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人の街・海京にある

第6章−1

 

 あざあ、とお湯が流れる音がした。
 白い湯気が、稲妻状に湯面を走り、風に吹かれて空に消えた。
 浅い露天湯に三人の人間が倒れていた。
 彼らは、漆黒の闇がクンフを産みだすように虚空から姿を現した。
「…………」
 仰向けに寝て、湯につかった三人は、耳をひたす湯の音に呆然としていた。
「うっ……」
 カーベルがひじをついて、ゆっくりと体を起こした。
 長い髪から、白みがかった湯が流れ落ちた。
「ミロウド様……ザイス……生きてる?」
「この香りはいったい……」
 ミロウドが細い声でささやいた。湯気にまじって甘酸っぱい匂いがしていた。それは覚えのある香りだった。
「カーベル様。甲冑が」
 ミロウドが指さしてのは、カーベルが握りしめていた甲冑だった。
 湯につかった赤金色の甲冑から、黒っぽいなにかが流れだしていた。
「……あっ!」
 それが女神の血だった。カーベルはあわてて甲冑を湯の外の地面に引き上げた。
「なんですか? まるで血のような……」
 ミロウドがいぶかしげに聞いた。
「ごめんなさい。ぼ、僕の血かもしれません」
 消え入りそうな声でザイスが言った。
「ああっ! だいじょうぶ? すごい鼻血。どうしたのよ」
 カーベルが驚いて叫んだ。
 ザイスは、顔面を切られたような大出血を両手で押さえていた。
「いえ、あの」
 と、言いながら、彼の視線はミロウドから離れない。
「えっ?」
 ミロウドは恐るおそる自分の身体に視線を落とした。
「きゃあああ」
 薄い着物がお湯でぴったりと身体に張りついていた。
 あまつつさえ透けていた。
「こおの、青春小僧。ミロウド様に欲情するなんて四十年早いわ」
 赤面しつつお湯から上がってきたザイスの頭を、カーベルは拳で殴った。
「たっ……も、申し訳ありません」
「ほおら、湯上がりの美人のおねえさんよ」
 カーベルは濡れた髪を首筋からかきあげて、なまめかしく胸をそらしてみせた。
「はあっ」と、気の抜けたザイスの返事。
 がくん、とカーベルは肩を落とした。
「はあ? はあっ、ですって? なんだか最近、女のプライドずたずたよ。おっかしいなあ。男には負けるし、ミロウド様の乳首に鼻血だす小僧はいるし」
「カ、カ、カーベルさまっ。なななにを」
 ミロウドはのぼせた顔を、さらに真っ赤にして、大きな瞳をくりくりと動かした。
「う……かわいいな。ミロウド様」
 カーベルは彼女に、がばっ、と抱きついた。
「カカカカ、カ、カーベル様!」
「ザイスにはもったいないな。私がいただくわ」
「ひゃあああ」
「……ぶっ」
 ミロウドのすっとんきょうな悲鳴にカーベルとザイスは吹き出してしまった。
「あははははは、ごめんね。ごめんなさい、ミロウド様」
 湯からあがった彼らは、やっと周囲を見渡した。
「……これが海京……」
 ミロウドがつぶやいた。暗く闇に沈む街は、あきらかに人の街だった。
 どこか東洋風に見える木の家並みは、異国情緒を感じさせた。
「このどこかにアルルカンがいる」
 カーベルが言った。彼女はあたりの気配を探るように、空気の匂いを嗅いだ。
 ザイスが短デュウを構えてカーベルたちの前に立った。
 彼らがいるところは、街の中央らしかった。
 黄昏時のような淡い明かりのなかで、彼らは回りの家並みを見ていた。
 カーベルたちの立つ広場はいびつな八角形をしていた。
 広場を中心にして、九本の道路が放射状に伸びていた。
 彼らの背後には、位相遷移の出口に使った、祭りやぐらの残骸があった。
 そこはもともと禊ぎのための設備らしかった。覆いもなく浅い湯場は、明らかに浴場ではない。なにより祭りやぐらの下にあることからして、日常のものではありえなかった。
 それはかなり昔に壊れたように見えた。しかしいまだに強く法呪の力を宿していた。
 湯はやぐらの下からこんこんと湧き出していた。
「人の……人の街ですね」
 ミロウドが不思議そうにささやいた。
「ええっ」
 カーベルは初めて見る不思議な町並みに目を奪われた。
「天海女(あまあま)! 聞こえますか。私たちはどこに行けばよいのですか」
 カーベルが声を上げて聞いた。
「天海女。なぜ私たちを海京へ導いたのですか」
「我々はここで祭りを行うのですか」
 しかし天海女からの答えは返ってこなかった。
「カーベル様。私たちの目的は……」
 ミロウドがカーベルの耳元でささやいた。
「そう。あくまで海京の破壊よ。天海女に導かれたとは言え、捕らわれることはない。私たちの目的を忘れてはいけないわ」
「カーベル様……!」
 あたりを警戒していたザイスが、低い声で警戒を発した。
 ザイスは若く小柄な男である。まだ十七才、少年と言ってよい歳だ。
 真っ青な瞳の、とてもきれいな顔をしていた。酒場の女たちは、彼を女装させたい、などとよこしまな妄想を抱いていた。人好きのする、かわいらしい若者だった。
 その彼が腰をかがめて構えるので、カーベルよりも頭一つ低い。
「カーベル様。お気をつけて。人がいます」
 ザイスの視線の彼方に人影が立っていた。それは奇妙なほど動きのない姿だった。
「……彫刻ではないの?」カーベルが聞いた。
「カーベル様。あそこにも」
 ミロウドが彼らの背後を指さした。いや、それだけではなかった。薄暗闇の中、よく目を凝らすとそこかしこに人が木のように立っていることがわかった。
「これは……魅寿司様の時間法呪と同じ……」
 カーベルはその内の一人に近づいてつぶやいた。
 暗くシャドウのかかった人影は、魅寿司が縞馬を使ってエルアレイの人々を拘束したのと同じ種類の法呪であることがわかった。
 おそらくは四十年前の敗戦の時から、彼らは時間の闇に捕らわれていたのだろう。
 カーベルがそっと手を伸ばして、灰色の闇に包まれた男に触れた。
「あっ。法呪が解けます……!」
 ミロウドが気配を読んで言った。
 パキパキと音を立てて、若者を四十年の長きに渡り固定していた、神の法呪が解呪されていった。
 カーベルは気づかなかったが、彼女が手に持つ甲冑にこびりついた女神の血肉が、戦いの気配を喚起したのだ。
 戦いの時を待ち、止められていた時間が再び巡りだした。それは連鎖反応のように海京へ広がっていった。 
 凍りついた街に、朝日が射し込むかのように、人を固定していた法呪が解けていった。
 湯に溶けだした女神の血は、海京の中央を流れる小さな川に乗り、深く広く染み渡っていった。
 どこか遠くで、ぱきり、と音がして、人間以外のなにかが動きだした。
 それは生き物の動く音だったが、どこか粗雑な気配だった。
「…………かっ」
 奇妙な音をたてて、海京の人間たちは声を発した。
 彼らはアルルカンによって、魂袋を抜かれた人間たちだった。
 動きだした人影がつぶやいた。
「怪しい気配が海京にあらわれた……」
 男もいる。女もいる。かつては法呪の力が強い者として、天海女の祭をになった彼らである。
 それゆえに海京の戦士たちにとって不法な侵入者であるカーベルたちの来訪と、彼女の振りまいた神の痕跡は、復活に値する異変だった。
 目覚めは海京のいたるところに広がっていった。
 かつてのローズベイブの戦闘従属生物研究所でも復活が始まった。
「戦う従属生物ども。目を覚まし、天海女のために備えよ」
 研究所で時間法呪から解き放たれた白い眼の科学者が言った。
 従属生物がねぐらを這いだした。白い眼の科学者は、鈍い動きのなかで、ぶちぶちとケーブルを引きちぎった。従属生物を捕らえていた封印が破られた。
 人の博士、ローズベイブの研究所では、新しい従属生物の開発が行われていた。眠っていた彼らに完成体は少ない。シリーズとして完成された者たちが量産される場所は別にあった。そして知性を持つ完成体たちは、天海女の敗北とともに戦場を離れていた。
 いまここに残るのは、廃棄された不完全な個体のみである。
 彼らは汎神族から「奇機(きき)」と呼ばれていた。
 戦いのために開発されて、量産に至らなかった個体は危険だ。強力な戦闘力を秘めながら、制御する術が充分ではない場合が多いからだ。
 その知性は元来高かったはずだ。しかし魂袋に供された者たちと同様に、長い時間は従属生物たちの精神をも蝕んでいた。
 全身を甲冑で覆われた、手足のあるイルカ。
 巨大な菌糸類を背中にまとわりつかせたとかげ。
 法呪的有意性を持つ模様に覆われた凶悪な昆虫たち。
 その他、人の言葉を万もつづらねば表現できない怪物どもがそこにいた。
「ごるるるるっ」
 不気味な唸り声がこだまするさまは、物語に描かれる妖怪の園のようだった。


「とまれ」
 声が現れた。
 カーベルたちは背後に出現した男の声に振り返った。
 驚く彼らの前には、見たこともない祭り装束の男が立っていた。
 青を基調としたあでやかな色をまとった壮年の男だった。
「あなたは……」
 カーベルは言い澱んだ。男の目に驚いたのだ。
 その男は瞳を持たなかった。光を白々と反射する白目を開いていた。
「そのほうら、甘く酸い神の匂いがするな。なに者であるか」
 その男、人であるカリンビールが聞いた。彼はかつてアルルカンに次ぐ祭者だった。
 褐色の肌に白い長髪。娘のように長く垂らしたまっすぐの髪には、銀色の髪飾りがいくつも輝いていた。
 四十歳を超えようか。短い口髭をたくわえた、彫りの深い印象的な顔だちをしていた。商社のエグゼグティブと言った風情の男だった。
 甘く低いカリンビールの声に誘われるように、白く染まった人間の一団が、建物の闇から姿を現した。
 短デュウをかまえようとするザイスをカーベルがさえぎった。
「我らは天海女と呼ばれるエルアレイに住む者である。佐竹様の想いを知り、天海女を喜ばせるために、ここにやってきた」
「佐竹様を知る者か」
 カリンビールが聞いた。
「しかり。我々は長く佐竹様を祭り崇めてきた」
「佐竹様は偉大な神である」
 カリンビールが合掌して言った。
「かの柱と同じく、我らの望みもまた天海女の防衛である」
 防衛。カーベルの言葉にカリンビールは片眉を上げて不快を示した。
「なにゆえに天海女を守るというか。天海女は戦う船ぞ。無敵にして、あらがう全てを攻略する最強のいくさ船ぞ」
「まて、戦士よ。ともに天海女のために戦うという、利害の一致を認めぬか」
「痴れ者めら。天海女は正しき勝利の証を得ることこそ本筋である。なにゆえに力弱きもののように防衛されねばならぬというか」
 意外な古の戦士たちの反応に、カーベルは躊躇した。
「いまや天海女は敗戦し、滅びの時を持つのみであることを知らないのか?」
「虚言を弄してこの場を取り繕おうとするならば、自らの愚かさに後悔することとなるぞ」
「戦士よ。ならば問うてみるがいい。天海女に真実を」
 カーベルの言葉に、カリンビールは眉間に深い皺を寄せた。
「正体の知れぬ、いかがわしい女。我が記憶を誤りというか」
「過去において正しい。しかし今となっては古い知識である」
「埒もない」
 カリンビールは右手を高く掲げて声を発した。
「天海女よ! 娘の言葉が正しければ鼓を打ちて音を鳴らし応えよ」
 しかしどこからも鼓の音は聞こえなかった。
 勝ち誇ったようにカリンビールはカーベルに顔を向けた。
「待て、戦士よ。質問を誤るな。天海女は応える術を持たないのだ」
「我は耳を聾す。不埒な輩よ。我ら人の祭者と、奇機(きき)が汝らを滅ぼすだろう」
「奇機?」
 カーベルの質問には答えずに、カリンビールは言った。
「娘よ。おまえの言うことには一片の真理の含まれてはいない。しかし天海女がおまえたちを、この海京にまで招き入れたからには訳があろう」
 カリンビールは手を伸ばして、広げた指先から法呪の光りをちらつかせた。淡い光に惹かれて、あわれなクンフが舞い来て、透明な羽を焼かれた。
「おまえたちの使命はなにか」
「私がここに来た理由を……私は知らない」
「なんと?」
「カリンビール。あなたが言う通り、私は天海女に導かれてここに来た。天海女の意志なくして、私がこの人の街に入れる道理はなかろう?」
「むう」
「ならば真実はひとつ。私は天海女に必要とされた者だ」
 ミロウドは心の中で、あんぐりと口を開けた。なんという詭弁だろう。
「白い瞳の選ばれし戦士よ。我々の使命は等しい。天海女の想いに奉じることだ」
 いまや広場は、いずこからか現れた奇機により埋めつくされていた。
 完成にいたらなかった数百体もの従属生物たち。身体的に、あるいは精神的に不安定なその者たちが無秩序にたむろする様は、すさまじくも恐ろしかった。
 げろげろと、奇妙な声を喉の奥から絞り出す異形の生き物。
 良い匂いのする者、腐敗臭をまきちらす者。怪物という呼び名こそふさわしい奇機どもが、言葉にならない威嚇のうなりをあげながら、じりじりとカーベルたちを包囲していった。
 赤に黄色に光る無数の瞳が鋭く明滅した。
 カーベルの肩の上で、楽蛇がうごめきだした。従属生物の敵意を敏感に感じ取り、彼女を守ろうとしているのだ。いまは透明な楽蛇が、人の目には見えないまま鎌首を持ち上げた。
 牛の頭を持つ青いケンタウロスが、化け物をかき分けて前に出た。
 角がひらめき、鋭いなにかが空を切って飛びだした。
 楽蛇の一体が、身体を踊らせて銀の手裏剣をはじき返した。
「ぎしゃあーーっ」
 鋭い威嚇音を上げて、楽蛇は反撃に入ろうとした。カーベルは、のたうつ楽蛇の尾を握りしめて、肩の上にとどまらせた。
「カ、カーベル様……」
 ミロウドがおびえて肩を寄せた。
「カリンビール。私は提案したい」
 カーベルが目線を据えて言った。
「私は天海女を讃え祀りたい。あなたならば感じるだろう。私とここにいるミロウド様は、法呪の力強き者である」
 意外な申し出に、カリンビールはしばし沈黙した。
「娘。天海女の祭りに参加することに資格はいらない。天海女を喜ばせる力を持つか否かが問われるだけだ」
「私は祭りに参加しなければいけないのかもしれない」
「この奇機どもがおまえを喰いたいと言っているぞ。おまえたちの役割とは餌になり、我々の滋養となることなのではないか?」
 冗談とも真剣ともとれる口調でカリンビールは言った。
「私が? 餌だと? このわたしがか?」
 カーベルは芝居がかったオーバーアクションでカリンビールを責めた。
「あなたは真珠を飯にたき込む愚か者か?」
 カリンビールは法呪の光りをはじかせる手を懐に納めた。
「カーベルと名乗る者よ。これから始まる祭りに出よ。そして天海女を喜ばせるがいい。おまえたちがそれをできる者たちであるならば、われらは友人として認めよう」
「それでこそ指導者だ」
「海京に集う者たちは、互いに素性を知らぬ。各地から集められた法呪の力強い者たちだ」
「天海女のためになるならば、委細は問わず、と?」
「ただし天海女が招いたものであったとしても、おまえたちが力弱い者であったならば、容赦なく放逐するぞ」
 カーベルは緊張を解かずに、言葉を選びながら言った。
「……私は海京に、これほどの人間が残っているとは思わなかった」
「決戦に備えて、力弱い者たちを放逐したのだ」
 それは違う。誤った記憶だ。アルルカンに魂袋を抜かれた者だけが残ったのだ。
「そしていま、我々は目覚めた。勝利に向かい、最後の戦いにのぞむことを天海女が覚悟したのだろう」
 それは違う。敗戦の日。約束の刻が近づいたのだ。
「あの魂袋に誓い、我々は勝利する。天海女の凱旋に同行するために」
 カリンビールがやぐらの上を指さした。
「……あれが、魂袋」
 カーベルは息を呑んだ。
 彼女たちがくぐり抜けてきた、崩れかけたやぐらの上に、魂袋と呼ばれる真紅の球体があった。
 それが人間の造りだしたものとは、とても信じられなかった。
 魂袋は人々の願いが凝り固まったものである。血を吐き身を削る想いが目に見えるまでに撚りあわされた怨念の産物である。
 本能的に触れることをはばかるその表面は、まるで人の体を裏返して肉をさらしたかのような真紅に彩られていた。
「……これがアルルカン?」
 カーベルがつぶやいた。初めて見る魂袋に意識を集中してみたが、そこからはなにも感じられなかった。
 奇機が薄気味悪くうごめく中に立って、カリンビールは厳しい目でうなずいた。
「祭りは長い。おまえに舞いの順を回そう。ただしつまらぬ舞いを演じたならば、打殺も免れないものと思え」
 カーベルは堅く口許をひきしめて了解の言葉を言った。
「カリンビール。おまえは指導者として正しい選択をしたことを誇るがいい」

 

 

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