国 語 (周語)  (魯語)(斉語)(晋語1)   Topへ
   左国史漢すなわち春秋左氏伝、国語、史記、漢書は中国の歴史書の基本書として、長らく日本でも読まれ、教養の基礎となっていました。漱石も鴎外も読んでいます。私はこのうち 左・史・漢は通読したのですが、国語は未読のままで気になっていましたが、この年になってようやく初めて読みます。

 古い和刻本で、国訳本を参考に読み進めます。

   2021・12・19

  
   
国語』は西周末期から春秋時代時代(BC10C~BC5C)の王侯や文武官たちの言行を集めたもので、国別になっているので国語の名がある。国とは、周、魯、春秋五覇の斉・晋・楚・呉・越と鄭。全21巻。

著者は『春秋左氏伝』の著者とされる左丘明というが、定かでない。漢代に編纂されたものらしい。
『国語』は古くから『春秋外伝』と呼ばれている。

 【使用テキスト】 
   和刻本『春秋外伝 国語定本』文化6年(1810年)刊
   韋昭 (204-273)の注と日本の 秦 (はた かなえ1671-1831)の注付 

 【参考書】
   国訳漢文大成『国語大正12年(1923年)刊 林 泰輔
    読み下し文、語注、原文訓点

   明治書院、新釈漢文大系  大野峻『国語上下  1975年

    解題(56頁)と本文は解説・原文・読み下し・異校・通釈・語釈・余説
  これが手元にあると、つい原文を読むのがおろそかになるのでなるべく見ないようにする。詳しく面白い。
    

余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし。斯の如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、全く此幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。
漱石「文学論」より
 


  
   周語 上  七王14章

1.穆王
:周朝の第5代の王〔在位:前976年 - 前922年)前941の出来事

  一 穆王が犬戎を討うとした時、祭公である謀父が、諫めて、滔々とその理由を述べる。先王たちは徳をもって治め、決して、武力で民を従わせようとしなかった。武王が紂を討ったのも民の苦しみを救うためである。文公の例など挙げて諭す。
  天子と民との関係は、地域によってその朝貢などの義務が定められている。
  甸(でん)服ー畿内千里、 侯服ー甸服外500里、 他に、男服、菜服、衛服
  併せて、2500里。 要服ー蛮夷、 荒服ー戎狄。
義務を行わないものへの対応も決められいる。犬戎は定めに従っているのにこれを討つのは、先王の定めを覆し、危険である。と。
 穆王はこの忠告を聞かず、犬戎を征し、白狼4匹、白鹿4匹を得て帰る。
 これ以降、荒服は挨拶に来なくなった。

 【所感】冒頭、中国の政治の原点を見る感じがする

2.恭王:第6代(在位:前922年 - 前900)年  共王ともいう。 前940年

  二 恭王が涇水のほとり旅行した時、密の国の康公が随行した。康公に3人の女が献上された?が、康公の母が、王に献上するように忠告する。康公は母の忠告を聞かなかった。1年後、王は密を滅ぼした。
  
  【所感】母親の言葉はやや難しいが、納得。

3.厲王(れいおう):の第10代王。(在位:前877年 - 前841年)

  三 厲王は暴虐な王で、国民は皆批判した。大臣の邵(しょう)公が、王に「民衆はもう命令を聴きません」というと、王は批判するものを密告させて、殺したので、人々はモノ言う者がいなくなった。王はもう自分を非難するものが居なくなったといった。そこで、邵公は民の口を塞ぐのは、河を堰き止めるのと同じで、極めて危険である。天子が統治するにはそれぞれの階級で自由に表現させなければならないと、例を挙げる。
  王は忠言を聞かなかった。民はモノ言わなくなったが、3年後、王を彘(てい)へ追放した。
  【所感】言論の自由を美しく表現している。今の中国の為政者に読ませたい。

 四 厲王は栄の夷公を寵愛した。大夫の芮(ぜい)は王室は衰微するだろうと、その理由を述べ、王を諫めた。それは、利は天地が作り出したもので、先王たちも利を広く民衆与えた。夷公が利を独占する人で、それを王に教えるからである。
夷公が大臣となり、諸侯は来朝せず、王は彘(てい)へ追放された。

 五 彘の乱の時、厲王の子は邵公の所にいた。邵公は言った。何度も忠言したが王が聞かなかったため、こんな事態となった。しかし、この子が殺されれば、王は恨むだろう。」自分の子を身代わりにして、事を治め、後に宣王として位に付けた。

4.宣王 第11代王(在位 前826-前782)

 六 宣王が位についても、王の神田を耕さなかったので、虢(カク)の文公が諫めた。「いけません。民の大事は農にあり、先王を祭る時のお供えもここから出、民の繁殖もここから出ます。(以下、農の大切さを説き、王の農事へのセレモニーのあり方を解説する。多くの官職が関与し、複雑)」
 王は忠言を聞かなかった。39年、この神田で姜戎と戦って負けた。

 七 魯の武公が括(長男)と戯(次男)を連れて宣王にまみえた。王は戯を跡継ぎにしようとした。仲山父が、順序を間違えると大変なことになると諫めたが、王は戯を後継者に立てた。武公が亡くなると、魯の人は戯を殺し、括を立てた。王は魯を討って、戯の弟を立てた。これより諸侯は王に親しまなくなった。
王は諸侯をまとめる人を求めた所、魯侯の孝公は推奨せれた。彼は長老を敬い、遺訓、先例を重んじるから。王は彼を侯伯に任じた。、

 八  宣王は南国の軍隊を失ったので、別の大原で(徴兵しようとして)人口調査しようとしたところ、仲山父が諫めた。昔はそれぞれの行いの中で、人を把握して居たので、人口調査などしなかった。王は籍(六参照)や狩りなどの過程で人民の数を掴んでいた。数えて数が少ないことを示すと諸侯は避けるようになる。と。
王は忠言を聞か数えた。西周は次の幽王の代で滅びる。

5。幽王 第12代王(在位 前676-前653) 褒姒を寵愛した。

 九 王の2年、涇水、渭水、洛水で地震があった。大夫の伯陽父が言った。周は滅びるだろうと。川の潤いは民の安寧の基本で、夏も殷も川の枯喝でが元で滅びた。10年も持つまい。王11年に滅びた。
  これで西周は終わる。次は東周・春秋時代に入る

6.恵王 第17代王(在位 前676-前652)

 十 3人の大夫が王を追いだし、王子頽を位に付けた。王は3年鄭に居た。3年して、頽は3人の大夫と客を読んで宴会を開き、歴代の舞楽を皆行って楽しんだ。
鄭の厲公はこれを「禍を楽しむ」者として、不可とし、頽と三大夫を殺して、恵王を入れた。

 十一 王の15年目、虢(かく)の国の莘(しん)という所に神が降臨した。王が内史の過に先例があるかと問う。過は、国が栄える時は名君が現れ、その時に神が来るし、衰微する時も現れたという例を挙げる。王は今度の神は何の神か、どうしたら良いか、と問う。過は答えたが、王はその通りしなかった。王の19年、虢(かく)は晋に滅ぼされた。  神が降臨するという珍しい記述

7.襄王 第18代王(在位 前651-前629)

 十二 王が晋の恵公に世継ぎの認証の玉を賜った時のことで、補佐役も恵公も丁寧な対応をしなかった。使者の内史の過が王にその報告をして、晋は跡継ぎを得ず、補佐役は災難に遭うだろうという。その理由を、国の長のあるべき姿を、古典を引いて述べ、精(清潔)・忠・義・礼・信が必要だが、恵公はそれに反している。さらに先王時代のあり方を説く。 王の8年に秦に敗れ、16年、晋人が恵公の子を殺し、大臣も殺した。

十三 王が晋の文公(重耳)に世継ぎの認証を行う使者を派遣した時のこと、上卿は国境まで出迎え、文公は郊外で労った上、宗廟で宿泊させ、九牢のご馳走をふるまうなど大歓待した。命を受ける儀式も丁重を極め、済んでも、競演、贈り物など行った。使者は帰国後、王に、文公は覇者となるから、親和知るようにと、その理由を話す。忠信仁義を身に付けた人物とし、王も忠言に従う。
恵后何の時も王を助け乱を鎮め、王の20年、諸侯を率いて、王に朝見し、践土で諸侯と会合し盟主となった。
   春秋五覇の一人、晋の文公の登場である。周を尊重することによって力を得ている。
  
 





鼎(1761-1831):尾張藩藩校明倫堂の教授として活躍した。校勘に優れ、春秋左氏伝校本』『国語定本』『世説箋本』などがある。

   周の七王のときのある出来事に、家臣が、王に、諫言、忠言を行い、その内容が収録されている。王者への発言は、間違えば自分の首が飛ぶ。慎重に、分かり易く、故事を引いて行う、レトリックは見事なもので、これが時を越えて読み継がれる理由である。この伝統は、諸子百家にも受け継がれ、中国古典が面白い理由である。
多くの場合、王は家臣の言を聞かず、滅亡への道を歩んでいる。

   2022・01・15
 

  
   周語 中   襄定簡三王十章

一 襄王13年(前638年)、鄭が滑を討ったので、王は許してやって欲しいと鄭に使者を差し向けたが、鄭はその使者を捉えてしまったので、王は怒って、翟を使って鄭を討とうとした。大夫の富辰が諫めて言った。「周文公の詩※に、兄弟は争っても外敵に共に防ぐ、鄭は周にとって兄弟ではないか。しかも、鄭の武公も荘公も大変功績があり、周の東遷にも頼りにした。小さな憾みによって、大きな恩徳を捨てるのは良くありません。兄弟げんかに部外者を巻き込むのは良くありません。・・・」 
王は聴かなかった。
   ※ 詩経・「小雅・常棣」「兄弟牆(かきね)にせめぐも、外の務(あなどり)を禦(ふせ)ぐ。」

二 襄王17年、王は翟の力を借りて鄭を討った。功績を認めて狄の女を皇后に迎えようとした。富辰が諫め、「結婚は禍福の基です。内を利すれば、福。外を利すれば過。王様は外を利そうとしています。以下事例を挙げる。」鄭は身内、歴代の王を支えてきている、翟は野蛮。ちょっとした立腹で鄭を捨て、翟を重んじてはならない。
王はその忠告を聴かなかった。

三 18年、王は狄の皇后を廃したので、翟人が怒って攻めてきた。富辰は「私が諫めたのに王が聞かないからこんな事態になったが、私が出陣しないと王は恨むだろうと。出陣して戦死した。王は一度鄭に亡命したが、晋の文公が事態を収拾して王を元に戻した。

四 王は晋文公にその労に報いるため、土地を与えようとしたが、文公は隧(天子と同様、墓にトンネルを掘って棺を入れること)を求めたが、王は許さず、先王の定めた方式を軽々に変えることが出来ないと、その理由を述べた。文公は了解して、土地を受けて帰った。

五 王が晋文公に陽と樊の土地を与えるが、陽人は服従しなかったので、晋文公は陽を囲んだ。陽の人、倉葛が大声で言った。「恩徳を施し、懐かせようせず、いきなり,、民を武力で脅そうとしています。従わないのは当然です。武力は蛮夷戎狄の不遜な国に対して振るうものです。武をけがしてはなりません。・・・」それを聞いた、文公は囲みを解いた。

六 温で諸侯は会盟した時に、晋は衛の成公を捉え、王のとことに送り、これを殺そうとしたが、王は許さなかった。理由は、君臣の間で訴えることは、秩序を乱し、こんなことをすると会盟も出来なくなると。晋人は成公を故国させた。

七 王の24年、秦が鄭を周の北門を通過したとき、大夫の土孫満が、その様子を見て、秦は負けるだろうと予言する。軍隊が、軽々しく驕り見えるのがその理由。彼の予想は当たった。

八 晋侯は隋会という男を周に表敬訪問させた時、その接待に、襄王の孫、定公が当たり補佐に原公が付いた。料理が丸ごとの肉ではなく刻んだものであったので、隋会がそっと原公に「丸ごと出すのが礼ではないか?」と聞いたとろろ、王が聞きとがめて、王家の料理のあり方を説明する。先祖祭りの時、諸侯と解する時、親戚と会食する時、蛮族をもてなすとき、それぞれ異なる。と。隋会は帰って、よく調べ、これによって晋の作法を定めた。

定王 紀元前607年 紀元前586年

九 定公が単朝を宋に派遣し、序に、陳を通過させて、楚に行かせた時、陳の様子が荒んでいて、対応も悪かったので、単朝は帰国後、陳は、滅びるだろうと予言し、王にその理由を述べる。陳の国土、道、橋、畑のどの整備状況や、王の使者である単朝への対応ぶりが、極めて悪かったためである。星座の位置によってその季節のやるべきことを決めた決りにも反し、単朝が行ったときは、陳侯らは、夏へ遊びに行っていた。7年、陳侯は殺され、9年、楚は陳に侵入した。
  中国古代の星座の知識を知る

十 王の8年王は劉康公を魯に派遣した。その際、大夫にも土産を持って行った。大夫の季文子と孟献子は質素であったが、叔孫宣子と東門子家は奢っていた。帰ると王は、大夫の内、誰が賢であるかを問うた。劉康公は前2者は長らく栄えるだろうが、後2者は滅びるだろうと言って、その理由を述べた。主君は寛、粛、宣、恵であるべきで、臣は敬、恪、恭、倹であるべきという一般論を述べた後、後2者は奢っており、2,3代ももたずに滅びるでしょう。
結果、後2者は後に斉に亡命することになる。
  家臣の言説には主君を戒める内容を含むことが多い。

 簡王  、? - 紀元前572年

十一  王の八年(前578)、魯の成王が来朝するに先だち、叔孫僑如を前触れに寄こした。王孫子が対応して、その結果を王に話した。「この男は強欲で、自ら名乗り出て使者となったのでしょう。人相もよくない。賜をやるべきではない。」王はそのとうりした。魯侯が来た時には、介添えに仲孫蔑介が来たが、こちらは謙虚なので、賜を与えた。

十二 晋が楚に勝った時、戦勝報告を郤至にさせた。報告の前に、彼を王叔が接待し、意気投合し、翌日、朝廷で褒めた。郤至は邵桓公にも会い、桓公は単襄公にその模様を話す。「王叔は彼を褒めて晋の宰相にふさわしといっていました。彼自身も今回の戦勝は彼の力によると言っています。(内容略)どう思われますか?」
襄公が考えを述べる。「自らを誇ることは君子のやる事ではない。(詳しく説明)恐らく郤至は長く持ちません。それを褒めた王叔も同様です。」
事実そうなった。

  2922・3・10
 


新釈漢文大系『国語 下』より

  
   周語 下  簡霊景敬 四王九章

一 柯陵の会(前574)、同盟のために集まった人々の、単襄公による人物評とその結末。単が会った人々:晋の厲公 ー 遠くを見て足高に歩く。 その卿の郤キ ー 人を非難、晋郤シュ ー 嘘をつく。 郤至ー手柄話。斉の国佐 ー無遠慮。
単襄公は、魯成公が晋や斉やを恐れているので、心配はないと言い、その理由を述べて行く。その通りに彼らは没落する。
  挙動、言行から、その国行く末まで、見通して見せる。単襄公は賢人。

二 晋の公孫談の子周が周に来て、単襄公に仕えた。その人となりは素晴らしかった。(徳目列挙)単襄公が病になった時に、息子に、孫談は将来晋を背負う音かだから大切にするようにと、その美点をあげて話す。彼には文徳がある。ー敬、忠、信、仁、義、知、勇、教、孝、恵、譲 ーこの11の徳は、天六地五の常数にも合致して、天下が収まる。
更に、易の卦や夢などとも合致している。
彼は後に晋の悼公。
   徳目列挙が面白い。人間関係がよくわからない。系図が欲しいところ。


霊王 第23代王(在位 前572 - 前  )

三 王の22年、穀水と洛水が氾濫して、王宮が破壊されそうになった。王はこの川を堰き止めようとしたが、太子晋が諫めた。(以下、その理由が延々と続く) 山、藪、川、澤にはそれぞれの役割があり、古の聖王は、それらを改変すること慎んだ。
(共工など古い王たちの統治のあり方を、故事、諺、詩、を引きながら長々と述べる。)
王は忠言聞かず、穀水を堰き止めた。以降、周は衰退に向かう。
   長々とした忠言は、その頃既に、歴史、文藝の蓄積が既にあったことを物語る。
四 晋の羊舌肸(叔向)が周を訪れ、大夫の単靖公(単譲公の孫)にもてなされた時の感想を、見送ってきた老臣に語る。
その接遇が見事で、挙動は敬、住いは儉、徳は譲、物事にはよく諮問すると言った、昔の言葉に合致し更に宴席の話題が、詩経の「昊天有成命」でその内容が素晴らしい。、周の再興はないと思っていたが、こんな人が補佐すれば再興もありうると思った。と。
  詩が徳目を伝える媒体となっている。

景王 在位前544-前520

五 王の21年、王が大型貨幣を鋳造しようとした際、単穆公(単靖公の曽孫)が諫めた。
今、大型貨幣を増やし、少額貨幣を廃止すると、民は困り、やがて、離反するであろう。と。
王は聴かず、大型貨幣を鋳造した。

六 王の23年 また、王が大型貨幣を鋳造しようとし、単穆公(単靖公の曽孫)が諫めた。王は聞き入れず、伶洲鳩(音楽官)に諮ったが、彼も反対。王は聞き入れず、大鐘を鋳させた。

  当時、貨幣経済が既に出来上がっていたことを示す。詩の引用あり。音楽用語が沢山出てきて難解だが、当時の音楽のことを知るには重要な記事。

七 王と伶洲鳩(音楽官)との音楽談義。音楽理論が既にあり、物事の基準に音楽があることが分かる。

  新釈漢文大系んは詳し解説がついている。

  孔子が楽を好み、愛したのが分かる。「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」(泰伯第八)論語の楽に触れる箇所は16か所?ある。

 雄鶏が祭りの生贄になるのを嫌って、自分の尾を切って不適格となろうとしているのを見たという話。意味不明。
 
敬王 在位前519-前476

九 王の10年、劉文公と萇公が(周のために)城を築こうとして、晋の魏献子はそれを認め、諸侯を集めようとした時の話。衛の彪傒がそれを聞いて、単穆公に告げちうのである。要は、崩れようとする周を支えるのはm天意反して不可で、関係者も禍を�受けるだろうと。単穆公は劉文公と萇公どちらが悪いかと問い、彪傒は劉文公が悪いと。後に関係者みな滅びる。

 ここでも詩や故事を引いて述べている。

 
【周語を読み終えて】
 家臣が王への忠言の内容が中心で、そのレトリックが後世にも範となる。
故事、詩、礼など文化の蓄積が凄いと感じられる。
音楽についても、想像以上のレベルと重要性を持っていたことが分る。
王が忠言を聞かない事例が殆ど。

  2022・4・22