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友引く亡霊

第7章−7

 

 ーベルは人間の元に帰った。
 マウライ寺の奥では作戦会議を行うゲイゼウスたちが彼女を待っていた。天海女と征轟丸の衝突による破局を回避するための、いくつもの案が考えだされた。壁に打ちつけられたボードにはメモが所狭しと貼られていた。
 会議室には、インスフェロウ、アリウス、ミロウド達、主だった者が集められていた。ゲイゼウスが司会をして、これから行うべき作戦を検討していた。
 しかし会議は絶望的な空気とすえた茶の匂いに支配されていた。
 ドアが開きカーベルが入ってきた。ゲイゼウスが不機嫌そうに言った。
「遅いぞ。カーベ……」
 しかし言葉はそこで途切れた。彼女の後ろにそそり立つ巨大な神影を見たからだ。人間に倍する体躯の美しい老神がいた。
 佐竹がカーベルとともにやったきたのだ。
 カーベルは皆に視線を合わせることなく用意された席についた。
 佐竹は身をかがめて室内に入り、部屋の後ろに歩を進めた。そして大きく足を開き腕を組み、大木が根を下ろすように立った。
「…………」
 人間たちは全身を緊張させて固まった。佐竹は人間たちを前にして、なにも語ることはなかった。
「どう。みんな。作戦は固まった?」
 カーベルが聞いた。
 佐竹は天井に頭が接する程の高みから会議する人間たちを見下ろした。人間たちは自分たちが授業参観される子供のように感じた。真剣に進めていた会議が、ひどく幼稚なものに思えた。
 汎神族の前で、自分の考えを語る勇気のある者はいなかった。
 それどころか自分たちが保護したはずの老神の、枯れた美しさに魅いられてしまった。
「カ、カーベル。これは……神はいかにせらむ」
 ゲイゼウスがやっとそれだけを言った。
「佐竹様は、我等の行いを記憶されたいとおっしゃっておられます。私たちは私たちの会議を続けなければなりません」
「しかし……」
 さして広くもない会議室だ。自分たちが席につき、汎神族がそれ見下ろす図に、緊張するなと言うほうが無理というものだ。
 彼らの緊張はカーベルにも痛いほどわかった。
「インス。なにか良い案は出た?」
「極めて困難な状況だ。一番良いのは我々もとっとと逃げだすことだな」
「だめよ!」
 カーベルが強い言葉で言った。
「それは選択肢にはない。私たちは最後に逃げるために残ったんじゃないわ。黙っていないで議論を進めましょう」
 しかし誰からも意見はでなかった。カーベルはボードに張られた作戦案を片端からちぎり取り読んでいった。
「……エルアレイを再浮上させて逃げる? ……各国に要請して征轟丸を砲撃。端から粉々に砕き刻んでいく。……海底を爆破して、征轟丸をその場で倒壊させる。……エルアレイ上空に物理障壁を構築して征轟丸を受け止める? すごい。こんなことが可能なの?」
 カーベルは首を振りながら皆を見た。
 ここに上げられた案は、彼ら主立った者だけで考えたものではない。残ったすべての者たちが提出した作戦だった。どれもただの思いつきではない。自分たちの命がかかってるのだ。空虚な議論をしている時間などない。
 ドアがノックされた。年老いた法呪僧兵が紙束を持って入ってきた。
「我等、北翼団の総意であります。わずかに三案ですが、お納めくださいますことを」
「ありがとうございます。ガシュラーニ様」
 カーベルは彼の皺深い手を握った。ガシュラーニの手は、長い法呪修行のために傷つき赤黒く染まっていた。法呪使いが言う「手塩赤」というものだ。老いて赤く染まる。激しい反呪を受け続けた手のみが至る法呪使いの勲章だった。
「皆の努力と想いに感謝します。ガシュラーニ様には会議にご参加いただきたいところですが……」
「カーベル殿。私は配置に戻ります。いかような作戦であろうと、私たちは責任を果たすことでしょう」
「……感謝いたします」
 開け放たれた扉が、儀杖で乱暴にノックされた。入り口に姿を現したのは白い目の祭り人。天海女のカリンビールだった。
「カーベル。なんと殊勝な顔をすることよ。さすがにガシュラーニ殿には頭が上がらないか」
「カリンビール」
「礼を知ることは良いことだ。これが我々祭り人の起案した作戦要旨だ。役に立つかは知らぬが、検討の足しにしてくれ」
 カリンビールはいつのまに書いたのか、と思うほどの厚い巻物を差し出した。
「知っているか? 我々はおまえたち新参者以上に天海女を愛している」
「カリンビール。ありがとう。この時を乗り切って、海京の宴の続きをやりましょう」
「あのときはすっかりだまされた」
「良い女だったでしょ?」
「ああっ、みごとにだまされた」
「失礼ね。どんな作戦を考えてくれたの?」
 カリンビールは、肩をすくめてせた。
「なに単純だ。我々全員、そしてこのままでは死ぬであろう生き物どもを法呪滋養に用いて、天海女を50ケーメンツルの彼方に転送するのだ」
「なんですって? みんな死んじゃうじゃない」
「しかし天海女は救われる」
 カリンビールは確信を込めて言った。彼らにとって天海女が生き残ることが全てなのだ。
 この価値観の違い。カリンビールもビバリンガムも、皆がそれぞれの価値観で動いていた。それはやむを得ないことなのだ。
 カーベルはアリウスを見た。椅子に深く腰掛けて眠っているように見えた。この状況で居眠りできる神経がうらやましかった。
「アリウス様。いかがですか?」
「ああ……はい」
 アリウスは目を開けて立ち上がろうとした。あわてて動いたために、テーブルの上の茶のグラスを袖でひっかけて倒してしまった。茶は派手にテーブルに広がった。皆は急いで自分の書類を確保したが、アリウスに配られた書類はたいへんなことになった。
「アリウス殿。座ったままでけっこうです」ゲイゼウスが言った。
 アリウスは「自分はどこにいるんだ?」と言う表情できょろきょろしたあと、話しはじめた。
「……この状況は、ええと、いくさ船の衝突は、おそらく汎神族にも知られていないものです」
 それは真四季の言葉で周知の事実だった。
「おそらく神々は、今この瞬間も多くの議論と予測をしていることでしょう。でも結論は出ないです。なぜならいくさ船が対象だから。我々が神々の英知に及ば ないことを知っているように、神々もまたいくさ船の論理に挑めるとは考えていないはずです。まともな汎神族なら考えることはひとつです」
「アリウス様。それは?」カーベルが聞いた。
「天海女に行って、これから起こるスペクタクルを自分の目で見ておきたい」
「なんですって?」
「カーベル様。佐竹様の知塩を得たあなたならわかるはずです。あなたは激突をくい止めようとはしていないでしょう? あなたが考えているのは、激突の後にどうやってエルアレイを島として残すか。違います?」
 相変わらずすっぽ抜けた話し方ながら、アリウスはひどく核心をついていた。
「だいたい無理ですよ。あんなめちゃくちゃな立ち方をしてる征轟丸が倒れるのを止めるなんて。せいぜい反対側に倒して自爆させちゃうくらいじゃないですか?」
「反対側に? インスどう思う? 」
「みんなで押すか」
「物理的には無理よね……」
 インスフェロウは、椅子に身を沈めて言った。
「法呪的に解決するべきだ。しかも危ないほどの感性でな」
 アリウスがうなずいて言った。
「カーベル様。ちょっとイメージしてみましょう。征轟丸がエルアレイの上に倒れるってことは、つまりどういうことなんでしょ? 板岩同士がぶつかるようなものでしょうか」
「ええっ。お互いに砕けるでしょうね」
「じゃあ、それを防ぐにはどうしたらいいですか? 下の岩をとてつもなく頑丈にしますか。そもそもぶつからないよう倒れるのを防ぎます? 違う方向に倒してしまう……他にありますか?」
「その方法はどれも現実的じゃないと言うことね」
「僕はそう思います。誰でも思いつく、これら以外を考えなければいけません」
 そして人々はふたたび沈黙してしまった。本当に考えつかないのだ。それほどこの状況は常軌を逸していた。
 なにかを探るような表情でカーベルが言った。
「ねえ、みんな。法呪ってなに?」
 テーブルに肘をつき、指を顔の前でクロスして、祈るような姿勢だった。
 視線の先は、アリウスが倒したグラスを見つめていた。こぼれた黄色い茶は、テーブルの上に溜まっていた。しかし書類の上に流れた分は、きれいに吸収されていた。
 ゲイゼウスが答えて言った。
「法呪とは言葉が実現する力であろう」
「でも、法呪には代償が必要よね」
「法呪には滋養が必要であり、反動を覚悟しなければならない」
「そう……汎神族は自分の時間を使って時を操っていたわね。由紀野様がそうしたように。じゃあ、人は? 私たちはなにを持って時間を操ることができるの?」
「人は法呪文によって、板符などに与えられた小さな力を用いています」
 ミロウドが答えた。
「……まって。汎神族はどうして自分の時間を使うの? それが効率良いからじゃない? インスフェロウ。どう?」
「カーベル。おまえは学んだはずだ。法呪滋養として用いるものには、それぞれ最適なものがあると」
 インスフェロウが言った。
「汎神族が必ずしも最適の選択をしているとは限らない。彼らには多くのタブーがある」
「タブーってなに? どういうこと」
「佐竹様の知塩がおまえに語るだろう。人にとっての時間は記憶。汎神族にとっての時間は齢(よわい)。しかし本来ならば汎神族にとっても、効率のよい時間 法呪の力の元は記憶に他ならないのだ。たしかな時間の積み重ねである記憶は、空手形かも知れぬ未来の齢よりも確実なものだ。どうして術者が三百歳まで生き る保証があろう」
「時間法呪にもっとも適しているのは記憶?」
「そうだ。記憶を法呪滋養とした時間法呪は、とても強い」
 彼の言葉にカーベルは漠然としたイメージを持った。
「インスフェロウ……こんなことはできないかしら。私は位相遷移技術にうといから変なことを言うかもしれないけど」
「なんだ。カーベル」
「天海女は位相遷移の技術で海京なんかのたくさんの設備を隠し持っていたでしょう」
「そうだ。位相遷移の崩壊した天海女は、海底に接するほど巨大になった」
「……ねえ。征轟丸を天海女の別位相に閉じ込められないかしら」
「なんだと?」
 インスフェロウはカーベルの言うことが理解できなかった。そして彼女の目を覗き込んだ時、そこに輝くいたずら娘のような光を見て言葉の意味を知った。
「倒れてくる征轟丸を、天海女の位相遷移で飲み込んでしまうの。アリウス様の書類にこぼれたお茶のように。たとえると、こう……ええと、パフッて」
 カーベルは指を開いた両手首を合わせて、パンと閉じてみせた。指先が位相遷移のイメージでクロスした。インスフェロウが目を細めて言った。
「つまり今から起きようとしている両船の激突を、天海女が征轟丸を自らの位相空間に収容するための一工程として捕らえようというのだな?」
「そうよ。なんだか……なんとなくできそうな気がしない?」
「それは理屈だが。人間の技術では……おそらく汎神族の法呪でも不可能だ。天海女しだいだろう……」
「そのためのいくさ船よ」
 ゲイゼウスが青ざめて言った。
「不可能だ。それができるなら、すでに天海女が実行しているだろう。いくさ船とは、汎神族を越えた思考を持つ者だぞ」
「それを言ったらおしまいよ。無茶なくらいがぬるめのお茶よ」
「なに?」
 カーベルはぐるりと天井を見回すと、隠れているクンフに呼びかけるように言った。
「聞いているんでしょ。天海女。どうなの? できるの、できないの?」
「あははははははは」
 笑い声が響いた。およそ場違いな、少年のほがらかな笑い声だ。
「天海女」
 カーベルがその名を呼んだ。
「カーベル。すごいね。わずかな問題を解決できればカーベルの作戦は可能だよ。とてもユニークだね」
 インスフェロウが聞いた。
「問題点とはなんだ?」
「僕と征轟丸が物理的に接してから位相遷移に移行するまで百分の一ビヨウの時間が必要なんだ」
「そうなのか」
 インスフェロウの脳裏にはいくつかの解決方法がよぎった。しかしどれも困難に思えた。思考が空転を始めている感覚を覚えた。
 インスフェロウは白鷺としての記憶に捕らわれていることを感じていた。天海女が解決できないことに、生物が回答を出せるはずがないと。それは圧倒的な天海女の能力を知る汎神族であるならば、当然の反応と言えた。
 しかしカーベルは人間であるがゆえに、そのようなことに思いも及ばなかった。彼女は真剣に考えた末に、法呪使いなりの答えを口にしたのだ。
「時間遅延場を線のように引けばどう? 天海女と征轟丸が接する瞬間に。接する片端から時間遅延を起こさせて百分の一ビヨウの時間を稼げばいいじゃない」
「なんだと?」インスフェロウが聞き返した。
「だから、天海女と征轟丸が接する面を、時間遅延の前線で露払いするのよ。たったの百分の一ビヨウでしょ?」
「すばらしいよカーベル。正解だ」
 天海女が言った。
「それも選択肢のひとつだよ。でもだめなんだ。僕にはできない。計算してみると、僕は位相遷移を起こすのが精一杯。時間遅延までは展開できない」
「あってるの? 間違ってないのね。それならやってみましょう。時間遅延場は私たちが構築すればいいじゃない」
 カーベルがいとも簡単に言った。天海女が不思議そうに聞いた。
「私たちって?」
「私たち人間よ。ねえ、インス」
 インスフェロウはカーベルを抱きしめた。
「そうだ。きっとできる。おまえができると言うなら、私はそれを実現するさ」
 彼は汎神族の記憶の呪縛が解かれていくことを感じた。インスフェロウは人間になりたいなどとは微塵も考えていない。自分が汎神族の出自であることを誇りとしていたし、汎神族は人間よりも知性に秀でた種であることを確信していた。
 しかし汎神族の限界も知っていた。
 汎神族はいくさ船の戦いに意見を提示することをしないだろう。なぜなら小犬が国の運営に口出しするにも等しい無意味さを、そこに見るからだ。
 カーベルの考えた作戦も、おそらくは天海女の中にはあったはずだ。
 しかし天海女はあえてカーベルの作戦を採用しようとしていた。
「…………」
 インスフェロウは天海女の思考を追おうとしている自分に気がついた。
「やりましょう。インス。私たちってすごいじゃない」 
 カーベルの無邪気なまでのガッツに、彼はつられて笑い声を上げてしまった。
「そうこなくっちゃ。天海女。やりましょう。私たちはぜったいに成功させるわ」
 そのとき、バン、と扉が開いた。
 カーベルの言葉を廊下で待っていたようなタイミングで、極彩色のピエロが舞い込んだ。
「おほほう、重ねて狂気の女なり」
 ビバリンガムだ。彼はくるくると軽やかにターンしながら言った。
「これは佐竹様。ご機嫌うるわしゅう。ではその作戦に私が名前をつけよう。「征服成敗征轟丸」。ううううんっ? 良い名でありましょう?」
「……ビバリンガム。なに考えてるのよ」
 カーベルが呆れて言った。
「あっ、ずっこい! 私も名前考えていたんだから」
 ローズベイブまで走り込んできた。なにをしていたのか青い狼のぬいぐるみを抱えていた。
「やっぱこれよ。「染みて交わる男船」。わかりやすいでしょう」
「なんと。おおっ、下品な小娘め。佐竹様の御耳が汚れるわ」
「私のほうが佐竹様とつきあい長いんだから。ねーーっ、佐竹さま」
「あなや。痴れ者め。偉大なる戦士、佐竹様に、ねーーっだと。ねーーっ?」
「二回も言ってる。あははは、バカ」
 ギャリン、っと凶悪な音をたてて、ビバリンガムは銀手裏剣を構えた。
「きゃあ、助けてカーベル」
 ローズベイブはカーベルの後ろに逃げ込んだ。
「まあまあ、待たれよ」
 甲高い声が言った。エルアレイ島長のネイサンだった。ビバリンガムに首だけにされたままの姿だ。
 テーブルの上に、ちょこんとのった生首がしゃべった。
「おほん。島長として宣言する。この作戦を「ときのきわ」と名付ける」
「ネイサン殿」
 インスフェロウが言った。ネイサンは、ぎょっとして目だけを灰色の怪人にむけた。
「悪くない。私は好きだ」
「なに言ってるのよ。格好つけてるだけじゃん。意味わかんないわよ。カーベルちゃん。あなたはどうなのよ。作戦考えたんでしょ」
「さ、作戦名ですか? あの……「エルアレイ大作戦」……とか」
「うわ……最低だわ」
 ローズベイブとビバリンガムは顔を見合わせてつぶやいた。
 佐竹はそんなやりとりを笑いながら、静かに位相空間に消えていった。



 黒いいくさ装束を身にまとった魅寿司が征轟丸に立った。
 濃い紫の、蔦編みの籠を背負い、手には魂鍵杖を持っていた。それは魂を用いた法呪を捕まえるための法呪具だった。たとえ人の法呪であっても、魂を媒体にした技に素手で触れることは危険だった。記憶の流入を起こしては取り返しがつかない。
 身につけた法呪具が語るように、魅寿司は、魂袋を目指していた。
 魅寿司は、まるで引力を感じないかのように、垂直にそそり立つ征轟丸の大地に両足で立っていた。
「圏のはり間にめくり見えるは想いを残す幸福の魂」
 女神の口から高速言語が一瞬つづられた。
 瞳が、涙を流すように薄紫の光に染まった。
「…………」
 見えないはずのものが、幾つもいくつも視界をよぎっていった。
 ぞっ、とするいくさ船の本性は、見たくないものまでを見せた。
 千切れた魂のかけらと、血の染みが虹のように色をにじませた。
 やがて魅寿司は、目的の魂を見つけた。
 征轟丸をさまよう亡霊。
 それは人の娘の亡霊だった。
 天海女の魚雷を爆裂させた征轟丸の祭り人。乙女の名をデュリアと言った。
 しかしその名に意味はなかった。彼女はすでに人としての意識をもたなかったから。
 事象発生確率のゆらぎが高い値に至るとき、彼女は人としての姿を結んで征轟丸の地上をさまよった。
 デュリアは四十年前の天海女と征轟丸の決戦の時に死んだ。
 征轟丸に攻め込んだ天海女の魚雷のひとつ、青龍を倒すために。祭祀長がかき切った彼女の喉から、呪いにまみれた血しぶきが舞った。青龍はデュリアの血に捕らわれて命を落としたのだ。
 自らの喉から噴き出した血が、強力な天海女の魚雷を墜とすところを彼女は見た。
「ああっ」
 デュリアは、かすれ行く意識の中で征轟丸の勝利を確信して歓喜に包まれた。
 使命をまっとうする幸福に酔いながら死を迎えた。
「…………」
 人の形を成さない黒い影。そんなデュリアの亡霊に魅寿司は触れた。それは語りかける言葉だった。
「歩みし跡に勝利の祈りを印す娘よ。我が意を聞き解せ」
 彼女の周囲で白く小さな蝶型クンフが舞った。上昇速度が落ちた征轟丸の上で、クンフどもは懸命に踏みとどまっていた。
 聖火香という名の神が確立した事象発生確率制御技術は、汎神族のあいだで実用化が進んでいた。そこにあるかもしれないなにかが存在する確率を制御する事象発生確率は、様々な可能性を秘めていた。
「娘よ。悦びの亡霊よ。我を見よ」
 垂直に立った征轟丸の船体に沿って、金属質な位相空間の渦が尾を引いた。
 法呪が生者と死者のあいだの闇を振り払い、亡霊に黒ずくめの魅寿司を見せた。
 デュリアは、眠りから目覚めたように小さなため息をついた。そして目に光を浮かべて女神を見た。
「…………めがみさま…………」
 亡霊が意識を持った。黒い女神は厳しい表情で、蘇った征轟丸の祭り人に言った。
「我は魅寿司。おまえに再び意志と使命を授ける者だ」
「私は……デュリア……征轟丸の祭り人……偉大な戦いに参加し、邪悪な天海女の魚雷を倒す栄光を得ました……」
「デュリア。おまえはまだ使命を全うしていない」
 亡霊は不安そうに青い色を浮かべた。
「……それはなぜに?」
「赤龍を感じないか。おまえが倒した魚雷の片割れだ」
「…………」
「そして感じないか。ショー・アルルカンを」
「……ショー・アルルカン……」
 その名を聞いたとたんに、亡霊の姿が憎悪の赤に染まった。
 アルルカン。彼の名を知らない征轟丸の祭り人はいなかった。なぜならアルルカンこそ敵・天海女の祭り人の長であったからだ。
「魅寿司様。征轟丸は敗れたのでしょうか。なぜアルルカンがここに。そしてなぜ赤龍の汚れた気配がいまだに漂うのでありましょうか」
「赤龍を恐れるな。赤龍は征轟丸に捕らわれた身。真の敵は征轟丸に深く入り込み、征轟丸を欺いているアルルカンだ」
「アルルカンが征轟丸を……おのれ許すまじ」
 デュリアは亡霊らしい直情で、たやすく魅寿司の言葉を信じた。
「赤龍にまたがりアルルカンを捕らえに行こうぞ」
「尊意」
 デュリアの激しい呪いが、赤龍の存在を捕らえた。
 いまやいくさ船としての機能を、ほとんど失った征轟丸の上で、それはたやすいことだった。魅寿司はデュリアの強烈な戦意を利用して法呪を構築した。
 赤龍の気配は弱かったが、征轟丸のいたるところで感じられた。魚雷は征轟丸によって存在自体を分解されて、薄い雲のように拡散していた。
 魅寿司の法呪は、征轟丸の巨体に広がった赤龍の存在を再結晶化して、凶悪な魚雷の機能を復活させた。
「……ぐ……むう……ぐ……」
 凶悪な赤龍がうなり声をあげた。闇から身を滑りだすように現れた魚雷は、一片の欠け落ちもなかった。
 魅寿司はデュリアを、赤龍の脊髄に送り込んだ。彼女の命令を確実に赤龍に伝えるために。デュリアもまた、女神の命令によく従った。
 魅寿司はいまや役割を終えたはずの監業官の印を光らせて言った。
「我は監業官・魅寿司である。公の任によりすべてに優先する命令を伝える。約束の刻を迎えてなお戦いに取り残された人の法呪を救うために、おまえは私をショー・アルルカンの元へ導かなければならない」
「……天海女のいくさ人、ショー・アルルカン……存在を検証した。彼は近くにいる。我は導こう。魅寿司殿にまとわりつく怪しき娘の残滓はなにか」
「この世でもっともおまえを愛する者だ。いまはいない」
 轟音とともに再起動した赤龍は、それが自らの意志であると信じた。
 誇り高きいくさ具である自分が、人の娘に影響されているとは仮定もしなかった。それゆえに検証も行うことなく、デュリアの意志のままにアルルカンを求めて動きはじめた。
「………………」
 天海女を離れたアルルカンは、長く言葉を発していなかった。
 アルルカンは真四季に従属していた。従属生物として改造されたわけではない。しかし汎神族による強い従属の法呪でくくられて、祭り人としての使命を与えられた彼は、なんの疑念もなく魂袋を働かせた。すなわち忘却エンジンとしての機能だ。
 真紅の珠と化したアルルカンは、柔らかく堅く形を保ちながら征轟丸の中にあった。しかしアルルカンは征轟丸と接触をしていない。かつて天海女と語ったようには、征轟丸と語らうことはなかった。それは真四季が巧妙に欺瞞をかけていたからだ。
 真四季にとって、いくさ船と長く接触していたアルルカンは、必要であると同時に危険な存在だった。アルルカンが征轟丸と意識を通わせて、天海女に対するように影響力を持ってもらっては困るのだ。
 征轟丸にとっては不可視のアルルカンであったが、同属の人間であるデュリアには魂袋の気配がよくわかった。赤龍は、魅寿司を通して流れ込んでくるデュリアの命令のままに魂袋にたどり着いた。
 そこは意外にも位相空間の彼方ではなく、この世にあった。
 天海女の海京にあたる、征轟丸の人の街、銀市。無人の祭り広場の中央に魂袋はあった。
 懐かしい海京の祭りやぐらのように高く組まれた祭壇。かつては征轟丸の祭り人たちが遊んだであろう場所だった。
 魂袋は、真四季によって安置されていた。
 魅寿司はデュリアとともに赤龍から降りた。大地は冷たく黒く湿っていた。土間のように堅い土の感触が足裏から伝わってきた。魅寿司は亡霊の娘をうながして魂袋の前に立った。
 静脈血色に光を反射する魂袋は、とても人の産物には見えなかった。アルルカンと天海女の祭り人の法呪は四十年の時を経てもとても強かった。
「アルルカン」
 魅寿司が声をかけた。
「私はこれよりおまえの法呪を破綻させて征轟丸より救い出す」
「…………」
 しかしアルルカンは答えなかった。
「ショー・アルルカン。魂袋を裂かれて、ぶざまに反呪の泥を舐めるか」
「…………」
「アルルカン! おまえの魂袋には「下郎」の二文字が書かれているぞ」
「……我をなじる神はどこにおられる……」
 アルルカンが反応した。魅寿司はこれから行う技のために、アルルカンの意識をこちらに向けさせなければならなかった。
「おまえの眼前に立つ人の娘を何者と見るか」
「……いない……わが目には御柱しか映らぬ」
 魅寿司はデュリアの事象発生確率を最大に調率しながら言った。
「盲いたかアルルカン。おまえを見るは、征轟丸の祭り人デュリアなるぞ」
「せい……ごう……がん」
「アルルカン。魂袋となりはてて、怨霊のごとく理性を失したか」
「……我は天海女の祭り人ショー・アルルカン。天海女を勝利させるために記憶を欺瞞し、征轟丸に勝利を忘却させた……」
 言っていることの不整合に気がつかないようすだった。
「そうだ。アルルカン。そして見よ。法は巡る。おまえは征轟丸の祭り人たるデュリアと対峙するのだ」
「……しかしその娘は既に死びとである。我をおかすことはかなわない」
「デュリア。アルルカンをいかにするか」
「憎きアルルカン。せめて我が爪で犯し、汚れを刻まん」
「おろかしい」
 デュリアは指を伸ばして真紅の魂袋に触れた。
 アルルカンの鼓動が大きく波うった。
 魅寿司が事象発生確率制御を切った。
 その瞬間。デュリアは人の姿を失った。かすれて消える亡霊の存在確率へとペデロ値を下げた。
 魂袋が亡霊に吸い込まれまいとして激しくよじれた。アルルカンは驚き、しかしなにが起きているかを理解できなかった。
 彼は断末魔の悲鳴を上げた。
「我を友引くか。征轟丸の祭り人!」
 デュリアの姿が透明になった。
 娘が事象発生確率を下げて、霞のごとき亡霊に戻る力にアルルカンはひきずられた。
 魂袋がはじけて、この世から忘却エンジンが消え失せた。
 亡霊が生まれる瞬間を共にして、アルルカンは生きながら幽霊と化した。
 魅寿司はそのときを待っていた。
 黒の装束と垂らされた髪の束が、くるりと回りなびいた。
「あざなき亡我のあるは常世にあらずして、言の葉層なす袖口の彩」
 女神の法呪は、亡霊となったアルルカンとデュリアを、補縛の金符に封印した。高速言語で語られた法呪文は、人がその場にいたならば一音にも聞こえないほどの収束音だった。
 魅寿司の美しい手の上に、きらきらと輝く金符が浮かんだ。彼女は、ほおっ、と安堵のため息をついた。
「赤龍。魂袋は消え失せた。もはや征轟丸の呪縛は失せたも同然。我を征轟丸の外へ」
「応」
 赤龍は、魅寿司を懐にしまい込むと、再び凶悪な魚雷の姿に身を転じて征轟丸の地表に向かった。構造材をいくつも突き破り、白熱の光格線で装甲をも溶ろかして、空気の薄い大空に出た。
「うっ」
 魅寿司は息苦しさに胸を押さえた。 
 そこは海に対して垂直に立った征轟丸の上部甲板だった。すなわち元来は征轟丸の大地だった面だ。既に数ケーメンツルの高さに至ったその場所は、雲をも見下ろす場所だった。見たこともない青空と太陽が輝き、真冬よりも寒い風が吹き荒れていた。
 不安定な補縛の金符は、大気にさらされた刺激であっさりと破綻した。魅寿司の手に小さな符として握られていた魂袋は、瞬くうちに元のニメンツル近い実体に復元した。それはアルルカンの体重がそのまま魅寿司の手にかかることとなった。
「ああっ」
 魅寿司は悲鳴をあげて魂袋を手放した。
 一瞬、宙に浮いた紅い珠を、赤龍の鋭い爪が支えた。
 爪先を伝って青黒い闇が魂袋から伸びた。デュリアの亡霊だ。
 赤龍は濡れた瞳を凝らして、這う闇を焼こうとした。
「哀れなデュリアを滅ぼさないでおくれ」
 魅寿司が言った。赤龍が抗議をした。
「征轟丸の祭り人である亡霊は、我が戦友である青龍を倒した者だ。危険な祭り人だ」
「すでに命を失い、呪いと歓喜の記憶が娘の影を引きずっているだけだ」
「冷たい気配で、私の腕を這うのはなにゆえか」
「おまえに自分の存在する理由を感じたからだろう」
「存在する理由とは私を滅ぼすことではないのか」
「赤龍。おまえは滅びまい」
 魅寿司は再び魂袋を圧縮しながら言った。そしてデュリアを、おのれの腕に取った。薄い闇のような娘の亡霊は、魅寿司の生命力に牽かれて首筋にすりよった。その者が、先ほどまで会話をしていた汎神族であることも、すでに理解していない。
「……ん……」
 亡霊の冷たい気配に、魅寿司は美しい眉を寄せた。
 赤龍が太く低い声で言った。
「女神よ。あなたは愛が多すぎる。あらゆる命の形を救うつもりか」
「赤龍」
 女神は涙にうるんだ瞳をいくさ具である魚雷に向けた。
「おまえも滅ぼさない」
 赤龍は魅寿司の言うことが理解できないかのように歯ぎしりをした。
「私には命令が出ている」
「すでに約束の刻は過ぎたぞ」
「違う。命令は本日のものだ」
「なんと?」
「天海女からの命令を受諾した。私はこれより配置につく」
「もはや征轟丸を破壊することに意味はないはず」
「天海女は未来を予知するいくさ船。そして私はいくさ具である魚雷だ」
「おまえ一機が爆発しても、征轟丸が倒れることを回避することなどできまい。いったいどこに配置されるというのか?」
 赤龍はふたたび魚雷に変身しながら言った。
「カーベルという名の人間の娘が作戦を発動した。天海女はその者の作戦を成功させるために手を尽くしている」
 魅寿司は、背筋に冷たいものが走った。
 カーベル。女神にとってその名は、恥辱と恐怖に彩られていた。汎神族である自分を補縛して、呪いをかけようとした凶悪なる人間の戦士。彼女の楽蛇を奪い取り、真四季をも地にまみれさせた恐ろしい女。
  あまつさえ偉大な戦士・白鷺を従属生物として駆使する、およそ汎神族に記憶されたことのない娘だ。
 魅寿司はカーベルを畏れる気持ちと、彼女の記憶を一人で喰らい己がものにしたい欲望に目眩を覚えた。
「……天海女は人間ごときが、この状況を解決すると考えたのか」
「カーベルという名の人間が示した作戦。穴だらけのようだ。しかも天海女が立案しながら資源不足のために破棄した作戦だった」
「天海女に不可能な作戦?」
「しょせんは人間の知恵。その作戦は天海女も検討していた。しかし傷ついた天海女だけの力では果たせなかった。カーベルという娘は、問題を解決する提案をしたのだ」
「天海女を助ける作戦を、カーベルが自ら考えたというのか」
「考えつくことだけならば、天海女にも汎神族にもできる。実に単純な作戦だ。しかし代償として支払うものが記憶であるとしたら、汎神族は作戦を口にすることができるだろうか?」
「記憶……記憶を消費する作戦……?」
 魅寿司は口にするのもはばかる恐怖を感じた。
「しかし記憶を失う恐怖は人間とて同じこと……まさか彼らは死ぬ気か?」
「私は知らない」
「赤龍。私にはおまえを救うことができないのか?」
「私が行く先は、天海女を勝利に導く場所だ」
 亡霊であるデュリアが、おずおずと身体を伸ばして女神の肩にすがった。
 魅寿司は赤龍を見上げた。
「私は……無力だ。おまえの命も、カーベルたちの命も救うことができない……」
 白い頬を涙が流れ落ちた。
「正しく記憶するが良い。そして御柱がすべてを子孫に伝えることで我等は不死となる」
「命を賭して真実を記憶しよう」
「それが御柱の使命だ」
 赤龍は轟音とともに、征轟丸の中に姿を消していった。
 魅寿司は止まらない涙をぬぐうこともせずに、長くその場に立ち尽くした。

 

 

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