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時をあがなう先に

第7章−5

 

 四季は、天海女の船縁……つまり海岸だ……に至った。
 ボッシュの格子を左手に持ち、追撃する金龍の攻撃を逃れて。
 匂いタグを辿ったカーベルは、容易に真四季をみつけた。彼女は幾種類かの従属生物たちを従えていた。高い攻撃力を持ったマーリー羊や、鋭敏な鼻を持つ犬鼠たち。巨龍の速い移動速度に追随できる優秀なものたちがカーベルを守っていた。
 それはエルアレイ軍が巨龍と戦う、対極大生物戦の陣容だった。
 真四季は、神の法呪具で身を守っていた。白銀に輝く紙のような金属鎧が、生き物のように法呪文を唱えつづけていた。
 真四季に近づくにつれて耳鳴りが激しさを増した。
 インクを垂らしたような海と、薄曇りの空が続く景色。
 夕暮れでもないのに周囲は薄暗い。まるで日食のように光の量だけが落ちていた。
 真四季の白く長い髪が、怒れる旗のように風を巻いた。人には知れない法呪のためか、両眼はオレンジに輝き、白い歯とコントラストを際立てた。
 カーベルは神の形相に恐怖した。人に似た姿を持ちながら、人には成しえない気配をまとう。それはある意味、人が幽霊を恐れる本能に近いのかもしれない。 己と似て非なるものへの拒絶感。なぜ汎神族と人間はこれほどまでに似ているのか。問うても意味のないことと、何世紀にも渡って繰り返された疑問が心をよ ぎった。
 永い時を経れば、人間はいつか汎神族にたどり着けるのだろうか?
 それは人間にとって永遠の願いでもあった。しかしそれはありえない。なぜなら人間は忘れる種族だから。水が岩になるほどの時間が過ぎようとも、それはありえないことだ。人間は自らの力で時を開かねばならない。
「真四季様!」
 カーベルは恐れ震える魂を奮い立たせて神の名を呼んだ。
 真四季の背後の海では、いまも征轟丸の上昇が続いていた。非現実的な光景が彼の神の力そのものに見えた。
 彼女は赤金の法呪戦甲冑をきらめかせて神に戦いを宣言した。
「人獣和して光を見る。緑の陰影深くして命あるもの産み生ず。すなわち組みて成るは呼気・肉・赤液なり。和して散りゆくあまたの落葉、桜華の如く無量なり」
 カーベルは板符を飛ばして法呪文を唱えた。大地が剥離したかのような、落ち葉にも似た植物クンフの切片が真四季の周囲を覆った。
 めくらましにもなればこそ。カーベルは真四季が立っていた周囲めがけて岩つぶてを殺到させた。
「金龍。そなた凶悪であるならば大地を砕き、火を噴きてすべてを焼きはらえ」
 カーベルの命令に金龍は、切片渦巻く真四季の元にジャンプした。
「きいぃぃぃあああああっ」
 高速言語にも似た怪声を轟かせて、金龍は天海女の船体を叩き割った。
 カーベルの戦士の本能が叫んだ。真四季は逃げた、と。
 その瞬間、すさまじい雷が彼らを襲った。カーベルは足元に転がる流木をはねあげて電気の力をアースした。位相空間からの攻撃だ。カーベルは紙による人型 を十も展開した。位相空間からの空間認識は間違いなく甘くなる。自らには塩泥をふりかけて法闇を巡らし、紙型をいっせいに活性化した。たちまち白い雷はダ ミーの人型に殺到した。
「情熱の魂を持つカーベルよ。なぜに我を襲うのか」
 真四季が声に出して問うた。それは真四季の本心だった。真四季にはカーベルが戦いを挑んでくる理由がまったくわからなかった。なぜなら真四季にとって人 とは汎神族よりも遙かに劣る存在であったのだから。天海女に巣くった人間たちが巨龍を退けるのも、戦闘従属生物を造っていたローズベイブが白鷺をインス フェロウとしたのも、汎神族の手の上で遊ぶ小犬のようなものだと感じていた。
 それなのに、いくさ船同士の衝突という類まれなる事業を成そうとしている自分に、単身で戦いを仕掛けるカーベルの行いは、非論理的としか思えなかった。
「霞を紙に値うるごとく、相を層に乗じて得るは層剥離」
 カーベルの甲冑の板符が五十枚も昇華した。
「おう!」
 真四季の口から悲鳴が漏れた。
 彼の足元の一角が雲母のように結晶して、ばらばらとはげ落ちた。位相遷移が部分的に崩壊した。人間の娘の法呪が自分に及ぶことが信じられなかった。位相空間を滑りそうになった左足に引きずられて、真四季は自ら位相遷移を解除した。
 まるで壺から引きずり出される蛸のように、真四季の体は極彩色に色を変えながら、うねり畳まれて通常空間に出現した。この強引な位相遷移に命を保つことは、汎神族にして可能な法呪だった。
 ぶおう、と波しぶきが顔を襲った。
 通常空間のすさまじさに、真四季を包んでいた甘い香りのクンフが残らず消し飛んだ。彼らの小さな悲鳴は真四季の心をさいなんだ。
 真四季は頭上からの圧迫感に、かろうじて視線を上げた。そこには眼前まで迫った金龍のあぎとがあった。
 真四季は本能的な恐怖に、法呪の発動も忘れて身を翻した。
 しかしその先に、髪をなびかせたカーベルが待ち構えていた。
「イイィィン」
 反射的に神の命令がほとばしった。真四季を守っていた蜂の昆虫型クンフが、弾丸の速さでカーベルの顔面を襲った。それは彼女の物理障壁と幾千の昆虫型ク ンフの命にはばまれた。空を飛び全方位から襲いかかった真四季の雀型従属生物は、カーベルに従ってきたマーリー羊の自爆毛に焼き尽くされた。
 同時に金龍の牙が真四季の脚元に炸裂して、神の体を弾き飛ばした。
 白鳥のごとき従属生物が位相空間より飛来して、真四季の身体を空中で支えた。
 戦いに愚鈍は罪だ。移動速度の落ちた真四季めがけてカーベルは飛びかかった。
「カ・リイィィ」
 不完全な法呪文が真四季の口から走った。
 空中から、つららのでき損ないのような氷の柱が出現してカーベルを襲った。
「しゃあぁーーーっ!」
 三匹の楽蛇がカーベルを守って氷を弾いた。一匹は顎を貫かれて大地に落ちた。
「やああああっ!」
 法呪文ですらない気合がほとばしり、カーベルは真四季に体当たりした。
 はじけて飛んだ空中四メンツルの高みだ。神と人間はもんどりうって天海女に落ちた。
 真四季とカーベルが息をつないで身を起こすよりも速く、彼らを守る従属生物と楽蛇は、毒を飛ばして威嚇しあった。
 戦いをいさめるがごとく、彼らの中央に金龍が太い前足を叩きつけた。
 地面に倒れた真四季を、狐型従属生物が四十もたかって安全な距離に引き離した。同時に昆虫型クンフが己の身体の有為紋章を用いて、命をかけた物理的法呪的防御壁を展開した。
 真四季はずいぶん長いあいだ呻き声をあげていた。ようやく打ち身のショックから抜け出して、戦う人の娘カーベルを見た。
 額と鼻から赤い血を流す彼女は、肩で息を切らしながら小さな四角い塊を握りしめていた。人間は痛みを感じないのか。なんと鈍感な生き物であることか。この戦いはフェアではない。真四季は理不尽な怒りに捕らわれた。
「カーベル!」
 真四季が叫んだ。その名前に呪いを込めて。
「カーベル。格子を奪ったか!」
 神の呼びかけにも応えることなく、人の娘は炎の瞳で真四季を見つめた。激しい反呪に裂けた両手は、爪も割れて血にまみれていた。
 生々しくも甘い、しかし汚れを呼ぶ人の血に染まった四角い塊は、真四季がマウライ寺から奪ったボッシュの格子だった。
 真四季はカーベルの意図を測りかねて立ち上がった。
「……カーベル。さすがは戦いに長じたカリスマの魂であることよ。肉弾戦となれば、私などは手もないと言うわけか」
「…………」
 カーベルは荒い息の中で神を見つめながら、ボッシュの格子を懐のフックに固定した。
「……いた。カーベルちゃんよ。あそこ……」
 遠くからローズベイブの声がした。
 互いの従属生物が牽制し合う奇妙な海辺に、天海女の利害が重なる者たちが集まりつつあった。
 ミロウドや護衛の兵士たちが小キリンに跨がり走ってきた。
 小キリンは周囲に渦巻くすさまじい法呪の気配と殺気に恐れおののき、カーベルたちまで五十メンツルあたりで歩を止めてしまった。いくら叱咤してもそれ以上は進もうとしない。
 小キリンを降りて進もうとしたミロウドたちの頭の上に、位相遷移の虹色の渦が巻き始めた。
 強い風にも乱れることのない金属質の渦は、中から光る黒いマントの神を吐きだした。黒いスーツに黒い髪。長い脚をタイトな黒のスパッツで強調していた。全身を墨の色で固めた女神は魅寿司だった。
 彼らは真四季とカーベルに会うために、ここに集まったのだ。
 真四季は自分が人間に襲われてボッシュの格子を奪われたことを、やっと事実と理解した。目の前の人の娘がそれを成したのだ。
 真四季は血を流すほどの言葉で言った。
「カーベル。格子の力は一度きりだ。おまえの望みはその価値に応ずることができるか? おまえが、いくさ船の衝突を妨げるために用いるならば、それもよし。インスフェロウを復活させるために用いるならばそれも正しい」
「我を人と見て侮られるな。私の思いはひとつ。ただひとえにエルアレイの大地と佐竹様のお命を守ること。そして人間の生命、財産を守ること」
 冷たい暴風に髪を吹き散らしながら、カーベルは言った。
「ならば格子を用いるが良い。時間バネとしての格子は、征轟丸の船体を時間遡及し、崩壊させることができるだろう。ためらうことはない。操作するのが人間のおまえであっても、私はそれを妨げることはできないだろう。さあ、カーベル。唱えるが良い」
「……ん……」
 カーベルは躊躇した。
 彼女の手のなかに、人々の生命が握られていた。
 ローズベイブが言った。
「カーベルちゃん。だめよ。インスフェロウを復活させなきゃ。格子がないと、彼は二度と生き返れないのよ」
 ミロウドが言った。
「カーベル様。どうか佐竹様を。エルアレイの人々を、多くの従属生物たちを。数えきれないクンフや植物を。ひとつでも多くの命をお救いください」
 魅寿司が涙声で言った。
「カーベル。おおっ、カーベル。真四季様の行いを許してはならない。汎神族の奢りはやがて因果となって我等に応ずることとなる。正当な理由もなく死にゆく多くの命の無念を顧みることなく、自然に深い傷を穿とうとする傲慢な魂を許してはならぬ。真四季様をいさめよ」
 カーベルの周りで血しぶきがあがり、小柄な肉体が空中ではじけた。
 真四季が格子を奪おうとして放った小さな猿の従属生物が、カーベルの楽蛇に喰い殺されたのだ。
「……どうした。カーベル。おまえの心は迷いに満たされているな。熱い情念の女よ。おまえはインスフェロウを死地に追いやった自分を悔やんでやまない」
「そのとおりです。真四季様。私は一瞬たりともあのときを忘れません」
 しかしカーベルは好奇心に勝てなかった。
「真四季様。私は人間です。神の尊厳を疑うものではありません。ましてや神の深い御心のありかを知るはずもありません。聞いたとて端なる我が身に理解できるなどと奢るつもりもありませぬ。しかしあえて問いたい。真四季様。格子をいかに処するおつもりか」
 ローズベイブが叫んだ。
「だめ! カーベルちゃん。そんなことを聞いちゃ……」
 ぶうん。と空気が歪んだ。ローズベイブの声が遠くなった。
 真四季がなにかの法呪を展開した。
「ほお、カーベル。それを聞くか。理由がおまえの意にかなうものならば、格子を私に渡すというか」
「それが大義であると知るならば」
 真四季は笑った。声をたてて笑った。
「愉快なり。我は人に裁かれるか。我は人の娘に懇願して報奨を得るか」
「…………」
「よかろう。我が事業を知り、格子をすみやかに渡すが良い」
 真四季は笑いと怒りの光をたたえた瞳でカーベルを見た。
「我はかつて天海女に乗り組み、白鷺や由紀野殿と共に征轟丸と戦った。それは正義のためであり使命のためであった。我等は強い信頼で結ばれていた。機械学の粋である天海女とともに在り、多くの人間や従属生物たちと共に、征轟丸に勝利することだけを求めて戦った」
 神が人間に雄弁に語った。
「しかし我等、汎神族もまた生きることを望む。生きて子孫を残し、記憶を伝えることが種の義務だ。このことを理解できるか?」
「…………」
 言葉としては理解しているつもりだ。汎神族は子孫を残せないことが最高の刑罰のひとつになっていると聞く。
「由紀野殿は美しい。強く才能に溢れ、正しい心を持ち、豊かな記憶を遺伝していた。我等は由紀野殿を深く愛した。しかし由紀野殿の気高い魂は、自らの人生よりも我等の勝利を望んだ。自らの若い時間を戦いのために捧げたのだ。いまは負け船となった天海女のために」
 カーベルは真四季の次の言葉を恐れた。眼前の若い神が望むことが予感として胸に迫った。
「我等は使命を終えた。戦いは終わった。負け船乗員としての責めは私がすでに受けた。由紀野殿にはなんの咎も及ばない。ならば私は望まずにいられない。由紀野殿に幸せな人生を捧げたいと。ふたたび美しい姿で舞ってほしいと」
「お……お待ちください……真……四季様」
 カーベルは汗を流して口を開いた。これ以上、神の言葉を聞いてはいけない。言葉の呪に魂までを縛りつけられる。しかし真四季は祈りを唱えるように言葉を続けた。
「私は格子で由紀野殿を蘇らせたい」
「ああっ……」
 カーベルは悲鳴にも似た声をあげて言葉を失った。
「彼女が私を愛してくれるかはわからない。しかし私は勇敢にして類まれなる美姫である彼女を愛している。ともに天海女で戦った戦友として同志として、彼女は私の言葉に耳を傾けてくれるに違いない」
「……そ、それは……」
 カーベルは心臓が杭打機のように鳴るのを感じた。
 真四季がやろうとしていることは、基本的にローズベイブと同じことだ。
 真四季は由紀野を、本人として復活させようとしているだけの違いだ。カーベルは理が真四季にあることを知った。彼女がやろうとしているのは、由紀野の身体と時間を奪い、自分の愛するインスフェロウを蘇らせるという独善的な行いだ。
「カーベル。私の想いになんの罪があろう」
 真四季は長く美しい右手をさしだした。カーベルはいま初めて真四季の顔を見たように感じた。
「真……四季……さま」
 神は若く神々しかった。半眼のまぶたの奥で輝く緑の瞳。まっすぐな鼻筋から薄く端正な朱の唇に至る、しわひとつない顔。
 長い髪は植物の繊維のように細く繊細だった。
 陶器のように美しくありながら、しっとりと吸いつくような肌が遠目にもわかった。
「カーベルちゃん! 真四季様を見ちゃだめ。真四季様のことを考えちゃだめ!」
 ローズベイブが必死に声をかけた。
 しかし真四季は、この場に彼とカーベルしかいないかのように熱く彼女を見つめた。
「カーベル。私は由紀野殿にいまひとたびの人生を与えたいのだ。本来、彼女のものであった時間が失われようとしている。天海女の戦いが終わったいま、彼女の使命もまた完了した。若く美しい由紀野殿に、輝く未来を与えたいと思うであろう。カーベル」
「…………」
「見ろ、由紀野殿の潔い魂を」
 真四季の白い指先が黄色に光った。
「……あっ」
 カーベルの意識は真四季の法呪に飲み込まれた。
 

 天海女と征轟丸の激戦が続いていた。一進一退の長い戦いは、いくさ船に乗り組む神と生き物たちを疲弊させた。
 天海女の戦う女神・由紀野が意を決して立ち上がった。
「……天海女。私の時間を捧げよう……」
「由紀野殿。若き命を我にくれるか」
「それが我が使命であればこそ」
「子をなし、記憶をつなぐ機会を失うともか?」
「それで天海女が勝利するのならば、我が知系が絶えるともいとわぬ」
 由紀野の右目から、涙が一筋流れた。
 まっすぐに前を見つめた美しい女神は、涙をぬぐい背筋を伸ばした。
「天海女。時間緩衝機を我に」
 小さな格子具が空中に現れた。天海女が出現させた格子は時間緩衝機。すなわち時間ダンパーだ。由紀野は自分の人生を取り込むための機械を見つめた。
「のお、天海女」
「なにか。由紀野殿」
「我が肉体が老いさらばえて滅ぶとも、どうか優しく仕舞い保管してほしい。いつか戦いが終わり、おまえが勝利したならば、私の身体を蘇らせてもらえるように」
「約束しよう。いかなる形であれ、由紀野殿の身体を蘇生することに尽力すると」
「ありがとう。天海女」
 由紀野は格子を眼前の空中に浮遊させた。そして銀の小刀を取り出すと、ためらうことなく、左の手首に刃を滑らせた。
「我が血の属性を帯びしこの格子具は、我れの言葉をしみ入るように聴き、その意を髄まで心得よ」
 左手首から滴り落ちる真紅の血は、空中の格子具に触れるやいなや、砂地に流れる波の飛沫のように消えていった。
「血は我。我に属するものならば、我と想いを一にするこそ道理たる。我が血は格子具の微細構造を埋めつくす。なれば我が意は格子具を覆い、その命に染め上げるを可とするぞ」
 すでに人の使う牛乳瓶五本ほどの血が消えていた。
 褐色の美しい肌は、心なしか青みを帯びたかに見えた。
「格子具よ。我が示し命じる事を理解しただちに実践せよ」
 五十ケーメンツル四方に及ぶ天海女を覆い尽くす暗雲が出現した。それは天から墨壺が落とされたかのように、瞬時にして巨大な船体を飲み込んだ。稲光が万も閃いたと見えた瞬間、天海女の姿がかき消えた。
「時の値を遡及せよ」
 渦巻く暗雲の中心に立つ由紀野の身体が、白々とぬめり始めた。瑞々しい肌が急速に衰えだした。堅い骨が細り曲がりだし、髪が潤いを忘れて髪留めからこぼれ出した。目尻に無数の皺が現れ、首筋が鱗のように弛み始めた。
「……我が刻をあがないて、天海女に奉ずるぞ」
ーー感に堪えないーー
 天海女が言った。天海女は由紀野の心意気に感じて礼を垂れた。
 天海女の巨体が彼女の言葉どおり、四十四フン前のその場所に現れた。一種の時間循環を強制的に引き起こした由紀野は、天海女の位置のみを遡及し、以外の全てを連続した時間の中につなぎ止めた。
 すさまじい時間不整合が起こり、矛盾事象が轟音を立てて補正されていった。


 ごおっ、と風が巻いてカーベルの意識が戻った。
 なにかが胸に触れる感触に、本能的に身を翻して腕を振り上げた。
 甲冑の肘についた鋭い鉤鋲が生き物の肌を切り裂く感触を伝えた。
「ぐっ……!」
 細い血の糸を引いて飛びすさったのは真四季だった。
 カーベルの懐から格子を奪おうとした掌が、すっぱりと切れていた。
「…………」
 カーベルは蒼白な顔で真四季を見た。
 汎神族は肉体の痛みに弱い。真四季は苦痛に眉をひそめながら言った。
「見たか。カーベル。由紀野殿の気高き覚悟を。そして天海女との約束を」
「……いや……」
 カーベルは弱々しく首を振りあとずさった。理性が真四季の理を認めていた。真四季は正しい。しかしあらがう感情は、真四季を否定する言葉を探しつづけた。
「……天に登りつづける征轟丸を止めるの……」
「むりだ。人間のおまえには格子を使って征轟丸を止める百もある方法のいずれも理解できまい」
「このたたかい……を止めるために……」
「いかようにしてだ。おまえにそのような法呪を即興で構築できると言うか」
 真四季は魂を魅了する瞳でカーベルを見つめた。人に倍する体躯で視界と心を圧倒しながらカーベルに近づいた。理性と本能を鷲掴みにして、彼女の心をくじこうとした。
「……あ……」
 カーベルは自分が涙を流していることにすら気づかなかった。
 下半身が自分のものではないように、言うことを聞かない。神に語られる恐怖の前に、いっそのこと自害してしまえばどれほど楽か、と誘惑が頭をもたげた。
「さあ、カーベル」
 真四季が血の跡も生々しい手をさしだした。
 カーベルは格子を握りしめた。軽くきゃしゃなボッシュの格子。そこに汎神族の命が詰まっていた。いや、天海女をはじめとした多くの者の運命がかかっていた。
 カーベルは大義を考えまいとした。論理を無視して、己の心の声にすがろうとした。
「カーベル」
 真四季の甘い声にうながされるように、カーベルはボッシュの格子を眼の高さに持ち上げた。
 低く唱える法呪文に呼応して、甲冑から下げられた板符が、一枚また一枚とはじけるように昇華した。きらきらと光る金粉が、小さなクンフのように音を立てて彼女の回りを渦巻いた。
 真四季は緊張した面持ちでカーベルを見つめた。
「カーベル。理性ある人の娘よ。私はおまえを信じる」
 カーベルは応えることなく、鋭く深く息を吸い込んだ。
 すでに格子から手が離されていた。しかし格子は不思議な力で空中に浮遊していた。
 格子の活性化が始まっていた。巧妙に仕組まれた格子の鍵が次々と解除されていった。カーベルは意識していなかったが、彼女にしみこんだ佐竹の知塩が記憶となって、彼女に格子の秘密を教えていた。
 その様に真四季は覚悟した。もはや格子の開放は人間であるカーベルの手にゆだねられたと。そして彼にできる最後の説得を試みた。
「カーベル。私に由紀野様を。おまえには美しいビドゥ・ルーガンを」
 カーベルの目に躊躇する光がよぎった。真四季に奪われた彼女の恋人ビドゥ・ルーガン。
「おまえの理性への報酬として、萩のごとく香る美しい男。ビドゥ・ルーガンを与えよう」
「…………!」
 カーベルの視線が一瞬、宙をさまよった。
「ずっこいぞ! 真四季様」
 ローズベイブが下品な指立てをして叫んだ。
「見よ。カーベル」
 真四季の頭上に、白い男の裸体が現れた。毛を失い、彫刻のような肉体美を強調されたビドゥ・ルーガンだった。その姿にカーベルは衝撃を受けた。
「私に由紀野様を想う心があるように、おまえにも彼を美しいと思う心があるだろう」
 カーベルは唇を噛みしめて恋人の姿を見た。
「…………」
 不要な言葉を発するのは、法呪を破綻させることになる。法呪文に誤った音を入れないためにも、彼の名前を呼ぶことはできなかった。
「情念のカーベルよ。愛を知る女よ。私に由紀野様を。おまえにビドゥ・ルーガンを」
 慈愛溢れる真四季の瞳が甘くささやいた。
 上昇を続ける征轟丸を前にして、神と人間が対峙していた。神の論理は、周囲を圧する轟音と波しぶきのごとく絶対だった。
 カーベルのあらゆる理性が真四季の正しいことを叫んでいた。神には神を。人には人を。それは種を保存すべき生き物としての唯一正しい道ではないか? 彼女が思い悩むたぐいのことではないのではないか?
 カーベルはボッシュの格子を見た。そこに揺れる血の色は、熱く生きるべき生き物の魂そのものに見えた。そして真四季の頭上で揺れる、愛するビドゥ・ルーガンの姿を見た。彼は意識があるのかないのか。薄く開いた瞳で彼女を見つめていた。
 ……ビドゥ……
 カーベルの心が彼を呼んだ。
「……告……」
 カーベルが宣言した。
「ボッシュの格子に曲げられし蓄えられし時間の歪みは弾け戻りてあるべき主のもとへ戻れ」
「おおっ」
 真四季が喜びの声をあげた。法呪の意味は由紀野の肉体を元に戻せ、というものだ。
 しかしカーベルは続けて言った。
「すなわち主とは今世に改められて造られし身体のあるままに時を遡及するものなり」
「なにを吐くか! 愚かなりカーベル!」
 真四季の悲鳴が風に吹き飛ばされた。
 カーベルの法呪は、改造されたのちの由紀野に向けられたものだった。すなわちインスフェロウだ。
 ローズベイブの白い繭状装置は一瞬にして消耗した。
 インスフェロウを包んでいた青い氷にも似た生体接続機は、内側に向かって崩壊するように消滅した。
 周りの地面が大岩の落下を受けたように耕された。法呪的、物理的な反動が、周囲の様々なものを空中高くに放り上げた。
 ナッツの割れるような激しい音が大気を叩いた。
 暗幕のごとき灰白色のローブが、風を受けて回転した。
 はじける金色の法呪片をまき散らして光が散った。
 バン、とローブが広がった。帆が風を受けるように、霞を力あるものとして捕らえた。
 力強い手足がさらけ出された。
「がおおおおっ」
 大地を揺るがす雄叫びが轟いた。
 両肩の印肢が音をたてて展開した。ぶぅん、と虫の羽音を響かせて、すさまじい攻撃法呪が構築された。
 ピンポイントの重力場発生だ。
 コールタールのごとき重力場が、カーベルを襲おうとした従属生物の身体に当たった。「ごあ!」
 身体の外に局所的な高重力が発生したのだ。従属生物の臓器は、重力場めがけて落ちようとしてシェイクされた。
 不気味に身をよじりながら従属生物は全滅した。
 インスフェロウは土煙をあげて大地に降り立った。
「イ、インス……インスフェロウ」
 カーベルは、この現実がもろい幻でもあるかのように立ち尽くした。
 動くことができなかった。
 真四季の見せたビドゥ・ルーガンの映像が虚空に消えていった。
 彼女は恋人であるビドゥ・ルーガンを捨てたのだ。正しいかどうかではない。海京でインスフェロウを死地に送りだした時のように誰かを守るためでもない。
 純粋に彼女の意志だった。 
 カーベルはインスフェロウを選んだ。
「…………」
 金色の眼がゆっくりと周囲を見渡した。そしてカーベルの上で止まった。
「無事か。カーベル」
 優しい眼が三角に微笑んだ。
「……あ……ああっ……ほんと……?」
 カーベルはそのとき戦いを忘れた。自分の身を自分で守ることも必要ないと知っていた。インスフェロウがいる。目の前にインスフェロウがいる。
 たくましく立つ彼は無敵の戦士だ。
「カーベル。よく戦った。やはりおまえは私の誇りだ」
 インスフェロウは白く薄いグローブに覆われた手を伸ばした。彼女は指先に触れようとして、電気を受けたかのように身を退けた。
「だめ……私は。私はあなたを騙したわ。あなたを殺した……」
 喜びと恐怖と後悔が、嵐のように心を踏みにじった。
 しかしインスフェロウは、満足そうな微笑みを浮かべるだけだった。
「私はおまえを誇りに思う」
 そしてカーベルの手をとり、痛々しく裂けた指先にキスをした。
「……しっていたの? 私があのとき嘘をついたこと……」
「なんのことだ? おまえたちが無事ということは作戦が成功したということだ。それ以上の喜びがあるか」
 インスフェロウのマスクにはカーベルの血が口紅のようについた。
「ふむ。念願のキスマークだ。似合うだろう?」
「……いや、わ、私はビドゥを見捨てた。大義も正義もない……私はあなたを選んだ。あなたを殺したように、今度はビドゥを見殺しにした……」
「カーベル。こういうとき私はなんと言うべきか知っているか? こう言うんだ。「悪いな、ビドゥ・ルーガン。気を落とすなよ。あんな女のことなんか忘れち まえよ。おまえにはもっと良い女が現れるさ。たとえばあそこのカウンターのブルネットのグラマーみたいなのがさ」そして私は彼にバーボン入りリキキを一杯 おごってやるのだ。おっと彼は飲めなかったか」
「…………」
 インスフェロウのジョークも耳を素通りした。
「カーベル。安心しろ。誰もおまえを責める資格を持たない。おまえは正義を持っている」
 金色の瞳が、カーベルの頬に血の気を呼び戻した。
「きゃっほーーっ!」
 およそ場違いな嬌声があがった。驚いて見る人々の前で、どうみても十五歳よりは若い少女が跳ねていた。
「見て見て、みてぇ。やったわ。大成功よ!」
 小柄なのにボンババンな身体の少女が、大袈裟にスキップを踏んで踊っていた。
 少女は飛びつくようにカーベルの腕にすがりついて、甘えた上目づかいで聞いた。
「ねえねえねえぇ。カーベルちゃん。どお? 私ってかわいい?」
「……えっ? あなたはまさか……」
「ローズベイブちゃんでぃーーすっ!」
 きゃろりん、と笑う女の子が、さきほどまで彼らといた、あのローズベイブだというのだ。
「いやあ、汎神族って長命じゃない。だから20年分をね、ちょっとわけてもらっちゃったって訳よ。私ってば、ほんっっっとうにすごいと思わない?」
 たしかにすごい。汎神族の上前をはねようという根性がすごい。
「だ、だいじょうぶなのですか? 人間の身体で平気なのですか」
「あったりまえじゃない。だれの設計だと思っているのよ」
 カーベルは、はっと思い当たった。
「まさか、インスフェロウを復活させたのは、ご自分の若返りのためですか?」
「なに言ってるのよ。自分の子供にも等しいインスフェロウを蘇らせるためなら、私は自分の命も投げ出すわ」
「嘘だな」
 インスフェロウが笑って言った。
「いやな子ね」
 ローズベイブは否定もせずに応えた。
「……インスフェロウ……白鷺!」
 彼を呼ぶ声が響いた。真四季だ。

 

 

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