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えっちな気持ち

 

 

えっちな気持ち

 ん、と晴れ渡った紺碧の空に堂々と居座る真っ白な太陽。渇いた空気越しにゆらゆらと立ちのぼるにぶい陽炎。
 北海道の夏は想像するよりもはるかに暑い。
 三十度以上はあるはずなのに、湿度が少ない空気は汗をどんどん蒸発させて肌をひりつかせた。
 不快な熱風を巻き上げて、年季の入ったバスが発進していった。乾いた土ぼこりが淀んだ空気の中でいつまでも漂っていた。がろんっ、と吐き出された排気ガスのかたまりを見つめて、三人の親子が途方にくれて身を寄せあっていた。
 そよとも吹かない風。方向感覚を狂わせるバッタと蝉の声。青い空と果てしない緑と、まっすぐに伸びる白い道路だけが風景のすべてだ。世界に人間は彼らしかいないと感じさせる、溢れる生命の中での孤独感。澄んだ空気を貫いてくる日差しは、じりじりと彼らをローストしていた。
 誰がこんな田の真ん中にバス停を作ったのだろう? どうして自分たちはこんなところに立っているのだろう? 
 彼らは自らバスを降りたはずなのに、誰かにおきざりされたような気分に捕らわれて、心細さに立ち尽くしていた。
「なあに、この暑さ。本当にここ北海道?」
 はじめて北海道に来た母の恵津子は、わざわざ持参した長袖のブルゾンを所在なげに持ちかえていた。
「このへんは盆地だからな。特に暑いんだ。ほら、あそこに見えるのが孝弘の家だ」
 父の啓介が努めて明るく振る舞って言った。
 その家はゆるやかな丘陵に吸い込まれて行く果てしない一本道の彼方にぽつんと建っていた。
家と家の間隔がキロメートル単位で離れていそうだ。いま、視界に入っている叔父の家にたどり着くまでは、実はかなりの距離を歩かなくてはならないのだろう。
 まもるの一家は避暑を兼ねて、神楽(かぐら)の叔父の家を尋ねてきた。しかし早くもまもるの胸には後悔の念がよぎっていた。
「なにか飲みたいわ……」
 恵津子は不満気につぶやいて、真っ白な土の道路をみつめて言った。
 もちろんあたりに自販機などない。よく整備された用水路が道ばたを流れているだけだ。
「とにかく行こうか。ママ」
 啓介は彼女の荷物まで自分の肩にかけて笑顔で宣言した。
「そうだね」
 まもるは明るく笑って啓介に調子を合わせようとした。彼はわがままな恵津子より、なににつけてもひたむきな性格の父を好いていた。子供心にも父がどうしてこのわがままな母と結婚したのか不思議だった。彼のクラスにも顔はいいけれど高慢ちきな女の子がいた。彼はその子が大っきらいだった。
「ようし、元気をだしていこうじゃないか!」
 夜逃げでもしてきたような荷物を軽々とかついで、啓介はどんどんと歩き出した。そのほとんどは恵津子の服のはずだ。まもるも遅れまいとあとを追った。だがすねたようにのろのろと歩く恵津子にペースを合わせるために、ふたりはときどき立ち止まって彼女を待たねばならなかった。
「あれ、だれか来るよ」
 まもるが汗をふきながらつぶやいた。バスを降りてからはじめて見る人だ。熱気をためた道路から、自転車に乗った女の子が湧きでるようにやってきた。かげろうにのまれて上半身と下半身が分かれて見える。
「おっ、あれは沙織ちゃんじゃないか?」
 啓介はまぶしそうに目を細めながら言った。
「……ーん、おじさーーんっ……」
 少女は自転車を漕ぎながら叫んでいた。ハンドルから放した両手を元気に振り回している。白いTシャツに短いスカートが明るい日差しに映えていた。長いポニーテールがいきおいよく搖れてなびいていた。
「あはっ、そうだよ。沙織ちゃんだ。迎えにきてくれたんだ。おおーい!」
 見覚えのある姿にどっと安心感がこみあげた。異国で知人に会ったようなうれしさに啓介とまもるは大声で手を振り応えた。
 終始不機嫌だった恵津子は、幾分安心したのか、ものも言わずにその場にしゃがみこんでしまった。


「いやあ、よく来たね。暑かったろう。いやいや、まあ上がってくれ」
 叔父はちょうどたんぼから帰ったところらしく、すぼんのすそをまくりあげてたくましい素足をホースの水で洗っていた。
「孝弘ちゃん!」
 父はうれしそうに両手を広げて彼に近づいていった。がっちりとした彼の手を取り、激しく握手をかわした。
「おおっ? なんだなんだ。啓介、はいからなことするんじゃないぜ。てれちまうじゃねぇか。わはははっ。おおっ? よくきたな」
 まんざらでもなさそうに孝弘は笑った。
「あんたのお父さんって格好いいわね」
沙織に小わきをつっつかれて、でもまもるも悪い気はしなかった。
 叔父の孝弘の家は思いのほか立派な構えだった。とてつもなく広い庭にはさくらんぼや栗の木々が堂々とならんでいた。親子たった三人ぐらしの家が、まもるの目には十人以上はらくに暮らせそうな広さに見えた。しかも不思議なのは、こんなに立派な家なのに瓦が葺かれていない。安っぽい鉄板の屋根だった。北海道は雪がたくさん積もるから、瓦は使えないと聞いていたけれど、それは不思議な風景だった。
 それにしても家が広い。東京で生まれ育ったまもるには、家の中に使っていない部屋があること自体、とんでもないことに思えた。
「ねえっ、遊びにいこう?」
「う、うん。いいけど。さきに着替えたいな」
「ふう……ん。おしゃれなのね」
 ちろちろと値踏みするように、からかうように視線を這わされてまもるは少し赤面した。
「あたりまえだろ?」
 なんて解放的な娘だろう。普段接している学校の女の子たちとは全然雰囲気が違う。小さい時に二・三度あっているはずだがすっかり大人っぽくなっていてどぎまぎしてしまう。
 よく遊び健康的に育った四肢がかもしかのようにちからをみなぎらせていた。


 まもるたちが泊まるのは二階の客間だった。
 ーーそれでも二十畳はあるーー
 父たちが階下で挨拶を交わしているのを放っておいて、まもるはさっさと着替えをした。
 沙織は待ちきれないようすで、部屋の外でとんとん足踏みをしながら待っていた。滞在は一週間の予定だ。まもるとしても着替えは九着を用意していた。沙織の大人っぽい雰囲気を考えて、深いグリーンのシャツを選んだ。
 突然、からっと戸が開けられた。
「うわっ」
 まもるはおもわず悲鳴をあげた。着替えは終わって、シャツの裾を直しているだけだったが、こんなシーンで部屋の戸を開けられたのなど初めてだ。
「なんだ、もう終わってるじゃない。まああっ、かっこいいわね。なあに? これからファッションショー?」
「ファッ……どうしてさ」
 面食らったまもるはやっと口を開いた。なんて口のききかただ。
「それ、よごしてもいいの? まあっ、いいか。いこう! 遊びに行こう」
「えっ……汚したくない……」
 しかし、そんな言葉など無視された。沙織はまもるの手を引いて階段を駈け降りた。
「秘密の場所があるんだ」
「秘密?」
 小学六年生のまもるより、彼女はたしか二歳年上のはずだった。その彼女がちいさな子供のように秘密の場所などと言うのが奇妙に感じられて照れくさかった。
「はやく!」
 すらりと長い手足がはじけるように伸びて、彼女はすばやく外に飛びだした。そのまま庭の横の小さな畑に駆け込んだ。
 ざざっ、としげみをかきわける音がしたかと思うと、おおきなトマトをふたつ手にして、はるか前方に飛び出した。
「まって!」
 まもるは懸命に彼女のあとを追いかけていった。田のあぜ道を駆け渡り、用水路を飛び越えていく彼女のスピードは、まもるの息を苦しくさせた。
 こんなに走ったのはひさしぶりだ。若いながらも、しっかりと芽生えかけた男の意地が、彼女に声をかけるのをためらわせた。ぐっと歯を食いしばり、荒れる呼吸が聞こえないように空気を噛みしめた。
 やがて彼らの目の前に薄く長い人工の林が立ちふさがった。巨大な防風林だ。数キロにおよぶ奥行きのないカーテンのような木々と下生えは、盆地を吹き抜ける激しい風から田と畑を守っていた。
 ハードルのように繁る笹を、彼女の日に焼けた素足が一気に飛び越えた。負けじとまもるも決死の覚悟で彼女のあとにつづいた。
「やっ!」
 しかし慣れない全力疾走でがくがくになった足腰は、期待したほどの力をだしてくれなかった。ざざっ、と笹に抜き足をひっかけてしまった。うしろから押し倒すように彼女に体当りした。
「わわっ」
「きゃあ!」
もつれるように若く柔軟な躰が重なりあった。しっとりと湿った腕がふれ合い、あわててまもるは身を起こした。
「……やっ」
 お互いを包んだ健康な汗の匂いに目がくらんだ。どきまぎと沙織はスカートのすそをなおした。
「ご、ごめん。だいじょうぶ?」
 飛び上がるように立ち上がったまもるは、指先だけでつかむように彼女の右手を取り、引き起こそうとした。
「へ、平気よ」
 沙織はひんやりとした左手でしっかりとまもるの腕を取った。そのまま腰をあげずに腕に力を入れた。彼女の体重を中腰のまま浴びてまもるを倒れ込んでしまった。
「うわぁ」
 まもるはからむように伸ばされた足を踏まないように躊躇して、ひどく不自然な格好で彼女の上におおいかぶさった。自分の匂いが彼女に吹きかかることが恥かしかった。
「しいっ……」
 白い指が一本、まもるの口をふさいだ。
「あ、あの」
 横たわったまもるの目の前に彼女の顔があった。こんなに近くで女の子の顔を見たのは生まれて初めてだ。しかし彼女の視線はあらぬ方向を見ていた。
「……?」
 どきどきしながらおもわずその視線の先をおっていった。
「あそこよ。見て」
 やさしく顎をあげて沙織はうっそうとした木々の奥を指した。そこには明るい木漏れ日が集まる小さな日溜りがひとつあるだけだった。
 他と変わらぬ、腰までもある笹のしげみのなかで、その一点だけがスポットライトを浴びたように黄色い太陽の光を集めていた。
「……なに?」
 きゅんっ、と胸の奥でせつないなにかがうずいた。訳のわからない不安がこみあげてきた。
 ばっ! と影が自分の下で激しく動いた。音を立ててなにかが襲いかかってきた。
「ひっ!」
 空気を飲み込むように全身が緊張した。次の瞬間、はっとするような暖かく柔らかい感触が頬に触れた。
 沙織が下から抱きつき唇を押し付けてきたのだ。
「わああ」
 情けない声をあげてまもるは彼女の腕を振り払った。一瞬、彼の躰にぶらさがりかけた沙織はそのまま落ちて、下生えに隠れてしまった。
「きゃっ」
「あっ、ご、ごめん」
 あわててまもるは笹の葉をかき分けて彼女を抱き起こそうとした。地面にはとがった笹の茎や鋭い葉が幾層にもなっているのだ。彼女に怪我をさせてしまったかもしれない。
 その瞬間、ざっと彼女の躰が飛び上がった。
 手荒くまもるを押し退けたかと思うとあの日溜りに向かって走りだした。
 わけのわからない彼女の行動に途方にくれたまもるはとりあえず彼女のあとを追った。
「……うっ」
 沙織は光のなかに立っていた。彼女までもう少しというところで、まもるは雷の打たれたようなショックを受けて立ちすくんでしまった。自分が映画のスクリーンに投影された映像に駆け込もうとしているような錯覚を覚えたのだ。
 へんだ……。
 自分で光を発しているような、揺らめく空気の塊が目の前に広がっていた。ふりそそぐ光のなかで踊るように沙織の躰が振り向こうとしていた。
 その姿にはすさまじい違和感があった。
 その光景に目を奪われて全身がぎりぎりと硬直していった。意識だけが驚くような速さで、見えているものを理解しようとあがいた。
『な、なんだ?』
 目に見えている光景自体が奇妙なわけではない。
 彼女がばけものに変身しているのではない。
 すべてが有り得る風景の一場面にすぎない。それなのに目も眩む恐怖感が嵐のように全身を叩きのめした。
 音のない一瞬のなかで、沙織は完全にまもるのほうを向き終えた。
 大きく見開かれた、きらきらと濡れて輝く瞳が真正面から彼を見据えていた。
「まもる!」
 鳥のように大きく両手を広げた彼女が、すべるように駆け寄ってきた。わっ、と熱い空気が波のようにかぶさってくる気がした。
 もうなにも考えられない。
 真っ白になった思考は視野を狭めていく。
 体当りするように彼女が抱きついてきた。
力を失ったまもるの躰は、ぬいぐるみのようにあっさりと倒れ込んでしまった。
 緊張はしているのだが、動きのとれないまもるの首筋で、沙織は熱い息を吐きながら、くすくす笑った。
「どうしたの? 東京の子ってみんなこんなに純情なの?」
「…………」
 まだ、恐怖にしびれたままのまもるは、なにも言えずに目の前の沙織の姿に見入っていた。
「ねえ、笹で足を切っちゃった。ねぇ、看てくれる?」
「えっ? えっ、なに?」
 じいっ、となにかを期待した目で沙織はつぶやいた。
「いたいの」
 景色が急速に現実感を取り戻していった。よく見えないものでも見ようとするように、しげしげと沙織の顔を見つめてしまった。
「ど……どこだって?」
「あし、ううん、おしりのほう。見てくれる?」
 暖かい少女の香をひきずるようにして、沙織はまもるから躰をはなした。そのままくるりとうしろを向くと、細い松の木にしがみついた。フルンとかわいらしいおしりがを突き出された。
 ごくり、と緊張に喉を鳴らしたまもるは恐るおそる彼女のうしろに回り込んだ。
「…………」
 かがむように膝をついたまもるは、おずおずと指先をスカートに伸ばした。それを焦がれるように、柔らかい少女の肌はピンクに染まり息づいていた。
 もちろん、まもるにははじめて見る異性のしどけない姿である。
「見えないよ」
 まもるがつぶやいた。
「なにが?」
 意地悪をするように沙織が甘えた。
「き、傷にきまっているだろ」
「よく見て」
 どきどきする胸の鼓動は呼吸を邪魔するほどだ。もう苦しくてなにも言えない。しゃべると声が震えてしまいそうだ。
「じっと……してて」
 純白のパンティのすそに指をかけて、ほんの少しをめくりあげた。どきりとするほどその肌はしろい。
 ……臭くないかな……
 少年らしい潔癖さが、ふと心配をさせた。汗ばんだ娘のそこからは、はじめて嗅ぐなまなましい匂いが立ち昇っていた。それはけして不快ではない。それどころか目まいを覚えるような興奮を駆り立てた。
 おもわず指に力が入ってしまった。まだ見えない秘めやかな隙間に柔らかい布が食い込む。
「……いたい……」
 とろり、と溶ろけるように沙織はつぶやいた。若く、ぱんと張ったかたちの良い腰がすねるように上下した。
「あっ……!」
 沙織のくちから甘い悲鳴がもれた。まもるの指がいきなり核心の部分に触れてきたのだ。
「だ、だって急に動くから見えそうになったんだ」
「……ひどい」
 逃げようともせずに沙織はつぶやいた。
「見ないように隠したんだよ」
 ぜんぜん釈明になっていない。
 指先から伝わってくる感触には、やわらかな産毛に混じって違う体毛の発育が感じられた。
「ごめん」
 興奮ですっかり大胆になったまもるは、指先でなぞるようにしてパンティの上端をつかんだ。
「いや、だめよ。さげちゃいや」
「でも、傷がみえないよ。もっと奥なんだよ」
 言い訳をしたつもりになって、するりと白いちいさな布切れをおろしてしまった。
「あっ……」
 小さく沙織は声をあげた。少女の敏感な肌は、つつんでいたぬくもりを奪われたことに抗議するように、わずかに鳥肌だった。
「……あった。ちょっと血がでている」
 純白の双球の右下にちいさな朱がにじんでいた。中指に唾をつけて、かるくつついてみた。
「……ん」
 ぴくっ、と肌の奥で筋肉が動いた。それきり沙織は息をひそめて動きを止めた。緊張してまもるの刺激を期待している。
「…………」
 まもるはなにかをしゃべりかけて口をひらいたまま硬直してしまった。どきどきと高鳴る心臓の鼓動が呼吸をじゃまして苦しい。自分の大胆な行動が急に罪の意識となって感じられた。
「さ、沙織ちゃん……」
 震える声で彼女の名前を呼んでしまった。とたんにふたりを包んでいた凍った時間が流れだした。ざわっと草木が音を取り戻した。
 ーーしまった! ーー
 そう思った瞬間、沙織は自分でパンティを引き上げると、まもるを見ようともしないでかけだしてしまった。
 若い情事の終わりはあまりにあっけなかった。まもるはなすすべもなく彼女の後ろ姿を見送っていた。しかし幕を引いたのは間違いなく彼自身だった。後悔と罪悪感だけが苦くあとに残っていた。


「まもる。こんな時間までどこにいっていたんだ? みんな食事もしないでまっていたんだぞ」
 とぼとぼと、畦道を返ってきたまもるに、父の啓介が声をかけた。手には大きな肉厚のガラスコップが握られていた。山盛りのビールの泡が口のまわりにもこびりついていた。 夕焼けの鮮やかなオレンジにそまって、啓介と孝弘は庭の大石をテーブルがわりに酒盛りをしていた。
「ごめんなさい」
 しょぼんとうなだれたまもるは元気なくつぶやいた。なんとなく父の顔を見るのがつらかった。
「なんだ、なんだ。沙織にいじめられたか?女なんぞ、ばしっとやってやらなけりゃいかんぞ」
 すっかりできあがった孝弘は、上機嫌で大声を出した。夕映えの中にあっても顔が真っ赤なのがわかる。いったいいつから飲んでいたのか。
「来い。こっちに来い。どらっ、おまえも一杯やれや」
「ご機嫌ね。お父さん。はい、おつまみよ」
 沙織が皿に山盛りにした煮付けとオードブルを運んで来た。
 ずいぶんと前に帰ってきていたらしい。ゆかたに着替えてすっかり落ち着いている。さきほどのふたりの秘めごとなどなかったように、涼しい視線をまもるに向けた。
「まもる君もてきとうに食べててね。おにぎりでもあとでにぎるから。こちらのおふたりがすっかりしあがっちゃったから、あたしたちも適当につまんですませちゃいましょう」
「……あっ、うん」
 沙織からも視線をはずしてまもるはうなづいた。下を見た彼の目に草履をひっかけたかわいい彼女の素足が映った。釘付けになりそうな目線をあわててもぎはなして、ようやく声を出した。
「マ、ママは?」
「ああ、疲れたからって寝てるよ」
 肩をすくめて啓介が言った。まもるはおもわず眉をしかめてしまった。ママはいつもそうだ。どこに行ってもみんなに迷惑をかける。 今だって食事の支度を全部、沙織の母にやらせている。これからしばらく世話になるというのに……。
 ーーこなければよかったーー。
「ねぇ、ジュースを持って来るの手伝って。あたし達もここで食べましょう」
「うん、うん」
「おう、これ持ってってくれや」
 孝弘から空になったビール瓶を五本も押し付けられた。まもるはあわてて両手で抱えなおして沙織のあとを追った。
「どこにおくんだい? これ」
「さっきはごめんね。ちょっとだけ、恥ずかしくなっちゃったの」
 まもるの顔をうかがうように、少し赤くなった彼女が言った。
 長い髪がほどかれて、右目が半分隠れている。どきり、としたまもるは声もなくうなづいた。
 すい、と視線をはずして沙織は一歩、彼から遠ざかった。そして小声でささやいた。
「また、しようね」
 そう言って彼女は小走りに裏口から台所に入っていってしまった。
 瓶をかかえたままのまもるは、なにも言えずにつっ立っていた。
「まもる君! それ納屋にいれといて!」
 台所の網戸ごしに沙織が叫んできた。


 盆地を囲む低い山々の彼方に日が隠れたあと、あたりはまたたく間に闇に包まれた。天に浮かぶ半月がこんなに明るいものだと、まもるは初めて知った。
 家のまわりを囲む田んぼからは、聞いたこともないほどの蛙の大合唱が鳴り響いていた。
ちりちりと涼しげな虫の声も聞こえてくるのだが、まるで勝負にならない。
 その暗さの一角で、ぱちぱちと小さな音をたてて薪の炎がはぜていた。
「うおおっーー」
 孝弘の低いうなり声が暗い田の水面に流れていった。さばぁ、と湯の流れる音がした。
「まもる。おらっ、つぎ入んな」
納屋の一角を仕切って造られた風呂場はまるで映画にでもでてきそうな骨董品だった。なにしろ湯舟が本物の釜でできているのだ。 昔はそれが唯一のものだったのだろう。しかし、いまは改築された家のなかにごく普通の風呂が備わっていた。今日は孝弘のきまぐれで何年ぶりに火がいれられたのだ。
「入りかたはわかるな? 五衛門風呂だから底の州の子をはずすなよ」
 父の啓介が懐中電灯を持って付いてきてくれた。啓介は一番風呂を浴びて、すっかりくつろいでいた。
「暗いね」
 まもるはおもわずつぶやいた。こんな風呂など入ったことはないうえに、照明ひとつない風呂場は勝手がわからず不気味ですらあった。
「僕も家の中の風呂がいいな」
「孝弘はまもるに入らせたくて、わざわざ掃除しておいてくれてたみたいだぞ」
 そう言われては入らないわけにもいかない。
「ママも入ればいいのに」
「ママが入るわけないだろ? よそ様の家のふつうの風呂にさえはいるのがいやなひとだぜ。さっきだってシャワーで済ませたみたいだ」
 さもおかしそうに啓介は言った。
「賭けてもいいけど、ママはここから帰るまでに絶対便秘になってるぞ」
 自信たっぷりに片目をつぶった。短く刈り込んだ髪と口髭がこんなに似合うのは、父以外にいないのではないかと、まもるは妙な感心をして見とれていた。
「でも、便秘になりそうなのは僕だっていっしょだよ。あんなトイレ、実物は初めて見た。あれ……くみ取り式? おっこちそうだ」
「いい絵日記がかけそうだろ?」
「絵日記ぃ?」
「冗談だよ」
 心のなかで苦笑しながらも、まもるはわざと難しい顔をして父をにらみつけた。
「まっ、湯冷めしないようにな。懐中電灯はここにおいておくぞ。あとでビールでも持ってきてやるよ」
「いらないよ!」
父が去ったあとも、まもるはしばらく躊躇していたが、やがて意を決して釜のなかに身を沈めた。
 ようやく目が慣れてきて、あたりのようすが見えてきた。わずかなひさしの下に入っている釜からは、月明りに照らされた庭先がかすかに見えていた。しかし釜の中にいる自分の躰はまったく見えない。湯がどこまできているのかさえわからなかった。
「ふうっ……」
 ぬるい風がゆるゆると流れていくなかの風呂はたしかに気持ちよかった。しかも暗いながらも眺めが良い。山脈のシルエットが星々の切れ目となって遥かに望めた。
 丸い釜の縁にそって躰を回して暗い景色を見渡していった。
 ふと、視界が搖れた気がした。
 通り過ぎた視点をゆっくりと戻してみる。
山々より近い、巨大な影の帯が視界の彼方まで伸びている。昼間のあの防風林だ。
 その一部が陽炎のように搖れていた。風呂から立ち昇る湯気のせいかと目を凝らしたが、そうではないようだ。
「……なんだろう」
 真っ暗にしか見えないその闇がゆらいでいるらしいのだ。そんなことはありえない。
 無駄とは思いつつも、懐中電灯の明りをその方向に向けてみた。しかし、細く伸びた白い光は暗い闇のどこかに空しくすいこまれていった。もっとよく見ようとして、湯舟から身を乗り出した。
「まもるくん」
 背後で突然声がした。
「ん! ……くっ」
 噛みしめた悲鳴が唇を裂いて漏れた。
 あわてて、湯の中に躰を沈めてふりむいた。がつんっ、と手の甲を釜の縁にたたきつけてしまい、あやうく懐中電灯を取り落とすところだった。
「……つっ……」
「だいじょうぶ?」
 いつのまに近づいてきたのか、そこには帯を解いた沙織が立っていた。軽く伏せた顔は闇に飲まれて表情が見えない。白い指が袖のなかから伸びてまもるの手を取った。傷を調べるようにじっと見つめている。
「や、やあっ、もう風呂はあがったの?」
 湯ににじんだ血をなめとるように、そっとまもるの手に唇を寄せた。
 ……なにをするんだ……
 まもるは緊張して、うつむいた沙織のかたちの良い頭をみつめていた。彼女が下をむくに従ってさらさらとした黒髪が肩を越えて流れ落ちた。
 しろい清潔な歯が小さく押し当てられた。わずかに力がかかるが、かすかな痛みが不思議と心地良い。魅入られたように動きを止めたまもるは、儀式を受けるいけにえのように彼女のなすがままになっていった。
はらり、とゆかたの前がはだけた。
 幼さの残る、しかし夜目にも白い、均整のとれた肢体が生まれたままの姿でまもるの前にあった。それはあまりに唐突で、現実感を欠いていた。
 落とすように、その場に着物を脱ぎ捨てると、いかにも当然というように湯の中に入ってきた。
 狭い釜のなかでふたりの脚が触れ合った。
「……んっ」
 まもるは腰を引いて逃げようとした。
「まもるくん……」
 そのあとを追うように沙織は肌を寄せてきた。すい、と硬くとがった指先を彼の胸に押し当てた。
「わっ」
 女の子に自分の躰を触られるのなど、はじめてだ。湯気にとけ込んだ彼女の香がふわりとまもるを包み込んだ。
 急に沙織がなまなましく感じられた。
 どきどきと高鳴る胸の鼓動が彼女の手の平につたわっているかと思うと、いてもたってもいられなくなった。
「お、俺、さきに上がるよ」
「まって……」
 かすかな笑みを浮かべて、沙織が顔をあげた。
「うっ」
 まただ、昼間の防風林の時と同じだ。沙織の目が変だ。濡れたようにきらきらとして、焦点があいまいだ。しかし激しい気持ちの高ぶりを隠しているように力がみなぎっている。取って喰われそうな不安感がこみあげてきた。
「まもるくん……あそぼ」
 手がまもるの胸から離れて、さらに下に伸びていった。
「い、いけないよ。こんなことしてちゃ……」
 どきまぎとまもるはつぶやいた。こんな興奮を覚えたのは生まれて初めてだ。期待と不安で頭のなかがぐちゃぐちゃになっていく。 息が荒くてしゃべられない。
「う………わ」
 沙織の細い指がつまむようにまもる自身をつかんだ。
「わたしも……さわってよ」
 すがるように、甘えるように沙織が命令した。まもるはどうしてよいかわからず、もたもたと躊躇していた。
「いじわる……。まもるくんのいじわる」
 ざばあっ、と両手を湯の外にあげると、襲いかかるようにまもるの首に抱きついてきた。
 すりあげるように、尖った乳房を押し当てていく。湯の中で尻もちを付きそうになって立てた右足に、沙織はまたがってきた。柔らかく繊細な部分が自分の足に押し付けられて、ひしゃげていくのが感じられた。
 湯の中にいるというのに口がからからに渇いて苦しい。それでも若い好奇心はむらむらと不純な、しかし健康的な欲求をつのらせていった。
「き、きれいだね」
 ドラマで見たような台詞をつぶやいてみる。
「うれしい」
 湯に身をまかせるように、ゆらゆらと躰を揺らす沙織が低い声でからみつくようにつぶやいた。その声に否定的な響きのまったくないのを確認してから、まもるはこわごわと彼女の腰に手を伸ばしていった。
 異性の肌のすべやかさにまもるはうっとりとため息をついた。自分はこんなところでなにをしているのだろう。
 そんな良心の呵責も心地よい沙織の愛撫に消し飛んでしまった。じょじょに大胆になっていくまもるは、手を腰から乳房に、そして若い秘裂へと下げていった。
「……いや……」
 ぴくん、と沙織が腰を引いた。はじめて見せる恥じらいだ。まもるは胸にきゅん、とうずくような征服感を感じた。引きかけた指を思い切って進めた。
 ……やわらかい……
 なにもない女の子の股間は、もっと堅いものだとばくぜんと考えていた。そこはふっくらとしていてやさしかった。さらに進めた指先が、湯の中にあっても、ぬるりとしたものに触れた。
「…………!」
 かあっ、と頭に血が昇って、このつぎにすべきことをあれこれ考えてしまった。またよけいなことを口走らないように、ぐっと唇を結んだ。
 ーーど、どこにいれるんだ? ーー
 思いは一気にそこまで飛んでしまっていた。
沙織はまもるの期待通りに従順なまま、躰を預けてくれていた。まもるはすっかり主導権を握った気持ちになっていた。
 ……いったい女の子はこんなとき、どんな顔をするんだろう……
 それは堪えきれない誘惑だ。ちらっと少しだけ視線をあげてみた。沙織は頬を真っ赤に染めて眼を閉じている。わずかに開いたつややかな唇からは甘い息が熱くこぼれていた。
 そんな彼女の表情をもっとよく見たい、そしてその唇に触れてみたい。まもるはたまらなくなって顔をあげた。
「うっ。……うわあっ!」
 さばあっ、と湯をはじいてまもるはとびあがった。
 とんでもないものがそこにいた。
 釜の外、ほんの目の前に防風林で見た、あのきらきらとゆらめく奇妙な光の影があったのだ。
 昼間は木漏れ日の溜まりのように思えたそれが、いまは星明りを集めて輝いていた。むしろ昼よりもその姿は、はっきりと見てとれた。
 それは炎が燃え盛っているようにあいまいな形をしていた。まるでたき火が音もなく燃えあがっているようだ。光なのかガスなのか。それともなにかが歪んでいる姿なのか。
「に、逃げろ! 沙織ちゃん」
 これは、変だ! 本能的な警戒感が全身に警報を発していた。普通のものじゃない!
 自分がすっ裸なのも忘れて釜を飛びだした。
「はやく! はやく、逃げるんだ」
 ほんわりとしたまま湯につかっている沙織を力任せに引っ張り上げた。大声をだして父を呼びたいがこの状況を説明できる気がしない。
「なあに? どうしたの? だいじょうぶよ。まもるくん」
「なにいってんだよ! それが……」
 ふりむくと、そこにはもうなにもなかった。脱ぎ捨てられた沙織のゆかたが地面に落ちているだけだ。
「と、とにかく家に戻ろう。はやく、あがろう。また、来るかもしれない」
 みだらな気持ちなどあとかたもなくふっ飛んでしまった。あたふたとシャツを着込んで風呂の用具を一角に押し固めた。
「……ふうっ」
 満足そうにため息をつく沙織をたたきつけるようにせかして、ゆかたを着せた。
「な、なんなんだ。あれは、ぜったいあんなの変だよ。あんなのありっこない」
 黙っていられないまもるは独り言のように猛然と喋り続けた。
「うふふっ、まもる君ったらおかしいのね」
 やっと帯を締めた沙織が艶然と微笑んだ。「……君はあれになにかされたんじゃないのか? ……」
 恐ろしい予感にさいなまれて、まもるは沙織から一歩退いた。
「あ、あんなもの聞いたことない。襲われたらどうなるかわからないじゃないか」
「えっちな気持ちになるのよ」
「……えっ?」
 こともなげに沙織が言った。家に向かおうとしていた足がおもわず止まってしまった。
 すこしづつ彼女の様子が普段どおりに戻っていく気がした。まもるは手を伸ばして彼女の胸に触れようとした。
「いやっ!」
 身を翻すと同時に、すばやい平手打ちで頬を打たれた。
「なにするのよ」
 ふつうの女の子の反応が帰ってきた。
「…………」
 まもるはわけがわからなくなって、呆然と沙織の顔を見つめていた。
「やあね。そんなに見ないでよ」
 ぽっと頬を赤らめて沙織は顔をそむけてしまった。
「お、襲われたことがあるの? ……あれに」
「襲って来るようなものじゃないわ。ぷかぷかしてるのよ」
「ぷかぷか?」
 ちらっ、と目のはしに光のちらつきが映った気がした。はっとしてまわりをすばやく見渡した。
「いたっ」
 あれが庭の方にむかってただよっていた。ゆらゆらとたゆたう、空気に光を溜めたようなそれは音もなく遠ざかっていた。水中に漂う油のように、透明ではあるのだが、あきらかに回りとは異質だ。
「あなたもあれに入ってみたらよくわかるわよ。どうってことないんだから」
 沙織はくったくなく笑いながら、まもるの手を引いた。
「じ、冗談じゃないよ」
 あわてて手を振り解いたものの、まもるはそのあとをついていこうとしていた。
 それは、人の背丈ほどの高さを保ってふらふらと頼りなくただよっていた。真っ暗な庭さきの木々をかすめて、さらに奥のかんがい用水路の小さな土手にむかっていく。まるで、あまりに軽いために、さらさらと流れる川面の冷たい空気にすら翻弄されているようだ。
「見て、だれかいる」
 沙織の指さした方向、土手の上に人影らしいものが見えていた。星空をバックにシルエットがかすかに浮かんでいる。ひとりではないようだ。おそらく男女のカップルである。
 すっかり普通の十四歳にもどった沙織はまもるといっしょに背を屈めてそれの追跡を楽しんでいた。その姿は暑い太陽の下で遊んでいた、あの元気な女の子以外のなにものでもなかった。
「あぶない、ぶつかるぞ」
 それは狙い定めたようにカップルに向かっていった。
 まもるははらはらと成り行きを見ていた。カップルはあまり仲が良くないようすで、はた目にも白けたムードがただよっていた。男がしきりになにか話しかけているが、女のほうでまるで相手にしていない。
「なにをやってるんだ。気がつかないのか?」
「いいから、放っておきなさいってば」
 沙織はあれがカップルにぶつかるのを期待しているように言った。
「仲が悪いんならかえってふたりのためよ」
 まもるには沙織の言っていることが理解できなかった。まもるのまっすぐな正義感はとても彼らを見殺しにはできなかった。
 のほほん、と言ってのける彼女をにらみつけると、大声をあげて駈けだした。
「おおい! 離れて! そこの人たち、よけて!」
 両手を振りあげて土手に向かって走っていく。カップルはまわりに誰もいないと思っていたらしく、突然のまもるの出現にとまどっているようすだ。びくっ、と動きを止めたまま、まもるのほうに視線を向けていた。それどころか彼に向かって手を振ろうとしていた。
 土手までは百メートル近くもある。蛙の大合唱にはばまれてまもるの言葉が聞き取れないのだ。
「逃げてってば! 見えないの!」
 懸命に走るが、サンダルばきで草地を進むには限度がある。光るあれのほうを指さすが、手を振っているとしか取られない。
 月の明りを吸い込んで、一層きらきらと輝きだしたそれは、まもるの邪魔を察したように速度を上げた。頼りなくふらついていた進路が急に確かな意志を持ったように、カップルに定められた。絶望に顔がうっ血した。
「あぶない!」
 声を限りに絶叫した。
 それは、ひときわおおきく広がったかと思うと、あっけないほどあっさりとカップルを飲み込んでしまった。
「やられたっ……!」
 それを目の前にしながら、その惨事をとめられなかったことに激しい後悔が胸を突いた。
 ようやく異常に気づいたらしいカップルは不思議そうに自分たちの回りを包む、ちらちらと瞬く光を見ていた。しかし苦しむようすもなく、ゆっくり手を広げて光の粒を感じようとしていた。
まもるは呆然と立ちすくんでその光景を見ていた。
 ……だめだ。もう、間に合わない。助けられなかった……
「まっ、待ってよ。まもる君。だいじょうぶだってば。……心配しないで」
 やっと追いついた沙織は、若い汗の匂いをまき散らしながら苦しげに言った。
 それは襲いかかったときと同じくらいあっさりとカップルから離れていった。すいっ、と風に飛ばされるようにふたりを離れて暗い田の彼方に吸い込まれていった。
 カップルは不思議そうにお互いを見つめあっていた。
「……なんともないのか? ……」
 カップルの無事なのが、まだ信じられずにまもるはつぶやいた。
「もうっ、あたしの言うこと全然信じてないのね。失礼しちゃうわ」 
 沙織が腰に手を当てて、さもおかしそうにまもるをにらみつけた。まるで化学の実験に目を廻す小さな子供を楽しんでいるような顔つきだ。しかし、まもるはそれどころではなかった。彼の常識にこんな不合理な光は存在しない。教科書にだって出てこない。
「あら? あれってあなたのお父さんとお母さんじゃない?」
 沙織がつぶやいた。
「えっ?」
 ぎょっ、としてまもるは目を凝らした。カップルはふたりに近づいてこようとしていた。土手を降りてこちらにまっすぐ向かって来る。
「……まもる」
 男のほうが声をかけてきた。
「パ、パパ……」
 さあっ、と血の気が引いていく気がした。
「ど、どうして、パパが……」
 横にいるのはおそらく母親の恵津子だ。
「ねっ、だいじょうぶって言ったでしょう。まもる君」
 沙織が横で大きく目を見開いて言った。
「まもる、まもる」
 正面から父と母が近寄ってきた。
「いこう、まもる君」
 くすくすと笑いながら沙織が手を伸ばしてきた。
「う……わあっ」
 まもるは反射的にその手をふりほどいた。
「なによ。どうしたの?」
「まもる、まもるじゃないか」
「まもるね? いらっしゃい」
 三人が近づいて来る。まっ暗な中で三人の瞳だけがきらきらと輝いて見えた。普通の顔をして、いつもと変わらない声で。
 しかし、あきらかになにかが違う。特に母の恵津子は異常だ。違う。ママの眼があんなに生き生きとしているのなんて見たことがない。
 愛情を満たしているように優しく光っているが、それはきっとよこしまな欲望に捕らわれているからに違いない。
「よ、寄るな。……うっ」
 理由のない恐怖感がこみあげてきた。
「なによ。おかしいわね」
 沙織が躰を擦り寄せるように近づいてきた。びくっと手を引いて退く。一歩一歩と後ろに下がっていった。
「み、みんな。変だ、なんか……おかしいよ」
 ざっ、と草を踏みしめて啓介と恵津子がふたりの前に立った。その姿にひどい違和感を覚えた。
 ーーそう、ふたりが手をつないでいるのだ。
「まもる」
 啓介が声をかけた。
「まもる、どうしたの?」
 恵津子が優しい声をかけた。
「沙織ちゃんと遊んでいたのか?」
 にこにことふたりが笑っている。ぴったりと息のあった動作でゆっくりと近づいて来る。
「おいで」
 ふたりの声が告げた。
「うわああぁっーー!」
 まもるは絶叫してその場を駈けだした。あとも見ずになりふりかまわずに走りだした。
 変だ、ぜったいに変だ。あんなのはパパとママじゃない! ふたりはあれに乗っ取られたんだ。もう、あれはパパとママじゃない。 僕ひとりだけだ。もう、おしまいだ!


 どたどたっと転がり込むように家に駆け込むと、そのまま二階の客間に飛び込んだ。
「おおっ? どうした、まもる。こっちに来い。一杯やろうぜ」
 孝弘がけげんそうに声をかけてきた。彼は酒の話しばかりだ。一瞬、わけを話して警察を呼んでもらおうかと考えたが、彼らもあれに襲われていないという保証はない。
「な、なんでもない。もう、寝るから、お、おやすみなさい」
「なんだ、なんだ。また、沙織にいじめられたのか? わはははっ」
 彼の頭のなかには、思考パターンが二つ三つしかないのではないだろうか? 布団はもうひいてあった。まもるはいざというとき、すぐ逃げれるようにと、服を着たまま掛け布団をかぶった。
 興奮で寒気がする。五感がいまだ経験したことのないほど研ぎ澄まされている。納屋のほうで車のエンジンのかかる音がした。
 孝弘のご機嫌な大声はあいかわらず階下から聞こえて来る。啓介と恵津子がどこかに出かけようとしているのだ。こんな時間にいったいどこへ?
 それでも彼らがここへ上がって来るよりははるかにましだ。どこかにいってほしい。化物の仲間のところにか? 宇宙人に連れ去られてしまうのか? 沙織は? 僕はたったひとりで置き去りにされてしまったのか? それとも仲間にしようと襲ってくるのか? パパとママが襲ってきたら自分は戦えるのか?
 その日、まもるは朝焼けがしらじらと昇って来る頃、やっと浅い眠りについた。


 さわさわと人が動き回る気配が枕元でした。
「……んっ……」
 まっすぐ射込んできた太陽のまぶしさに目をしばたかせた。しばらくはなにも見えない。
「あらっ、やっとおめざめ? よく寝たわね」
 母の恵津子の声だ。
「…………!」
 急速に記憶の糸がつながった。ママがいる! がばっ、と一挙動で跳ね起きた。渇いた空気の明るい室内でママが上機嫌に掃除をしていた。
 家でも掃除の大嫌いなあのママが!
 そこに啓介が入ってきた。
 まもるは逃げ出すべきか躊躇した。しかし、長身の父を振り切って逃げられるとは思えなかった。しかも啓介と恵津子はあれのせいでパワーアップしているかもしれない。
 一瞬のあいだにまもるは様々に思いを巡らした。
「おっ、やっと起きたのか? 沙織ちゃんの友達が遊びにきているぞ。おまえもいって来いよ」
 と、啓介が言った。恵津子がうれしそうに啓介に寄り添っていった。啓介もなにか気恥ずかしそうに恵津子を見つめていた。
 まるで恋人同士のようだ。まもるは信じられないものを見るようにぽかんと見つめていた。いったいどうなっているのだ。
「お、おはよう」
 やっとのことでそれだけ答えた。
 なんだか自分がひどく邪魔者のような気がしてきた。やさしい目をして見つめ合っている恋人を、馬鹿面をさげて眺めている子供のようだ。
 あまりにも自分に興味を示さないのが妙に拍子抜けである。とりあえず、いますぐ襲われて仲間にされることだけはなさそうだ。
「あっ……行ってくるね」
 彼らの感心が自分に向かないうちに逃げだしたかった。枕元に用意しておいた替えのシャツを掴むと、ふたりを残してそっと引戸を閉めた。
 本当にまるっきりまもるは無視されていた。
「どうなっているんだ?」
 ふたりの雰囲気は抜群だ。ママがとってもかわいらしく見える。まるで漫画の女の子のように可憐だ。パパはきっとどきどきしているに違いない。
 ……えっちな気持ちになるって?……
 昨夜の沙織の言葉が思い出された。恐怖に狂った自分の姿がばかばかしくさえ思えた。
 ふたりの邪魔をしないようにと足音をひそめて階段を降りている自分に気が付いた。
「なにをやっているんだ、僕は……」
 そのとき、家の外から激しくなじり合う声が聞こえてきた。まもるぐらいの年齢の男女が言い争っているらしい。沙織の声もときどきまじって聞こえる。
 よその土地の子の喧嘩に参加するつもりは毛頭ない。玄関をすこし開けて様子を伺おうとしたとき。
「ばかあっ!」
 すごい罵声を相手に浴びせて沙織が飛び込んできた。すっかり興奮して真っ赤な顔をしている。うっすら涙すら浮かべて鼻息を荒げていた。
「ど、どうしたの? 友達が来てたって聞いたよ。喧嘩でもしたの」
 まもるはくちびるを噛んで立ち尽くす沙織に恐る恐る近づいていった。肩に手をかけて良いものかどうか判断しかねた。くやしそうに肩を震わせる沙織は、まもるの顔を見ると声を殺して泣きだした。
「どうしたの、なにか言われたのかい?」
 昨夜の大人びた沙織の姿からは想像もできない子供らしい泣きかただった。
「部屋に行く? 行こう?」
 ポケットに入っていたしわくちゃのハンカチをそっと差しだした。
「わあっ! …………!」
 せきを切ったように沙織は泣きだしてしまった。その場にしゃがみこんでまんまるに躰を丸めてしまった。
「あ、あいつらったら、あいつらったら……」
 友達のことを言っているらしい。
「ど、どうしたのさ」
「昨日、うちのお父さんたちが車でホテルに入っていったって。うそばっかり! そんなの、うそばっかり! ……」
 やっとのことで、それだけ言うと沙織は
ハンカチに顔を埋めて、また激しく泣きだしてしまった。
まもるには、直感的に話しが見えた。
「……パパとママだ……」
 沙織にわからないように、そっとつぶやいた。複雑な気持ちに襲われて、声を出さないのに苦労した。
 それはきっと昨夜、車を借りて出かけたまもるの両親のことだ。こんな街はずれで、ふたりが夜中に行けるところといったら、他にどこが考えられる?
 きっと沙織の言った通りになったんだ。あれに襲われてパパとママは怪人になったのでも、宇宙人になったのでもない。ふたりは前とかわらずまもるの両親だ。
 きっと、たぶん、ちょっとだけえっちな気持ちになったんだ。


 あっという間の一週間が過ぎた。今日はもう、まもる達の帰る日だ。午後一番の電車に乗る予定になっていた。駅までは孝弘が送っていってくれる。
 その日、まもると沙織はあの防風林に行っていた。
「ほんとうに入ってみるの?」
「うん、入ってみたいな」
 あのホテルの一件以来、沙織はすっかり普通の女の子になっていた。防風林にさえ近づこうとしなかった。でも今日はまもるのたっての希望であれのもとに来ていた。
 それは、あいかわらず木漏れ日の中でゆらゆらときらめいていた。それがなにかは結局わからなかったが、どういうものかはなんとなくわかっていた。
 すくなくとも危険なものではない。それどころかまもるにとっては両親の仲を取り持ってくれたありがたい存在だ。東京に帰るまえに、ぜひまもる自身もそのえっちな気持ちというのを体験してみたかった。
「沙織ちゃんはどうする?」
「あたしは……いいわ」
 すまなそうに沙織はつぶやいた。ホテルの一件は少女にとってよほどのショックだったらしい。あれいらい化粧を落としてしまったように、すっかり子供の顔になっていた。
 最初の衝撃的な出会いに始まった沙織とのつきあいは、年相応ではつまらなかったのも正直なところだ。
 しかし目線を揺らすそんな沙織の姿がいじらしくて、まもるは彼女を抱き締めたかった。顔をあれのほうにそむけてそんな不謹慎な気持ちをぐっとこらえた。
「じゃあ、はいってみるね」
 すうっ、と息を吸い込んでまもるはまっすぐまえを見つめた。
 荒い笹をかきわけるようにして、その光の中に進んで行った。おおきく目を見開いてこれから自分に起きる、なにか素敵な変化を見逃すまいとするように。
 薄ぐらい林のなかに降り注ぐ金色の光のシャワーに全身がひたされていった。
「だいじょうぶ? まもる君。平気?」
 沙織の声が遠くに聞こえた。
 ふわっ、と暖かい空気が離れるように、まもるは光の中から抜けていた。沙織の立つ暗い木々の下に目がなれるまで、しばらくかかった。じょじょに彼女の姿が見えてきた。心配そうな目をして彼を見ている。
「……僕は、ぬけたのか?」
 ぼんやりとまもるはつぶやいた。ゆっくりと後ろを振り向いてみると、そこにはあれがゆったりと浮かんでいた。
「だいじょうぶ? 気持ち悪くない?」
 沙織が胸で両手を固く握りしめて近づいてきた。まもるは変化を探すように両手を広げて自分の躰をしげしげと見渡した。
「……なにも、変わってないみたいだな……僕はどこか、なにか違う?」
 ほっ、とするように沙織は微笑んだ。
「さあっ? どうかしら」
「べつに、えっちな気持ちになんてなってないよ。……おかしいな」
 やっと笑顔を取り戻した沙織がくすくすっと笑った。
「男だからかな?」と、まもる。
「きっと、もともとえっちだったんじゃない? まもる君って」
「へんだなあ」
 まもるは納得いかなげにぶつぶつ文句を言った。
「また僕が来るまであるかな? あれ」
「たぶん。ここになにかあるあいだは、ずっとぷかぷかしてると思うわ」
「えっ?」
「昔からあったはずよ。これからもあると思わない?」
「…………」
沙織はごく自然にあれの存在を受け入れているようだ。あってもなくても当り前といったようすである。
「ああいうものが、むかしから神様にされたり、妖精にされたりしていたんでしょう。きっと。でも、いまはもう……しばらくいいな」
「それなら、別に森のなかじゃなくても、あるかもしれないのか。そのへんの街角にも」
「それはそうじゃない? きっと温泉みたいなものなのよ。いろんなところに、いろんな種類があって、役に立てばありがたがるっていうような程度の」
 素直な笑顔で沙織は言った。
 そんなふたりの会話を知ってか知らずか、それはゆらゆらと太陽を浴びて輝いていた。
「……おぉーい、まもる。帰るぞ。まもるーー」
 防風林の外のどこかから、啓介の声が聞こえた。
「まもるーー」
 恵津子の声も聞こえる。あれから二人は生まれ変わったように仲がいい。特に母の恵津子の変わりかたは、おそらく啓介が一番驚いているのではないだろうか。少女のように可憐で初々しい。しかもまもるから見てもーー色っぽい。
「あっ、もうそんな時間か。いかなきゃ」
 まもるは急に現実に引き戻されて飛び上がった。
「じゃあね。沙織ちゃん。また」
「待ってるわ。来年も来てね」
 まもるはなごりおしげに沙織の顔をじっと見つめた。沙織も満足そうに、そして少し寂しげに見つめ返してきた。
「…………」
 どちらからともなく、顔を寄せあっていった。寄せあった先に唇があった。たったそれだけのように、ふたりは自然にキスをした。
 幼い唇どうしは渇いたままふれ合い、離れていった。
「またね」
「うん」
 ふたりは手を取り合って防風林を駈け出した。外の世界はまぶしい光に溢れていた。
一度だけふりむいたまもるの目にあれは見えなかった。
 まもるの夏休みは来年へ、再来年へ続いていった。



 

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