生える白い手
月崎第二中学には、昔から幽霊がでるという噂が絶えなかった。 生徒たちの間では、数多くの幽霊の由来がまことしやかに語り継がれていた。。 体育館の立つあたりが、かつては墓地だったからだとか、試験を苦にしてトイレで自殺した女生徒がいた……などなど。 ありきたりであるがゆえに、そこを生活の場とする生徒たちには、反論のしようのないリアリティがあった。 生徒たちは、在学中も卒業後も、幽霊の話しをするときには強い一体感を感じて満足した。 なかでも有名な話しにこんなものがあった。
「夕日が射し込む放課後の便所は危ない。暗い肥溜めの底から、白い手が現れて太股を掴む」
「それが現れるのは、便器の奥や、手洗いの排水口。壁板の節穴だ。穴のあるところから現れるらしい。手は、まるで飾り物のような何気なさで突き出しているのだ」
木造の校舎風景を彷彿とさせる描写は、時代を感じさせた。水洗で清潔な現代のトイレからは、およそイメージしがたい怪談だ。しかしなぜか生徒の間には、繰り返し目撃者が現れる人気の逸話だった。
亜希子と幸枝は、夕暮れの迫った放課後の校舎にいた。定期試験が終わって、ほっとした空気が流れる校内は、いつもよりも生徒の帰りが早かった。 上がり性の幸枝は、試験の緊張でお腹をこわしていた。 外はもう夕暮れだ。開け放たれた窓からは、昼間に用務員さんが刈り取った雑草の青い香りが流れ込んでいた。 低くなった太陽は、オレンジ色の強い光で、周囲の影を濃くしていた。 まだ四時すぎだ。時間的に明るいとはいえ、いわくつきの校舎にいつまでもいるのは気持ちのよいものではない。亜希子はトイレの中の幸枝に声をかけた。 「ねえ、まだぁ? 幸枝」 「……うん……まって……」 用をたしている時に話しかけられるのは最低だ。亜希子は少し反省して黙り込んだ。 試験の緊張で、この三日間ずっと辛い思いをしていた幸枝は、亜希子の心遣いがうれしかった。
幸枝はやっと落ちついた。もうおなかも痛くない。帰りに亜希子と甘いものでも食べようかと考えていた。パンティに手をかけて立ち上がろうとしたとき、彼女は太股に違和感を感じた。 「えっ?」 なにか生々しい感触が肌をかすめた。 それは他人の身体が、素肌に触れたようないやらしい感触だった。 幸枝は恐るおそる下を見た。 そこには白い手があった。 少女の白い手が指をくねらせていた。 「な……に……?」 あまりのことに幸枝の思考は止まった。自分の手がどこにあるのかと、およそ解決にもならない考えが頭をよぎった。 さわり…… 白い指は、ひどく優しく太股の産毛を愛撫した。 「きゃああああっ!」 幸枝の悲鳴がトイレを凍りつかせた。 「ゆきっ……」 驚いた亜希子は、トイレの扉に駆け寄った。 その瞬間、扉が弾けるように開いた。 「うっ」 亜希子は息を呑んだ。 黒い影が走りだしてきたのだ。 獣……? それは、四つ足で走った。 相撲の立会いのような大股開き。 巨大な蜘蛛のような速さで亜希子めがけて走ってきた。 怪物が獲物に飛びかかるように、黒く長い毛を吹き散らしたそれは顔を上げた。 亜希子は眼をそらすことができなかった。 それは、低い姿勢から一気に立ち上がった。視界いっぱいに広がる女の姿。 白い手が左右に伸びた。指がヒトデのように広がって亜希子に襲いかかった。 怪物は歪んだ大きな口から言葉を漏らした。 「たすけてええっ」 亜希子の耳元で、女はしゃべった。 「たす……け……てえ……」 押し倒された亜希子の喉に、塊のような悲鳴が詰まった。 「あきこ。亜希子ぉ」 「……えっ……な、なに? ゆきえ……?」 亜希子は自分の名を呼ばれていることにやっと気がついた。必死の思いで眼を開き、自分の横に倒れた女を見た。 それは幸枝だった。 「ゆ、ゆきえ。なきえなの? どうしたのよ!」 幸枝はゆっくりと顔を上げた。 幸枝だ。間違いなく幸枝だった。 真っ白な顔色の彼女は、口もとをわななかせながら言った。 「て……手が……手があたしの……」 「手が出たの? あのお尻を撫ぜるっていうヤツ?」 幸枝は声も出せずに、激しく首を縦に振った。 「だ、だいじょうぶよ。もうなにもいないわ」 しかし幸枝は身を堅くしたまま狂ったようにかぶりを振った。 亜希子は幸枝の肩を抱きしめながら、トイレの中を覗き込んだ。 しかし個室のなかには不気味なものはなにも見えなかった。 「ゆ、幸枝。だいじょうぶだって。もうなんにもいないってば」 「い、いや……いや……まだいるの……まだ私のお尻を触ってる……」 幸枝はがたがたと震えながらすがりついてきた。 「なに言ってるの……」 笑いかけようとした亜希子は、幸枝のスカートを見て凍りついた。 スカートが、もぞりと動いたのだ。 足のあるべき位置ではないところが、ゆっくりとうごめいた。 「……ま、まさか……そんなわけ……」 「亜希子。亜希子!」 幸枝は絞め殺されそうな声を振り絞って涙を流した。 亜希子はとりつかれたように眼を見開いた。そして震える指先を伸ばして幸枝のスカートを掴んだ。 にゅっ、と白い腕があらわれた。 蛇が鎌首をもたげるような、とても自然な動きで指をひらめかせた。 風呂上がりの上気した色気にも似た、しとやかな動きだった。 幸枝が悲鳴をあげた。 「やだやだやだッ……!」 亜希子は意識が遠のいていくのがわかった。 「……うそ……うそでしょ……」 四肢の先端が冷たく冷えていった。視界にもやがかかったように、すべてが遠ざかっていった。 指先はふたたび幸枝の太股を愛撫し始めた。 学校が語り継ぐ白い腕に違いなかった。 女のものらしい白く細い上腕部。それは亜希子を無視して、幸枝だけを悦ばせようとするかのように指を走らせた。 「ひっ……ひ……ひぃ……」 亜希子は、悲鳴を上げつづける幸枝を抱きしめたまま凍りついた。 動けない。なにも考えられない。 「ゆ……き……え」 薄れゆく意識の中で、亜希子が最後に見た恐怖。 白い腕は幸枝のお尻の穴から生えていた。
了
|