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征轟丸襲いくる

第7章−4

 

 び征轟丸の従属生物たちの攻撃は活性化した。
 人間の戦士たちは、エルアレイ着底の喜びにひたる間もなく戦うことを余儀なくされた。
 マウライ寺の境内は殺気だっていた。装備の補給を終えて走り出す小中隊。負傷者の搬入に奔走する四つ脚の従属生物たち。命令と興奮があたりを包んでいた。
 渦中のマウライ寺講堂に、一人の女性が入ってきた。
 彼女は古い奇妙な服を着ていた。それはカリンビールたち祭り人のドレスに似た、生地をたっぷりと使った色鮮やかな服だった。
 真っ赤な口紅を誇らしげに塗った、色白のちょっとふくよかな女性だった。
 小柄だが極端なまでにメリハリの効いたゴージャスボディは、兵士たちを後ずさりさせるほどの迫力だった。
「はあい。ちょっと。ねえ、兵隊さん。ここの責任者は誰?」
 ボンバボン、と男好きのする色気過多な彼女は聞いた。
「ここは立ち入り禁止です」
 一般人がエルアレイに残っていたことに驚いた兵士は彼女を止めた。
「あら、こちらちょっとハンサムじゃない」
 彼女は兵士の腕を取ると巨大な乳房で抱きしめた。じたばたとあらがう彼をずるずると引き倒し、顔を胸の谷間に挟み込んでしまった。
「……うっ……!」
 若い兵士は、あまりに場違いな行いに目を白黒させた。悶絶する彼の頭を撫でながら女は言った。
「インスフェロウよ。インスフェロウの主属印を持っている人はだれなの?」
 講堂に緊張が走った。
 ここは対征轟丸戦の最前線だ。人間の主たる情報設備が集中している。この場での破壊活動は敗北に直結した。
 いちはやく異変に気づいたゲイゼウスが歩み出た。
「まずは名乗られよ。なぜそなたはここに入ることができたのか。マウライ寺はエルアレイ・天海女の居住印を持たない者が進入できない認証障壁に守られているはず。なにゆえにやすやすとこの場に至ったのか」
 女はくんくんと鼻を鳴らすと残念そうに言った。
「後ろの質問の答えは、私が天海女に四十年も住んでいるからよ。居住印を持っているわ。そして最初の答え。私の名前は……」
「ローズベイブ! 貴様、生きていたのか」
 罵声が乱入した。その声はカリンビールだった。
「あらあらまあまあっ、カリンビール。老けたわねえ。目が真っ白よ」
 ローズベイブ。その名前にマウライ寺の空気は凍りついた。
 魅寿司の言葉は全員に報告されていた。インスフェロウが汎神族・白鷺であったこと。彼の柱を従属生物に改造したのは、ローズベイブという名の人間の博士であったこと。
「ローズベイブ……ですって?」
 板符の補充を受けていたカーベルは、驚きを込めて女を見つめた。
 ローズベイブは胸をゆさゆさと揺らしながら、講堂の中央に進んだ。そして両手を腰に当てて高らかに言った。
「どうなの? インスフェロウを再生したくないわけ?」
 肩にかかった髪をぱさっと指先で払い、彼女は周囲を見渡した。
「なによ。殺気だって、ゆとりのない連中ね。時間遅延が解けて、やっと動けるようになったと思ったら、いきなり海京は爆破されちゃうし。奇機を出して状況 を調べようとしたら、私のインスフェロウは死にそうになってるし。あんたたち何者? やたらと攻撃的で雅びじゃないったらありゃしない」
 言いたいことをべらべらと喋べりまくる彼女の勢いに、兵士たちは声もかけられなかった。
 カーベルは彼女の言葉の端に敏感に反応した。
「インスフェロウを再生? 死にそうだった……? インスフェロウが生きているというのですか?」
「なによ。おっかない顔したあんた。疑問符の多い女ね」
「私の名はカーベル。インスの、インスフェロウの主属印を持っています」
「えええええええっ? あんたが。彼の? ふうううん。うっそおおおおおっ」
 思いっきり不満そうにローズベイブがうなった。
「おっっかしいなあ。十三歳くらいの美少女に従属するように暗示しておいたんだけどなあ。あんた何才? 二十歳はとっくに越えてるわよね」
「……失礼……私が彼の主属印を受けたのは、十二歳のときですが」
「えっ? あっそう。なぁんだ。じゃあうまく美少女嗜好入ったのね。やっぱ私って天才だわ。たぶん昔はかわいかったんでしょうねえ、あなた」
 うっとりと笑う彼女は、ぜんぜん悪気がないようすだった。
 カーベルは目がつり上がりそうになるのを懸命に堪えながら、震える唇で微笑みを形作った。
「カリンビール。こ、このオンナが、ほんとうにローズベイブ様なの」
「そうだ。カーベル。かつては天海女の人間の博士の頂点に立ち、戦闘従属生物の生産をおこなっていた者だ」
 カリンビールも露骨にいやそうな顔で言った。
 この性格は昔からのものらしい。
 彼女はずかずかと部屋の真ん中に進むと、法呪緩衝域として用意された鉢植えのひとつに、どっかりと腰を下ろした。ぱたぱたと掌で顔をあおぎながら言った。
「やぁね。ここ暑いわね。冷風扇はどこよ」
 さすがに居あわせた者、全員が気分を害した。
 講堂はいま、そのようなことに頓着している状態ではないのだ。
「だから格子よ。格子。あれはどこなの? さっさと持ってきなさいよ」
 茶を催促するような気軽さでローズベイブは言った。
「……格子とはなんでしょう? 監獄の窓のことですか」
 よせばいいのにカーベルはつまらない反撃をしてしまった。
「ばぁっっかじゃないの。格子って言ったら由紀野様の格子に決まってるじゃないの」
 サインが助け船を出した。
「由紀野様の格子。ボッシュの格子のことではないでしょうか」
「わかってるわよ。きっとそうだわ」
 カーベルは悔しさと恥ずかしさに頬を赤らめて言った。
「うわ。だっさい。ボッシュの格子ですって? 最低のセンスね。なんて名前で呼ぶのよ。貴重な格子を」
 彼女の物言いは、周囲の者たちを不快にさせるに十分なものだった。
 特に女性たちは彼女が大っ嫌いになった。強烈に女性の癇に触る雰囲気をかもしだしていた。
 ローズベイブは自分の持つ雰囲気を知っていて楽しんでいる様子だった。
「カーベルちゃんっつったっけ? 由紀野様が自分の時間を使って、天海女をジャンプさせたことは知っている?」
 ……カーベルちゃん? ……彼女はむっとして答えた。
「いいえ」
「あああっ、そう。知るわきゃないか」
 カーベルはブチッと、いい音をたてた堪忍袋を荷造りテープでぐるぐる巻きにした。
「とにかく由紀野様は若い身空で、自分が老婆になるほどの時間を取り出して天海女の移送を行ったの。そして天海女は征轟丸を一度は海底深くに沈めたのよ。もう少しで勝てたんだけどね」
「そうなのですか……」
 この女は何者だ? 本当にローズベイブなのか? カーベルは天海女の戦いに詳しい彼女を信じてよいものか判断しかねていた。
「でもね。時間は簡単に消費しきれるものじゃないのよ。そういう大規模な時間法呪を使うときには、かならず時間反動を吸収するダンパーが必要なのね。って、法呪のことは私よりもあなたのほうがくわしいか」
 それは事実だ。時間遅延などの法呪においても、反動を吸収するための法呪文が折り込まれていることが普通だ。
「ただね。汎神族のやらかす時間法呪は、規模が大きすぎて、物理的なショックアブソーバーがないと法呪自体が自壊しちゃうのよ。そのための装置がこれ。まあ、時間バネってところかしらね」
「時間バネ?」
「そうよ。これってショックを与えるとちょっとだけ時間を遡るような動作をするでしょう?」
 たしかにそのとおりだった。以前にインスフェロウがアリウスの前で実演してみせたときも、格子は時間を遡った。
「……ローズベイブ様。つまり、その格子はどのように使われるのですか?」
「ひ・み・つ」
 女学生のようにきゃらきゃらと笑いながら狂気の科学者は笑った。
「カーベルちゃん。聞かないほうが身のためよ」
 脅しともジョークともつかない態度でローズベイブは言った。
「でもかわいそうだからヒントをあげるね」
「恐れ入ります」
「ちょっと! カーベルちゃん。もっとかわいく話してくんないと教えてあげない」
「えっ? はあ」
「いい? こう言うのよ。”ねぇ、ローズベイブちゃん、カーベルにお・し・え・てぇ”」
 カーベルは尾骨のあたりがむずむずしてきた。この女は何才だ?
「ほら、はやくぅ」
 サインはカーベルが拳で殴りかかるのではないかと恐れて声をかけた。
「カーベル様。彼女のはインスフェロウ様のジョークより百倍オヤジです」
 訳のわからないフォローだ。
 カーベルはあえて回りを見ないようにして、視線をローズベイブにむけた。
「……ね……え。ろーずべいぶちゃん」
「えーーっ? なあんですかぁ? 聞こえないよお。それにおねえさん、こわい顔してるう」
 カーベルは、絶対にリテイクを受けないぞ、と怒りの涙目で微笑んだ。
「ろ、ロ、ロ、ローズベイブちゃ……ん。カーベルにおし……えて」
「うふん。いいわ。つりあがった目がチャーミングよ。カーベルちゃん」
 福々しい微笑みでローズベイブは言った。
「由紀野様を若返らせるの。時間バネの中には、由紀野様が老いたのと、ほぼ同量の時間が圧縮されているわ」
「同量の時間? 天海女を戦わせるために時間は消費されたのではないのですか?」
 カーベルはすばやく涙をぬぐいながら聞いた。
「一瞬ね。反動があると言ったでしょ? 天海女を移動させるために時間の持つ力を借りたの。でもそのままだと揺り返しがおきて、時間は元に戻ろうとするのね。それをダンパーとしての時間バネが吸収して固定しちゃってるわけよ。わかる?」
 ローズベイブはとても楽しそうに解説を続けた。
「だからね。逆に言うと、格子があれば由紀野様の身体をほぼ元の年齢に戻せるのよ」
「しかし由紀野様は、アッツの丘で巨龍に滅ぼされたはずでは」
 カーベルの脳裏には、天に舞った由紀野様の身体が恐怖とともによみがえった。
「うふふふふふふふ。カーベルちゃん。白鷺様はインスフェロウとして大活躍したでしょう? 由紀野様も私の手で戦士として蘇るのよ。ほほほっ、おーーっほほほほほほほほほほっ」
 こらえきれずにローズベイブは爆笑した。
 彼女にはその用意があるのか。しかしカーベルはまだ理解できなかった。
「お待ちください。由紀野様を若返らせることと、インスフェロウを復活させることに、なんの関係があるのですか」
「それはね。うふふふふふふふふ。あのね……」
 そのとき伝令が駆け込んできた。彼はゲイゼウスとカーベルの姿を見つけると、滑り込むように膝をついて言った。
「ゲイゼウス様。カーベル様。報告いたします」
「なにごとか」ゲイゼウスが聞いた。
「汎神族・真四季様がマウライ寺、右翼堂に来寺。ボッシュの格子を持ち去られました」
「なんですって! 真四季さまが?」
 ローズベイブが悲鳴をあげた。先程までの喜びの熱気が急速に冷めていった。
 ローズベイブが言うほどの力を秘めたボッシュの格子を真四季が奪取した。それがコレクションなどではないことは明らかだった。
 神は格子の力を使って、なにかをしようとしているに違いない。想像もつかない困難の予感が戦士たちの心に暗くのしかかった。
「どーーするのよ。カーベルちゃん。あれがないとインスフェロウを復活させられないわよ」
「……真四季様はどちらに向かわれたか」
 カーベルは伝令の兵士に聞いた。
「おそれながら、真四季様のマントに匂い発信性クンフのタグを取りつかせました」
「よし。その匂いを追え。けっして見失うな」
「はっ、了解いたしました」
 伝令は訓練されたすばやい動作で部屋を出ていった。カーベルはローズベイブに聞いた。
「格子の力は由紀野様の肉体を若返らせる以外にも使うことができるのですか?」
「もちろんよ。あれは純粋に時間バネなんだから」
「真四季様は格子を奪ってなにをされるおつもりでしょう」
「知らないわよ」
 カーベルは小馬鹿にした目でローズベイブを見た。
「知らないのですか」
「あーーっ、そうね。監獄の窓にでもはめるんじゃないかしら?」
 そのとき天と地から重々しいドラムの音が三度鳴った。
 なにかが起きる合図であることが、誰の意識にもはっきりと伝わった。
 エルアレイの上のあらゆる生き物が聞き耳を立てた。
 管楽器のように細い音が鳴り、やがて太くたくましい音となっていった。
 ふと気がつくと、音はいつしか真四季の声で語っていた。
「天海女に住む人間よ。そして従属生物よ。ただちに天海女から脱出せよ」
 空と大地を覆う神の声が轟いた。
「これは命令である。ゆえあって我はこれより天海女を沈める。征轟丸とともに邪悪ないくさ船はこの世から消え失せる」
「真四季様」
 カーベルが声をあげた。エルアレイの人間すべてに聞こえた声は、間違いなく真四季のものだった。
「約束の刻はきた。天海女は敗北し、勝利は征轟丸のものとなった」
 オオン、と声のような音の楽器が鳴った。
「これより先は、我が私戦である」
 人間たちは真四季の警告を理解できなかった。私戦とは? なぜにいくさ船の戦いが終わってもなお戦いが続くのか。
「汎神族の代理人である救いの徒・ビバリンガムの導きに従い、すみやかに天海女より脱出せよ」
 人間たちの視線はいっせいに講堂にいたビバリンガムに向けられた。
「のぉ。我が使命は人間の救出である」
 ビバリンガムが言った。カーベルは吐き捨てるように言った。
「なに言っているのよ。マギーの門は海京脱出のときに、征轟丸の従属生物につぶされてるじゃない」
 真四季の声は、そのような事実に頓着することなく朗々と流れた。
「いまより六十フンの後に、天海女は征轟丸と共に沈む」
 ビバリンガムが進み出た。
「真四季様。汎神族より任を受けし救命の使徒にして、美しき花を愛する耽美の求道者ビバリンガムであります」
「バカ……」カーベルが思わずつぶやいた。
「我は既に多くの人間と従属生物どもを救いました。貴重なマギーの門を犠牲にして、命・救出の手だてを失うほどに。どうか使命と愛に燃ゆる我が手に再び超越の器具をお与えください」
 その瞬間、ドンとすさまじい音がして、寺の境内に巨大なマギーの門が出現した。
「おおっ……」
 ビバリンガムは満足げな声を上げて、薔薇の垣根のような新しいマギーの門に歩み寄った。
「ビバリンガムよ。よく義務を果たせ」
 真四季はチャンスを与えるというのだ。門を使うか否かは、カーベルたち人間の問題だ。
 彼女は言葉もなく、テーブルを殴りつけた。
「また戦うの? 今度は真四季様と? あのすさまじい法呪を使う神と?」
「カーベル様」
 ミロウドが、おろおろと声をかけた。
「聞いたでしょ。ゲイゼウス様。真四季様はエルアレイを沈める気よ。どうする? 戦う? 真四季様に戦いを挑んでまでエルアレイを守る? 真四季様は特大のバースディケーキみたいなマギーの門を下さったわ。みんなでとっとと逃げだすこともできるわ」
「おまえがそれを言うか」
 ゲイゼウスは意外にもおだやかな表情で言った。
「法呪で人が神にかなうはずもない。いかなる技術も神には及ばない」
「ゲイゼウス様。なにを言いたいのよ」
「しかしカーベル。おまえは天海女と会話をしているではないか」
「……えっ?」
「頼んでみてはどうだ。人間の望みをかなえてくれと。天海女は沈みたいのか。いくさが終わるというのに、むざむざと沈みたいものなのか」
「……天海女。聞いてる? あなたは私たちに力を貸してくれるの?」
 天海女は彼女の呼びかけに応じて答えた。
「……カーベル……」
 その声はなぜか遠く弱々しかった。
「……僕は戦うために生まれてきた。いかなる戦いにも負けるつもりはないよ」
「ありがとう。天海女。私たちは仲間ね」
「望むことが一致してうれしいよ」
「でも真四季様は、どうやってこの巨大な天海女を沈めようというのかしら。そんなことが可能なの?」
「僕を沈める方法は多くはないよ。おそらく……」
 着崩した甲冑のひどい音をたてながら、若い兵士が講堂に駆け込んできた。顔面は蒼白にひきつれて、恐怖に目を見開いていた。
「ゲイゼウス様! カーベル様。たいへ……き、急変です。征轟丸が海中から現れました」
「征轟丸が海中から?」と、ゲイゼウス。
「とにかく外へ! せ、征轟丸が……征轟丸が」
 カーベルは言葉を失うほどの驚愕に捕らわれた兵士を押しのけて寺の外に駆けだした。
 ぶおう、と風が押し寄せた。
 瞬間、カーベルは自分の目に映ったものを理解できなかった。
「……まさか……」
 そして彼女もまた口を閉ざした。
 巨大なエルアレイの中央に位置するマウライ寺から海までは遠い。
 しかしその場からも征轟丸が見えた。それはありえない光景だった。
 征轟丸の四角い巨体が、海を割って垂直に姿を現したのだ。
 船体の一辺を真上に向けて、四十ケーメンツル四方の壁として垂直に立とうとしていた。
 漆黒の船体が、すさまじい勢いで海中からそそり出してきた。
 膨大な海水を天高くまき散らしながら空に登っていく巨体は、あまりの速度に灰色の滝を逆さに見ているような錯覚を覚えさせた。
 逆巻く海水の飛沫が、七色の虹を二重に三重に描き出した。
 しかし虹を映す太陽の光もたちまち遮られた。
 ……どおぉぉぉん……
 轟音がいま、寺に届いた。
 止まらない雷のような爆音が、津波のようにエルアレイ全土を覆い尽くした。
 それは澄みきった青空の下で、幻想的とも言える光景だった。
 青くかすみのかかった地平線の彼方。蜃気楼のように美しい海水の大爆布が、紺碧の空に向かって昇っていった。
 エルアレイには劣るものの、征轟丸もまた一辺四十ケーメンツルの巨大建造物である。まるで世界が地平線で折れ曲がったかのように、視界のすべてが征轟丸は覆われた。
 周囲を圧する轟音の中で、頂上はたちまち空の彼方に姿を消した。
 太陽の光が遮られて、時ならぬ夕闇が周囲を包んだ。
 既にどれだけの部分が海面に出たのか誰にもわからない。
 雲をも突き抜ける垂直の壁は、遠くの大陸からも見えたという。
「…………!」
「……!」
 人間たちは懸命に叫び合うが、地を割る大音響のためにまったく聞こえない。
 明かりを失った世界に、人と人のコミュニケーションまでが完全に奪われた。
 いまや人々は、それぞれに恐怖する哀れな子供にすぎなかった。
「……これが、ちから……」
 カーベルは吹きつける冷たい暴風に耐えながら、ぎりぎりと征轟丸を睨みつけた。
「カーベル様! ミロウドです」
 象形音が耳元で鳴り響いた。それは耳飾りにした板符に、直接働きかけるミロウドの意志だった。
「サイン様の分析が完了しました。征轟丸は船体を全て空中にさらしたのち、エルアレイにむかって倒れこむつもりです」
「なんですって? そんなことをしたら……」
「征轟丸の船体は、位相空間に隠されていた部分も全てさらけ出しています。突起物までいれると五十ケーメンツル四方近い構造物が、その高さから落ちてくるのです。征轟丸もエルアレイも跡形もないでしょう」
「大陸にまで津波が及ぶわ」
「征轟丸は、エルアレイの上にあって戦いに勝利します。これが約束の刻なのでしょう」
「神々は……こんなことをお許しになるの、何万人もの人間が、数えきれない生物が死ぬわ」
 陰鬱な声の天海女が言った。
「征轟丸は僕にとどめをさすつもりだ」
「天海女。なぜそこまでしなくちゃいけないのよ。勝負はついたんでしょう。これは征轟丸の意志なの? 真四季様の意志なの?」
「真四季様の意志であり、汎神族の総意だ」
「なぜ!」
「彼らは見てみたいんだよ」
「……なにを? 私たちが滅ぶ様を?」
「カーベル。僕のカーベル。ごめんね。残念だけど彼らはあなた達のことなど眼中にないよ。彼らは僕と征轟丸が激突するショーを見たいだけだよ」
「……まさか……」
 カーベルは全身から力が抜けていくのを感じた。
 いままでの戦いはなんだったのか。人の大地を守る戦いであったかもしれない。しかし愛するエルアレイの神を守ろうとする、純粋な動機も間違いなくあったのだ。
 しかし汎神族は人間たちの行いを顧みることはなかった。
「……天海女。聞かせて。私はどうしたらいいの? いまから私たちにできることはなに?」
「…………」
「天海女!」
「僕は……あなた達は脱出したほうが良いと思う。どうすれば征轟丸を止められるか、僕にもわからない」
 エルアレイの地平線から、いくつもの白い煙の帯が空に向かって飛んでいくのが見えた。それらは征轟丸の黒い巨体に白い光を広げて消えていった。天海女が反撃を開始したのだ。しかしまったく無力な攻撃だった。
「……わからない。私にもどうしていいかわからない……。でも、まだあきらめたくない。まだ。ぜったいに……きっとできることがあるはずよ」
 カーベルは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。そして振り返って言った。
「ゲイゼウス様。残った者たちをエルアレイから脱出させる決定は私の分を越えます。マウライ寺の総意で決定してください。そしてなにより佐竹様の御身の大事をよろしくお願いします」
 ゲイゼウスはいぶかしげに聞いた。
「カーベル。おまえはなにをするつもりだ?」
「真四季様が私戦を戦うのならば、私も己の戦いをします」
「おまえの戦いとは?」
 カーベルは熱い瞳を、憎いローズベイブに向けた。そしてゲイゼウスに言った。
「インスフェロウを蘇らせます」
「カーベルちゃんゴーゴー! ラブリーな格子を取り戻してね」
 ローズベイブは楽しくて仕方がない、と言った風情で、瞳をらんらんと輝かせて踊った。
「インスフェロウを蘇らせるためなら、法呪にでも機械学にでも魂を売るわ」
 カーベルはインスフェロウの血が染みたグローブにキスをした。それは海京からの脱出のときに、血まみれのインスフェロウを抱いたグローブだった。
「カーベルちゃん。金龍を使うといいわ。すっごいんだから」
「すごいんですか」
「ずっこんぎゅるぎゅるよ」
 頬に手を当ててローズベイブが言った。上気した頬が意味ありげだ。
「…………」
 カーベルは金龍を見た。ピンクゴールドの眼は、不思議な知性をたたえていた。
 金龍はインスフェロウと同じくローズベイブの手によるものだ。彼らは共通の魂を持っているのかもしれない。ローズベイブはカーベルの気持ちを見透かしたように言った。
「金龍はインスフェロウの前に造ったのよ。インスフェロウの基礎技術は全部使ってるわ。あなたならわかるでしょ?」
 カーベルはそれに応えることなく、遠慮なしに金龍の首にうちまたがった。金龍は従順に彼女のたずなさばきに従った。
 龍の肌は鋼鉄のような鱗で覆われていた。カーベルはその冷たさを脚に受けて、力がみなぎるのを感じた。
「借ります!」
 金龍は四本の脚で、ライオン獣よりも速く大地を駆けた。

 

 

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