彼らは走りつづけた。
倒れる者を抱き起こし、傷ついた者をひきずって。
エルアレイの人間が、ロスグラードの兵士たちが、海京の戦士たちが、お互いに楯となり、肩を貸して走りつづけた。
知性低い奇機までが、従順に彼らの命令に従った。体格の良い奇機の背中には、傷つき倒れた者たちが縛りつけられていた。
「ビバリンガム、まだなの。 マギーの門はいったいどこ?」
カーベルの鋭い叱責に、ビバリンガムは張りついた微笑みで答えた。
「もう五度目の問いぞ。カーベル。あと一ケーメンツルだ」
「さっきもそう言ったわ」
「あれから十を数えるほどしか過ぎていない」
カーベルの甲冑に残された板符も残りわずかだ。兵士たちの装備も底を突いている。法呪による戦いは人間の身一つでもできるが、法呪具なしでは法呪構築のスピードにおいて、実戦を戦うことは不可能だ。
新たな征轟丸の従属生物がはるか後方に現れた。
接近戦が不利と知った彼らは、強固な金属槍を飛ばす射出兵器を持っていた。射程ぎりぎりから竹串をばらまくように、槍が飛んできた。
「イシマ将軍。迫撃炸裂弾。残弾二です」兵士が報告した。
「かまわん。全弾撃て」
「第五小隊。迫撃弾全弾撃ちます」
肩に担がれた砲身から、必殺の砲弾が発射された。
通路の彼方に姿を現した征轟丸の従属生物らに、白い煙を引いた砲弾が炸裂した。従属生物の金属質な悲鳴が上がり、動きが止まった。
「御敵退く炎を野にひく」
海京の戦士たちの強烈な火炎法呪がとどめに放たれた。
いまだにうごめく怪物たちの頭上を、青い火炎がなめつくした。
「どうだ……」
イシマは希望を込めて目線をこらした。
双眼鏡を手にした兵士が報告した。
「将軍。まだ一体、巨大な生物が生きています。こちらに向かってきます」
すぐにその姿は肉眼でも見えた。カーベルの甲冑に似た、法呪戦用装備を装着したライオン獣だ。七メンツルはあるだろう巨体が怒りに震えた。ライオン獣はすさまじい殺気をまき散らして走りだした。
兵士の間から失望のため息がもれた。
「だめだ……」
突撃デュウに残弾を残す兵士が最後列に移動した。海京の戦士たちは、腕と指をからませて攻撃法呪の構築を開始した。しかし誰もがライオン獣を倒せるとは思っていなかった。
カーベルは小さく息をついて呼吸を整えた。
「……ビバリンガム。死んでも魅寿司様をお守りしなさい。負傷者の内、移動できる者はマーナ外尉の指揮でマギーの門を目指して。移動できない負傷者は、ここに残りなさい」
カーベルの覚悟が皆の頬を引きつらせた。
「イシマ将軍、ミロウド様。カリンビール。そして第七、十二小隊は、申し訳ないけれど私といっしょにここに残ってください」
「うむ」イシマが決意をこめてうなった。
「はい」ミロウドは、ザイスの短デュウをお守りのように胸に抱いてうなずいた。
「おそろしきカーベルよ。魅寿司様を守ると言うのだな?」
ビバリンガムが、剃刀のような目で言った。
「あなたを信じるわ」
「人を犠牲にしても、魅寿司様を守ると言うのだな?」
「神を守り、人間も守る」
「情念の女よ。おまえの正義は、正しく報告しよう」
「……なにを言っているのかわからないわ。いいから早く行きなさい。もし魅寿司様と彼らになにかあったら、ぜったいに許さないわ」
カリンビールとミロウドは、彼らとビバリンガムのあいだに三重の物理障壁を構築した。彼らの迎撃が失敗しても、わすかの時間を稼ぐためだ。そしてそのこ
とは、彼らの逃げ道をも閉ざすことを意味した。小隊が突撃デュウの射撃を始めた。弾はライオン獣に命中しているが、怒りをあおるだけだった。
「カーベル様。来ます」
ミロウドがカーベルの手を握りしめた。その指先は小さく震えていた。
カーベルは強く手を握りかえして、攻撃法呪を展開するための予備法呪文を唱えだした。
「華散り根枯らすころころの、四季の真なるそのひとつ、雪の鋭き切っ先を……」
「ぐぎゃああああぉぉぉおおっ」
ライオン獣が跳躍した。
家のような巨体が空中に舞うこと自体が奇跡だった。
黒い死の塊は、真っ赤な目だけを光らせた。
カーベルたちの時間法呪が一瞬だけライオン獣を空中に止めた。
しかし全身を覆った甲冑の反呪場が、見るみるうちに時間法呪を解呪した。
「カーベル様!」
ミロウドが狙われていた。
眼前に迫るライオン獣の牙に、ミロウドは助けを求めた。
空中からじりじりと降りるライオン獣は、裂ける口で舌なめずりをした。
自らの死の瞬間を見つめる少女は悲鳴すら失った。
「ミロウドさま! 逃げて!」
カーベルは叫んだ。無意味なことと知りつつも。そして彼の名を呼んだ。
「……インスフェロウ…………!」
そのとき蟻の脚よりも細い光格線がライオン獣をつらぬいた。
目には見えない一万本の光の束だ。数万度の高温が獣の岩のような頭蓋骨の中でひろがった。
「ぎゃ……!」
ライオン獣が悲鳴を上げた。
熱い血しぶきをあげて頭が水蒸気爆発を起こした。
「あぶない!」
イシマがカーベルとミロウドを体当たりではじき飛ばした。
どおっ、と地響きをたててライオン獣の巨体が地面に落ちた。
桶をひっくりかえしたような血の塊が、人間たちを押し流した。
「あ……」
カーベルは言葉を失った。
倒れたライオン獣の背中に、どす黒いローブをまとった巨人が立っていた。
「インスフェロウ……」
しかし彼女の巨人は、ゆっくりと倒れていった。
「インスフェロウ!」
複雑な甲冑のために、ひとり流されなかったカーベルが駆け寄った。
重い彼の身体を仰向けにした。その目には金の光がなかった。
カーベルの背中が、ぞっと総毛立った。
「インス。インスフェロウ! なに死のうとしてるのよ! だめよ。あなたには死ぬ自由なんてないんだから。インスフェロウ!」
カーベルが絶叫した。胸もとから激しく血を吹き出すインスフェロウのフードを鷲掴みにすると、ひきずるように持ち上げた。
「インスフェロウ。インスフェロウ! 命令よ。死ぬな。ぜったいに死んじゃだめだ!」 強さと絶望を秘めたカーベルの瞳が怒りに燃えた。拳を堅く握りしめた右手が高く上げられた。
「インスフェロウ!」
二発、三発。強烈な往復パンチがインスフェロウの顔面に炸裂した。
「…………」
しかし彼は傷ひとつつきもせず、彼女の声に応えることもなかった。小さな鼓動が胸の奥にあることを示すのは、規則的に吹き出す真っ赤な血だけだ。それは生命の神秘であり皮肉だった。
「ううっ!」
カーベルの口から悲鳴が漏れた。拳がさらに振り上げられた。
その瞬間、巨人の瞳に金の色が輝いた。
「インス! 気がついた……」
カーベルは涙が溢れだすのを止められなかった。
「……カーベル。征轟丸の従属生物はまだ残っている。我々は全滅した。同行した者たちは帰らない……」
「あなたが帰ってきてくれただけで十分よ。もういい。あなたは十分に戦ってくれたわ」
「しかしおまえたちはまだここにいる」
「魅寿司様たちはマギーの門に向かったわ」
「カーベル、私は人の従属生物だ」
「知っているわ」
「ならばなにを思い悩む。私は人の命令に従うものだ」
「そうよ。そのとおりよ」
「私はそのために造られた。……違うか?」
「違わない。ちがわない! そのとおりよ、インスフェロウ!」
ちぎれた印肢から赤い体液がしたたり落ちた。いつもは大地に根が生えたようにしっかりと立つその両足が、バッタのように弱々しく痙攣した。
「イ、インスフェロウ」
小娘のように鼻をすすりながらカーベルは彼の厚い胸に指先を当てた。
「そうだ。そのことを忘れるな。自分の本分を全うしろ。……それはおまえ自身だけのためではない。おまえが助けることのできる多くの生き物のためだ。そのために最善と考えることを成せ」
「だ……だめ」
「カーベル」
「できない、できない! あなたを失うかもしれない。そ、そんなおそろしいことが……」
バシッ、とするどい音がカーベルの頬で破裂した。彼女ははじかれた自分の顔になにがおきたか、すぐには理解できなかった。
「…………」
痛みが遅れてやってきた。
パタリ、と手を落としたインスフェロウの瞳は、再び光を失っていた。
カーベルはインスフェロウに殴られた頬を両手で押さえた。
そこに彼のぬくもりを確かめるかのように。
通路の彼方からは、いまだに従属生物の雄叫びが聞こえていた。
傷ついた仲間を回収し、大勢を立て直しているのだろう。カーベルたちへの追撃をあきらめていないのだ。声と気配が凶暴な力の集結を伝えていた。
もはや彼女たちに迎撃の戦力はない。
マギーの門へのわずか一ケーメンツルの距離が永遠にも思えた。
次の総攻撃を未然に防がないかぎり、彼女たちの生還はありえなかった。
カーベルは、インスフェロウの頭に額を押し当てた。
「インスフェロウ」
言葉をしみ込ませるように、カーベルはささやいた。
「……ミロウド様が、通路の後方に取り残されたわ。どうか助けてあげて」
それは嘘だった。
実現不可能な命令だった。
なぜならミロウドはライオン獣の血に押し流されて、彼らの前方にいるのだから。
「一人で助けを待っているわ」
カーベルは傷つきローブに血をにじませた彼をやさしく抱きしめて嘘をついた。
「…………」
声を出す力もないのか、灰色の怪人は、彼女の腕に頭を持たれかけたままうつむいていた。無惨に千切れかけて、もはや役に立たなくなった印肢が何本も肩から垂れ下がっていた。「インスフェロウ?
……インスフェロウ」
カーベルは彼の襟首をつかんで、乱暴にその首を揺らした。
「命令よ。行ってミロウド様を助けて。見つけるまで戻ることを許さないわ」
カーベルは覚醒剤注入アンプルの針を彼の首に押し当てた。強力すぎるために人に使うことを禁じられている品だ。びくん、とインスフェロウの巨体が跳ね上がった。不気味な痙攣が全身を襲う。カーベルは馬乗りになってそれを押さえつけた。
「……カーベル……・我々は勝ったのか?」
かすかに光を取り戻した眼が、にごった黄土色ににじんだ。
傷で記憶が混乱しているのだ。
いましがたの会話を覚えていないらしい。
「おまえを守ることはできたのか?」
「私を守ることだけがおまえの役割ではないわ。インスフェロウ」
「ああっ……」
「私以上に私以外の人間を守らなければならない」
「カーベル……私はおまえを守るために戦う。それが結果として人間を守ることになった」
カーベルは彼のフードに顔を埋めた。
「私はあなたに守られていたわ」
「ああ、私は嬉しいよ」
ごくん、とインスフェロウの喉が不気味な音を立てた。大量の血液がマスクを真っ赤に染め上げた。滲み出た血はそのままローブまでしたたり、染みをつくっていった。
「帰ったら、あなたのために白いマントを縫ってあげるわ」
「マントを……おまえがか?」
「ええ、ええっ。そうよ」
「……驚いた……私の記憶が……正しければ、おまえは雑巾すら縫ったことがないが」
「がんばるわ。だれでも最初はあるわ。あなたのために最初をあげるわ」
「私はこれでもうるさいぞ。リテイクを……出しても気を悪くしないか?」
「材料に最高のものを使うわ。ボーナスをもらうだけの働きをしているじゃない」
「わかった……マスクにキスマークを忘れないでくれ」
インスフェロウは震える指先を伸ばしてカーベルの口許に触れた。血糊で張りついた幾筋かの髪の毛を剥がして紅い唇を愛撫した。カーベルはその手を取り、自分の頬に押し当てた。
「インスフェロウ」
「口のところにだぞ」
「……あなたは私の誇りよ。あなたには簡単な仕事よ。早く帰ってきて。ミロウド様をおねがい」
「力が湧く。おまえの言葉には魔力があるな。私はできる気がするよ」
「とうぜんよ。インスフェロウ。最強の従属生物でしょう」
「おまえがそうしてくれた」
「ちがうわ。あなたは私や多くの人間たちに、力と知恵をくれた。勇気はあなたの名前とともにあるわ」
「おまえが涙を流さないかぎり私は無敵だ」
「……えっ?」
「涙は私情のために流せ。人として使命をになうおまえは、強い意志をもって正義を成せばよい。そのときにおまえの魂も肉体もおまえのものではない。私はそんなときのおまえが好きだ。かならず応えよう」
「知ってる? 本当はいまにも泣きだしそうなのよ?」
「それに耐えて立つ勇気があると信じている」
「わかったわ。あなたの部屋で泣けばいいのね」
「少女時代のようにおまえの鼻をかんでやろう」
「あなたのローブのすそでね」
「ああっ……それだけはかんべんしてくれ。気がつかないで外出したら、私に恋い焦がれる一千万人の人妻が幻滅するだろう」
「私はけっして幻滅なんてしない」
「自分の鼻水に幻滅する者はいないぞ」
「あなたがどんなになろうと、どんなことをしようと。幻滅はしない」
「だからといってローブで鼻をかむのは、なしだ」
「あなたが私のためにしてくれていることの、万分の一も私は知らないのかもしれない」
「おまえの下着を洗濯したことか? ……怒っているのか?」
「あなたは……いつでも私のそばにいてくれたわ」
「とうぜんだ」
石像が動く奇跡のように、インスフェロウの巨体が立ち上がった。
パタパタと、血が地面に落ちた。
「ミロウド殿を見つけ出して、連れ帰れば良いのだな」
その嘘は、インスフェロウが倒れるまで戦い続けることを意味した。
「行ってくる。カーベル」
インスフェロウが低いよく通る声で言った。
カーベルは仕事にでかける恋人を見送るように、やさしくしあわせな微笑みを浮かべて言った。
「いってらっしゃい」
ごおっ、と風が巻いた。そしてインスフェロウの姿は消えていた。
立ち尽くすカーベルの後ろから、ライオン獣の血に流されていたミロウドが現れた。
事の一部始終を見ていたイシマは、なにが語られていたかを説明した。ミロウドにショックを与えないように話したつもりだった。
しかしカーベルを知るミロウドはすべてを察した。
カーベルがインスフェロウを犠牲にしたのだと。
実現不可能な命令で、彼女たちの脱出時間を稼ぐためだけにインスフェロウを死地に送りだしたのだと。
「信じられない……カーベル様。なぜですか? あなたには生き物を慈しむ心がないのですか? インスフェロウ様は、白鷺様と知れたというのに」
「……ミロウド様。私の使命は神を救い、人を救うことだ」
「でも、だからって嘘をつくなんて。私はここにいるのに。インスフェロウ様は私を見つけられないのに!」
「それが私の命令だ」
カーベルはミロウドに背中を向けたままささやいた。
「……それがインスフェロウの役割だ……」
「インスフェロウ様を犠牲にすることが! そんな理不尽な……」
「ミロウド様! 人を犠牲にして従属生物を守ることこそ理不尽である」
「そ、それは」
カーベルは長い髪で顔を隠して背筋を伸ばした。
そして真っ直ぐに前を見た。
「甲冑を……着るときは、マスクをしろってインスフェロウに言われたっけ」
「カーベル様?」
「……どうしてマスクをしなかったんだろ……」
独り言のように唇からこぼれる言葉は、甲冑をつたい大地に沁みこんだ。
ミロウドは彼女の髪に触れようとした。
カーベルは背中を震わせて叫んだ。
「さわるな!」
「…………」
「わたしの……かおを……みるな……!」
カーベルの声はダイヤの銛よりも鋭かった。
しかしその背中は迷子の少女のように小さく見えた。
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