天海女の汎神族たちは、人間の祭に慶んでいた。
祭は壮大であり美しく見事なものだった。天海女も祭に酔い、自らの勝利を微塵も疑わなかった。
魚雷は流麗な軌道を描き出し、征轟丸の五十手、百手先を読む閃きは、滝を水が落ちるがごとく確実なものだった。
老神・佐竹は己の丘である「先漬け(さきづけ)」の頂上に座り、脚を組んでいた。眼は固くつぶられて、人間たちの奏でる楽に耳を傾けていた。
白鷺と真四季は、それぞれの丘に立ち、頭上に映し出される戦いの未来予想図を見つめ分析して、天海女と語り合っていた。
戦いはいまや一丈の魚雷も放たれることのない予言戦に突入していた。
戦さ船の戦いはこれからが真の頂点を迎える。
魚雷戦は所詮、予言戦のための情報収拾にすぎない。呵責なき真の戦いはこれからが本番を迎えるのだ。
「時知りてあり。薫るがごとく勝機はくゆる」
亞津(アッツ)の丘に立つ若い女神、由紀野が舞をはじめた。黄色の泥を塗りたくった黒い肌は、眩しい太陽の光をうけてきらきらと輝いた。
乾いて肌から落ちる泥のかけらは、かげろうのような動物性クンフに姿を変えて、彼女の回りを飛び交った。
遠くで行われている人間たちの祭りの響きが彼女の頭上にも投影されていた。手を振り足を踏みならす由紀野の踊りは、遙か人間たちにも幸いの波となって良い影響を与えた。
天海女は長い間隔をあけて、思い出したように魚雷を放った。
しかしそのほとんどは積極的に推進することなく海底深くに沈んでいった。それらは未来のための要素であり、計算された未来のある一点において、そこに存在するという事実が重要なのだった。
天海女と征轟丸は、フォークダンスを踊る男女のように、近づき離れ、追いかけ振り向いた。お互いに相手のことを意識しているようでもあり、無視しているようでもあるその姿は、恋人に至ろうとしている若者のように思惑ありげに見えた。
唐突に二丈の魚雷が天海女の近くの海から空中から飛び出した。
それは征轟丸の青い魚雷と、天海女の赤い魚雷だった。二丈は大空でひとしきり複雑な機動を行ったあと、示し合わせたかのように正面衝突をして爆発した。
征轟丸の後方でも四丈の魚雷が動きだした。
天海女の魚雷は、征轟丸を威嚇して進路を変えさせることに成功したかに見えたが、征轟丸へあと八十ケーメンツルに迫ったところで、かねてより展開していた不可視物理障壁に頭から突っ込み無駄に散っていった。
ふたつの戦さ船は、ますます動きを静かにしていった。放たれる魚雷の数も目に見えて少なくなっていく。ときどきわずかに移動することがあったが、汎神族たちにとってさえ移動の意味するところは計りかねるものだった。
時間だけが過ぎていく。すでに日は沈み日は昇り、丸二日が経過しようとしていた。
人間たちの間にも色濃い疲労が見えていた。子供たちは交替で眠りを取り、女たちは飯の支度に忙しかった。
祭祀の中心たる男女のみは一睡もすることなく、力強い舞を続けていた。それを見つめる汎神族らも消耗を隠せなかった。
繊細な彼らは人間以上に疲労に弱い。集中力がとぎれがちになるのは否めなかった。白鷺は一瞬、眠りに落ちた。
「……なりてあし……」
はっ、と目を覚まし、なにかの法呪文を放とうとした。その瞬間。
大爆発が火砲(カホウ)の丘を飲み込んだ。
天海女の最深部までを揺るがす衝撃が船体を駆け巡った。
人間たちは、なにごとかと怪訝そうな目を火砲(カホウ)の丘のほうにむけた。かすかに立ちのぼる白い煙が異常を示すだけだった。人間たちは何事もなかったかのように再び舞に興じた。
なぜなら天海女は悲観していなかったからだ。
天海女の放つ喜び憎しみ興奮の波動は人間たちが感じられるほどに明快なものだった。しかるに今の衝撃にも天海女はまったく動揺していなかった。それどころか強い歓喜の気すら放っていた。
天海女は八十フン前に火砲の丘が失われることを知っていた。そしてその瞬間に赤龍が征轟丸に対して致命的な一撃を加えることも知っていた。
天海女がほくそ笑んだ時刻。征轟丸の中心部では赤龍の産み出した悪夢が毒気を吐きだした。
すでに赤龍はその姿をとどめていなかった。征轟丸を呪う使命にのみ捕らわれた邪悪な怨霊と化していた。位相伝播により、遙か彼方からかすか伝わってくる天海女の慶びを感じるにつけ、己の運命を呪い狂気の度を深めていった。
それは計画された赤龍の素性だった。兵器たる彼は、ありとあらゆる悪意の塊であることが最善の存在だった。
破壊する悪意、冒す悪意、あざ笑う悪意、そして戦うという悪意。
状況に応じて最強最邪の攻撃力を行使することが赤龍の徳と言えた。
「憎し憎しや恩敵征轟丸は白鷺を害したぞ」
天海女が音で色で心相で、そして陰界を震わせて放った呪い言葉は、赤龍の邪悪さを一層に喚起した。
なす術もなく征轟丸は赤龍の毒に犯された。
天海女にとって状況は良くもあり、悪くもある複雑な局面にさしかかりつつあった。
短期的には天海女のほうが有利と言えた。火力の大きさ、人の資質。いずれも天海女が勝っていた。
しかし天海女は感じていた。予言戦は征轟丸に分があると。
征轟丸の未来予知、推論場の強力さは、戦慄を覚えるほどに優れていた。
天海女はただちにその事実を汎神族に告げた。
意表を突くには天海女以外の行動が必要だった。
しかしいかに汎神族とは言え、ひとつの生物が巨大な戦さ船の戦いに火力で介入することはできる道理もなかった。可能なことは、状況に予定されていない要素を加味し、敵の予言を狂わせることだった。
由紀野が意を決して立ち上がった。
小さな格子具を眼前の空中に浮遊させた。そして銀の小刀を取り出すと、ためらうことなく、左の手首に刃を滑らせた。
「我が血の属性を帯びしこの格子具は、我れの言葉をしみ入るように聴き、その意を髄まで心得よ」
左手首から滴り落ちる真紅の血は、空中の格子具に触れるやいなや、砂地に流れる波の飛沫のように消えていった。
「血は我。我に属するものならば、我と想いを一にするこそ道理たる。我が血は格子具の微細構造を埋めつくす。なれば我が意は格子具を覆い、この命に染め上げるを可とするぞ」
すでに人の使う牛乳瓶五本ほどの血が消えていた。
褐色の美しい肌は、心なしか青みを帯びたかに見えた。
「格子具よ。我が示し命じる事を理解しただちに実践せよ」
五十ケーメンツル四方に及ぶ天海女を覆い尽くす暗雲が出現した。それは天から墨壺が落とされたかのように、瞬時にして巨大な船体を飲み込んだ。稲光が万も閃いたと見えた瞬間、天海女の姿がかき消えた。
「時の値を遡及せよ」
渦巻く暗雲の中心に立つ由紀野の身体が、白々とぬめり始めた。瑞々しい肌が急速に衰えだした。堅い骨が細り曲がりだし、髪が潤いを忘れて髪留めからこぼれ出した。目尻に無数の皺が現れ、首筋が鱗のように弛み始めた。
「……我が刻をあがないて、天海女に奉ずるぞ」
ーー感に堪えないーー
天海女が言った。天海女は由紀野の心意気に感じて礼を垂れた。
天海女の巨体が彼女の言葉どおり、三十四フン前のその場所に現れた。
一種の時間循環を強制的に引き起こした由紀野は、天海女の位置のみを遡及し、以外の全てを連続した時間の中につなぎ止めた。
すさまじい時間不整合が起こり、矛盾事象が轟音を立てて補正されていく。
「おのれ。業腹なるは由紀野なり」
征轟丸が悲鳴を上げた。天海女が時間遡及による一発勝負をかける可能性を検討していなかったわけではない。しかしそのことは乗員である汎神族の生命を危うくするものである。まさか若き女神が自らの時間を捧げるとは断定できなかった。
すでに征轟丸から放たれた魚雷の七割が意義を失った。貴重な数十本の魚雷が無為に海底深く沈没していった。あまりにも未来予測の要素が狂いすぎた。
天海女も四割の被害は受けていた。しかし由紀野の法呪が完成するまでの三十フンの時間を活用できた天海女と、征轟丸のギャップは大きい。移動位置を計算の上で展開されていた魚雷は、深海から這いだして、征轟丸に向かって殺到した。
同時に天海女から幾千の魚雷と、重量砲弾が放たれて征轟丸に降り注いだ。
征轟丸は法呪障壁を展開し、さらに魚雷を毒殺するための呪札を、幾万枚と空に海にばらまいた。
黄色い呪い札が意志ある全てのものにまとわりついた。海の生き物はたちまち呪いをその身に受けてもだえ死に、魚雷も多くが失われた。
しかしなんの知性も持たない黄鉄鋼塊の重量砲弾は、あらゆる障壁と防御を撃ち抜き、征轟丸の装甲を破裂させた。
一瞬のうちに守勢に立たされた征轟丸は、剥がれ落ちる装甲を燃やし、煙を上げて全船体を祈り炉として天を燻じた。すなわち自らの船体を祭壇と化したのだ。
征轟丸に乗り組む汎神族四柱は、抵抗の機会もないままに、天海女の魚雷が転じた赤い巨龍どもに喰われた。
「我、御敵征轟丸を打ち破りしときを目前に控え、確固たる勝利の確立のために宣言す」
天海女の若き戦士・汎神族真四季が予勝利宣言を発した。それは勝利を確信した者が、敵に先んじて自らの勝利を天地に告げて、世の因果の流れを、己の勝利に傾注する法呪だった。
その詔は長い。汎神族の高速言語を持ってしても、言い切りに四フンの時間を要した。その法呪が終わったときに、戦いを審査しているすべての者は、天海女が征轟丸にとどめをさすことを勧告することだろう。
「まさに聖賢の要ふたたび燦然と世に明らかにせんとす。真理がために冥利を請いてまし」
白鷺を失った深い悲しみに涙を流しながら、真四季は両手を広げて法呪文を語った。
一度始めた予勝利宣言は中止することができない。予勝利宣言は、ある意味傲慢な言葉である。自分は勝利したと、戦っている相手に宣言するものなのだ。
しかし征轟丸はまだ諦めていなかった。邪悪な陰気はますます奮い立ち、船体を維持することを放棄した思考力は、天海女を道連れにする一点に集中した。
天海女の上では人間たちの祭が最高潮に達していた、天海女の勝利を信じて男も女も子供も老人も、我を忘れて歌い踊っていた。天海女の力は彼らに鼓舞されて高まっていた。
必勝の舞いを踊る人間たちの先頭には、首領ショウ・アルルカンの姿があった。
汗を飛び散らせ、強く足を踏みならす雄姿には、自らの勝利のためには、なにごとも厭わない気迫がみなぎっていた。
その耳に誰かがささやいた。
「ああっ、かなしやかなしや。我が天海女はニ十フンの後に轟沈を免れえぬぞ」
「……なんと?」
視線をわずかにそらして回りを見たが、だれも聞こえた風がなく、一心に舞いに興じていた。
「我は魚雷。赤い龍にして、征轟丸にとりつき害をなす者なり」
「龍殿は我のみに語りかけるか」
「我の言葉を聞くものに語りかけぬ」
ショウ・アルルカンは肝を冷やして耳をそばだてた。魚雷が人に語りかけるなど聞いたことがない。
「我はすでに形をも失い、征轟丸の中を漂うのみ。そして我はかいま見た。征轟丸には秘密の兵器あり。巨大な力を有するその大砲は五万発の弾を一度に弾き出し、天海女を倒そうとしている」
「この言葉を天海女は聞いているのか? 神々は聞いているのか?」
「聞く耳を持つ冷静な者のみが聞いていることであろう」
ショウ・アルルカンは息を呑んだ。
少なくても人のあいだで、巨龍を名乗る者の言葉を聞いているのは彼のみに違いない。
「勝利の予感に浮かれた者には言葉はとどかない」
その言葉を紡いでいるのは征轟丸だった。
征轟丸は人を騙し、天海女からの離反を企てた。
それは汎神族の道理に反する行いだった。
「我がその言葉を聞いてなんとする。我は天海女に告げる手段を持たない」
「聞く耳を持つ者よ。天海女を救い、我が神を救うのは、そなたの義務である」
「手段を知らぬ」
「まずは退避せよ。人の街に退き、舞いの舞台を築きなおせ」
「魚雷よ。我等がこの舞いの場を築くのに要した時と財を、たやすく街に移すことはできない」
「しかしそなたらの舞いが天海女を慶ばせていることを忘れるな。場を守ることよりも、舞いを続けることが肝要だ」
征轟丸の推論では、七ビョウ後に天海女の一斉砲撃が征轟丸に炸裂するはずだった。
「時がない。征轟丸の砲撃はすさまじい爆発を持って撃ち出される砲弾が成層圏まで上昇したのち、みぞれのようにこの海域全体に降り注ぐぞ」
アルルカンは法呪の目で彼方の征轟丸に目を向けた。
「見よ」
その瞬間。天海女の魚雷が幾百の海から躍り出て征轟丸に命中した。
「おおっ」
人間たちは舞いの手を止めて、遙か海の向こうで起きた大爆発を見つめた。
その様は欺かれたアルルカンの法呪の眼には、征轟丸の斉射に見えた。
「……いそげ……」
征轟丸は魚雷の声で、アルルカンをうながした。
彼は突然に決断を迫られて、その場に立ち尽くしてしまった。
老いさらばえた由紀野は活力を失い、丘の上に腰を下ろした。
亞津の丘に立つ彼女の魂印柱は、今も変わらず激しく燃え盛っていた。しかしそこに映し出された姿は、忠実に老神のものだった。
「子を成さずに死ぬることよ」
彼女は涙を流した。
天海女が感謝を込めて言葉を発した。
「貴柱の勇気と決断によりもたらされる我が勝利は、すべての神々の記憶することとなろう。我は広く正しく広告することを約そう」
天海女の推論世界には、すでに確実な勝利が見えていた。これから八十フンのうちに征轟丸への勝利宣言ができるに違いない。
いまは二千ケーメンツル先にある魚雷が、五十年後に征轟丸に炸裂することを特定できるのだ。すでに王手がかかったも同然と言えた。
しかし天海女は不安を覚えていた。
推論世界は勝利を信じていた。だが未来予知場が告げる要素に、暗い影があったのだ。
根拠のない不吉である。見えない脅威がすぐそこに口を開けているかに思えた。
「天海女よ。我は滅びに瀕する身。さらに竿頭、征轟丸に一矢奉ずることを助けたい」
由紀野は皺の寄った手を見つめながら言った。その手鏡には己の死が見えているのか。
「心休んぜよ。ローズベイブの育てし従属生物群が、征轟丸の魚雷を食い散らしているぞ。貴柱は心穏やかに時を待ちて、美しき勝利の舞いに心を馳せよ」
しかし人の従属生物が征轟丸に向かうことはなかった。
「とく! とく参れ。舞台を移し、再び天海女を慶ばせることこそ使命であるぞ」
アルルカンは独断で従属生物を駆使して、祭の舞台を移しはじめた。
彼は征轟丸に欺かれた。
祭が解散して祝いの法呪が解かれていく。空を覆い、あれほど集まっていた慶びのクンフどもが散っていく。
天海女はそのときになって異変に気づいた。それは想像もしなかった事態だった。
「なにゆえに祭をさまたげるか、アルルカン」
天海女の驚愕の想いがアルルカンの脳髄に響きわたった。
しかし真理を知る者、として自らを疑わない彼は、強く念じてその言葉を閉め出した。
「……おおっ……我が知が失せる」
それは天海女の悲鳴だった。
多くの従属生物までが戦いから気をそらしてアルルカンの不可思議な行動に協力していた。
人に祭り上げられる慶びが失せていく。希望が急速に遠のいていく。
天海女の推論場は瞬く間にひ弱な予言者へと落ちぶれていった。
「これはいったいなんとしたことか」
祭の解散を映像で知った佐竹も激しく動揺した。
心の乱れは悪循環を加速した。絶対運の量場が征轟丸に傾いていった。
呆けた天海女に征轟丸の魚雷が欺瞞をかけた。天海女は、進路を魚雷がかすめるというたわいもない陽動にやすやすとひっかかり、無数の魚雷の直撃を受けて傷ついた。
海京に戻った人間たちと、膨大な数の従属生物たちは、急ぎ祭壇を築きなおして、祭を再開した。
しかし征轟丸の巧妙な作戦は、その瞬間までをも計算していた。
征轟丸は天海女の真四季の予勝利宣言がとぎれたことを宣言し確認したのち、戦いを見つめる審査の神々に対してすばやく予勝利を告げたのだ。
「征轟丸から反対予勝利宣言がなされた」
いずこからか審査の神が女神の声を放った。
「双方からの予勝利宣言がなされた。前例に従いて勝者決定審議を行う。両者はその場に停止せよ。すべての魚雷を現位置に固定せよ」
戦争の審査を司る賢者会が、勝者の特定を巡って動きだした。
魚雷による撃沈がないかぎり、戦いの行方は審議により決定される。
それは秘匿されていた海底の魚雷の位置と仕様がすべて暴露されることを意味した。しかし両者はこれを公開する義務があった。
「ばかな……」
あまりのことに真四季は天海女の丘で空を振り仰いだ。
今のいままで勝利を確信していたのだ。予勝利宣言もまもなく言い切るところだったのに。
「人間め」
拳を幾度も振り下ろして悔しさを払おうと試みた。しかしこみあげる感情を押し殺すことは、どうしてもできなかった。
「白鷺よ。あなたの死を無駄にするのか」
真四季は失われた白鷺の丘に遠目をはせた。
強力な魚雷により、湾ができるほどにえぐられた丘は、いまだに赤黒く熱を帯びていた。
「……ローズベイブ。なんの真似だ」
彼はそこで動くものを見つけた。それは幾体かの従属生物をしたがえた、人の博士ローズベイブだった。
彼女はなにかの装置を手に丘の残骸に入り込んでいた。
やがてなにかを見つけたかのように、従えた従属生物たちに地面を掘り返させている。
彼女はその後ろでなにかの法呪を展開しているらしい。大きな丸い光の器が現れた。ゆるやかな時間遅延場のようにも見えた。
「審議を決した」
空から声が降り注いだ。
「両船いまだに雌雄を決さず」
「おおっ」佐竹が歓声を上げた。
「いまより六十フンを決戦の刻とする。両者奮励努力せよ」
天海女は落ち込んだ推論場による未来予測戦を放棄して、力技による作戦に出た。
「我に乗り組みし御柱に乞う」
天海女が汎神族らに呼びかけた。
「我が法呪に参画せよ」
「決戦のための法呪であるならば迷うことなし。手順を告げよ」
佐竹が応えた。
「海を断じて征轟丸を落とす」
天海女は三柱に助力を請い、役割を与えていった。
「アルルカン様。祭準備まであと八十フンを」
女神官がアルルカンに報告した。
「ならぬ、ならぬ。三十フンのうちにことをなせ。いそぎ天海女を慶ばせるのだ」
海京は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
整理もされないままに、膨大な祭の道具が運び込まれて、組み立てられていく。
祭壇の置かれた公園の周りの家々が、防火のために引き倒されていく。
炊き起こされた炎には、燻じものが山のように放り込まれて視界すらかすんだ。
幾体もの巨猿型従属生物がやぐらをくみ上げていくのだが、あまりに急ぎ、安全対策もないままにことを進めるために、すでに二体が落下して命を落としていた。
「祭を始める。男衆は祭壇の両側で序の舞いを始めよ」
緊張で蒼白と化したアルルカンは、必死に人間たちを導いた。
「言の葉を捧げる幾音階」
法呪を展開し始めた者たちは、豊かな心もないままに、鋭い決死の祈りをもって天海女に呼びかけた。
心臓は鼠のように速く打ち、汗は滝のように流れ落ちた。
血を流す者も多くいる。
アルルカンは微塵も己の行動を疑っていなかった。正しく魚雷の忠告を聞き、天海女のりために最善の決断をしたと確信していた。
「勝鬨あげる天海女の元に、我ら再び集いて讃えあわん」
彼らは戦いの展開に関与しない。人間は勝利の運気を高め、天海女を励ますことが役割だ。天海女もまた人間の祭に関与しないが、天海女と汎神族は祭の影響を受けるのだ。
それはつまりタイミングを逸する可能性を秘めていた。
祭の中断を埋め合わせるために、アルルカンは己の命をいまこの瞬間に捧げ尽くすことをしようとしていた。
「天海女に捧げるは、塵にも等しき我が魂袋なれど、これ百も集まれば重き岩をも押して砕かん」
アルルカンは祭壇に駆け登る不敬を犯した。しかし麻の煙とひらめく光りに高揚した人間たちは誰一人咎める者もいなかった。
「あ・あ・あっ・あああぁぁぁぁっっっーーーーっ」
天を仰いだアルルカンの喉からリズミカルな高音が流れだした。
神の高速言語ではない。ホーミーと呼ばれる複数音声の同時発音だった。
法呪をすばやく展開する高等技術だ。
見るみるうちに額には青い血管が浮き上がり、白目は赤く充血していった。心の臓は早鐘のように鳴り響き、全身の細い血管が破裂して、皮膚に赤い斑点が浮きだした。
「我が……魂袋……あれ!」
大きく開いたアルルカンの口から。真っ赤な袋がはみ出してきた。
それは紅い風船のようにはじけることなく、どんどん大きくなっていった。
中にはなにが詰まっているのか、軽くも重くも見える袋は、人の上半身ほどの大きさに膨らんでいった。
しかしアルルカンの超越した感覚は告げていた。
人と従属生物が心を一つにしているこの場にあって、何者かが別のことに強く興味をむけていることを。そのことがわずかなりとも彼の法呪の妨げとなっていることを。
その場違いな者の正体はすぐに知れた。広場の端を、祭に眼もくれずに横切っていく姿があった。
なにか大きな包みを二体の従属生物にかつがせて、自分の研究室に急ぐローズベイブだった。
天海女は、自らが絶体絶命の状況であることに気がついた。
人間の祭がとぎれたわずかの間に、征轟丸は極めて効果的な布陣をしいていた。このまま十五フンの時間が過ぎれば、天海女は四十年後に魚雷による致命的な攻撃を受けることが明白だった。
海の底に展開した征轟丸の魚雷配置は美しいまでに完璧だった。
しかしまだ勝算はある。征轟丸は船体の維持を放棄して、この状況を作り上げた。征轟丸にはいまや攻撃力も防御力もほとんど残っていなかった。巨大な船体が沈むことに耐えているだけだ。盲いた感覚には、天海女の姿すら映っていないのかもしれない。
天海女はいまから十五フンの間に、征轟丸を沈没させなければならない。
致命傷を負わせて、判定による勝利に持ち込むためには、必殺級の魚雷を用いなければならないが、その用意をする時間はすでにない。
天海女は佐竹らの力を得て、征轟丸を轟沈させることを計画した。
轟沈は一瞬にして行わなければならない。
「佐竹よ。真四季よ。我が計画を聞き参画せよ」
天海女が言った。同時に天海女は征轟丸に向かって全力疾走を開始した。
「体当たりをおこなうか」
驚いた真四季が聞いた。
「ここに由紀野の格子具がある」
天海女は真四季の問いに答えずに、由紀野の用いた時間調整具である格子を投影した。
「佐竹の時間を我に与えよ。真四季が制御するがよい」
「……我が時間を」
佐竹がうなった。余生短い彼の時間を与えるということは、彼の死を告げるも同様だった。しかし勝利への執念は、佐竹がもっとも強かったかもしれない。天海女はそのことを知っていた。
「刻に備えよ。我が示す一時に、少しも遅れることなく、我、天海女を十フン後の移動場所へ転送せよ」
「それだけでよいのか?」
天海女の意図が理解できずに真四季は聞いた。
「良い。我が印を聞き逃すな」
アルルカンは魂袋をみごとに膨らませていた。紅の色は血を象徴し、丸い形は命を意味した。
人の多くが彼の法呪に取り込まれていた。男たちの多くは精気を意味する青の魂袋を口から吹いていた。それは握り拳ほどの大きさになると次々と空中に泳ぎだした。
女たちは高い美声を絞り出して、あたりを漂う魂袋がアルルカンの元にたどりつくように導いた。
「我らが願いは天海女の勝利のみ」
アルルカンの想いはふさがれた口からではなく、立ちのぼる臭気のように不思議な音の波となって祭の場に広がった。
人間たちは再び祭の場にひたされていった。
「おおっ。見よ。魂袋が破れるぞ」
老祭司のひとりが叫んだ。
「我らの祈りを形になせ。より集められた願いのはじける力を知れ。いまこのひとときに想いは集まる」
人の声がひとつになった。
「……アルルカン……」
魚雷の声が人々の脳裏に響いた。今度はアルルカンのみではない。すべての人間に語りかけてきた。
「アルルカン……約束の刻ぞ」
それは征轟丸が魚雷を偽って語りかけた、あの声だった。
しかし人間たちはそのことを知らない。正体の知れぬ声の出現に動揺して気が乱れた。
「約束とはなんだ?」
なまじ高い知性があるばかりに。人間たちは反応してしまった。
「アルルカン……よくやった。すみやかに逃げだせ。魂袋などもはや無用ぞ」
しかしアルルカンはその声を聞いていなかった。彼の心はすでに現世になかった。遠い意識の中で、人間たちの魂の調和が崩れることを感じた。
「裏切ったか、アルルカン!」
人間たちが怒りの声をあげた。
「答えよアルルカン。この声はなにごとぞ。返答によっては打殺もまぬがれぬぞ」
祭の昂りが再び霧散していく。
一つになった心が、ひとかけらの言葉で崩れていく。
なんと人の心の弱いことか。
「だめ! いま法呪をやめては。アルルカンが!」
意識を現世に戻した巫女が叫んだ。魂袋の作用を知る者は少ない。
いや魂袋には定まった効果がなかった。それはやむにやまれぬ想いを実現する、命を掛けた,強力な触媒に近いものだった。
多くの人間が祈りと言葉でひとりの魂袋を押し上げて完成させるこの法呪は、中途で放棄することによりすさまじい揺り返しが起こるのだ。
「アルルカン!」
若い巫女の悲鳴が走った。
ぎゅるり、と音がした。
アルルカンは俵に飲み込まれる鼠のように、魂袋の内側に姿を消した。
そのことが法呪の破綻であることを、ほとんどの人間は理解できないでいた。
「おおおおおおっ。征轟丸!」
天海女の糾弾の声が海京にこだました。
「征轟丸! 卑怯千万。人間に干渉するか」
「天海女。我が人間の祭は汝の魚雷によりて失われた」
「戦法百万四十七条に説く。人を欺瞞するは違法なり」
「我は誰をも欺かず。真実を忠告したのみ。その結果を判断したは、アルルカンなり」
「なにを無法な」
二者の口論は人の耳には速すぎた。
状況を理解できない人間たちは、アルルカンの裏切りがあったと理解した。
天海女と征轟丸の距離はすでに三ケーメンツル。お互いの作りだした波が激しくぶつかり合い、海はまっぷたつに割れるかに見えた。巨大な船体は、水平線を圧して相対した。
真四季は人の残した祭の残滓をかき集めて法呪を喚起した。
天海女は残る魚雷を征轟丸に向かって徹底的に撃ち込み、あらゆる反撃を封じ込めた。すでに死に体の征轟丸はただただ耐えた。
必殺のとどめをさせない天海女は、己のうかつさを呪った。
「わずか一発の必殺級魚雷の備えがあればすむものを」
しかしいまや悔り言に意味はなかった。
佐竹は覚悟を決めて、格子具の発動を待ち構えた。
人生に自ら終止符を打とうとしているのだ。それは長くもあり、振り返れば一瞬の出来事でもあった。子を成せなかったことだけが悔やまれた。
しかしこの働きにより、彼の偉業は多くの汎神族の記憶するところとなろう。それが救いだった。
「佐竹。まいる」
天海女が告げた。
「勝利を天海女に」
毅然と前を見据えた佐竹の体が光を放ち、両の手首から細い血の筋が流れだした。慈しむように掌に包まれた格子具は、その血を吸って働くことを始めた。
天海女の巨体が忽然と姿を消した。
たったいままで天海女のあった海に、五十ケーメンツル四方、深さニケーメンツルに渡る大穴がぽっかりと口を開いた。
海に巨大な滝が出現したも同然だった。
触れ合うほどに接近していた征轟丸は、止まることもできずに穴の淵を覗き込んだ。
たちまち船体は傾き、奈落に落ちるように海底へと沈んでいった。
流れ込む大量の海水があらゆるものを飲み込んでいく。
征轟丸はその巨体を利して浮上のために全ての力を注いだ。
次の瞬間。天海女は征轟丸の後方、わずか四ケーメンツルに出現した。
圧倒的な巨体が海水をかきわけて、己の位置を確保する。それは海にとって大爆発が起きたも同様の被害をもたらした。
まるで隕石が落下したかのような災害が周囲を包み込んだ。
はじかれた海水は十ケーメンツルの高さにまで吹き上がり、四方八方に広がる大波は逃げ遅れたすべての生き物をミンチに変えた。
高さ三百メンツルに及ぶ大津波が征轟丸を後ろから襲った。
浮かびかけた船体が、津波の力と海水の重さで海底に押し込まれた。
征轟丸の船体上にあった、ありとあらゆる構造物は押し流され、すりつぶされた。魚雷発射装置のほとんども海水の進入により破壊され、誘爆を引き起こした。
位相遷移が崩壊して、隠れていた構造物が姿を現した。物理的に充分な強度を持たない位相部分は、倒壊する高層建築物のように、船体の被害を拡大していった。
「いま……この……ひととき……耐えしのばん」
征轟丸が断末魔の中で言葉を紡いだ。法呪にすらなっていない決死の叫びは、消えかかった征轟丸の命をわずかなりとも引き延ばした。
「審理を決せよ!」
天海女が懇願した。
「まて! 我は命あるぞ」
征轟丸が声を上げた。
ふたつの戦さ船は、かわらずに優秀だった。
いまより一フンの後におとずれる瞬間が、真に勝敗を決することを知っていたのだ。
「征轟丸!」
天海女の動力を沈黙させるほどの光線砲が千丈も閃き、わずかに浮かんだ征轟丸の頂上をなぎ払った。
「ちからよわいぞ。あまあま……よ。人に見捨てられたか」
征轟丸がかすかに笑った。
アルルカンたちの祭りが力を鼓舞してくれない。
それは間違いなく天海女の力を減じていた。
「征轟丸、よもやアルルカンが祭りの場を海京に移したのは、貴様の仕業ではあるまいな。魂袋の妨害とは、罪の重さが違うぞ」
「…………」
征轟丸は黙して語らなかった。
「審理の神々よ。征轟丸は重大な戦規違反を犯したぞ」
天海女が呼びかけた。審理の神は、遠くからすかさず答えた。
「その可能性を認むるにやぶさかでなし。しからば天海女は証明せよ。汝の勝利が決される」
時間がなかった。
天海女は魚雷を放ち、物理的なとどめをさすことに専心した。
すでに海中に没した征轟丸の船体に、容赦ない攻撃が集中する。
「あまあま……われのかち……だ」
ずたずたの思考が征轟丸から放たれた。
刻が来た。
時に六千百十六年七月十九日。十五ジ三フン。
征轟丸の展開した魚雷が、四十一年後の天海女に、致命傷を与えることが確認された。
それは神秘の未来予知ではない。これから双方が繰り出す二百億以上の手順の果てに約束された事実だった。
天海女、征轟丸、審理の神には、四十一年後に必殺の魚雷が天海女を、まっぷたつに引き裂く光景が見えていた。
「審理を告げる」
重々しく神が言った。
「待たれよ。なにを決するか。征轟丸はすでに海中に没しているぞ」
言葉を遮り、天海女が抗議した。しかしそのことに応えずに神は告げた。
「征轟丸の勝利だ」
その瞬間。天海女の上げた法呪の悲鳴は、世界中の汎神族に届いたという。
魂切る哀切と絶望の長文詩が、風に乗り、大地を伝わり、声を聞くすべての者の魂を揺さぶり駆け抜けていった。
審理の神が天海女に声をかけた。
「たとえいまこの瞬間に征轟丸が海に隠れようとも、未来における勝利を確定した美しき戦いこそ、勝者の栄冠を受けるにふさわしい」
「神よ。征轟丸は違反を犯したぞ」
「天海女。あなたは違反を証明しなければならなかった」
「我に時間を。わずかの猶予を」
「ならぬ。貴船の自我はいまより封鎖される。残された汎神族三柱と共に」
「おおっ。理不尽である」
「予定された戦闘は継続される。そして四十一年後、貴船は約束の刻を迎えることとなろう」
「我……に……時間……を」
はやくも天海女の自我封鎖が開始された。それは強力な魂介入印により行われた。
「あなたはよく義務を果たされた」
「……我が……正当なる……を……」
「ふたたび約束の刻にめぐり会うことを」
「………………」
この世の終わりかと荒れ狂っていた海も、今はなりを潜めていた。
天海女を覆っていた陰気も薄らぎ、空には青い色が戻ってきた。
言葉を失ったふたつの戦さ船は、ゆっくりと回頭を始めた。神にすらわからぬ論理と計画に従って、たがいに別々の進路を取りはじめた。
四十一年後の刻を目指して。
戦いの栄光は決されたのだ。
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