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天寿まっとう官

 

  本作品は「第三回銀羊小説大賞」応募作品です

銀羊小説大賞 特別賞

天寿まっとう官

 ウタは襟裳岬の展望台に立っていた。
 彼の目の前には太平洋が広がっていた。絶えることのない強烈な風が、眼鏡を吹き飛ばそうとした。
 襟裳岬はただの海岸絶壁じゃない。北海道の背骨にあたる日高山脈と海の接点。まさにここから北海道の山々が、海底へと潜っているのだ。数百メートルもの長さの赤茶けた岩峰が、陸から海に長く連なっていた。まるで潜水艦が急角度で海中へ没していくようだ。
 ユウタは展望台の柵から身を乗りだした。眼下遥かに、赤と黒のゴツゴツとした岩肌に囲まれた小さな入江が見えた。
 高い。ものすごく高い。クラッとくる高さだ。波打ち際の白い飛沫がジオラマ模型のようだ。大気は雨上がりのように澄んでいて、打ち上げられた昆布まで見分けることができた。
 襟裳はとにかく風が強い。岬に来る途中の荒野には、巨神のような風力発電機がいくつもプロペラを回していた。
 ユウタは北海道の様似町に住む高校生だ。様似町は襟裳町の隣町だが、50キロ近く離れている。彼は自転車でやってきた。
 彼の頬には真新しい傷があった。
 昨日できたばかりの傷だ。しかし傷の痛みなど、もうどうでもよかった。彼は長い間迷っていた悩みに決断したのだ。


 ……今日ここで死のう……


 死のうと思ったら、それはそれで悩みと化した。どうせなら痛くない死に方がいい。首吊りは辛そうだし、海に入って溺れるのは苦しそう。毒なんて近くにないし、手首を切るなんて問題外だ。
 高いところから飛び下りるのが、一番てっとり早そうに思えた。しかしいかんせん北海道の田舎のこと。飛び下りて確実に死ねそうな高い建物などなかった。思いついたのが襟裳岬だった。
 ここで飛び下りて死んだら、ひょっとして幽霊になって、観光客を驚かせるかもしれない……なんて、妙な連想までしていたら、ちょっとだけ愉快な気持ちになった。
「なに考えてるんだ僕は……」
 ユウタは無意識に頬の傷に触れた。
 

「ユウタくーーん。お小遣いはもってきてくれたかなぁ?」
 幼なじみの勝也がいやらしい笑いを浮かべながら言った。勝也は、春に苫小牧から転校してきた工藤と仲良くなってから、急にユウタをいじめ始めた。彼に金をせびり、面白半分に殴りつけてきた。
 一度お金を渡してから、歯止めが効かなくなった。勝也は工藤といっしよにユウタの部屋に勝手に上がり込んで彼に暴行を加えた。
 逃げ場すらないユウタは、逆らえずにズルズルとお金を渡した。
 お金は母のサイフから盗んだ。ある日それがばれて激しく怒られた。理由を問い詰められて、彼はなぜか嘘をついた。
「僕は大学に行きたいんだ。だから勉強を教えてもらうのにお金を払ったんだ」
 嘘にもなっていない嘘だった。
 両親は怒り彼を叱った。次の試験で結果を出してみろ、と言った。
 そしてとうとう勝也の恐喝も白状させられた。両親は学校にねじ込んで勝也は停学になった。怒った勝也はユウタを殴りまくった。
 ユウタがそのことを先生に言えば、勝也は退学になるかもしれない。でも彼は幼なじみなんだ。ユウタは我慢した。
 そして親への嘘に応えて、試験で結果を出す自信もなかった。
 自分はなにをしたいのかわからなかった。ひどく受け身で、それでも自分がかわいそうで。
 死んでみせることが、自分を他人に認めさせる勇気に思えてきた。
 ひょっとしたらこんなことで死のうと思うのは、バカなことなのかもしれない。でも本当にそれ以外に答えはない、と思えてしまった……。


 ユウタは岬の展望台と駐車場を、もう四回も往復していた。
 岬の断崖絶壁を下見して、駐車場で心を落ちつけて……
「……つぎだ……いくぞ。次に岬にあがったらいくぞ……」
 だんだん勇気が湧いてきた。
 飛び下りる勇気。そんなものがあるのかわからなかったが、次は飛び下りられる気がしてきた。
「だいじょうぶだ。いくぞ……いくぞ……!」
 キキキーーーィッ!
 目の前で真っ赤なスポーツカーが急停車した。
 バン! と、勢いよく左ドアが開いて、小柄な女性が降りてきた。
 紫色のサングラスをポイ、とシートに投げ捨てて、ショートの髪をなでつけた。
「こら少年! 天下の駐車場のド真ん中で、なにを拳握りしめてるのさ。美しい私を交通刑務所でランニングさせたいわけ?」
 純白のスーツに、赤や黄色がふんだんを使ったスカーフ。ツヤツヤとしたブラウンの髪にきらきらと太陽を反射する指輪。
 観光地には、およそ不釣り合いな恰好だった。
「…………」
 驚いて言葉もないユウタにさらに悪態が続いた。
「冗談じゃないわよ。私の美貌を塀の中で時間消費するなんてアモンも真っ青の罪悪だわ。時間単価四万円で君に請求しちゃうぞ。っっって、聞いてるのか少年!」
 彼女に続いて、右のドアから……助手席から、真っ黒なリクルートスーツに身を包んだ黒髪の女性が出てきた。さきほどの女性よりもずっと背が高い。長い髪を後ろで一束にまとめて、黒縁の眼鏡をしていた。
 芸能人とマネージャーといった風情の二人だった。
「なにここ。すごいわね。ひどい風ね。しかもものすごい空の色。ほんとうに日本なの?」
 高そうなスーツの女性は、すでにユウタへの興味を失ったようすだった。喜んでいるのか怒っているのかわからない口調でまくし立てながら、ユウタの前を通りすぎていった。
 彼女は、さっさとおみやげ物屋さんに入っていくと、チャキチャキ動きながら試食品を片端から口に放り込んでいった。
「あ! あったあった。ねえ、ベッキー。あったわよ。「アシカの卵」。食べよーっ。おばさん。これひとつちょうだいね。あっ、すぐに食べるから包まなくていいわ。あら。これなに? やだ、ちょっと。おいしいじゃないこれ。漬物? まあ。おいしいわ」
 ベッキーと呼ばれた黒髪の女性は、ニコニコしながらゆっくりと売店に入っていった。
「ひかり。そんなに買ったら重いですよ」
「しまった。そうね。どうしよう。あ、ちょっとそこの少年」
 ユウタは視線があってしまった。
「そう。あんたよ、あんた。ウェルテルみたいに苦悩してる自殺志願の君よ」
 ユウタは心を見透かされた気がして凍りついた。
「ねえ、このお土産持ってくんない? 悪いわね。君は地元? 私、おなか空いたのよ。ここはなにがおいしいの? お寿司はもういいわ。北海道に来てからお寿司ばっかり食べてたから。ソフトクリームもなしよ。お腹にグッとくるものじゃなきゃダメだからね」
「は……えっ?」
 すごい勢いでまくしたてられて、ユウタは頭が真っ白になってしまった。
「ラーメンとかないの? あ、あるじゃない。襟裳ラーメン? おいしいの、これ?」
「は、はい……たぶん」
「なんだ。食べたことないの? まーー、いいわ。食べよ。いらっしゃい」
「えっ? 僕もですか」
 170センチのユウタと同じくらいの身長のベッキーが、彼の横に来て言った。
「ひかりの奢りです。せっかくですからいただきましょう」
「おじさーーん! 襟裳ラーメンみっつね」
 ひかりはユウタの返事など待たずに注文していた。


「おいしかったーーーっ!」
 スーツの上着を振り回しながらひかりが言った。
「すごいツブだったわね。海草も生々しくておいしかったし。なんてったって目の前太平洋だもんね。さっ、展望台に行こう!」
 彼女の荷物を持たされたユウタは、展望台までの上り坂を上がっていった。
 

「やーーっ。いい眺めね。みごとになんにもないわ」
 ひかりは心の底からうれしそうな声で言った。
「で、ユウタはなんでこんなとこまで一人で来たの?」
「ちょっと……」
「ふうん。そうか。まーーいいや。ねえ、ここからの眺めって、本当にすごいね」
「そうですね」
「うーーーんっ」
 ひかりは大きく伸びをした。健康的な首筋が太陽を浴びて白く輝いた。
「気持ちいーーねーーっ」
 ユウタはドキドキしながらうなずいた。
「やっぱ生きてるって最高だわ」
「…………」
 ポロリ、と涙がこぼれた。
「あ……」
 ユウタはあわてて、手の甲で顔をこすった。いくら年上だからって、女性の前で涙を見せるなんてできない。
「ユウタ」
 ベッキーが言った。
「あなたの夢はなんですか?」
「ぼ、僕の夢……ですか? いえ、夢なんて……生きてるなんてつまんないですよ」
「えーーーっ!? なに言ってんのよ、この子。信じらんない」
 ひかりが驚いた顔で言った。
「だって……毎日まいにち当たり前のことばかりで。いやなことがあっても我慢するだけだし……なにをしていいかわかんないです」
 ひかりはベッキーに肩をすくめてみせた。
「わかった。ユウタ。私が楽しませあげるわ」
「えっ?」
「やだ。この子、えっちなこと考えてない?」
 からかわれてる! ユウタはカッと顔が熱くなった。
「嘘うそ。冗談よ。悪かったわ」
 ひかりはユウタの顔を両手で、パンッと挟み込んだ。
「ユウタ。あなたに奇跡ってヤツを見せてあげるわ」
「えっ?」
「驚かないで聞いてね。私は魔法使いと契約してるのよ」
「…………」
「願い事をね。みっつまでかなえてもらう約束なの。もうひとつは使っちゃったんだけど。あとふたつもあるんだ」
「は、はあ」
「あなたのためにふたつめ願いを使ってあげるわ」
 ユウタはひかりの励ましがうれしくなって話しをあわせた。
「本当ですか? ひとつめのお願いってなんだったんですか?」
「宝くじににあたることよ。外国の宝くじで10億円。すごいでしょ? 意外と使い切れる額じゃないってことが、自分のものになってからわかったわ」
 ベッキーがやさしく笑いながらつっこんだ。
「だってひかりったら、おみやげモノくらいしか贅沢しないんだもの」
「そーーなのよ。「白い恋人」じゃ、何百円だもんね」
 ユウタは彼女たちのいい加減な会話にうれしさ半分。少しずつ腹が立ってきた。なんだか遊ばれているような気がしたのだ。
「あなたたちも僕をいじめて楽しいんですか」
 ひかりはちょっと驚いた表情を浮かべたあと、にまあぁーーーっと笑った。
「その意気よ。みっつのお願いは冗談として。あなたにわかりやすい奇跡を見せてあげる」
「僕にわかりやすい?」
「私がね。襟裳岬を飛んでみせるわ」


 ひかりはユウタとベッキーを展望台の先端に待たせると、足場を確かめるようにあちこち歩きはじめた。なにかブツブツ言いながらしきりに手を振り回していた。
 黒い服のベッキーが、申し訳なさそうに言った。
「ユウタ。驚かないで聞いてください」
「はい。ベッキーさん?」
 ベッキーは長いまつげを伏せながら言った。
「私は死神なんです」
「し……にがみ……ですか?」
 奇妙な単語に、なんとリアクションしていいかわからなかった。
「見てください」
 ベッキーの姿が奇妙に歪んだ。
 それは冷たい静止の波動だった。
 いつか見た犬の死体のような硬直の世界。
 彼女のきれいな顔の奥底から、白く青い気配が、ぞわりとユウタに迫った。
「……はっ……」 
 ユウタは息を呑んだ。
「これがあなたの望んだ死の姿です」
 ユウタは無意識に退いた。
 それは本能が逃げろと命令する恐怖だった。
 自分の身になにが起きようとしているのか。死ぬということがどれほど大変なことかが、突然リアリティを持って迫ってきた。
「そしてひかりは。彼女は天寿まっとう官です」
「てんじゅ……?」
「はい。ユウタ。あなたの寿命は、あと21年です」
「に、にじゅういち……ですか?」
「はい。あなたは36歳で亡くなります。死因は知りません。それまでにあなたがどのような人生を送るのかもわかりません」
「……僕は結婚するんですか? 子供とかもできるんですか?」
「決まっていることは、あなたが36歳で死ぬことだけです。それまでの間にあなたがなにをするかを誰が決められますか?」
「か、神様とか……運命とか……で、決まっているんじゃないんですか?」
「そんな強力なことわりを管理する存在はありません。あなたの人生を決めるのはあなただけです」
「…………」
「と、言葉で言ってもなかなか信用していただけないので、ひかりのような天寿まっとう官は、とても苦労します」
「あの人の仕事って、いったい……」
 ベッキーはにっこりと微笑んで言った。
「いま、あなたを死なせないことです。そのために彼女はあなたに奇跡を見せようとしています」
「……奇跡……」
「彼女が行う奇跡を見てください。そして感じてください。生きることのすばらしさを。世界の美しさを。二度と見ることのない奇跡というものを」
「…………」
 ベッキーはユウタの手を握った。彼女の冷たい手から、不思議な力が流れ込んできた。
 ひかりの回りには、たくさんの観光客がいた。
 8月だというのに、低い気温ととんでもない強風のために長居をする人は少ない。老若男女、様々な世代の人達が入れかわり立ちかわりしていた。
「……すうっ……」
 ひかりは大きく息を吸い込んだ。
 紺碧の海とどこまでも真っ青な空。まるで自分が大地の一部になって、海に突入していくような気持ちになった。
 岬の先端。岩の峰が海に没する境界線が彼方に見えた。そこはわずかばかりの浜になっているようだ。
 ひかりは決めた。あそこに降りよう。


 ひかりは展望台の端まで戻ると、海にむかって全力で走りだした。
 ぐんぐん柵が近づいてくる。向こうには空しか見えない。
「やっ!」
 飛んだ!
 水平線が見えた。地球が丸い。雲が……少しだけあった……
 下を見た。
 ひかりの足の下には大きな空間があった。
 赤い北海道の背骨がすごい勢いで流れていく。
 ゴッ! と風が顔に吹きつけた。
 ユウタの視界がひかりとシンクロした。
 空を飛んでる。
 両手を高く振り上げて、足を後ろに蹴り上げて。弓なりに全身をたわませて、襟裳の空を飛んでいる。
 ユウタの下を数百メートルの大地が流れていった。
 色鮮やかな草と海と大地がブッ飛んでいく。
 見るみる海が近づいてきた。岩は海に潜りはじめ、岬の先端が近づいてきた。
 すごい速さで落ちていくのがわかる。
 北国の冷たく澄んだ空気が、全身から古いなにかを引きはがしていくかのようだ。
 髪はセイレーンのように吹きちらされているだろう。なにもないように見える空中に、これほどたくさんの空気があることの不思議。
 ユウタは必死に眼をあけた。すべての光景を見つづけたい。
「ああああああっ!」
 浜がどんどん近づいてきた。
 小砂利の上には、干された昆布がいっぱいだ。
 落ちる!
 ユウタは着地に備えて足を前に出した。
 地面がすごい勢いで流れていった。
 ざがっ!
 すごい音がした。両足首まで浜の子砂利に埋まった。
 じーーーーんっ。
 痺れるような衝撃が全身に広がっていった。
 着地の瞬間、思わず閉じてしまった眼を片方ずつ開けた。
 だいじょうぶだ。自分の足で立っている。
 無事に降り立ったんだ。
 ゆっくりと立ち上がった。そして後ろを振り向いた。
 真っ青な空が広がっていた。そそりたつ襟裳岬の峰が視界を圧倒した。
 すごい高さだ。
 さっきまでいた展望台が、遙か彼方に見えた。
 あそこから飛んだんだ。
 おなかの底から震えがこみ上げてきた。いまになって興奮してきた。
 ものすごい感動。
 足元が波に洗われて冷たかった。
「……え……?」
 ユウタは浜辺に立っている自分に気がついた。
「なんで? 僕がここにいるんだ」
 展望台では観光客が彼を指さして大騒ぎしていた。管理人と警官が大慌てで峰を駆け降りてきた。
 展望台からは、ひかりがジャンプしたんじゃないのか?
「……まさか……飛んだのは僕?」
 ユウタの奥底から、強烈な力がこみ上げてきた。
「わあああああっ!」
 ユウタは空にむかって絶叫した。
 身体のなかに残っていた超常の力が、金色の光となって口からほとばしった。
 やがて光は蝶の鱗粉のように、とぎれとぎれとなり消えていった。
「…………!」
 高い空のどこかからベッキーの声がした。
「ユウタ。21年後に逢いましょう」
 彼女は包み込むような優しい声で言った。
「次は私の仕事です」
 ひかりが彼に笑いかけた。
「ユウタ。あなたの生きる時を楽しみなさい」
「ひかりさん……」
「21年後が楽しみよ。人生をまっとうしてないと、私はあなたを死なせてあげないからね」
「……ありがとう……」
 襟裳の空をひときわ強い風が吹き抜けた。
「……ひかりさん……ベッキーさん!」
 しかし応えはなかった。
「もう……もういないんですか?」
 次に逢う時。ユウタが死ぬとき。
 でも、胸を張って会いたいと思った。どんなに豊かな人生を歩んだことか。
 彼女たちとお酒でも呑みながら自慢したいと思った。
 彼女たちは、きっと次のだれかのところにいったんだ。
 でもまた逢える。
 いやというほど語ってあげる。
 マイウェイでもカラオケしながらさ。
 楽しみにしていて。
 自慢のタネをいっぱいつくるから。
 語るのに、僕が生きた時間と同じだけかかるほど。
 また逢おう。
 優しい死神と、熱い天寿まっとう官。
 

 ……ありがとう……。



 

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