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インスフェロウ暴力

第5章−3

 

 ルアレイの大地に陰気が満ちはじめていた。
 人間にはそれと知れない変化であったが、敏感な汎神族の従属生物には不気味な気配として感じ取れる陰気だった。
 それはどこからくるのかわからない。
 人が耕した畑の作物が、異常な成長を始めた。
 たくさんの街路樹のうち、法呪に敏感なイヨウツツジが急速に紅葉を始めた。
 いまだ街をうろついていた縞馬型従属生物が知性を失い、公園の芝生を食みだした。
「太陽がまぶしいな……」
 それは法呪の才に秀でた者たちが感じた変化だった。
 まるで暗い室内から外に出たときのように、あたりの景色が眩しく輝いてみえた。
 光がいつもの倍にもなったかのように、ちりちりと目を焼いた。
 まるで眼病に犯されて、光彩が光りを取り込みすぎるかのように眼が痛んだ。
 音が聞こえずらくなっていた。
 夢のなかの不自由さのように、不快な気配が大気に満ちていた。
 それが陰気であることに気付く者はいなかった。
 なぜならそれは人間の知らない法呪の働きであったのだから。
 神の戦さ船のみが持つ邪悪な力。
 戦いに勝利するための凶悪な法呪。
 そして汎神族にとって極めて有害な力である、陰気が満ち溢れる気配。
 人の知らない戦いの準備が、着々と進んでいた。


 急遽招集されたエルアレイ議会は、初盤から紛糾した。
 エルアレイの首都・エルワンの西端に立てられた二階建ての建物だ。表面はエルアレイの法呪的装甲板であったろう、灰色の砂岩で飾られていた。 
 大きくはない。ふつうの家を五件ほども連ねた程度の造りだった。
 土地の限られたエルアレイの中にあって、大きな庭を持つことが、特別な建物であることを示していた。
 議会は開始されてから、すでに二日が経過していた。
 しかし議題はまったく消化されていなかった。
 議題は明快だ。「エルアレイ住民の安全確保についての方策」
 それは現在もっとも難しい課題だった。
 議会に集まった議員二十人は、汗を流し、唾を飛ばして言葉を戦わせていた。
 言葉の応酬は、整理されない情報によって混乱ばかりふくらんでいった。
 カーベルらによる「ショウカの丘の神・救出作戦」と、老神の発見、保護。
 空を覆う真四季という名の神の出現と、その語るところである絶対の予知。
 ビバリンガムによるエルアレイ脱出の勧告。
 そして魅寿司によるエルアレイの遺産に係わった者の拘束。
 すべてが大事件に値する事柄ばかりであり、混乱した人間たちは、一連の事象の因果関係を正確に把握できないでいた。
 いまこの場にない情報は、老神・佐竹の目覚めと、カーベルたちの海京への出立だ。
「神は語られた。エルアレイは神の計画で沈むことが約束されていると」
「では我々は故郷のこの島を棄てなければならないのか」
「元々は神の遺産であると知って我々はここに住んだ。神が再びこの島を必要とするならば、奉還するが筋であろう」
「ビバリンガムなる者に身を任せて、本当に問題はないのか」
「望む者はそうすればよかろう。船での離島も可能であるぞ」
「数が足りない」
 マウライ寺による経済的、物理的な脱出計画は進行していた。
 しかし人間はいまだに迷っていた。
 汎神族が脱出を許さない人間たちの存在。そして真に依存すべき神は、どの神であるのか。
「諸国に援助を乞うために、アミルトンらが出張しているではないか」
「間に合うのか? あのような武人に交渉ができるのか?」
「いまから貴殿が行かれてもよいのだぞ」
「詮のないことを」
「ショウカの神はどのように遇すればよいのか」
「それはゲイゼウス殿の範疇だ。カーベルはいったいどうしたのか」
「彼女はいまだ床に伏していると聞く」
「ショウカの神は、天空の神にお渡しすべきではないのか」
「我が島に長くおられた神を、いずこのものとも知れぬ神に引き渡すというか」
「神々の論理をあなたは知るというのか」
「吾が島の神は、長く我らの知る神であれば、護るのが人の道ではないのか」
「天空の神、真四季様はエルアレイが滅ぶと言われるぞ。みすみすショウカの神に殉ずるのが道であると説かれるのか」
 議論はまとまりがなく、まったく論理的ではなかった。
「インスフェロウ!」
 たまりかねたエルアレイ島長ショーマン・ネイサンが呼びかけた。
 細身に神経質そうな彫りの深い顔。白髪をぴっちりとなでつけて、この熱い議場のなかでも、けっして議長の青ローブをはだけようとはしなかった。
 額に汗と青筋を浮かべて、ショーマン・ネイサンはインスフェロウを見た。
「人の従属生物よ。言葉を発せよ」
 丸い議場の中程で、席を温めていたインスフェロウが静かに立ち上がった。
「……満場の紳士淑女に申す。我はショウカの神を助け、エルアレイを防衛することこそ道であると考える」
「なんと。天空の神と事を構えると言うか」
「総力戦を臨むものではない。戦とは元来、国同士がその代表を用いて争う意志の強要合戦ではあるまいか? ならば人間は、己の正義を明確にし、信じて戦うべきである」
「総力戦ではなしに、天空の神と戦えとはどういうか。はっきりと言え」
「さきほど首との戦いに勝利されたイシマ将軍がご報告されたとおりである」
 イシマは首どもとの戦いに勝利したあと、まっすぐに議会に駆けつけた。
 そして子細を報告した上で、法兵たちと協力して、議場に縞馬が進入できないように、呪的障壁を構築していた。
「神々は、すべての人間を救うつもりがないことがわかった。エルアレイにおいて汎神族の品に深くかかわっていなかった者だけが助かるという。それはいったい何人であるか? エルアレイ住民二千人中、五百人か? 七百人か?」
 インスフェロウの低く通る声が議場に流れた。
「我々が、いま考えなければならないことは、七百人の移住先のみか? 残りの全てのものは、戦さ船としてのエルアレイ・天海女と運命を共にすると、既定されたのか?」
「う……む。それは」
 ショーマン・ネイサンは、インスフェロウの金の眼に射すくめられて視線を外した。
「カーベルは、ショウカの神・佐竹様を守り、エルアレイ全土の人間を守るために立ち上がろうとしているぞ」
「し、しかし。神の論理に逆らうこととなるではないか。全ての住民が滅ぼされるかもしれないぞ」
 議員の一人が言った。
「我々には、守るべき神。佐竹様がおられる」
 インスフェロウは穏やかに目を細めて言った。
「長くショウカの丘の上に魂印塔を現し、その貴い姿をエルアレイに示されてきた佐竹様が」
「ショウカの丘の神……」
 議員たちは、その名を噛みしめるようにつぶやいた。
 
 どおん、どおん。と、議場の扉が音を立てた。
 議員たちは、その異様な音に入口を振りかえった。
 扉のひどく高い位置を、何者かがノックしていた。
 堅い木の扉が震えるほどの力で、扉が叩かれた。
 ゆっくりと把手が回された。そして両開きの大きな扉が、いきおいよく開け放たれた。
「会議は踊るや」
 ちりりん、と鈴やかな音を立てて帽子が揺れた。
 議場の扉を開けて立つ異様な長身は、いまや救いの使いとしてエルアレイに名を駆せたビバリンガムだった。
「議長。我が入場を許されよ」
「……ビ……バリンガム様。どうぞご入場ください」
 ショーマン・ネイサンは、口ごもりながら応えた。ビハリンガムは両手を泳がせるように振り回し、すり足でスキップを演じながら議長席の下に進んだ。
「議長、動議である。ただちに軍を組織して、カーベルなる不埒者を捕らえていただきたい」
「カーベルを? それはいかような理由で」
「その者は、我が神、魅寿司様に……おおう、口にすら出せない、信じがたい不敬を働いた。ただちに縛し、我が元に提出していただきたい」
「神に不敬と……しかし軍とは大仰な」
「議長。私は人のルールを尊重する用意があるぞ。最大限にである。そして私はカーベルの不敬を、天海女の人の子どもを脱出させることに、つなぎ考えるつもりは毛頭ないぞ」「ビ、ビバリンガム様。つまり……カーベルをどうしろと……」
「カーベルなる娘は、恐ろしき法呪の使い手と知れる。人の子が思い上がり、己が欲望に神をないがしろにするとは許しがたい。そうであろう? 議長」
 ビバリンガムの鋭い視線に縫いつけられて、ネイサンは身動きできなかった。
 そのてかてかとした額に人影が落ちた。ビバリンガムの後ろに人の従属生物が立った。
「イ、インス……」
 ネイサンの顔がみるみる色を失っていった。
 下弦の月のようにつり上がった、金の瞳が殺気をほとばしらせた。
 ビバリンガムは振り返った。
「む?」
 ごしゃ! と、不気味な音が鳴った。
 その瞬間、ビバリンガムの長身が一メンツルも空中に跳ね上がった。
 もんどりうって床に伏した背中を、巨大な灰色の脚が踏みつぶした。
「げあああっ」
 舌を突き出す器用な悲鳴で、ビバリンガムは絶叫した。
「イ、イ、インスフェロウ。やめろ……!」
 引きつる舌で、やっとそれだけを言うネイサンを、光る黄金の眼がにらみつけた。
「ひ……ぃ」
 ネイサンは白目をむいて倒れた。インスフェロウの目から発せられた人を脅迫する強烈な意志の力が、彼を叩きのめしたのだ。
「な、な、なになんじゃれ」
 砕かれた顎から血をしたたらせて、ビバリンガムは視線を結ぼうと頭を振った。
 インスフェロウは法呪文を唱え凶悪な技を構築した。
「よりよりて熱き珠を結ぶは我が掌の内に十、三十」
 火炎招来の法呪が短くほとばしり、インスフェロウの右手が炎に包まれた。
 その岩つぶてのような拳が、風を切ってビバリンガムの顔面に叩き込まれた。
「がっ!」
 しかし伸びたインスフェロウの腕は、ビバリンガムがのけ反ることを許さなかった。
 倒れるよりも速く、燃える掌が顔面を鷲掴みにした。
「ぐっぎっっっぃ」
 じゅう、と肉の焼ける音が聞こえたかに思えた。万力のように顔を掴む赤熱の掌を払おうと、ビバリンガムはのたうちまわった。
 しかしインスフェロウはそれに頓着せずに、すさまじい怪力をみせつけた。まるで赤子がぬいぐるみを振り回すかのように、ビバリンガムの身体を上に下に打ち振ったのだ。
 幾度も幾度も床に打ちつけられたその四肢は、たちまちぼろ雑巾のように弛緩していった。
「ぐううぅぅぅ」
 インスフェロウは不気味な唸り声あげると、きんぴかのぼろ雑巾を、頭よりも高く持ち上げて、首も千切れよと議員席に投げつけた。貴重な木の椅子が砕けちり、ビバリンガムの長身が長々と伸びていった。
 人々はたったいま起きたことの意味を理解できずに、声もなく立ち尽くしていた。
「起きよ。ビバリンガム」
 インスフェロウは鋭い木の破片の山に腕をつき立てると、血に染まった艶やかな衣装を鷲掴みにして、ビバリンガムを引き立てた。
「かっ!」
 インスフェロウの口から気合がほとばしり、ビバリンガムの帽子が吹き飛んだ。
「……いいぃぃぃたやぁ。痛やああ」
 ビバリンガムが弱々しく動きはじめた。インスフェロウの鋭い眼光をさえぎろうとするかのように顔の前に両手をかざした。
「カーベルには近づくな。いずれの神の命であろうと、私はそれを認めない。いかなる正義を説こうとも、それをなす者は我が怒りを買うだろう。その身に知れたとおりに」
「ひいぃぃ。イ、インスフェロウと申すは、そちか。なんと傲慢な怪物であろう。神の命に従う我を傷つけるか」
「おまえが従うのはいずれの神か」
「神々の論理を成す神だ」
 バン、と拳が顔面に炸裂した。ビバリンガムの鼻血がパラパラと床に散った。
「審査委員会か? 松野国の神か?」
「な……なにを……なぜ、そのようなことを」
 インスフェロウの殺気が、ぎりぎりと音を立てて大気を汚染した。
「神の法呪を持ってしても再生できない肉塊にしてくれようか」
 そのとき、うわん、と空気が鳴った。なにかがこの場に干渉してきた。
「下がれ。ビバリンガム」
 空中から声が発せられた。
 空気がきらきらと光を発した。次の瞬間。そのかけらが次々と床に降り積もり、白い柱を形作った。
 内側から映像が投影されたかのように、そこに神の姿が現れた。
「我は真四季……」
 インスフェロウはどすどすと真四季の映像に近づいた。そして無造作に白い柱を蹴り散らした。
 とたんに真四季の姿は消え失せた。
 あまりのことにビバリンガムも人間たちも、呆気に取られて言葉を失った。神の技を足蹴にすることができるとは、あまりに衝撃的な光景だった。
「小賢しいぞ。神よ」
 インスフェロウの言葉に、真四季の高速言語が応えた。
「キィィィヒィィ…………ン」
 黄色く熱い光りがどこからともなく集まり、議長席の上に危険な塊を造りはじめた。
「笑止」
 バン、とマントがはだけられて、インスフェロウの数百本に及ぶ印肢が虫の羽のように、目にも止まらぬ速さで打ち振られた。高速言語をも凌駕する速度で法呪が紡ぎだされていった。
「ここに来よ」
 真四季の熱塊はたちまちキャンセルされた。インスフェロウの法呪は、その反呪をたどって真四季本人にたどりつき、神の身体を議場に転送する荒業を成功させた。
「ぎぎぎりぃぃぃ」
 空転した高速言語の悲鳴を上げながら、真四季の身体が実体化した。
 人間たちは息を飲んだ。
 水の塊が、暗い議場の天井に出現した。水球を突き破るように、言葉のしずくをまき散らして真四季が落ちてきた。
 石の床に黒い染みを作りながら、真四季は立ち上がった。
 白い監業官のローブがさらさらと流れた。その表面を水とも言葉ともつかない、銀色の粒がころがり消えていった。
 伏せた顔がゆっくりと上げられた。
「おおおっ……」
 議員たちの口から驚きとも恐れともつかない声が漏れた。
 美しくも恐ろしい汎神族が議場に立った。
「聞け、神よ。汎神族真四季よ。カーベルを害することはやめよ」
 インスフェロウが言った。
 真四季が奇妙に優しい目でインスフェロウを見た。
「……インスフェロウ……良い名だ。そしておまえは変わらずに強い」
 インスフェロウは手元のテーブルを鷲掴みにすると、信じられない怪力で床から引きはがした。
「むん!」
 重厚な議員テーブルが紙細工のように投げつけられた。
 真四季に机が激突すると見えた瞬間。机を覆って巨大な松の木の幻影が現れた。松の木は縮みはじめて苗木となり、松ぼっくりと姿を変えて真四季のつまさきに転がった。
「時間を繰り上げたか」
 インスフェロウは、真四季が行った神秘の法呪を知っているかのようにつぶやいた。
「我らは殺し合うべきではない」
 真四季が言った。
「カーベルはすばらしいな。インスフェロウ」
 ひどくなれなれしく神が言った。
「贄にビドゥ・ルーガンを選んだことを悔いても遅いぞ」
 恐れげもなくインスフェロウが応じた。議員たちは肝をひやしたが、真四季は怒ることもなくそれに答えた。
「いや。ビドゥ・ルーガンのほうが美しい。私は正しい」
「失礼な」
 汎神族と人の従属生物が談笑した。議員たちは視線をさまよわせるのが精一杯だった。
「ま、真四季様。なんとされまする。なぜそのような者と親しく言葉をかわされますか」 ビバリンガムがよろよろと立ち上がって言った。
 ショーマン・ネイサンたち人間も思いは同じだった。議員の幾人かは、ビバリンガムの元に近づき、肩を貸すことさえした。
「ビバリンガム。だまれ」
 真四季はぎろりと血まみれのピエロを睨みつけた。その視線は物理的な力を持つかのようにビバリンガムの頬を張り飛ばした。
「…………!」
 砕けた顎が再び裂けた。声すら出せずにビバリンガムは身をよじった。
「インスフェロウ。我々の立場を明確にする必要があるな」
「…………」
 灰色の怪人は肯定も否定もせずに黙って立っていた。
「私と魅寿司は、この海戦の結末を正しく実現するためにここに来た。しかるにおまえたちはそれにあらがおうとしている。佐竹様を担ぎだして、手前勝手な理屈を並べ立てている。結論から言うと、人間は天海女を自分のものにしたいのだ。本来の目的である海戦など眼中にはない」
「そ、それは違います。真四季様! 人間は神の意に従ってこの地を去ろうとしています」
 勇気を振り絞ってショーマン・ネイサンが言った。
「あなや。哀れなりカーベル。守ろうとする人間に裏切られているぞ」
「いえ、それは。そのようなことは」
「ビバリンガムならば、その首を飛ばしているところぞ」
「人には多くの意見があります。総意が決定されていません」
「ここで言葉遊びをしているおまえたちが総意を決定する権利を持つのか? 人間の財産を守ろうという、明確な目的の元に行動しているカーベルの意志は、我々の立場からはとてもわかりやすいが?」
「し、しかし、私どもは神の意志にあらがうつもりは毛頭ありません」
「では佐竹様を見捨てるのだな? 突然にやってきて財産を棄てよ、という我々の言葉に従うというのだな?」
 真四季の顔にはおだやかな笑顔が張りついていたが、その眼は不穏な光りをたたえていた。
「わ、私は……私たちは……」
 真四季は口ごもるショーマン・ネイサンから視線をはずした。もう彼への興味は失われていた。
「ビバリンガム。その者を喰え」
「……えっ?」
 ショーマン・ネイサンは驚いて言葉を失った。
「種を愛する気持ちを持たない者は、生きるに値しない。人間が人間を守ろうとしないとは許しがたい」
 命じられたビバリンガムは、サッシュから一本の紐を引き抜くと、ショーマン・ネイサンの首にくるりと回した。
「ビ、ビバリンガム様」
「神の命であれば」
 ビバリンガムは血まみれの口で言った。そしてするっ、と紐を引いた。
「わっ」
 ネイサンの小さな悲鳴が上がった。彼の身体が消え失せた。一瞬間、宙に浮いた首が、床に落ちて鈍い音を立てた。議場に集う人間たちは、ネイサンが首を切り落とされたと思った。
「あ、ああ、これは……ビバ、ビバリン……様」
 床に転がったネイサンの首がやかましく騒ぎ立てた。その首は生きているらしい。
 それを見た真四季は、眉をひそめてビバリンガムに視線をむけた。
「身体だけを位相遷移させたか。なぜ喰わぬ」
「種を愛する心を持たぬ狭隘な性根の持ち主を喰らっては腹をくだしまする」
 うろたえるネイサンは自分の命を握る会話に目をくるくる回した。
「ビバリンガム。おまえは愛が多すぎるな。そのような者の命まで惜しいと思うか」
「けしてそのようなことは。このような男、酒のつまみにもなりませぬ」
 そのときになって人間たちは、ビバリンガムが真四季の命令に背いて、ネイサンの命を救ったことに気がついた。
 真四季はネイサンの首に歩み寄ると、ごん、と無造作に蹴りつけた。首は悲鳴を上げながら椅子の下に転がり込んでいった。真四季も彼の命を永らえることを認めたのだ。
「さて。インスフェロウ」
 サーチライトのような華やかさで、白いローブの真四季が振り返った。
「私はカーベルに逢いたいぞ。そしてかの娘と語りたい」
 真四季は短い法呪を飛ばして、足元に薔薇の茂みを呼び出した。
 神の腰ほどの高さの薔薇の茂みは、しゅうしゅうと音を立てながら、赤と黄色の光を明滅させた。
「よいな? インスフェロウ」
「…………」
 インスフェロウは、ぎゅっと拳を握りしめた。
 その様は、なにかの覚悟を決めているかのようだった。
「友よ。インスフェロウ。私が惹かれる人の娘。勇者カーベルがどこにいるか知っているか?」
「赤立病院だ」
「残念ながら違う。ビバリンガムの報告によると、我らのアイドル・カーベルは天海女にも見込まれたようだ。あの情熱的な魂は多くの者を虜にするらしい」
「どういうことだ?」
「おまえともあろう者が、あの娘の虜となっていることとおなじだよ」
 真四季はさわやかに笑った。
「カーベルは天海女にさらわれた。あの娘はいま海京にいる」
 インスフェロウは驚いた。カーベルの計画は、海京を爆破して位相遷移によって隠されているエルアレイの全構造物をこの相に現すことだ。たどりつく道が知れずにいた海京に、エルアレイ自らがーー天海女がーー招いたという事実。
 このことが偶然であるのか。彼をしてもわからなかった。
 天海女はなにを知り、なにを計画しているのか。
「カーベルは誤解されているな」と、インスフェロウが言った。
「ほお?」
「カーベルは春の花のクンフのようにかよわい心を持っている」
「かよわい?」
「かよわいがゆえに強いのだ」
「魅寿司殿を屈伏させた人間がか」
「赤薔薇は美しく毒を持つが、たやすく枯れる」
「カーベルは赤薔薇か。なるほど除虫毒を持つ赤薔薇には、たしかに虫もよりつかんな」
「私はカーベルを愛する。そして守る」
 そう言うインスフェロウの声は、言葉の意味とは裏腹に小さくかすれていた。
「……インスフェロウ?」
 真四季はいぶかしげにインスフェロウの顔を覗きこんだ。
「むっ。そのインスフェロウはダミー体かや?」
 ビバリンガムがすばやく銀のかけらを投げつけた。
 インスフェロウの心臓に命中した銀の凶器は、あっさり後ろに突き抜けた。
 ばさっ、と軽い音がして、その巨体が色を失った。巨大な塩の柱が崩れ落ちた。
「のおおっ! たばかりおったか。インスフェロウ!」
 つま先まで流れてきた塩を避けながらビバリンガムはののしりの声をあげた。
 いつのまにかインスフェロウは塩の柱を身代わりにしていた。
「真四季様。インスフェロウは不埒にもこの場を逃げ出しておりましたぞ」
 しかし真四季は応えなかった。インスフェロウの顔を覗きこんだ不自然な姿勢のまま体を固めていた。
「真四季様……?」
 ビバリンガムが恐るおそる神のローブの裾に触れた。
 その瞬間、ざあと音を立てて真四季の身体もまた崩れ落ちた。
「ま、真四季さま!」
 真四季までが、すでに議場を後にしていたのだ。
 ふたつの白い塩の柱を目の前にしたまま、ビバリンガムと人間たちは立ち尽くしていた。

 

 

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