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超絶のアリウス

第2章−4

 

 日、ショウカの丘の神の救出作戦が開始された。
 予想される巨龍の到着日まであと二日。時間は多く残されていない。
 マウライ寺のシンジュたちも、島の人間に直接の危険が及ばない限りにおいて協力することを約束した。
 しかし困難な任務であることに違いはない。そもそも神の寝所を暴こうというのだ。本来ならば人が行うべき行為ではなかった。
 あくまでも神への尊敬と信仰に基づいた行動であると、人間たちは自らに言い聞かせていた。従軍する兵士は志願制を取った。集まった兵の数は二百名。エル アレイ全軍……その多くは非常勤の坑夫である……が二千名であることを考えれば、けっして多いとは言えなかったが、対巨龍戦の直後であることを考えれば、 満足すべき数字と言えた。
 今回は基本的に戦闘はない、との前提なのであるから。
 イシマたちロスグラード自治軍は、その半数を投入していた。彼らは地元に聖火香という名の神を戴いていたこともあり、神への信仰が深かった。彼らは経験から、神は守ることも滅ぼすこともできることを知っていた。
 兵士たちはエルアレイの中心街エルワンの西端にある軍事基地に集合した。彼らはエルワンをはじめとしたみっつの街から続々と集まってきた。兵士たちの間では様々な情報交換が始まっていた。
「エルワンに昨日から変な奴がでているんだ。ビバなんとかいうピエロみたいな男でさ、街の広場でなにか叫んでいるんだ」
「ああ、俺は見たぞ。自分は救いの予言者だ、みたいなことを言っていた。なんでも破滅が近いから助けにきたとかいう話しだ」
「わしはエルドウから来たんだが、エルドウには先週出たと、かみさんから聞いた」
「ビバリンガムだろう? 昨晩ヨモノウミに来た者だ。ロスグラードのイシマ将軍と呑み比べして勝ったんだ。昨日もそんなことを言っていた。「この船は滅びを定められている」ってさ。船ってなんのことだ?」
「さあ」
 ざわざわと、不安気な空気が兵士達の間に漂っていた。
「集合! 編成を発表する。十列縦隊にならえ!」
 顔色の悪いビドゥ・ルーガンが屋外ステージに立ち、号令を発した。ここからしばらくは軍を統率するビドゥ・ルーガンたちの仕事である。
 カーベル、インスフェロウ、アリウス、ミロウド他、僧兵ら法呪関係の者たちは、兵士達が集うグランドの正面に建つ指令舎に入った。神の寝所を暴こうと言うのだ、どのような危険が待ちかまえているか想像もつかない。あらかじめ作戦を立てることすらできそうになかった。
 少なくとも礼を失しないように配慮することが肝要と結論づけられた。
 テーブルを囲む選り抜きの法呪者の前で、隊長を任ぜられたカーベルが言った。
「アリウス殿。貴殿の神に対する深い知識から、皆に忠告しておくことはありませんか?」
「…………」
「アリウス殿?」
「えっ……あ、はい!」
 うわの空で聞いていたアリウスは、教室で指名された生徒のようにあわてて立ち上がった。
「なにかご忠告は?」
「忠告ですか? あーーっ、ええと」
 なんとも情けないその様子に、ミロウドは同郷の者として、顔から火の出る思いだった。これが天才というものなのか?
「そうですね。ええっと。この件に関してはまだ一柱の神も姿を現わしていません。しかしいずれ私たちは、神々と言葉を交えるときがくるでしょう。そのとき に、どの神につくかを判断しなければなりません。慎重に、しかしすばやく決断する必要があります。間違えると命取りです」
 カーベルと、そこにいたほとんどの者はアリウスの言葉を理解できなかった。
「……ア、アリウス殿? それはつまり……」
 カーベルは目をしばたかせながら、エルアレイの者たちの思いを代弁して聞いた。
「もう少し平易な言葉でおっしゃっていただけませんか? 間違える? 神様につく……?」
「えっ? ……はっ?」
 アリウスはとなりに座るミロウドに顔を寄せて聞いた。
「僕は変なこと言いましたか?」
 ミロウドはロスグラードで行われた聖火香の城責めを知る一人である。彼女にはアリウスの言葉の意味が理解できた。
「カーベル様。私が変わりにご説明させていただきます」
 ミロウドはアリウスの肩に手をかけて席に座らせた。
「エルアレイが神の島であることは疑う者もいません。そして我々はこの地に住まう神をお助けしようとしています」
 一同はうなずいた。ここまでは事実の確認だ。ミロウドは色の白い両手を広げて続けた。
「ビバリンガムなる正体不明の者が現れました。イシマ将軍の報告を聞く限りその者は神の従属生物でしょう」
「神の……」僧兵たちの間に動揺が走った。
「我々のお助けしようとしている神の従属生物である可能性は低いように思えます。ということは島の外におられる神の使いとしてやってきたのではないでしょ うか? その神はエルアレイの神の側なのか、巨龍を操る神のものなのか。それともまったく関わりのない第三の立場なのか。知るすべは今はまだありません」
 僧兵のひとりが手を挙げて発言した。
「ビバリンガムと名乗る者に直接聞くことはできないのですか? 我々の成すべき道はいずれかと」
「それを行うのであれば、私たちはたったいますぐにショウカの丘の神の救出作戦をやめなければならないでしょう。なぜならビバリンガムは巨龍の立場なのか もしれません。他の可能性があったとしてもショウカの神をお救いすべきかの判断を下すために数日以上の時間を要することは明らかです」
「それは……許されない」
 カーベルが強い言葉で言った。
「ショウカの神をお救いするのが、我々エルアレイにすむ者の義務だ」
 目に迷いの色を浮かべた僧兵達は、カーベルとミロウドを見比べた。カーベルは立ち上がり一同を見渡した。
「皆に問いたい。おまえたちの知る神とはどの神だ。声を知り姿を知る神とはいずれの神だ。我々の繁栄を長く許してくださったのは、島に住まわれる神か? いずことも知れぬ地から巨龍を放つ神か?」
 彼女の癖だ。話しの区切り目で机を叩く。
「ビバリンガム? 神の従属生物など捨ておけ。神の意志を代行する正義は我らにもある」
「なら、そういうことにしましょう。カーベル様」
 学級会のような軽い言い方でアリウスが賛同した。
 顔だけはキリリッと真剣だ。一生懸命に真面目なふりをしているのが一目瞭然だった。
「……ぷっ」
 インスフェロウが素直に吹き出した。
「いや、失礼」
 失笑が漏れて緊張がほぐれた。会議は順調に進みだし、個々人の手順が確認されていった。
「僕はそんなにへんなことを言いましたか?」
 耳打ちしてきたアリウスにミロウドは困ってしまった。


 混成軍は会議の一時間後に出発した。なにが必要となるかわからなかったために、彼らの装備と機材は膨大なものになった。時間が貴重であったため、兵は全 員が小麒麟か貨物車に乗り込んでいた。人が暮らすには狭いエルアレイとはいえ、五十ケーメンツル四方の距離は歩くには広すぎた。
 その不思議を最初に見つけたのはロスグラード自治軍の甲板員だった。海での見張りを職務としていた彼は人並はずれた遠目を持っていた。
「イシマ将軍、あの光はなんでしょう」
 イシマは小麒麟の背から立ち上がり、兵士の指さした彼方を見た。
「…………」
 彼らが進む荒野の右前方、苔むす大岩の上でなにかがはじけていた。それははじめ虹かと思われた。幾筋もの光の帯が空と地を結んでいた。しかし近づくにつ れてそれが自然現象ではないことが明らかになった。火花と光の奔流が空から地上に降り注いでいるのだ。まるで海を渡ってきたオーロラの終点がここであるか のように、遥かかなたの空から色鮮やかな、炎の流れが落ち、大岩の上ではじけていた。
「なんだ……あれは」
 ビドゥ・ルーガンがうめいた。それは誰の目にも神の技であることが明らかだった。インスフェロウが戦車に乗るアリウスとミロウドを見て言った。
「あれがなにかわかりますか?」
「…………」
 ミロウドはかぶりを振ってアリウスを見た。
「転送流の一種ではないでしょうか? 人の仕業ではないですね。初めて見ます」
 アリウスが言った。
「二名続け。確認する」
 ビドゥ・ルーガンは隊列を離れると、小麒麟を大岩に向けて走らせた。
 近づいた彼らは、その光の美しさに目を奪われた。遥かな空から流れ落ちる一筋の光の連なり。太さ三メンツルほどの虹の輝き。重さを持たない溶岩のように 大岩の上ではじけて、信じられないほどの色と光を飛び散らせる荘厳さ。まるで花火を逆さまに降らせているような、見たこともない光景だった。
「ビドゥ・ルーガン外佐……見てください」
 兵士の一人が光の中央を指した。
「あれはかみさまでしょうか?」
 絶え間なくふりそそぐ光の中心でなにかが舞っていた。ゆっくりと体を回しながら、何者かが形を取ろうとしていた。ビドゥ・ルーガンは拡大鏡をそのまえに差し出した。
 拡大境はその光景を数百倍に拡大して、離れたカーベルたちの頭上に写しだした。アリウスは舞う神の姿を見て推理した。 
「転送は危険な技術です。情報化された現し身をひとつだけ転送すると、欠落を招くおそれがあります。数十倍に冗長化した……複製した……形で移送すべきであると、かつて語られた事を記憶します」
「つまりあの光のすべてが、神の身体を刻んだものだというの?」
 カーベルが信じられない、といいたげに首を振った。
「ええ。冗長性の破棄が、はじける光の正体ではないでしょうか。だぶった情報を棄てないと、増えちゃいますから。腕が三本はいやでしょう」
「するとあの光の帯が止まったら、あそこに神様が姿を現す?」
 ざわっ、と兵士の間に動揺が走った。
「なぜ? いったいいずれの神様が?」
 カーベルが聞いた。だがアリウスはそのことに答えず、恐ろしいことをさも当然のことであるかのように言った。
「あの光を遮れば、神様は出現できないでしょう」
「えっ?」
「永遠に」
「な……なにを言っているの?」
 ひきつった笑いを浮かべてカーベルは言った。
「イシマ将軍。判断はおまかせします」
 昼食のメニューを決めてくれ、とでも言う気軽さでアリウスは言った。イシマもまた同じほどの簡潔さで迷いもなく決断を下した。
「捨ておきましょう。神の御術の意味をいちいち考えるのは時間の無駄です」
 ロスグラード自治軍がこの島を訪れたとき、彼らは従属生物を消耗するエルアレイ軍の戦いに驚いたものである。しかしいまはエルアレイの者たちが、ロスグラード自治軍の神を畏れない考えと行動に困惑していた。
「私も神の出現を止めることはすべきではないと考える」
 インスフェロウが言った。
「しかし遅延させて、我々の作戦に干渉させないことが肝要ではないだろうか? ……不敬に当たらぬ程をわきまえつつ」
 アリウスとミロウドがこの場合の不敬の解釈について、なにごとか話し合った。アリウスがキリッと表情を引き締めて言った。
「わかりました。我々は島を襲う巨龍の脅威から神の出現を守る善意の奉仕として、光の帯が途切れると同時に確立されるように、法的物理的防御である貝氷を時限設定しましょう。これにより神は出現後数十フンの間、外部からも内部からも犯されることがないでしょう」
「人の従属生物は善意の塊です」
 アリウスの表情に吹き出しそうなインスフェロウは、印肢をざわめかせながら同意した。アリウス、ミロウド、インスフェロウの三人は、それぞれが個別に貝氷を設定した。つまり三重の結界を構築したことになる。
「…………」
 だがカーベルはそれに参加できずに立ち尽くしていた。彼らのおこなっている神の行為への干渉に連なる勇気が持てなかったのだ。兵士たちのそれを見る目も 二分されていた。ロスグラード兵たちは、カーベルの不参加を非難の目で見ていた。エルアレイの兵士たちは彼女に同情して目を逸らしていた。
「……では出発しましょう」
 法呪の構築を終えたアリウスは、イシマをうながした。混成軍は再び小麒麟の首を巡らすと、ショウカの丘を目指して動き始めた。
「よく堪えた」
 ポン、と肩を叩かれてカーベルは顔をあげた。インスフェロウが、うなだれる彼女の横に小麒麟を並べたのだ。
「インス…………」
 なにも言わずにインスフェロウは彼女によりそった。カーベルは手が震えていることを隠せなかった。
「インス……私……」
 インスフェロウは唐突にあらぬ方向を指さした。そしてその方向になにかがあるかのように振る舞い、カーベルの耳もとに顔を近づけた。
「カーベル。気にするな。彼らにはたまたま神との接触経験があるだけだ。法呪でお前が劣っていることなどなにもない」
「でも……! インス……わたし、こわい。後悔しているわ。こんな……作戦を始めてしまって。彼らはどうして平気なの? 私は……心臓が止まってしまいそうなほど恐ろしいのに」
「おまえの動機は正しい。神が丘におられて、侵されようとしているならば、それをお救いする正義に迷うことなどない。おまえには経験が足りないだけだ。彼らから学ぶべきは、神も肉を持つ者だという当然の認識だけだ」
 イシマがインスフェロウに声をかけてきた。
「インスフェロウ殿。なにを指さされるか? さらなる怪異を発見されたか」
「イシマ将軍。失礼、私の思い過ごしであったよ」
 灰色の彼はカーベルとの打ち合わせが終わったかのように、小麒麟を元の隊列に戻した。カーベルは心を強く持とうと胸からさがる印札を強く握りしめた。
 やがてショウカの丘に到達した彼らは、その場に仮設陣地を設けた。あらかじめ定められた通りに隊を三分し、休息と食事を取る者、丘の調査に当たる者、警戒に当たる者を振り分けた。
 ショウカの丘は、他の丘と同様に直径五百メンツルほどの草深い小山だった。ところどころに金属とも石ともつかないなにかが地面を突き破り姿を見せていた。
 すべてが神の手がかりにも見え、自然のいたずらにも見えた。調査は僧兵、因果療法士、そして兵士が組を作り行われた。各組は二十メンツルの間隔を開けて 丘を登り始めた。深い草と低木で覆われた丘は、人の足跡もなく調査は困難を極めた。それはエルアレイの者達の心理的な抵抗感があったことも一因となってい た。
 またたく間に時間は過ぎ、調査は二日目に入っていた。兵士達のあいだには焦りの色が見え始めていた。幾度となく神の反応らしきものが見えては地面が掘り返され、失敗が確認されていた。
「これではないでしょうか?」
 因果療法士サインが器用に銀水盤を回しながら言った。大皿を三枚重ねたような、かなりの重量の装置である。一枚一枚の水盤が基準面から上下十メンツルの座標を示す、立体表示器である。
 神の寝所を求めて丘を走査していた彼は、地下わずか二メンツルの浅い地層に、不可思議な反応があることに気づいた。ちょうど汎神族の体格ほどのなにかだ。
「まさか。寝所のようなものがあるわけではないの? こんな地上近くに?」
 カーベルは驚いてサインを見た。サインは同僚たちとなにごとか話し合った後、自信を込めて言った。
「丘はなにかの巨大な装置です。おそらく力を送受信するための機械学なのでしょう。本来は神を封印するための役をもたなかったはずです」
 カーベルは迷うことをやめる努力をした。
「わかったわ。私たちにできることをやりましょう。ボンバヘッド軍佐! サインの示す位置の発掘を」
「応! カーベル様」
 目の下に反射防止のペイントをした、筋骨隆々の色白な男たちは、分厚い皮の手袋をバスバスと打ち鳴らした。
 反呪を施した特殊なスコップで、慎重に何度目かの発掘が開始された。
 そのときカーベルの敏感な感覚に、なにかが共鳴を起こした。チリチリと首筋を焦がされるような不快感だった。それはいままで幾度も経験した不吉な予感だった。
「……インス……サイン!」
 カーベルは二人の名を呼んだ。インスフェロウはすでに怪異の気配に気づき、視線を海にむけていた。
 海から吹き付ける強い風を裂く幾つもの視線が、紺碧の海原を睨みつけた。
 サインたち因果療法士は銀水盤の水を捨て、青い銅水をその中に満たした。たちまち銀水盤は探知対象を変えて、巨龍を探し始めた。
 すばやく値を読みとったサインが言った。
「……来ます。私の正面、十一時方向……距離三千メンツル」
 ビドゥ・ルーガンが小麒麟に跨り走りだした。対龍戦に待機していた大隊百名が、彼の命令で一斉に動き始めた。巨大な突撃砲が五基、砲身を巡らし、弾薬が 装てんされた。因果療法士は銀水盤から液体となって流れ出す情報を読み取り砲兵に伝えた。鋼鉄の砲身がごりごりと回り、照準が固定されていく。
 待ちかまえる人間を警戒することもなく、巨龍は予想通りの海面に姿を現した。
「てぇーーっ!」
 ビドゥ・ルーガンの合図とともに、二基の砲が火を吹いた。故意に呪的不安定な状態に設定された砲弾は、光の帯を引きながら巨龍に命中した。それはどす黒い飛沫を散らして龍と海を汚染した。
「ビシェ反射確認! 巨龍の実体に間違いありません。欺瞞体である可能性は七パセータ未満」
 因果療法士が報告した。
「全砲、撃て!」
 砲弾がすばらしい命中率で巨龍に殺到した。意外なことに砲弾は効果をあげていた。巨龍の装甲は著しく低減していると見られた。
 しかし圧倒的な力は、確実に島に近づきつつあった。ビドゥ・ルーガンはカーベルを振り返り言った。
「カーベル。戦いは我々にまかせろ。早く神をお救いするんだ」
「おう!」
 カーベルとインスフェロウはきっぱりと振り返り発掘に専念した。
 いま掘りはじめた穴が本物である保証はない。しかし考えるときではない。
「掘れ! 掘りまくれ」
 自らスコップを手にしたカーベルが絶叫した。兵士たちは鍬とスコップで狂ったように土をかき分けた。柔らかい黒土がばさばさと頭の上に崩れてくるが、そんなことに頓着する者はいなかった。
「きりこりあしましき築く硬くこりかたまりし内壁の」
 インスフェロウが軟質柔軟障壁法呪を展開して、掘った土の断層を固めていった。
「ほりぃえええぇぇ! 掘って掘って掘りかえせ。尻に根性入れろっ! かかぁにゃ内緒で娘っ子どもにいいとこ見せろおおお!」
  本職は採掘工の兵たちは、いつもの気合をかまして、ものすごい勢いで土をはじき出した。


 巨龍はずたずたになりながらもとうとう上陸を果たした。海岸の防衛線を突破されたビドゥ・ルーガンたちは百メンツル後方の第二陣地に後退を開始した。第二陣地はイシマが指揮を取っていた。
「……こうして、ああして……あれとあれ……うーーん。できそうかな」
 いまや前線となった第二陣地で、アリウスがぶつぶつとなにごとかつぶやいていた。
「僧兵の方、二名ついてきてください」
 それだけ言うと、楯体を出てすたすたと歩きだした。
「アリウス殿!」
 イシマが気がついた時には、すでに後退するビドゥ・ルーガンとアリウスと合流しようとしていた。
 アリウスは歩きながら法呪文を唱えだした。
「そに語らうは天地にあまねくたぐいまれなるもろもろの物語であればこそ、よきあしきのありさま問うは語りおえるを待つべき」
 人の言葉の速さで、つまりひどくゆっくりと汎神族の語る法呪が紡ぎ出された。
「あぶない! アリウス殿」
 ビドゥ・ルーガンが肩添式デュウから炸裂弾を連射しながら叫んだ。
 巨龍は彼らの正面五十メンツルにまで迫っていた。右半身をひどく損傷した姿は、醜い姿をいっそう醜悪にしていた。右目があったはずの場所は、深くえぐれてチカチカと光る粘液質の塊が揺れていた。歯列はずたずたに崩れて、咆哮をいっそう邪悪なものにしていた。
「………………」
 アリウスは風にさらわれる白い髪を散らしながら眼差しを巨龍から離そうとしない。自分の死であるかもしれないものと正面から向き合う気迫は、援護の兵たちをも勇気づけた。
「アリウス様はなにごとかやりとげられる」
 兵は自らに言い聞かせて射出兵器と強弓を発射し続けた。
 がっ…しゅ…がああおおんん。
 激しく空気の擦れる音とともに巨龍の咆哮が炸裂した。大きく開いた喉が、その奥から発光を始めた。必殺の光線が渦巻き始めたかに見えた。しかし臨界に至るまえに喉は色を失い、裂けた頬から黒い煙が立ち登った。吐射兵器を失っているのか、なんの攻撃も襲ってこない。
 しかし圧倒的な質量は確実に彼らに迫っていた。龍の一歩ごとが彼らを宙に舞わせるほどの地響きをたてた。
「……アリウス殿……!」
 ビドゥ・ルーガンが視線だけを投げかけた。視界いっぱいにまで広がった巨龍の巨体は、すでに待避することもかなわないかと思われた。
 先頭に立つアリウスまで鼻先はわずか十メンツル。避けるも逃げるも不可能だ。神の寝所へ続く入り口を守る兵たちは、彼らの命はすでにないものと覚悟した。
 アリウスの手が巨龍に向かって誘うように差し出された。
「……聴く……そし……しませ」
(聴かなければ悔やむほどに損である)
 そんな意味の言葉で法呪が言いきられた。
 ぐっ……ふううぅぅっっっっっ……。
 開きかけた巨龍の顎が、アリウスのわずか三メンツル前で止まった。
 脚を踏みだし、尾を左に振った不自然な姿勢のまま、ひどく唐突にすべての動きを止めた。
 だが仮に法呪の力の流れを視覚でとらえることのできる者がいたならば、アリウスと巨龍の間にはすさまじい量の言葉が行き来しているさまを見たことだろう。
「……な、なんだ? 止めたのか?」
 半ば覚悟を決めていたビドゥ・ルーガンと兵たちは、あっけない幕切れに事態を飲み込めずにいた。
 超絶の術者と怪獣は、お互いを見つめあう銅像のように、視線をからめたまま動きを止めていた。
 そこには音すらなかった。
「いったいなにが起きたのだ」
 あらゆる砲弾に躊躇しない怪物が、人一人の言葉に立ち止まっている。
 彼らには想像もできない法呪が、そこには展開していた。
「すごい……まるで千夜一夜。人に創出できるわけない……」
 第二陣地から見ていたミロウドが、震える拳を握りしめてつぶやいた。
「千夜一夜?」
 イシマですら初めて聞く法呪だった。
「アリウス様はいま、巨龍に延々と語りかけておられるのです。巨龍が使命を忘れて聞き入ってしまうほどの」
「聞く事に夢中になって、足を止めたと?」
「そうです。巨龍はいま、自分が何者かを見失っていることでしょう」
 興奮で真っ赤に染まった顔を上げてミロウドは言った。
「まさか、アリウス殿は高速言語を操るか?」
「巨龍はアリウス様が人の言葉で語る、認識しきれないほどの物語を浴び続けているのです。奇跡とは思いませんか?」
「神ならぬ身に、そのようなことができるなど、私にはとうてい信じられません」
 イシマが頭を振って言った。
 ミロウドのささやく声を聞き取れる静寂があたりを支配していた。
「いいえ。超人の技を私たちは見ているのです」
「巨龍は膠着されているのですか?」
「膠着?」
 興奮したミロウドは、らしくもなく彼の言葉を鼻で笑った。
「巨龍は言葉の法呪に……溺れているのです」


 ガツンと鈍い音を立てて、スコップの先が硬いものに当たった。
 土にまみれたカーベルと兵士たちは視線を合わせた。明らかにそこには大きなものが埋まっていた。
「ーーっ!」
 彼らはスコップを投げ出すと、よつんばいになって、両手で土をかき分け始めた。
「急いで! 慎重に」
 カーベルのするどい声が走った。しかし誰もがそれを知っていた。そこに埋まっているものから、かすかな香りがたち上っていた。
 やがて堅そうな暗い色の木の肌が姿を見せた。
「これは……」カーベルがうなった。
 全容を見せたそれは、おそろしく太い松の木を五メンツルほどの長さに切りとった丸太だった。
 その中央ほど、幹が縦に裂けたようにぱっくりと口を開いた中に、白い樹脂の塊が見えていた。
 人が一人通れるほどの裂け目は、硬く固まった樹脂により封がされた状態だった。
「……なにか、見える」
 兵の一人がおそるおそる樹脂の中をのぞき込んで言った。光すらほとんど通らぬ奥のほうに、色鮮やかなものがかすかに見えていた。人の大男ほどの大きさのものだ。
「か、かみさまか?」
 カーベルは恐ろしげにささやく兵士を押し退けて中を見た。たしかに人型のなにかが見えた。
 丸太の回りを調べて兵が困惑した表情で言った。
「カーベル様。これは持ち上がらない。下の方が根のようなもので、さらに深くにつながっています」
 カーベルはインスフェロウとサインを振り仰いだ。彼らは地表に立ち、彼女たちを見おろす位置にいた。法呪で透視はできない。まして神秘の構造物をどう扱うべきかの答えが得られるわけもない。
「…………」
 インスフェロウは無表情にかぶりを振るだけだった。
「なんとか……しなくちゃ」
 カーベルは解呪に用いる基本法呪言を刻んだ板符を手にすると、樹脂の表面をなぞりはじめた。
 きちきち、と金属的な音をたてて板符は白い表面をかすめていく。
「えっ?」
 板符がぬるりと柔らかな感触を伝えた。
「あっ!」
 突然に樹脂が液状化した。彼女の体重を支えていた固体は強度を失った。
 カーベルの身体が液体化した樹脂の中に落ちた。
「カーベル様!」
 助けようと兵士たちの無数の手が延びた。
 しかし一瞬にして彼女の姿は白濁した液体の底に消えていった。
 白い飛沫が飛び散り、周りの人間たちに降り注いだ。
「……カーベル……!」
 カーベルが最後に聞いたのはインスフェロウの、なぜか虚ろな呼び声だった。

 

 

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