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見えないものをほろぼす力

 

 

見えないのもほろぼす力

 ハンの国レエク市。
 そこはかつて流通都市として発達をとげ、栄華をきわめた。
 気候にもめぐまれ、人々は新しい街の建設に情熱を燃やしていた。
 しかし経済政策の変更にともなう企業群の撤退により人口の流出が続き、ついに昨年の三月をもって市議会はその存在をやめた。
 続く七日、最後の市民が街を去り、レエク市は、二十年間の短い歴史の幕は閉じた。
 その日、人気の絶えた街角に、場違いな装甲着を着た人影がひとり、降り立った。
「ハイ。キリエ。聞こえる?」
「オーケー、アージェー。感度良好よ。地上は良い天気。装甲着を脱ぎたいわ」
「あなたの安全を守るためよ。我慢して。ここからもあなたがよく見えるわ。装備のチェックを行います。チェックデジット……」
 キリエはひとりスハンの地に立っていた。装甲着の観測機器のチェックは、携帯したコンピュータが代行してくれる。彼女自身はなにもすることはない。
 じっと目の前にひろがるレエク市の大通り跡を見ていた。ゴーストタウンと化して死者まで墓から連れ去られたレエク市である。
 誰に見られるわけもないが、無粋な装甲着姿をさらすのがいやだった。キリエはお気に入りのアルジャのコートを装着のうえに羽織っていた。
 鋭く尖った鳥のくちばしのようなヘルメットには、華美な眼球が描きこんである。遠くからは、マントをまとった巨大な鳥にでも見えるだろう。
 ただし、まくりあげられたその右袖からは、およそ不釣合いなアタッチメントサブマシンガンがのぞいていた。凶悪な光を放つそれは、右腕に固定されて、金色に輝く弾帯をくわえこみ稼働状態をとっていた。
 彼女を運んできた飛行船ベンジャミンは、はるか彼方の上空から地上を見守っていた。
 その中では、スタッフたちがキリエの一挙一動をモニターしていた。彼らRSC社は、某シンクタンクの依頼を受けて今回の実験を代行していた。


「実験は簡単なのだよ。レエク市に名高い幽霊名所、チャイコ邸北塀の隙間を調査してほしいのだ」
 依頼主のシンクタンク部長は簡単に言った。
「大通りに面した北塀は、離れの倉庫と一メンツルで接している。その隙間だ。口伝ではチャイコ邸が建っているのは、いまは滅びた先住生物のコロニーがあった場所と伝えられている」
 RSC社を主宰するキリエは、一も二もなくこの依頼を受けた。彼女自身この幽霊話には強い興味をもっていた。
 そもそも彼女の会社は小さい。仕事を選択している余裕もなかった。
「存じておりますわ。一般にはよくある街角伝説と考えられています。でもスハンに住んだことのある人なら、無条件にこの北塀脇話を信じているとのことですね」
「そうです。そこでなにかを見たという人は非常に少ない。しかし、そこを通りかかった人の多くは、理由もわからずに、ひどい不安感を覚えると言います。石造りの塀と倉庫の隙間など、それこそ街中にありますが、ここだけが特別なのです。それと知らずに通りかかった人々にも忘れられない不吉な印象を与えるそうです。思わず誰かに助けをもとめたくなるような、息の詰まる、自分ではどうしようもない災難がそこにある。背筋に寒気が走る。肌が粟立つ。額の皮が張る。あらゆる恐怖の体現がそこで経験できるそうです」
 部長はハンカチでそっと額の汗をぬぐった。
「……失礼ですが、カユネリ部長もおいでになったことがおありですか?」
 キリエは彼の挙動にとまどって聞いた。
「一度でも北塀脇を通ったことのある人は、あとになって幽霊通りの噂を聞いても、納得してしまうそうです」
 彼はキリエの言葉を無視して続けた。
「ああっ、あれか。あれはそういう因縁のある場所なのかと。疑いを抱く余地などありません。わけもわからないまま、指先までしびれる恐怖を味わった人々は、その理由がいかに現実離れしていても……いや……現実離れしているからこそ、逆に安心できるのです」


「ハロー、キリエ。こちらアージェー」
 元気なアージェーの声が心配そうに聞いた。
「北塀は見つかった? いま立っているところから見えるはずだけど。……ヤッホー? 聞いてる?」
「ああ、ええっ。大丈夫よ。まかせて。レエク市のことは、よく知っているから」
 そう、忘れない。彼女はかつてこの街に住んでいた。
 ほんの十二歳のころ。当時は人口の流出も、まだ始まっていなかった。
 街には活気があり、キリエは友人に囲まれて楽しい学生生活を送っていた。
 若い女の子のオカルト、おまじない好きは変わらない。
 中学生だった彼女達は、北塀脇を探検したことがあった。ほんの軽い気持ちで肝試しをするつもりだった。
 しかし、あの体験は一生忘れない。
 春の明るい午後だった。街路樹のウソアカシアは、満開の花を重そうにゆらし、むせかえるような甘い香りをまきちらしていた。
 街に接したアダプ山からは恒例の春一番がふきおろして、高原に群生する北邦タンポポの黄色い花粉を降らせていた。
 学校帰りのキリエ達四人は、アイスクリーム片手に、本当に軽い気持ちで北塀脇をおとずれたのだった。
「おい! そこに近づくんじゃないぞ」
 恰幅のよい、通りがかりの紳士が注意した。彼女達はあわててその場を離れた。
「ばぁか。なにいってんのよ」
 しかし、聞こえないように小声でののしることも忘れない。紳士の姿が見えなくなると、再び四人は、ひとかたまりになって北塀に近よった。
 学校で決意を固め、すっかり興奮している彼女達は、普段になく大胆になっていた。ひとりのときなら間違っても近づかない北塀脇を大胆にのぞきこんでしまった。
「なんだ、どうってことないじゃない」
 京子が言った。言いながらもシルシィの後ろからでようとしない。
「キリエ、あんた、前にでなさいよ」
 イモアがつぶやいた。勝気なキリエはイモアといっしょに先頭に立った。
「こ、こうやって見ると別になんてことないのよね」と、キリエが言った。
 たしかにその隙間は、見るべきものもない、空洞だった。
「でも、なんでこんなに薄暗いわけ?」
「ねえ、やっぱり帰えろうよ。なんだか気持ち悪くなってきちゃった。なんだか目が変よ」
 京子がしきりに目をこすりながら言った。私も、とシルシィが不安そうにつぶやいた。
 キリエも目がうるみだしたことに気付いていた。なにがどうということもないのだが、視界が不自然に歪んでいるように感じる。
 わずかに遠近感が狂っているのだ。一歩足を踏み出すだけで、数十メートルも進み、みんなから遠く離れてしまいそうだ。
 塀と壁の間にかぶさる木の葉のふちどりがカラフルににじんで見えるのも、気のせいなのか、現実なのか。
 まるで見えないスクリーンに映し出された映画をみるように、目も耳も頼りない。
 五感では分からない、しかし人間のなにかに訴えかけるものが間違いなくそこにあった。
 キリエの横にいるはずのイモアの息が浅く早くなっていった。少し息苦しい気がする。金縛りにあったように足が止まってしまった。
 そんなはずはない。落ち着け、しっかり前を見ろと、キリエは自分に言い聞かせた。
 目を閉じることが逃避になりえないと本能的にわかる。見ることをやめると、目や耳を通さずにやってくる不気味な感覚が体中に、ドッとひろがってしまいそうだ。
 じっとしていたはだめだ。冷たいよどんだ空気にひたっていると、自分のからだの輪郭を見失ってしまう。
 動いて空気をかき回さないと、このまま塀の隙間にとけこんで透き通ってしまう。
「ど、どうするのよ」
 黙っていられなくなった京子がうめくように言った。震える指でキリエの袖をしっかりとにぎりしめていた。
「は、離しなさいよ。の、のびるじゃない」
 自分はだれかにすがりつきたいが、つかまれることにはすさまじい恐怖感がともなった。
 みんな、さっきまでの元気などとっくに萎えてしまい後悔していたが、ここで背をむけて走り出すことができない。
 いま、視線をそらすことが危険だと全員が感じていた。
 いっそのことなにかが起きてほしいとさえキリエは思った。動き出すきっかけが欲しい。このままでは耐えられない。 
 見えないなにかの気配は、真っ赤な塗料のように濃厚にあたりを染めだした。
 もし、うなじに毛があれば、小猫のように逆だったことだろう。心臓は早がねのように打つのに、血は緊張した体の末端から締め出されている。手足が冷たくなっていく。
 袖を握る京子の指先に力がはいった。
「……きうぅっ」
 言葉とも悲鳴ともつかぬ音がもれでた。
 突然、真っ白い小さななにかが、下から飛びだし、キリエの眼前を横切った。
 それは彼女の視界のはずれから、狙いすまして飛びかかってきた。
 あっと言う間もなかった。イモアの下顎から頬にかけてが真っ赤に染まった。なにかの破片が白や黒に飛び散った。
 キリエにはイモアの端正な顔がはじけたかに見えた。全員が言葉を失い凍りついた。
「キ、キャアアアアッ!」
 京子の悲鳴を合図に、イモアはキリエの手を振り払い塀と壁の隙間に駆けこんだ。
 わずか二十メートルの路地である。止める間もなかった。
 イモアは、一瞬に路地を駆けぬけて、むこう側の歩道に倒れこんだ。
 そのまま、ピクリとも動かない。
「あああっー! いやあぁーっ!」
 首を締められるような静寂のあと、京子が地だんだを踏んで悲鳴をあげた。
 両手を振り回し何者をも近づけまいとして血も凍る悲鳴をあげ続けた。
 しかし、その場から駆け出し、逃げだすことができない。恐怖に肉も魂も握り潰されていた。
 京子のパニックは、しかしキリエを冷静にした。ひとり悲鳴をあげる彼女が身勝手に思え、怒りが彼女を現実にひきもどした。
「イモア、イモア! いま、たすける!」
 キリエは、もはやためらわずに走りだした。
「やめて! キリエ! だめ」
 シルシィの叫ぶ声が後ろから聞こえた。
 そのとき、キリエは見た。
 それは緊張した神経の見せた幻覚だったのかもしれない。だがそれはあまりに現実的゛った。
 いや。その異常な光景に現実感などあろうはずもない。ただ彼女の感覚のすべてに訴えたなにかは、けっして当り前の世界にあるものではなかった。
 音が失せた。
 すべてが発光し、知らない透明な色で輝いていた。
 可視領域外の光を見ることのできる目には、薄暗い路地もこのように美しく見えるに違いない。そんなことがなんの脈絡もなく心に浮かんだ。
 ずっとここに留まって、このすばらしい景色を眺めていたい。きっとそれは心楽しい時間に違いない。
 とても気持ちがいい。でも、こんなところにひとりっきりで?
 ちがう。へいき。
 ここには…………がいる。さみしくはない。
 うん、そうしたほうがいい。わたしは…………をよくしっているわ…………もわたしをすきになってくれるはず。
 くすくす、くすくす。どこにいるの? 
 くすくすくす、いつものところ? 
 ああ、そこね。そこ。わたしのそばにきて。
 ううん、いいわ。まっていて。わたしがいま、そこにいくから。
 目の前の小さな一部分が揺らめきだした。
 きた、きた。くすくす。
 ほら…………のかたちがもうすこし。
もうすこし……もうすこし……で。
 パアアァーン!
「ばかやろう!」
 罵声と激しいクラクションで、キリエは現実に引き戻された。
 水が湧きでるように五感が戻ってきた。
 危うく車道に駆けだすところだった。ほんの鼻先をかすめて、地響きをたてる巨大なトラックが走り去っていった。
 風が塀をかすめて吹きぬけ、彼女の長い髪は渦をまいた。
 呆然としてふりむき、あたりを見わたした。
 いつのまにか路地を抜けて歩道に立っていた。額が熱をおびて、ぼうっとしていた。
「イ、イモア」
 イモアは彼女の足元に倒れていた。さっきの惨劇を思いだし、こわごわと身を屈めた。
「う……キ、キリエ。あたし……」
 眉をしかめてイモアは目を開いた。
 そこには傷などない。キリエは彼女の顔に飛び散ったアイスクリームを、あっけにとられて見つめていた。
 京子が手にしていたものだ。京子が興奮のあまり、コーンを握りつぶして先を飛ばしてしまったのだろう。それがたまたまイモアの顔に当たっただけらしい。
 あとになってそれを知った京子とシルシィは、大笑いして謝っていた。
 イモアはいつもと変わりなく明るく笑ってなにも話してくれない。
 キリエもなにも聞こうとはしなかった。
 しかし、あのときイモアもあの光景を見たであろうことを、キリエは疑っていなかった。
 やがて学校を卒業した彼女達は別々の進路を選び、ふたたび合うことはなかった。


 キリエはゴーストタウンと化したレエク市街地に入った。
 塀と壁の場所はベンジャミンの誘導を受けるまでもない。すぐにわかった。すべてあのときのままだ。
 ウソアカシアの落葉にいろどられて塀はそこに立っていた。
「キリエ、確認したわ。あなたの立っているあたりが一番事象発生確率が高いわ。これはすごい数字よ。ムーミンが走ってきても驚かないわね」
 アージェーが上空から連絡してきた。
「街の外も探査した?」と、キリエが聞いた。
「うん、ペトロ値に達している所が十六ヶ所もあったけどね。百鬼夜行よ、まるで。夏はさぞや涼しくて良い避暑地だったでしょうに」
「なんなら降りてくる? 変わるわよ」
「きっと、こわくて泣きだしちゃうわ。それより、発生確率が不安定になってきたわ。小刻みに変動しながら上昇傾向にあります」
 キリエはアージェーに言われるまでもなく気がついていた。
 全身の皮膚がピリピリと敏感になり呼吸が浅くなっていた。五感以外からの情報を察して体が警戒しているのだ。
 ヘルメットのバイザーに映し出される事象発生確率はうねるように上下していた。 
 この仕事を受けたことを激しく後悔した。もう克服したと思っていた恐怖感が、まざまざとよみがえってきた。安全なベンジャミン上でできる次の実験に早くうつりたかった。
 しかしそれができないことは社長である彼女自身が一番よく知っていた。契約の強制力が右手の銃の安全装置を解除させた。頼もしい機器のうなりが、骨にまで響きわたった。
 学生時代には友達と、若い無鉄砲さがくれた進む力を、いまは高価な重装備が与えてくれる。
「こちらキリエ。これから塀脇に入ります」
「了解。気を付けて」
 いまは花の季節ではない。ウソアカシアはずいぶんと貧相に見える。人の手入れを受けなくなってひさしい枝はのび放題だ。
 彼女は十年ぶりに塀脇に足を踏みいれた。腰をおとし、すり足で少しづつ進む。
 風が吹いて塀の上までかかった枝がざあっ、と鳴った。
 銃をつきだしたまますばやく振りかえる。心臓が早鐘のようになり、汗が顎のラバーに吸いこまれていった。
「……さあ、終れ。始めちゃったら終るだけ。さあ、終れ。始めちゃったら……。」
 試験のおまじないをエンドレスでつぶやく。
 言葉も鼓動も、冷汗の量までモニターされている。しかしこの得体の知れない不安、恐怖は記録することなどできない。
 ベンジャミンにいる連中にも、この恐怖を味あわせてやりたかった。
 息が白く凍りつき、バイザーを覆ってしまいそうだ。汗がブーツの先に溜り、いやな音をたてている。
「わかってる、全部うそよ。気のせいよ。逃げたがってるだけなのよ。なにかあるかもしれないけど、どうせ、なんにもないのよ。みんな知ってるわ。笑っちゃうわね」
「ち、ちょっと、キリエ? だいじょうぶ?」
 アージェーが心配そうに聞いてきた。
「いける? 中止しようか?」
 しかし、キリエはそんな言葉を無視した。塀の出口は目の前だ。
「いっちゃえばいいのよ。目の前じゃない。向こうの歩道までいっちゃえ。そしてなにもなかったって報告すれば終わりよ。そう、目をしっかりひらけ、まっすぐ歩道だけを見て、塀なんか知らない。気をそらさない。歩け!」
 ガードレールに寄りかかって寝ていた犬が、悲鳴をあげて逃げていった。
 キリエがころげるように歩道に飛びだした。塀を抜けたのだ。
 不吉ななにかがドライモアイスのようにまとわりつき、切れていった。
キリエは肩を上下して息をつき、倒れこむように膝をついた。自動的に銃の安全装置がかかり、やかましい音をたてた。しかしはっきりと認識できる刺激が心地よかった。
「なにも……なかったわ。たぶん、なにも」
 すこしでも塀から離れようと、ガードレールに手をかけて半身を起こした。
「ちょっとまってね。いまデータを検証してる。……うん、ご苦労さん。なにもなしね」
 キリエは、ほおっと息をついた。安心して目をつぶった。これで二十万ラン。なんておいしい仕事だろう。つとめて楽しいことだけを考えた。
「ハイ、キリエ。いいわよ。次の準備ができたわ。二回目いってみましょうか」
 アージェーがこともなげに言った。
「えっ?」キリエは息が詰まって絶句した。
 次の瞬間、猛然と怒りがわいてきた。
「な! ……なんですって! ちょっと、どういうことよ。なにもなかったってことでいいじゃない。冗談じゃないわよ!」
「プロでしょ。だめよ。さ、もう一回よ」
「もう一回ででなかったらどうするのよ! 出るまでやるっていうの? 死んじゃうわよ」
「ーーしかたないでしょう。契約なんだから」
「そうだっけー? じゃあ、アージェーがやってよ。ほん……っとうに怖いんだから!」
「ああ、うるさい。終らないうちは、引き上げてあげないわよ」
「お、お、覚えてらっしゃい。だれが一番偉いかおしえてあげるからね」
 キリエは怒りに震えながら、空のベンジャミンをにらみつけた。
 その視界に影が落ちた。反射的に振りむいた彼女の前でなにかが消えた。
「えっ! ……」
 事象発生確率の値は低いままだ。
「なに? アージェー! 確認して」
「なにもないわ。なんの徴候も記録もない」
 うろたえてアージェーは答えた。
「そんなはずない! はやく!」
 キリエの声は悲鳴に近かった。仔犬のように一点でぐるぐる体を回転させた。
「落ち着いてキリエ。お願い、落ち着いて!」
 キリエの体をモニターしていた心電図、脳波、ホルモン等の情報が激しく乱れた。
 彼女は完全に恐慌におちいった。
「うあ……」
 キリエの口からおしだされたような悲鳴がもれた。
 目の前のそこ、が狂った。
 塀と壁のあいだに直視できない圧力があった。胸のむかつく異様さがうごめいていた。
 なにも見えない。しかしすべてのセンサーに尋常ならぬ値をたたきこむ状態が現出した。
 本能的に異質とわかる嫌悪すべきものが、人も物もとりこもうと、可視外の光を吹きだしていた。
 限りなく異質で邪悪のものを察した恐怖に、目が釘付けとなり、思考が空転を始めた。過去の記憶が意識を縛りつけて体をまひさせた。
 呼吸が困難になるほどの強烈な緊張が顔にけいれんをもたらした。
 ベンジャミンからの必死の呼かけも、すてに聞こえてはいなかった。
 あと一線を越えると、彼女の意識はとりかえしのつかない傷害をうけるところまで追いつめられた。
「キリエ! 怪物よ。撃って!」
 それはアージェーの機転だった。
 怪物! キリエの意識は、正体不明の邪悪な気配を認識させようとして、彼女に漆黒の影、悪魔のごとき妖怪を見せた。
 ガチッ、銃の引金が鈍い音をたてた。安全装置が解除されていない。
 もうほとんど意識のない彼女は、小爆弾を発射した。轟音とともにあたりは土煙に覆われた。至近距離からの爆風に翻弄されながらも、機械的に安全装置をはずし、銃による掃射を始めた。
 金色の弾帯は、ばらばらのカートリッジとなり歩道に散乱した。はじけるすべてのもので視界は瞬く間に失われた。
 しかし、彼女はすでになにも見てはいない。ただ、わずかに残る意識の断片が、あの恐怖の具現物の襲来におののいていた。
 弾丸は一瞬にしてつきた。八秒たらずの銃撃。しかし、塀をあとかたもなく消しさるには十分な時間であった。
 空中に飛ばされたウソアカシアの幹が、あわれな葉をまき散らしながら、地面に落ちた。
 キリエは引金をひいたまま昏倒した。


 実験は次の段階にうつった。
 ベンジャミン内では、スタッフ達が予想以上の成果に興奮していた。キリエもベンジャミンに回収されて治療を受けていた。
「キリエ。だいじょうぶ?」
「……一生、恨むからね。アージェー」
 目の回りのくまを気にしながら、真っ青な顔色のキリエが立ち上がった。その様子は十歳も老けこんだようで痛々しい。目付きが尋常ではなくなっていた。
「じゃあ、つぎに進むわね。塀への爆撃よ」
「……降下の用意をしてくるわ」と、キリエ。
 次の降下はひとりではない。スタッフの一人が同行して情報収集にあたる。
 今度の実験は塀を爆撃し、完全に破壊しつくしたうえで、データを取るというものだ。
 降下艇には、すでにスタッフがまっていた。
「社長、よろしくお願いします」
「ああっ、ラッシュ。よろしくね」
 体格のよい若者は楽しげにほほえんだ。
 にぶい振動が船体をゆらし、爆弾の落ちていく遠い音が聞こえた。
「……ああっ……」
 キリエの口からせつない悲鳴がもれた。 
 真っ赤なベンジャミンの船体からはなたれた銀色の金属が、白い市街地に吸いこまれていく光景が鮮明にイメージされた。
 それは、灼熱のオレンジをひろげたはずだ。
 キリエは、自分のなにかが奪われるような喪失感に襲われた。地上からの悲鳴を聞いたような気がした。
「社長、降下します」ラッシュが言った。
 やがて彼女達は塀のあった場所に立った。
 塀のあった痕跡はなにも残っていなかった。ベンジャミンの精密な爆撃は一町区画をすっかり消しさっていた。そこには白く焼けたクレーターがあるだけだった。
「本当にここ?  ……なにも感じないわね」
「まちがいありません。事象発生確率ゼロ」
 ラッシュが真面目に答えた。
 キリエは、取り返しのつかないことをしてしまったのでは、との後悔にさいなまれた。
 人は長いあいだ得体の知れないなにか、の恐怖と闘ってきた。かつては祈りのちからで、そして刀や鏡のシンボルをつかって。
 それらに果敢に挑む勇者を人々は尊敬した。
 しかし正体のわからないものらをつかまえることは、いまだにできない。
「社長、どうしました? 社長?」
 ラッシュはうなだれるキリエに心配そうに声をかけた。
「……なんでもないわ」
 キリエはわけもなく流れ出した涙をどうすることもできなかった。
「社長……」
 集められた膨大なデータは、シンクタンクにとどけられて専門的な評価が開始される。
 しかしキリエにはその結果をまたずとも、わかることがある。
 人はそれを消しさることができても、捕らえることはできない。正しく認識できないものを、真に倒すことなどできようはずがない。
 しかしいま人は自然の環境を根本からくつがえすことができた。
 従来の環境を破壊されて、存在基盤となるなにかを奪われたとき。
 そのなにかはたやすく退治されてしまう。
 それはいま、とてもかんたんなことである。
 そして二度と現れない。
 永久に。
 キリエはベンジャミンの窓から小さくなっていくレエク市を見ていた。
 目が離せない。
 いつまでも、いつまでも涙が止まらない。
「バイバイ」
 ……あそこには、もうなにもいない……。


 数カ月後ーー
「キリエ、キリエ! ちょっと、見た?」
 アージェーがスクープ雑誌を振り回しながら社長室にはいってきた。
「あんたは、また仕事中にそんな本を読んで。……だいたいね、自覚が……」
「いいから見なさいって。幽霊よ、幽霊」
「ええーー?」
 見開きで特集が組まれたそれは、某シンクタンクが幽霊屋敷になっているとの記事だった。正体不明の妖怪変化が昼の日なかからでるとのことである。
「……アージェー。これってまさか……」
 キリエは最後まで読む気にもなれず顔をあげた。アージェーはさもおかしそうに、けらけら笑いながら言った。
「私達のとったデータが完壁だったってことじゃない? 良い仕事をしたのよ。だから、シンクタンク内に塀脇が再現しちゃったんじゃないかな」
「そんな……ばかな」
「だいたいね。神様と鬼なんて、ところ嫌わずよ。未熟者がそれをどうにかしようなんて思うからバチがあたったのよ。いい気味」
「……あんたがそんなことを言うとは思わなかったわ」
 キリエは、くすりと笑って言った。
「ええっ、だって、知らなかった? あれから、ベンジャミンの尾翼にさわって競馬買ったら絶対はずれないの」
「えっ! まじ?」
「みんな知ってるよ。ラッシュなんてポルシェ買ったじゃない」
「アージェー。業務命令よ。すぐに飛行船をもう一機、注文してちょうだい」
「へっ? ベンジャミンは?」
「ばか、御神体よ。奉るのよ!」
「ーーわかったわ。信じるのね?」
「えっ? なに、ちょっとひっかかるわね」
「あはははっ」
 アージェーは、ピョンとジャンプした。そのままスキップして扉にむかいながら、くるりと回って言った。
「ラムネもう一本くらいなんとかなるかもね」
「ア、アージェー!」
 からかわれたことに気がついたキリエは、真っ赤になってレポートの束を投げつけた。
「はははっ、キリエ、キリエ。たぶんね。私達はあれのことよくわからないけど、退治できるのとおなじくらい利用しているのよ」
「なによ! まだ、なにか言う気?」
「たぶんね。鬼と神様っておんなじものよ。だから都合の良いことは御利益ってことにしてありがたがればいいのよ。悪けりゃバチがあたったことにでもして、がんばりましょう」
「脳天気な娘ね。あんたって」
 毒気をぬかれてキリエは笑った。
「こんどさ、あのシンクタンクに遊びにいってきましょう」と、アージェー。
「退治してあげましょうか」
「ミサイルで?」
「そう、ばあんって、今度はアージェーがね」
「きっと、泣いちゃうわ」
「……わたしもよ。また泣いちゃうわ……」
 さみしそうにキリエはつぶやいた。
 そんな彼女をやさしくみつめながらアージェーは言った。
「心配しないで。キリエ。シンクタンクはね。あれを退治しないことに決めたんだって」


 その後、シンクタンクは、幽霊屋敷としていつまでも愛され恐怖された。
 そして、いつしか伝説になっていった。



 

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