「ぎゃぎゃぎゃおおおん」
巨龍が歓喜の遠吠えを吠え上げた。
後ろから迫ってくる征轟丸の巨体が、真四季たちをすりつぶすことを確信したのだ。自らが滅ぶことなど眼中にない。
インスフェロウが言った。
「真四季。力を貸せ。巨龍に時間遅延場を二重にかぶせるんだ」
「そうか。人間の時間遅延線に干渉させるのか」
「そのとおりだ。このままではあやつは我々と同様に現世に取り置かれる。さらに時間遅延場を被せることによって、征轟丸とともに位相の彼方に封じ込められるだろう」
「わかった。白鷺」
「私は奴の足を止める。時間遅延場の構築はまかせるぞ」
「……よし。いこう。白鷺」
巨龍はたちまち勢いを取り戻した。いままでに受けたダメージなどものの数ではないと言わんばかりに、不気味にねじれた首を振り上げた。
インスフェロウはローブの下から白の色紙を一掴み取り出して半分に折った。そして穢れを祓うかのように両手をぬぐい大地に捨てた。
色紙はたちまち黒く染まり、真っ赤な炎をあげて燃え尽きた。
「ゆくぞ」
両肩の印肢が風を巻いてうなった。
「……きぃけーーーーんっ」
残った四匹の狐型従属生物の三匹が、インスフェロウの法呪滋養としてつかまった。姿が薄れていく彼らを真四季は振り返ろうともしない。
インスフェロウの両腕に青い光が宿った。
「おおぅ!」
両腕が打ち振られた。光の帯が走った。
それは時間遅延の変形。触れたものの時間進行をさまたげる法呪だった。
濃紺の時間剣は、巨龍の巨体を端から端まで通り抜けた。
まるで水の中を太陽光が透過するような何気なさで。
「…………じぎゅ……う」
音を巻き戻すような奇妙な叫びが鳴り響いた。
光が通り抜けた一筋の跡が、二ビヨウの過去に遡った。
すなわち巨龍の一部が、時間を隔てて切断されたのだ。
動く巨体は、遡及した身体を押し退けようとして破裂した。過去に戻った体と未来の体は互いに異質の存在だ。わずかな一線に沿って身体は爆裂した。
自らの身体同士が退け合い、互いを食い合う大爆発が広がった。
理論上、切断できないものはありえない時間の刃だ。
それは巨龍を両断する真一文字の光となってエルアレイを照らした。
「いまだ。真四季!」
「ぃぃぃいいいいああああああぁぁぁぃぃぃあああああぁぁぁん」
涙がでるほど美しい高速言語が流れた。
征轟丸の轟音の中にあっても、その声は多くの汎神族の耳に届いた。
真四季の法呪は最後の巨龍を、時間の黒檻に閉じ込めた。
「とどまれ巨龍! 10ビヨウのあいだで良いのだ!」
真四季は必死の形相で叫んだ。
佐竹の口から不気味な声が漏れた。
「ぐううぅぅぅ」
床に座した体が不自然に傾いた。老神の口の端から白く濃いものが、たらりと垂れた。そして神は沈黙した。
カーベルは佐竹に深々と頭を下げた。汎神族の力も尽きた。
そして彼女はまっすぐ正面に眼を向けた。これから自分が挑む征轟丸の巨体を眼に焼き付けるかのように。
「ビドゥ……インスフェロウ……私を守って」
どっと涙が溢れた。
自分でも驚いた。なんの涙なのかわからない。
しかし後からあとから涙は止まらなかった。
「いくわ。天海女」
「カーベル。僕たちは勝つよね」
「負けたことなんて一度もないわ」
カーベルは指先を伸ばして天を仰いだ。そして高く法呪文を唱えた。
甲冑に下げられた全ての板符が言葉を巻いてひるがえった。
「時間を操るあがないの品。神のあがない差し出すは時刻すなわち彼の老い。人これあがなうは記憶すなわち生きたる証。時の世をかえりみて不二物の接する時を遅らせるは我が記憶なり」
「カーベル様!」
ミロウドの声がした気がした。
しかしたちまちカーベルの意識は、法呪に飲み込まれていった。
記憶が吸い取られていく。
法呪の成功を示す金の光が、彼女の頭上でまぶしく輝いた。
背筋を、すうっと幽霊に撫でられるような感触に襲われた。
「あ……あああっ……」
唐突に少女時代のピクニックの光景を思い出した。
顔も覚えていない母と手をつないで歩いていた。
楽しくてしかたがない。
走っては止まり、母の足元にまとわりついては困らせた。母の手は優しいけれど力強い。渾身の力を込めて引っ張っても自分の思い通りには動いてくれない。それが不思議な安心感だった。
ビドゥ・ルーガンが笑っていた。
花をくれる優しい瞳。食事をするふたり。
部下の失敗の責任を問われて不機嫌な顔をしている彼。
「ビドゥ。あなたらしくないわ。やめてよ。せっかくの食事なんだから」
「悪かったな。おまえにはわからないさ」
「どういう意味よ。私は精一杯やってるわ!」
いらついてしまう自分。怒ることが甘えていることだと気づかない若さ。
柔らかく激しいキスに夢見心地な夜。
「愛してるわ。ビドゥ……」
街の女の子が彼に熱い目をむけることに、誇らしくも嫉妬する心。
彼の端正な横顔に見とれる幸せ。
そしてインスフェロウがいた。
彼女のすべてを包み込み許してくれる力強い魂。
彼女の半身……彼女が生きてきた証……カーベルという名を持つ人間がこの世に生まれて時に名を刻んできたすべて。
時間が遡っていく。
脳と身体に刻まれた記憶の結晶が穏やかな安定の場から引き剥がされた。
記憶の奔流が全身を駆けめぐった。
「……だめ……」
カーベルは記憶が失われることの恐怖を初めて知った。
止まらない法呪は、術者の意志に頓着することなく完成に向けて流れていく。
同時に彼女は、目に映る物すべての意味を失っていった。
無感情の白い闇が、吹雪のように心を犯していく。
「ああっ……」
カーベルの法呪は完成しようとしていた。
それは人間の技をはるかに超越した奇跡の法呪だった。
そしてカーベルは忘れてしまった。
法呪を発動させたわけを。超常の技で何をしようとしていたかを。
知性を失ったわけではない。だがいまや彼女にとって、目に映ることすべてが初めて見るものばかりだった。
彼女の記憶が身体を離れた。空に舞い上がり時間遅延線に交わった。
青い光がカーベルの姿をまとって、矢のように空を飛んだ。
巨龍は止まった。
醜い全身は、駒落とし映像のように、不可思議な身じろぎを続けていた。征轟丸が支援しているのかもしれない。恐るべき力は、二柱の汎神族の時間法呪をも食いつくそうとしていた。
この状態を維持できたならば、巨龍は征轟丸と触れたときに位相の彼方へ道連れとされるだろう。
「インスフェロウ殿。あれを」
イシマが征轟丸のほうを指さした。指の先には、目の錯覚のような青い光が揺れていた。時間遅延線だ。
征轟丸が迫る方向から、青い光の列が弾丸のような速さで迫り来た。
前線に光の娘が両手を広げているのが見えた。
真四季が言った。
「あの青い光はカーベルか」
完成された人と法呪の融合は、すさまじくも美しかった。
………………
声のない娘の叫びが風となって島を横切った。
それは光でありカーベルだった。カーベルの記憶が時を遅らせた。
世界が真っ二つに折れたかのように落ちてくる征轟丸の巨体。破滅を先導する五十ケーメンツルの時間遅延線。青く透明な光は真四季すら無視して殺到しようとしていた。
「白鷺!」
真四季は恐怖にかられて防御法呪を巡らせようとした。しかしインスフェロウによってキャンセルされた。彼はいかなる法呪も使わせないつもりだ。
インスフェロウは真四季を正面から抱きしめた。
「見ろ。真四季。この想いを。強さを」
灰色の怪人は金色の瞳を輝かせて、カーベルの姿を見た。
真四季はあがいた。
この光景。この事実。記憶を残したい。
愛する妻、優安にいま見ている記憶を伝えたい。
それは汎神族の強烈な本能だった。
「白鷺。我々は死ぬのか」
「カーベルは神を守り、人を守るために戦う。私はそれに従うのだ」
真四季は信じられないものを見る目でインスフェロウをみつめた。
インスフェロウが笑って言った。
「口づけがほしいか?」
「……ああっ……」
「だめだ。カーベルがやきもちを焼く」
征轟丸の船体は既に彼らの頭上に達した。目にも止まらぬ高速の縞模様が流れていった。
真四季は圧倒的な質量の前に、汎神族もひとつの命に過ぎないことを知った。
天と地を圧するふたつの大地に挟まれた彼らのなんと無力であることか。
人間たちは、この大暴力を切り抜けようとしていた。
天海女を守るために、自らの記憶と命を投げ出そうとしていた。
真四季は眼を凝らして迫り来る大地の接線と、青い光のカーベルを見た。
すべての出来事を深く記憶に刻み込むために。
「くるぞ」
インスフェロウが言った。
真四季はインスフェロウに抱かれたまま力強くうなずいた。
「来い……カーベル」
青い光が彼らの元にたどり着こうとした、まさにそのとき。
インスフェロウの耳に言葉が届いた。
……足りない……
それは天海女の声だったのかもしれない。
インスフェロウは、時間遅延線の色があせはじめていることに気がついた。
カーベルは力尽きかけていた。時間遅延法呪は紫を帯びた線を引きずっていた。
それは法呪が機能する、ぎりぎりのあらわれだった。
天海女が言った。
「カーベル。がんばって。もうすこしだよ」
時間遅延線の維持は、サインたちも監視していた。しかし主導権が佐竹に、そしてカーベルにと急速に移動した法呪のコントロールを取り戻すことができないでいた。ましてや戦士たちの記憶探索線は、すでに力尽きてずたずただった。
「あと4ビヨウです。カーベル様」
両手両足を別々の水鏡に入れたサインは、薄れ行くカーベルの記憶を感じた。
「だめか……だめなのか。もうすこし……もう少しなのに……!」
ミロウドが法呪の目でカーベルの苦悶を見た。
「カーベルさま……」
白いアリウスが叫んだ。
「カーベル様! がんばれ!」
バンッ!
インスフェロウのマントが跳ね上がった。
「カアァァァベル!」
灰色の怪人は野獣のように吠えた。
両肩の印肢が音を立てて展開した。
たくましい掌が懐からボッシュの格子を握りだした。
倒れていく征轟丸の巨体が、目に見えないよじれを起こしはじめた。
いかに強靱ないくさ船の船体と言えども、垂直に立つこと自体がすでに奇跡なのだ。人間には理解できないすさまじい法呪と技術が、かろうじていくさ船の巨体を支えていた。
しかし限界があった。
征轟丸は自らの船体が折れる苦痛に苦悶しながらもほくそ笑んだ。
既に武器を持たない征轟丸は、自ら倒壊する作戦に出た。
さらに倒壊を進めるために、移動可能なものすべてを移動して、重心を狂わせることに専心した。
征轟丸の船内では、生ある者、生なき者。動ける全てのものが激しく動き回った。本来バランス良く配置されていた全てのものが偏って集まり、密集して互いを押しつぶした。
船体を引き裂く激痛の中、勝利を信じて最期の戦いを開始した。
カーベルの作戦は、規則正しく征轟丸と天海女が接することを前提としている。人間が必死に構築する時間遅延線は、ほとんど直線に近いのだ。
征轟丸の船体が崩れ落ちるということは作戦の失敗を意味した。
しかし人間たちはそのことにまったく気づいていなかった。
「……天海女……残念だったな」
征轟丸が言った。天海女が応えた。
「征轟丸。忘却エンジンを抜かれたね。それでも僕と亡びたいの?」
「我等の戦いは汎神族も理解できない。しかるに人間ごときの法呪である魂袋にまどわされる我々は、なんと愚かであることよ」
「これが最後の戦いだよ」
「私はまもなく自重により折れて崩れる。この世に残るはわずか8ケーメンツルと言えども衝突がなされれば、いまだに因果関係を保つ位相空間内の我が船体は、再びこの世に立ち返るだろう」
それは事実だった。ふたつの船は汎神族すら想像できない爆発により消滅するだろう。大陸まで炎が及ぶ爆発が起きるのだ。
「あくまで僕には負けないと言うんだね」
「私は幸運だ。二度の勝利を味わえる」
いくさ船の本能が闘気をぶつけた。
地上では暴風がごうごうと渦巻き、不思議な稲光が何本も走った。紫色のオーロラが天海女の上空を覆い尽くした。
人間にも、汎神族にすら。その現象の理由を理解できなかった。
いくさ船同士の闘志の現れは、陰気となって大気を焼き、海を広く汚染した。
征轟丸と天海女の推論エンジンには、自重で粉々に崩壊する征轟丸の巨体が見えていた。
予知の連鎖が、仮想の光景を現実と等しい映像として描き出した。
征轟丸の傷ついた船体から、おびただしい構造財があふれはじめた。
それは金属であり、材木であり、土であり。そしてすさまじい量の真紅の泡だった。
数えきれないクンフが宙に舞った。白い小鳥状の小さなクンフがエルアレイの人々を圧して飛来した。
その光景の中には、破綻した大規模法呪に消し飛ぶ人間たちがいた。
天が崩落するかのごとき破滅の中で、インスフェロウや真四季たち汎神族も、あらがう術なく押しつぶされた。
見るみる迫る天海女の大地のはずれにカーベルの姿があった。
汎神族佐竹の前に立ちはだかり、髪を振り乱して法呪を叫んでいた。
瞳が恐怖と怒りで紅く燃えた。
しかし彼女の姿も一瞬のうちに、圧倒的な闇に飲み込まれた。
「天海女。私の勝ちだ」
征轟丸が宣言した。
そのとき、征轟丸の船体の一部が大爆発を起こした。
朱色と黄色の炎を巻いて、いままさに折れようとした艦体の中からすさまじい爆発がおきた。
機能の落ちた征轟丸は、爆発が予知か現実か、すぐにはわからなかった。
征轟丸の内側から法呪の声が誇らしげに轟いた。
「天海女に捧ぐ」
天海女の魚雷・赤龍だ。
「我は今こそ時を得たり」
爆発は現実だった。征轟丸が恐怖におののいたとき赤龍の勝鬨が上がった。
「見よ! 我が生じたる縁は、長き四十年の時を隠れて、いまこの時この場所で天海女がために破裂するためなればこそ」
赤龍の渾身の爆発が、征轟丸の倒壊を押し止めた。
なにかが誘爆を続ける征轟丸の船体は、すさまじい爆発の反動で、瞬間的に安定姿勢へと押し戻されていった。
征轟丸が悲鳴を上げた。
「赤龍! なぜ貴様がそこにいるか!」
爆発の轟音とおびただしい火の粉が、たちまち天海女を襲った。海上に落下する破片があまりに多くて、海はしぶきに覆い尽くされた。
はるか彼方の空での爆発にもかかわらず、爆発の閃光と破裂音は、カーベルたちの元にも届いた。
「征轟丸。僕は勝ったよ」
天海女が少年の声で言った。
「赤龍は君の体を支えるために爆発したよ。彼は僕の誇りだよ」
天海女の祝福に応えて赤龍は爪の先まで炎となった。
征轟丸が叫んだ
「おおおっ! 呪われよ天海女。この刻を予知したか」
「僕の勝ちさ」
彼らの言葉で天海女は言った。
「征轟丸。君の負けだ」
「おのれ。天海女ぁぁぁぁ!」
征轟丸の絶叫が世界に轟いた。
「ぎゃすぎゃゃああ!」
最後の巨龍が悲鳴をあげた。
征轟丸の巨体が真四季たちの眼前に迫った。
「白鷺……」
真四季は必死に眼を見開き、眼前に迫った征轟丸の巨体を見つづけた。
視界の全てが征轟丸の船体に覆い尽くされた。もはや逃げ場がない事実が現実としてつきつけられた。
「……ぎゃっ……!」
巨龍が閃光を上げて位相に呑み込まれた。
「……し……ら……」
次は自分だ。真四季は耐えきれずにインスフェロウを見た。
インスフェロウの両眼が、すさまじい金に光り輝いた。
「カーベル。ボッシュの格子は、失われたおまえの記憶を戻すために使うつもりだった」
両肩の印肢が見えないほどに打ち振られた。時間を操るための法呪が、緻密な織物のように構築されていった。
「残念だ。おまえの記憶を取り返せそうにない」
インスフェロウの右手が高く掲げられた。
「だが心配はないカーベル。おまえの想いを遂げさせるためならば、私は喜んでおまえを犠牲にしよう」
握りしめられたボッシュの格子は、彼の瞳と同じ黄金色に輝いた。
「それがおまえを愛することだ」
格子から光る風が噴き出した。風はインスフェロウのフードをはね上げた。
風は彼の眼から熱いしずくを吹き飛ばした。
「うねめし歪めて蓄えられた、この刻つかさどる時の力は、我が意に沿いて線となり、触れしまみえしすべてのものの時間をいちに遡及すべし」
ギィィン。空間を切り裂く音が響きわたった。
ボッシュの格子は崩れゆく塩の柱のように姿を消した。光の粒が渦を巻いて彼の腕に絡みつき、形を変えて伸びていった。
インスフェロウの左腕から、複雑な光を散らす黄金の斧が伸びた。
格子に残された由紀野の時間が全て消費された。
斧は触れるものの時間を可逆させる超越の属性を持っていた。
かつてそのような例は知られていない。
原理的な可能性には誰しも気がついていたが、法呪として完成させた者は汎神族にすらいなかった。
理由は簡単だ。時間を可逆させるためには代償が必要なのだ。
それは圧縮された時間であり、時間に伴う記憶そのものだった。汎神族の理性には耐えられない。
断末魔の征轟丸が消え入りそうな声で懇願した。
「……やめよ……やめよ……白鷺……汎神族の戦いは……すでに終わったぞ……」
インスフェロウは応えて言った。
「くりかえし言おう。カーベルのために戦うことこそ我が存在意義である」
「……おまえは……白鷺である……!」
「征轟丸。私を深く記憶せよ」
カーベルの青い前線が、音もなくインスフェロウに迫った。
「私はカーベルのインスフェロウだ」
光が頭上をかすめて通りすぎようとしたとき。
「カーベル!」
インスフェロウは両手を真上にさしあげた。
全身が鞭のようにしなり、汎神族の美しい肢体が筋肉の躍動とともに舞った。
「うけとれ!」
インスフェロウは巨大な金の斧を振り、前線を押し出すように打ち飛ばした。
さらに加速をつけて飛んでいけ、と言わんばかりに。
両腕に宿した金の法呪が一滴残らず青光にたたき込まれた。
金と青が混じり合い、激しい光が前線を覆った。水面に金の染料を落としたように光が真横に走った。巨大な前線の隅から隅へと広がった。
「おおおおおおっ」
インスフェロウの叫びを、物見高いすべての神々が聞いた。
ボッシュの格子に蓄えられた由紀野の数十年分の記憶が、前線にピンクの色を添えた。カーベルの青と由紀野の桃色。前線は再びまぶしい青の輝きを取り戻した。
「いけ! カーベル」
インスフェロウは大声で笑った。
白いローブが風をはらんだ。
漆黒の闇の中で金の瞳が燦然と輝いた。
「私のカーベル!」
その瞬間、彼の頭上に征轟丸が落下した。
「……カーベル……」
法呪の中にある彼女は、青い光に染まって自分の姿を見失った。
苦痛が心を満たした。それは肉の痛みではない。後悔と義務感が争う魂のきしみだった。
「わたしはただしいことをしたの……?」
正しいこと? いままで自分はなにをしていた? なぜ自分はここにいる?
夢のようなあいまいさが、考える力を奪っていった。
「わたしは……」
ああっ……この光のなかに消えていくんだ……
もがく記憶のかけらが、時間遅延線から雪のように舞い散った。
カーベルの愛と喜びと悲しみの記憶が、青い光の飛び去った後に降りしきった。
「カーベル」
ふいに現れた自分に寄り添う暖かい力を感じた。それは心地よい記憶のぬくもりだった。
自分を知っている他者の記憶。
自分を愛してくれる優しい記憶。
カーベルは自分の手を取る大きな姿を見た。
揺れる思考の中で、それが汎神族であることを知った。
うれしい。
それは彼女の記憶ではなかった。
なぜなら彼女はその汎神族を知らなかったから。
若くたくましい神は、慈愛に満ちた目で彼女を見つめた。
いままで見たこともない造形の妙だった。人間が限りない芸術の心を持って描く、どんな絵画よりも美しい姿だった。
なめらかな肌。描いたように整った顔だち。長く真っ直ぐな髪。若く知的でしかも力強い。
美しい神の瞳は言った。おまえを知っている、と。
「だれが忘れても、私はおまえを覚えている」
白い霞の中に神の姿が消えかけた。心臓の音のような規則正しい音だけが周囲を満たした。
それは法呪の声にも似た笑い声だった。
神が笑っていた。りりしく美しい……。
どちらの御柱だろう? 顔は知らない。
しかしやさしい金の瞳は知っていた。
限りない愛情に満ちた微笑みが全身を甘く痺れさせた。
「けっして忘れない。カーベル」
彼女は涙が流れるのを感じた。
それは悲しみの涙ではない。
結婚式にこそふさわしい喜びの涙だった。
光が駆け抜けた。
爆音が失せた。
青く染まった世界は、一瞬の刻を永遠にした。
カーベルの記憶が叫んだ。
……インスフェロウ! ……
金の瞳が笑って応えた。
……おう。カーベル……
……インス……愛している……
……ああっ。知っている……
ガッ!
轟音が飛び去った。
圧縮された空気が衝撃波となって海上に吹き出した。波は風に切り裂かれて飛沫を飛ばした。一瞬の気圧の変化に海面の水蒸気が結晶して膨大な雲が発生した。
巨大な天海女の船体が入道雲に覆われた。雲は生き物のようにもくもくと伸び上がり、上空の薄い雲を突き破った。
心配された津波は、ほとんど発生しなかった。
湖に石を投じたような柔らかな波紋が、天海女を中心に同心円状に広がっていった。
征轟丸はみごとに消えていた。
正確には、天海女と同じ空間に位相を異にして存在した。
広い海原には、四角い天海女だけが残っていた。
天海女の表面には、刷毛ではいたような波模様が薄く幾重にもついていた。それは征轟丸が残した衝突の痕跡だった。時間遅延線か、位相遷移前線のいずれかが完全ではなかった瞬間瞬間の爪痕だ。
しかしいま、征轟丸は破滅的な被害をもたらすことなく衝突を完了した。
位相の彼方に消え失せた征轟丸には、もはや天海女を攻撃する力も術もなかった。
天海女に残った征轟丸の従属生物どもは、すでに観念して戦いをやめた。
知性高い従属生物は、降伏の手続きを望んだ。他者の支配下で働いていた者どもは、人畜無害な家畜と化した。
真四季の呼びかけに応じて、彼方からすさまじい事業を見ていた神々は、雲をも操る風を呼び、天海女の表面をやさしくなぜた。
天海女を覆っていた入道雲は、内部で白い稲光をきらめかせながら、すこしずつ海に流れ出していった。
彼方の神々が呼びかけた。
「真四季。応えよ。我が呼びかけに声を持って命の印を示せ」
事業を見るために派遣されていた多くの空飛ぶ従属生物たちが、上空から法呪の目で大地の様を探ろうとした。
かすかな汎神族の印が大地に見えた。
しかし巨大法呪の残滓が陰気となって天海女を覆っているために、応える神はいなかった。
「…………ちら……ルアレ……」
かすかな法呪の呼び声を上空の鳥たちは聞いた。それ意外にも人の声だった。
「エル……レイ……リウス……エルアレイは健在」
アリウスだった。
「こんにちはぁ。こちらはエルアレイ」
冷静な……緊張感のない……声が流れた。
「みなさん聞こえますか? エルアレイから呼びかけています。私はアリウス。エルアレイは健在です。だれか聞いてますかーーっ? やっほーーぉ」
法呪の声は遠く海を渡った。
すこしずつ陰気が晴れてきた。生き延びた汎神族たちの声がうねりとなって、天海女から溢れはじめた。
「私たちは天海女と佐竹様をお守りいたしました。すばらしい作戦を最後まで戦った仲間を誇りに思います。エルアレイは多くのものを失いましたが、再び私た
ちの街として復興することでしょう。その第一歩として……だれかご飯を下さーい。すごいお腹減りましたあああっ。ケーキがいいなあ。バタークリームいっぱ
いのやつ。1ホールまるまる食べれますう」
アリウスという名は、汎神族に驚きを持って記憶された。
インスフェロウと真四季は人間の陣地に立った。
彼らはイシマたち兵士とともに、一人も欠けることなく帰ってきた。
「見ろ。真四季。人間たちは天海女と佐竹様を守り抜いたぞ」
インスフェロウが言った。真四季が静かに応えた。
「見事だ。私は彼らを記憶するだろう」
彼らは征轟丸落下の瞬間、身体のなかをいくさ船がすり抜けていくのを感じた。
それは恐怖と怒りに満ちた感触だった。
真四季を殺し、記憶を途絶させようとした征轟丸。二度目の勝利を天海女に奪われた負け戦のいくさ船。
征轟丸は消滅したわけではない。位相を異にするだけでいまだに存在するのだ。
真四季が声を高くして呼んだ。
「天海女。勝者たる者よ。我が声を聞くか」
しかし天海女からの応えはなかった。ただ静かに風が流れていくだけだった。
「天海女はいかにしたのか」
真四季はインスフェロウに聞いた。
「彼らの考えは測りしえない。我々が思うような”考える”という行為すら、彼らの概念にはないのかもしれない」
「いくさ船たちにとって、我々は何者なのだろう」
「彼らは我々を理解しているだろう。しかし我等と会話することはたまらなく退屈なことなのではないだろうか」
「戦いを終えたいくさ船たちは、彼らの世界に帰っていったというのか」
「真四季。私は天海女がなぜカーベルに語りかけたのか知らない。いくさ船は本来そのような戦い方をしないものだ。自らの予知の力を用いて、最小限の武器で戦うものだと理解していた。だが天海女はカーベルを使った。まるで魚雷どもを駆使するように」
「天海女が沈黙しているのは、我々が弓矢の戦いに勝利したのち、放たれた矢を顧みないことと等しいというのか」
「わからない」
インスフェロウは首を振った。
「私は天海女が自らをなんと呼ぶのかさえ知らないのだ」
真四季が言った。
「私には征轟丸を感じることもできないが、もしかすると天海女は彼の船と語り合っているのかもしれないな」
「そうだ。永遠の予知と戦いの物語をな」
真四季はクァンツァッドたち人間の法呪使いの手を借りて、佐竹を寝綿の法呪でくくり保護した。身体の代謝機能を落として、汎神族の治療を受けるまで保護するためだ。
天海女の戦いが終わったいま、佐竹もこの地を離れることができる。
余命いくばくもない佐竹だが、せめて心安らかな終いの住処が与えられることだろう。
水平線の彼方に汎神族の船が現れた。それはラベンダーの株に似た空飛ぶ船だった。
人が建てたいかなる城よりも大きな船は、遠近感を狂わすほどの勢いでエルアレイに迫ってきた。
高度にして数百メンツルの高みにあろうか。空の一角はラベンダーのごとき紫の機体に覆い尽くされた。
高い運転音が音楽のように鳴り響いた。人間たちはあまりの威容にあんぐりと口を開いて空を見上げた。
船の下部から真紅の炎が吹き出した。それは人間たちを狙った砲撃に見えた。
イシマが叫んだ。
「ふせろ!」
砲弾のような火の矢が二発三発と放たれた。炎は赤い尾を引きながらエルアレイの大地に炸裂した。
イシマたちが立つ場所から五十メンツルも離れていなかった。
「神々はなにを意図されるか」
イシマがインスフェロウに聞いた。
「あれは転送だ」
インスフェロウも少なからず驚いていた。いままさに着陸しようとしている船から危険な転送技術で降り立とうとしているとは。一刻の時間を惜しむ者がいるというのか。
虹色の火花を散らして転送の光が大地にはぜた。
冗長情報がはじける中で、若い女神が桃色の袖を振り散らし、艶やかに舞いながら姿を現そうとしていた。
「……優安……」
真四季がささやいた。驚きに目を見張って光の中の女神を見た。
優安。彼の妻だ。いくさの敗者として子を成すために成された愛のない結婚。彼の子を産み敗者の記憶を継ぐためだけに嫁いできた名門の娘。
女神は姿を取り戻した。そして光の中で膝をついた。
「優安!」
真四季は人間の前だということも忘れて、いまだに光をまとわりつかせた女神の元に走りよった。
「……だいじょうぶか」
幼ささえ残る女神は、けなげにも立ち上がると真四季に熱い眼差しを向けた。
しかし真四季に抱きつくような、はしたない真似はせずに、手を身体の前で複雑に振る、不思議な舞いを見せた。
ミロウドがインスフェロウに聞いた。
「なにがおきているのですか?」
「恥じらいの作法だ」
「はじらい?」
「妻が夫の前で喜びを現しながら、しかし感情をあらわにした自分を恥じらってみせる作法だ。真四季の妻は良い家の出らしいな」
インスフェロウは感心したようすで笑った。
真四季は冗長信号の光が消えるのを待って女神に近づいた。女神は涙を流していた。
「優安……自転送などと……なぜこのような危険な真似を」
「……ご無事で……ご無事にお戻りになられて……」
「優安」
真四季は驚いて妻を見つめた。妻は自分の希有な記憶を欲して嫁いできたと思っていた。自分を案じて駆けつけることなど想像もしなかった。しかも危険な転送技術を使ってまで時間を惜しむとは。
優安は堪えきれずに真四季の胸に飛び込んだ。
「真四季様。ああ……私をはしたない妻だとお思いなさいますな」
汎神族の礼も名門のプライドもかなぐり捨てて、愛する者を求める本能に身をゆだねた。
「優安……!」
真四季は反射的に妻を抱きしめた。
「真四季様、真四季さま……心配いたしました。心が張り裂けるかと思いました。父に頼み速船を出していただきました。真四季様の大望を妨げるかもしれぬと
いうのに……おろかな心を止めることができませんでした。……もし……もしも真四季様に万一のことがーあったならと考えるだけで……私の心は恐ろしさに押
しつぶされそうでした」
「ゆう……あん」
真四季はあまりの驚きに、妻の名前を呼ぶことしかできなかった。
自分が愛されていた? 真四季はたしかに妻を愛していた。しかしそれは彼の一方的な愛だと考えていた。自分は記憶遺伝のための雄にすぎないのだと。
「真四季様。お怪我はありませぬか。もし真四季様が御子などいらぬとおっしゃるなら私もそれを望みませぬ。ただ……ただ真四季様がお戻りくだされば、それだけで……私は……」
「ああっ、優安。知っているはずだ。私はおまえを愛している。はしたないなどと、どうして思えよう。私とおまえの記憶を持つ偉大な子供が生まれることは汎神族の名誉である」
真四季の足元から桃色の霞が立ちのぼった。霧はたちまち巨大な霞柱となって、数十メンツルの高みまで登った。
二柱の姿が巨大な映像となって映し出された。涙を流して抱き合う彼らは、いかなる絵画よりも艶やかで美しく悩ましかった。
甘い果実の香りが周囲を満たした。無数の蝶型クンフが湧いて出た。クンフどもは銀粉を祝福として晴れやかに舞い踊った。
やがて二柱は、桃色の霞の中に消えていった。
「あ、真四季様」
ミロウドが声をあげた。インスフェロウは口の前で指を立ててみせた。
「ミロウド殿。邪魔をするのは無粋だぞ」
「えっ……真四季様はいずこへ」
「子を成しに隠れたのだ」
「……は?」
「レディにもわかりやすく言うと。一発ヤリにいったのだ」
「イ、インスフェロウさま……」
「真四季が得た貴重な記憶を遺伝させるためだ。妻である優安殿はいますぐに子を成したいという本能の突き上げに堪えきれまい」
「記憶を保存することが目的だと? それは愛と言えるのですか」
「汎神族にとっては美しい愛だ」
真四季が去るのを合図にしたかのように、物見高い汎神族たちは天海女から去った。
位相空間というあやうい世界を高速で移動する泡のような装置で、それぞれの故郷に帰っていった。佐竹もまた汎神族によって保護された。
「…………」
佐竹は別れに際してなにも語らなかった。すでに意識を失っていたのかもしれない。
寝綿に包まれたまま、半眼からのぞく優しげな眼差しを人間に向けた。
人間たちはそれで十分に報われたと感じた。
エルアレイには、人と従属生物たちが残された。
彼らの元にマギーの門を閉じたビバリンガムが走ってきた。ビラビラの衣を振り乱しながら空中回転をして足を止めた。
「あなや。これが……カーベルかや!」
佐竹が去った後には、奇妙なオブジェが残されていた。
長いスカートの白ドレスをまとった人型の塊。
まるで等身大の姫人形に、蜘蛛の糸と砂糖をまぶしたかのようだった。
それはカーベルがいたはずの場所に立っていた。
人々は恐るおそる近づいた。
「カーベル」
「カーベルさま……」
そして彼女の名前を口にした。作戦の最後の時をたった一人で支えた娘。あまりに変わり果てた姿に、人々はなにもできなかった。
「どいてどいて。ここはひとつ。この天才の出番っしょ」
ローズベイブが、ずかずかと歩み寄った。
手を伸ばして、顔にあたる部分に触れた。そこにはかすかにカーベルの面影があった。
ローズベイブは白い表面に爪を立ててかけらを取った。綿飴のようなふわふわとした繊維質が剥がれた。彼女はそれをパクンと、口に放り込んだ。あまりのことに人間たちは息を飲んだ。
「甘酸っぱいわ。悪くない。なんなの、これ?」
その瞬間。人型の背中と肩が、パリパリと割れた。
「うきゃあ」
悲鳴をあげて逃げる彼女を追うように、三匹の楽蛇が飛びだした。
インスフェロウが、すっと手を伸ばして楽蛇の鼻面を押さえた。楽蛇は匂いをかぐと、首をかしげながら身を引いた。
「しんしん身溶心溶剥離」
短い法呪文が放たれた。
白い塊は紫に発光した。そして砂糖菓子が崩れるようにぱらぱらと剥がれ落ちた。
重さを感じさせない白いかけらが絨毯に積もった。
中からカーベルが現れた。
すっく、と立ったまま目をつぶり、顎をあげて拳を握りしめていた。
「カーベル」
インスフェロウが呼んだ。彼女の身体から、フッと力が抜けた。
倒れ込むカーベルをインスフェロウは軽々と抱きとめた。
救出されたカーベルは意識を失っていたが、まったくの無傷だった。
法呪僧兵三人がかりの解呪で赤金色の重い甲冑が脱がされた。
わずかに血がこびりついた美しい顔は、疲れをにじませることもなく安らかだった。
戦いを終えた者たちが彼女の回りに集まってきた。
「……カーベルさま……」
ミロウドは地面に座り込んで激しく泣いた。サインがひざまずいて言った。
「あれほど長い時間、時間遅延線をお一人で支えられたのですから……カーベル様はおそらくもう……」
ビバリンガムが、鈴のリンリン鳴る腰をシェイクしながら身悶えた。
「んんんのおおっ。我は憎きカーベルを救えなかったのかああ! 慙愧の念に耐えぬ我は哀れなりいいい」
ローズベイブは舌なめずりしそうな表情で言った。
「うん。そうね。残念ね。本当に残念ね。このまま意識が戻らなかったら、私がどうにかするしかないんじゃない? ねえ、みんなそう思うでしょ?」
「ローズベイブ。おまえ不謹慎にして短慮であるな。狂気乱舞のカーベルを戦闘従属生物なぞにした暁には、この世は滅ぶぞよ」
「いいじゃない! 彼女の才能を芸術的よ。正しく開花させられるのは私だけだわ」
「おぉおろか愚か。私が無粋な甲冑など脱がせよう。美しく飾りたてて薔薇模様のガラスケースに飾るのが芸術にして学術というものである。金のピン杭で心の臓ごと縫い止めるのじゃ。うっとりするほど美しかろうぞ」
「やめてよ! カーベルちゃんに箒みたいなまつげつけて、真っ赤なぐりぐりほっぺの標本にするなんて耐えられない! 彼女には血走った黄色い眼と鋼鉄の爪が似合うのよ」
言い争う二人の首すじを、たくましい掌が掴みあげた。
「言っておこう。カーベルは私のものだ」
インスフェロウだった。笑う金色の瞳はぞくぞくするほど恐ろしかった。
ミロウドとクァンツァッドは、カーベルに招気の法呪を施した。
やがてカーベルは目を開けた。そしてゆっくりと唇を動かした。
「……ここは……」
おおっ……。
皆の口から驚きの声が上がった。
言葉を話した。カーベルにはまだ記憶が残っていた。
彼女は紅い下着のままゆっくりと体を起こした。濡れた髪が血の色のしずくを垂らした。サインが興奮した声で言った。
「信じられない。あれだけの法呪を行いながら、いまだに記憶を保っているとは」
「……みなさんは……?」
カーベルは人見知りする少女のように、不安げな眼差しで自分を取り囲む人々を見た。あの激しかった気迫もいまはない。
それは二度と戻ることのない記憶喪失だった。
「カーベル様……! ああっ、カーベル様。私をお忘れですか」
ミロウドは彼女の両手を強く握りしめた。大きな瞳からぽろぽろと涙が止まらなかった。
インスフェロウが言った。
「ミロウド殿。泣くことはない。カーベルはこうして無事なのだから」
「は、はい」
「そして私たちはカーベルの勇気と正義を知っている」
「ええっ、ええ。そのとおりです。カーベル様の決断がエルアレイを救いました。私たちはその事を知っています」
「大事なことは」
インスフェロウは手を口の横に当てた内緒話のポーズで少し大きめの声をあげた。
「カーベルが私を愛していることを、皆が知っているということだ」
彼の言葉に集まった者たちは笑いだしてしまった。
そう。彼らは全員そのことを知っていた。
カーベルの記憶が時間遅延線として走り人の陣地に至り、飛び散った後にはインスフェロウへの深い愛情が香っていた。
陣地にいたすべての生ある者は、神の知塩を吸い込むようにカーベルの愛を知った。
「私が……あなたを?」
カーベルは驚いた顔で、灰色の従属生物を見上げた。その瞳はまったく身に覚えのないスキャンダルを聞いたかのようにとまどっていた。
そのとき。カーベルの容姿に激烈な変化が起こった。
身体の色が変わりはじめたのだ。
「カ、カーベル様!」
ミロウドが悲鳴をあげた。
抜けるように白かったカーベルの肌が、赤みがかった肌色に変わった。
白々とした長い髪が、青灰色へと色を濃くしていった。
彼女にとりついた楽蛇たちが、主の変化に驚き、再び姿をあらわした。
三匹の楽蛇は、のたうつように彼女の身体にとぐろを巻いた。そして鋭い瞳で主をにらみつけた。
イシマは反射的に剣に手をかけた。もし楽蛇が彼女を襲うならば、ただちに切り捨てるために。
しかし楽蛇は、長い舌でカーベルの唇を舐めると、満足したように姿を消していった。
「……そっか。さっきの白いのは佐竹様の知塩だ……」
アリウスがつぶやいた。
「カーベル様が吸い込んだ佐竹様の記憶が、法呪に消費されていたんだ。砂糖菓子みたいのは、カーベル様から吹き出した知塩の……ええと、垢だ」
「ア、アリウスさま。せめて知塩の脱け殻とか……」
ミロウドが赤面しながら言った。
変身と言ってもよいほどの変化を遂げた彼女は、かつての人の娘カーベルの姿を取り戻した。
「…………」
カーベルは大勢の人々が、自分を見つめていることに困惑した。
「んんんんっ。かぐわしくも非論理的なるカーベルよ」
「カーベルちゃん。私があなたの新しいママよ」
「だまれ」
インスフェロウは、しつこい二人を両側に押しのけると、彼女の前に立った。
「心配ない。強く美しいカーベル」
彼はカーベルを抱きしめた。
「あっ、あの……ちょっ、胸が……」
由紀野の身体を持ったインスフェロウは、おそろしくナイスバディだった。
巨大な胸に抱かれたカーベルは、さば折り状態だった。
「ああっ。悪かった。いずれ男の身体に戻っていくそうだ」
インスフェロウは、見せつけるように胸をそらして言った。
「はあ……もったいないですね」
「残念だが、わけてはやれない」
「すごい。ウェストも細いのですね」
「おまえよりもな」
「でもお尻が垂れています」
「おおっ、神の秘事に触れたな?」
「そうなのですか」
インスフェロウは顔のマスクを下ろした。
人々は息を呑んで彼を見た。汎神族・白鷺を素体とした人間の従属生物インスフェロウ。彼の素顔を見た者はいなかった。
カーベルは不思議な闇に覆われたインスフェロウの顔を見た。たくましい青年神の面影がそこにあった。しかし闇は深く金色に光る眼だけがやさしく語るだけだった。
「……私は、その瞳を信じていた気がします……」
インスフェロウはカーベルの頬に両手を添えて顔を近づけた。
そして額同士をそっと当てた。カーベルは本能的なキスをしようとしたが拒否された。
「…………」
彼女はなぜ? という瞳で見つめた。インスフェロウは甘い呼気で言った。
「天海女が言っていた。おまえは誰も愛さないと」
「あまあま? それは私が冷たい心を持つということでしょうか?」
カーベルは不安そうに聞いた。
「おまえが愛する者は才能豊かで力強く、背が高くてハンサムで、ジョークと料理が最高で、しかも稼ぎがよくて姑がいない者だ」
「……まあ……わたしって最低ですね」
「そんな男はこの世に一人しかいない」
「それが、あなた?」
「そのとおりだ。カーベル」
「……カーベル……」
「おまえの名だ。世界に一人しかいないおまえの名だ」
「不思議な神様……あなたの御名は?」
「私の名はインスフェロウ」
「インスフェロウさま……」
「おまえが初めに覚える名だ。そして二度と忘れない」
「……インスフェロウ……」
カーベルはまっすぐにインスフェロウを見つめた。
長い髪がゆっくりと風になびいた。彼女はたずねた。
「インスフェロウ様。私はあなたのものですか?」
「私がおまえのものだ」
カーベルの顔には自信に満ちた表情が戻ってきた。
自分がなにかをなし遂げたという高揚感が胸を熱くした。
目の前に立つ巨大な戦士の姿に、たまらない誇りと愛しさを感じた。
「きっとそうだと思いました」
「それでこそカーベルだ」
インスフェロウは笑った。
「カーベル。おまえのために、天海女にも負けない予言をしよう」
「私の未来?」
「天海女二世重ねて人知る安寧。誉れ越雲高みへ更に。柔唇一心紅を求める真理に通じておまえはふたたび」
インスフェロウはゆっくりとひざまずき、おごそかに両手を伸ばした。
血糊の紅に彩られたカーベルの頬は暖かかった。
金の瞳が微笑んだ。
「私を愛する」
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