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百人一首 (11)本歌取り 

91番 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
       衣かたしきひとりかも寝む   後京極摂政前太政大臣

Pさんとの百人一首の勉強もそろそろ終局を迎える。90番台は本歌取りの歌が多い。この歌も、「さむしろに衣かたしき今宵もやわれ待ちつらん宇治の橋姫」(古今集恋四)それに3番、柿本人麻呂の「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」という二つの恋の歌を本歌取りしたものと言われる。91番は秋の歌に分類されているが、本歌の恋の味を奥に秘めていて、当時の人はそのように味わったに違いない。Pさんにこんな話していると「宇治の橋姫」とは何ですか?という質問が出た。私は、女神説あり、遊女説あり、学者は色々と議論しているようですよ、とお茶を濁したのだが、この「橋姫」に関して、丸谷才一が『後鳥羽院』(筑摩書房)で論じていたのを思い出していた。
そこで彼は「橋ひめのかたしき衣さむしろに待つ夜むなしきうぢの曙」という後鳥羽上皇の歌に関して、「橋姫」を含む沢山の歌を掲げながら、20頁にわたって論じていており、読み応えがあった。
私は若い頃は「本歌取り」の歌は独創性に欠ける二流のものと思っていたが、今では違う。文芸の大きな要素でないかと思うようになってきた。まず、本歌が共通財産として広く膾炙されていることが必要で、安定した文化基盤がある所に花咲く。
パロディーと呼ばれるものとは、ちょっと異なる。技法というより、本歌の魂に寄り添い、共感し、唱和して、自己の感情も深化を図る方法なのである。文芸の一つの極地かもしれない。
「本歌取り」の世界は奥が深い。乱暴な言い方をすれば、シェイクスピアもピカソも「本歌取り」の巨匠。

 

  
   

百人一首 (12)百首読み終える

英人Pさんとの百人一首の勉強は一通り終わった。ちょうど1年かかった。この間、彼は、歌の番号、作者、歌を完璧に記憶した。歌の番号、作者、上の句、下の句を自在に取り出すことができ、私をはるかに凌駕してしまった。長い作者名、例えば、法性寺入道前関白太政大臣のどのよう記憶するかと言えば、音で覚えるので漢字は書けないと言う。役者が台詞を覚えるようなものですよと謙遜する。歌の意味の方も日本人並みに理解している。「憂し」とか「恨む」とかは、口語でも英語でも訳しにくいのであるが、いくつかの歌に出てくるので、そのニュアンスを直接感得しているようである。序詞、掛詞など修辞法も説明すれば容易に理解できる。
日本の詩歌は外国人には理解できないというのは、全く偏狭な日本人の思い込みに過ぎない。(漢詩や英詩を愛する日本人がいることを考えれば容易にわかるはずだが・・・)

私自身、大変勉強になった。
百人一首は、古今集から新古今集に及ぶ八代集と新勅撰和歌集、続後選和歌集の10の勅撰和歌集、約1万2千の歌から選ばれている。膨大な歌からさらに名歌を厳選するという動きは以前からあり、岩波文庫『王朝秀歌選』は「百人一首」に至る7つの秀歌選集を収め、その様子を伝えている。膨大の詩歌の選集「詞華集」に注目したのは、丸谷才一で、彼の文学史『日本文学早わかり』を詞華集という観点からまとめている。
この文学史の書き出しは、イギリスの詞華集『ゴールデン・トレジャリー』とか『オックスフォード英詩選』に見合うよう詞華集が日本にないことの不思議から始まり、詞華集の持つ文化的意義につき考察している。そして、日本の勅撰和歌集に至るのである。我々は、かって巨大な文化的鉱脈があったことを知る。「百人一首」はその小さな入り口に過ぎないことも。
外国人と一緒に読んでいて、日本人でありながら、日本のことをあまりにも知らな過ぎることを痛感させられた。
Pさんとの「百人一首」の勉強はもうしばらく続く。

 

  
   

百人一首(13)

百人一首を読んでいて感じたこと:
第一は、作者のことをほとんど何も知らないことだった。例えば小野小町しても、何も知らない。田辺聖子の『百人一首』は優れていて、小説家らしく作者像を巧みに浮かび上がらせているので役だった。江戸時代の『百人一首一夕話』のエピソードも時々利用してPさんからの質問に答えたが、端的に言えば、私は王朝文学に無知だということを思い知った。
第二は、なぜこの歌人が、なぜこの歌が選らばれたかと不思議に思った。同じ歌人で、もっといい歌があるのにと浅学の私にもわかることがしばしばあった。選歌の謎を、歌に繰り返し出てく「紅葉」「あり明け」「月」・・・・など言葉のレベルまで下げて追及する織田正吉(『百人一首の謎』など)がいるが、面白そうだが少しオタクぽっくって、また、付いて行く時間もなかった。
第三は、それでは王朝和歌の代表作を選んだらどうなるか?この世界に沈潜した丸谷才一は自ら選んで『新々百人一首』を編んだ。『百人一首』と同じものを選べないから、和泉式部では、「あらざらむ この世のほかの 思い出に 今ひとたびの 逢うこともがな」に代え、「黒髪のみだれもしらず打伏せばまずきあげしひとぞ恋しき」を採用している。驚いたことに、私の知っている歌は1割くらいで、初めて知る歌が殆どである。つまり、私は、王朝和歌の世界をほとんど知らずして、年を取ったと思い知った。
第四に、一見紋切り型の、余り深い意味もなさそうな歌にしても、良く味わえば、鋭い感覚と深い情緒が含まれていることがわかる。鑑賞する側の能力に問題がある。

ここには、大きな文化の鉱脈が眠ってる。漢詩や英詩に目を奪われて、忘れかけていた、最も日本的な美意識の世界へ連れ戻してくれた。

 

  
   

百人一首(14)

Pさんとの百人一首の勉強は、彼の英訳を順次チェックする形で続いている。例えば、こんな風に進む。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも  安倍仲麻呂
Pさん英訳:
When I gaze up into the sky
I wonder if the moon
Is also rising
Over Mount Mikasa at Kasuga

私:「天の原」は広々としたイメージなんですがね。
Pさん:skyをheavens(複数形)に変えましょう。「天」のイメージも合って良いかもしれません。
私:「出し」の「し」は過去を表す助動詞で、17歳で入唐した仲麻呂が、30年後、日本に帰る際に、昔を想って詠んだ歌ですから、現在形はおかしい。
Pさん:Has also risenと直します。
こんな風にお互いの理解が深化する。
韻律組織の異なる言語では詩歌の翻訳は不可能で、原詩の持つ風韻、風味が翻訳によって失われる。百人一首の英訳で身近に参照できるものでは、William N. PorterとMacMillan Peterのものがあるが、翻訳は英詩として、脚韻を踏んだり、原詩にない言葉を付け加えるので、その可否は別にして、Pさんの態度は異なる。Pさんは元の言葉の意味を、漏らさず、付け加えず英語に移すということに専念する。掛詞など英訳不能なものは、noteで説明するという態度である。

これやこの行くも帰るも分かれては知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸

This is that barrier at Osaka
Where people come
And people go
People I know and people I don't
Set off and meet   (Pさんの英訳)

 逢坂の関で「逢う」が掛詞となっているのだが、英訳では表せないので、noteを付けないといけないと彼は思っている。

お互いに楽しみながら、既にい50首の検討を終えた。

 

  
 

百人一首(15)

Pさんは百人一首の英訳に当たって、歌の意味を出来るだけこぼさずに英語に移すこと、韻律の無理な模倣や英詩としての創作を行わないことをモットーとしている。元の歌の調べというものが失われるのだが、独特の発想や調べを持っているので面白いものが多い。その例を一つ:

How can I forget you ?
"That's right"
Whispers the rusting bamboo grass
Spread out below Arimayama
Blowing in the wind     Daini no Sanmi

有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする 大弐三位

倒置して訳されているが、「いでそよ」がうまく訳されていて感心した。
blowは自動詞、PODにmove as wind doesとあります。沢山の笹の群れが風にそよいでいるというイメージはイギリス人には馴染みがなく議論した。grassは集合名詞で文法上は単数、「猪名」という名は英国人に全く意味がないので省略したと言う。
私には英訳によって失われているものが良くわかり、それの部分が日本の詩で、上の句が「そよ」に大きく響いていることは、外国人には説明しにくい。