男達は身を乗り出して、白濁した不思議な液体の中のカーベルを掴まえた。
地に埋まった樹の幹の割れ目に落ちた彼女は、そこに溜まった白い液体の中に見え隠れしていた。
激しく飛び散る飛沫を全身に受けて、ミロウドまでが手を汚した。
カーベルはけっして深く沈んだわけではない。彼女の赤金色に輝く鎧は見えていた。
男たちは、髪と言わず腕といわずに掴めるところを握りしめると、力まかせに引き上げた。
カーベルの体がしぶきを散らして現れた。
「カーベルさま!」
前髪から白濁の液を垂らして、ミロウドがその名前を叫んだ。
ぐしゃり、と音を立てて、死体のようにカーベルの体が転がった。幹の上にうつ伏せた彼女の口から大量の白い液があふれ出した。
「カ、カーベルさま……」
居合わせたすべての者が凍りついた。
そこに引き出された者は何者か。
白銀に光る髪と純白の肌。
液がこびりついているのではない。生まれながらのもののように、長い髪がまぶしい銀色に輝いていた。
「うっ……おい」
兵士たちはカーベルがなにかの端を強く握りしめていることに気がついた。その先は白濁の液体の中につながっていた。
「ま、まさか。これって」
若い兵士がうわずった声でいった。
爪先が痺れるほどの緊張が人間のあいだを駆け抜けた。
カーベルが掴む物は、衣装の端に見えたのだ。それは彼らが見たこともないほどに美しい織りだった。
「……か、神様? ……神……様……」
ミロウドが真っ青な顔でつぶやいた。
「あ、あげろ。いくぞ!」
男たちの力強い腕が、白い液体の中に差し入れられた。
「せーーのお!」
白い飛沫がすべてを濡らした。
もはや人であるカーベルは打ち捨てられていた。
深い木の割れ目からクンフの胎児が引き出されるように、老人の顔を持つ神が姿を現した。
ざばざばと、甘い香りの白濁が流れ落ちていく。
男たちは寄ってたかって神に腕を回し、ゆっくりとゆっくりと幹に身体を横たえていった。
人間たちは言葉を失った。
その眼は虚ろとなり、息は荒く短かい。
妖魔に憑かれた妖精のように、ただ黙々と神の全身を引き上げていった。
彼らの前に現れたのは、老いさらばえて皺を深く刻む男性の老神だった。
「…………」
人々は一言も発することなく、神を見つめていた。
老醜の言葉がふさわしいはずの姿だ。しかしそれでもなお、人をおののかせる美しさを持っていた。
「なんということだ……これが神様か……」
兵士を束ねるボンバヘッド軍佐がつぶやいた。
赤子をいとおしいと感じるように、理屈を超えたところで理性に服従を働きかける貴い容姿。知性を持つ者、持たない者、すべてに等しく作用する超常の美。
そこにいるだけで人を威圧し恐れさせる、神とよばれる者たち。
世界の霊長たる、不可思議な生物。
それが汎神族だった。
人の軍団はただちに体勢を整えて帰還の途についた。巨大な採掘機や移動砲は真先に出発した。隊をいくつにも分けて発ったのは、あらかじめ計画された人間流の陽動作戦だった。
この作戦は巨龍をも敵とした。神の戦いに係わることであるならば、できることは少しでもしておきたかった。
老神は、最も脚の速いキリン車に納められて、まっさきに移動を開始した。
「……なんだ? この霧は……」
兵士のひとりがつぶやいた。
次々と出発する隊が最後に近づいたとき、神の眠っていた木の器の周辺から、白く濃い霧が湧きだした。それは静かに、しかし速く広がっていった。
「カーベルは私と共に最後尾の隊で出発する」
撤退の総指揮を取るビドゥ・ルーガンが命令を伝えた。
インスフェロウは、過酸化草砲を擁する重機隊らと中程の順で出発する。そして先行する老神の隊と合流する手筈になっていた。
「各隊急げ! インスフェロウ、隊をよろしく頼む」
ビドゥ・ルーガンが言った。
「了解だ。ビドゥ・ルーガン。カーベルをまかせるぞ。必ず守り抜け」
無表情に告げる怪人の眼は、責任を求めて冷たい金の光を浮かべた。それは彼を見慣れたビドゥ・ルーガンにとってすら、ぞっとするほどの強制力を持っていた。
カーベルたちの隊が出発する時刻には、丘はすっかり霧に覆われていた。まるで重い雲が峠を取り込むように、丘とその麓は白く深い闇に飲み込まれていた。
「…………」
人々は甘い香りの霧に肌を濡らしながら静かに出発した。
なにかが身体に染み入る不思議な感覚がまとわりついて離れなかった。
最後を守る彼ら十名は、ほとんどが神とカーベルを引き上げた者たちだった。
白い飛沫を浴びた彼らは、誰かがなにかをささやきかけてくる幻想に捕らわれていた。
それはまるで誰かの思い出話しを夢のなかで聞いているような、心のうずく感覚だった。
黙々と進む兵士たちは,やがて荒野に至った。
神の転送は続いていた。
光は激しく飛び散り、あたりを美しく照らしていた。
傍を通りすぎる人間たちは、その様子を見て安心した。神と直面せずに済んだと考えて。人々は一様に光から顔をそむけて、急ぎ通り過ぎようとした。
それは無理のないことだった。
しかしそのことが、彼らに見落としのあることを気づかせなかった。華麗な光の色が変わっていたのだ。そのことはインスフェロウたちの仕掛けた時間遅延場の罠が破られていることを意味した。汎神族には通用しなかったのだ。
神々はすでに現れていた。
その数二柱。
一柱は銀色の髪が美しい、青年の姿を持つ男神だった。
さらに一柱は、黒い髪と白い肌を持つ華麗な女神だった。
二柱は、若く精力に溢れた活発な瞳を持っていた。
神々はわずかに位相をずらした空間に隠れて立っていた。
彼らの姿は人間たちには見えない。隊列とは手を伸ばせば届くほどの近さにもかかわらず、インスフェロウですら気づいていなかった。
位相遷移は単純だが、極めて効果的な隠れ方だった。
彼らは審理の神々の代理として派遣された。彼らの使命は四十年前の戦いの決着を、予知の通りに実現することだった。
その責任は重いが、名誉ある役割であった。
それはふたつの国の戦いを真に終結させることである。役目の性格上、広く世界に姿をさらすこととなるが、それは誉れ高い仕事として知られていた。
その役目を望む神は多い。
元来が汎神族は、自らが直接に対面しない不特定多数の神々に自分を記憶されることを嫌う。
そのことは記憶を遺伝する汎神族にとっては、ごく自然な欲求だった。好ましくない印象として記憶された自分の名と姿が、自分の知らないところで子々孫々遺伝されて、記憶されてはたまらない。
それゆえに汎神族の間には、人の世界でいうところの有名人はいなかった。己の存在を広告するに等しい審理の役目を望む柱が多いということは、汎神族にとってかなりに特別なことだった。
汎神族は、人間がなにをしているかを正しく理解していた。彼らの荷物の中には、救出された汎神族がいることも知っていた。
それでありながら彼らは、人間の軍隊が通りすぎるのを見過ごした。
そしていま、カーベルたちの一行が前を過ぎていった。
「彼らは汎神族の匂いがするな。知塩の匂いだ」
銀髪の青年神がつぶやいた。その声はとなりに立つ、黒ずくめの女神にのみ聞こえた。
「知塩……我が汎神族の記憶が結晶化した知塩と言われるか?」
黒髪の女神が、切れ長の美しい目をむけて聞いた。
ガラスのように光を散りばめた漆黒の瞳は、音を立てるかと思われるほどに華奢だった。
小ぶりながらふくよかな真紅の唇が、奇跡のように言葉をつむぎ出していく。
「昭歌(ショウカ)の丘で知塩を得たと?」
黒髪の女神は、髪と色を合わせたブラウスを波打たせながら青年神に聞いた。
物腰の柔らかな様はみやび。
黒く控えめな瞳は慈愛に溢れ、クンフをも愛する豊かな魂を映していた。
色の濃い睫は、瞳を覆い深い知性を感じさせる影を作っていた。まっすぐに伸ばされた背筋は、瀟洒な黒マントを一分の隙もなく着こなしていた。
「魅寿司(みずし)殿。このまとわりつく濃い知塩。いずれの柱の知塩とみるか」
「昭歌(ショウカ)の丘と言うは、真四季様の丘」
魅寿司(みずし)が応えて言った。青年神は、うなずくことなく首をかしげた。
「事が複雑になる。しかし我々は人間を守らなくてはならない」
「そのとおりです。人間たちを約束の刻までに救わなければなりません」
「それが我々の使命のひとつだ」
「名誉あるお役目……」
汎神族は知っていた。いまの人間たちは狂信的な思いにとらわれつつあることを。そして恐れを失い、武器を持つ大勢の人間に責めたてられたとき、汎神族はたやすく殺されることを。
汎神族はエルアレイを訪れた真の目的のために、姿をくらませることにした。
彼らは人の都、海京を寝所と定めた。なぜならそこはかつて汎神族・白鷺が愛した街であり、多くの神が祀られた場所だったからだ。そこは汎神族にとって、とても心地よい場所だった。
「征轟丸の勝利を確実に実現することと、この地の人間を残らず救う。それが我々の誉れある使命だ」
美しい青年神が力強く宣言した。
やがて数刻の後。
エルアレイの上空に巨大な神の虚像が現れた。
それは不思議にも、あらゆる場所から等しく己を見下ろす姿として見て取れた。
神は十五フンに渡り、神々しい舞いを演じた。
ーーしゃららんーー
音までが大地に流れた。
その姿はかの青年神だった。
赤いの衣をまとい、金の装飾具を多く垂らしていた。
長い銀髪が、衣装のように舞い散るさまのなんと壮麗であることか。
人間は、その奇跡にたちまち気づいた。それは人が家のなかにいても雨の気配を知るように、肌で感じる感覚だった。
人々の多くは地上にひれ伏した。顔さえ上げることができずに、ただ聞こえてくる楽曲の音に恐れ震えていた。
「アィーーリイーーァアーーゥドゥネーーッ」
人の耳にはそう聞こえる法呪文がエルアレイの空に流れた。
するとエルアレイのすべての地に、祝福の金粉が落ちた。
青年神は美しい黄色の左手を一振りした。
一陣の風が起こり、人々は青年神の甘い香りを嗅いだ気がした。
「私は監業官である」
聞き誤ることのない明瞭な人の言葉で、美しい青年神は名乗った。それは地下で仕事をする者たちにもはっきりと届いた。
「命を伝える。天海女(あまあま)は征轟丸との戦いに破れた。審理は遙かな過去についているが、その実現は未来のことである。そして約束の刻は、いま訪れようとしている」
マウライ寺には多くの問い合わせが殺到した。この変事に際して、人々はなにをすればよいのかと。しかしマウライ寺にもその答えの用意はなかった。
「ゲイゼウス様。人々が動揺しております」
人々の心の安寧をも司るゲイゼウスは、意を決して寺の庭に立った。
たくましい両手を三回打ち鳴らして神を呼ぶ所作を取った。
彼は天を仰いで問うた。
「……神よ。いずこから参られたか知らぬ神よ。貴い御言葉を賜り、我ら人の子は意を疑うものではない。しかれども許されるものであれば問いたい。約束の刻とはなにであるかを」
驚いたことに神はその言葉に応えて言った。
「天海女の沈むときである。だが心安んぜよ。人の子は裁きの戦いに関与しない。責任を負うべきは、かつて天海女の乗員としてあった我が汎神族のみである」
神の技にひととき言葉を失ったゲイゼウスであったが、彼の責務が勇気を与えた。ゲイゼウスは重ねて聞いた。
「天海女が沈むと言われるか? して天海女とは」
「汝らの住まいとするものである」
「……神は……このエルアレイを語られるか?」
声はすべての地に届いた。しかし人々は意外なほどに、言葉の意味に冷静だった。
ゲイゼウスだけではない。エルアレイの者たちは、心のどこかでエルアレイが神の裁きを受ける時が来るのではないかと恐れていたのだ。
「天海女の確実な撃沈と、人の子の安全を確保するのが我が使命であればこそ」
「我等の安全は保証されると言われるか。それはいかようにして」
「確実にして漏れなきは、人の子を天海女からすみやかに脱出させることである」
「脱出と?」
「しかり。ただの一人も誤ることなく救いだすことを約束しよう」
「神よ。我等にエルアレイを棄てよとおおせられるか」
「仮住まいであることを知るがよい」
ゲイゼウスの声もまた神の声同様にエルアレイの全ての者に聞こえていた。少しずつ、少しずつ言葉が動揺が広げていった。ゲイゼウスはさらに聞いた。
「この島が神々の奇跡であることを我々は知っている。しかし既に人が住み、長の年月がたっている。我々はぬぐい去ることのできない穢れをつけているが、いかに?」
「天海女は再び使われることはない。定められた約束の刻に破滅を迎えることを、慎んで待つのみである」
「我々はこの島を去らなければならぬのか」
「約束の刻は、十日後に迫っている。従属生物ビバリンガムの命によく従い、すみやかに退去せよ」
青年神はゆっくりと波打つ銀髪を左手で跳ね上げた。
ゲイゼウスが言った。
「私の使命は住民の生命と財産を守ることである。そのためにエルアレイを離れることになるとも、それが最善であるならば迷うことはない」
「良き覚悟である。我は人が無為に死ぬことを望まぬ。そなたを信頼する」
極めて簡潔な言葉だった。
しかしそれは人間にとって、絶対の命令であるとして捉えられた。
ーーエルアレイを去らねばならない? ーー
この地で生まれ育った者は多い。財産の全てをつぎ込んで、エルアレイにやってきた者も多い。それは天災のようにあらがいようのないことなのか。
ゲイゼウスは神の言葉に誘導されたかのように、いともたやすく結論にたどり着いてしまった。
「……ぉぉおおぉぉぁぁあああぁぁぁっ……」
どこかから音がした。
地鳴りとも、こだまともつかない音がエルアレイの空を満たした。
それは神の壮麗な技に比べて、ひどく粗雑な響きを持っていた。
「この声は……人の子か。何者であるか」
天空の神は青い瞳を大きく見開いて言った。いま発動されようとしている法呪に気がついたのだ。
「……っぁぁぁああっっ………………あっ!」
鋼鉄のような気合が神に炸裂した。
大空の神の姿が、水面の映し絵のように波紋を広げて揺らめいた。
人間たちの視覚は触覚を凌駕した。空を見上げていた者すべてが、現実にはない衝撃波を全身に受けたと感じるほどのショックを受けた。
地上のどこかから、火矢が打ち上げられた。それは火薬の炎を引きながら、神の映像の近くで破裂した。しばらく遅れて爆発音が人々の耳に届いたとき、火矢からまき散らされた無数の符をスクリーンにして、人の女性が姿を現した。
「……まさか、カーベルか?」
ゲイゼウスは息をのんでその姿を見つめた。
「なにをする気か」
しかし彼の問いに答える者はいなかった。
青年神の眼は好奇心に輝き、人間の法呪を見つめていた。すでにその意識にゲイゼウスはいなかった。
「……開口……一場……説破を……」
神と対面して大空に姿を現した人の女性。銀色の髪のカーベルが声を発した。
それは人の技を超えた法呪だった。
しかしそれでも神の法呪に比べれば、あまりに稚拙な映像だった。
話す言葉も不明瞭極まりなかった。
「人の娘よ。名乗れ」
見知らぬ神が人の名を問う。それは稀有なことだった。
「ベル……カーベル……」
「力強き法呪の使い手よ。カーベルというはこの地の戦士と記憶する。見事な法呪である」
「…………」
カーベルの頬がわずかに赤らんだかに見えた。この異常な状況においてさえ、人は神の言葉に喜んでしまう。
「ィィキイィィィィィッッン」
神の高速言語が轟いた。次の瞬間、カーベルの映像は見事に鮮明化した。
「おおおっ」
地上の人間たちにも、神がカーベルの強引な法呪を助けたことを理解できた。
「我に言葉をかける人間よ。それが我が使命を補填することであるを望むぞ」
「情と道理を知る神に感謝奉る。我が名はカーベル。エルアレイを防衛する者である」
「大儀である」
神は鷹揚にうなずき、わずかのあいだ、カーベルの姿を白く光り輝かせた。
しかしカーベルは、その祝福に気づかないようすだった。
「我は問い、答えを欲する」
カーベルは両手の指を二本ずつ組みあわせる最敬礼で神に相対した。
「なぜ神々はそれほどまでにエルアレイの撃沈を実現しようと欲せらるるか? 勝敗が決したことで、既に我がエルアレイは戦いの役は終えているのではありませぬのか」
かなりに攻撃的な口調でカーベルは聞いた。
「勝負が決することと、物理的に船が破壊されることは違う。なぜなら船が散る様は限りなく美しいからだ」
「それは残酷なことではありませぬのか」
「汎神族も現実を見たいと思う」
「エルアレイの撃沈を見たいと?」
「予知の成就を見ることは美しい」
「予知の成就? これはしたり。神々はエルアレイに定められた未来が変わる可能性を認めらるるか」
少し困ったように青年神は眉を寄せて微笑んだ。
「未来は変わらない。そして天海女の撃沈は確実な未来だ」
「神々は未来をかいま見る法呪を持たれるといわれますか」
カーベルは法呪のプロフェッショナルである。未来視は原理的に不可能であることと教えられていた。それは汎神族の研究が人間にフィードバックされた、ほんの一例だった。
「未来視はできない。天海女と征轟丸は勇敢に戦った。そして死力を尽くした果てに決着を見た。我らはその真実を全うさせることこそ誠意であると信じる」
「過去に決着を見たことで、戦いの意義は完結したのではありませなんだか。そのことにより利益を得る者は、すでに利益を手中に収めたのではありませぬのか」
「そのとおりだ。すでに勝者の権利は行使された。敗者は未来の真実をもって、甘んじて負債を受けいれた」
「神よ。理解できませぬ」
カーベルは食い下がった。彼女の感覚は人間にとって、とても素直な思いだった。
それゆえに地上の人間たちは、カーベルの神への抗議を止める者もないままに傍観していた。
「戦いの意味は、勝者の権利を正当化することで意義を失うのではありませぬるか。なにゆえ死者に鞭打つ必要がありましょうや」
「正義とは正しく事が成されることだ。利害を異にする者同士が誠実に事を運ぶためには、互いを深く信じあうことが肝要だ。そのためにはあらゆる約束が履行されなければならない」
「しかし状況が変わっておりまする」
「我々から見れば、なにひとつ変わってはいない」
「人間は長く住み、ぬぐえぬ穢れをつけましたぞ」
「戦さ船は邪悪な意志を持つ不条理の存在だ。人の穢れは語るに及ばない」
「ならば我らは忌み物となりましょう。不測の事態となり、エルアレイの撃沈をさまたげましょう」
「無理なのだ。人間よ。まったく不必要な支出である」
辛抱強くカーベルとの会話を続けてきた青年神は、いささか飽きてきた。言葉じりが断定的になることを隠さなかった。
「人にとっては必要なことでありまする」
カーベルは、稚拙な言葉を吐いたことに気がついた。自らの思いを言い張ることでなんの解決になろう。議論に言葉が追いつかなくないことに焦りを覚えた。
「我はいま。人の言葉で語るぞ。人の子カーベルよ。貴様盗人猛々しいぞ」
神の物言いには、からかいの音があった。
「我には神の論理を正しく理解できぬかもしれませぬ。しかし我も人の理屈で動きまするぞ。そのことにより周囲にもたらす結果が形をとり姿を見せましょうぞ」
「詮もなし。人の論理を行使するは、人の社会においてのみおこなえ」
「不公平でありましょう。神の論理は人の生活に及ぶというに」
不公平。それは地上から見上げていた人間たちが、息を呑む言葉だった。
「誤るな。天海女は汎神族のものであるぞ」
「人は時間をかけて住みつき、長く産業を起こしました」
「元来が不法なことである」
「ならば、なぜ!」
カーベルは拳を振り上げていった。
「はじめにそれを宣言しませなんだ。なぜ今におよびそれを言われますか」
「人は天海女から汎神族の品々を持ち出した。汎神族がそのことに片目をつぶり、人に利益を与えていたことを仇と言うか]
「はじめから禁じられていたものであれば、我らは法を守りましたものを」
カーベルは頬が紅潮していくのを、押さえることができなかった。
まるで悪辣な居直り強盗の論理ではないか。
「おまえたちは人間の命を救うと同時に、天海女の撃沈をくい止めようというのか」
「そ……そのとおり」
カーベルはわずかに口ごもって言った。
「人の命を救うことにおいては、我々の目的は一致するぞ」
「この地には神もおられまする」
「言葉がそり合わぬな。我らは天海女の所有権を主張する。人は天海女の専有既得権を主張する。ならばそれぞれの思うところを成そうではないか」
「なんと?」
「我らは我らの計画どおり、天海女の撃沈を実現する。人は天海女に住みつづけるが良い」
「人を巻き添えにされると言われるか」
「巻き添え? 約束の刻は知っているはずだ。注意深く行動すれば巻き添えなどという言葉は意味を持たない」
「それぞれの想うところを成すと?」
「人の子をむざむざと失うのは、我々の本意ではないことを知るがよい」
「我らはエルアレイを襲うすべてのものにあらがいますぞ」
「汎神族は約束の刻を実現させる。そして同時に一人でも多くの人の子を救おう。それが我々の種としての役目だ」
カーベルの鋭い瞳が怒りで光をはらんだ。
言葉で神にかなうはずもない。いまなぜ自分が議論を挑んでいるのか目的を見失いかけていた。
ーー考えろーー
直感が叫んでいた。
ーー問うべきことがあるはずだ。なにかを見落としているーー
カーベルの直観は、神の論理のどこかに奇妙な点があることを感じていた。
「人は神の掌でわがままを言い、ごねることしか知らぬ幼子と言われますか」
カーベルは時間を稼ぐために、おろかな言葉を発した。
「繰り返すな。おまえの言うとおり、それぞれの想うところをなすのだ」
「……納得できませぬ。できませぬぞ。なにかが不自然でありましょう」
「いまだ言葉が足りないというか」
「たりませぬ。神は人が住むことを……なぜ許されたのでしょうや? 禍根を残すことになると知れたことではありませぬか?」
「道理を知るものであれば、説得に応じると人を買いかぶったかもしれぬの」
「言葉を飾りまするな。神よ。それは真実を覆い隠そうとしている物言いでありましょう」
「では我はなにを隠しているというか?」
神は長い銀髪が頬にまとわりつくのを気にするふうもなくカーベルの答えに身を乗り出した。
「……神は人が……エルアレイに住むことを黙認されたのではありませぬか?」
青年神は、ひととき沈黙した。
カーベルの意外な言葉にひどく心を動かされた様子だった。
「人の娘よ。なぜそう思う」
おとぎ話をせがむ子供のようだった。青年神はカーベルの言葉を楽しみ始めていた。
青い瞳は期待にきらきらと輝いた。
「神はなぜと知れぬ理由で、人が住むことを勧めたのではありませぬか?」
「ほお?」
「すなわち我々がここにいることは、神の計画なのではありませぬか?」
「賢い者よ。直観により感情する者よ。いったいどのようにしてその答えにたどりついた?」
「エルアレイを持つ神々は、自らが手を下せないなにかをさせるために、人間を招いたと考えられましょうや」
「はははははははっ」
青空に抜ける高笑いが響いた。青年神が爆笑した。
「くっくっくくっ。惜しいな。おまえはわずかに間違いを犯している。天海女の神々は、いまとなっては天海女の防衛を望んではいない」
「な、なぜに?」
「簡単なことだ。松葉国はすでに賠償を終えた。さらに事を構えてなんの得があろう」
「予知で決した戦いを、さらに現実の戦いで覆そうというのではありませぬのか」
「天海女は予知で負けと決されたいくさ船ぞ。仮に再度戦いを挑むとしても、なぜ負けが決まっている船を使うか。そのような勝機の薄い戦いを行い、ふたたび負けるようなことがあれば、いかにして償うことができるや」
「それゆえに松葉国は、天海女の防衛を望んでいないと言われますか?」
「いかにも。道理であろう?」
青年神は大きく眼を見開きカーベルを威嚇した。神の全身が美しく発光して、それを見る人々にインパクトを与えた。
「万が一。万が一に……エルアレイが約束の刻に撃沈を免れたとしたら、そのときにはなにがおきましょうや?」
カーベルは食い下がった。
いま言葉を失ってはいけない。この貴重な話し合いはその瞬間に終わる。
「それはありえない」
「あくまで仮定の話。神よ。その想像力は許されよ」
「愉快な想像だ。あり得ぬことにあえて執着するか」
「神の言葉とも思えませぬ」
「では答えよう。エルアレイが撃沈を免れたとしても、既に決定された松葉国の敗戦はかわることはない」
「エルアレイの物理的な撃沈には、なんの意味もないと言われますか」
「天海女はすでに沈んでいるのだ。あわれな人間よ。それが理解できないか」
「あくまで予知でありましょうぞ。しかも四十一年もの未来の。その長い時間の間にまったく外的な要因がないとは考えられないではありませぬか」
「……人の子よ。すべてを考慮されたうえでの予知である」
「しかし明日、嵐が起きるかもしれませぬ。人の戦いに巻き込まれるかもしれませぬ」
「まだ理解できないか? 予知の意味を」
「人は昨日までの人とは違いますぞ。貪欲に学び、新しい技術を身につける知恵を持ちますぞ」
「カーベル」
神は彼女の名前を呼んだ。
その一言は、暴風のように彼女の心を攪乱させた。
「それが見越せるとしたらなんとするか」
静寂がエルアレイを満たした。
神の言葉の意味が、冷たい雨のように人々の心を濡らしていった。
カーベルは言葉の呪縛を力まかせに振り切り、口を開いた。
「人は……まさか……人がエルアレイに住みつき、産業を起こすだろうことも、予知の要素に入っていたと言われますか?」
「…………」
「人がエルアレイを防衛するために、巨龍のいくつかを撃退することまで。いまこうして神と言葉を交わすことまで……」
青年神は辛抱強く言った。
「予知とはそういうものだ」
「信じられませぬ。いやありえない。そんなことが……」
「天海女と征轟丸は、そのことを可能とするためのいくさ船だ」
「神々はその論理を理解しておられますか? そのような予知の詳細を納得して用いられておられますか?」
「人は川の水が流れる理屈を理解してはおるまい。それを理解せずともイカダを利用しているだろう」
「それとこれとは違いましょうぞ。川の流れはあらゆる生き物が見て感じることのできる種類のもの。しかし神の言われる予知は超越の技であります」
「人は算術を操るではないか。それは犬にとって理解を超えたものであろうよ」
「では……では、エルアレイはいったいどうなると言われます? 我々の行いがすべて予知に沿うものであるならば、その結末はどのようなものでありましょうや?」
「天海女の撃沈だ」
「それ以外の選択肢はありえないと?」
「予知に変更はない」
「我々が自分の意志で行おうとするすべてが、結果的に予定された未来をなぞっているといわれますか。いま我らがエルアレイを救おうとしているすべてのことが、エルアレイの撃沈にむけた手順にすぎないといわれますか」
「知らなければ良かったことよの」
「なにか……なにか、手はあるはずです」
「人の子よ。悲観することはない。おまえたちは操られているのでない。あくまでも自分の意志で動いている。ただし、その行動を予知されているだけだ」
「おなじこと……!」
「ひとつ。希望をやろう」
「…………」
「予知は誤ることはない。しかしどのような姿を持って成就するかは、我々にもわからない」
「なんと言われますか? 神々がわからない……?」
「天海女はどのように撃沈されるのか、そのことは誰も知らないのだ」
言葉の意味がカーベルの脳裏に染み込むまでに、しばしの時間が流れた。
「カーベル。そのことをよく考えてみるがよい」
パンッ、と鞭のように鋭い音が空を走った。
それはカーベルの緊張を断ち切る音だった。
ゲイゼウスを始めとする地上のあらゆる人間たちも、眠りから覚まされたように眼を瞬かせた。
神は議論の終焉を宣言した。
「人間たちよ。我は言葉で知識を与えた。このことの報いとして贄を欲する」
その言葉は人間にとって、とても自然な理屈に聞こえた。
神に説明を求めたのだ。人は捧げ物をするのが筋であろう。
「我は多くを欲することはない。もっとも美しき人間を贄にもらおう」
「なにを……」
カーベルが抗議しようとするのを遮って神は言葉を続けた。
「そこな者。そなただ」
誰しもが神はカーベルを指名したと思った。まっすぐに伸ばされた指先は、地上に立つカーベルたちの隊を指していた。
ビドゥ・ルーガンはトランス状態にあるカーベルの前に立ち、全身で彼女をかばった。そして両の掌を合わせて恭順の意を示して言った。
「恐れながら神よ。彼女は偉大な法呪の使い手であり、エルアレイの民に必要な人間である。どうかその意を汲み再考されんことを」
「ビドゥ……」
カーベルは彼が身体を張って神に意見するとは想像もしていなかった。それは涙が流れるほどにうれしいことだった。
「神よ。どうか」
愛する女性が贄に指名されることは、人として名誉なことなのかもしれない。
しかしビドゥ・ルーガンは己の愛に正直な態度で神へ抗議した。
「人の子よ。おまえは思い違いをしているな」
にべもない言葉で、青年神はビドゥ・ルーガンの勇気を一蹴した。
「なんと?」
「私が贄に欲するのは、この地がもっとも見目麗しい人間ぞ」
「カ、カーベルではないと?」
ビドゥ・ルーガンは青ざめた。
「では、いったい……」
その隊に、他の女性はミロウドだけだった。
「しかしミロウド様は、エルアレイの人間ではありません」
勘違いしたらしいことを知ったビドゥ・ルーガンは、ひどく動揺して口ごもった。自分の恥である以上に、カーベルを侮辱したことをに気づいたからだ。
悪趣味にも青年神によってその光景までもが大空に投影された。
「美しい男よ。おまえは愛に深いまことの魂を持つ。そなたに愛された女は幸せ者よ」
「神よ! 人をからかわれるな!」
怒りに眼がつり上がったカーベルが割り込んだ。
「贄を求める神よ! ミロウド様を望むというのか」
掴みかからんばかりの殺気でカーベルが言った。
「我が贄として欲するこの地でもっとも美しい人間。それは迷うこともない」
なにをいまさら、という口調で神は桃色の爪を伸ばして言った。
「戦士ビドゥ・ルーガン。おまえ以外にありえぬ」
「…………っ」
あまりのことに人間たちは言葉を失った。
言葉の意味が染み込んでくるにつれて、カーベルの全身は怒りと嫉妬で紫に膨らんだ。
「来よ。天海女でもっとも美しき人間よ」
「神よ! 名を名乗られよ!」
カーベルが絶叫した。
「不遜な要求を口端にのぼらせる、その名を名乗られよ!」
天空の神は、色とりどり光を全身からにじませた。それが怒りなのか賛辞なのかは知れなかった。しかし激しい感情の動きであることは間違いなかった。
「人間の偉大な法呪使いカーベル。おまえは私を知っている」
「なにを……! さらに我をたばかるか!」
「かけらとは言え、尊敬すべき佐竹様の記憶である知塩を食らった者よ」
青年神は諭すようにカーベルを見つめた。
「汝の戦友にあえて名乗れというか?」
「佐竹様? あの老神が佐竹様だというのか? しかしあの丘は真四季様の魂印塔が立つ丘であるぞ。それを……戦友……? どういうことか」
「我が佐竹様は昭歌の丘にあって、佐竹様と私の魂印塔を維持されておられた。なんとすばらしい御技であることか」
「魂印塔を維持していたと? それは征轟丸を欺瞞するためか。……まて。いま、御柱の魂印塔と言われたか? 神よ」
「いかにも。人の子よ。佐竹様の記憶のかけらを身にまといし人間よ」
「……まさか」
カーベルは白い液体となって全身を包む神の記憶と、人としての理解力のギャップに苦しんだ。
カーベルが落ちた白い液体は、神の記憶が結晶化した知塩である。そして知塩を全身に浴び、口にしたカーベルは、佐竹の記憶の一部を己がものとしていた。いまも神の記憶は、彼女のものとしてじわじわと定着しつつあった。
「我は天海女の戦士。真四季である」
「ま……しき……様」
カーベルの脳裏には、少年の姿の真四季がありありと浮かび上がった。
かつてともに戦い、征轟丸を倒すために尽力した戦士の記憶を遺伝する神。
「まて! ビドゥをどうする気か。彼は……」
カーベルは私情を叫びそうになるのをこらえた。
いま言葉に出せば、間違いなく神を攻撃してしまうだろう。この後に及んですら神は侵しがたく貴かった。
「彼は私のものだ。美しい人間は我の好むところである。心配はない美しい人間を繁殖させて、品種固定するのは我が楽しみぞ」
「ああああっ!」
彼女の理性のタガが消し飛んだ。
カーベルの攻撃法呪が炸裂した。板符が飛び散り、巨大な炎が空中で四散した。
大地を揺るがす轟音が空に響いた。
しかし必殺の一撃は真四季に、なにひとつ影響を与えなかった。
戦うことを記憶する汎神族の力は、想像を絶するものがあった。
地上のビドゥ・ルーガンの周囲に、透き通った四本の楓の木が現れた。
それは人の背丈ほどの大きさに、するすると枝をのばしたかと思うと、掌のような葉を小さく打ち振りながら、彼の身体を包んでいった。
その枝と葉は、位相がずれているかのような、向こう側が透けて見えるにも係わらず、ビドゥ・ルーガンの身体はがんじがらめに固定していった。
「ビドゥ・ルーガン様!」
ミロウドが法縛解呪の法呪を唱えながら、楓をひき剥がそうとしたが、なぜかビドゥ・ルーガンの身体に触れるばかりで、物理的に拘束しているはずの葉の実体には触れることができなかった。
「……くっ………カーベル!」
神の技に捕まったことを知ったビドゥは、彼女の名を呼んだ。しかしその声すら人々の耳には届かなかった。
楓の一本が突然に成長を始めた。残りの三本は地面から根こそぎ引き抜かれた。ビドウ・ルーガンの身体は引き抜かれた楓とともに、すさまじい勢いで空中高くさらわれていった。
真四季はカーベルの眼前に吊るされたビドゥ・ルーガンを、鑑賞するかのようにゆっくりと回転させた。
「活力にみなぎる豹のごとき男よ。汗にまみれた姿も美しい」
次の瞬間、彼の衣服が消し飛んだ。
「ビドゥ!」
カーベルの悲鳴がこだました。
「美しい」
全裸のビドゥ・ルーガンを見つめて、巨大な真四季がつぶやいた。
「神よ……」
ビドゥ・ルーガンが恥辱の苦悶を口に出そうとしたとき、ふたたび衝撃が彼を襲った。ハンマーで頭を殴られたような衝撃が去ったとき、彼の体毛は一本残らず失われていた。
汗にまみれた彫刻のような裸体は、きらきらと輝き神の眼を楽しませた。
「美しい。なんとあでやかな肉体美であろう」
満足そうに神は嘆息した。
「ビ……ドゥ……!」
カーベルは逆上した。
身体の芯からこみ上げる怒りは、本能的なものであり、そこに理性はなかった。
「インスフェロウ! インスフェロウ! 神をいさめて!」
言葉を選ぶ余裕もないままに、カーベルは絶叫した。彼女の従属生物に絶望的とも言える命令を投げつけた。
「応。カーベル」
その声は法呪の音で応えた。
地上のどこかから、先行する部隊のひとつにいるはずの彼が応えた。
強い法呪の心得を持つ、あらゆる生き物がその声を聞いた。
「……引力塊あれ……」
重く響く声が命じたそのままに、真四季の姿の上空に、青黒い引力塊が渦を巻いて姿を現した。
真四季がそのことに気づくよりも速く、灰色の怪人は続く法呪を紡ぎだした。
「重き撃ち機械の肝要至極は彼の牽く力に因果ありて久しくありて此れに至る」
その法呪は、退却しつつある人の軍団に届いた。インスフェロウは荷台車に積載された過酸化草砲に板符を張り、関連づけていたのだ。言葉に応えて一基の過酸化草砲が、引力塊に向かってまっさかさまに落ちていった。
それは人の目には巨大な砲が、空に飛び上がったかに見えた。
「ッィィィーーン」
真四季の高速言語がほとばしり、過酸化草砲は見えないネットにからめ捕られたかのように勢いを失った。
すかさずインスフェロウはとどめの法呪を走らせた。
「熱き衝撃の光格線あれ」
針よりも細い、超高熱の力線が金属音を立ててガラスの砲身を貫いた。
ドッ……オオン……。
雷が万も鳴った。空飛ぶ鳥を失神させるほどの衝撃波がエルアレイをなめ尽くした。
過酸化草砲は、真四季の映像のごく近くで爆裂した。
それは神の法呪を破綻させるのに十分な衝撃だった。
ふたたび人々が空を見上げたとき、そこには真四季のサポートを絶たれて、粗雑な姿をさらすカーベルがあるだけだった。
「ビドゥ……どこ? ビドゥーーーーッ!」
空から姿を消した恋人を求める、彼女の歪んだ顔だけが青い空に浮かんでいた。
口を開けて涙を流すその顔は、恋人にのみ美しい。
「いやあぁぁーー!」
聞く者の魂を掻きむしる凄絶な悲鳴がこだました。
ささくれだった陰気の大地に、過酸化草の白い灰が降り積もっていった。
やがて人々は知ることになる。
すさんだ怒りが、呪いの絶望が、愛に泣く悲しみが、いくさ船・天海女の本能にささやきかけたことを。
黒板に爪を立てるがごとき不快な音が、深く重く意識の底を攪拌した。
人には恋人への熱烈な愛に見えるカーベルの姿も、神の摂理においては、濃い情念の叫びだった。熱い想いはきりきりと天海女の意識を刺激した。
「ああっ……ビドゥ」
消え行くカーベルの後ろ姿は、その背中から垂れる悲しみは。天海女のどす黒い闘志を目覚めさせた。
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