ガッツァ・ラン
白く輝く乙女の肌が、星の光に濡れて光った。
宇宙に浮かぶ、巨大なエリーゼ。
彼女の力は星を跳ぶこと。
豊かに広がる金髪が、肩から腰まで波うちなびく。
瞳はガラスのように透きとおり、かすかな青に星を映した。
彼方を真摯に見つめる眼差しは、見る者すべてを牽きつけた。
誇らしげにそらした胸は、豊かな乳房を高くかかげる。
バレリーナのように広げられた両の手は、指先までに心が配られて隙がない。
微笑みを浮かべた口許は、朱に彩られてしっとり光る。
海を泳ぐ人魚のような、美しくも不自然な姿勢。
直接な言い方を許してもらえば、裸の女性がよつんばいになって、背をそらし、顔を前に向けて、左手を思いきり後ろに伸ばしたかっこうだ。
じっとたたずむ彼女には、なぜか脚がなかった。
緊張した背中からくびれた腹へ。そして優美な曲線を描き、急激に肉付く腰から下は、黒い布でも巻きつけたかのようにすっぱりと見えなかった。
そう。彼女は下腹部より下が存在しなかった。人で言う恥骨の少し上を基点として、下半身がきれいに切り取られていた。
失礼を承知で真下からエリーゼをのぞき込むと、下腹部の断面には、鉄色の推進機器とブースターチャンバーが渦を巻いていた。
彼女が宇宙船であること証だった。
彼女の乳房の谷間には、奇妙なマークが画き込まれていた。人の頭骸骨にクロスしたナイフとフォーク。
(Don't eat というヤツだ)
それが巨大な美女。そして恒星間宇宙船・エリーゼの呪印だった。
「やったなあ……」
黒く長い髪の若い男が両手を合わせてつぶやいた。
彼の名前はヴァルティラ。
彼はとても端正な顔をしていた。そして自分でもハンサムなことを自覚していて、女の子が大好きだった。
コロンにはオールドオリーブを欠かさない、キザと粋のきわどい線に立つ男だった。
「バイトに狂った二年半」
もうひとりの若者、ジーンがうなった。
金灰色の髪の鋭い目つきの男が拳を握りしめて涙を流した。
顔の造りはきゃしゃである。どちらかというと女顔だ。しかし乱暴者だった。
目つきが少々悪い。体力に恵まれているためか、力勝負をかけるのが得意だった。
たとえば道路工事アルバイトとか、試験前の徹夜二日間とかだ。
「やっと手に入れた、エリーゼ九十九年型。もうぜったいに無理だと思っていたぜ」
「ジーン。僕たちはすごいな」
「ああっ、ヴァルティラ。おまえはいい奴だ」
「ジーン」
「ヴァル!」
「ああっ、ジーン!」
「ヴァルティラ」
「こぉらこらこらあ」
両手を広げた二人の間に少女が割り込んだ。
「女の子を前にして男同士で抱き合うなんてバカじゃないの?」
少女の名前はリミ。ヴァルティラの資産である。
彼女は人造物であり耐久消費財だ。機械U型アンドロイド。すなわち駆動系が機械仕掛けのアンドロイドだ。生体部品は用いていない。
もっとも十五才に偽装された見かけは、とても精密であり、触った程度では人との区別はつかない。肩までの赤髪は、軽く内側にカールしている。濃い黒の瞳は、機械仕掛けの瞳をうまくカムフラージュしていた。
愛くるしい卵型の顔は、一部のコアな者たちには、よく知られた顔だ。
「紅蓮の酒乱たち」という人気映画のヒロインデザインの、没になった顔だった。
それはヴァルティラの趣味だった。
「リミは黙ってな。おまえに男の浪漫がわかるかよ」
「なんですって、ジーン。男の浪漫のお金をつくるのに、いたいけな女の子に抵当権を設定して銀行から借金する甲斐性なしが言うこと?」
リミはテーブルの上のバスケットからパンを取り出し、ジーンの頭を殴り飛ばした。
「ああっ! この罰当たり。「パンを踏んだ娘」って有名な童話を知らないのか」
「パパンがパンが、どーしたのよ。つぶれあんマンにしちゃうわよ」
「ふふん。まあまあ。ふたりとも」
ヴァルティラがパンのバスケットから真っ赤なイチゴジャムを取り出して、騒ぐ二人の顔に髭を書いた。
「エリーゼを手に入れた、めでたい日に免じて、喧嘩はなしだ」
ヴァルティラはスパークリングワインの栓を飛ばした。ぶしゅう、と飛んだワインは派手に周囲に飛び散った。
「ヴァル! バカ! エリーゼ壊す気?」
「わあ、もったいない。なめろなめろ」
「ジーーン! あたしの靴の裏でもなめろお!」
ばくっ……。リミの飛び蹴りがジーンの顔面に炸裂した。
ヴァルティラとジーンが購入したのは宇宙船だ。
エリーゼ。彼女は百メンツル級の骨子型船だ。本来の彼女は骨組みとなる構造財むきだしの、速いがとりえの若者むけ廉価船にすぎない。
もちろん人型などしていない。エリーゼの長く伸ばされた手は、本来観測ポッドがあった部分だ。デザインを重視した結果、なんと彼らは、アームだけを残して観測ポッドをはずしてしまった。
学生である彼らは中古で入手した彼女に、購入額以上の費用をかけて人型の外装を施した。それはひとえに彼らの趣味だった。
学生であり若者である彼らは、悪のりと暴走が大好きだった。
「まっ、いいやね。いくぜヴァルティラ。ドライブに出発だ」
ワインを空にしたジーンが、くすくすと笑いながら拳を振り上げた。
ヴァルティラとジーンは、共にビビアンヌ学園で法呪経済学を専攻していた。彼らの理解する法呪経済学とは、アルバイトに励み、社会と接して金を稼ぐことにあった。
もちろん稼いだ金は彼らの社会勉強に費やされた。しかしそんな彼らにも宇宙船は高価な買い物だった。ふたりは共同所有の契約でエリーゼを手に入れたのだった。
「よし。いこう。エリーゼ。二千光年宇宙の旅だ」
ジーンが言った。
「ローロウナが待っている」と、ヴァルティラ。
「りょうかい」
色っぽい女性の声がリビングに流れた。
彼らがいるのはフローリングの床にクッションを散らしたリビングだった。
エリーゼに操縦室はない。小さなマンションほどの居住区は、文字通りマンションと同じ作りになっていた。リビングでテレビを見てくつろぐように、エリーゼは操縦された。
賢い彼女は口頭で指示されるだけで、どこにでも飛んでいってくれた。
非常用のコンソールは、ダイニングテーブルの裏側に収納されていた。
エリーゼの秒読みが始まった。
「ジャンプします。3・2・1。起証」
橙色の夕焼けが山脈の彼方に沈んでいった。
大気は紫に染まり、大地に色を落とした。
鳥も飛ばないはるかな空の上にエリーゼはいた。
地平線が丸く円弧を描く高見から、女神のような彼女は下界を見下ろした。
「見ろ、ジーン。あれがメケ大陸西端だ」
彼らの初ドライブは、惑星ガッツァだった。
ガッツァは重力が小さいが、二酸化炭素を多く含む大気を持ち、大気は濃く暑かった。
そしてこの星の霊長類は有翼人だった。
ガッツァへの低空進入においては、宇宙船、航空機の反動推進機使用が禁じられていた。空を飛ぶすべての生物に危険が及ばないように、重力制御機器による降下が義務づけられていた。
重力制御装置は、エネルギーをバカ喰いする機械だ。
大気圏内の鳥が飛ぶ高度に降りたエリーゼの回りには、重力制御界が派手な色を見せはじめていた。制御界は自ら発光し、虹色に輝いていた。
制御界に触れるあらゆる電磁波は、人の可視領域近くにまで下げられる。
エリーゼは、虹色の光に包まれていた。
物見高い鳥たちは、早くも彼らの回りを乱舞していた。
小さな鳥たちは、銀色に輝く身体をくねらせて、数千匹の単位で、彼らの回りを旋回して、飛び去っていった。
「キュキュゥゥゥゥゥ」
互いに交わす高い声が、空の彼方に消えていった。
「……まるで海の中みたいだ」
夕日に紅く染まったジーンが言った。
「ああ。ほら見ろよ。ガッツァの有翼人だ」
「おおおっ。ほんとに飛んでるぜ」
かすかな高い音をたなびかせて、十文字のピンクの有翼人が飛んでいた。
まだ雲と同じ高さにいる彼らの眼下を、数十体のガッツァ人が飛んでいた。
彼らはぴったりとした飛行服をまとっていた。薄紅色のウサギ毛皮で作られたスーツは、美しい体のラインを強調していた。
「羽が腰から生えている……」
ジーンがつぶやいた。有翼人たちの体の構造は、天使というよりも人馬に近かった。人によく似た上半身を持ち、足もまた人に似ていた。
しかしその腰には、強力な筋肉を持つ、鳥の上半身がついていた。
まるで娘が帯を広げるかのように、極彩色の翼が大きく開いていた。
腰が空力中心だ。上半身と長い足は、巨大な翼とクロスするように伸びていた。
彼らは学校の友人である、ガッツァ人ローロウナを訪ねてきたのだ。
エリーゼを見せびらかしたいのが半分、彼女が参加するガッツァ・ランを見物するのが半分だ。
「ついたわ。ガッツァ・ランの練習空域よ。高度合わせ完了。見て。ローロウナたちよ」
リミが言った。
彼らの前の壁は全面がモニターになっていた。
まるで部屋の一面に、壁がないかのように外が見渡せた。
彼らの眼前に、ガッツァの半球型飛行艇がゆっくりと近づいてきた。
それは直径三十メンツルほどの、磨き上げられた金属の球をスパッとまっぷたつに切り取った形をしていた。
今は早朝である。紫がかった朝日が、ピンクの雲の隙間からのぞきはじめていた。
自分の色を持たない銀色の飛行艇は、朝日に染まり美しく輝いていた。
エリーゼの眼前で停止した飛行艇が、軽く機体ゆすって挨拶をした。
そして平らな上面の一部が開くと、有翼人が十数人ほど姿を現した。
全員が極彩色の服を着ていた。
彼らの容姿は、人間にとてもよく似ていた。上半身だけを見れば、さほど違和感は感じない。首が少し長く、髪の毛が直径五ミルほどあり、鼻が倍くらい高くて、こうさいが二重構造の望遠機能付きで、指先が爪がで覆われていて、肩の骨とけんこう骨が、二重関節になっており、極端な撫で肩に変形可能なくらいの差である。
ただし下半身は、まったく違った。
彼らの翼は、腰から生えていた。
人で言うとお尻から、ということになる。
発達した骨盤に、びっしりと筋肉がまとわりつき、股関節のすぐ上から翼関節が伸びていた。翼は腰に蓄えられた筋肉と、発達した背筋、大腿筋肉で動いていた。
そして上半身よりも長い脚がすらりと伸びていた。
脚の筋肉はとても強力だが、歩行よりも飛行のために用いられる部分が多いために、走るのは苦手だった。
彼らの体はそれほど大きくはない。
男女の体格差はほとんどなく、平均身長は百五十サンツほどだった。そして体重は軽く平均わずか二十五ケージイ。
「ヴァルティラ!」
よく通る声がエリーゼの中に響いた。
有翼人の一人が、大きく手を振って彼の名前を呼んだ。
「ローロウナ。ローロウナだ」
ヴァルティラはうれしそうに手を振りかえした。
もちろん外からはヴァルティラの様子は見えない。
「ダイブが始まるぜ」
ジーンが言った。翼をきっちりと畳んだ有翼人たちが、次々と飛行艇から身を踊らせた。
彼らが見物に来たガッツァ・ラン、つまりダイブとは、飛行生物である有翼人が、自らの翼だけを用いて行うスカイダイビングのような競技だった。
すごい速度になる落下のなかで、彼らは自分の翼だけで、減速、飛行に移行しなければならない。
それは飛行生物の本能に働きかける恐怖を持っていた。
翼を持つ者にとって、空で羽ばたかないということは、ひどく違和感のあることだった。
まっさかさまに落ちる、すさまじい速度の中で、突然に翼を広げることはできない。そんなことをすれば、翼を骨折することはまぬがれない。大事な羽も傷めてしまう。
少しずつ翼を伸ばして、おだやかにそして優美に減速しなくてはいけない。
それはおよそ人間には計り知れない奥深さを持つ競技だった。
「ああっ、いいな。きれいだ。すごいな」
ヴァルティラは次々と降下していく有翼人たちの優美な翼使いに嘆息した。
「ジーン。俺、行ってくるよ。がまんできない」
目をウルウルさせてヴァルティラは言った。
「えっ? 行くって? なにさ。外に? やめろよ。邪魔しちゃだめだ」
ジーンは立ち上がろうとするヴァルティラの肩に手をかけた。
その手がヴァルティラの体を、スカッとすり抜けた。
「えっ?」
驚いたジーンは、まじまじと自分の手を見た。
すうっ、とヴァルティラの姿が消えていった。
「ハローー! ジーン。そういうことでフォローよろしく」
エリーゼのモニターにちゃらちゃらとした宇宙服を着たヴァルティラが映っていた。
彼はエリーゼの外に立っていた。
「あんの野郎、いつのまに! ダミー体を見せてやがったのか。なんて奴だ」
「ジーン。さっきヴァルティラが出ていったの知らなかったの?」
リミはへらへらと笑って言った。
「なにおう!? なんなんだあいつは。ガッツァの人達に怒られてもしらないぜ」
「ローロウナに断りをいれてたみたいよ」
「だったらなんで俺に内緒さ」
「話してたらジーンも行きたいって言うでしょう? ヴァルティラはローロウナとふたりでダイブしたかったのよ」
「きったねええええ! ずっけーーぞ、ヴァル!」
ドちくしょう! と顔に書いて、ジーンはリミにヘッドロックをかませた。
「じゃ、そういうことでね」
ヴァルティラが笑った。
飛行艇からローロウナがダイブした。
両手を上げて、ヴァルティラを誘うように爪先から虚空に身を踊らせた。
「らりほっーーーー!」
ヴァルティラは奇声を発して後を追った。彼は宇宙服の上に重力制御装置を背負っていた。小柄な女性ほどもある重力制御装置はかなり重い。この装置で人は飛ぶことができたが、とても高価な代物だった。
ローロウナたちの身体は、体格のわりに軽い。空気抵抗を受けて落下速度は上がっていない。ヴァルティラはたちまち彼女を追い越してしまった。
そのままふたりの姿は薄い雲の中に入っていた。
飛ぶことに不慣れなヴァルティラの回りを、ローロウナは軽々と舞ってみせた。
ヴァルティラは透明なフェイスマスク越しに微笑みかけた。
両手両足を広げた姿勢で減速する彼の横に、きれいに羽を畳んだローロウナが追いついてきた。
ローロウナたちは飛行中、両手を脇にぴったりとつけて、身体をまっすぐにたもつ。細く伸びた両足は、やわらかく動いて、バランスをとっていた。
腰から生えた極彩色の羽は、背中にそって畳まれていた。
激しい風圧からデリケートな羽を守るために、翼頂は後頭部へ、翼端は爪先にぴたりと添えられていた。
ヴァルティラは、フェイスマスクを少し開けてみた。
「ハ……ハイ。ローロウナ。今日もきれいだね」
想像以上の風圧に息を詰まらせながら言った。
「ピィーールルルル」
ローロウナが鳴いた。もちろん彼女は人の言葉を話せる。しかし空を飛ぶときの彼女は、ガッツァの有翼人だった。
大地の詳細が少しずつ見えてきた。
ヴァルティラの高度計では、現在高度三千メンツルだ。
ローロウナは彼に笑いかけると、スウッと離れていった。
そして慎重に羽を展開し始めた。まず、風きり羽を身体の両脇から差し出した。強烈な風で、羽はめくれ上がった。
風の流れを確かめると、さらに第一外翼を展開した。
彼女の上に回り込んだヴァルティラには、まるで小さな翼を広げたミサイルのようなシルエットに見えた。
そして翼の第二関節までが広げられた。すると翼の角度の関係か、彼女はすごい速度で前に進みはじめた。ヴァルティラは、あわてて腰の推進機を働かせると、彼女の後を追った。
「どうして手や足を広げないんだ?」
ヴァルティラは誰に言うともなくつぶやいた。
そのほうが手っとり早く減速できるはずだ。しかしローロウナはあくまで羽だけで制動をかけようとしていた。
「美しくないからよ」
ヘルメット内に、エリーゼにいるリミの声が響いた。
ヴァルティラのヘルメットにつけられたカメラ映像は、エリーゼ内でもモニターされていた。
「ガッツァの人達は、手足をばたつかせるなんて無様なマネは、ぜったいにしないの」
「……と、ローロウナが言ってたぜ」
横からジーンがつけくわえた。
「うるさい」
リミの声と同時に、なにか堅いものがぶつかる音がした。ジーンを殴ったのだろう。
「ああ、うん。そうだな。たしかにそうかもしれない。ローロウナはきれいだ」
夕日にむかってまっしぐらに飛んでいくローロウナは、ほんとうに美しかった。
三割ほどが展開された翼は、真っ赤な太陽の光を受けて虹色に輝いていた。
派手な衣装も、空の上ではすこしも見苦しくない。
七色に輝く暮れの太陽の中。刻々と色を変える世界にあって、ローロウナは神々しくすらあった。
「あっ!」
ヴァルティラはおもわず声を上げた。
突然にローロウナの翼が動いたのだ。
バン、と音が聞こえそうなほどの速さで、翼が真上に上げられた。
背中に対して直角に伸ばされた。
つまり捕らえた鳥の翼を人間が持った姿勢だ。翼を揃えて背中側で真っ直ぐに伸ばす。 翼の表がぴったりと重ねられて、柔らかい内側の毛が、表にさらされた。
パッ、と白い破片が飛び散った。風圧で細かな羽毛が吹き飛ばされたのだ。
彼女の飛行ラインをトレースしていたヴァルティラのヘルメットに、小さな羽が張りついた。
ローロウナは逆Tの字の姿勢で、落下を始めた。空気抵抗が減り、速度が増した。
彼女たちの降下は、ここからが本番だった。
ローロウナは、おなかをつきだすように、体を弓なりにしならせた。細い三日月のように、均等なカーブが描き出された。
すさまじい翼の力と集中力で、翼を先端から少しずつ広げはじめた。
風圧に逆らい、翼を前方にねじ込むようにして展開していく。
「……すごい」
ヴァルティラには、ローロウナが真っ赤な太陽をこじ開けようとしているかに見えた。
ガッツァの有翼人の翼は、関節が八個もある。そのために角度の自由度は大きい。地上での生活において、翼を意外なほどコンパクトに納めているのも、多関節があればこそだ。
そして今は本来の目的である飛行において、多関節の威力が発揮されていた。
風圧をさえぎる背中の影から、厳しい風の世界へ身を乗り出していく翼。
切り取られたたんぽぽの茎が、縦に裂けていくように、風を巻き込み、空気を割いて広がっていった。
「うわっ!」
そのときアクシデントが起きた。
キュゥゥゥン、と耳障りな音をたてて、ヴァルティラの推進機が沈黙した。
「え? おい、なんだ」
ヴァルティラは、グローブの指に連動したキーを操作して、推進機の状態をフェイスマスクに表示した。
「動力喪失」
キン、と鋭い音を最期に推進機が停止した。
「やば……!」
ぐるりと身体が回転した。重い推進機が下に回った。ヴァルティラは背中から落ちはじめた。
「うわ、わわわわっ。ジーン、ジーン!」
ヴァルティラは両手両足をばたつかせて助けを呼んだ。それは溺れる者のようになりふりかまわない姿だった。
視界いっぱいに広がった紫色の空。それは海中から空を見上げた、美しくも恐ろしい光景に似ていた。
「たいへん、ジーン。ヴァルが!」
リミがいち早くヴァルティラの異変に気づいた。
「えーー? ローロウナのウケ狙ってるんだぜ」
「バカ! ローロウナが助けようとしてるわ」
「まじか」
ジーンは、ソファからがばっ、と身を乗り出してスクリーンを見た。
ヴァルティラからの映像は切れている。
望遠映像が映し出された。
ジーンが遠くを見ようとして目を凝らした。エリーゼは彼の行動と意図を認識して、スクリーンをどんどんアップにしていった。
「おい、落ちてるじゃないか。たいへんだぜ」
「だから言ってるじゃない!」
ローロウナもまた、自分を追い越して降下していくヴァルティラを見たとき、ウケ狙いだと思った。
ヴァルティラとはそういう男だ。
女の子の気を引くためならば、明日の後悔よりも、いまのイッパツという性格だ。パーティージョークに貴賤はない、と豪語してはばからない。
しかしローロウナたちガッツァ人は、猛禽類なみの視力を持っていた。
ヴァルティラのひきつった顔から、只事ではないことを知った。
「ジーンジーン、ジーーーン!」
石ころのように落下するヴァルティラは声を限りに叫んだ。
彼の視界の端を、派手な色のなにかがよぎった。
「ロ、ローロウナ?」
ローロウナが両手を差し伸べて飛んできた。
そんな飛び方をするようにはできていないガッツァ人の身体は、ひどく不安定だった。「ピィィィィ」
するどく通る声で、ローロウナはヴァルティラに呼びかけた。
「うわあああ、ローロウナ!」
ヴァルティラは夢中で差し出された手を掴んだ。
「キュッ」
ローロウナは悲鳴を上げた。死に物狂いで伸ばされたヴァルティラの腕は、飛行生物としてのローロウナのことなど頭になかった。
たちまち二人は絡み合うように落下を始めた。
ローロウナは、歯を食いしばって、羽ばたこうとする翼を止めた。
落下に対するガッツァ人の本能的な反射である羽ばたき。しかしこんな状況で不用意に羽ばたくことは、翼を傷めることになりかねない。
エリーゼの中では、ジーンとリミが、バタバタと宇宙服を着ていた。
「エリーゼ! 降下だ。ヴァルティラのばかやろうを追い越せ。相対速度を合わせて拾うんだ」
「了解です。ジーン」
ぞくぞくするほど色っぽい声でエリーゼがこたえた。
「ヴァルティラ、ヴァルティラ! エリーゼで拾う。衝撃波で気絶しないようにローロウナ「えっ? あ、なんだって?」
「ローロウナを抱きしめて、翼をたたませろ」
「ジーン! 高度どのくらいなんだ!?」
「ローロウナにキスでもしとけっっつってんのがわからねーーか!」
「ああっ、最期のお祈りか。ローロウナが美人で僕はしあわせだ」
「死ぬときはひとりで死ねーーっ!」
ジーンの絶叫がリミをくらくらさせた。
「降下します。ジーン」
エリーゼがささやいた。
ヴァルティラの真横の空に、エリーゼが現れた。
宇宙を航行するための強力な動力は、大気圏内においても、その機体を軽々と操った。
瞬間移動のような唐突さで、巨大な女性のヌードが彼らの元に移動した。
「ぴぃぃぃぃーーー!」
ローロウナが悲鳴を上げた。眼前に高さ五メンツルもある化粧バリバリの顔が現れたのだ。
エリーゼは、落ちる彼らとわずかのあいだ並行した。そして一気に速度を上げて二人を追い越した。
「ジーンだ」
眼下に下がっていくエリーゼの腰に、命綱をつけたジーンの姿があった。
「エリーゼ。たのむぜ。うまくスピードを合わせてくれ」
ジーンが言った。
「うふん」
「地上まで、千メンツル」リミが言った。
「時間がない。いいぞ、そのままだ。ゆっくり……」
エリーゼは巧みな機動で、ふたりの真下に入った。見るみるふたつの人影は近づいてくる。
「いいぞ。もうすこしだ」
伸ばしたジーンの手に、ローロウナの指先が触れた。
「よし。もうだいじょうぶだ。ローロウナ。ありがとう。すごかったな」
すばやくローロウナの腕にストラップを掛けた。
次に、ローロウナと手をつないだヴァルティラに手を伸ばした。
「ヴァル……」
「ジーーン! いやあ、スリルだった!」
満面の笑みを浮かべて、ヴァルティラは両手を上げた。
ジーンに飛びつこうとした。
「……えっ?」
ふわりとヴァルティラの身体が宙を流れた。
「ばかーーーー! まだ固定してない……!」
ジーンが絶叫した。
あっ、と言うまもなく、ヴァルティラはエリーゼの機体の外に飛んでいった。
「あらーーっっ」
「バ……! くそっっ」
ジーンとローロウナは同時に空に飛びだした。
ジーンの推進機は、いきなりの全開運転に悲鳴を上げた。
「あと六百メンツルよ!」
リミが悲鳴を上げた。
「どこだ! どこいきやがった、ばかやろうは」
しかしなぜか空のどこにもヴァルティラの姿はなかった。
「……ピッ……」
ローロウナが美しいガッツァ人の飛行スタイルで滑空しながら、顎をしゃくって上を示した。
「上? エリーゼがどうかした……あっ」
ヴァルティラはいた。
エリーゼの背中まである金髪にしがみついていた。
蜘蛛のように、わしわしとエリーゼの巨体を登っていく。
「エリーゼ。ヴァルティラを収容した。制動かけろ」
グン、とエリーゼにブレーキがかかり、はるか上空に消えた。ジーンも宇宙服の推進機で制動をかけて、エリーゼの元に戻っていった。
「ひゃあ。高度三百メンツルよ」
リミはどっと椅子に倒れこんだ。すでに地上の様子は、手に取るようにわかる高さだった。
「たのしかったですね」
エリーゼが言った。
「おう、このあとでヴァルティラをブッちらばったるのが楽しみだ」
「ジーン、ブッチら……なんだって?」
ヴァルティラがのんきに聞いた。
「俺の歌を十曲聞かせてやるぜ」
「げげげっ」
「拍手しないと、さらに十曲な」
「身体によくない」
エリーゼの背中に座り込んだヴァルティラの元へ、ジーンとローロウナは降り立った。
ローロウナの翼が優雅に舞った。扇を二度三度と打ち振るような華麗な動きで、魔法のように翼が畳まれていく。多関節がなしうる自由度だ。
腰の回りに沿って、きれいに収納された翼は、巨大なスカートのようだった。
羽ばたくための強力な筋肉を納めた腰。その周囲をぐるりと回って、くるぶしまでを覆う、艶やかな色の渦。
翼をひろげた状態では、赤や青などの色も帯状に固まっていた。
しかし畳まれた状態では、細かく色が混ざり合い、ドレスとしてデザインされたかのように美しかった。
肩の二重間接が持ち上がり、人によく似た上半身が形作られた。
「ローロウナ」
ヴァルティラは感極まったかのように、ローロウナに近づいた。
「きれいだ……」
「ありがとう」
ローロウナが言った。その声は意外と低く、抑揚に富んでいた。
「ちょっとした見物だったわ。スリルが素敵よ。ヴァルティラ」
くったくのない笑顔で、ローロウナは首をかしげた。
きらきらと印象的な鳶色の瞳が、夕日に輝いた。
「ローロウナ、あんなのはスリルじゃない。ただの大バカ野郎だ」
腰を下ろしたままのジーンが言った。
まだ胸の動悸がおさまらない。
「ううん。ジーン。私たちの伝統的なゲームにあるのよ。飛べない生き物を空から落として、空中で確保するものが」
「……ほんとうに?」
ジーンは驚いて聞いた。そして思い出した。
「そうか、ガッツァ人って猛禽類……肉食の鳥が先祖だったっけ?」
「うふふふ。飛べない生き物は、空の上でなにをするかわからないから、とてもスリリングなのよ」
「あぶねーーっゲームだ」
「じゃ、私は行くわね」
ローロウナはゆっくりと翼を展開すると、助走を付けてエリーゼの背中から大空に飛びだした。
両腕を身体の脇にぴたりとつける飛行姿勢のまましばらく落下したかと思うと、バッと翼が開いた。
彼方の山脈に沈みかけた真っ赤な太陽を浴びて、美しい十文字の有翼人は飛んでいった。
「聞いたかよ。ヴァルティラ。おまえは飛べない豚だってよ」
「それは違う、ジーン。僕は魔法で人にされてしまった王子様だ」
「……なんで?」
「お姫様は助けた豚にキスしないだろ?」
「……するっってえとなにか。おまえはキスしてたのか。ローロウナと。俺とリミが真っ青になっていたときに」
「お姫様が王子様を目覚めさせる、聖なるキスさ」
「おまえの鼻水の味がしたことだろうぜ」
「僕は大空で交わしたキスを。彼女の唇の情熱を生涯忘れないだろう」
「短い生涯だったな」
ジーンがヴァルティラの背中を蹴りつけた。
「わあ、落ちるおちる!」
「ヴァルティラ、ジーン。だいじょうぶ? ローロウナはいっちゃったの?」
コ・パパスのかわいい宇宙服を着たリミが、エリーゼの背中に登ってきた。
「ああっ、見ろよ。すごい」
ヴァルティラが上を見上げて言った。
「うわあ……」
リミが歓声を上げた。
エリーゼの上空を、数十体の有翼人が飛んでいった。
鶴のように優雅で美しい彼らは、沈む夕日に向かって飛び去った。
やがてひときわ美しい翼が、彼らの編隊に合流した。
「ぴぃ……ぃいいいぃぃ……ん」
かすかに響くローロウナの声が、太陽の残光を消していった。
了
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