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楽蛇恭順

第5章−2

 

 ……魅寿司様……」
 魅寿司は兵士たちによって持ち上げられた。すべての者が美しい魅寿司の姿に嘆息した。
 魅寿司の体は、西の壁に寄りかけて置かれた。
 白壇を炊き込んだ白布が全身に巻かれた。そして清々しい香りを放つオフィレ蜜柑が女神の回りに積み上げられた。その数はとても多く、女神の豊かな胸までの高さに及んだ。
 人間たちは、細心の注意で魅寿司の体を扱った。生まれたての赤ん坊よりもかよわい生き物であるかのように。
 手を触れることは最小限に。どうしても触れなければならないときは、透き通った絹布を押し当ててから手を添えた。
 人々は腰をかがめて動き回った。けっして魅寿司の目線よりも上に頭を上げないように、慎重に簡易の祭壇を作っていった。
 エルアレイを自らの手で爆沈させる。それのためには位相遷移された構築部分の発見と、位相遷移を実現している機構の解除が必要だった。
 それは人の記録にはまったく残されていない場所と作業だった。
 ただインスフェロウの言葉通り、カーベルたちに理解できるヒントをくれるのは、海京をおいて他にないと思えた。
「魅寿司様に問い、答えを請う」
 カーベルが宣言した。
「巨大な建造物にして、天下無双の機械である天海女を制御しているのは、戦さ船たる天海女であるに間違いはありませぬか?」
 しばしの沈黙の後。目をつぶったままの魅寿司が、夢のなかから答えるかのようにささやいた。
「……それがどこにあり、どのように接触すればよいかを私は知らぬ」
 その答えは、カーベルの期待を制するかのようだった。
「……私の考えでは……海京からの接触が良い。人の技の街ならば、なにかを調べるにも手段があろう。汎神族の部屋ではおそらく机の上に果物が置かれていても、その真の意味を人は理解できない」
 天海女にある人の街。名を「海京」と言った。汎神族風の名前は、神から人への贈り物だった。
 そこは長く封印されていた。
 人の街がエルアレイに隠されていることは、記録でわかっていた。神と人が同一の目的のためにいたであろうその街は、人間にとって実利的な宝が眠っていることが期待されていた。
 海京は長く探さされていたが、いままでついに見つかることがなかった。
 わからぬ道理である。海京はこの世になかった。
 厳密に言うと、この位相にはなかった。
 エルアレイは一辺が五十ケーメンツルにも及ぶが、その全構造を実体化させると、二百ケーメンツル四方を必要とした。
 しかしそれは巨大にすぎた。
 エルアレイ、すなわち天海女は、構造の多くの部分を位相遷移させることによって、膨大な設備をコンパクトにまとめていた。
 海京も位相を異にするひとつだった。
「ごもっとも。しかし我々には時間がありませぬ。なにより天海女がこの海域から出てしまう前に、急ぎ事を終えることこそ肝要」
「位相遷移は不安定を常態とする技術である。征轟丸もエルアレイの攻撃により位相遷移の崩壊を起こしている。位相遷移されている設備を激しく破壊することにより、破綻をきたすこととなるだろう」
「それならば簡単なこと。私たちにわかりやすい位相遷移空間である海京を破壊しましょうぞ」
「人の技でそれほどの破壊は望むべくもない」
 にべもなく魅寿司は言った。
 それは脅しでも忠告でもない、魅寿司が知っている事実だった。
 カーベルは、かすかにかぶりを振り、唇を舐めて息を吸った。
 舞台で唄を歌う覚悟を決めるかのように。
「魅寿司様。私は位相遷移を破壊しなければならない」
 女神の眉がかすかに歪んだ。
「私たちは巨龍を捕獲しています」
「おまえが巨龍を……? 不可能だ」
「ショウカの丘に、捕らえた巨龍はいます」
 女神は顎で八の字を書くような奇妙なしぐさを始めた。まるでカーベルの言葉に驚いて踊りだしたかのようだった。
「魅寿司様。巨龍で海京は破壊できますか?」
「…………」
「御子の名前を私に言わせますか?」
「むううううっ」
 不気味な音が美しい女神の喉から流れ出た。それはけっして人には発音できない音だった。透明な汗が顎を伝って流れ落ちた。
 甘くかぐわしい汗の香りが部屋に充満した。
「……魅寿司様……答えられよ」
 その香りにカーベルは酔った。
 陶然として、視界が揺れた。
「……み……ずし……さま」
 女神の顔がぐるぐると回りだした。足元が夢のなかのように定まらない。
「……くっ……み、魅……ずし……様……重ねて問う……巨龍で海京を……破壊できます……か……」
「うふううう」
「…………答えられよ!」
 かはぁ、と女神の息が漏れた。
「……応……」
 魅寿司が肯定した。
 その瞬間。
 ばしゃん! と窓が破裂した。
「あいほらりろぉぉぉぉぉぉ」
 すさまじい声が轟き渡り、窓ガラスが木っ端みじんに砕け散った。
 極彩色の服が、きらめくガラスの破片に彩られて空中を飛んだ。
 人間たちは首をすくめて驚いた。
 病室に飛び込んできた華美な人影。
 ピエロのカカシが、レースのカーテンをまとわりつかせて立っていた。
「愛と勇気と希望の名のもとにぃ、救いの御子たる我は来たれり」
 がきこき、と関節を鳴らす不気味な動きで、ビバリンガムが踊り回った。
「……なっ……」
 カーベルは意表を突かれて、魅寿司を縛る暗示を忘れた。
 人が眼を丸くする一瞬の隙は、ビバリンガムにとって十の仕事をするにも十分な時間だった。
「不埒千万な人の娘には仕置きが必要であることよ。正義の怒りを思い知りゃれ」
 目に止まらぬ速さで、ビバリンガムはカーベルの腰をすくい上げた。
「あっ!」
 カーベルは悲鳴を上げる間もないほどのすばやさで、とんでもない姿勢を取らされた。
「いい? 私はあなたたが憎くてこんなことをするんじゃないかららぁね」
 ぱぁん! と痛そうな音が響いた。
 平手が肉を叩く音が病室いっぱいに響いた。
 ビバリンガムは立ち膝をした姿勢で、カーベルを自分の膝の上にうつ伏せに押さえつけていた。つまり母親が幼子のお尻を叩く姿勢だ。
「悪い娘!」
 ぱん! スパァン。高くかかげられたカーベルの腰を三たび平手が襲った。
「……キャ……!」
 カーベルは自分になにが起こったかをやっと理解した。
 しかし目から火花が散る衝撃に、声さえだせない。
 きっちり十二回。カーベルは尻を叩かれた。
 そしてくるりと体を持ち上げられた。
 ビバリンガムはカーベルを、慈し児のように優しくベッドの上に横たえた。
「私のお仕置きは終いである」
 ビバリンガムは人指し指を振りながら言った。
「しかし娘。カーベルなる娘。追って神様のお仕置きが来るものと覚悟しなさい」
 噛んで含めるように、彼は言った。
「良いか? 悪いことをしたら償うのが、世のことわりであると知りなさい」
 そしてきびすを返すと、捕らえられた魅寿司の元にひざまずいた。
 ビバリンガムは魅寿司を包む祭壇を、とても慎重にばらした。
「ああっ。なんと罰あたりなことを……魅寿司様は、この不幸をお忘れなさるかしら?」
 ……忘れる? 神様が?
 朦朧とした意識のなかでカーベルは、不思議な言葉を聞いていた。
「カーベル。おまえの名前はカーベルであるな」
 ビバリンガムは針で突いたような瞳でカーベルを見た。
 その声は呪いの言葉のようにカーベルに恐怖を与えた。二の腕が鳥肌立ち、胃が締めつけられるように痛んだ。
「くそ!」
 カーベルはベッド脇の花瓶でビバリンガムに殴りかかった。
 しかし極彩色の従属生物は、ひらりひらりと憎しみの鈍器を避けた。
「……よくも!」
 カーベルは花瓶を振りかざしたまま体当たりした。
 ガシャン、と花瓶は砕け散った。あっさりとかわされた花瓶が壁を叩いたのだ。
「カーベル様!」
 クァンツァッドが叫んで走り寄った。カーベルの手はざっくりと切れて、血をしたたらせていた。
「人の娘カーベル。真四季様にあらがい、魅寿司様を脅迫した邪悪な人の子。なにがおまえをそこまで駆り立てるのだ。なんの確信があって、これほどの暴力を振るうのだ」
 ビバリンガムの声には、不思議と怒りが感じられなかった。
 カーベルは裂けた拳をビバリンガムに突きつけて叫んだ。
「……私の血が……この人の血が、人間を守れと私に言うのだ!」
「おろかな……美しい顔をしているのに、愚かであることよ」
 血を避けるように、後ずさりしながらビバリンガムは言った。
「カ、カーベル様。血が!」
 クァンツァッドが驚愕の声を上げた。
 高々とかかげられた拳からしたたった幾筋もの血が、空中で消え失せた。
「…………」
 ビバリンガムもまた、目を見張った。
 床に溜まった血が、床に吸い取られるように消えていった。
 時間が遡っていくかのように、血が失せた。
 次の瞬間、拳から床まで糸をひく血の筋が、青いタイルにつく寸前に消失した。
 見えない怪物がカーベルの足元にうずくまり、血をすするかのように、血の消える異常な一点が上に上に昇りはじめた。
 カーベルのくるぶしの高さの空中で血が消えた。
 膝で消えた。そして腰の高さで消え失せた。
 手から落ちる血が、滝を昇るように空中に飲み込まれていった。
 クァンツァツドが枕を掴んで、カーベルの足元を払ったが、そこにはなにもいなかった。
「な、なにをしているのか……」
 ビバリンガムが驚愕の声を上げた。
 カーベルの背後から、不気味な気配が立ちのぼった。
 それは法呪に秀でた者の眼には、金属質な静脈血色の泥の渦に見えた。
 ガスとも泥ともつかない不気味なうねりが、カーベルの腕や腰を回り込んで迫ってきた。
 血のしたたりが手首まで遡った。
 カーベル自身、その光景に目を奪われた。
 がしゃん、と音がした。
 カーベルの足元に金属の塊が現れた。
 ごとり、と重い音を立てて床に転がった赤金色の甲冑。
 それはマウライ寺の門に打ち捨てたはずの、カーベルの甲冑だった。
 先の対巨龍戦において、アッツの丘で神の血肉を浴びた法呪具だった。
「ひ、ひぃぃ。なんというものを呼び寄せるのか! 私を威嚇しようというのか!」
 ビバリンガムは、その甲冑の汚れを見破り、悲鳴を上げた。
「カーベル」
 声がした。
「カーベル」
 人が理解できる、ひどくゆっくりした声で、その場にいない何者かが呼びかけた。
「人の子カーベル。我を慶ばせよ」
 その声は、天からも地からも聞こえた。
 立ち込める陰気に犯された魅寿司が、苦しげに身もだえした。
 カーベルが天を見上げて叫んだ。
「……あなたは……何者か? 神か? 神ならぬ超常の者か?」
「おまえの心は我を鼓舞する。悲しみ、怒り、戦う意志を堅く保つおまえの心は、すさまじまくも美しい」
 声の主は、人に聞かせるためにゆっくりと、とてもゆっくりと話した。
「我は慶ぶために、おまえを招く」
 カーベルは、尋常ならざる気配に気押されながらも口を開いた。
「……まさか。まさか、あなたはエルアレイ……天海女か?」
 天地からの声は、熱い息でカーベルに語った。
「その甲冑を再び身にまとえ。カーベル。そして人の街で我のために舞え」
「ひいいいっ。ばかな! 天海女が語ることなどありえない! これはいったいなんのトリックなのか?」
 ビバリンガムがうろたえて叫んだ。
「まて、天海女よ。私ひとりの身では、満足な祭をできませぬ。私に従う者たちを供として、海京に招かれよ」
「祭に酒と女はつきものぞ」
 そのとき、バタンと病室の扉が開き、人の娘が一人、駆け込んできた。
「カーベル様。女神があなたを捕らえようとしています……!」
 ミロウドだった。
 カーベルは少女の出現に息を呑んだ。真四季の言葉が脳裏によみがえった。
「……これが予知……」
 逆らいがたい未知への畏れが背筋を這いあがった。
「カ、カーベル様! これは……!」
 汗で前髪を額に張りつかせたミロウドの口から悲鳴が漏れた。
 美しい女神を抱いた怪人ビバリンガムに目を奪われたのだ。
「ああっ……」
 ミロウドが恐怖の声を上げた。
 彼女の法呪の眼には、室内のすさまじい光景が映し出された。
 白い病室の壁が、重金属の渦を巻く穴に覆われていた。
 ぽっかりと口を開けた不思議な穴の前に、血まみれのカーベルが立っていた。
 そして彼女の前には、神の汚れを付けた赤金色の甲冑が浮いていた。
「きしゃああ」
 興奮した楽蛇が魅寿司の豊かな身体のうえで暴れた。
 正体を失った女神は、ビバリンガムの腕のなかで翻弄された。
「失せや!」
 ビバリンガムの手から、カーベル目がけて必殺の金属片が投げつけられた。
 それをミロウドが物理障壁を展開してはじき飛ばした。
「馳せ参り威勢参り水をはじきて氷柱にいたれ」
 さらにビバリンガムは硬軟自在の液状衝撃を飛ばした。
「楽蛇。来い!」
 カーベルが叫んだ。
 血まみれの右腕を伸ばして、女神の守護者である蛇を呼んだ。
「しゃーーーーっ!」
 楽蛇は呼びかけに応じた。
 八匹のうち、五匹がカーベルの言葉を聞いた。
 びゅるりと、とぐろが解かれて、楽蛇は宙を滑りカーベルの身体に巻きついた。
 人間たちは、カーベルが絞め殺されるかと息を飲んだ。
 しかし液状衝撃よりも速くカーベルに至った五匹の楽蛇は、ジュウと音を立ててビバリンガムの法呪を消し去った。
「ななななななんとお!」
 ビバリンガムが絶叫した。
「魅寿司様の楽蛇を奪うか!」
 カーベルは舞うように一回転した。
 白く甘い水蒸気が立ちのぼり、楽蛇がカーベルに恭順していく。
 ふたたび正面を向き、ビバリンガムを見据えた瞳には、圧倒的な自信と決意がみなぎっていた。
「おそろしや、おそろしや。カーベルは恐ろしや」
 ビバリンガムと魅寿司の姿が急速に薄れはじめた。
 位相遷移で退避しようとしていた。しかし何者もそれを妨げようとはしなかった。
「カーベル、カーベル。恐ろしきカーベルよ。おまえを罰するために、我は正義を全うするぞ。心して待て。海よりも深く冷たく反省して、暗く震えて待つがよい。われは必ずおまえを罰するぞ」
 ブツッ、と音がして、ビバリンガムらは姿を消した。
「…………あっ!」
 ミロウドが声を上げた。
 カーベルのきわどい状況に気がついたのだ。
 カーベルは位相遷移の境界域に飲み込まれようとしていた。
 重々しい色の渦巻く穴と、こちらの世界の境界線に立ち、両手両足を伸ばして穴の縁を支える彼女は表情を歪めていた。
 その口からは、現状を維持しようとするかのように、複雑な法呪文が紡ぎだされていた。
 カーベルの前に浮く甲冑は、たえまなく紫の放電を繰り返していた。
 カンカンと音を立てて、電気の火花が周囲を照らしだした。
「カ、カーベル様」
 ミロウドは甲冑の横をすり抜けて、カーベルに抱きついた。
「カーベル様、カーベル様!」
 クァンツァッドやその他の者たちも穴に殺到した。
 人と人が絡み合うオブジェと化した彼らは、たちまち石のように固まって穴の縁に張りついていった。
 それは冥土の門を支える美しいクンフどものようだった。
 六人の男女が抱き合い、手足を絡め合って、体で一本の輪を作りだした。
 しかし輪はじりじりと縮みはじめた。
 人の法呪では、位相空間への門を維持しつづけることは不可能だった。
 カーベルの足元に絡む誰かの体から、ゴキリという骨の砕ける音がした。
「……だめか……!」
 カーベルが諦めかけたとき。
「……ッィィイイイィィィィン」
 彼女の正面から、神の高速言語が炸裂した。
 バケツを十もひっくりかえしたような衝撃が顔面を襲った。
 言葉の波に窒息しかけたカーベルが見たものは、ベッドから身を起こした老神の姿だった。
「佐竹さま……」
 そこには長い眠りから目覚めた汎神族の姿があった。
「佐竹様が目覚められた」
 この極限の状況にあっても、カーベルはこみ上げる喜びを隠すことができなかった。
 彼らがショウカの丘から救出した汎神族がいま、目を覚まして眼前にいるのだ。
「佐竹様。ああっ、佐竹様」
 カーベルは位相空間を保持するための法呪を中断してしまった。
 ばきっ、とふたたび誰かの骨がへし折れた。
「カーベル様……いけない」
 ミロウドがカーベルの髪に触れた。
「集中……してくだ……さい」
 穴は急速に安定を取り戻しつつあった。
 佐竹の法呪は、それほどまでに強力だった。人の中では法呪の使い手として達人に列すべき、カーベルやミロウドたちが束になっても維持できない位相空間を修めようとしていた。
 しかしカーベルの喜びの姿は、佐竹の目に映っていなかった。
 佐竹の視線は、じわじわと金属質の渦を巻く穴の向こう。カーベルの甲冑を介して位相空間を開いた者を見つめていた。
「天海女よ」
 佐竹が人の言葉で言った。
「我を指名する天海女よ」
 老衰と言ってよい弱った四肢。細いかさかさの肌。
 長い白髪は、ぱさぱさに渇き、地肌が見えるほどにすいていた。
 皺の中に埋もれた瞳が小さく光った。
 人間を怖れさせる汎神族の気配が、じわりと立ちのぼった。
 意識を保つ全ての人間たちは息を呑み、老いさらばえてなお美しい汎神族に恐怖した。
「佐竹」
 明朗な声が天地から響いた。
「……天海女よ。さらに我とともに戦うことを望むか」
「佐竹」
 天地からの声は、即座に答えた。
「海戦を代表する佐竹。戦いのときぞ」
「むう。天海女。おまえはいまだに勝利を確信し、不敗を信じるか?」
「我は戦い征轟丸に勝利することを定められた者なれば、敢然、敵に挑みこれを果たさん」
「その心意気やよし。人の子たちもそれを望み、おまえを助けるぞ」
 位相空間の奥が、歓喜の桃色に輝いた。
 ーーなに? なにを言っているの? ーー
 カーベルは神と天海女の会話に驚いた。
 ーー勝つつもりでいるの? 天海女の敗戦は既定の事実ではないの? ーー
 カーベルとミロウドの法呪の眼には、穴を通して流れだす黄色とも灰色ともつかない不気味な煙が見えていた。
「カーベル様……これは……この邪悪な気配は……」
 ミロウドが口許を歪めて言った。カーベルもこみ上げる吐き気に気づいていた。
 実体を持たない不吉な煙。魂をすさませる凶悪な気配。
 陰気だ。
 陰気は佐竹の元に流れると、汎神族の巨体を包み込んでいった。
「おう。気持ちが悪い」
 陰気は汎神族を不快にさせた。
 同時に汎神族の戦意を鼓舞する力を持っていた。
「むうううう」
 年老いた佐竹の瞳が、めらめらと燃えた。
 佐竹は憑かれたように確信の言葉を連ねた。
「陰気が満ちる。天海女のすべての地に。戦いの起きるときぞいま。凶悪なる武器に陰気の宿り、力が満ちる」
 佐竹は初めてカーベルに視線を向けた。
「人の娘。海京に行き祭りをおこなえ。舞い歌い天海女を慶ばせよ。その美しき四肢を打ち振り、髪を振り乱せ」
 それは神から人への命令だった。佐竹はさらに法呪文を唱えた。
「こり堅くうちましあらまし、輪のここにあるは、常ならむことと思いまし」
 位相空間の輪が鉄色に染まり固定された。
 五人の男女が、輪の縁を形成した。
 大理石の彫刻のように、冷たく固まったその体が、輪の収縮をくい止めた。
「あっ!」
 カーベルとミロウドが、バランスを崩して輪の向こうに落ち込んだ。
 それを見たザイスが穴に飛び込んだ。
「ザイス! 受け取れ」
 兵士の一人が腰に下げた短デュウを投げ込んだ。
「おう」
 ザイスが短デュウを受け取った瞬間、穴が白く濁りだした。
 穴に駆け寄ろうとした兵士に向かってカーベルが叫んだ。
「だめだ! さわっちゃだめ! 腕が飛ぶわ」
 不安定化した位相空間に触ることは、火に手をさしいれるよりも危険なことだ。
 声も歪み、聞き取りがたい。
「クァンツァッド。お願い。インスフェロウを呼んで。私の元へ来いと」
 カーベルの叫びは、やがて小さなこだまとなって消えていった。
「インスフェロウ。インスフェロウ。私を見つけて……」

 

 

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