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カーベルを喰う者

第7章−6

 

 四季が言った。
「白鷺! 由紀野殿の時間と身体を喰らうか。そのような傲慢を行う権利があると言うのか」
 インスフェロウはゆっくりと振り向いた。
 真四季に見せつけるように、傷ついたカーベルをローブの中に抱きしめた。
「イ、インス……」
 冷えた甲冑越しに、柔軟な肉体のしなりが感じられた。カーベルは人前で幼子のように抱かれる驚きにみじろぎした。汗と血と海水にまみれた長い髪から、カーベルの香りが立ちのぼった。
 インスフェロウは、満足そうに目をとじて言った。
「権利? さあ。ローズベイブのしわざであるからな」
「なんてこと言うのよ、この子は」
 ちびこいローズベイブが、鉄柱のようなインスフェロウの脛を蹴り上げた。
「そうまでして……由紀野殿を犠牲にしてまで人は天海女に執着するのか。いったいなぜだ。私の道理のどこに非があるというのだ。答えよ、白鷺!」
「真四季様、我々は……」
 カーベルが必死の形相で口を開いた。しかしインスフェロウはそれを手で推し止めると由紀野のすばらしい身体を誇示するように胸を張って言った。
「おまえの道理に非があるとすれば」
 真四季は拳に耐えるかのように歯を食いしばり、インスフェロウの言葉を待った。
「人間をギャラリーに数えなかったことだ」
「……それがなにほどの意味を持つのだ。征轟丸と天海女の衝突に人間の同意を必要としたというのか」
 幾つもの論理的帰結を検証しながら真四季は言った。
「人間に征轟丸と天海女の衝突という稀なる大事の、なにが理解できるというのだ」
「人の中には記録に止め、唄や物語として後世幾万年にも残す欲望を持つ者もいるだろう」
「しかし人間にこの大事の肝要なることが理解できるのか。歪性位相率の変化が。事象発生確率の自然推移値が。色呪の拡散項数の速度と力数の美しさが」
「真四季。いくさ船である天海女たちはさらに多くの物を見ているだろう、我々があずかり知らぬ美を堪能しているのかもしれない」
「なに?」
「汎神族は絶対者ではないのだ。世のことわりの全てを知るものではない」
「しかし大地に生きるあらゆる生物に秀でた知性を持つ。それが権利の根源だ」
 カーベルが割って入った。
「真四季様!」
 びくん、と肩を震わせて真四季は血にまみれた甲冑の娘を見た。インスフェロウに抱かれたまま、ローブから半身を出して強く右足を踏み出していた。裂けた指先から流れる血にまみれた拳を凶器のように突きつけた。
 真四季はその姿の美しさに言葉を失った。
「真四季様。私は……わたしは、退きません」
「カーベル……すでに津波が到る地域の、あらゆる生物の疎開手続きは完了した。ビバリンガムの族どもが配置につきつつある。征轟丸と天海女の衝突で命を落とす者は最小限に止められるだろう」
「言ったはずです。私は佐竹様を守り、エルアレイである天海女を守り、人間とその財産を守るのだと」
「やめよ! なんと狭量な。おまえにはこのわずかばかりの人間どもしか見えていないのか。いくさ船の激突という、古今未曾有の大事をなぜ理解できない。天 海女に残れば死ぬことになるのだ。おまえたちは天海女の祭り人ではない。わからぬか。おまえたちが死ぬことは穢れなのだ」
「死にません。けっして。誰も死なせはしません」
「私に人間殺しをさせるつもりか!」
 悲鳴にも似た真四季の言葉が人間たちを打った。
 いまも征轟丸が上昇を続ける圧倒的な光景の中で、小さなの命ある者たちが己の意志をぶつけ合っている。ひどく非現実的な空気があたりを支配した。
「はははは」
 インスフェロウが声を立てて笑った。
「聞いたか? カーベル。彼はビビッているぞ。なぜかわかるか」
 カーベルは幼子が父親を見上げるように、彼の腕の中で首を振った。
「インス……人間殺し……神がそのような心配りを?」
「おもしろいだろう。彼は自分の手を汚したくないのだ。まあ、なんだ。人間がネズミを医療の実験体にするようなものだな。その一方でペットにするだろう?」
「人間はネズミなみ?」
「汎神族としては、どこで何万人の人間が死んでもかまわないが、彼の野望である天海女と征轟丸の衝突では、極力死者を出したくないらしい。あとから生命倫理保護の権者どもから責められる隙を作りたくないのだな」
「……へんね。バカみたい」
「だろう? 笑っていいぞ」
「きゃははははははは」
 頭のてっぺんから突き抜けるような笑い声が響いた。ローズベイブだ。
 視線が彼女に集中した。
「な、なによ。笑えって言ったじゃない」
「……くすっ……」
 カーベルがつられて笑った。
「はははっ」
「あははははは」
 笑いの輪が広がった。そこにいた人間たちは狂ったように笑った。
「これはいったいなにごとだ……」
 真四季はあまりのことに美しい顔をこわばらせた。自分が人間に笑われている。信じられない記憶を得ている恐怖に奥歯が震えた。優安と子を成すはずの自分に恥ずべき記憶などあってはならない……。
「キイイィィィィィァァァアアアアアン」
 高速言語がほとばしり、物理昇華針が一万本も飛びだした。怒りに目のくらんだ法呪は、彼のマントと無数の従属生物をも切り裂いた。
 同時に位相空間から走りだした貫頭鳥四羽が、ナイフのようなくちばしを閃かせてカーベルに殺到した。
「大気撒きて相伝生ずる凶器の至るを許す。すなわち殺生の威力を後ろに五十より退きて再びまいれ」
 ミロウドが印砂珠を投げつけて法呪文を唱えた。
 人間たちの前面に水色の幕が生じた。避けようもない物理昇華針が殺到した瞬間、針は消え失せた。
「きぃえええんっ!」
 真四季の背後で無数の悲鳴があがった。次の瞬間、彼が放ったはずの針が彼を後ろから追い越して消えた。
「……な……」
 なにがおきたかを理解できずに真四季は振り向いた。彼の後ろには、針が無数につき立った狐型従属生物が五匹息絶えていた。
「おおっ……」
 ミロウドは、真四季が放った物理昇華針を、彼の後方50メンツルに送り返したのだ。すなわち針は真四季の後方から放たれたこととなり、彼自身を襲った。
 真四季の従属生物たちは、戦闘種の素早さで真四季を守るための物理障壁を構築したが、強力な神の法呪をくい止めることができようはずもなく、自らが撃ち抜かれることによって主人を守ったのだった。
「無駄です。真四季様」
 カーベルが言った。真四季は恐怖のまなざしでカーベルを見た。
「おおおっ」
 野望に燃える若く美しい真四季は、悲鳴を上げて両手で目を覆った。
 インスフェロウに抱かれたカーベルの周りには、凶悪な楽蛇が三匹姿を現して貫頭鳥を噛み殺していた。残りの一羽は、高く上げられたカーベルの右手で握り殺されていた。インスフェロウが言った。
「真四季。おまえは戦いにむいていない。美しく雅びなものだけを見て生きるべき者だ。分不相応な想いは身を滅ぼすぞ」
「白鷺! おまえは汎神族を忘れたのか!」
「なんなら白鷺の名において、カーベルをお前にけしかけようか」
「わん」
 カーベルが吠えた。
「この雌犬の牙は鋭くかぐわしいぞ」
「戯れ言はやめよ! 我等には時間がないのだぞ!」
 カーベルは貫頭鳥の身体を、そっと大地に横たえると言った。
「……神々が望みを掲げて戦いを持つように、私たちも目的に向かって戦います」
「おまえたちの戦いは本質を見ていない。なんど繰り返せば理解しうるのだ。なぜ無駄な死を選ぶのか。理を得よ!」
「神々の理と、下たる人間の理は……比べるのもおこがましいかと存じます」
「おろかな。あまりにおろかな。生命の重さをなんと心得る。我を絶望させるな。おまえに生命の貴さを語ることが無意味であるというのか」
「私たちは命を愛でる心を持つと信じます」
「命を守りつつ、大いなる実験を行うことの偉大さを、なぜ知りえない」
「私たちはこの地に生きることを望みます。天海女は、エルアレイは、私たちの故郷です」
「おまえは我を呪うつもりか。魅寿司殿を怪我したように」
 インスフェロウが言った。
「真四季。もしおまえが希有な記憶を望むのならば、カーベルたちの戦いの中に身を置くのも一興だ」
 真四季は白鷺だった者をみつめて口を開いた。
「イィィィィキアアァァァァァァァァン」
 紅い唇から高速言語が流れ出した。インスフェロウの両肩から数百本の印肢が飛びだして激しく振動した。虫の羽音にも似た風きり音は、信じられないことに高速言語を語っていた。
「…………」
 人間たちは美しく流れる高速言語のしらべに聞き惚れた。汎神族の真の会話は、人間に理解できない概念と単語が必要だ。
 そして彼らの話し合いは一瞬で終わった。
 真四季は長い髪を風に散らしながらカーベルたち人間を見た。
「恐ろしきカーベル。我が望みを奪い、己の欲望を充足した娘」
「未練だな。真四季」
 インスフェロウが言った。真四季は彼を冷たい瞳でにらみながら言った。
「我等はここで別れよう。見事に天海女と征轟丸の激突をいさめたならば、カーベル。私はおまえを子々孫々に、我が誉れとして記憶しよう。見事に信念を貫くが良い。しかし私もまた私の信念を強く保つことも心せよ」
「……ま、真四季さま……」
 カーベルはうめくようにその名を呼んだ。
「いまは別れるときだ。私とおまえの備えのために」
 真四季は、彼を守ろうとしてたかる狐や昆虫型従属生物をひきつれて位相遷移の闇に消えていった。
 白昼の幻が消えるかのような美しい技の現れだった。
 真四季が消えた後のつむじ風がインスフェロウのローブを吹き上げた。
 腰に巻かれたサッシュに挟み込まれた小さな格子が、ちりちりと音を立てた。
 ローズベイブがめざとく見つけて言った。
「あっ、インスちゃん。それボッシュの格子じゃない。なんで持ってるのよ」
「見たな」
「私の計算では、あと数年分は時間が残ってるはずよ。私によこしなさい」
「だめだ。これは私が使う」
「えーーーっ、なんによぉ。私が使ったほうが絶対に有意義だって」
「この作戦は、きっとカーベルに悪い影響を残す。場合によってはカーベルは記憶を失うかもしれない」
「なんでそんなことわかるのよ」
「私は彼女の下着の色まで知っているからだ。彼女はそういう女だ」
 ローズベイブはインスフェロウのローブをめくって格子を取ろうとした。
「だめ! ぜったいに私によこしなさい。私のものよ。私はぜったいにうまく使えるんだから」
 インスフェロウはローズベイブの足首をつかまえた。そしてひょい、と持ち上げた。
「ひゃあああっ」
 真っ逆さまに吊るされたローズベイブはあられもない悲鳴を上げた。
「なんだったら博士をもっと若返らせようか」
「じ、十年後に使ってくんない?」
「白状したな」
 インスフェロウは愉快そうに笑った。
「もう一度若返ることを考えていただろう」
「いいじゃん」
「だめだ。これは私がもらう。この時間は由紀野殿のものだ。すなわち私のものだ」
「ちっ。覚えてらっしゃい」


 人間たちはマウライ寺に戻った。
 その中には灰色の巨人インスフェロウの姿もあった。出迎えた者たちは歓喜の声を上げて彼を迎えた。
 しかしカーベルたち、主だった者は休む間もなく、寺の奥の作務室に入っていった。
 普段はマウライ寺の事務を司る部室だ。一人用の机が二十ほど並んでいた。まるで学校のような造りだ。しかしいまは作戦室として用いるために、机は撤去されて、どこかから持ち込まれたパーティー用の長机が三つほど束ねられていた。
 寺の残っていたゲイゼウス、イシマ、アリウスたちはすでに席についていた。
 インスフェロウが言った。
「さて。報告のとおり真四季に啖呵を切ったのはいいが。どうしたものかな」
 空を目指す征轟丸の上昇速度は目に見えて落ちていた。つまり激突の準備が整いつつあるのだ。
 ゲイゼウスが手を上げてインスフェロウに発言を求めた。
「カーベルはどこに? なぜここにいないのでしょう」
 いままで彼に対して使ったこともない敬語だ。白鷺であると知れたインスフェロウ。人間たちは尊敬と恐れの目で彼を見はじめていた。 
「ほどなくやってくるだろう。佐竹様の元に行っている」
「佐竹様のところへ。私たちもまた貴方からのご命令に従うでしょう」
「ゲイゼウス殿。私はカーベルになにも命じていない。私がカーベルの命令に従うのだ。いままでもそうだろう?」
 インスフェロウは、手のひらを返したようにていねいな彼らの対応に失笑した。
 ずうずうしくこの場に入り込んだローズベイブが言った。
「あなたが汎神族だってんだから当たり前でしょ。性格悪いわね。そう。カーベルはおもしろいわ。お茶でも飲んで彼女が帰ってくるのを待ちましょう」
「博士が淹れてくれるのか?」
「いいわよ。砂糖八杯とミルクをたっぷり」
「ああああっ、自分でいれよう」
「インスフェロウ。気がついた? さっきの真四季様。カーベルちゃんをひどく特別扱いしていたわね」
「どうしてそう思う?」
「あなたのことも眼中になかったわよ」
「真四季はカーベルを擬神化している」
「はあ?」
「人がペットを擬人化して、人格を持った存在のように扱うことがあるだろう。おなじことだ」
「するとなあに。ポチはいい子ちゃんでちゅねーー。ってカーベルちゃんを見ているわけ?」
「どちらかというと、青い大鯨魚を銛で射殺そうとする漁師の気持ちだな。宿敵であると感じているのだ。自分が戦う相手である以上、優れていなければ立つ瀬がないということだ。真四季はカーベルになんどもしてやられているからな」
「屈折した愛ね」
「だからカーベルはビドゥ・ルーガンのように、問答無用でさらわれないのだ。汎神族がその気になれば、人間を遠くから意のままに操るなど造作もないことだ。真四季はカーベルを喰いたい衝動と戦っているはずだ」
「彼女を殺すのは、なんだかもったないってわけね」
「憎い敵だがユニークだ。貴重な体験と記憶を彼にもたらすことを期待している」
「どうせカーベルのほうが早くおばあちゃんになるんだから、焦ることないってのにね」
 インスフェロウはローズベイブの頭をポンと叩いた。
「カーベルは私のものだ」
 その目は優しい金色だった。しかし議論をするつもりのない光を浮かべていた。
「おかしな気を起こすな」
「……わお……そお」
 ローズベイブは生唾を飲み込んで視線をそらした。



 人間に保護された天海女の汎神族・佐竹は、マウライ寺の奥の院にいた。
 そこは大きな合同法呪を展開するときに用いる、石としっくいで作られたダンスホールほどもある空間だった。部屋の四隅には、貴重な巨木の柱が置かれていた。
 椅子も置かれていない白い石畳の床。窓には縦長の曇りガラスがはめられていた。微かな光が射し込み、冷たい空気を照らしていた。床よりも一段高くなった正面祭壇には、大きなクッションが幾重にも積み重ねられていた。
 いくつものクッションを包む極彩色の布と純白の布には、汎神族が好むとされる黄伯木の香が焚き込められていた。
 佐竹は、布の洪水に呑みこまれた死体のように、四肢を広げたまま横たわっていた。横をむいた顔は半ばクッションに埋まり、白く長い髪に覆い隠されていた。大きな素足が苦難を受ける行者のように突き出されていた。
 カーベルは、聖者受難の絵画のような光景に、限りない美しさを感じて胸が苦しく締めつけられた。
 祭壇の回りはマウライ寺の回りからかき集められた植物が、所狭しと鉢植えされていた。
 彼女は息をするのもはばかる清浄な空気のなかでひざまずき、佐竹が自分に気づくのを静かに待った。
 かすかに虫が動く音がした。いつのまにか院には、多くの虫とクンフが集まっていた。人が連れてきたわけではない。汎神族の気配を慕うように、どこからともなく小さな命が集まっていた。
 床を這う毛虫を草の刺で突いて遊んでいたクンフが、カーベルの鋭い眼差しに驚いて、小さな悲鳴を上げた。
「……何者か。意地悪きクンフを脅迫する者は」
 佐竹が流れるような低音を響かせて言った。ゆっくりと身体を起こした老いた神の視線は人間には強すぎた。
 カーベルはその視線に口ごもった。
「さたけ……様、佐竹様。我等を。人間をお導きください」
 佐竹は窓の外にゆっくりと視線をおよがせた。
 そこでなにが起きているのか、老神は知っている様子だった。
「……天海女から聞いている……征轟丸は天海女を滅ぼそうとしているのだな。真四季の計画は魅力的だ。汎神族の本能に訴える力を持つ」
「…………」
「人の娘カーベルよ。天海女は、真四季の計画に抗うことは困難であると言っているぞ」
「はい。征轟丸が海に立つ姿を目の当たりにしました。とても人間だけの力で解決することのできない問題です」
 佐竹は盆に供えられた白い酒瓶に手を伸ばした。
 カチ、チン。
 陶器のかすかな音を立てて、老神は手酌で杯を空けた。
 佐竹の長い白髪は手入れもしていない。顔には深い皺が刻まれて、肌はかさついていた。しかしそれでも神は美しかった。老いにある生き物を美しいと感じることの不自然さ。しかしカーベルはそのことに疑問を抱かなかった。
「佐竹様。私はどうすればよいのですか。あらがう術を持たないのでしょうか」
「カーベル。おまえは天海女と私を守ろうとした。よく務めを果たした。もうよい。天海女を脱出しなさい」
「佐竹様もごいっしょに」
「私は天海女を離れるわけにはいかない。それがルールだ」
「しかしいくさは終わったはず」
「約束の刻を迎えたとて、私が天海女に残るのが規則である」
「そんな……死することがわかっていながらむざむざと」
「天海女と征轟丸の激突により、多くの命が失われるだろう。私は彼らのためにここで祈ろう」
「なにをおっしゃいます」
 佐竹は言葉を切り、カーベルの瞳をじっとみつめた。
「娘よ。私の言う言葉を理解できるか?」
「はい」
「私の言葉の意味を理解できるか?」
「……はい」 
「カーベル。見なさい」
 佐竹は左手を大きく腕を回して空中から水蒸気を集めた。右手の指先で複雑に印を切り、再び腕を回した。黒板に白墨で線を描くように、丸い霞鏡を出現させた。
 そこには人間たちが、大陸の海辺の街から脱出しようとしている光景が映し出された。
「汎神族はすでに被害の及ぶ地域を特定し、そこに住む生き物たちの避難を開始した」
 霞鏡には街道を移動する荷車の列と、群れを作って歩きはじめた四つ脚の生き物たちの姿があった。
 汎神族の行動は徹底していた。彼らは動物のみならず、貴重な植物の移送も始めていた。海岸に接する山からは、木々の姿が消えていった。
 カーベルは、あまりの光景に肩を震わせた。
「ここまでして……これほどの力を使ってまで天海女を沈めたいと言われるのですか」
「我等の記憶への執念はそれほど深い業を持つ」
「佐竹様が天海女を去らないと言われるのならば、私も共に残ります」
「そのことに私の知らない意味があるのか?」
「佐竹様に殉じるのが人の道かと」
「およそ意味のないことだ」
「しかし……」
 カーベルは汎神族を知らない。佐竹や真四季が現れるまで、汎神族に接したことはなかった。座学として知る知識では、人は己の神に尽くし命をも投げ出すものであると学んでいた。
「もしおまえが私に殉ずるというのならば、私はおまえに命令する。おまえはいますぐに天海女を去れ」
「できません。佐竹様を残して去ることはできません」
「我にあらがうか。我が天海女を離れられないと知った上で言うか」
「はい。この地で佐竹様をお守りいたします」
 佐竹はおかしそうに頬を歪めた。神の澄んだ瞳で人の娘を見つめた。そして彼女の心を見透かすようにささやいた。
「……おまえが真に守りたいものは、エルアレイと人が呼ぶ天海女なのであるな? わしは戦規により天海女に縛りつけられた、都合のよいシンボルであるわけか」
「まさか……」
「隠さずとも良い。おまえの性格はどうにも過激に過ぎるようだ。熱い心をたぎらせる魂は手段を選ばない。もしもおまえが真に私の命を守ろうとするならば、おまえは汎神族のルールを意に解さずに、私を天海女から拉致するだろう。違うか?」
「…………」
 カーベルは言葉もなかった。
 自分の心を自分以上に的確に分析された気がした。
「良い。いずれにせよ私はここを動けない。ならばおまえの想いと働きを記憶しよう。いまさら子を成す歳でもないが、私の最後の働きを飾るにふさわしい」
「私に道を……お示しいただけませんか?」
「なんと。おまえには征轟丸を止める考えがあるのではないのか?」
「いいえ」
「あなや、驚きだ。ほんとうに驚いたぞ。世界中の汎神族が注目しているのだぞ」
 カーベルは沈黙のまま言葉を待った。
「40年後の約束の刻。それは時を迎えてみると、おまえたち人間による積極的な沈没であったではないか。このような結末をいかなる柱も想像はしなかった。その戦いの渦中でおまえたち人間は、監業官である魅寿司を傷つけ、真四季を打ちのめした」
「心から恥じ入ります」
「さらに征轟丸と天海女の激突をも阻止しようとしている」
「ですからそれは……」
「知っているか、カーベル。おまえの作戦には多くの取引が成立している」
「取引?」
「私の呪もだ」
 女神の高い声が言った。
 驚いたカーベルが頭を上げると、そこには黒いドレスを身にまとったもう一柱の汎神族が立っていた。
 魅寿司だった。佐竹の後ろで、クッションを踏みしめて立っていた。
 位相遷移の気配は感じられなかった。以前からこの部屋にいたのだろう。
 やすやすとボッシュの格子を持ち去った真四季といい、人間には完璧と思えるマウライ寺の呪的防御も、汎神族にとっては穴だらけらしい。
 女神はデザインこそ違え、以前と同様に黒ずくめの衣装だった。
「佐竹様」
 女神は老神に視線を流した。
「監業官の役目を終えた今。私は魂袋を欲します。その権利が私にはあります」
「いかなる柱もそのことを妨げないだろう」
 眼前の二柱は、カーベルにわかる言葉で話した。
「はっ……」
 しかしカーベルは彼らの言葉の意味を理解できなかった。
 汎神族がアルルカンを我がもののようにやりとりする行為自体は理解できる。それが生物として正当な行為であるかは問題ではない。彼らは汎神族なのだから。
 魅寿司が、黒い瞳で彼女を見た。
「カーベル。おまえのせいだぞ」
「は……それは?」
 カーベルは困惑した。
「おまえが私に呪いを掛けたではないか。私は呪いを解くためにアルルカンを得なければならない」
 結論だけを提示されても、彼女には女神の言葉の意味はわからなかった。
「おまえは私が産むであろう子に名前のをつけるという凶悪なる呪いをかけた」
「しかしあの言葉は完結していません」
 魅寿司を捕縛したときの迫力のかけらも残さないカーベルは言った。
「魂袋で呪われた記憶を忘却するのですか?」
「我を侮辱するな!」
 カーベルはおもわず目をつむった。目の前で花火でも炸裂したような衝撃だった。
「まったくちがう」
「……はっ」
「カーベル。カリスマの魂を見せておくれ。私はおまえに受けた呪いと楽蛇を奪われた恥辱を許せない。いますぐにおまえを法呪で捕らえて、二度と解けぬ時間遅延の闇に閉じ込めたい」
「…………」
 魅寿司は頬を赤らめて恥に身悶えした。自分に呪いをかけた人間にすがる自らを恥じて。
「しかしあわれな汎神族の血は、おのれの受けた侮辱への報復よりも、誰も知らぬ記憶を渇望してやまないのだ。おろかと笑いたければ笑うがよい。私はおまえのカリスマの魂を見たい」
 カーベルはただただ身体を固めて女神の言葉が過ぎるのを待った。
「意地汚い私を笑え。しかし佐竹様のお覚悟を笑うな。おまえが人間である以上、私の言葉の恥を知ることはないのかもしれない。しかしここにおまえを殺したいほど愛しく思う者がいることを忘れるな」
「……はい……」
「カーベル。私がおまえから受けた恥辱を注ぐもっとも優れた方法を知るか?」
「いいえ」
「おまえを喰うことだ」
「…………」
「おまえの記憶を喰らい、おまえのおろかしさを笑うことだ」
 魅寿司はおだやかな表情のまま、愛を語らうように言った。
「おまえがいかに思慮浅く自分本意であるか。大局と時間、そして世界の中での天海女の位置づけを知ることもなく、自らの望みのためだけに我や真四季様を襲 う理性なき獣の所業。思いもかけない野蛮な動機に私は後れを取った。私がおまえの記憶を得、子孫に伝えることによって、我が子孫は私の恥辱を興味ある記憶 として認識するだろう。それは私にとって名誉なことですらある」
 神の論理は不可思議だった。
「私はこれよりアルルカンを得るために行く。私は人間の命と言えども捨ておくつもりはない」
「まさか、あの征轟丸に行くのですか。そのような無謀な」
「私は行かねばならない。私が使命をまっとうすることは私自身のためだけではない。私の子供たち、はるかな子孫たちに美しい記憶を残すためだ」
「しかし命の危険をおかしてまで行くのですか」
「それが正しいおこないだ」
 記憶を得るために危険をおかす神々。それは人間にはどうしても理解できない概念だった。
「佐竹様。魅寿司様をおとめください。あまりにも危険です」
「「私が生きとし生ける者全ての命を守るという魅寿司殿の立場にあったなら、同じく征轟丸に赴くことを躊躇しないだろう。そして当然の権利として魂袋を我がものとするだろう」
「しかし魅寿司様は、エルワンの街で人を選別していたはず。天海女の呪に関わりを持った者を時間遅延に閉じ込めて固定されていたではありませぬか」
「約束の刻は正しく過ぎた。監業官の任はすでに解かれた。いまや天海女にとどまる義務を有するのは佐竹様のみであることを知るがよい」
「では、魅寿司様も一刻も早く避難を」
「我をいらつかせる女であることよ!」
 魅寿司は辛抱強くカーベルに言った。
「我は真四季様の計画を唾棄すべき愚かなものであると考える。我は我の望むままに動く。我は一点の曇り無き美しき記憶を得るために生きるのだ」
 カーベルは女神の言葉にうなだれた。
「わかるか? 汎神族たる者。己の成したることが子々孫々栄光となり恥辱となるのだ。自らが信ずる高潔を奉じ、正義を全うすることこそ道であるのだ」
「……私に、私達にできることはありませんか」
「私の記憶に花を添えておくれ」
 優しく、しかし容赦のない声で女神は言った。
「おまえがいかようにして征轟丸と天海女の激突に立ち向かうのかは知らない。しかし期待しよう。天海女を沈没させたように、希有な技を見せてほしい」
 カーベルは激突を切り抜ける方法を知りたくて佐竹の元に来たのだ。しかし神々も答えを持っていないらしい。
 佐竹が言った。
「カーベル。天海女はおまえと共にある。すばらしいことだ」
「…………」
「いかなる柱よりも、おまえは天海女に愛されている。おまえの不思議は汎神族の本能をつき動かすぞ」
「佐竹様……」
 魅寿司が赤く美しい唇で言った。
「多くの汎神族が、おまえを喰うことを渇望している」
「……光栄でございます」
「おまえが汎神族に希有なる記憶を与え続ける限り、何者もおまえを喰わないだろう。しかしいつかだれかがおまえを喰うときが来る」
「私を……」
「それは白鷺かもしれない」
 佐竹が静かに言った。カーベルは驚いて顔をあげた。
「カーベル。汎神族は、おまえに魅了されたのだ」

 

 

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