、謀父が詩を持って諫めたことも知らなかった。霊王はその詩のことを聴き、数日寝食を忘れる程感動するが、結局、その教えに従わず、災難に遭う。この話に対する孔子の評。▼(8)叔孫穆子が斉に逃げていた時、そこの寡婦と通じて、牛を産ませる。魯に帰って、牛を重用するが、その牛は、叔孫嫡子2人を殺し、庶子の昭を立てる。昭が位に付くと、牛を殺す。これに対する孔子の評、詩も引く。▼(9)晋の邢侯と雍子が領地争いをしているのを、叔魚が代理で裁いた。雍子が娘を叔魚に娘を差しだし、勝った。邢侯が怒って二人を殺した。宰相の叔向にどうすれば良いかを聴いた。叔向の判断と孔子の評。▼(10)鄭の村の学校が政治批判の巣になっていることから、ソウ明が学校を廃止しようとした時の子産の反対の言葉と孔子の評。詩を引用▼(11)晋の平公が諸侯を集めて貢税の協議をした際、鄭の子産が周の制度と異なると唱え、決定を覆した。孔子の評▼(12)子産が死ぬ間際、子太叔に残した言葉。「有徳の者は寛大を持って民を治めることが出来るが、それほどでないものは猛をもってする方が良い」とその理由も言って死ぬ。子太叔は寛大な政治を行って国が乱れた。孔子、子産を詩を引いて褒め、亡くなると泣き、「古の遺愛(古人の人を愛する気持ちの残っている人)」と言った。▼(13)孔子が斉へ行く途中、泰山の麓を通った時、女の泣き声を聴いて、重ねて不幸があったようだと子貢に聞きにやらせると、父、夫、息子hが虎に食われたという。なぜ転居しないのかと聞くと過酷な政治がないからだと。孔子「酷政は暴虎より猛し」覚えて置け。と。▼(14)晋の魏献子は祁と羊舌の土地を功績のあった大夫と子に与えた。賈辛という男にも周に手柄があったとして土地を与える。孔子の評。詩を引く。▼(15)晋の趙簡子が国に鐘を献上し、これで刑鼎をいさせた。銘文は范宣子の著したものである。孔子がそれを見て、晋は滅びるだろう言った。周から受け継いだ法度を捨てることになるから▼(16)楚の昭王が病気になり、占うと黄河の祟りだと出たが、祭らなかった。部下が郊外で祭りたいと入ったが許さなかった。その理由を言い、孔子は昭王の処置を褒める。▼(17)衛の孔文子が、太叔疾に妻と離縁させ、自分の娘を当てがった。彼は先妻の妹を引き入れ、妻が二人のようになってしまったので、孔文子は怒って、太叔疾を攻めようととした。そして、衛に孔子に相談するのだが、軍事のことは知らないと逃げる。その頃、魯では、季康子が、冉求が戦で手柄を立ててので、誰から学んだのかと聞いたら、孔子から学んだという。孔子を招聘する。孔子の態度は?▼(18)斉の陳恒が主君を殺した。孔子は哀公にこれを討ってくれと3度上伸したが、入れられず、大臣の李氏に言えと言われた。孔子の反応は?▼(19)子張が孔子に「書経に高宗は喪に服し3年間物を言わなかった。言えば皆が和んだとありますが本当ですか?」と聞いた。▼(20)衛の孫桓子が斉を侵略しようとして逆襲にあい、捉えられようとした所、仲叔干奚が救った。桓子が干奚に褒賞として村を与えようとしたが、彼は断り、曲懸という楽を奏することと、馬に特殊な飾りをつけることを求め、桓子は許した。孔子の評▼(21)魯の大夫、公父文伯の母親は何時までも糸を紡いでいた。文伯が止めたら母は昔の伝統を語った。▼(22)樊遅が孔子に尋ねた。「鮑索は斉君に忠実に使えたのに、足切りの刑にあった。主君が暗愚だったのですか
?」孔子の答えは、国に道なければ身を引くのが知恵。▼(23)季康子が新法を施行しようとして、孔子の賛同を得ようとしたとき、再三の求めにも応じなかった。▼(24)子游が孔子に子産が恵み深いとすることへ、説明を求める。▼(25)哀公が孔子に2,3の大夫が高齢者を尊重するように言うがどういうことかと聞く。孔子は虞・夏・殷・周の王たちの例を引いて、年長者を尊重すべきことを説く。哀公、自分は実行できないという。▼(26)哀公が屋敷を東側に増築するのは不祥というが本当かと孔子に問うたのに対し、5つの不祥の例を挙げ、東に増築することは不祥にはならないという。▼(27)取る、借りる、献ずる、賜うの言葉の使い方への孔子の注意。

   2921・11・15
 
  
   巻十

曲礼子貢問第四十二  この章は礼についての37の事例。テーマのみ記す。
▼(1)斉の文公が天子(襄王)を招き、諸侯を集めたこと。▼(2)桓魋(たい)が予め石梈作ったこと。▼(3)南宮敬叔が富裕がゆえに罪を問われ衛に逃げたこと。▼(4)斉が大干ばつで困った時、孔子に対策を聴く。▼(5)李康子が昼間寝て居たので、孔子が病を問う。▼(6)国の厩舎が焼けた時の孔子の態度。▼(7)管仲は奢、晏子は儉、両者の評価。▼(8)蔵文仲は礼を知るか▼(9)蔵文仲が戦いに敗れて多くの人を失ったが罰せられなかった。礼か▼(10)晋が宋を討うとまず斥候を差したら、城門で兵士に葬儀を行っていた。討伐を取りやめた。▼(11)楚が呉を討つた時の話。商陽が棄疾に人を殺すことを勧めたが3人で辞めた。孔子の評と子路の反論。▼(12)孔子が衛にいた時、葬礼を指導した。殷のやり方によった。▼(13)魯で先祖祭りしている時、公子の一人がなくなったが、そのまま祭りが続けられた▼(14)喪礼の服装について▼(15)異母兄弟が亡くなった時の喪。▼(16)戦争で一緒に戦い戦死した少年の葬式について▼(17)魯の昭公が、夫人がなくなった時、喪を諸侯に告げなかった話▼(18)大夫の妻、敬姜は夫の死に、昼哭し、息子の死に昼夜哭した。▼(19)姑の喪での髪型について▼(20)喪におけるお辞儀の仕方▼(21)埋葬の前後のさま▼(22)母を失って大泣きをしている子を見ての孔子の言葉,、礼に適わぬと。▼(23)譚(喪明けの祭り)のこと▼(24)祥(喪明けの祭り)のこと▼(25)貧者の葬礼について▼(26)呉の延リョウ季子が、斉から帰る途中、長子を失った。その葬礼を孔子は見に行く。▼(27)喪の道具立てについて、貧富の差による。問題は哀の気持ち▼(28)親疎によって、哭する場所が異なる。冉求が出しゃばる。▼(29)子路が姉の喪を何時も続けていたこと。▼(30)伯鯉が母の死、喪が明けても哭していたこと▼(31)同姓不婚の事例▼(32)主君と家臣が同姓の場合の関係は?


曲礼子夏問第四十三 ▼(1)仇うちの話。父母の仇、兄弟の仇、叔父や従弟の仇の場合、孔子の考え▼(2)喪礼と戦争への参加の可否。▼(3)周公の成王の教育に自分の子伯禽を使って皇太子の礼を教えた。▼(4)君主の母、妻の喪のあり方、叔父伯父の妻の場合はどうすればよいか▼(5)喪中の沐浴について▼(6)子夏が問う「先生は客が泊る所がないとき、客死して通夜をするとき、自分の家でしなさいと言われたが、これは礼なのか、思いやりなのか?」▼(7)食事に招かれた時の礼。食祭、飧(ソン)のこと▼(8)大夫の家臣が、昇格して諸侯の家臣になって、元の大夫がなくくなった時の喪。▼(9)子貢が父母の喪について尋ねた。▼(10)殷と周で弔問の仕方が異なる。▼(11小連、大連と言う人話)▼(12)乳母の死に対して実母と同様に喪に伏すことの可否▼(13)孔子が衛に行ったとき、昔止まった宿屋の主人の喪に出合った。孔子が馬を贈らせたが、子貢は過分であると反対する。▼(14)魯の大夫が1年の喪明けから寝室に寝たことが礼か?と子路が孔子に尋ねると、孔子知らないという。先生は知らないことがないはずだと子貢に言うと、子貢が孔子に聞いてくれる。▼(15)叔孫武叔の葬礼の小さなミスを子路が咎める▼(16)晏平仲がその父が亡くなった時の喪のやり方が質素なので、長老がたしなめた事例。▼(17)季平子が亡くなった時、主君の佩玉を棺に入れ、さらに珠玉を副葬しようとしたとき、孔子が止める。▼(18)孔子の弟子琴張の友達、宗魯が、ある男の推奨で公子に仕えるが、紹介してくれた男が謀反を起こすのだある。それに巻き込まれて宗魯は死ぬが、その弔いに行くべきか否か▼(19)孔子、極端な哭を嫌う。▼(20)交父文伯が亡くなった時、妻妾が声が枯れるまで哭した。文伯の母がそれをたしなめ、孔子が感心する。▼(21)子路と子羔が衛で仕官していた時、事変起きた。魯で孔子がそれを聴いて、「子羔は帰ってくるが子路は死ぬであろう」と言った。その通りとなり、衛の死者は子路は塩漬けなされたという。孔子は家にある塩辛をすべて捨てさせた。(子路塩漬けにされて食べられたのだろうという。勇者の肉を食べる風があった?)▼(22)季桓子の喪に、大夫が朝服で出たことについて▼(23)埋葬までの手順▼(24)孔子の狗の埋葬

曲礼公西赤問第四十四▼(1)大夫が罷免されたのち亡くなった場合、葬儀のやり方は士として扱う。老衰の場合は大夫の礼で行う。▼(2)嫡子が亡くなった時、弟を立てること可否。孔子は周では孫を立てることになっていると。▼(3)孔子の母の埋葬について。リアルに描かれている。90センチの土盛り。喪明けに琴を弾くこと。▼(4)孔子の母の喪中に陽虎がやって来て、季子が名士を呼んで宴会を開こうとしているが聴いているかと言う。▼(5)顔回が亡くなった時、定公が弔問について孔子に尋ねに行かせる。▼(6)明器(死者への副葬)祭器(鬼神をまつる実用の器) の使い方が、夏、殷、周で異なるという説について▼(7)葬る時、土車や藁人形を副するが、今の人は木製の人形を入れる人があることにについて▼(8)顔回の喪が明け父親の顔路が孔子に肉を贈った時のこと。(2行だが美しい)▼(9)孔子が秋祭りを自ら執り行った。その挙動がせわしかったので、子貢が、先生の祭りは厳かに済済やるべきとい説と異なると指摘。▼(10)子路が季子の宰の時、先祖祭りのやり方を変えた話▼(11)衛の荘公の改革にについて、誤りを指摘▼(12)季桓子が先祖祭りの精進について誤りについて▼(13)公父文伯の母は季康子の祖父の弟の妻であるが、その妻の行動が礼に適っていた話。

  2021・12・15
 

  
   後序

孔子家語は、皆、当時の公卿士大夫および七十二弟子が孔子に諮問したり、互いに質問しあったりした言葉を集めたものである。既に弟子たちが聞いたことを自ら記録しているが、ちようど『論語」や『孝経』のようなものがある。ある時、弟子たちは、重要なものを集めて、『論語』とした。その余りを総て収録して『孔子家語』という。
と後序は始まり、その後資料は散逸の歴史を繰り返すが、漢の武帝の頃、AD110~105、孔安国(孔子十二世の孫)が資料を集めた。

孔子から孔安国に至る流れが延々と記述される。
魯の恭王が孔子の旧宅をこわした時、壁から多くの書物が出てきたが、これらは孔安国のものとなった。『孔子家語』を編纂したが、巫蠱の変に遭って、そのままになっていた。

孔安国の孫の孔衍が、古文書の整備、校定などの事業を起こすことを孝成帝に上申し、帝の許可はあったが、閣議に回される前に、帝は崩御された。

前半を孔安国が後半を王粛が書いたとするが、疑義も多い。

       * * * * *

序(冒頭のもの)の要点

当時、鄭玄の説が行われていたが、私(編者王粛)は十五歳の時から学んできたが、その説には不合理な点が多あり、私はそれを正そうとした。
孔子の二十二代目の孫の孔猛が家にある先人の書を持ってきてくれた。それは
私の考えとピッタリだった。私は特別に注釈を施し、私の説を批判する者に送るのである。
     
   * * * * * 

王粛については狩野直喜『中国哲学史』(岩波書店)に簡潔な紹介がある。

   * * * * * 

全巻通読しての感想

〇孔子の言動を総なめしていて面白かった。人間孔子の姿が少し身近なものとなる。

〇概ね、短い章の集まりで、しかも、対話体を多く用いて、生き生きと伝わってきた。

〇孔子の言葉の中に詩の引用が多くあった。

〇音楽に関する記述は心に響いた。

〇礼についての記述が多い。
  (これは、鄭玄の説に対する反論のため、王粛の偽作と見る説がある)

     2021・12・16
 


寛保元年は1741年