アリウスは巨龍をとどめる驚異の法呪を展開したまま、ショウカの丘に立っていた。
再びエルアレイを覆った陰気のせいで太陽の光は黄色く鈍い。
乾いた潮風が一時も休むことなく吹き荒れて、アリウスの白い髪をなびかせた。
彼は右の掌を巨龍に差し向けたまま、人形のように身体を固めていた。
若い身体は、しなやかな筋肉に包まれて、女性のようなシルエットを見せていた。
彼はかつて雅流という名の神の城で、老神の記憶を喰らい自らのものにした。
汎神族の記憶を物質化した知塩は、彼の全身を冒して、アルビノのような白に染め上げた。それは人の目には花嫁衣装のように清い白に見えた。
彼の眼前、わずかに数メンツル先に、巨龍の生臭い顎があった。
さしもの巨龍も、激しい戦闘の果てに傷ついていた。生体部品が多い身体は腐敗が進んでいた。神の機械学である巨龍は息をしないが、崩れた肉はひどく痛んでいた。
アリウスたちを包む悪臭はゾンビロウのはらわたもかくや、と思われるほどに激烈だった。
彼をはさむように、二人の僧兵が膝をつき、じっとうつむいていた。
アリウスの呼びかけに応じて行動を共にした者たちである。しかし二名の姿は、奇妙に薄らいでいた。まるで陽炎のように、はかなく消えようとしていた。
「ニックリイ殿……ソラ殿……。お二人のお命を賜ったことに感謝します」
それはアリウスから僧兵にむけた、声にならない感謝の言葉だった。
「アリウス殿……エルアレイを防衛する楯となるならば本望です」
ニックリイという名の壮年の僧兵が心話で答えた。
彼はエルアレイに移って二年の時が経っていた。諸国を巡る修行の旅の途中で、現実の法呪戦が戦われるエルアレイを知り、望んでこの島にやってきたのだ。
どこか遠くの故郷には老いた両親がいるという。
ソラは僧兵には珍しく、腰までも髪を伸ばした青年だった。それは願掛けであるという。
天涯孤独の彼が願うものがなにかを誰も知らなかった。しかし明るく優秀な法呪の使い手である彼は皆に愛されていた。
「アリウス殿……たとえ……この身が法呪滋養として消費されようと、偉大な法呪の実現を目の当たりにする栄光を思えば、なにほどのこともございません……」
ソラが意思を伝えた。
偉大な法呪と彼らが言う「千夜一夜」。
神をも滅ぼす凶悪の巨龍を聞き惚れさせて、意志をも奪い、釘付けにしている驚異の法呪である。当然のことながら、人の身でこの法呪を究めることはできない。アリウスが持つ老神の記憶があればこそ可能な法呪だった。
しかしアリウス一人の力では、千夜一夜を実現できなかった。ふたりの僧兵の命を、法呪滋養ーー法呪を喚起するための媒体兼エネルギーーーとして消費しなければならなかった。
「あなたたちを死なせるつもりはなかったのに……」
アリウスは二人に聞こえないようにつぶやいた。
薄羽かげろうの羽のように透き通った二人の命は、すでにない。巨龍の力はアリウスの想像以上に強力だった。
ものごとを深く考えないアリウスは、軽い気持ちで協力を頼んだのだった。
その結果が二人の死だった。
アリウスは涙が頬を流れるのを止めることができなかった。
「どうして僕は考えなしなんだ……」
彼が巨龍の脚を止めなければ、さらに大きな犠牲が出ていたかもしれない。
しかしアリウスは、そんな可能性よりも、目の前の彼らの死が絶えがたかった。
ふたりの命が尽きたとき、アリウスの命が削られはじめる。
ではそのあとは? アリウスの法呪が切れたのち、ふたたび巨龍は活動を始めることだろう。
焦りが心のなかに広がりはじめていた。
彼らの死を無駄にはできない。
「……アリウス殿……アリウス殿」
吹きすさぶ海風の中、切れ切れに声がした。
巨龍に据えたまま視線をはずせないアリウスは、法呪文を唱えながらかすかな意識の余裕の中で声の主を探った。
「インス……フェロウ様……?」
灰色の巨体が風を巻いて現れるイメージが流れた。
「アリウス殿」
イメージと同じ金色の眼が、強烈なインパクトで眼前に現れた。
「…………!」
アリウスの緊張が一瞬途切れて、法呪が緩んだ。
「ガッ!」
鋭く反応した巨龍が、駄々をこねてうなった。
「……雲にはべる零曰く。百万回砕けて映すガラスあり……」
アリウスの法呪が続いた。
「ぶあああふあっっ」
巨龍が奇妙な声で鳴いた。
「……まさか……」
鋭敏なインスフェロウのセンスは、目の前の怪異に鋭く反応した。
いま、巨龍が泣かなかったか?
うめいたのではない。明らかに悲しみの泣き声をあげた。
「………………」
ふたたびアリウスの声は、インスフェロウに聞き取れないなにかに変わっていった。
インスフェロウは護衛の兵士ら十人と共にショウカの丘に来た。
議場で真四季やビバリンガムたちを出し抜いたその足で、ボンバヘッドらの元に走り、選りすぐりの精鋭を引き連れて、ショウカの丘にやってきたのだ。
彼の使命は、巨龍を海京に導くことだ。
それはカーベルの計画に必要なパラメータだった。
インスフェロウは微妙なバランスの上で成立しているアリウスの法呪を守るために、刺激を最小限にしなければならないことを知った。護衛の兵士たちに、手話で大きく後退することを指示すると、清め用の水を全身に振りかけて、アリウスの足元にうつ伏せた。
「アリウス殿。どうか法呪の中でお聞きください。カーベルの言葉を伝えに来ました」
「……カー……ベル様……の?」
「巨龍を海京に導き、爆発させたいと」
「……神々の約束の刻に、協力されるおつもりか?」
「いいえ。エルアレイを人の手で沈めるために」
アリウスはものわかりが悪かった。インスフェロウは三回ほども説明して、ようやくアリウスに作戦を理解させた。
「……つまりエルアレイを壊しても、海の底につかえて……沈まないと?」
インスフェロウはアリウスが、風呂でおもちゃのアヒルを沈めるイメージで考えているに違いないと思った。
「はい」
「……でも、ばらばらにしたエルアレイが……平らなものだったら……たいへんですね」
「カーベルは、そうは考えていません」
アリウスの指摘はもっともなことだった。
しかしいまはあれこれと思い悩むときではない。
カーベルがどれほどの確信を持って行動しているのかは知れないが、人間に残された選択肢はすでにないのだ。
インスフェロウは、よく見知った二人の僧兵に礼を告げた。
「ニックリイ。ソラ。おまえたちの命を無駄にはしないぞ」
「…………」
しかし二人はすでに言葉を発する力も残していなかった。
「では、巨龍を基層圧縮する」
インスフェロウはマントをはだけて、機能義肢を展開した。
圧縮されて白い珠と化した巨龍を懐に、彼ら一行はアッツの丘に至った。そこでインスフェロウは、奇妙な異変に気づいた。
巨龍によって爆破されたアッツの丘。そして爆破の犠牲となった年老いた女神。
インスフェロウは、砕け散った女神の身体を、後に埋葬するために時間遅延法呪の黒い闇の中に固定したはずだった。
しかしなぜか女神の遺体が消え失せていた。
時間遅延法呪を解呪して、遺体を持ち去った何者かがいるのだ。
「…………」
インスフェロウは、黒い血のしみが残る大地からその者の気配を読もうとした。しかしそこに汎神族が活動した気配は感じられなかった。
「我々の知らない何者かが、この地で目的を持って動いているというのか」
第三の意志が存在する可能性は、インスフェロウにとっても不快なものだった。
ちりりん、と鈴が鳴った。
光が存在しない天海女のネットワーク網の中で、意志を持つ情報が交信を始めた。
そして言葉がつむぎだされた。
ーーはじめて気がついたようにーー
ーー君は僕に聞くーー
ーーなぜ少年の言葉で語るのかーー
ーー僕は幾万回目かの答えを言うーー
ーーいやなことを忘れるためにーー
それは天海女とアルルカンが繰り返し語った言葉だった。
自らの敗北を知る天海女。
永劫の自己嫌悪に捕らわれた哀れな戦闘マシン天海女。
しかしもう一方で、魂袋という名の心地よい忘却エンジンに捕らわれた天海女がいた。
天海女の意識は、こうも言った。
「佐竹様が目覚められた。戦いの時が巡り来る。人間たちは僕のために舞い踊る。なんと晴れがましく心沸き立つことであるか」
そしてふたつの意識は、ともに感じる想いを言葉にした。
「……酸いなあ……切なく酸い想いがするよ」
かすかな気配となって、人が感じる言葉を垂れた。
一滴の油がしたたるように、カーベルは緊張の舞いの中で、その言葉を聞いた。
音による声が聞こえたわけではない。文字を目で見るがごとく、天海女の意識がしみ込み広がった。祭の舞いの中にあって、カーベルの心は、確実に天海女と繋がりつつあった。
ーーなにを言っているのかしら……だれが? 酸い想い? ーー
どこからか若く力強い男の声が応えて言った。
「我が魂袋は、人心映す紅い鏡」
静かだが張りのある声だった。それは法呪文をよく唱えるために訓練された声だ。
「アルルカン。紅い球のアルルカン。今日も目覚めたの」
天海女が声の主に語りかけた。
「我が魂袋を飴玉のように舐めしゃぶられてはたまらぬ」
あえて人に理解できるイメージを投影したならば、十三歳くらいの男の子の姿である天海女が、アルルカンである魂袋を、両手で抱え込み舐めているように見えたことだろう。
「ぬしは酸いよ。アルルカン」
「もし天海女が我を酸いと感じるならば、それはいま人が切なく涙を流しているからだ」
彼らは、人の目には見えない光景だった。
天海女の演算世界。その漆黒の闇のなかに、ぽつんと浮かぶ真紅の珠。重力波を情報伝達に用いる天海女のネットワークの中に、忘れられたように浮かぶ魂袋があった。
もちろんそれは魂袋の実体ではない。実体はカーベルたちの眼前にあった。
魂袋はカーベルが操る法呪とはわずかに違う力で成り立っていた。
それは人間の魂である。実現した魂袋は、実体を現世に残したまま、天海女のネットワーク内でのみ作用した。
「アルルカンの魂袋は不思議だね。いくさ船である僕がこうして人と言葉を交わしているなんて」
「我が意を聞く天海女に感謝する」
アルルカンが言った。
ふたりは長く語らっていた。自我のほとんどを封じられた天海女は、苦労して人の思考方法に慣れた。アルルカンの考えと言葉は、天海女にはたまらなく稚拙
なものだったが、汎神族とは違う種への接触を楽しんでいた。意外なことに祭を起こして、天海女を慶ばせていた人間のことを、天海女はほとんど知らなかっ
た。
人間と祭りは戦うための装置の一つにすぎないものであり、天海女が干渉できる種類のものではなかったからだ。かつてはまったく天海女の興味の外にあった。
「アルルカン。あなたは不思議だ。人であるあなたが僕を慶ばせるなんて」
「天海女よ。それはあなたが神と人の世界双方に属するからであろう」
「真理を言うアルルカン」
天海女はお世辞を言った。
天海女は知っていた。自らの敗戦を。
しかし知っているが理解はしていなかった。
戦闘機械としての天海女は黙々と戦いを続けていたが、自我としての天海女は矮小化されて言葉遊びに終始していた。
アルルカンの魂袋は、そのことを助長していた。
天海女にとってアルルカンの魂袋は、甘い空想のいまを見せる麻薬のようなものだった。
「アルルカン……君はあたたかいね」
そして麻薬のように天海女を冒すアルルカンの言葉は、カーベルを海京に招くという、彼の予想もしない一手を紡ぎだしたのだった。
汎神族すら理解できない推論場により、四十年の未来を予知するいくさ船である。いかに働きを押さえ込まれていようとも、一人の人間が話そうとすることな
ど、容易に類推することができた。なぜなら推論場とはひとつの手法、ひとつの装置で行われるものではなく、様々な論理と働きの統合の末に決されるものであ
るからだ。
「天海女に聞きたい。約束の刻を迎えるまでに」
「僕の自我はこのとおりに封じられて、人と会話するまでに縮小されている。いくさ船の本体である天海女は、いまだに戦っているけれど、四十年前に計画されたとおりに動いているにすぎないよ。それは征轟丸も同じことさ」
「予定の行動をなぞっているだけだと言うか?」
もう幾度繰り返された会話だろう。
「戦いの自動人形である天海女が戦っている、というほうがわかりやすい?」
「皆が天海女の勝利を望む」
「……当たり前さ。それが未来だよ」
それは矛盾だ。天海女は約束の刻を知っている。しかし敗北することを意識していない。それこそがアルルカンの魂袋・忘却エンジンの働きだった。
天海女は感じていた。
天海女が酸いと感じる、エルアレイの地とそこに住まう神を慕う二千人住民の想い、恋人を奪われたカーベルの私怨。そして監業官たる真四季と魅寿司への敵愾心。
それはいままさに燃え上がる闘志であり、相手を打倒しようとする強い意志の力だった。
戦う存在である天海女を鼓舞するための祭者たちとは違う、自ら戦うことを誓った魂だった。それは天海女に類する意志の力だった。
「エルアレイ……天海女!」
強烈な意識の光が二者の会話に割り込んだ。
そのまぶしさに天海女は、言葉の色を橙色に変えた。
「私はカーベル!」
彼女の言葉は、サーチライトのように二者を照らしだした。
「光り強い、人間のおねえさん」
天海女が声をかけた。しかしカーベルの接触は急速に薄れていった。
まだ彼女は舞いを完成させていない。
「いまの人間のおねえさんはすさまじいね」
天海女がアルルカンに言った。
「息が詰まるほどほどに、緊張した娘だった」
「僕が海京に呼んだおねえさんだもの」
天海女が愉快そうに言った。彼らの会話に入り込んできた人間は初めてだった。
「……僕はやらなくちゃいけない……」
天海女が言った。
「熱い誓いだ。カーベルと名乗るおねえさんの私的な怒りと、種を守るための強烈な意志の力は、僕に戦う心を思い出させる」
「戦う心とな。カーベルとは、邪悪な意志であるというか?」
「殺気を火柱のように吹き上げるおねえさんだ。汎神族を恐れ、自らの限界を知る賢いおねえさんだ。でも戦うことを躊躇しないよ」
「正義の魂を持つというか」
「正義の動機がとても利己的だね。自分の恨みを大儀にすり替えているよ」
「力を持った危険な娘だな」
「大儀を果たすまでは、王国の将軍のように勇敢に戦うさ。でもそのあとは、おねえさん自身の恨みを晴らす悪人の戦いを繰り広げるよ」
「それは予知か?」
「……僕に戦う力を与えてくれた、せめてものお礼だよ」
「予知なのだな?」
「カーベルは勝つために手段を選ばないよ。海京の人達も使い棄てられるかもしれない」
「リンビールたちを? 同じ人間だぞ」
「カーベルは人間を守るためなら、少しくらいの人を犠牲にすることをいとわない、残酷でわかりやすい人だよ」
「どうしてわかる?」
「僕はいくさ船だよ。アルルカン」
「そうか……」
「僕はおねえさんの意志を尊重するよ。おねえさんは僕の戦う心を喚起するもの」
「しかし天海女。おまえの戦いは厳しいぞ」
「僕は本分を全うするさ」
天海女の意識は告げた。
「そしてアルルカン。君がいるかぎり僕は少年でいられるよ」
「なに?」
「僕は僕の敗戦を知っている。それはけっして忘れることはできない」
「…………」
「でも僕は決めたよ。魂袋の甘い力に酔おう。忘却エンジンの働きで、敗戦とあきらめを切り離そう」
「その心意気やよし。天海女」
「戦闘マシンである自動機械の僕と、勝利を夢見る自我の僕。封印をまぬがれた、わずかな僕は、魂袋の心地よさを愉しむのさ」
アルルカンは天海女の考えていることが理解できなかったが、気迫にも似た気配に圧倒された。
「約束の刻を迎える瞬間まで。たとえ約束の刻を迎えた後でも。僕は勝利の予感に胸を膨らまそう」
カーベルの踊る姿が天海女の情報ネットワークに充満した。
汗を散らし、気と匂いを振りまく人の女の姿が、幾兆もの記憶となって天海女を構成するユニットに複写されていった。
「そのためには、カーベルの戦い抜く意志の力を祭としよう。奉られて喜ぶことを誇りとしよう」
カーベルの瞳が、ライトのようにネットワーク網を照らし出した。
「陰気を巡らし法呪を練りあげ。もういちど凶悪な本性を取り戻そう」
邪悪な気配が魂袋を取り囲んだ。
「触れるものを腐らせて、仇なす者を打ち砕く。僕はいくさ船・天海女さ」
天海女の覚悟は、船体の隅々にまで広がり浸透した。
しかし名を呼ばれたカーベルは、そのことを知る由もなかった。
大地としてのエルアレイ。
宝島という意味のエルアレイ。
その名をつけたのは人間だ。
幸せなことに、天海女はそのことを知らなかった。
|