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カリスマを持つ魂

第5章−1

 

 ルアレイ最大の病院である赤立病院。
 そこは発掘作業や、対巨龍戦で傷ついた者たちが多く入院していた。
 黒い女神は、引き連れた縞馬たちを院内に放った。
 たちまちおびただしい数の人間たちが、悲鳴を上げて時間遅延場の闇に捕らわれていった。
 女神は逃げまどう人間たちに見向きもしないで、廊下を歩みはじめた。
 長いマントがゆっくりとたなびいた。
 それは風によるものではない。女神を護る、見えない何者かの身じろぎによるものだった。
 美しい女神は、黒い瞳をきらめかせて階段の下から二階を見上げた。
 そして壁にかかっていた鏡を拳で叩き割った。
 きらきらと輝く破片が、女神の足元に散らばった。
「…………」
 美しいガラスのかけらは、奇妙なことに別々の景色を映し出していた。
 それはいくつもの病院内の風景だ。廊下や病室が、千もある破片の数だけ映し出された。
 女神は視線を巡らせて、目的の映像を見つけた。カーベルの姿だ。
 じゃり、っと靴が鏡の破片を踏みつぶした。
「二階か……カーベル」
 まっすぐに視線を上げて、女神は二階に続く階段を昇りはじめた。


 カーベルの髪が波のよう揺らめいた。
 それは虚空からの衝撃に魂が反応したかのような不思議だった。
 エルアレイの汎神族・佐竹の容体は落ちついた。
 いまは静かに寝息を立てている。
 その横でカーベルも眠りについていた。
 インスフェロウとの会話ののち、彼女は再び昏睡に陥った。しかしそんなカーベルの意識も緩やかに戻りつつあった。
 だが全身を襲う奇妙な痛みが起き上がることを許さなかった。意志を持つゼリーが、皮膚の表面から体のなかに忍び込もうとしているかのような違和感と鈍痛が繰り返し繰り返し襲ってきた。
 それはどこかから聞こえてくる神の高速言語に呼応しているかのようだった。
 時間がたつにつれて痛みは薄れたが、言い知れぬ不安と焦燥感が心を満たしていった。大事ななにかを失ってしまった悲しみ。卑劣な罠に落ちて、不本意な結果を得てしまった悔しさ。そしてすべてが手遅れになる恐怖感。
「し……らさ……ぎ」
 長い時間。彼女の口から漏れ出る意味を持った言葉は、神の名前に聞こえるその一言だった。
 彼女の回りには幾人もの人の兵士が寄り添っていた。
 その者たちは、一様に薄い肌の色していた。
 髪も薄い白に染まっていた。皆、表情は暗く、石のように体を固めていた
 ザイスという名の若いエルアレイの兵士がカーベルのかたわらにひざまずき、両手で彼女の右手を握りしめていた。
 ベッドの反対側では、クァンツァッドという名の娘が左手を握りしめていた。クァンツァッドはミロウドの部下であり、ロスグラードの巫女だった。
「カーベルさま……カーベル様」
 クァンツァッドはカーベルの手に頬を寄せて、凍える指先を温めるかのように息を吹きかけた。
 誰も口に出して言わなかったが、彼らは同じ想いを共有していた。天海女が不当な策により敗北を喫したという、悔しさと怒りによどんだ想い。
 彼らの体にしみ込んだ白い霧。すなわち佐竹の知塩は、彼の柱の記憶を人間たちに刷り込んでいた。霧という粗い断編的な状態で取り込まれた記憶は、統一性がなく、論理的でもなかった。
 ただひたすらに怨念の凝り固まった澱のように、人間たちを汚染し、呪いをかけていった。
「カーベル様。私たちは天海女の勝利を天地に証明し、栄光を得なければなりません」
 エルアレイの兵士であるザイスは、自分がなにを言っているのかわからないままにつぶやいた。
 天海女のために、佐竹のために行動しなければならない、という強烈な衝動が沸き起こり血がたぎった。
 横たわるカーベルの回りに立つ男たちは、ゾンビロウのように動きが鈍い。
 目だけがぎらぎらと光り、彼女を見下ろしていた。
 彼らの気配を受けたかのように、カーベルがささやいた。
「……地下にある……まだ発掘されていない人の街にアルルカンがいる……」
 ……アルルカン……。
 佐竹の記憶を受けた者にとって、その名前は親しくも憎い、意味深いものだった。
 敵の策にはまり、天海女を破滅させた人間。しかしもっとも天海女を愛した人間。
「アルルカンの魂袋は……おおきな力を持つ」
 カーベルがささやいた。
「私たちは、魂袋を知らなければならない……」
 そのとき、かちゃりとドアが開いた。
 巨大な人型が廊下に現れた。
 漆黒の影がドアの向こうを覆いつくした。
 その者は身体を半分にも折って入口をくぐった。
 普通であれば病室の人間にパニックが起きたことだろう。
 彼らの小さな病室に入ってきたのは汎神族だった。
 真っ黒なマントに身を包んだ、純白の肌の女神だ。
「みつけたぞ。カーベル」
 黒ずくめの女神は真紅の唇を、蜂のように震わせて発音した。
 女神の身体には、なにか半透明のものが何本も巻きついていた。それは蛇のようにゆっくりと動いていた。太さは人間の男の二の腕ほどもあった。
「佐竹様……ここにおられましたか」
 女神は、深い眠りにつく老神を見つけてうなずいた。
「偉大な戦いの渦中に、人間どもにさらわれようとは、不憫であることよ」
 美しい女神は、朝霧のようなため息をついて悲しみを告げた。
「不遜なカーベル。世のことわりを理解せずに、己の欲望のみを求める野蛮な魂よ。私を悲しみに暮れさせる哀れな人間の娘よ」
「恐れながら、神よ」
 両手の拳を組んで、クァンツァッドが聞いた。
 人が汎神族に、一対一で声をかけた。
「なにゆえに御柱は、悲しまれるや」
「……ああっ。おまえも白い。おまえもまた私を悲しませる」
 女神の白い頬を、ついっと涙が一筋流れ落ちた。
 クァンツァッドのぶしつけな問いに怒ることもなく、女神は答えた。
「丘をあばき、天海女の記憶、佐竹様の知塩の洗礼を受けたおまえたちは、天海女を出ることが許されない」
「…………」
「私は人間を犠牲にすることを厭う。すべての人間を救い出したいと思うに、なぜ人の子は、自ら破滅の道を選ぶことか」
 女神は黒い瞳を見開いて、天井近くからカーベルたちを見渡した。
 人間たちはその光景を無感動な眼で見つめていた。
 彼らの反応に不満足を覚えたらしい女神は、さらに言葉を続けようとした。
 そのとき、身に巻きついた半透明の蛇が暴れ出した。
 人間たちを攻撃しようと、光を歪ませる透明の体を打ち振って、レモンのような息を吐いた。
 女神は大きく体勢を崩して壁に手をついた。
「ィィイイインンンン」
 高速言語をほとばしらせて、女神は蛇を押さえつけた。
 興奮した蛇たちは色を現した。
 赤と黄色の稲妻模様をまとい、豊かなたてがみと羊の角を持つ美しい蛇だ。
「……楽蛇(らくじゃ)……」
 クァンツァッドがつぶやいた。
 それは主人を守る、攻撃性従属生物だった。
 鎧のように身にまとうことにより、主人を脅かすすべてのものに先制の攻撃を加える恐ろしい蛇だった。
 女神は楽蛇を八匹もまとわりつかせていた。
「楽蛇が興奮している。おまえたちはまことに危険な存在らしいの」
 女神が眼を細めて言った。
「おまえたちを封印する必要がある。私の呪縛法呪を、甘んじてその身に受けよ」
 女神は優しい想いでささやいた。
「そうすることにより、天海女の人の子らの安全もまた保証されよう。……わかるな?」
 心からの言葉だった。慈愛に溢れた瞳は、魂の底から人の安寧を願っていた。
「………………」
 人間たちは一言も返さずに、じっと女神を見つめていた。
「神よ。御柱は我らを封印するために、我ら人間の元に足を運ばれたと言われますか」
 クァンツァッドが聞いた。
「正しき未来を招来するためであるならば、我はクンフの元へでも参ろう」
「我らがエルアレイと共に敗北することが未来であると?」
「人の子よ。そして世の「ことわり」がまっとうされて、多くの人間が助かるのだ」
 クァンツァッドは、カーベルのように女神を見据えた。
「おまえが道理を知る者であるならば、自身の命と、助かるべき多くの命のどちらを取るか?」
 女神が言った。
 そのとき、ざわっ、と人の気配が揺れた。
 長い髪の人の女が目を光らせて立ち上がった。
「カーベル」
 女神は異様な気配に驚き、目を見張った。
「神よ。我は全てを守る」
 カーベルの青白い髪が。ざわりと揺れた。
「我は佐竹様の命と、すべての人間の命と、愛するエルアレイの全てを守る」
「シャッ」
 楽蛇の一匹がカーベルめがけて毒液吐いた。
 しかし透明な毒液は、カーベルの手前で止められた。
 ザイスが身を投げ出して、背中に毒液を受けたのだ。
 彼のチュニックは、たちまちぶすぶすと煙を上げはじめた。
 クァンツァッドがすばやくチュニックを脱がせた。兵士の一人は足元のバックパックから中和剤を取り出して、ザイスの背中にかけた。
 まるで楽蛇の毒がいかなるものか知り尽くしているかのような、みごとな動きだった。
 ゆらゆらと鎌首をもたげた八匹の楽蛇は、緊張した眼差しでカーベルをにらんだ。
「…………」
 女神はけわしい表情でその様子を見つめていた。
 ベットに立ったカーベルが、再び腰を下ろした。
 ゆっくりと脚を揃えて、ベッドに正座した。
 いまだに残る知塩の後遺症から全身に激痛が走ったが、眉ひとつ歪めずに視線を定めた。
「我が名はカーベル。御柱の御名はいかに」
 女神は驚いた表情で人の娘を見た。
 カーベルのふるまいが、ひどく傲慢に思えたからだ。
「人の子よ。私の名を問うか」
 犬が人の言葉をしゃべったかのような驚き方だった。
「礼を知る神であると知ればこそ」
「私の名誉は汎神族のためにある。その名誉を人に示せと言うか?」
「その問い自体が、御柱の誇り高き心を示されると感じ入りまする」
 女神は、まっすぐにカーベルを見つめて言った。
「なるほど。真四季様が執心なわけである」
 カーベルは女神の言葉を理解できなかったが、そのそぶりは見せなかった。
 女神は漆黒の虹彩を広げて顎をしゃくった。
「カーベル……真四季様はおまえが「まつりびと」であると言った」
「……それは?」
「カーベルはアルルカンと同じ魂を持つ。想いのゆえに為すことを迷わない」
「アルルカンと同じ魂?」
「強い意思の力はカリスマを持って他者に働きかけるが、自らは常に迷い他者の支えを請い焦がれる。力を持ち自信を持つはずの己に疑念が生じることを止められない。他者の言葉を力とする魂を持つがゆえに、自らの想いに溺れ、自らが呪われる」
「…………」
「心せよ。強い娘。私の名は魅寿司である」
「魅寿司様とは雅びな御名。知系はいずれや。魅寿司の名は、陶芸に在りし名と推測するが、いかに?」
 カーベルはおそれげもなく、さらなる質問を突きつけた。
 知系とは、汎神族が代々遺伝した記憶において秀でている分野を言う。
「あなや。汎神族の知系に長じた人の子とは何者であるか」
 魅寿司がマントで口をおさえて言った。
 クァンツァッドがささやいた。
「カーベル様。魅の文字魂は、未だ尽きぬ赤と青の角を持つ虎皮腰巻きに通じます。鉄柱の武器を持ち、人の男子と従属生物に滅ぼされる者どもの伝説にあり。すなわち知系名は黍(きび)かと」
 神を見た瞬間に彼女の脳裏にはその名が鋭く浮かんだ。それは考えついたのではない。
 クァンツァッドは知っていたのだ。佐竹の記憶をその身に受けたことによって。
「あれ」
 魅寿司は驚愕のあまり言葉を詰まらせた。
 カーベルは躊躇することなく法呪を走らせた。
「黍(きび)の魅寿司は動けず唱えず我が言の葉を聞き解すのみ」
「ぐっ……」
 短いが強力な法呪が、女神を捕らえた。
 知系名に物理的な魔力はない。しかし記憶をたぐられる恐怖が、魅寿司に本能的な恐れをいだかせた。
 カーベルはゆっくりとベッドを降りると、肌着の裾が乱れることも頓着せずに魅寿司の前に立った。
「神よ。魅寿司よ。我はこれから生まれてくる御柱の御子に名を捧げる」
「……よせ……」
 魅寿司の指が目まぐるしく動いた。それは印切りだ。風により相手を圧迫する法呪を展開しようとした。
 一陣の風が巻き起こり、カーベルの長い髪を吹き散らしたが、そこまでだった。
 兵士ザイスら、たくましい男たちが五人がかりで魅寿司の手足を掴み、動きを封じてしまったのだ。汎神族は大きいが、力つよい種ではない。思いもかけない人間の襲撃になすすべもなかった。
「……な……ぜ、このような……ことを……するか」
 自由にならない喉で、懸命に魅寿司は聞いた。
「御柱はちょうどよいときに参られた。我が願いを聞き遂げていただきたい」
「に……人間風情……が」
「神にあらざる無様なお言葉。私は御柱を脅迫する」
「や、やめ……よ……私を放て……子々孫々……悔やむこと……になるぞ」
「我は未来に生を受けるであろう御柱の御子に名をつけましょう」
 カーベルは法呪の息を吐き、言葉のつづら折りを垂れた。
「まだ見ぬ御子の名を暗示することにより、御柱に子々孫々の呪いをかけましょう」
「おおっ……腐り果てよ! 人の娘……」
 魅寿司は本物の恐怖に鷲掴みにされた。
 あまりに異常な人間どもの行動に驚くうちに、反撃するまもなくしてやられた。
 汗がしたたり落ちた。腕を掴むザイスには、犬のように速い脈が感じられた。
 記憶を子孫に遺伝する汎神族にとって、脅迫されて子の名をつけられることは、耐えがたい恥辱だった。母神の腹の中で受け継がれる記憶。汚れた己の名の由来を生まれながらにして知る神の子は哀れである。
「……カーベル……望みを言え……!」
「我が呪いを聞きたまえ。神よ。御子の名は三文字である」
「やめ……よ!」
「すなわち「卑魚……」」
 カーベルはなぜかそこで言葉を切った。
 その二文字は、あきらかに人の妖怪伝説にある名前だった。船を惑わし、食料の尽きた乗員が、苦しみながら厠に入ったところを一人ずつ喰っていくという邪悪な妖怪だった。
「……最後の一文字は、私の胸のうちにとどめ置きましょう」
「カーベル……!」
 人間らしい残酷さでカーベルは神の様を笑った。
「神よ。我が問いに答えられよ」
「人間……が、私に問いを強制するなど……」
「その様で、さらに人を侮るとは片腹痛し」
 カーベルは、すり足で、ずいっと爪先を魅寿司に近づけた。
「御柱に問い請う。どうか我らをアルルカンの元に導きたまえ。そして天海女と語る術を示したまえ」
 魅寿司が妙な声を出した。
「……おおっ、ああああ」
 その声はカーベルの胸を刺した。
 なぜ言葉にならぬ声が感情に訴えたのか、一瞬のあいだ理解できなかった。
「んんんむ、あああぁぁぁぁ」
 それは泣き声だった。
 女神が泣いた。魅寿司が泣きだした。
 ぼろぼろと涙がこぼれた。
 魅寿司は、カーベルの問いなどまったく聞いていなかった。
「なぜに……なぜに私はこのような仕打ちを受けるのか」
 神を泣かせた。
 信じられないことが起きてしまった。
 自らの要求を通そうとした人間が、神を泣かせてしまったのだ。
 人間たちは自らの優位が消し飛ぶのを感じた。
「わたしは、わたしはただ……栄えある監業官の任についたことを喜んだだけではないか」
 ぼたぼたと涙が床に落ちて、黒い染みを作った。
「役目を懸命に果たそうとしたことが、この仕打ちの理由か」
 理不尽な扱いを受けたことを抗議する、罪のない魂のように魅寿司は泣いた。
「……なにを……」
 予想外の神の反応にカーベルは言葉を失った。
「おおっ……あまりと言えばあまりの所業。この天海女は戦さ船ぞ。その任務を全うさせることが。そして哀れな人の子に、不要な犠牲を出さないことが私に与えられた役目ぞ」
「…………」
「なんの不都合があるというのだ。カーベル!」
 ゴオッ、と風が吹いた。
 魅寿司の涙がしずくとなってカーベルの頬を襲った。
「……うっ……」
 カーベルは言葉をつなぐことができなかった。
「私は監業官の役目を受けたことを誇りに思った。なぜなら正しき戦いの終結をこの手で果たすことができるからだ。そして多くの人間を救済する名誉を誇れるからだ」
「……み、魅寿司……様」
 カーベルの心臓は早鐘のように鳴った。
「カーベル様! 神の論理に取り込まれますな」
 クァンツァッドが言った。
「カーベル様!」
 若いクァンツァッドはひざまずいたまま、強くカーベルの手を握った。
「……魅寿司様……アルルカンの元へ我を導け」
 ぎりり、と奥歯を噛みしめてカーベルは言った。
「アルルカン? 人の祭りの長のアルルカン。呪われた男に会ってどうするつもりか」
「問われるな」
 汗にまみれたカーベルは、真っ直ぐに手を伸ばした。
 その掌で光がはじけて、魅寿司は昏倒した。

 

 

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