恋するたくさんの気持ち
信じられないほど簡単に私の結婚は決まった。 たった一度のお見合いと三回のデート。 相手の男性は四つ年上の二十八才。 小さな会社で働く平凡な男。ハンサムでもなくデブでもハゲでもない。趣味はポップスとドライブだという。スポーツは嫌いだ。 なんてつまらない男。デートをしていても十分ごとに会話がとぎれる。話題があまり合わない。しかもキスしかしていないのに私は来春結婚する。この男の妻となり、いつか彼の子どもを生むのかもしれない。 「千鶴さん。どうもお待たせしました」 四回目のデートだというのに遅刻してくる奴。息咳ききって走ってきたふりをしてる。どうせ今日のデートだって食事をして、ちょっとお酒を飲んで帰るだけ。 「いやあ、結婚式を上げるまでは、きちんとしておかないとご両親に申し訳ない」 ほら、そんなことを言って、フレンチキスだけで門限に間に合わせようとする。私は高校生じゃないのに。私たちは結婚しようとしているのに。 「徹さん……私、すこし酔っちゃった」 「おっ、いかん。大丈夫ですか? 気持ち悪くないですか? ああっ。僕のせいだ」 他に言いようがないの? 誘ってるのがわからないの? 女の私からよ? 「ううん、へいき……ごめんなさい」 私たち。お互いを知らないままで結婚してしてしまって本当にいいの? 「いやあっ。千鶴さんといるだけでうれしくって。ついつい調子に乗っちゃうんです。僕」 童顔を破顔させて徹は笑った。 「だって、こんな美人と結婚できるなんて夢のようだ。千鶴さんの写真を会社で見せたらみんな羨ましがって」 店を出たエレベーターホールで、徹はやさしく唇を重ねた。そして照れたように笑った。
次の週末、徹は出張でいなかった。私は徹とデートしたワインバーに一人で行った。少しでも今の自由を楽しんでおきたかった。グラスワインを、もう三杯も空けたろうか。少し酔いの回った私は、そろそろ帰ろうかとカウンターの店員に声を掛けた。 「いいですよ。僕の奢りです。金谷さん」 「えっ?」 自分の名前を呼ばれて驚いた。私は若いバーテンダーの顔をしげしげと見つめた。二十歳そこそこの茶髪の青年だ。若い娘にもてそうなジャニーズ系の明るい顔立ちをしていた。 「結婚されるんですよね? 先週なんとなく聞いちゃって。僕からのお祝いです」 「えっ、ええっ。ありがとうございます」 私と徹は恋人同士に見えるのか、と複雑な気持ちになった。まだ愛撫も知らない恋人。 「やだなあ先生。本当に僕のこと覚えてないんですか? ほら教育実習のときに、先生のクラスだった鈴木です」 「鈴木……君?」 思いだした。高校に教育実習に行ったとき、クラス委員長をしていた鈴木君だ。 「えーーっ。本当に鈴木くん? 信じられない。わあっ、すごい。いまなにやってるの? 偶然ねえ。元気だった?」 「専門学校通ってます。みんな元気ですよ。クラス会じゃいまでも先生のことが話題になるんですよ。元気で綺麗な先生だったって」 「いやだぁ! もう三年も前じゃない」 私は楽しかった学生時代を思い出した。 「男子生徒のアイドルだったから。みんな憧れてたし。知ってました?」 「アイドル? 私が? ああっ、おかしい。信じられないわよ。そんなの」 私はひさしぶりに心の底から笑った。 「本当ですって。僕なんて先生にラブレターまで書いたんですよ。マジで」 「なんですって? いまごろ言っても遅いわよ。あのとき欲しかったな。ねっ。なんて書いたの? おしえてよ。いいでしょう」 私は身を乗り出して問いつめた。彼は少し困ったように私の眼をみつめたあと、両手を口の横にあてて、内緒話しのポーズを取った。 「秘密ですよ。怒らないでくださいね」 「うんうん。まかせて。私、口が軽いから」 「…………やらせて……って」 私はばったりとカウンターにつっぷした。 「あははははははっ」 おもわず大きな声で笑ってしまった。これだから男の子って。なんてかわいいんだろう。「先生。今夜は一人なんでしょう?」 鈴木君は、急に神妙な顔つきで言った。 「えっ? うん。まあね。さみしいわ」 私は彼を困らせようと思って、おもわせぶりな仕草でみつめた。誘ってくれるのかしら? でもつき合ってあげないわ。これでも徹という婚約者がいるんだから。 「……先生。すいません。ちょっと店を手伝ってくれません? 相棒が休んじゃって」 ああああっ、なんて子かしら。 ぶつぶつ言いながら、結局私は店を手伝った。どうせ暇だし。教育実習とはいえ、自分の教え子だった男の子の頼みだし。 店は一時までだという。十二時には残った客は一組みだけだった。 「夜中です。恋人は二人きりの時間ですよ」 鈴木君は笑って言った。そりゃそうだ。こんなデート向きのおしゃれな店。カップルで来てなにもしないで帰るのなんて、私と徹くらいなものに違いない。結婚したら徹は私とデートしてくれるのかしら? 恋人同士のように甘い言葉をつぶやいて、優しく愛し合うなんてしてくれるのかしら? 「先生。どうしたの? 悲しそうだよ」 鈴木君が私の肩に手を置いて言った。 「……さっきまでここに座ってたカップルも、いまごろエッチしてるのかな?」 「えっ? そりゃまあ。そういう人たちもいるでしょうけど。どうしたんすか?」 「鈴木くん」 私はほとんど無意識に、彼のきれいな顔に触れた。 「わっ……先生」 「ご、ごめんなさい。私……」 私は自分がなにをしているのか突然理解した。 「……先生。だめじゃないですか。そんなことしちゃ。その気になっちゃいますよ」 そう言いながら、彼は私の足元にかがみこんだ。スルッと手がスカートの裾に入り込んだ。 「す、鈴木くん。なにしてるの! やめて」 「しいっ、お客さんに気づかれるよ」 あわててボックスの客に眼を向けると、男性客の怪訝そうな目線があった。 「……や、やめて。お客さんが見てるじゃない。ちょっとやめなさい」 「だから。先生はちゃんと前を向いて立っていてくれないと」 鈴木君はくすくすと笑いながら言った。私はどうしていいかわからずに、されるがままに立ち尽くしていた。彼の指がふくらはぎから足首までを、ツイーーッとなで下ろした。 「…………あっ」 ぞくぞくする感触が尾骨から首筋までを駆け上がった。あのかわいらしかった鈴木君が男だったことを意識した恐怖と、抵抗できない奇妙な状況が私を興奮させた。 がぶっ、とふくらはぎに噛みつかれた。 「ひっ……やめ……」 私はたまらなく切ない気持ちになった。 「か、感じないわよ、そんなんじゃ」 「うそだよ」 彼の長い指が私の手を握った。 「ぜんぜん……だめよ。女の喜ばせ方も知らないんじゃ。やっぱり子どもね」 理性はこんなことはやめさせなければならないと呟いていた。でも私の言っていることは挑発以外のなにものでもない。 「じゃあ先生。教えてよ。生徒にさ」 むっとした口調で鈴木君は言った。明らかに気分を害した乱暴な手付きで右足首を掴まれた。指の跡が付くのではないかという力で足を持ち上げられた。 「す、鈴木くん。なんてこと……」 その瞬間、スッと彼は私を離れた。 「いらっしゃいませ」 お客さんが入ってきた。彼はなにごともなかったようにフロアに出て行った。にこやかにオーダーを取っていた。 私が、ぽーっと熱の残る虚ろな気持ちでいるうちに、彼はてきぱきと飲物を作り、注文のオードブルを運んだ。どうして男ってこんなに簡単に切り替えられるんだろう。 「ありがとうございました」 最後の客が帰って行った。 「おまたせしました。先生」 まだ眼がうるんだままの私を見て、鈴木君は余裕を取り戻した。 「じらしちゃった?」 「な、なに言ってるの。だめ、やめて……」 鈴木君の顔が近づき、たっぷりとキスをされた。長いため息といっしょに唇が離れた。 「私ったら……なにやってるんだろう……」 なぜか涙がこぼれてしまった。小さな子供のように、ポロポロと大粒の涙がとめどなくあふれ続けた。 「先生……」 それに気がついた彼は、少しだけ驚いたようすで私の涙を見つめた。そして優しく抱きしめてくれた。 「………………」 私は自分でも信じられないほど素直に彼に抱かれて泣いた。顔を埋めた彼の胸に、私の涙があとをつけて流れ落ちた。 たくましい男の胸を自分の涙が濡らしていく。……そんなことを考えたとき、たまらなく自分自身がかわいそうに思えた。涙が止まらなくなってしまった。 「ごめんなさい。調子にのっちゃって」 彼は小声で謝った。震える私の肩に柔らかい唇を押しつけて、そして頬ずりをした。 「……先生を傷つけるなんて思わなかったから……すいません。やっぱガキなんすね」 少しだけおろおろした様子で、彼は言葉を選んでささやいた。その手は私を刺激しないように、体に直接触れないでいた。 なんて優しい子。ちょっとエッチだけど、女の子を気遣う素敵な気持ちを持った、とても良い男の子。女の子なら誰でも好きになるに違いない。 「……僕。先生にキスできるなら靴でも舐めちゃいます」 なんてこと言うの。この子ったら。これ以上恥をかかせないで。死んじゃうわ。私。 「……鈴木くんったら変態だったの?」 「先生だから……」 彼は私の乳房に顔を埋めてささやいた。熱い吐息が敏感な肌を愛撫した。 「……ん……」 きゅん、と体の芯が切なくなった。 彼は吹き出しちゃうほど情けない表情を私に向けてつぶやいた。 「まいったな……僕のこと嫌いですか?」 私を下から見上げるその顔のなんて哀れなこと。畏れと後悔でいまにも泣き出しそうな、かわいそうな男の子。 「……ばかね。女に言わせないで……」 後悔したばかりのはずなのに私は彼を誘っていた。年上の女の余裕を演技して彼を困らせていた。 「先生! 先生。好きだ!」 息が止まるほどの抱擁に私は振り回された。 「……先生。ちゃんとやろう?」 「遊び人はキライよ」 「信じないかもしれないけど。僕は童貞だよ」 「嘘つき」 「先生のためならハルクにもタキシード仮面にもなれるよ」 彼は私を抱き上げた。それほど体格差があるわけではない。よろめきながら懸命に踏みとどまった。 「重いわ」 「羽みたいに軽いよ」 「世界一の嘘つきね」 「キスしたいよ」 「……うそ……」 「世界一の正直者でしょ?」 「私の前ではずっと正直だって誓える?」 彼の指が私の唇に触れた。 「……キスしたいよ……」 「正直だわ……」 私たちは長い甘いキスをした。 窓ガラスに写るふたりの姿が、とても印象的だった。 どうして服を着ているのかといぶかしむほどに。
私は会社をやめた。人生を掛ける結婚に妥協できない。そして専門学校にかよい始めた。徹には良い妻になるために様々なことを勉強したいからと言って。 そして結婚式を一年延期した。 「先生。今日もキスだけ?」 私の車の助手席で鈴木くん言った。 「ダ・メ……私に手を出したら結婚しちゃうわよ」 そして彼とは昼間に堂々と逢っている。ちょっと胸がうずくけど、みんな徹が悪いのよ。
了
・ 本作品は「結婚するの」の非官能版となっいます。 18歳以上でご興味のある方は「結婚するの」も、どうぞよろしくお願いいたします。
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