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征轟丸倒壊

第7章−9

 

 間が築いた最後の陣地。それは征轟丸と反対の東海岸に構築された。
 薄暗い中で炎が舞い、がしゃがしゃと装備の擦れる音が走り回った。法呪文の詠唱が低く高く流れた。
「いいですかーー! みなさん」
 アリウスが柄にもなく大声を出した。
「ハイセツ章第八節の十七音から声あわせるんですってば。勝手にやらないでくださーーいっ!」
 彼が統合する法呪隊。一人ひとりは極めて優秀だ。しかしここに集まったエルアレイ、ロスグラード、海京の法呪使いたちは、別々の文化で暮らしてきた者たちだ。最後の合奏を確かめてみるとトラブルが続出した。
 普段なら他人の指示になど耳も貸さない彼らだが、プライドをかなぐり捨ててアリウスの指示に食いついていった。あのゲイゼウスやカリンビールまでがだ。
 カリンビールたち天海女の祭り人は祭壇を設けて、天海女を鼓舞する祭を捧げていた。わずかに運び出された貴重な祭太鼓が、竜皮も破れよと打ち鳴らされた。
 征轟丸によって作られた薄闇の中で、祭り人たちの白い祭り装束が、幻想の翼人のようにひらめいた。
 佐竹はカーベルとともに作戦位置についた。
 必死に練習を繰り返す人間たちの列の後方、東海岸の波打ち際だ。
 直径五メンツルの丸い塩入り盛土が作られた。その上に月と麦をあしらった淡色絨毯がひかれた。佐竹は中央に片膝を立てて腰を下ろした。
 老神は羽織物をはだけて上半身裸となった。神の甘い体臭に惹かれて、無数のクンフが光を放ちながら集まった。佐竹は身体の回りに薄い舐舌層を築き、触れたクンフを片端から法呪滋養として取り込んでいった。
 老いた肌が、心なしか張りを取り戻したように見えた。
 先の海京の戦いで重い傷を負った祭り人が五人、担架で運ばれてきた。彼らは包帯に巻かれた身体を信じられない精神力で起こすと、佐竹の前に進み出て正座した。
 口にイサカ梅の小枝をくわえると、佐竹に向かって深々と礼をした。
「ィィィイイイイイイインンンッ」
 佐竹の深緑の瞳が薄く開かれて、静かな高速言語が放たれた。五人の身体は激烈な変化に見舞われた。またたくまに色と輪郭を失いはじめた。佐竹の法呪滋養として昇華されたのだ。
「ン」
 祭り人は消え失せた。彼らがこの世にいたことを示すのは、地面に残された薄い着物と包帯だけだった。包帯の血糊さえ昇華されて、いまはない。
 カーベルは新品の赤金甲冑を身にまとい、老神のうしろに立った。敷物に登ることを許されていた。
 盛土の回りには、佐竹を慰め陰気から守るための葵草鉢がありったけ置かれた。それはエルアレイから発掘された神々の遺産だ。汎神族の鑑賞植物だったと考えられていた。
 盛土の前を行き交ういくさ装束の人間たちは、佐竹に頼もしげな視線を向けた。
 征轟丸の影は陣地まで伸びていた。冷たい風と海水の雨は間断なく降り注ぎ、いまだに衰えることはなかった。
 地平線の彼方にありながら視界の全てを圧倒する征轟丸。船体は蜃気楼のように虚ろでありながら、頑然とした存在感で迫っていた。
 佐竹の腰までもある白髪は、雨でたちまちべっとりと濡れて肌に張りついた。
「キイィィィィィィアァァァァァァァン」
 佐竹の口から再び高速言語がほとばしった。長く響く声は切なく哀れだった。
「……ィィイイイァァ……アアアァァァン……」
 どこからか高速言語が返された。
 それは真四季の声だった。
 佐竹は遠聞の法呪で真四季に言った。「記録者であれ」と。
 しかし真四季は佐竹の忠告を断った。それはありえない選択だった。
 彼は征轟丸の脅迫に恐怖しながらも事業を中断できなかった。
 真四季は人間たちの想いを侮っていたことを知った。
 汎神族のものであり、いくさ船であるはずの天海女を、人間たちがこれほどまでに守ろうとすることが理解しがたかった。
 理性では説明しえない人間の狂気。
 真四季はカーベルに、ボッシュの格子を用いて由紀野を復活させることの理を説いた。まさに人間にもわかるように噛んでふくんでだ。しかし彼女は言葉を無視した。恋人を犠牲にしてまでインスフェロウを選び計画にあらがった。
 真四季が考えるよりも、人間はタフな生き物であることを見せつけた。
「おのれ、人間ども。我が事業をさまたげるな」
 真四季は生まれて初めて殺意を感じた。
 佐竹の言葉もすでに届かなかった。
 いくさ船の乗組員であった彼だが、憎しみをもって人間を殺したことはなかった。そのような感情は、生き物を保護するべき汎神族の立場を汚すものであると考えていた。
 彼は他の汎神族と同様に、神々は人間をいかようにも扱う権利があると信じていた。しかしそれは自らの楽しみか、あきらかな目的の遂行のためであった。
 いま彼が胸に抱く感情は憎悪だった。人間が真四季の計画を妨げようとしていることの理不尽さ。ありえない苦渋を舐めた自分への怒り。
 彼は同族を憎むにも等しい憎悪にうち震えた。
「万に一つでも彼らの企てが成功したならば、私はまったくの道化だ」
 征轟丸と天海女の激突は既に成功したも同然だった。
 どう考えても防ぐことはできないと思われた。もちろん理論上の可能性としては、多くの回避方法はあった。しかしいまの状況では、いかなる策も実行不可能なはずだ。
 しかし彼は不安にさいなまれた。
 信じられないことにカーベルは天海女を味方につけた。
 真四季はインスフェロウ同様に知っていた。この世の命ある者すべての知恵を結集しても、いくさ船である天海女には及ばないことを。
 凶悪にして激情のカーベルといくさ船天海女だ。
 ありえないはずの激突回避が実現するかもしれない。
 真四季は橙色に輝く不思議な泡に包まれて、位相空間を滑るように移動していた。目指す先は人間たちの陣地だった。佐竹は彼を説得しようとした。しかし応じるつもりはかけらもなかった。
 人間たちの計画はとても繊細だ。妨害することはたやすい。手ごわいカーベルを避けて叩けば良いのだ。人間たちが用意している法呪具をいくつか壊すだけでよい。彼らは貴重な時間を失い、最後の法呪を失うだろう。


 突然に攻撃が襲ってきた。
 位相空間の真四季の前に、黄緑色に見える四角が現れた。
 輝くついたてが向かってくるような異様な光景だった。
 それは避ける間もなく泡に衝突した。
「がっ」
 悲鳴を上げて真四季はのけぞった。四角は一枚だけではなかった。すさまじい勢いで数十枚のそれが襲いかかった。虹色の光を散乱させながら、彼を包む位相空間泡を幾重にも叩きのめした。
 何者かが位相空間内を移動する真四季の位置を特定するという超絶技術で攻撃をしかけてきた。
「征轟丸か……まさか、カーベルか!」
 真四季の背筋が緊張した。人間技ではない攻撃に恐怖が走った。
 二十二枚目の四角がはじけたとき、彼の位相遷移は破綻した。
「おう」
 真四季は走る獣の背から振り落とされたような速さで、天海女の大地に叩きつけられた。征轟丸からふりそそぐ海水でぐちゃぐちゃに濡れた地面は、彼を無様な泥まみれにした。
 真四季はあまりの痛みに意識を失いかけた。付き従っていた狐型従属生物たちが心配そうに取り囲み、彼の身体に前足をかけた。狐型の一体が変化して人間の女性の姿を取った。狐は彼に覆いかぶさるように抱きつき、全身で強壮の法呪を施した。
 かつてカーベルによって通常空間に引き戻された時よりも、はるかにスマートな妨害だった。
 狐たちが威嚇の唸り声を上げた。真四季は巨大な怪人の前にひざまずいている自分に気がついた。
「白鷺……インスフェロウ!」
 インスフェロウはフードからしたたる海水の奥から言った。
「真四季。残念だがおまえを先に進ませるわけにはいかない」
 そこは人の法呪陣地まで、わずか7ケーメンツルの場所だった。
 まわりには誰もいない。人間の兵士たちは別の場所で戦っていた。インスフェロウは真四季を阻止するために、この場所を予想したのだ。
「白鷺。なぜおまえは……」
 真四季は激しく咳き込みながら言った。
「なぜそこまで人に味方するのか。従属生物に改造されたとて、おまえが汎神族であることにかわりはないのだぞ」
「カーベルは征轟丸の攻撃を止めて天海女を守ると決めたのだ。私はそれに従うよ」
 真四季とインスフェロウは、暴風の中で視線を合わせた。
「私を破ってカーベルの元に行くか?」
 インスフェロウの言葉を無視して、真四季は高速言語を発した。素早い法呪の構築で、この場を逃れようとした。
「むん」
 インスフェロウは法呪で応えることなく、岩のような拳で殴りりかかった。
 ぶおぅ、と風を巻いて、拳が二発、三発と真四季をかすめた。
「……し、しらさぎ!」
 肉の攻撃に面食らった真四季は、法呪を放棄してしまった。まさか力の暴力を振るわれるとは想像もしなかった。
 真四季を守る狐型従属生物が五匹、稲妻のような速さで襲いかかった。しかしインスフェロウは、法呪も使わずに素手で狐どもの首を掴み取ると、軽く失神させて真四季の足元に放り出した。
「しらさぎ! 我を行かせよ」
 真四季は必死だ。
 自分の名誉、天海女乗員としての栄光、そして愛する優安との約束……。
 真四季はなんとしても人間たちの計画を阻止しなければならなかった。それも彼のみの力でだ。いかなる汎神族もこの危険な計画に手を借しはしない。
 後がない真四季は、手持ちの従属生物の全てを位相空間から呼び出した。
「キィキケーーーン」
 黄色い髪につり上がった目の狐型従属生物が戦闘指揮を取った。
 鋭いくちばしと爆裂する肝臓を持った無数の鳥。そして元は人だったであろう鉄面の人型従属生物が四体襲いかかってきた。
「…………」
 口までを鉄帯で覆った黒い肌の人型従属生物は声をださない。
 ぬるぬると光る強化された身体で、二本の剣を振り回しながら切りかかってきた。
「……むう……」
 武器を持たないインスフェロウは、細かな物理障壁をいくつも展開しながら、手ごわい人型従属生物の切っ先をかわした。
 五体十本の白刃は、征轟丸から降りしきる海水にまみれて美しく光った。インスフェロウの物理障壁は、暗い大地の上で虹色に発光して刃と火花を散らした。
 インスフェロウは、正面から切りかかってきた者に罠を張った。切っ先が物理障壁に当たった瞬間に、板状に輝くそれが回転扉のようにグルリと回った。従属生物は自分が打ち込んだのと等しい力で、物理障壁に頭を打たれて倒れた。
 後ろから襲ってきた者は、針のように細く尖らせた物理障壁の槍に自ら体当たりをして串刺しになった。あまりに細い法呪の槍は、従属生物の血が伝い流れて初めて目に見えた。
 真四季の従属生物は強かった。インスフェロウは、かするように受けた刃の傷から赤い血を流しながら言った。
「真四季。おまえをカーベルの元には行かせない。そして天海女から外にもださない」
 鳥はすべて撃ち落とされた。最期に残った人型二体が、必殺の気合を込めて左右から襲いかかった。
 舞うように巨体を翻したインスフェロウは、印肢を激しく打ち振って一刻も休むことなく法呪を展開した。真四季は狐たちに守られながら高速言語を発して、インスフェロウの攻撃法呪を無効化していった。真四季の法呪もまた強力だ。
 インスフェロウは法呪にダミーと反抗法呪を織りまぜた。真四季は見分けている余裕はない。片端から解呪していく中に、解けたとたん攻撃法呪に化ける凶悪な技があった。
 しかしそれすらも真四季は果敢に打ち破った。激しい反呪に真四季の美しい指先が破れ、白い両腕には血管が蛇の様に浮き上がった。
 月花模様に刻まれた華麗な爪が裂けて真っ赤な血がしたたった。
 人の従属生物は命を惜しまない。裂迫の気合で必殺の剣が白い光を引いた。
 素手のインスフェロウは次の切り込みを避けられないことを知った。
「がおおおんっ!」
 インスフェロウは雄叫びを上げて大地を踏みしめた。
 ズバン! 破裂するような音を立てて地面がめくれあがった。インスフェロウが爆発したかのように、直径十メンツルの土と石が空めがけて飛び上がった。
「……な……」
 真四季の反応が一瞬遅れた。インスフェロウの作戦を理解するわずかの間にも大量の土砂が次々と空中に吸い上げられた。
「キィィィン」
 真四季の解呪が炸裂してインスフェロウの法呪はあっさりと破綻した。
 その瞬間。空中に浮かんだ土砂が一気に落下した。二体の人型は声を上げる間もなく生き埋めになった。
 すさまじい噴煙が収まったあとには、金色の瞳を輝かせたインスフェロウだけが立っていた。
「……白鷺……!」
 真四季は彼の格闘能力に恐怖した。それは汎神族の戦いにはありえない反射神経だった。
「白鷺。私を行かせろ。おまえも汎神族なら見たいだろう。巨大な征轟丸と天海女の激突の瞬間を」
「はははははっ」
 インスフェロウが笑いだした。
 ひどく場違いに思える爆笑だった。いぶかしむ真四季に彼は言った。
「それは違う。真四季」
「なにを言っている。およそ過去に記憶されたことのない大破壊であるぞ。未来において再び見ることがかなわぬ記憶であるぞ」
「真四季。私はもっと見たいものがあるのだ。それはおまえの言う記憶よりもすさまじいものとなるだろう」
 インスフェロウはローブに積もった土くれを叩いておとした。身なりを整えると、懐に手をさし入れて小さな瓶を取り出した。
 さっ、と緊張する真四季に彼は笑いかけた。
「甘紅茶だ。飲まないか」
「なにを言っている」
 インスフェロウは瓶を、くいっとかたむけて琥珀色の茶を飲んだ。
「カーベルたちは、天海女と征轟丸の激突を解決しようとしている。天海女も手を貸すつもりだ。ここでゆっくり見物するのが粋というものだろう」
「私を笑い物にするつもりか」
「笑い物にならぬために、彼女たち人間の知恵と勇気を楽しもう」
「……不可能だ……この破滅を回避することなど。彼女たちは死ぬぞ」
「それもまた一興。我々はそれを見届けるのだ」
「いざとなれば位相遷移で退避させてもらう」
「ああっ、そうだ。言い忘れていたが、これから天海女は大規模な位相遷移場に包まれる。個別の位相遷移発動は不可能だ」
「なに?」
 真四季の顔が青ざめた。
「カーベルの作戦はわくわくするぞ」
「なぜだ。理解できない。白鷺。おまえがわからない」
「真四季。おまえの行いはカーベルが成功するために道をつけているということに気づくべきだ」
「…………」
「わからないか。おまえはすでに成功者なのだぞ」
 真四季は攻撃をやめた。インスフェロウの言葉に捕らわれた。
「カーベルが成功するための舞台をおまえは用意した。いまから始まる作戦でカーベルが成功しようが失敗しようが、おまえが偉大な記憶を汎神族に残すことに変わりはない」
「白鷺……」
「おまえはすでに不死を得たのだ」
「いや……しかし不可能だ。天海女さえ自らの力だけでは成しえない作戦だ。人間がわずかばかりの力を添えたところでなにができると言うのだ。一刻も早く作 戦を放棄して、ビバリンガムの導きで脱出すべきだ。陸の者も海の者も、すでに多くの者が退避している。この作戦で命を失う者は極めて少ないはずだ」
「真四季。おまえがカーベルの元に行こうとしているのはなぜだ? おまえは知っているのだろう。人間の作戦が成功する可能性のあることを」
「いかなる場合も可能性というものは無ではない」
「ここに座してまとうではないか」
「白鷺?」
「カーベルたちが失敗すれば、おまえの望み通りいくさ船の激突が起きるのだ」
「……白鷺。おまえはそれでいいのか」
「おまえも私も自らの作戦の成功を信じている。そして私たちがすべきことはすでにない」


 神も人も理解できない重力の闇が言葉を紡ぎだした。
「……真四季……おまえを生かして帰さない」
 命の届かない地の底から湧き出るような呪いの声。
 征轟丸だ。
「我が恥辱。我が呪い。おまえに子を成させてなるものか。記憶を遺伝させてなるものか」
 征轟丸に残された外部干渉機関が全力をあげて、一匹の巨龍を造り上げた。
 黒と紫に彩られた、全長20メンツルに及ぶ凶悪な怪物だった。
 カーベルたちが戦ってきた巨龍を三頭、背中で張り合わせた目茶苦茶な姿を持っていた。まるで顎を持つ砲弾に手足があらゆる方向から突き出したような姿だ。
 巨龍はインスフェロウたちの立つ天海女上空に出現した。
 ぎゅるるるぃぃりりりぃぃるるるるっ。
 金属が圧壊するようないやらしい音が響きわたった。
 どす黒い木のヤニをスプーンで混ぜた様にも似た不吉な位相遷移門が渦を巻き、のたうつ巨龍を吐きだした。天海女のテリトリー内で、予定にない急速な位相遷移は、巨龍の身体を傷つけた。門をくぐるだけで脚が二本へし折れてうろこが飛び散った。
「真四季さま!」
 狐たちは巨龍の出現を見ると、真四季を取り囲み守った。
 インスフェロウは印肢を展開した。時間遅延の黒いホールを三十も作って、彼らと巨龍の間の空中にばらまいた。
「ぎぃぃぃききききいいぃぃぃややややややっ」
 巨龍は怪鳥のような雄叫びをあげた。口の端から黒い煙をもくもくと噴き出しながら空中を駆けだした。
 二の足が時間遅延の黒い光に飲み込まれたなら切り捨てて、三の足が飲み込まれたなら噛み千切り、死に物狂いの特攻を敢行した。
 作戦などない。
 圧倒的な巨体と質量で真四季たちを押しつぶそうとした。
「ああっ!」
 その様を見て真四季は悲鳴を上げた。
 征轟丸は本当に自分を殺しにきた。天地を圧倒する超絶のいくさ船が、自分を殺すと決めたのだ。あの言葉に嘘はなかった。真四季はいくさ船の攻撃が自分に向けられたことに絶望した。
 インスフェロウが言った。
「見苦しきは征轟丸。無様な様をまたひとつ真四季に記憶させるとは」
 征轟丸の声なき声が彼らの頭に直接響いた。
「悪しきくやしき呪わしき真四季めが。おまえだけは……生かして返さぬ。我が手で恨みを込めてくびり殺そうぞ」
 まっさきに反応したのは、真四季の従属生物たちだった。
 狐型従属生物の一体が、銀髪の人の娘に変身したかと思うと、他の狐八体を楯として空中に飛ばした。
「きりりりりりりりぃぃぃ」
 不思議な声で高速言語がほとばしり、八体の狐たちは白磁のごとき物理障壁に変身した。八枚の白磁狐は重なり合って巨龍の前に立ちはだかった。
 激しい放電が起こり、磁力にも似た反発力が展開した。
 空中で両者は激突した。たちまち最前列の白磁狐二匹が砕け散った。しかし亡びようとする狐は、自らを呪い札と化して巨龍を黒く汚染した。巨龍の表皮はじくじくとただれて、いやらしい汚汁をしたたらせた。
「むん」
 インスフェロウの印肢が両肩から展開して重力場法呪を構築した。花の種ほどの大きさの高重力塊を十も造り、巨龍の足にたたきこんだ。たちまち前足二本が奇妙にねじれて破壊された。しかしぐるりと身体を回転させて。別の足で見えない空中力場を踏みしめた。
「真四季さま。お逃げください」
 人の姿をとった雌狐が言った。従属生物の本能が、主人を守るために命を投げ出すことを命じた。
「……おおおっ……」
 真四季は自分に向けられた暴力に身がすくんで動けなかった。自分はうまくやっているという思いがあったばかりに、突然の窮地が信じられなかった。
「ぎゃおおおおぉっっ」
 巨龍が洞穴のような口で叫んだ。喉の奥でくすぶる炎が真っ赤に光った。
「真四季。砲撃がくるぞ!」
 二匹の白磁狐がインスフェロウの前面に縦に並び防御法呪・貝土を展開した。
 インスフェロウは真四季の前に立ちはだかると防御法呪・貝虹を構築した。七色に輝くかんてん状の光は、狐たちを彼らの防御法呪ごと呑み込み捕り固めてしまった。
 驚く狐たちは自分たちが楯として消費されることを悟った。
「ガワッ!」
 赤熱の溶岩塊が巨龍の口から撃ちだされた。岩の重さを持つ超高熱の溶岩塊だ。
 白磁狐は跡形もなく四散した。しかし狐の命により勢いを減じた溶岩塊は、かろうじて内側の貝虹ではじき返された。
 インスフェロウはすぐさま第二の貝虹を構築し始めた。
 しかし背中あわせに張りついた別の巨龍の口端からは、すでに溶岩が垂れ落ちていた。 真四季も高速言語を駆使して、二重の貝氷構築を急いだ。
 しかし間に合わない。
 溶岩塊が撃ちだされた。
「あああっ!」
 真四季は悲鳴をあげて顔を覆った。
 バガン!
 溶岩塊が空中で四散した。なにかが溶岩塊に命中して迎撃した。
 驚き振り向く真四季の頭上を、銀色の砲弾が衝撃波とともに通りすぎた。
 銛よりも鋭い砲弾は、巨龍に突き刺さり大爆発を起こした。
 インスフェロウたちは至近距離での爆発に巻き込まれて、大地になぎたおされた。
 飛び散った真っ赤な巨龍の溶岩が、血しぶきのように大地に降り注いだ。
「ぎゃぎゃおおう」
 空中の見えない足場を破壊された巨龍は、10メンツルの高さから真っ逆様に落下した。
 鼻面から堅い地面に激突した。首が自重でありえない方向にへし折れた。
「インスフェロウ殿!」
 彼を呼ぶ声がした。イシマだ。
 イシマの率いる戦闘隊が、巨龍出現の報を受けて駆けつけたのだ。
 彼らの過酸化草砲二門が炸裂弾を撃ち込んだのだった。
 迷彩欺瞞が施された過酸化草砲は、インスフェロウらも気づかない至近距離まで接近して発射された。砲はいまや欺瞞を解かれて、光り輝くガラスの砲身を誇らしげに振り立てていた。次の発射にむけた手順が次々とこなされていく。
 そうだ。巨龍はこの程度では死なない。
「インスフェロウ殿。ご無事か」
「イシマ殿か。お役目ご苦労。しかし効いたぞ」
「良い酒と女の肘は、腹にグッとくるのが本物です。ご無事でなにより」
 インスフェロウは倒れた真四季を抱き起こした。残った四匹の狐たちは、全員が黄色い髪の人の娘に変身していた。
 真四季の身体を舐めて癒そうとする姿がけなげだった。
「……う……む……」
「気がついたか。真四季」と、インスフェロウ。
 そのとき不気味な声が天海女に流れた。
「んんんんむむむぅぅぅぅおおおおっ」
 征轟丸の呪い声だ。
「……おのれ……いやしき人間ども……あくまで我を愚弄するか。呪わしき真四季……おまえだけは……おまえだけは記憶を途絶させずにおかないぞ」
 まるでそこにいる者すべてに、自らの無念を広告するかのような異常な執念だった。
「あいかわらずもてるな。真四季」
 インスフェロウが言った。
「…………」
 紙のように青ざめた真四季は、狐たちに支えられるようにして、やっと立ち上がった。イシマが言った。
「真四季様。どうか御心をやすらかに。我等が御柱をきっとお守りいたします」
 しかし真四季はイシマを無視したまま、インスフェロウに言った。
「……白鷺……私はおそろしい……私は子を成さずには死ねない……」
「真四季。ならば戦え」
「私が……?」
「なにを臆する。おまえは名誉ある天海女の乗員だぞ」
「白鷺」
「天海女への搭乗を認められたときの誇りをどこへやった」
 真四季の胸に、天海女乗員の告知を受けた時の感動が鮮やかに去来した。記憶潜行を行い、なんどもあの感動を味わいたいと、汎神族の血の欲求が突き上げた。
 あれは四十三年前のことだ。汎神族の宗派・亜ドシュケ閥に属する真四季は、機械戦闘法呪論陣の教育師として修行を積んでいた。彼は乗員として選ばれるために多大の努力を払った。それゆえに彼にとって、この海戦は人生を賭けるべき戦いだった。
 輝かしいいくつもの記憶が、甘い誘惑となって真四季を現実からさらおうとした。もっとも晴れがましい記憶に彩られた日々。天海女が敗北の宣言を受けるまでの、称賛と興奮に満ちた毎日。
 真四季は自らの記憶の繰り返しに溺れる汎神族の危険な罠「記憶揺り輪」に逃避しかけた。
「……惚けるようならさらってもいいぞ。ローズベイブ」
「きゃあん。うれしいわ。インスフェロウ。真四季様は私がもらいね」
 ハッと意識を取り戻した目の前に、大きな瞳をらんらんと輝かせた人間の少女がいた。
「ロ、ローズベイブ!」
 いのまにか現れたローズベイブは金龍にまたがっていた。
 彼女は目に星を飛ばしながら、真四季とインスフェロウをうっとりと見つめていた。
 それは人の戦場で死体待つカラスのように、無邪気で残酷な瞳だった。
 真四季も彼女がいかに危険な人間かを、よく知っていた。
「がっ!」
 真四季は歯を剥きだして吠えた。
 ローズベイブはまん丸目で飛びのいた。
「その意気だ。真四季」
 インスフェロウは眼を細めて笑った。


 天海女に残った二百人の記憶を費やして、わずか一ミルメンツルの一点の時間が遡及された。
 法呪は青い光の線となって肉視できた。
 青く光る水が山を駆け降りるように、法呪の力は天海女を横切った。
 天海女と征轟丸が接する海岸がここであると宣言した。
 それを合図としたかのように、征轟丸の巨体が少しずつ確実に倒れはじめた。
 天海女の三つの丘に配備された因果療法士たちが、観測結果を次々と報告した。
「征轟丸、重心移動を開始しました。直角度が天海女に向けて点二の速度で変化です」
 肉眼では雲の動きにだまされて、征轟丸の動きを感じることができなかった。
 しかしサインたち因果療法士の観測は、確実に征轟丸の来襲を測った。
「くるぞ」
 ゲイゼウスが言った。
「征轟丸傾斜開始。角速度二・二・七二」
 空に放たれた数十羽の視燕(しえん)が報告をした。燕鳥を素体とした観測用従属生物だ。小さな身体の彼らはすばらしい速度で飛ぶことができたが、重くなった頭のせいで、翼がもろかった。暴風とふりそそぐ征轟丸の破片によって、すでに半数以上が失われていた。
 視燕たちの報告はサインたち因果療法士を経て、カーベルやミロウドたちにも伝えられた。
 幻のような征轟丸の巨体が、ゆっくりと傾斜を始めた。
 征轟丸と天海女の間の海水が、逃げ場を失って空中に吹き上げられた。
 法呪陣地を設置した人間たち。百八十人の法呪使いが横三列に並び座っていた。彼らは紐葉杉を握り、二の腕には記憶探索線となるまだら紐を結わえていた。
 彼らの前に立ち法頭を務めるのはアリウスだ。純白の髪に純白の装いが清々しい。ミロウドとクァンツァッドがかたわらに座り、記憶探索線をくわえた。
 彼女らの頭のなかには、法呪使いたちの記憶の断片が駆けめぐっていた。それは同時に彼らの感情もかいま見せた。恐怖と興奮。後悔と懺悔。しかしいまはまだ、失われる記憶への恐れは感じられなかった。
「さて。みなさん。始めます。気合いれてきましょーーっっ」
 アリウスが宣言した。
「時の刻まれ理を窮す。黒光正しく時治め青光修むは一に除する二万の値。進退曲ぐる一治一乱かくのごとし」
 人間たちの法呪文が長く大地に流れた。時間遅延の黒い闇が、征轟丸を見上げる西海岸に二十も出現した。
「オオオォォォァァアアアァァィィィイイイイイン」
 佐竹の高速言語がバックアップして、複雑な時間法呪が完成されていった。
 青く透明な陽炎が、点となり線となって黒い時間遅延場を繋いでいった。
 時間遅延線の出現だ。
 それは意外にも細く頼りないものだった。まるで水平線の彼方の漁火のようであり、地平線の彼方の街明かりのようだった。幻が見せる光にも似たゆらめきだ。
 青い時間遅延線は、ゆっくりと伸びはじめた。征轟丸が立つ天海女の西の辺に沿って、ほぼ端から端まで線は繋がった。
 因果療法士サインが言った。
「カーベル様。こちらサインです。記憶探索線の構築完了しました」
「了解したわ。みんなを守ってあげて」
「いつでもどうぞ」
 カーベルは佐竹の後ろから彼らを見ていた。
 緊張で心臓が早鐘のようになった。落ちついて見えるアリウスがうらやましかった。この期に及んで様々な雑念が頭のなかを駆けめぐった。
 私はみんなを死の舞台に引きずりあげたのではないのか?
 本当に皆は命をかけてまで、エルアレイを守りたいと思っているのか?
 唇の紅の色をもっと紅いものにすればよかったのではないか。ギリスの新色があったはずだ……
 全身を震えが駆け抜けた。甲冑に吊るされた数十枚の金板符がチンチンと涼しい音を立てた。
 ーーインスフェロウ。会いたい。あなたにここにいてほしいーー
 カーベルは、巌のように座る佐竹の右横で両膝をついて頭を垂れた。
「……佐竹様。私たちはあなた様をお守りしなければなりませぬのに、このような危険を犯していただくことを心苦しく思います」
「人の娘カーベル。私はいくさ船の戦いを続けているのだ」
 佐竹の白い髪と髭が、たえまない風に吹き散らされていた。カーベルは座ってなお巨大な佐竹を見つめた。老神は優しく美しい瞳で彼女を見つめた。カーベルはひるみそうになる心を、ぐっと踏みとどまらせた。
「私の知塩を喰らった娘。おまえの瞳には獣と慈愛の心が映っている。それは私の本性を写す鏡なのであろう。おまえたち人間の布陣は完全だ。天海女もこの作 戦を支援している。しかしその実行は困難を極めるだろう。私は天海女の乗員として、汎神族の記憶の欲求にあらがえない者として、私でありおまえであるカー ベルに賭けよう。人間であり汎神族の記憶のかけらを白い肌に宿す娘よ。覚悟せよ」
 すでに征轟丸の上昇は止まり、風の音だけが流れていた。
 ……ガ……ガガ……ゴオォォォ…………
 声とも音ともつかない音が空から降ってきた。
「きます」
 サインが遠声で全員に言った。
 視燕の情報、各種計測の結果がそのときを告げた。
 雲をかきわけるように、ゆっくりと倒れはじめた征轟丸下部が天海女と接触した。
 ばきばきと不吉な音を立てて、双方の船体が砕けた。
 カーベルが叱咤した。
「どうしたの天海女。位相遷移が不完全よ!」
「……カーベル。心配ない。すぐに安定するよ」
 天海女の言葉どおりに、征轟丸の位相遷移が開始された。
 光を奪われた天海女と征轟丸の接点。漆黒の闇が天と地で交わる一点が、音もなく交差し始めた。
 真夏の蜃気楼である「逃げ水」が大地に吸い込まれるように、同じ場所に存在しようとするふたつの姿が重なりあった。
 征轟丸の船体は、天海女に触れる片端から陽炎のように姿を揺らめかせて消えていった。しかし人の目にその有り様が見えたのは一瞬のことだった。たちまち速度が上がる接触はあらゆる景色を飲み込んだ。
 五十ケーメンツルに及ぶふたつのいくさ船が交わる真一文字の地平線。ますます加速する接触は空気を圧縮して、大地に残ったすべてのものを吹き飛ばした。
 縦に流れる闇が周囲を支配した。激しく飛び散る稲妻と、はじけて燃え上がるものどもの一瞬のきらめきが、この現実を見せつけた。
 …………フュュウウウゥゥゥゥゥン…………
 聞き逃すような、かすかな音が天海女の全域に流れた。
 目の錯覚のように、透き通った青の光が空中を流れた。
 すさまじい勢いで接する大地と大地に沿って、青く透明な光が輝きを増した。
 時間遅延線が動きはじめた。
 自ら光る青の線は、巨大な天海女の端から端までを完全に繋いでいた。時間遅延線は、爆発的な暴風にも乱されることなく、おごそかなるもののように空中を進んだ。
 征轟丸の船体からは、かろうじてしがみついていた諸々のものが一斉に落下してきた。爆撃を受けたような天海女の大地は、征轟丸の構造物で埋めつくされた。
「もって時間遅延線仰ぐ威光はここにあり。めらに聞こうる大音もって威信を告げよ」
 アリウスの法呪文が放たれた。合わせて天海女の祭り人が静液を紫よもぎの枝に浸して打ち振った。虹を描いて飛び散った静液は、アリウスの法呪文に反応して、法呪的に有為な変形をした。それはすなわちこの一瞬に巨大法呪を起動するための、高速言語にも及ぶ超絶技巧だった。
 幾千の静液の雫が描いた法呪文の意味は時間遅延線の加速だった。
 人の言葉でいうならば。
「虚誕の詞。悪しき流言及ばぬ速さをもってここに来よ」
 青く光る水が山を駆け降りるように、征轟丸を先導して西から東に走った。
 時間遅延線を追って天海女の位相遷移前線が走った。
 いくさ船と人の法呪は完璧な調和を保って大地を駆け抜けた。二つのいくさ船は幻のように交わっていった。
「おおおおっ、我が飲み込まれていく」
 征轟丸が悲鳴を上げた。
 天海女は感極まったように言った。
「僕の位相にしみ込む征轟丸を感じるよ。見てよ。この式値のなんと美しいことか」
「我は……失せるのか。勝者である私がこの世から消え失せるのか」
「君は僕とともにあるのさ」
「位相の彼方にあろうとも、勝者は我である」
「君の勝利の証として、僕はいつまでもこの地にとどまろう」
「天海女に立つものは我を感じずにはいられない証をたてるぞ」
「君は僕の影に沈むのさ」
「否! 我は天海女の上にある」
「まだあらがうか。征轟丸」
「まだだ! 我が未来を見よ!」
 
 
 海京の祭り人が白着物の裾をひるがえして宙を回った。 
「よいさ! はいああああああっ」
 剃刀の気合とともに、二千羽の鳥型折り紙が千切れて舞った。
 両手を広げてもなお地面にとどく着物の袖が、二枚のマントのように激しく打ち振られた。
 40年ぶりの祭りは、天海女を確実に慶ばせた。
「80ビヨウ経過」
 因果療法士サインが告げた。
「23ケーメンツル完了。残17ケーメンツル」
 法呪陣地の人間を結ぶ白い記憶探索線が脈動した。人の記憶が光りとなって、時間を押し戻していった。
 インカー羊を初めとする動物たちが法呪滋養として、次々と姿を消していった。あれほど生き物が密集していた陣地が、瞬くうちに空いていった。
 人間たちの必死の法呪は、紐葉杉を経由してアリウスに集中してみなぎる法呪へと転換されていった
 やがて倒れる者が出始めた。苦悶の表情を浮かべて、恐怖にひきつったうめき声を上げた。記憶探索線で一人ひとりの状態を監視していたクァンツァッドは、危険なまでに記憶を失った者を法呪から切り離していった。
 ビバリンガムがその者たちを俵のように持ち上げて、転送装置であるマギーの門に放り込んた。
「……おまちください……さ、最後まで皆とともに……」
 仲間たちと生死をともにすることを望む者たちにも容赦はなかった。
「うきゃれ! 汝、仲間を思うならば、じたばたせずに自ら門に駆け込む理性をみせよ!」
 ビバリンガムは、ばたばたと倒れだした人間たちの間を、半狂乱になって走り回った。
 すでに陣地の人間は半分に減っていた。
 アリウスは感じていた。時間遅延線が不安定となりつつあることを。
 天海女と征轟丸をすさまじい振動が襲った。祭壇の幾つかが倒れて火の粉を舞い上げた。
 カーベルがサインに聞いた。
「どうしたの! 征轟丸の妨害?」
 それに答えたのは天海女だった。
「カーベル。いけない。時間遅延線が色を失いはじめたよ。とても弱まっている」
「もうなの……はやすぎる」
「このままでは、あと四十ビョウで征轟丸の位相遷移が間に合わなくなる。僕たちは激突するよ」
 そのことはサインからも報告された。激突の回避に要する時間は52ビヨウのはずだ。作戦開始から95ビヨウが経過していた。
 人間の法呪は、力の枯渇によりはやくも破綻しかけていた。
「私が支えよう」
 佐竹が言った。
「天海女の戦いは我が汎神族の戦いだ。おまえたち人間はよく戦った。私はおまえたちよりも多くの時を支えることができよう」
 佐竹はカーベルの手に皺深い指先を触れた。
「佐竹様……!」
 カーベルの背中から、老いてなお巨大な神が手を回した。
 皺のよった冷たい左手が、カーベルの右手に重ねられた。
「人の娘。我が時と記憶をあがないて天海女に奉じん」
「佐竹様」
 カーベルはすがりつくように、老神の手に左手を重ねた。佐竹はさらに右手を重ねた。 佐竹に比べれば、赤子のように小さい彼女の手。その手に天海女の運命を託している。佐竹は無数の傷が刻まれたカーヘルの手を癒すように強く握りしめた。
「佐竹様……?」
 驚く彼女に佐竹は言った。
「人の娘。よく戦った。我が天海女を守り。我を守った。人と従属生物には多くの犠牲が出たことだろう」
「それがことわりであります」
「人の娘も我等と同様に身を装い、花を愛でる聞く。それはまことか?」
「はい……佐竹様」
「恋人を愛しく思い、子を成したいと思うか?」
「はい。佐竹様」
「私は天海女を守らなくてはならない。それが私の使命だ。そしておまえたち人間を、従属生物たちを可能なかぎり救わなければならない」
「我等は命をかけて、天海女と佐竹様をお守りいたします」
「おまえたちの命をもらおう」
 佐竹はさらりと言った。
 それが汎神族の論理に他ならなかった。 そしてカーベルも頷いた。
「佐竹様。私たちは勝ちます」
 佐竹は大きく口を開くと、高速言語による法呪文を高らかに唱えた。
 いかなる人間も発声しえない超絶の法呪文が、歌のように雷鳴のように遠く果てしなく響きわたった。
 汎神族の法呪はすさまじい。時間遅延線は、いまひとたびの輝きを取り戻した。
「佐竹さま……!」
 カーベルは佐竹に対して滋養強壮の法呪をかけた。予備のインカー羊8頭を法呪滋養として昇華した。
 しかし神の白髪はまたたくまに抜け落ち、肌の皺が深く刻まれていった。
 佐竹は自分の時間を力として、時間遅延場を活性化したのだ。
 サインから通信が入った。
「カーベル様。エルアレイと征轟丸の完全収斂まで、15ビヨウです。もちますか?」
「佐竹様が補助してくださっているわ」
「佐竹様が? しかしそれでは佐竹様の御身が」
 サインが抗議した。
「心配ないわ。次は私よ」
 神の法呪でどこまで持つのかはわからない。しかし佐竹が倒れたとき、時間遅延場を維持するのは自分の役目だとわかっていた。
 選択枝などない。記憶のすべてを失うことになっても、かけがえのない仲間を守るのが自分の使命だと信じていた。
「あと8ビヨウ」サインが言った。
 天海女と征轟丸の交わりはすでに31ケーメンツルに及んでいた。
 半分を越えている。征轟丸の船体はあと9ケーメンツルだ。

 

 

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