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インスフェロウを名乗る者

第6章−6

 

 れかけた巨龍の巨体が、祭壇を割って出現した。
「ぶぅ……ああ……ん」
 つぶれた眼の奥で、光りがちかちかと明滅した。それは巨龍のとまどいの表情だったのかもしれない。
 心地よくアリウスの「千夜一夜」に聞き入っていたはずが、唐突に声が消え失せた。
 巨龍は甘くたゆたう法呪を解かれて困惑していた。しかしそれは一瞬の躊躇だった。邪悪な兵器である巨龍としての本性をたちまちに取り戻した。黒々とした戦う力が全身にみなぎった。
「がっ、がががっ」
 崩れた祭壇の炎の中で、巨龍は濠然と身震いした。アリウスの法呪の残滓が、青白いかけらとなって飛び散った。
「おおおっ。征轟丸の巨龍!」
 海京の街を見下ろす山の上から、人間たちは巨龍の姿を認めた。
「逃げろ! 巨龍が爆発するぞ。海京を離れろ!」
 カーベルが絶叫した。ミロウドがカーベルの長い髪の端をくわえて、その言葉を拡散広告した。つまり彼女の法呪の届く範囲にいるすべての生き物に、カーベルの言葉を直接たたき込んだ。
「にげろ、にげろ、にげろ、かいきょうはきょりゅうのばくはつによりはかいされる」
 そんな言葉のイメージが、人と従属生物の心に広がった。
「かかかっかか」
 巨龍が笑った。声を出して笑い立てた。自分がいまどこにいるかを理解したのだ。
 そこは敵である天海女の腹の中だ。兵器としての巨龍の使命感が喜びに打ち震えた。
 めきめきと音を立てて巨龍の身体が変形を始めた。人ほどもある硬質な突起が全身から突き出た。
「おおっ……海京が。私の街が……!」
 カリンビールが叫んだ。
「にげろ!」
 ふたたびカーベルは言葉の強制力をあらゆる生き物に叩きつけた。
「……か……」
 巨龍が大爆発を起こした。
 それは想像以上の規模だった。海京の全ての建築物は燃える間もなく蒸発した。
 海京に仕掛けられた防御障壁自動構築の法呪がサイレンを鳴らして発動した。
 緑の杉板が家々の窓という窓から出現した。
 海京の窓ガラスの数だけ飛びだした障壁符は、しかし煎餅のように四散した。
 衝撃波は海京を構築する構造財そのものを破壊した。そして物理構造にとどまらず、位相遷移を形成している論理構造までをも破綻させた。
 巨龍の全身から伸びた突起は、それ自体が尖ったミサイルと化して、さらに深い構造に突入して、二次爆発を起こした。
 位相を繋ぐいくつもの道を、青白いプラズマと化した金属が駆けめぐった。それはすさまじい被害を広げていった。
 位相空間を走り回ったのはプラズマだけではない。幾重にも巡らされた法呪的結界が寸断された。物理的な力により破断した結界がもたらした反呪は、不確定性の作用体として広がった。
 そのことの意味は深刻だ。
 ほとんどの反呪は、物理的な衝撃となって消耗された。
 しかし一部の法呪は、衝突しあって野放しの反呪を形成した。
 鉄と鉄がぶつかり合って火花を散らすように、正体不明の呪いがばらまかれたのだ。
 反呪は予想外の影響を与えた。
 エルアレイの位相遷移が消えたことにより、次々と隠されていた構造物が現れたのだが、反呪の反動で位相固定されたまま、姿を消していくものが多数現れたのだ。
 姿を現すことなく別の位相へ去っていくものもあれば、カーベルたちの位相に姿を現したのち、周りのものを巻き添えにして、再び位相遷移していくものもあった。
「カーベル! 結界を張れ! 巻き込まれるな」
 インスフェロウが叫んだ。言われるまでもない。カーベルは貝氷と呼ばれる物理耐性を持つ結界を構築した。
 しかし数万度に達するプラズマを受けたならば、いかなる結界といえども、濡紙のように破れることだろう。
 

 確実にエルアレイの質量は増していった。
 失われた構造物は膨大だが、それでもなお位相遷移を解かれた様々な物量はすさまじかった。
 エルアレイ全土が地震に見舞われた。
 海は泡立ち、不吉な波が四方八方の海に広がった。
 エルアレイから吹き上げられた正体不明の破片が海に落ちて、とぎれることなくしぶきが上がった。
 おもいもかけない海面から、位相遷移を解かれた構造物が飛びだしてきた。彼らの作戦はいまにも成功するかに見えた。
 しかしそれを阻止しようとする意思の力が海京に現れた。
「ィィィィイイイイキキキキィィィィィィン」
 カーベルたちの近くで、完璧な高速言語が轟いた。
 同時に彼女たちの周囲で暴れる反呪が納められた。
「なに?」
 カーベルがいち早く声に気づいた。人間たちが振り向いた先には、漆黒の女神が立っていた。
「魅寿司様!」
 魅寿司は、自分の背丈ほどもある金房の巻物を掲げていた。
 絶唱するソプラノ歌手のように大きく開けた口から、途切れることなく高速言語が流れだした。
「ア・ア・アッァアィィィィィィィィン」
 見るみる構築される法呪は、巨大な巻物から位相係数を紡ぎだしていった。人の目には真紅の紙切れにしか見えない、生物ではない者たちが、マリンスノーのように降った。
 真紅の紙切れは、自らの背に法呪文を浮かび上がらせて、空間の位相係数を書き換えていった。安定していく位相空間に、反呪は意義を失い、どんどん自滅していった。
「まさか……そんなことができるなんて」
 カーベルがうろたえて言った。汎神族の技と技術は人間の想像を超越していた。
 人の眼にも位相遷移が安定化していくのが見て取れた。海京はふたたび以前の位相へ定着しようとしていた。
 このままでは海京は位相の彼方に消えてしまう。天海女の崩壊が停止してしまう。
「おやめください。魅寿司様。これは天海女を救うための事業です」
 ミロウドが懇願した。しかし魅寿司は聞く耳を持たずに巻物状の装置を駆使して、位相遷移の再構築を進めていった。額には玉の汗が浮かび、美しい顔には幾筋もの黒髪が張りついていた。
 女神もまた必死なのだ。
「どうか! 魅寿司様」
 思い余ったミロウドは、短い法呪を走らせて魅寿司の足元で閃光を光らせた。
「ぅんむうううっ」
 高く華麗な声が雄牛のようにうなった。
 髪を振り乱すすばやさで振り向いた魅寿司は、伸ばした左手の鋭い爪先を素早く動かして印を切った。
「きゃああっ!」
 見えない空気の塊が景色を歪めて撃ちだされた。風を巻く轟音を立ててミロウドの小柄な身体が吹き飛んだ。
「浅はかなる愚か者どもめ。この不遜なるはなにごとか」
 怒りに満ちた女神が怒りに震えて言った。
 人間たちはその形相と言葉に震えおののいた。
 しかしカーベルは魅寿司の目にとまどいと焦りの色が浮かぶのを見ていた。
「そう……」
 カーベルがつぶやいた。
 少しずつわかってきた。
 エルアレイの沈没が、天海女撃沈が、実際にはどのような姿を取るのかは汎神族にもわからない、と真四季が言った。それ真実なのだ。
 神々も己の行動が予知の内と知った上で、今、彼らにできる最善のことをしているにすぎないのだ。
 人間の仕業をすべて放置してもよいのかもしれない。しかし予知の実現に向けて最大限の努力をしなければならないのかもしれない。
 その選択の答えを、汎神族は持ってはいないのだ。
 ならばこそカーベルは、彼女が良しと思える方法で天海女と佐竹と人の生活を守ろうとした。
「カマンズ外曹! 魅寿司様をデュウで射撃しろ」
 カーベルが命令した。
「はっ、しかし……」
「三点連射。四回実行。佐竹様は我らの働きをお褒めくださるぞ」
「はっ」
 すばやく走った若者は、よく訓練された身のこなしでデュウをかまえた。
 魅寿司はふたたび法呪に没頭して彼を見ていない。
「……うっ……」
 カマンズの口からうめき声が漏れた。
 銃口の先に立つ御柱は汎神族だ。
 あらゆる生物に作用する汎神族への尊敬と敬愛が、猛烈に心をかき乱した。
 まるで太陽に狙いをつけるかのように、まぶたは眩しさに震え、指は躊躇した。
「撃て!」
 カーベルが強制言で命令した。それは単純な行動を他者に強制する法呪だ。
 パパパッ
 乾いた音とともに、炸裂弾が放たれた。
 それは魅寿司に命中すると思われた瞬間、あらぬ方向で炸裂した。
 何らかの防御法呪が展開されたのだ。
「下郎!」
 魅寿司の意識がわずかに逸れた。
 その瞬間をカーベルは待っていた。
 甲冑のポケットから塩をつかみだして頭からかぶった。自らの帯びるすべての法呪を隔絶した。
 そして背中にくくりつけたかつて一度も使ったことのない刀を抜き放った。
 蒼く塗られた法呪的に不活性な刃を腰だめに構えて、魅寿司に体ごとぶつかった。
「……かっ……は……」
 空気の抜ける音がして、美しい女神の動きが止まった。
 カーベルは刀を魅寿司の腹につき立てた。
 短いが鋭い刃は、魅寿司の脇腹から、背中に突き抜けていた。
 武道の心得のないカーベルだ。切っ先は肉を貫いただけだった。致命傷はおろか、内臓にも傷をつけていなかった。
「なぜ……なぜ……このような仕打ちを……私はなぜ人の手で……」
 そそり立つ魅寿司の巨体に、カーベルの視線は胸までしかとどかない。自分の手が握る剣の切っ先が、女神の腹の中に消えていることの不思議が、少しずつ意識の中にしみ込んできた。
 甘い香りの真っ赤な血が、二筋ほど細く流れだしていた。
「……あっ……ああ……」
 定着した佐竹の記憶と、人としてのカーベルの記憶が、意識の主導権を握ろうとして激しく争った。
「おおおっ、おおおお。なぜだ……」
 使命も忘れて魅寿司は泣き出した。
 金房の巻物が、ごろんごろんと地面を転がった。
「なぜ私がこれほどの仕打ちを受けねばならないのか……ああああっ」
 魅寿司は腹に刺さった刀に触れる勇気もないままに、おろおろと身もだえし、ひたすら自らの不幸を訴えた。
「人の娘。私を傷つけたカーベル……私の行いをことごとくさえぎろうとする娘」
 カーベルの頭を女神はおし抱いた。
「私にあらがい、いくさの正義を破壊する意志のカーベル。呪わしき人間よ。私を助けろ。私の傷をいやし。この耐えがたい痛みを拭いされ」
「……なに……を?」
 カーベルはあまりに傲慢な要求に、人としての記憶と意識を取り戻した。戦っている相手に救済を命ずる論理とはなにごとなのか。
「むむむう。血が流れる」
 魅寿司は巨体をカーベルの上にあずけた。すがりつくように体重を彼女に乗せてきた。
「ああっ」
 反射的に抱きかかえてしまったその身体からは、強烈な神の香りが立ちのぼり、カーベルを恐慌に陥れた。
「我は汝を呪うぞ。いかように呪ってやろうか。汝の身体を指先から腐らせてやろうか? 手足を千切り、汝の名前を刻みつけて国中にばらまいてやろうか? 顔をつぶしたリ・ラヴァーを千も造ってさらそうか」
 神の血が頬を濡らした。カーベルの心臓は、破裂せんばかりに鼓動した。
「み、み……ずし……さま」
 刀を引き抜き自らの喉に突き立てたい衝動と、女神の心臓を握りつぶしたい殺意がカーベルを襲った。
 手が刀の柄を握りしめた。
「魅寿司さま…………!」
 その瞬間、魅寿司の身体が後ろから引き起こされた。
 カーベルの視界に光りが戻った。
 何者かが神の巨体を抱き起こしていた。
「よくぞ神の動きを止めた」
 金の瞳が三日月型に笑って言った。
「……イ、インス……インス……」
 もつれる舌でカーベルが言った。
 そこにはたのもしい金色の眼が輝いていた。
 神を手にかけたことを、なにげないことのように言いくるめる彼の言葉に、カーベルの心は狂気の淵から連れ戻された。
「カーベル、うまいぞ。それでいい。みごとに神をおさめた」
 弱々しく泣きつづける女神が、自分を支える者の正体に気づいた。
「……し……!」
 女神の唇から言葉とも悲鳴ともつかない音がもれた。
 指先が鉤爪のようにこわばり、白い両腕が打ち振られた。
「キィッ…………」
 魅寿司は漆黒の髪を振り乱して、回りの人間をはね飛ばし、巨大な猫のように暴れはじめた。
 罠から逃れようとする手負いの獣の力で、美しい女神は傷から血を散らした。
「み、魅寿司様」
 カーベルが両掌を組んで言った。
「魅寿司様。いったいこれは。どうかお気をたしかに。その者は私たち人間の従属生物です。魅寿司様を傷つけるものでありません。どうか、どうか」
 しかし女神は、腹に刀が刺さっていることすら忘れたかのように、じたばたと暴れた。法呪を使うことすらせずに、人の子供のように恥も外聞もなくのたうち廻った。
「ひぃぃぃぃっ……私を殺すな。私を殺さないで」
「魅寿司様! なに? どうなってるの。インスフェロウ、魅寿司様を放して」
 カーベルは魅寿司の左手を両腕で掴むと、インスフェロウから引き離した。
「ひぃ、ひぃぃ。カ、カーベル。しらさぎさまを下がらせよ。さがらせよおお」
「えっ?」
「しら、しらさぎいぃぃ」
「ご自分を保たれよ。神よ。この者は汎神族ではありません。従属生物インスフェロウでございます」
「カーベル。おろかなカーベル! おまえは知らないのか? 白鷺様を。汎神族の戦士にして戦う記憶を遺伝する強き白鷺様を」
「魅寿司様。その御名は存じあげます。失われたカホウの丘の神。天海女の戦士にして、戦うことにもっとも秀でた記憶を持つ神でございます」
「しらさぎいぃぃ」
「しかし魅寿司様。この者は我が従属生物にすぎません」
 魅寿司はインスフェロウの手を振り切ると、腹に刀をつき立てたままでカーベルの背後に逃げ込んだ。
「み、魅寿司様」
「カ、カ……カーベル。どうかその方を私の見えないところへ下げておくれ。私の心臓が恐怖で止まる前に」
 ミロウドたちは、ことの成り行きについていけずに立ち尽くした。
「魅寿司様、動かれては傷に触ります」
 カーベルはふりむいて、傷ついた魅寿司を支えた。目を合わせないように慎重に女神の手を取った。腹から出血が始まっていた。女神の服は血で真っ赤に染まっていた。
「お……おお……ふうう……」
 魅寿司はカーベルにすがりいて、へなへなと腰を落とした。
「魅寿司様、どうかお気を確かに」
「し、しらさぎさまを……」
「インスフェロウ。下がって」
「カーベル。私は」
「おねがい。インスフェロウ」
 カーベルは困惑した眼差しで言った。
「わかった」
 インスフェロウが下がるのと入れ替えで、ミロウドが駆け寄った。
 医療の心得を持つミロウドは、刀をすばやく抜くと、薬を塗布して組織活性化の法呪文を唱えた。
「もう大丈夫です。どうか心安らかに」
 カーベルはミロウドに目配せをした。完全に治癒させるな、と。
「カ、カーベル。私はもうだめだ……」
 魅寿司は、いまにも消え入りそうな声で言った。
「……しかし救いがある……尊敬すべき戦士であり、選ばれし天海女の乗員である希有の才能。白鷺様の手にかかったとなれば、我が記憶に誉れを刻むこととなろう」
「大丈夫です。大丈夫です、魅寿司様。あなた様は助かります」
 事実、女神の傷は命にかかわるものではなかった。
「……白鷺様は美しいのぉ……」
 遠い目をして女神は言った。
 魅寿司は傷のショックで麻痺した左手を引きずりながら、右手の指先で、物理障壁の断片を構築した。それは力弱く、人が蹴り破れるほどのものだった。ただ光を反射して女神を虹色に飾りたてただけだった。
「……白鷺様。インスフェロウという名を……人にもらわれたか……」
 魅寿司の問いかけに、インスフェロウはカーベルと話す時のような優しさで応えて言った。
「監業官・魅寿司殿。私はインスフェロウという名が気に入っているよ」
「ああっ……ああ。白鷺よりもか?」
「白鷺よりもだ」
「白鷺様。あなたを祝福しよう」
「インスフェロウだ。私はもう、白鷺の名を持たない」
「イ……インス……しらさぎ……さま?」
 カーベルが口ごもりながら、その名を呼んだ。
 全身の毛が猫のように逆立っていくのを感じた。手足が不気味に冷えていく。
「それは昔の名だ」
 金色の目の巨人はカーベルを見下ろして言った。
「私の名はインスフェロウだ」

 

 

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