『孔子家語』 (1) (2)へ (3)へ | Topへ | |
私の中国古典への入り口は、40年以上前、偶然入手した『論語』の和刻本であった。その時の感動を今も覚えている。以来、漢籍は和刻本で読むことを愉しみにしている。 再び、漢籍へ戻るに当たって、『孔子家語』から始めることにする。それは、この作品が、左伝、国語、孟子、荀子、大載礼、礼記、史記などからの寄せ集めで出来ているので、復習に良いと思ったからである。注釈書は読まず、原文を味わうことにする。 2021・7・23 |
||
|
||
『孔子家語』(コウシケゴ) テキストは、『龍洲先生校定 補注孔子家語』で、寛保元年(1741)風月堂荘左衛門刊の和刻本である。(右写真)
|
||
|
||
巻第一 相魯第一: ▼孔子が、地方の宰(代官)から、魯の国定公の司法長官になり、斉候と夾谷での会見で、孔子が手柄を立てる話。▼季孫、叔孫、孟孫の横暴を抑え、国の不正を正す。 始誅第二:▼孔子が司法大臣になって喜んでいると、仲由(子路)が、「君子は禍到れども懼れず、福到れども喜ばず、というが、どうして喜んでいのか?」で始まる。孔子7日後、評判の大夫少正卯を誅殺する。子貢にその説明をしている。親子が訴訟を起こした時、一緒に、3月も同じ牢にい入れた。父の依頼により釈放した。その理由を冉有に説明している。まず教え、その後刑を行うことを説く。 王言解第三:王道とは何かについての、曽子との対話。「内に七教を修め、外に三至を行う」とその内容を述べる。七教とは、敬老、尊歯(年齢)、楽施、親賢、好徳、悪貪、廉譲。これを王が率先してやることが政治の根本である。三至とは、至礼、至賞、至楽であるが、王の徳治の一面を示す。全体として、政治の理想状態を示している。 大婚解第四:▼哀公が孔子に人道で何が大切かを問われ、身を乗り出して答えている。政即ち正が最も重要で、君主が正であれば上手く行くと。哀公政を為すやり方を聞くと、夫婦別、男女親、君臣信、で、政の最大のことは人を愛することだから始まり、君主の婚姻の大切さを説く。哀公も食い下がり、生き生きとした会話が続き、迫力もある。 儒行解第五:▼孔子が衛にある時、冉求が季孫に説いて、孔子を呼び戻した時のこと、哀公との対面の場。立ったまま「お前の服装は儒服か?」という問いから始まる。孔子は自分は郷に入れば郷に従っているので、儒服はどんなものか知らないと答える。儒行とは何か?と問われて、簡単には答えられないというと、座ることを勧める。孔子は、色々なタイプの儒をとうとうと7頁にわたり弁じる。 哀公は「生涯、儒をからかわない」という。 問礼第六:▼哀公が大礼とは何かと問ったのに対して、孔子は、自分は卑賎の出だから、大礼は分からないと答える。哀公は、答えを促すと、また、とうとうと弁ずる。礼が、君臣、上下、男女、父子、兄弟、婚姻、親族の交わりの基本だという。その具体的姿を述べる。▼哀公、今の君主はなぜ、礼を守らないのかに対して、孔子は答える。言掩(子游)もまた、問う。孔子は、夏や殷のことを調べに行ったが、よく分からなかったとしながら、原初の時代から礼が出来ていた姿を述べる。 五儀解第七:▼哀公が孔子に人材登用について問う。孔子、人には5種あるという。庸人、士人、君子、賢人、聖人として、その特色を述べる。哀公、自分は未熟者だから、この区別が分からないというと、あなたは既に分かっているので私は申し上げることはないというと、哀公はさらに促し、孔子が、具体的に立ち振る舞いのこと、何を思うべきかを教える。人材登用の着眼点、博打の可否、国家存亡は天命か?殷の事例を上げ説明。また、哀公は智者、仁者は長生きか?とも質問しており、孔子は答えている。 2021・7・23 |
||
|
||
巻第二 致思第八:〔20〕・・・〔 〕の数字はエピソードの数 ▼孔子が子路、子貢、顔淵にその志を言わせるシーン。子路が軍武のこと、子貢が外交のことをいうのに対して、顔淵は言わないので、孔子が強いて言わせると、名君を助けて、平和な国を作りたい旨述べる。▼ケチな男から、粗末な器で食物を供された時の孔子の反応。▼漁師が魚をやろうと言われて、孔子は一度断るが、漁師は市が遠いので売ることが出来ないので、君子に差し上げるというと、孔子は受け取り、祭す。▼季羔が獄官の時、ある男の足を切る。その後、反乱が起きて逃げる時、その男に助けられた話。・・・ ▼子路が、水害に備えて、民と、水路の整備をして、民に食料を与えているのを見て、孔子は止めさせる。▼管仲の人物評、▼孝行が出来なくて哭する男 ▼人と一緒に居て倦まないの学だけだと息子に教える。▼子路の親孝行の話▼孔子が、道で程子に遭って、終日話し込んで、そのあと、子路に程子に贈り物をするように命じたら、子路は反対する。▼孔子、衛より魯に帰る途中、濁流する河に出合い、止まっていたところ、ある男が渡り切る。その理由を聞く。▼楚昭王が江を渡る時ひしゃくの形の水草の実を見つけ、それが何か、部下は知らないので、孔子に問いにやらせる。▼子貢が死者に知があるかどうか ?と問いに、今は言いたくない、何れ分かるという。▼魯国の法ー贖人の話、不明。▼子路が蒲を治めていた時、孔子に方法を聞く。 三恕第九:〔11〕▼三恕、▼三思▼伯常ケンという男への処世へのアドバイス▼桓公の廟にある、傾いた器についての問答。▼孔子が川の流れに見入ることへの子貢の質問▼魯廟の北堂の形▼孔子の反省,恥ずかしいこと、卑しいこと、危ないこと。▼智者、仁者の弟子たちの議論、▼孝、忠とは▼子路が盛装して孔子の前に現れた時の、孔子の訓戒。▼子路が玉を持ちながら、襤褸を来ている人はどうでしょうか?と孔子に聞いた。孔子の答えは。 好正第十:〔18〕▼哀公が孔子に「舜はどんな冠を被っていた?」と聞いとき、孔子は答えなかった。もっと大切なことがあるというのがその理由。▼孔子、楚の荘王を褒める。▼孔子、自ら占って「賁ヒ」の卦を得て、不満のこと。(意味不明)▼子路が、軍服を着て、剣を取って舞い、昔の君子は剣をもって自らを守ると言ったのに対して、孔子の発言。▼楚恭王が弓を失った時の話▼孔子、魯の司法官の時、皆の意見を聞いて裁いた。▼孔子が、漆雕ヒョウに三人の大夫の評価を聞く話。?▼公索という人が、法事の生贄を逃がしたという話を聞いて、孔子は、この家は2年後に滅びると予言する。▼長年土地争いをしているものが、文王の所に相談に行った所、その領域に行っただけで、感化されて争いを辞めた。▼曾子、慣れすぎると粗雑になり、重々しくすると親しさがないことについて述べる。▼哀公が服装と仁の関係を問う。(?)▼孔子が子路に何を優先すべきかを説く。▼君子の三患、聞かないこと、聞いて学ばず、学んで行わないこと。また、得たものを失う、土地が余っているのに民は不足強いる、功績につい合わないこと恥じる。▼独身の男の所に、暴風雨で家が壊れた隣の寡婦が助けを求めてやって来たが、男女60歳にならなけば、同室してはならないという理由で拒否する。女は柳下恵の例を引いて頼むのだが・・・▼詩経の解釈の一つ。▼こざかしい議論をしてはならないと詩経の例を引く、▼子路に戒めて、「君子は強気ならまっとうな死を得ず、小人が強気なら刑罰受ける」と、2つの詩経や周代に史実あげる。長文だがつながりがよく掴めない。 2021・7・31 |
ひ | |
|
||
巻第三 観周第十一〔4〕▼孔子が、南宮敬叔に、老子の素晴らしさを説いて、周に教えを乞いに行きたいという。南宮敬叔が魯公に孔子の素晴らしさとその意図を説いて、車、馬2匹、御者を出させ、彼も共に行く。周で老子に礼のことを聞き、楽のことや周の儀礼を学び、周の偉大さを知る。帰る際、老子は孔子に、選別の言葉を言う。「今の人は聡明だが、死に近づいて人を誹り、博識だが人の悪を暴き、自分の身が危なくする。己を欲しいままにしてはいけない。己を悪くしてはいけない。(後半は意味不明)」と。孔子教えを有難く受け止め、魯に帰ってそれを守った。弟子が3千人出来た。 ▼孔子周の廟などで画像をみて、感周の偉大さを言う。▼孔子が周の太祖廟で、口を三重に覆った金の像があり、その背面に次の銘があった。(やや長文)多言、多事を戒め、万事控えめで慎重であれと説く。孔子弟子に記録するように命ずる。▼孔子が老子に道が行われないことを嘆くと、老子は「説くものは言葉が過ぎるし、聞くものは言葉に惑う、この事知っておれば道は忘れられないだろう」と(委質 不明) 弟子行第十二 (13頁に及ぶ人物評が述べられる。)▼衛の将軍文子が子貢に孔子の弟子の中で最も賢いのは誰かと聞かれ、子貢は答えなかったが、文子に執拗に迫られて、身近な人の人となりを孔子の言も含めて述べる。 顔回(顔淵)、冉雍(仲弓)、仲由(子路)、冉求(子有、公西赤(子華)、曽参(子與)、、せん孫子(子張)、ト商(子夏)、澹台滅明(子羽)、言えん(子游)、南宮えん、 高柴(子よう) 以上の人について述べるが、子貢は自信がないという。文士は、皆立派で大臣になれる人物だが、見るべき君主がいないのだという。子貢と文子は、魯の孔子の所に行き、その有様を話すと、孔子は笑って、お前は人物が分かっている、というと、子貢は、自分はただ見た所を述べたまでだという。孔子は直接見たり、聞いたりしない人物は分からないのだろか?として、次の人物評を述べる。 伯夷叔斎、趙文子、隋武子、銅鞮伯華、遽伯玉、柳下恵、晏平仲、老萊子(老子)、介子山、 子貢、孔子に知っているのはこれだけか?と問い、孔子は、人物を知ることの意味を。晋の平公と祁ケイとの会話を引いて説明する。 賢君第十三▼哀公が孔子に現代最も賢こい君主は誰か?と聞いたのに対して、孔子は未だ見たことがないという。衛の霊公を挙げ、次善の者とする?▼子貢、孔子に現在、賢者は誰かと聞くが、知らないと答え、昔、鮑叔、子有という人がいたというと、子貢は、管仲、子産がいたではないかと言うと、孔子は、自分が賢なると、賢人を勧めるのとどちらが賢か、と理解を深める。▼哀公が孔子に、物忘れがひどく、妻を忘れた者があると聞くというと、孔子は自分自身を忘れることがもっとひどいとして、夏の桀の例を挙げる。▼顔回が宋に行くに際して、孔子に心構えを聞く。孔子は恭敬忠信を授け、理由を言う。▼詩経・小雅、正月の詩についての孔子の感慨(境武男『詩経全釈』p473)▼子路が国を治めるのに最優先すべきは何かと問う。賢人を尊び、不肖を賤しことだと孔子が答えると、子路は晋の中行はそうしたが亡んだは何故かと問う。▼銅鞮伯華についての子路、孔子の問答。老いて人の下に就くこと大切さを言う。▼斎の景公、孔子に、秦の穆公が小国なのに成功した理由を問う。▼哀公、孔子に政治の急務を問う。民を富まし長寿にすることだと。方法は?▼衛の霊公、政治を廟堂で計る事の是非を聞く。▼宋君、孔子に、沢山の願望述べ、その達成法を聞く。 辨政第十四:▼子貢が、孔子が君主によって政治の要諦が異なることを問題にしている。孔子、詩経を引き、答える。▼君主への諫め方に5種あるという。?▼中行文子(晋の太夫)の道を誤り国を滅ぼしたが、賢人を尊重したため、命が助かった。?▼楚王が荊台へ行こうとするのを、子祺が諫めたら王は怒った。子西は荊台い行くのは不可欠だと言うと悦び、彼と一緒に行くという。10里ばかり行ったところで、子西は子祺が忠臣であることを説き、王は反省する。 (荊台は特殊な所?)▼子貢、孔子に、子産、晏子の評価を問う。▼斉で一本足の烏が集まって、宮殿の前で飛び跳ねるということがあった。斉公が孔子に聞きにやった。孔子、商羊という鳥で、大雨の前兆だという。果たして大雨、斉は水害に備えたので無事だった。▼孔子が子賤(不斎)に、お前は単父という村を治めて評判が良いが、どうしているのか、との問いに、「親は子を慈しみ。子は身寄りのない者をい慈しみ、弔をちゃんとする」というと、孔子は、スケールが小さいと言う。子賎は次第に大きな事柄をのべ、賢者に仕えることを言い、孔子の賛同を得る。▼子貢が信陽の長官となって赴任する時の孔子の注意事項。詳しい。▼子路が3年治めた、蒲を通過する。国境に入り、まず褒め、村に入って又褒め、屋敷に入って又褒める。同行の子貢がその理由を問う。 2021・8・7 |
|
|
|
||
巻第四 六本第十五 ▼(1)行動の基本は6つあって、その後、君子となる。立身、喪起、戦陣、政治、居国、生財のケースについて述べる。 ▼(2良薬口に苦しというように、諫言を受け入れた方が栄える。 争いがなくなることはないのだが、過失は救われる。▼(3)斉の景公、孔子に、扶持を与えようとしたが、孔子は辞退して去った。理由は?▼(4)孔子が斉の景公の客となっている所に、たまたま、周の使者が廟に火事があったと告げる。孔子はそれはリ王の廟だろうと、その理由まで説明し、果たしてそうだったので、景公は感心する。▼(5)子夏が3年の喪が明けた時に孔子は彼に琴を弾かせた彼は楽し気に弾いた。閔子が3年の喪が明けた時も琴を弾かせた。彼は哀しげに引いた。孔子はいづれも、君子だと評価した。子貢が同じ評価に疑問をもって、孔子に理由を聞く。 ▼(6)内面の志の大切さを説く。鐘も怒って鳴らせば猛々しく鳴る。 ▼(7)孔子が若い雀ばかり捕っている者に何故かを聞き、弟子たちに慎重な者に従うことを説く。 ▼(8)孔子が易の「損」「益」の所で歎息しているのを、子夏が理由を聞くのであ9る。損する者は益し、益すものは損するの解釈。子夏、学問する者は、益してはダメか?と問う。(易についてcf.10-3) ▼(9)子路が古いやり方を捨て、自分の好きなようなやり方でやってよいかと聞いたのに対し、孔子は不可と答え理由を述べる。 ▼(10)曽子が、瓜畑を耕していて誤って根まで切ってしまう。父親の曽セキにしたたか撃たれ失神してしまう。後で、父親に謝りに行って、身体が健康でることw知らせるため琴を弾く。その話を聞いた孔子は怒るり、出入りを禁止する。曾子はその訳を聞きにやらせる。▼(11)楚の15歳の公子の仕事ぶりを聞く。 ▼(12)子夏が、孔子に、顔回、子貢、子路、子張の人物評を聞くと、孔子はいずれも自分より優れている点を述べる。子夏がそれではその4人はどうして先生に従うのか?と問い、孔子は答える。▼(13)孔子が泰山に旅行中、栄啓期が楽し気歌っている所に出合う。その楽しみは何かと聞くと、人として、男として生まれ、95歳まで生きていることだと答える。 ▼(14)孔子が顔回と史鱒を褒めるのを聞いて、n曽子は孔子の素晴らしさと自分の至らさを言う。 ▼(15)孔子が、自分の死後、子貢(賜)は益、子夏(商)は損すといったのに対して曽子がその理由を聞く。意味不明。 ▼(16)曽子が孔子について斎へ行ったとき、景公が曽子を下卿として招聘しようと時、曽子が断って去っはた。その時の晏子の言葉と孔子の反応。▼(17) 富貴をもって人に下れは、尊ばない人はいない。など謙遜の徳を説くか?▼(18)普通の人間は逸脱しやすいものだが、急に刑罰加えて収まらない。ゆっくりと節度を守らせなければならない。 ▼(19)慎重さが大切だが、愚者はこれとは反対 ▼(20)舟に水が入ると沈むように、民衆を君主の領域に入れてはならない。 ▼(21)高庭という人が孔子に君子に仕える道を訊ねる。孔子、貞、敬、仁などを説く。 辨物第十六: 分からない事があると孔子に尋ねるという事案が集めらえている。▼(1)井を掘ったら、羊の形をしたものが出てきた。孔子に何かと聞く話。 ▼(2)呉夫差が越の句践を破った時、会稽で巨大な�骨を得た。何かを孔子に問いにやらせた。孔子は禹の家臣の防風の骨ではないかという。 ▼(3)孔子が陳の恵公の所にいた時、その庭に鶴が来て死んだことがあった。鶴は矢じりのある矢が刺さっていて、恵公はそれを孔子の所に持ってゆかせ、由来を聞かせた孔子は、これは北夷の粛慎の矢だという。・・・(4)郯(タン)の国の君主が魯にやって来た時、魯人が官名のことを訊ねた。郯子はその由来を説明する。孔子がこれを聞いて、郯子に官制を学ぶ。 ▼(5)邾(チュ)国の君主が魯に朝貢に来た時の玉のやり取りを見て、子貢が予言する。そして当たる。孔子が評する。 ▼(6)孔子が陳で陳侯の宴席にいたとき、魯で火事があり、宗廟に及んだというニュースが入ってきた。孔子は、桓と僖の廟だろうといった。陳侯は理由を聞き、孔子が理由を述べる。3日後、魯から孔子の言葉が事実であったとの知らせが入る。 ▼(7)陽虎が斉から晋、そして趙に逃げてきたとき、孔子は趙は代々混乱に陥るだろうといった。子路が理由を尋ねる。 ▼(8)季康子が孔子に10月だのに蝗が出るのは何故かと聞いた。 ▼(9)呉王夫差が、哀公と共に晋候に会見しようとした時、魯の子服景伯が使者に言った。(以下?) ▼(10)叔孫の部下が、薪取に入って、麟を得て、その左足を折って持ち帰った。叔孫は不祥として捨てる。ある人がこれは何かと孔子に聞き、孔子は見に行き、麟だと言って、泣くのである。(哀公、14年の有名な話と類似) 哀公問政第十七:▼(1)哀公が孔子に政治の要諦を聞い時の問答。8頁に及ぶので、要約は略。哀公最後に、話は分かったが、実行できない咎を負うことを懼れる、という。 ▼(2)宰我が孔子に、鬼神の謂れを聞く。人は生まれると気と魂があるが、気は神の盛んなものである。死ぬと土に帰るり鬼となる。魂と気は天に帰る。これが神。・・・3頁。 2021・8・25 |