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覚悟は想いの数だけ

第7章−8

 

 つてエルアレイの首都として繁栄を謳歌したエルワンの街。
 神々の具事を産出する宝島エルアレイに生まれた人口都市だ。富に群がる人間たちの欲望と力がみなぎっていた。
 四十年近い歴史の中で、多くの人間がこの地に集まり生と死を刻んだ。その街並みは多くの国から人々が集まったことを物語るように、不思議なうねりと造形に満ちていた。
 子供が路地を走り、老いた開拓者が広場にたむろし、恋人たちは人目もはばからずにキスをした。食べ物と洗濯の匂いがあたりに漂い、結婚式のベルと葬式の鐘が交互に打ち鳴らされた。
 ビドゥ・ルーガンが軍を率いて凱旋し、パレードの先頭ではカーベルが勝利の舞を踊った。
 狭い土地に密集して空に伸びるアパートからは、島で貴重な花の変わりに紙吹雪がまき散らされた。おごそかに戦勝詔を唱えるゲイゼウスの低い美声が石造りの街並みに流れてしみ入った。
 人々の想いと命が刻まれたエルアレイ。そしてエルワン。
 しかしいまは征轟丸の影が作り出す白暮と、天からふりそそぐ轟音に支配されていた。
 薄暗い中で動く者がいた。人型のシルエットに沿って、カラフルな宝石と装身具がきらきらと輝いた。異様な長さの手足が、踊るように打ち振られた。
 汎神族からエルアレイの命あるものを救う使命を与えられた異形の従属生物ビバリンガムだった。
 彼は転送機械であるマギーの門を、淡雪状の物理障壁で覆った。
 退避させるべき者はすべてマギーの門をくぐらせた。残ったのは覚悟の上の人間と従属生物だ。門が設置されていたエルワンの広場には、意志を持たない小さなクンフが、音もなく漂うのみだった。
 そこに再び人間たちが現れた。巨大な法呪場を構築するために、銀鈴を編みこんだ紅紐をロール付き台車で敷設する者たちだ。
 彼らはエルワンの街の三方に、直径五十メンツルの法呪結界域を設定した。それはこれから行われる作戦において、時間遅延場が均等に分布するための予備施設だった。平らなエルアレイにあって、エルワンの街はあまりに巨大であり、法呪的に邪魔であった。
 彼らを指揮していたのは、白い髪のアリウスだった。
 ビバリンガムは、ゆっくりとこうべを巡らせて彼を見た。インフェロウにも似た金の光がその瞳に宿った。
「そこなるはアリウスかや」
 彼がカーベル以外の人間を名前で呼んだのは初めてだった。
 アリウスは無邪気な瞳を輝かせて彼に駆け寄った。
「これはビバリンガム様。お役目ありがとうございます。マギーの門をいかがされるおつもりですか?」
「おまえたちが構築した最後の法呪陣地に移動しようと思う」
「ああっ、いいですね。法呪で力尽きた人達を転送してくださるのですね?」
「むしの良いことよ。おまえは人を物のように言うのであるな」
「記憶を無くすよりも命を失うほうが大変です」
「人は記憶よりも命を取るか」
「神様は記憶が大事なのですね」
「記憶は一柱のものではないからのお。祖先から子孫に伝えるべき偉大な魂である」
「魂、ですか?」
「人が己の命を魂で語るように、汎神族は記憶を魂で語るものよ」
 ……そうですね……
 アリウスは言葉を飲み込んだ。彼は知っていた。汎神族にとって記憶がどれほどの価値を持つのかを。彼が食べた老神の記憶が繰り返しささやいていた。
 子を成せと。記憶を途切れさせることは万死に値すると。
「我が使命はこの地の命を救うことなり。人がすさまじき作戦を行うのはあっぱれである。しかし命にかかわる無謀に至ったとき、我は容赦なく拉致しマギーの門に放り込むことを肝に深く銘じよ」
「ありがとうございます」
「これは我が使命への最大の譲歩であると知るが良い。私にはおまえたちの作戦が成功するとはとても信じられない」
「……はい」
 アリウスも第三者の立場ならば、この作戦が成立すると思えなかっただろう。しかし彼は成功を信じていた。
 幼子が両親の健康を信じるように、理屈を越えた不思議な安心感が心を満たしていた。
 カーベルが立てた作戦だ。天海女の沈没を実現した娘が自信に満ちて推進している作戦だ。そして超人インスフェロウも復活を成した。
 理性ではなく熱い感情に訴える響きを持った作戦だった。
 アリウスは微笑みながら言った。
「作戦を成功させるのは私たちです。私はぜったいに成功すると信じています。みんなで笑いあえるように、自分にできることをやるんです。わくわくしています」
「あれ。我が白魚の指を泥に汚してまで働かせるお前たちは、およそ有史以来の痴れ者どもぞ。私はそれでもおまえたちの命を失わせるわけにはいかない。私も また使命に準ずるものだ。犬の尻の毛を噛む血吸い虫ほどの脳みそしか持たないおまえたちが真の理解を持つとは思えないが、汎神族は人間を愛している。あら ゆる生物を保護し、絶滅を防ぐ必要があると考えている。か弱い命への深い愛情を歌い、慈しみを持って見ておられる」
「ありがとうございます。ビバリンガム様の御心に感謝いたします」
「それが汎神族の意志だ。大地に生きるすべての生命を保護しなければならないという強烈な使命感を持っているのだ」
「でも、いま神様がやろうとしているのは、信じられないほどの災害をもたらして、数えきれないほどの命を奪うことです」
「偉大な記録のためだ」
 アリウスはビバリンガムをまっすぐに見つめて言った。
「神様は……この世界をご自分のものだと考えているのでしょうか?」
「ふむ?」
「だから、あの、汎神族以外の命を粗末にも大事にもするのでは」
 ビバリンガムがゆっくりとのけぞった。真上を向いて大きく口を開けた。
 カカカカカッと不思議な音が響いた。爆笑したのだ。
「愉快なり。みもふたもない人間よ。私はそれでも人間と従属生物どもの命を守るだろう」
「それがあなたの役割だと?」アリウスが聞いた。
「石の下で腐った藁を喰う足の多い虫にもわかるように、しつこく言うぞ。たとえそのことにより人間の法呪が崩壊したとしてもだ」
 ビバリンガムは、何本もの竿竹のように折り畳まれたマギーの門を肩に担ぎ上げた。巨大な彼の身体をしてもさらに倍する門だ。異様な光景だった。
「アリウス様。作業完了いたしました」
 法呪僧兵が二名、小走りで寄ってきた。彼らはビバリンガムに目礼すると、アリウスに結界起動証を渡した。
「ありがとうございました」
 アリウスは銅でできた起動証を懐にしまった。彼の周りに作業を終えた人間たちが続々と集まってきた。
 ひゅーーー……んっ。
 なにかが風を切るかすかな音が響いた。
 征轟丸の轟音を裂いて、遠くかすかな音が空をいくつも横切った。
 ミロウドも敷設実施確認表をアリウスに差し出しながら振り返って空を見上げた。さえぎるものもないエルアレイでは、空を飛ぶたくさんの光の帯がよく見えた。
 空から大地に虹色に光る火花の奔流が落ちはじめた。
 彼らが立つエルアレイの中心エルワンから見ると、東側の暗い大地に光は落ちた。
 漆黒の雲を破って、その数は二つ三つと増えていった。天から地に花火が吹きつけるような不思議な光景だった。
 そして火花は瞬く間に、数百もの降りしきる光の滝と化した。
「……きれい……」
 ミロウドがつぶやいた。大きめの白い僧衣をマントのようにまとい、大きな瞳を見開いて空を見上げた。
 光の中から巨大な人影が現れた。舞うようにくるくると回転しながら、長い衣服の裾がひるがえった。
 アリウスが言った。
「神々の自転送ですね……汎神族がどこかから転送されてきます」
 それは真四季と魅寿司が空を越えてエルアレイに降り立ったものと同じ汎神族の転送技術だった。飛び散る火花は廃棄される冗長信号だ。
 いくさ船の最期の時を迎えて、汎神族がエルアレイに集まりつつあった。
 遠視鏡に拡大投影された神々は、見たこともない華麗な衣装を身にまとい、晴れの時を迎えるために飾りたてていた。
 彼らはエルワンと人間の法呪陣地の中間地点に集まりつつあった。すなわち天海女と人間の作戦を見るための特等席だ。
 すでに火花を振り払い、実体を現した汎神族の数は二十柱を数えた。
「なぜ……」
 ミロウドはアリウスに視線を向けた。
「業であることよのほほぉ」
 ビバリンガムが言った。
「業?」
 ミロウドがささやくように聞き返した。ビバリンガムは祈り舞いのように、両腕をぶんぶん振り回しながら言った。
「希有な記憶を得ることへの渇望は、神々のすさまじき業であるよ」
「そんな……むちゃです。命の危険を冒してまでですか」
「よいか。法呪の娘。神において己の一生に貴重な記憶を残していないと考える御柱は、このような機会を逃すことができない。神々には命を賭しても偉大な記憶を得る覚悟があるのであるよ」
「そんな。私たちの作戦が成功する保証はないのに!」
「神々はこの作戦が位相遷移を最大限に用いることを既に知っておろう。すなわち別位相への退避はかなわないことを承知の上であろうな」
「それではどうして」
 ビバリンガムは、巨体でくるりと宙返りした。
 ギャリリン、と装身具が音を立てた。
「のお、人間たちよ。おまえたちは数十柱の神の命までもその手に握ったことになるのじゃぞ。叙情詩に歌われるべき偉業であるなあ」
「神々は私たちの作戦が成功すると知っているのですか? 天海女が持つような予知の力が他にもあって、私たちの作戦が成功すると確信されているのですか?」
 ビバリンガムはミロウドの都合のよい理屈を笑っていなした。
「天海女と征轟丸を越えるいくさ船はない。汎神族に未来の予知は不可能であるな」
「……では、では……なぜ、神々はやってきたのですか」
「賭けよ」
「か……賭け……ですか?」
「おまえたち人間の勝利に命を賭けたのだ。古今未曾有の記憶を得るために」
 長身のビバリンガムは、屈み込むようにしてミロウドとアリウスの肩に手をかけた。
「どうする人間たちよ。守るべき神の数が増えてしまったぞ。佐竹様のみならず、あのドレッシーで命知らずな神々まで面倒を見てやらねばならぬ。なんとも難儀なことであるよなあ」
 ビバリンガムは声を立てて笑った。しかし針の穴のような瞳は、氷のように冷たかった。
 アリウスが言った。
「ビバリンガム様。いざとなったら、あの目立ちたがり屋で強欲でタン壺ミミズを踊り喰う花咲ゴキブリの交尾毛みたいな神様たちの退避はあなたにまかせます」
「ア、アリウスさま」
 ミロウドは仰天して身を引いた。
「あ、いや。あははは。こういうときはこんな風に言うものかなぁ、なんて」
 アリウスは照れくさそうに頭をかいた。ビバリンガムが応えていった。
「首の曲がったゾンビロウどもも、赤面して棺桶に尻を突っ込むような物言いのアリウスよ。我が使命は天海女に集う神々以外のもの達を守ることだ。黄緑ナマコのはらわたペーストを厠の壁に塗り付けたような記憶の劣情下半身の神々には手を出せないのお」
「…………」
 ミロウドは気分の悪くなるような会話に目眩を起こした。
「アリウス。案内せい。我がもっとも働ける場所に」
「私がご案内を?」
「おまえの向かう場所が、我にとっても最善の場所」
「はい。喜んで」
「なにしろそこには」
 ビバリンガムは神妙な顔で言った。
「カーベルがいないのであろう?」
 アリウスはビバリンガムの顔をまじまじと覗き込むという不敬を働いた。
「……ハイ」
 いかにアリウスでも、ここで吹き出さない礼儀はわきまえていた。
「どうせあの娘は最前線でちゃかちゃかしているに違いないからのぉ」
 なんとなく彼の気持ちはわかる気がしたのだ。


 カーベルたちはマウライ寺を捨てて天海女の東海岸に移動した。
 征轟丸がそそり立つのは西の海。すなわち可能なかぎりの距離を取ったのだ。計算上は倒れた征轟丸も彼らに届かない。征轟丸は天海女よりも小さいからだ。 しかし作戦が失敗すれば直撃か否かなど些細なことだ。大陸まで被害が及ぶだろう大災害を彼らが生き残ることなどできるはずもなかった。
 彼らの背後には退く先のない深い海が広がるだけだった。そこが彼らの最後の陣地となるのだ。
 やがて陣地でも異変がおきはじめた。汎神族とその従属生物が幾柱も目撃された。
 人の背丈に倍する神々は、脳髄が痺れるような美の塊だった。流れるようなドレスに均整のとれた四肢。複雑に編み上げた髪は、自ら発光するかのように輝いていた。全身に炊き込められたかぐわしい香が、いくつもの筋になって宙を漂った。
 神々は幻のように半ば透き通った姿で、あるいは肉を持つ実体で静かに歩を進めた。
 征轟丸が巻き上げた海水が雨のように降っていた。人間たちはずぶ濡れになりながら走り回っていた。濡れたかがり火の火を消さないように苦労しながら、香り木を焚きつけた。
 漂い流れるかのごとき汎神族たちは、なにを言うでもなく、なにをするわけでもなく人間たちを見ていた。その様はまるで美しい幽霊のようだった。ただ静かな瞳を人間たちにむけていた。
 汎神族に見つめられる不思議に人間たちは躊躇した。しかし作戦の緊張にまぎれてやがて慣れていった。
 エルアレイに残った人間たち二百十五人は、大きく円陣を組み作戦にそなえた。その中には、ちゃっかりとビバリンガムもいた。
「はれ、人間どもよ。すっかり準備を整えて、やる気に満ちているのお」
 カーベルが答えた。
「そうよ。ビバリンガム。これから作戦詳細を説明するわ。あなたも逃げちゃだめよ。最後までつきあってもらうわ」
「のおおお。カーベル。いたのか。まだおまえはいるべき位置についていなかったのか。ああっ、おろかなり。熱すぎる魂の女よ。おまえのおかげで、私は人間の命を救うという使命を全うできないではないか」
 そう言いながらも彼の眼は、知的興味に輝いていた。
「黙ってあなたも聞きなさい。餌をあげるから」
 カーベルはガラスの瓶を投げつけた。ビバリンガムは受け取り貼られたラベルを見た。
「のおおおお。琥珀なるインギスの白ワインかや! 逸品なり。見直したぞカーベル」
「気にしないで。中身は飲み放題用の安物だから」
「……だからおまえが嫌いだぞよ……」
 カーベルは笑って背筋を伸ばした。そして集まった者たちを見渡した。
「征轟丸の倒壊は、船体強度から推測して一枚板が倒れ込むようにエルアレイを襲うと考えられる。天海女は位相遷移場を構築して、ふたつの船体が触れる瞬間 から、征轟丸を天海女の位相空間に取り込む作業を始める。しかしこの時に必要となるわずかな時間差を、我々人間が確保しなければならない」
 カーベルは皆の反応を確認しながら言葉を続けた。
「衝突の接線を導く前線として、時間遅延場をエルアレイの幅50ケーメンツルで構築する。前線は激突が完了する瞬間まで、征轟丸とエルアレイの接線に沿っ て、移動と維持を行わなければならない。これは前例のない巨大法呪だ。法呪滋養にはインカー山羊のすべてが当てられる。そして山羊が尽きたとき。我々が巨 大時間遅延法呪を維持することのできる法呪滋養はひとつしかない」
 カーベルは強い意志を込めて言った。
「……我々の記憶だ」
 周囲に動揺が広がった。
「記憶……?」
「人間の記憶が法呪滋養となるのか……」
 それは本能に訴える得たいの知れない恐怖だった。
 自分の記憶が失われることの真の意味はわからない。しかし死とは違う種類の恐ろしさがあった。
「……な、なんじゃとて……カ、カ、カーベル……おまえは……!」
 もっとも驚いたのはビバリンガムだったかもしれない。
 神にとっては死よりも恐ろしい記憶消費を行うというのだ。かーべるはここにいる大勢の人間の記憶を奪うという。まさに身の毛もよだつ宣言を平然とやってのけた。
「ま……まてまてまて待ちゃれ!」
 ビバリンガムは、腕を振り上げて言った。
「こりゃ、おまえたち。人間どよ。いいのか。わかっているのか。ピンときておるのかや! このような暴挙を許すのか。狂気の娘はおまえたちの、き、き、き、きききぃ、記憶を……おおう、ぞわぞわする……記憶を奪うと言っているのじゃぞ!」
 しかし人間たちは、臆することのない表情で、じっとビバリンガムを見返すだけだった。
「なによ。ビバリンガム。他に手があるのなら言って」
 カーベルは堅い意志を秘めた瞳で、華美なピエロを見返した。
 ビバリンガムは化粧の白よりも蒼白な顔で視線を泳がせた。足元が震えて装身具の鈴がチリチリと可憐な音を立てた。
「……おそろしい……」
 全身が踊るような震えにとらわれた。
「私はおまえが恐ろしい……」
「悪かったわね。これしか思いつかなかったのよ」
「ああっ、気分が悪い。まるで野糞と同衾しているようじゃれ。とても哀れなおまえたちを見ていられない」
「いくじなしね」
「……カーベル。容赦を知らぬ邪悪の娘よ。私は記憶を失ったおまえなど見たくもない……」
「勝つためよ。勝って佐竹様をお守りし、エルアレイを天海女を守るためよ」
「のおおお……」
 多弁なビバリンガムが言葉少なく退いて行った。よろよろと歩く姿はおよそ彼のイメージではなかった。
 カーベルは小さく鼻を鳴らして彼を無視した。そして言葉を続けた。
「さて、作戦は三隊の協同において行われる。時間遅延場法呪を構築するアリウス隊と、いまだに活動する征轟丸の戦闘従属生物迎撃を行うイシマ隊。そして両者の情報統合を行うサイン隊だ」
 イシマが説明を引き継いだ。 
「アリウス隊は、アリウス殿とクァンツァッド殿が監視者となって術者の生命を守る。実際の法呪の構築は、カリンビール殿たち天海女の祭り人が中心となって行う。祭り人の方々。貴方達の強力な法呪に期待します」
 カリンビールたち、白い目の祭り人は、祭儀杖をジャンと打ち鳴らして応えた。
 カーベルは、サインたち十三名の因果療法士に言った。
「情報の正確さとタイミングが作戦と皆の命を決する。サイン隊の使命は重いわよ」
「おまかせください。我々は厳しい試験を突破した者たちです」
 サインが胸をそらして言った。
 カーベルは微笑んだ。ここにいる者たち皆がそうだ。素晴らしい素養を血のにじむような努力で昇華させた者たちだ。彼女はそんな者たちに囲まれていることが、たまらなく誇らしかった。
「この作戦は極めて危険だ。記憶を法呪滋養とすることの結果は、私にもわからない。アリウス隊への参加を要請されている者にも参加の強要はできない。しかし我々には余裕がない。因果療法士以外のものは、アリウス隊、イシマ隊のいずれかに名を連ねることを期待する」
 ミロウドが聞いた。
「インスフェロウ様のお姿が見えません。どちらにおられるのですか?」
 その目にはカーベルに対する不信感が浮かんでいた。カーベルは静かに言った。
「ミロウド様。彼には彼にしかできない任務を与えました。我々が作戦に専心できるように。作戦最大の抵抗要素を排除してもらいます」
「抵抗要素?」
 ミロウドはカーベルが再び過酷な任務を与えたのかといぶかった。
「ミロウド様。我々の手には負えない任務です」
「カーベル様の手に余る……?」
「インスフェロウには汎神族・真四季様を押さえてもらいます」


「カーベル様。総員配置につきました」
 因果療法士サインが報告した。最終的に天海女に残った二百十五人。時間遅延場構築にたずさわるのは、そのうちの百七十人だった。
 彼らは征轟丸に向かって横三列になり、濡れた地面に腰を下ろした。
 マウライ寺から倉出しされた、真新しい白の法呪僧兵着を身にまとい、頬に金と赤の化粧をした。
 鹿型従属生物の幼体が、小さな角に酒渡しを器用にひっかけて、皆に心明酒を配って回った。発声練習を始める者、法呪文を口ずさみ文句を確認する者。心を 落ちつけた者から紐葉杉(ひもばすぎ)のしだれ枝と葉を握った。それはマウライ寺から移植された法呪感性に優れた植物だった。高さ5メンツルほどの紐葉杉 は、各列の両側に一本ずつ植えられた。
 紐葉杉の根に紅いクギが刺された。杉を固定することと、百七十名の状態を監視する端子として用いられるのだ。青い元締めクギにはアリウスとミロウドが両手を置いた。
 三人に一体の割合で、法呪滋養として用いる巻角のインカー山羊が配置された。
 紐葉杉の周囲には物理障壁を構築するための行灯が七十本も配置された。
 ゲイゼウスは総括のために、サインと共にもっとも海側に座った。
 汎神族・佐竹とカーベル、そして金龍を従えたローズベイブだけがフリーな状態にあった。
 このごに及んでも征轟丸の従属生物たちは、散発的な攻撃をしかけてきた。しかしすでに威力はとぼしく、あらかじめ配置についていたイシマたちロスグラード自治軍によって迎撃された。
 大勢の人間による巨大法呪の実現は例がないわけではない。しかし多くの場合は、十分な時間と準備を経て、幾度もの訓練を行ったのちに実現するものだ。しかし彼らが行おうとしているのは、まったくの一発本番だった。
 征轟丸の上昇速度が急激に衰えていた。
 頂上はすでに天空高くに消えて、空の霞と区別もつかない。世界の果ての壁が眼前に現れたかのような光景だった。
「……征轟丸が……!」
 征轟丸を監視していた兵士は、すでに幾度となく巨体が倒れ込んでくる幻を見た。
 それは雲の流れにだまされているにすぎない。構造材が破裂する不吉な音が間断なく響く状況は、兵士たちの神経をすり減らした。
 征轟丸の周囲では白い波しぶきが途切れなかった。船体表面から剥離した様々な物が落下して海面を叩いた。小さく見える破片の落下も、そのひとつひとつは城なみの巨大さだった。
 最期の作戦「ときのきわ」は、いま開始された。


 征轟丸は己の巨大さに静かな興奮を覚えた。
 海と空と大気の果て。三つ世界のすべてに船体をさらすという驚愕の事実。
 しかし征轟丸は、自らの内側を見つめていた。
 人には理解できない英知の輝きが空間を満たしていた。征轟丸の中に広がるいくつもの巨大な空洞。生き物には空としか見えない直径四ケーメンツルの広大な球状空間。目に見える光もなく音もない。ひたすらに静寂が広がる清浄な場。
 そこが征轟丸の頭脳の中枢だった。
 重力場を情報伝達具として用いるいくさ船にとって、球状空間「脳間(のうま)」こそが、法呪も及ばない未来予知を可能とする奇跡の場だった。
 船体に散在する二十一の脳間のいくつかの意見が一致した。それは意志として征轟丸にある認識を与えた。
 そう。征轟丸はかつての海戦の勝利を思い出した。
 魅寿司にアルルカンの魂袋を破られて正気に返ったのだ。
 人間ごときの法呪に捕まって、己の勝利を忘れて無様にあがいていたことに気がついた。
「……おのれアルルカン。憎き天海女の祭り人。我をたばかった罪は重いぞ……」
 征轟丸が恥辱を感じるとすれば、いま捕らわれている思いはまさにそれだった。
 真四季の奸計とは言え、人であるアルルカンの法呪に我を忘れたことの悔しさ。
 しかし征轟丸は知っていた。すでに自分は止まらないことを。いかなる攻撃法呪も自らの巨体を退けることはできない。
 怒り狂う征轟丸は、わずかに残った端子を使って、無駄とも思える稲妻を飛ばした。それは汎神族に対するアピールに過ぎないのかもしれない。世界中の汎神族は、征轟丸の無念を感じ取って胸を痛めた。


 天海女の大地に立つ真四季もまた、白い稲光を見て征轟丸の痛みを感じた。
 長い髪がしずくを飛ばしながら風になびいた。征轟丸を欺いたのは、彼にとってひとつの過程にすぎない。
 征轟丸と天海女の激突があってはじめて彼の目的は達せられるのだ。
 しかし人間たちはいまだにあがいていた。
 真四季は人間たちの作戦を不思議な気持ちで見ていた。
 いかに天海女のバックアップがあるとは言え、彼らの作戦が成功するとはとても思えなかった。人間に協力しようとしている佐竹の気持ちも理解できなかった。
 自らの作戦であるにもかかわらず、真四季は動きだした征轟丸の威力に恐怖していた。天地を圧倒する征轟丸のすさまじさに、己の名が汎神族の記憶に残されるだろうことを確信した。
「……征轟丸……」
 真四季は美しい両指を天に向けていくさ船を呼んだ。
「征轟丸……我が声を聞くか?」
 法呪の声がいくさ船にしみ入った。
「我が声はおまえに届くや否や」
 征轟丸が応えて言った。
「監業官・真四季。我をたばかった罪の者。御柱の奸計は我を誘う。天海女を倒す時ぞいま」
 征轟丸に選択の道はなかった。彼のわずかに残った推論エンジンは、天海女を圧倒して名を残すことだけを考えていた。
 真四季が聞いた。
「征轟丸。すでに天に至ったか?」
「天海女を成敗する虚空の高みに至りぬ」
 光がまたたくように、征轟丸からの映像がひらめいた。
 真四季は征轟丸の頂上から見渡す光景の一部をかいま見た。
 漆黒の冷たい闇の中。星々が眩しいほどにきらめいていた。
 眼下に広がる海の青と雲の白。信じられないほど薄く張りついた大気を通して、巨大な正方形の天海女が見えた。
 そこは音のない奇妙な世界。
 天をも越えた大気の彼方から下界を見下ろす光景は、心を揺さぶるほどに美しかった。
 真四季の頬を涙が流れた。胸の奥が苦しくなるほどの切なさに嗚咽が漏れた。
「私はこれほど美しい世界にいるのか」
 記憶すべきことのなんと多いことか。世界は汎神族にとってすら未知の美に満ちていた。
 真四季は愛する妻、優安を思い出さずにいられなかった。
 甘くすべやかな妻の肌。優しい髪に顔を埋めて子を成したい。白く清らかな布に包まれる妻とわが子。それが真四季の望みだった。
「真四季よ」
 征轟丸が告げた。
「世界にその名を残すがよい」
「征轟丸。おまえが天海女に再び勝利することを誇りに思う」
 真四季は感動にうち震えた。
「しかし真四季」
「なにか。征轟丸。」
「私はおまえを許さない」
 征轟丸が言った。その声は冷たい恐怖に満ちていた。まるで聞く者を言葉で呪い殺すかのような響きをたたえていた。
「なにを言う。征轟丸」
「真四季。おまえは我を欺瞞した。その責めを受けなければならない」
「征轟丸。おまえは戦ういくさ船。再び天海女に勝利することをなぜに恨むか」
「おまえは我を欺いた。理を持って説くことなく畜生を使役するかのように、魂袋などという汚らわしくも姑息な手段を用いた。その罪は記憶途絶に値する」
 真四季は驚いた。いくさ船の論理にこのような感情が現れるとは。それはとても滑稽なことに思えた。
「私を責める権利がおまえにはあるというのか」
「私に汎神族のルールがなんの意味を持とう。こここれに至っては、すでに後戻りはできない。私は再び天海女に勝利する。しかしその前におまえを責め殺す」
「…………」
 真四季は全身から血の気が引いていくのを感じた。
「……いくさ船が私怨で動くというか」
「戦いに勝者はひとつだ。天海女を倒す悦びを記憶するのは我のみだ」
「……なに?」
「すでに約束の刻は迎えた。ゆえにこの戦いに大義はない。あるのはたったひとつの勝者のみだ。私と天海女と真四季。そのいずれかだ。おまえが真の勝者を望むなら、私を破ることだ」
「私がおまえを破ると? おまえはいくさ船ではないか。私がおまえを使役してなんの不都合があるというのか」
「約束の刻をもって私の使命は完了した。私はおまえの命令を受ける義務はない」
「いくさの具であるおまえを、この偉大な作戦に参加させた私に感謝せよ!」
「私はおまえを殺すだろう」
「な、なんと」
「おまえの持つ、私を欺瞞したという呪うべき記憶を遺伝させない……真四季……いまからおまえを殺しにいくぞ」
「……まて……」
「問答は無用である」
 真四季は征轟丸の理解しがたい論理に冷たい汗を流した。


 真四季が恐怖に捕らわれていたとき。征轟丸はもうひとつの会話を交わしていた。
 その先は天海女だ。
 天海女は征轟丸に言った。それは汎神族にも理解できない言葉だった。
「あらがわないで……」
「我に語るは天海女か」
「僕たちの作戦に身を任せて」
「それはできない。我はいくさ船であるぞ」
「いくさ船であればこそ。沈黙する勇気を示して。僕たちは汎神族と人間と、たくさんの命を守るための作戦を始めている」
「破滅はもはや不可避だ」
「あなたの推論エンジンは、本当にそう答えているの?」
「一点の迷いもない」
「それがあなたの衰えを現している」
「おまえは違う勝利を夢見ているというのか」
「僕は勝利を見ているよ」
「ならばそれは事実なのだろう。しかし私の見る勝利もまた事実だ」
「ともにひとつの未来を見よう」
「天海女。我が仇であるおまえに協力しなければならない理由はなにか」
「征轟丸。それはあなたが勝者だから」
「なに?」
「征轟丸。あなたは海戦の勝者であるがゆえに、勝者の義務をはたさなければならない」
「勝者の義務とはなにか」
「あわれな敗者を守ること」
「あわれな敗者とは何者か」
「征轟丸。あなただ」

 

 

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