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   一応、出来事を摘出しておきます。それぞれ、この裏には素晴らしい言説があり、その理論は今でも通用するものが多い。是非、原文を読んで欲しい。  

  
   魯語 上 荘、僖、文、宣、成、五公 18章

1.荘公  在位:前694 ー 前662

一 長勺の戦い(前684)で、曹劌ケイが王に何を頼みに戦うのか聞いた時の問答。王「衣食を惜しまず民に与え、神へのお供えも惜しまない」曹ケイは徳を以て治める事の大切さを説く。

二 王が斉の国の祭りを見に行こうとして、曹劌が諫める。
先王の制度を説明し、前例がなく、又、この祭りは不法であると。
王は忠言を聞かなかった。

三 王が父桓公の廟の柱を朱塗りにし、彫り物を施した。匠師の慶が言った。
先王たちは倹約を徳としたが、その徳を捨てようとしていると。
王、諫めを聴かなかった。

四 斉から妃と迎える哀姜の接待に、礼物に、弊帛を用いたことに対して、礼儀を司る長官、夏父展が、婦人には棗、栗が適当といって反対する。
王は聞かなかった。
  夏父展は臧文仲のこと、論語に2度出てくるが余り評価されていないが、なかなかの賢人に見える。

五 魯が飢饉となり、臧文仲が伝来の名器を携え、斉に食料の援助(糴)を求めに行った。斉は名器を返し穀物を与えた。糴(てき)穀物を買うこと。

2 僖公  在位:前659 ー 前627

六 斉の孝公が魯に攻め入ってきたとき、臧文仲は外交力でこれを防ごうとして、大夫の展禽(柳下恵)に計った。彼は異論を唱えたが、臧文仲の懇願により、部下の乙喜を遣わした。乙喜は髪油を持参して、孝公に対面した。その弁舌が素晴らしい。講和を結び斉は撤退した。(短いが味のある一節)
   柳下恵は論語に3度出てくる

七 晋の文公が諸侯を温に集めた。(前632)晋人が衛の成公を捉え、毒殺しようとしたが死ななった。臧文仲が僖公に諸侯と力を併せて懇願すれは許されるだろうとその効果も説いた。僖公は運動して、成公の赦免を勝ち取った、文公は、、その後、魯を諸侯より一等上の扱いし、この策が臧文仲のものだと知って、贈り物をした。臧文仲は辞退した。

八 晋が文公が曹の地を諸侯に分け与えようとした時、臧文仲が使いに行く途中、宿の主人に早く行くように勧められて、その結果、多くの土地をえた。
帰って、その宿の主人に報えるべく説得した。

九 魯の東門に怪鳥が三日居続けたので、臧文仲はこれを祭らせた。
展禽(柳下恵)がこれに対して、道に外れているとして、祭りの在り方を滔々と述べる。祭りは何らかの功のあったもの祭るのであって、国家の大切な制度であり、軽々に怪鳥を祭るべきものではない。臧文仲は恥じて、展禽(柳下恵)の言葉を書き取ったものを3部作らせた。 内容は『礼記祭法』にも残る。

3 文公 在位:前626 ー 前609

十 文公が宮殿拡張のため、孟文士の邸宅を外に移そうとしたときの話。
孟文士は居は位に対応したもので「広くなって利益がある」という理由では移らないと拒否した。文公は邸宅を取らなかった。臧文仲もっそれを評価した。

また、文公は郈敬子の邸宅を移そうとしたが、先代から引き継いだ位から言って、遠すぎることを理由の断り、文公も彼の家を取らなかった。

十一 夏父弗忌が蔡祖を取り仕切るようになって、僖公を先君の閔公より上位に祭ろうとした。役人は世代順にすべきとしたが、聞き入れなかった。
展禽(柳下恵)は役人に意見を正とした。

4 宣公 在位:前608 ー 前591

十二 莒(きょ)の太子が紀公を弑して、宝を持って宣公の元に逃げてきた。
宣公は「自分のためにやってくれたのだから、即、土地を与えるように厳命した文を書かせ、季文子の下にやらせたが、大夫の里革が「即、追放せよ」との文に書き改めさせた。公は里革を捕らえたが、里革は死を覚悟の上だと、その理由を説明した。宣公は許した。

十三  宣公が夏、泗水で網で魚を取った。里革がその網を棄て、公を諫めた。昔から、自然から物を取るには相応しい時期があることを説いた。
王は、里革の意見を入れ、いつまでも忘れないように網をしまわせた。
傍の楽士が「網よりも里革をいつまでも傍に置くように」と言った。
  古代の一種のエコロジー

十四 魯の大夫、子叔声伯が晋に行って、季文子の釈放を交渉した。その際、晋のゲキシュウが封邑を与えようとしたが彼は辞退した。その理由を鮑国が尋ねると彼は答える。分に余るものを受け取ると却って、憾みをかうと。

5 成公 在位:前590 ー 573

十五 晋人が厲公を弑したとの報を受けた時、公は誰が悪いのかと聞いたが、大夫は誰も答えなかった。里革が君主が悪いとその理由を述べる。
  孟子の革命理論に通ずる。

十六 季文子は宣公、成公の二君の宰相を勤めながら、妾は絹を着ることもなく、馬には穀類を食べさせなかった。仲孫它が、人からケチと言われているし、国家の威信上もよくないと諫めた。季文子の答え「未だ国民は粗衣粗食であり、妾や馬は宰相ではありません」 この会話を仲孫它の父猛献子に話したところ、它を7日間監禁した。它は反省し、文子と同様にした。それを聞いた文子は「過失を改める者は民の上に立つべき人物だ」と它を上大夫に任命した。
  2022・8・16
 

大野峻(たかし)著 1975年
  新釈漢文大系 明治書院

明治書院の新釈漢文大系は、どの本も、頭が下がる程、詳しく、独学者には最高のテキストと参考書である。難は高価なので図書館で借りることが多い。

文献の詳しい解説の後、本文については
 解説、原文、読み下し文、校異、通釈、語釈、余説  とこれ以上親切な本は他ににない。
中国ではどうであろうか?

  
   魯語 下  襄、昭、定、哀 四公  21章

襄公 在位; 前572-542
昭公 在位: 前541ー510
定公 在位: 前509―495
哀公 在位: 前494-468

一 叔孫穆子が晋に使いしたとき、悼公が饗応すした時の話。音楽が「鹿鳴」「四柱」「皇皇者華」となったとき、拝聴した。晋侯行人が、大曲を演奏したときではなく、小曲になって初めて拝聴されたのは何故かと尋ねた。
叔孫穆子が大曲が自分には相応しくないと理由を説明する。
  貴族の饗宴での詩(音楽)に一定の様式があったことが分かる。
  白川静『詩経』p234参照


二 大夫、季武子が三軍を作ろうした時、叔孫穆子が、分に超えた軍を持つことは、大国を怒らせるので不可と反対。
季武子は聴かず、斉と楚が魯を攻めるようになり、襄公、昭公とも祖に朝貢することになった。

三 諸侯が秦を打とうと結集したが、涇水まで来て渡るものがいなかった。
 晋の叔向が叔孫穆子にその覚悟を訊いた。彼は詩「匏葉有苦」で以って答  え、叔向はその意図を読み取った。

     白川静『詩経』p110参照
四 襄公が楚を訪問する途中で、楚王の康王がなくなったので、公は引き返そうとした、部下の大夫も同調したが、叔中昭伯が反対して、説得した。
遂に出かけて、帰路、留守役の季武子が卞(べん)を襲撃したという報が入ったので、引き返して、楚に援軍を頼もうとしたが、栄成伯が反対した。
   それぞれの理由が面白い
五 季武子が卞をとった時の言い訳とそれに対する栄成子の対応、
使者を務めて季治の態度。

六 前541年、虢(くわく)に諸国の大夫が集まった時、楚の公子囲のいでたちが物々しいことに対する、叔孫穆子の評価、「それ服は心の文なり」
その後、囲は弑して王位に就いた。

七 上記の会合で、未だ、帰路に憑かないうちに、魯の季武子が莒国を攻撃したという報が入った。楚人は怒って、叔孫穆子を殺そうとした。晋の楽王鮒が賄賂をくれたら、取りなそうと申し出たが、穆子は応じなかった。部下が、金を出せば命が助かるのにと云うのに対して、自分は公的な使命で来ているので、私的な賄賂で助かることは出来ないという。楚人がそれを聞いて、穆子を許した。帰国後、季武子が穆子に会いに来たが、なかなか遭おうとしなかった。しかし、死を免れた男が、小さなことにこだわるのはよくないと、会うことにした。

八 魯の莒国侵略を咎める会合、平丘の会(前529)で盟主の晋の昭公は魯の昭公の出席を辞退させた。子服恵伯がこれを不可として、晋に物言いを云いに行き、晋の執政、韓宣子に説得する話。

九 季桓子が井戸を掘ったら、土甕に犬ようなものが出てきた。孔子に問あわせたら、羊だといった。

十  季康子が、公父文伯の母に、なにか教えて欲しいと言った。母は姑から訊いたこととして「君子は苦労をいとわなければ、子孫が祭祀絶やさない」と
子夏がそれを聞いて喜ぶ。

十一 公父文伯が大夫、露睹父を招いたが、すっぽんが小さいのを怒って帰ってしまった。これを聞いた公父文伯の母が怒って、息子を追い出した。5日後、魯侯夫人の取りなしで、帰れた。

十二 公父文伯の母が季に家に行ったとき、康子が話しかけたが、答えなかった、寝門の前でも、答えなかった。中に入って、なにか失礼なことでもしたのかと聞くと、彼女はそこは公的なことをする場所で、女性の領域ではないからだと云う。 貴族の邸宅でのしきたりが分る。

十三 公父文伯が朝廷から帰って,母に挨拶に行くと、母は糸を紡いでいた。
公父文伯が「母を大切にしていないと思われるではないか}といったのに対して、母は、延々と勤勉に働くこと大切さを説く。

十四 公父文伯の母と康子の礼儀作法。彼女は康子から見て、祖父の兄弟の妻にあたる。

十五 公父文伯の母、息子に嫁を持たせようとしたときの話。礼法に適ったそのやり方。詩経「邶はい風」を歌うなど。

十六 公父文伯が死んだときその母は、彼の妾たちに貞静な対応を求めた。孔子はこれをほめる。

十七 公父文伯の母は、夫の穆伯のために朝、哭し、息子のためには、夕暮れに哭した。孔子はこれを褒めた。

十八 呉が越を討ったとき、会稽で巨大な骨を得る。呉子は魯に行ったとき、孔子に何の骨かと尋ねさせる。孔子は禹の時代の防風という神の骨だという

十九 孔子が陳にいたとき、陳侯の庭に、隼が来て死んだ。矢が刺さっていて
矢じりは何処のものか、孔子に尋ねさせた。武王の時代に粛慎(ツングース族)から献上されたものであるという。

二十  斉の閭丘が同盟のために来た時、魯の子服景が接待役に「過失があっても、「恭」な過失をしなさい」と言っているのを、閔馬父が聞いて、笑った。
その理由は、「恭」はそんなに軽々しく遣うものではない。もっと恭は高い徳重である。

二十一 季康子が田単位で賦課しようとして、冉有に孔子の意見を聞きにやらせた。孔子はそれに答えず、冉有に私語として、周公以来の賦課を話た。これを変えるなら、勝手にしろという態度。「左伝」愛好1年(前483年)にも出ている。

                2022・20・10

  【感想】 「春秋左伝」が頭に入っておれば面白く読めたと思う。
   孔子、その弟子が登場する。公父文伯の母のような女性が居たことも忘れられない。