亭名:「望羊亭」の由来
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   新しいサイトを開くにあたって、まず思い付いた名前は、「多岐亡羊館」であった。80歳を越えた者の気分に合っていたのであるが、「館」は大げさので、「亭」に改めた。
しかし、少し作業を進めているうちに、「多岐亡羊」という言葉の持つ、「逃げた羊」「逃げられた羊」「失ったもの」といったネガティブな響きが気になり始めた。原意も本人の気持ちも消極的なものではないのだが、
「亡羊」を「望羊」と変えるとどうかと思い、辞書を繰ってみたら、自分の気持ちとぴったりであった。


は良いもの、めでたいものも象徴しているので、羊を含む字には良いものが多い。

  美、善、義、鮮、洋、祥、翔 など

いつもこのような接していたい。

  2023・12・16

  
   「望羊」のこと(1)

藤堂明保『漢和大字典』より
 「望羊」 ①遠くを見るさま、また、仰ぎ見るさま
      ②人を尊んで見るさま〔史記・孔子〕*
      ③広々としてまとまりのないさま
 「望羊之歎 他人の偉大さや、学問の深さに対して、自分の平凡、浅薄さを嘆くこと。〔荘子・秋水〕**

これをこのサイトの精神としたいと思います。

*下記(2)(3)参照

ついでに、白川静『字統』で、「」の字は:
 元の字は臣と壬を組み合わせた字で「大きな目をあけて、梃立して遠くを望み見る人の形」としている。
 『説文解字』の「出亡して外に在り、其の還るを望むなり」の説明は、亡が後に声符として加えられたものであるので、誤りとしている。
 そして、「遠く望むことによって、その妖祥を察し、また、その目の呪力によって敵に圧服を加える呪儀を望という」とし、白川漢字学ではお馴染みの、眉飾した巫女三千人の話が出る。(この話は長くなるので、また別の機会に)

写真:『説文解字』より
 
   
 
   「望羊」のこと(2) 出典 *〔史記・孔子世家〕 

孔子が、琴をひくことを楽師の襄子学んだ。十日のあいだ一曲を学んで、他の曲にすすまなかった。
(何度も、先に進むように勧められたたのち、)
「丘(孔子の自称)は、まだ、この曲の作者の人となりを理解できません」
(また、しばらくして、やっと)
「丘はこの曲の作者の人物を理解できました。色は黒く、身長は高く、目は望羊として広く遠く望み見るがごとく、心は四方の国々にっ君臨するような人です。文王でなければ、誰がこの曲をつくりえましょうか!」
襄子は思わず席を辷って、再拝していった。
「わたしの先生も、これは文王の曲譜だと申されたように思います」
(野口定男訳、平凡社版中国の古典シリーズI より)
 
   
 
   「望羊」のこと(3) 出典**〔荘子・外篇 秋水第十七〕

秋の季節となり、水かさがふえたすべての川が黄河に流れ込み、その本流は甚だしく広がって、両岸の水ぎわや中洲の岸にいる牛馬を見分けることができぬ程である。そこで黄河の水神である河伯はいそいそと喜びにたえず、天下の美観はすべて自分に備わったと考え、得意になって流れに従って東へ東へと進み、ついに北海にいたり着いた。(そのあまりにも広大さに驚き)、河伯はふりかえって北海の神である若を仰ぎ見、歎息して言った。「世俗の諺に『ほんのわずかばかりの道理を聞きかじって自分に及ぶ者はないとと思う」というのがありますが、これは私自身のことを言っているのです。「河伯はじめて、その面目を旋らし、望羊(洋)として若(北海の神)に向ひて、歎じて、曰く、道を聞くこと百にして以って己に若く者は莫しと為すと。我の謂いなり。」・・・・
(市川安司、遠藤哲夫、新釈漢文大系『荘子』より
 

  
  「多岐亡羊」は最初に亭の名前に拝借したので、
その出典を下に掲げておきます。

中国、戦国時代の話。(『列子』説符第二十四章より)

道家の学者、楊子(楊朱BC395?~335?))の隣人の所で、一頭の羊に逃げられ、探すのに楊子の使用人の加勢を求めてきた。
 楊子「ああ、一頭の羊を探すに、どうして大勢が必要なのか?」
 隣人「分かれ道が多いので」
帰ってきたので,楊子「羊は捕まえたか?」隣人「逃がしました」
 楊子「どうしてだ?」
 隣人「道がさらに枝分かれしていて、どうへ行ったか分からなくなって、帰ってきました」
楊子は、憂い悲しむ様子で、何時間も黙り、何日も笑わなくなった。
門人は不思議に思って、理由を聞いた。「羊は家畜です、しかも、先生のものでもありません。なぜ笑わず黙っておられるのですか?」
楊子は答えず、門人は答えを得ることができなかった。
    ★ ★ ★
門人孟孫陽は退席して、そのことを心都子に話した。
後日、心都子は孟孫陽と一緒に、楊子の所に行って、訊ねた。
「昔 三人兄弟がいて、斉や魯に留学し、、同じ先生に仁義の道を学んで帰ってきました。
その父が『仁義の道とはどんなものか?』と訊くと、
 長男は『仁義の道は、自分の身を大切にして、名声は二の次にすること』
 次男は『仁義の道は、自分の身は犠牲にして、名声を挙げること』
 三男は『仁義の道は、自分の身も、名声も共に全うすること』
三人のやり方が、互いに違っていますが、どれも儒家から出たものです。どれが正しくて、間違っているのでしょうか?」
楊子 は言った。「ある人が、河岸に住んでいて、水によく慣れ、泳ぎも上手く、舟を操って渡(わた)しで商売をし、儲けて一族全部を養っていた。それを学ぼうと食料糧も持ちで多くの人がやってきたが、半数のものが溺死した。 元来、泳ぐことを学んだのであって、溺れ方を習ったのではない。それだのに、ある者は金儲けし、ある者は命を落としている。お前たちはどちらが正しくて、どちらが間違っていると思うのかね?」と 。
    ★ ★ ★
心都子は黙り込んで出てきた。。
孟孫陽はこれを非難して、「あなたは、回りくどい質問をして、先生の答えもひねくれている。私はますます分からなくなってしまった」と。
これに対し、心都子 は「大道は多岐を以て羊を亡がし、学者はあちこち探し回って生をうしなう。 学はおおもとはみな同じである。本源は 一であるのが、その枝葉のことにについては、このように意見が分かれる。 唯、同じ本源に帰ると良くも悪くもない。あなたは先生の門弟となって長く、先生の道に習いていながら、先生のたとえ話もわからないのか。悲しいことだ」と。

  以上、拙訳
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話が3段に分かれていますが、楊子の真意が分かりにくいですね。

参考にした新釈漢文大系(明治書院)『列子』の注解者、小川信明による要約は次の通りです。
「この章は、人はしばしば末節にこだわって大切なものを見失い勝ちであるが、根本をつかんで目標を誤らないことが人生の要件であることをいう。」

貴方はどう思われますか?
私は、いろいろな場所(多岐)に羊(亡羊)がいると思っています。
貴方の羊がいるかどうか分かりませんが、私の羊はいると思っています。